フィレンツェだより
2007年10月21日



 




パドヴァのエルベ(野菜)広場
右側はラジョーネ宮



§パドヴァの旅(その2)
 −市内観光篇−


18日,10時37分にフィレンツェを出て,パドヴァについたのが定刻通りの12時52分.途中,ボローニャ,フェッラーラ,ロヴィーゴに停車した.


 車窓に広がるエミリア・ロマーニャ州とヴェネト州の風景は前回のヴェローナ行でも味わったが,今回はボローニャから先は違う路線だし,前回もポー川は電車で越えたが,アーディジェ川を電車で越えたのは,今度が初めてだ.


ティトゥス・リウィウス
 パドヴァのラテン語はパタウィウム,古くから交通の要衝であったし,ウェネティー族の居住地としてのウェネティア地方はあったものの都市としてのヴェネツィアは古代にはなかったから,この地方におけるパドヴァの地位は今よりもずっと高かっただろう.

 例によってガフィオの『羅仏辞典』でパタウィウムをひくと,古典文学の最初の引用例はティトゥス・リウィウスの『ローマ建国史』である.紀元前59年にパドヴァで生まれ,紀元前17年に没した古代ローマを代表する歴史家だ.

 私は帝政期のローマ文学を勉強してきたので,歴史家としてはセネカの死を克明に描写したタキトゥスの方がなじみがあるが,「黄金期」と言われる紀元前1世紀後半のローマ文学において代表的な韻文作家がウェルギリウスなら,散文作家としては第1位に挙げられるのはリウィウスであろう.

 キケロとカエサルはその前の時代の人であり,タキトゥス,スエトニウスは紀元後1世紀から2世紀の人なので,同時代に突出した作家と言って良いし,もちろん歴史家としても重要であろう.



 ヴェローナでカトゥルス書店,ローマでキケロ書店を見つけたが,パドヴァではティート・リーヴィオ(ティトゥス・リウィウス)書店を見つけられなかった.

 ティート・リーヴィオ通りはあったし,パドヴァ大学が近いこともあって,付近に幾つも書店はあったが,いずれも歴史家の名前は冠していなかった.

写真:
ティート・リーヴィオ
(ティトゥス・リウィウス)
通りのプレート


 街中をもっと丁寧に探せばあったのかも知れないが,その余裕もなかったので,あまりこだわらなかった.

 その代わり,パドヴァ県の県庁があるその付近で面白いモニュメントを見た.「アンテノルの墓」で,伝説に拠れば,古代都市パタウィウムの建設者はトロイア戦争で亡命者となったアンテノルだという.

写真:
「アンテノルの墓」


 以下は,『アエネイス』で,息子アエネアスが安住の地を得られていないことに対する,女神ウェヌスのユピテルへの訴えの一節である.

アンテノルはギリシア人たちのただ中を切り抜けて,イリュリア人たちの
領域を通り,リブルニア人たちの諸王国の中を無事に通過して,
ティマウス川の源を越えることができました.その源からはティマウス川が
9つの噴出し口を通じて,山に轟音を立てながら,
その奔流は海のように流れ,響き渡る大海のように平野を圧倒しています.
ここに,アンテノルはパタウィウムの町を,トロイア人たちの住処として
建設し,一族にトロイア人と名乗らせ,トロイアの遺品たる武具を神殿に
奉納しています.彼は今や穏やかな平安のうちに落ち着き,静かに暮らしています.
             (ウェルギリウス『アエネイス』第1巻242-249行)


 どう考えても古代のその先の伝説の時代の墓には見えない.傍らに中世の詩人の石棺もあり,通りをはさんだ屋敷の壁面にはプレートがあって,亡命中のダンテが過ごしたと記されていた.なんとも歴史と伝説が綯い交ぜになった地域だ.

 リウィウスの他にパドヴァの生まれの古典文学の作家としては,ヘレニズム時代のギリシア叙事詩『アルゴナウティカ』(アルゴ船物語)と同じ主題の作品をラテン語で書いた,紀元後2世紀の詩人ウァレリウス・フラックスがいる.


パドヴァの歴史
 パドヴァもイタリアの他の都市とよく似た歴史とパドヴァ独自の側面の両方を持った町だ.古代末期にゲルマン人が侵入し,7世紀にはランゴバルド族に滅ぼされ,復興していた9世紀末にはマジャール人の侵略を受けるが,12世紀後半に自治都市となり,ロンバルディア同盟に加盟し,神聖ローマ皇帝に対して独立を堅持する.

 スカーラ家治下のヴェローナに圧倒されたこともあったが,1318年に近隣の封建領主ヤコポ・ダ・カッラーラが領主となり,1405年までカッラーラ家(カッラレージ)の支配が続く.

 1405年に独立を失い,ヴェネツィア共和国の領土となり,以後オーストリアなど外国の支配も受け,19世紀のイタリア統一を迎える.1222年創設のパドヴァ大学は現在も名門大学として知られる.

 第2次世界大戦でイタリア降伏の後,パドヴァにナチス・ドイツの傀儡政権ができ,その際に連合軍の空襲を蒙り,エレミターニ教会は爆撃被害を受けた.それによって偉大な芸術家の作品も甚大な被害を蒙った.マンテーニャのフレスコ画「聖ヤコブと聖クリストフォロスの物語」である.

写真:
マンテーニャのフレスコ画
「聖ヤコブと聖クリストフォロスの物語」
白くなっているところが剥落部分


 エレミターニ教会に展示してある空爆被害の写真を見ると,よくもこれだけ残ったと思う.補修,保全に尽力された人々の努力に感謝したい気持ちだ.

 6月25日にチョンピ市場ののみの市で買った古いマンテーニャの紹介本に古色蒼然としたカラーページがあり,このフレスコ画の写真が見られる.44年に湮滅してしまった部分も色つきで見られるのは,当時カラー写真があったということなのだろうか.それを見ても,このフレスコ画の破損は悔やまれる.しかし,この空爆で亡くなった人も大勢いるであろうから,絵の被害ばかりを嘆いてはいられないだろう.

「聖ヤコブと聖クリスト
フォロスの物語」
(剥落を免れた部分)


 このオヴェターリ礼拝堂にはやはりマンテーニャ作の「被昇天の聖母」もある.パドヴァでは他にサンタントーニオ聖堂の付属美術館でマンテーニャのリュネット画も見られた.


「サンタントーニオ」(聖アントニウス)
 「入谷の」と言えば「鬼子母神」とか,「桑名の」と言えば「焼き蛤」は人名ではないし,「清水の」と言って「次郎長」が出てくるのと比べたら,多分敬虔な信者の方に怒られるだろうが,最近「パドヴァの」と言うと反射的に「サンタントーニオ」(聖アントニウス)と出てくる.

 聖アントニウスにはエジプト出身の3世紀の聖人もいるし,同一人物に大修道院長アントニウス(アントーニオ・アバーテ)という呼称もあり,ややこしいが,イタリアではこの「パドヴァのサンタントーニオ」が圧倒的な存在感があるようだ.

 1195年にポルトガルで生まれ,1231年にパドヴァで没したので,死んだ時はわずか36歳,その翌年には列聖されたとのことなので,よほど徳の高い人物だったのだろう.リスボンで生まれ,学問を積んで,修道会に入り,聖職者になった.正式に叙階されているので,最後まで平信徒だったフランチェスコとは異なる.

 1219年に5人のフランチェスコ会修道士に会い,彼らがイスラム教徒に布教するためにモロッコに行く話を聞き,その後,彼らの殉教の知らせに心打たれ,フランチェスコ会に入会する.彼自身もモロッコに行くが,病気で帰国することになり,その後イタリアに移った.

写真:
「5人のフランチェスコ会士の殉教」
「救世主の親方」
サン・フェルモ教会(ヴェローナ)


 説教の名手と讃えられ,フランスやロンバルディアで宣教活動をした後,パドヴァに落ち着いた.夜,キリストの化身である聖なる子どもが現れ,キリストがいかに彼を愛しているかを告げたと言う.サンタントーニオの像に子どもがつきものなのはこの故事による.

 1226年のフランチェスコの死後,修道会の厳格な方針を守ろうとしたが,水腫のため憔悴し,2人の修道士とともに森に隠棲,パドヴァに帰る途中にアルチェッラの修道院で亡くなった.

 異教徒には「聖人」というのはどこが偉かったのかわからないところが多い.しかし,およそ宗教には不可解で神秘的な部分が必ずあり,だからこそ知識や論理で納得するのではなく,信仰心が大事なのだろうと思う.もちろん聖人は神ではないので,信仰の対象ではないが,信仰を導いてくれる人として敬慕を集める.このあたりは同じキリスト教徒でも考えの違う人は少なくないだろう.

 サンタントーニオの遺志に適っているかどうかわからないが,立派な聖堂が建ち,全世界から彼を慕う人が集まり,彼が心酔したアッシジの聖フランチェスコと同じように,パドヴァの聖アントニオとしてカトリックの重要な聖人となっている.その結果,私たちもこの聖堂と,それに付随する施設で芸術作品に触れることができることを考えると,複雑な心境にならないでもない.



 聖堂前の広場には,ドナテッロの作品であるヴェネツィアの傭兵隊長エラスモ・ダ・ナルニのブロンズの騎馬像がある.通称「ガッタ・メラータ」という.ガッタ・メラータは「甘い牝猫」という直訳が可能だが,『地球の歩き方』には「トラネコ」とあった.先日ローマで見た皇帝マルクス・アウレリウスの騎馬像の影響があるそうだ.

写真:
サンタントーニオ聖堂と
「ガッタ・メラータ」(左の騎馬像)


 聖堂内にもドナッテッロのブロンズ像パネルがある.中央祭壇の奥深いところにあって,よく見えないのが残念だが,キリスト磔刑像は圧巻のように思えた.

 数ある礼拝堂には新しいフレスコ画も多く,興味深いものがあったが,暗くてよく見えない.修道院の回廊に行く通路にも幾つかのフレスコ画があったが,特に「聖母戴冠」は力のある人が描いたに違いないと思われた.



 修道院の回廊を通り抜けたところに「聖アントニウス美術館」(ムゼーオ・アントニアーノ)がある.

 ここに前述したマンテーニャのリュネットのフレスコ画「聖アントニオとシエナの聖ベルナルディーノ」があった.他にも,ヤコポ・ダ・ヴェローナの剥離フレスコ画「聖母子」や,聖アントーニオと聖キアラの石像,18世紀ヴェネツィアを代表する画家ジャンバッティスタ・ティエポロの「聖アガタの殉教」,ジャンバッティスタ・ピアッツェッタの「洗礼者ヨハネの斬首」などのカンヴァス画も見られ,小さいが充実した美術館だ.

 フィレンツェのサン・ジョヴァンニーノ・デーイ・カヴァリエーリ教会で先日見た「最後の晩餐」を描いたパルマ・イル・ジョーヴァネの「聖フランチェスコとヒエロニュモスの間にいる聖母子」もあった.


サンタントニオ信者会の傑作
 聖堂に付属する施設として,サン・ジョルジョ祈祷堂とその双子のような祈祷堂(旧教会)がある.左側のサン・ジョルジョ祈祷堂には昨日紹介したアルティキエーロの傑作フレスコ画があり,拝観料を取って見せている.右側の祈祷堂は常に開いており,祭壇にはアレッサンドロ・ヴォラターリ通称「パドヴァニーノ」の「聖ベネディクトとヒエロニュモスの間の聖母子」がある.

 この2つの祈祷堂の間にあるのが「サンタントニオ信者会」(『地球の歩き方』に従う.直訳は「聖アントニウスの学校」)の建物だ.現在は集会所になっており,2階にはティツィアーノの唯一のフレスコ画を含む「聖アントニウスの物語」がある.

 ガイドブック等によれば,ここは10時から11時まで拝観させてくれることになっているが,時間になっても入口が開かない.途方に暮れていたら,隣のサン・ジョルジョ祈祷堂の係員が持ち場を一旦離れるためか,扉に鍵をかけて出てきたので,妻がすかさず声をかけて尋ねた.

 彼は一旦,信者会の建物の中に消え,しばらく待たされた後,ようやく出てきて,「掃除の人がいるが気にするな」と言って,私たちを中に入れてくれた.どうも正規の係員が何かの都合で来ていないので閉めていたが,たまたま掃除中で人がいたので私たちを入れた,というのが真実に近いのではなかろうか.

 ともかくスリリングな経過を経て,偉大な画家の若い頃の作品で,必ずしも傑作ではないかも知れないが,ティツィアーノ唯一のフレスコ画を2人(と掃除の女性の立会い)で見るという贅沢な体験をした.

写真:
「聖アントニウスの物語」(部分)
ティツィアーノ
サンタントニオ信者会


 『地球の歩き方』には「聖アントニオの生涯を描いたティエポロのフレスコ画」とあり,「2006年秋,修復のため閉鎖中」とあったが,ティエポロは多分ティツィアーノの間違いであろうし,すでに閉鎖中ではなかった.しかし,係員がいなくて入れない可能性があるので,その場合はサン・ジョルジョ祈祷堂のビリエッテリアの係員に言えば,午前10時から11時と午後3時から4時の間は見学させてもらえるだろう.拝観料は要るが,パドヴァ・カードで割引になる.


その他,パドヴァカード見られる場所
 この後,徒歩でサン・ミケーレ祈祷堂に行き,教会その他が昼休みになる時間になったので,予定どおり昼休みのない「ラジョーネ宮」を見学した.

 「大広間」(サローネ)が見どころになっているが,イベントのための舞台設営が行われており,大きな木馬像のある方の半分は入れなかった.

写真:
ラジョーネ宮の大広間
壁一面のフレスコ画と木馬


 ここは壁一面の宗教的題材やアレゴリカルなフレスコ画がすごいが,とても全部は見ていられない.ここもパドヴァ・カードで見られる.この後やはりパドヴァ・カードで入れるカフェ・ペドロッキの2階を見に行こうとしたが,昼休みであきらめた.リソルジメント博物館は開いていたが,これも時間と体力の都合で断念した.



 2日間の拝観・見学の順序は,

 初日:スクロヴェーニ礼拝堂→市立美術館(考古学博物館と絵画館)→エレミターニ教会→ドゥオーモと洗礼堂→サン・ジョルジョ祈祷堂→サンタントーニオ聖堂

 2日目:サンタ・ジュスティーナ聖堂→ムゼーオ・アル・サント(写真展)→信者会→ムゼーオ・アントニアーノ→サンタントーニオ聖堂→サン・ミケーレ祈祷堂→ラジョーネ宮→ズーケルマン邸の博物館→パドヴァ大学→サン・ロッコ祈祷堂

であった.

 パドヴァ大学は,内部の観光ポイントを見るには入場料がかかる(5ユーロ)ようなので,時間と体力と資金と相談して,外から中庭などを見るにとどめた.

 それでもおもしろい光景が見られた.たまたま卒業の時期らしく,壁面に卒業者を祝福する張り紙が貼られ,卒業者を囲んで「ドトーレ,ドトーレ」(イタリアの大学は卒業すると「博士」になる)と繰り返す合唱があちこちで起こっていた.

写真:
パドヴァ大学


 ズーケルマン邸の博物館は,調度品,陶器,刺繍,宝飾などのコレクションが充実しており,中世から現代までも興味深いものがたくさん見られた.またニコラ・ボッタチンが収集した古銭,メダル,絵画,彫刻が見事で,特に近現代の彫刻は良かった.体力が残っていればもっと熱心に見たかも知れないが,さすがにもうしんどくなっていた.ラヴェンナ所縁のガラ・プラキディアの肖像を彫った金貨もあった.

 このズーケルマン邸博物館は,前日,市立美術館の絵画館で,親切に声をかけてくれた係員の方が「是非行け」と勧めてくれたものだった.その方は,私たちに「ジョットは見たか,ベッリーニは見たか,ティツィアーノ,ヴェロネーゼ,ティエポロを見たか」と,この美術館の売り物である芸術家の名前を列挙して念を押すように尋ね,私たちが見落としなく鑑賞したかどうか心配してくれた.もちろん,すべて見た.


市立美術館の絵画館
 ここで一番素晴らしかったのはやはりジョットの「キリスト磔刑像」だ.もともとはスクロヴェーニ礼拝堂の中央祭壇にあったらしいが,サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会の作品よりも,アカデミア美術館にある弟子のベルナルド・ダッディの作品に似ているが,ともかくジョットは凄い.

 グァリエントをはじめ,中世末期の芸術家たちの作品を見て,ルネサンス,マニエリスム,バロック,近現代と順に見ていった.もっとも近現代と言っても現代の作品はなく,18世紀くらいまでだろうか.

 18世紀でも,ティエポロは,係員の方にも「見たか」と念押しされ,見学者の中にも「ティエポロはどこだ」と別の係員に確認している人もいたくらいで,ヴェネツィア派の第二黄金期を代表する画家だそうだ.私はこの画家の作品に心打たれたことはないが,古典文学や神話と題材にした絵()も描いているので,授業では写真を見てもらうこともあって,少しだけなじみがある.

実は,今回パドヴァの予習をするにあたって,日本人のティエポロ・ファンの充実した旅行記をウェブページで読ませていただいていたので,「ティエポロ」の名は呪文のように頭の中に鳴り響いていた.


 ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館でもジャンバッティスタ・ティエポロと,息子のジャンドメニコ・ティエポロの作品を少なくとも1点ずつ見ている.パドヴァの市立美術館ではジャンバッティスタの大きな絵「アイルランド司教聖パトリキウス」と小さな絵1点,ジャンドメニコの作品を1点見ている.翌日ムゼーオ・アントニアーノで見た「聖アガタの殉教」(同じ題材の別の美術館の絵)と合わせて,ジャンバッティスタの作品を少なくとも3点見たことになる.技術が高く,迫力のある絵を描くのは間違いないが,今回はまだ開眼するにいたらなかた.

 ジョルジョーネ,ティツィアーノ,ティントレット,ヴェロネーゼ(「最後の晩餐」もあった)の絵も大きく心揺さぶるものはなかったが,ジョヴァンニ・ベッリーニの「若い貴族の肖像」は立派なものに思えた.



 今回はジョットを見た興奮の後なので,あまり「地元の画家」に注目する余裕がなかったが,ヴェネツィアを含めヴェネト州周辺だ活躍した画家としては,フィレンツェで1点作品(「最後の晩餐」)を見たパルマ・イル・ジョーヴァネの絵を市立美術館で3点,ムゼーオ・アントニアーノで1点,サンタ・ジュスティーナ教会で1点(「パウロの回心」)見ることができた.市立美術館にはガイドブック(I Musei Civici di Padova: Guida, Venezia: Marsilio Edizioni, 1998)に拠れば,一族の年長者パルマ・イル・ヴェッキオの作品もあったようだ.

 さらに,ムゼーオ・アントニアーノでも作品が見られたピアッツェッタの「エマオの饗宴」その他,やはりヴェネツィアで活躍した画家の作品が多いという印象を受けた.「バテシバの入浴」があったパドヴァ生まれのパドヴァニーノですら,活躍の場はヴェネツィアだったようだ.

 その中で,ステファノ・ダッラルゼーレの「牧人礼拝」,ドメニコ・カンパニョーラの「聖母子と,聖ジュスティーナに洗礼を授けるプロスドチモ,聖人たち」は注目したい.どちらも大きな立派な作品だが,カンパニョーラはサン・ロッコ祈祷堂のフレスコ画の作者とされ,場合によってはダッラルゼーレの名前も挙げられている.

 ダッラルゼーレはパドヴァの生まれ,カンパニョーラはヴェネツィアの生まれだが,パドヴァで死んだ画家だ.地元で活躍する画家に祈祷堂の大きなフレスコ画が任されたことになる.ただ,サン・ロッコ祈祷堂のフレスコ画は興味深いものではあったが,市立美術館で見たカンヴァス画で見せた実力が発揮されているとは思えなかった.あるいはフレスコ画の方はあくまでも「帰せられる」ということだったかも知れない.

 カンパニョーラの「聖母子と,聖ジュスティーナに洗礼を授けるプロスドチモ,聖人たち」に出てくる聖プロスドチモ(プロスドキムス)は初代のパドヴァ司教,「パドヴァのジュスティーナ」はサンタントーニオよりも以前からパドヴァの守護聖人だった聖女で,「聖人たち」の中には「パドヴァのサンタントーニオ」も含まれている.これはやはり地元を大事にした絵柄だろう.



 ジュスティーナの名を冠した聖堂も上述のように拝観している.この教会にはルーカ・ジョルダーノやパルマ・イル・ジョーヴァネの絵とともにヴェロネーゼの「聖ジュスティーナの殉教」があった.

写真:
サンタ・ジュスティーナ聖堂


 ヴェロネーゼの絵は中央祭壇の奥に祭壇画として飾られているため,遠くてよく見えなかったが,全世界的に知られるサンタントーニオとは別に,もう一人の守護聖人のために大きな聖堂があり,中央祭壇には大芸術家に委嘱した作品が飾られている.たった2日の滞在だが,すばらしい芸術を大切にしている町パドヴァらしいなと思った.

 ムゼーオ・アントニアーノにはラヴェンナの画家ルーカ・ロンギの「聖母子」があり,そこにもジュスティーナが描かれていた.



 今回の失敗は,市内のガイドブックを吟味して選んだ末に,スペイン語版を買ってしまったことだ.イタリア語のPadovaが英語とスペイン語では同じPaduaになることに起因する.それなりに参考にした.

 良かったことは,ガリバルディ広場のジェラテリーアで買ったジェラートが美味しかったこと.このジェラートはお勧めである.パドヴァにはやはり,もう一度行きたい.





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