フィレンツェだより
2007年10月20日



 




ドゥオーモの洗礼堂内部
メナブオイのフレスコ画



§パドヴァの旅(その1)
 −ジョット派とその周辺のフレスコ画篇−


10月18日,午前10時37分フィレンツェ中央駅発ミラノ行きのユーロスターでパドヴァに向かった.


 ポー川を越えて北イタリアの町を訪ねるのは,9月のヴェローナに続いて2度目である.主な目的はジョットのフレスコ画を見ることだった.

 スクロヴェーニ礼拝堂の彼のフレスコ画の素晴らしさは想像以上のものだった.今,美しい絵が見られる背景には修復,保存という大事業があり,決して画家が描いたそのままではないにしても,出発点として天才の画業がなければ,私たちの感銘も存在しない.

 したがって,礼拝堂の中で感激を抑え切れないのは,何よりもまずジョットという個人がこの絵を描いた,もしくは自ら筆をとりつつ工房を指揮したことに起因している.

 ジョットの偉大さに関してはもう自明のこととしなければいけないだろう.これについて何か論じることは私の知見を遥かに超えている.もちろん個人的な感動や好みは今後も少しずつは述べさせてもらうことになると思う.

概略図:
鉄道路線から見た
パドヴァの位置


 スクロヴェーニ礼拝堂の拝観には事前予約が必要である.私たちも前もってインターネット予約をした.

 クレジット・カードの支払い入力が済むと予約完了のページが現れ,内容確認と予約番号その他の情報が示される.これを印刷して,当日持って行くことになっているが,プリンタを持ってきていないので,すこし手間がかかった.印刷が必要と分った時点で,あわてて内容確認ページを保存しようとして消してしまったのだ.

 幸い,妻が画面をデジカメに収めていたので,ファイル保存し,出力サービスをしてくれるインターネット・ポイントを教えてもらってフラッシュメモリでデータを持ち込んだ.カッライア橋をオルトラルノの方に渡って,川から数えて2番目の道を左に曲がったところにあるメリディア・ネットという店だ.日本人の若い男性が店番をしておられて,手際よく20チェンティで印刷してくれた.

 その印刷物を市立美術館のビリエッテリア(入場券売場)で提示すると,予約内容を印刷したチケットをくれる.私たちは時間の余裕をみて3時に予約していたが,ビリエッテリアには1時半に着いてしまった.2時からに変更してもらえないかと言うと,「オーケー」(イタリア語でもオーケーは日常的に使う)と微笑んで,13:45と書き直してくれて,「スービト」(すぐ行け)と行って入口を教えてくれた.

 『地球の歩き方』やウェブページなどにも,当日申し込んで見学できたという体験談もあり,比較的融通がききそうな感じがするが,こういうことはそのとき誰が受付にいるかということも大きいかも知れないし,そもそも25人までという制限があるので,希望の時間枠が満杯になっていれば,融通のきかせようもないことだろう.「要予約,1時間前に入場券入手,5分前に入口集合」は厳守されるものと考えていた方が無難だろう.スクロヴェーニはそれに値する.


「パドヴァ・カード」
 入場券の選択肢として「パドヴァ・カード」というのがある.先日「ヴェローナ・カード」のお得さに味をしめたので,スクロヴェーニが市立美術館と共通で12ユーロであることを考えれば,14ユーロのパドヴァ・カードは,ヴェローナ・カードほどのうまみがなくても,あと一箇所行けば間違いなく「もとはとれる」と考えて申し込んでおいた.

 スクロヴェーニは「要予約」なので予約料の1ユーロは必ずかかるし,パドヴァ・カードはヴェローナ・カードに比べて利用できる箇所が少ないので,それほどのうまみはなかったが,それでも十分に「もとはとれる」し,丈夫で保存しやすい点でもお勧めである.初めての人には記念にもなるだろう.


スクロヴェーニ礼拝堂
 市立美術館は,エレミターニ教会の旧修道院の中にあって,スクロヴェーニ礼拝堂を拝観するためのビリエッテリアもここにある.

 複数のガイドブックに,見学の前に15分間「体温調節室」に入るとあったので,どのような仕組みなのかと思ったが,それほどの物々しさはない.ガラス張のゆったりした部屋で,その間,退屈しないように紹介ヴィデオ(イタリア語だが,英語とドイツ語の字幕がつく)を見せてくれる.体温調節もさることながら,身体の状態を落ち着かせて「湿気」を取るくらいのものに思えた.

 パドヴァではどこでもそうだったが,比較的年輩の男女が係員であることが多く,イタリア語のみの場合が多いが,対応は丁寧で感じが良い.年輩だからでないことは勿論だろう.単純すぎる感想かも知れないけれども,最後は「人間は人柄」だなあと思う.パドヴァでは,少なくとも現在は,ジョットをはじめ文化財は非常に大事にされているという印象を受ける.

写真:
(右)エレミターニ教会
(左)旧修道院


 スクロヴェーニ礼拝堂は,1300年にエンリーコ・スクロヴェーニが用地を買ったところから歴史が始まる.ここはローマ時代の円形闘技場の跡らしい.

 いわゆる「高利貸し」のイメージに近いかも知れない銀行家であった亡父リナルド(ダンテの『神曲』で地獄に落とされている)を記念して礼拝堂を建てることを決め,隣接するエレミターニ(隠修士)修道会の許可と司教の認可を受けて,1302年に着工,1305年の3月25日(「受胎告知」の祝祭日)に聖別(宗教施設として公式に認知)された.今から700年も前の話だ.

 「礼拝堂」という語は訳語なので,私たちが普段使う語彙の中にない.これまでは,教会内部にあって,どちらかと言えば「堂」というよりは礼拝所とか礼拝コーナーと言った方がピンとくるカペラ(カッペッラ/チャペル)についても,多くの場合独立した建物になっているオラトリオについても礼拝堂という訳語を使ってきたが,カペッラを礼拝堂,オラトリオを祈祷堂と訳す場合もあるようなので,以後,オラトリオに関しては礼拝堂(オラトリオ)のような書き方ではなく一律に「祈祷堂」を使おうかと思う.「祈る」という語からきているので,音の響きとイメージ(礼拝堂の方が祈祷堂よりも大きい感じがするが,逆の場合が多い)は今ひとつの感もあるが,語源的には意味が近いかも知れない.

 スクロヴェーニ礼拝堂はカペラなので,「礼拝堂」と称することにするが,よく見られるような,教会の側廊や翼廊,後陣の一角を占めるコーナータイプではなく,完全に独立した建物である.場合によってはこれより小さな教会もあるかも知れない.

 礼拝堂の壁面を埋める聖母マリアの父母ヨアキムとアンナの物語,聖母の物語,誕生から聖霊降臨に至るキリストの物語,それにファサード裏の「最後の審判」など,これらのフレスコ画については言葉もない.

最初から最後まで胸がドキドキするような思いが去らなかった.「世紀の傑作」とはこれらのフレスコ画のためにあるように思われた.


 有名な「聖家族のエジプト退避」や「ユダの接吻」,「キリストの死の嘆き」だけでなく,どの場面にもジョットの芸術性と工房の力量が満ちているように思えた.ヨアキム,アンナ,マリアの物語にも力がこもっており,「キリストの洗礼」の場面も良かった.この連作の中では最良のできとは言えないかも知れないが,「受胎告知」や「最後の晩餐」もしっかり見られた.

特に告知を受けるマリアが堂々としていて,大人の女性として描かれており,フラ・アンジェリコが描くようなはかなげな女性や,時に見られる可愛らしい少女や絶世の美女のマリアとはだいぶ違う印象を受ける.


 「ラザロの復活」,「エルサレム入城」のイエスと,神殿から商人たちを追い出す場面の拳を振り上げたイエスをじっくり比べて見たいし,「カナの婚礼」と「最後の晩餐」,「足洗い」と「聖霊降臨」を対比しながら鑑賞してみたい,と色々なことを考えたが,15分はあっと言う間だった.唯一の不満がこの短い時間だが,それでもたった4人のグループで鑑賞する幸運に恵まれたので,贅沢は言えない.

 今度,パドヴァに行く機会があったら,是非複数回の予約に挑戦してみたい.とは言え,何時間かかったとしても満足のいく鑑賞ができる前に,こちらの目と足腰が参ってしまうだろう.1回15分は最良とは言えないかも知れないが,できるだけ多くの人が,できるだけ不満の少ない拝観をするためにはやむを得ないような気がする.

 特に,この直後,フレスコ画のはかない運命を考えさせられる体験を隣のエレミターニ教会でしたので,余計にそう思う.ジョットは保存,修復には恵まれていた方だと思う.このエレミターニのマンテーニャのフレスコ画については明日報告する.


パドヴァのジョッテスキ(その1)−グァリエント
 エレミターニ教会に行ったのは,スクロヴェーニ礼拝堂拝観の次に,市立美術館でジョットの「キリスト磔刑像」を初めとする作品群を見た後で,4時少し前くらいだった.開いているかどうか微妙な時間だったが,この日は4時前でも入れた.

 ここではマンテーニャが見られるということで行ったのだが,後陣中央祭壇(左下の写真)にあったグァリエントという画家の修復されたフレスコ画が見事なものだった.彼の作品は市立美術館でも見ることができたが,パドヴァの14世紀を彩る代表的な芸術家と言って良いだろう.



写真:中央祭壇のグァリエントのフレスコ画,
右上に「聖ピリポの磔刑」





 グァリエントについては詳しいことは知られていないようだが,1338年から1368年までパドヴァで活動したことが分っており,その意味でも「パドヴァの画家」といえるかも知れない.もとカッラーラ家の宮廷があった建物にも彼の作品があるらしいが,今回それは見ていない.ジョットの系譜に属する画家とはいえないが,影響は受けていると考えられているようだ.



 ジョッテスキ(ジョット派)という場合に,どういう画家たちを指すのだろうか.ジョットの弟子ということであれば,マーゾ・ディ・バンコ,ベルナルド・ダッディ,タッデーオ・ガッディと綺羅,星の如くであるし,ジョッティーノとかステファノ・フィオレンティーノなどもいる.しかし,パドヴァにはこれらの画家たちの名前で伝わった作品はないようである.

 ジョットの影響を受け,ジョット風の作品を描いた人々ということであれば,南イタリアのオトラントその他でも「ジョット風」の作品があり,14世紀のフレスコ画は多かれ少なかれジョットの影響を受けているだろう.

 その場合,弟子筋ではないオルカーニャの系譜の人たちはどう考えるのか,今のところ私にはわからないが,ジョットの系統に属する人にもオルカーニャ派の影響が指摘される場合が少なくないので,相互に影響しあって,腕を磨き,少しでも立派な作品を作り上げていこうとしたと考えるべきなのだろう.

 ジョット派とか,ジョット風という場合,「風」というだけで,あまり感銘を受けない作品も何度か見たように思う.もちろん,感動するとか,芸術性が高いとか,見る人の好みに合うということだけが絵の価値を決めるわけではない.たとえ下手であっても,通俗的であっても,独自性が全くなくても,どの絵にもそれなりに味わいはあり,むしろ素人目にも下手なフレスコ画というのは,ガイドブックやウェブページでは写真も見られない場合が多いので,そういう作品を見られるのは貴重な機会と言えるかもしれない.

 しかし,パドヴァで見たジョッテスキと分類されることもある3人の画家は,どの人の作品も心を打ち,素人目には破綻のない上手な絵であって,なおかつその人の作風について考えさせるだけの独自性と作品数があったように思う.グァリエントのほか,ジュスト・デ・メナブオイアルティキエーロである.


パドヴァのジョッテスキ(その2)−メナブオイ
 メナブオイに関しては,今回パドヴァに行くにあたって予習した『地球の歩き方』(ただし「メナブオニ」とあったのは誤植だろう)にも名前があがっていたし,ウェブで見つけた旅行記に掲載されていた写真を見て,見られるものなら是非見てみたいと思った.

 彼の作品が見られるドゥオーモ隣りの洗礼堂は,パドヴァ・カードに入場料が含まれている.初日にエレミターニ教会を拝観した後,雨が降っていて,かなり暗くなっていたが行ってみた.

 すごいものだった.この人の作品が果たしてジョッテスキの中の一人としてどのくらいに位置づけられているのかわからないが,どもかく天井の高い洗礼堂の天井と壁面(「カナの婚礼」など)を埋め尽くすその分量のすごさには圧倒される.

 一部入口に近いあたりの剥落が目立つが,それ以外は保存もよく,祭壇には板絵のポリプティク(多翼祭壇画)もあり,これだけの大仕事をした人の名前を今まで知らなかったことが悔やまれる.

写真:
メナブオイのフレスコ画
右下は「最後の晩餐」
上部は「受胎告知」


 1320年頃フィレンツェに生まれ,1391年にやはりフィレンツェで亡くなった人なのに,フィレンツェで活躍した情報はないとのことである.ジョットの死が1337年なので,その修行時代にはジョットが生きていた.ジョットの弟子であるベルナルド・ダッディかマーゾ・ディ・バンコのもとで学んだらしいので,第2世代のジョッテスキということになる.

 50年代,60年代はロンバルディア地方に活動の場を求め,1370年代にパドヴァの実質的支配者だったカッラーラ家の保護を受け,そこで弟子も育てたようだ.パドヴァ以外のどこで彼の作品が見られるかは今のところ情報を得ていないので,私にとってはパドヴァの画家と言って良いだろう.

 この人の作品を見て感動するかどうかは人様々だろうが,実力者であるのは間違いないだろう.私は評価する.ペトラルカを保護したカッラーラ家が選んだ画家で,大仕事も成し遂げている.同時代的にも評価が高かったことは間違いないだろう.

 ウェブサイトにヴァザーリの『画人伝』を参照しながら,この画家の作品を紹介したページがある.そこを見てもらえばわかるように,この洗礼堂は,旧約聖書の話や黙示録の内容まで含む多くの絵に満ちている.

写真:
「ユダの接吻」
メナブオイ作
ドゥオーモ洗礼堂


 ジョットやアルティキエーロのフレスコ画は写真が撮れないので,スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画と重なる内容を含むこの洗礼堂の絵を撮影できたのは,にわかフレスコ画ファンに私たちにとっても貴重な資料だ.ガイドブックも立派だ,英訳版もある.

 Pietro Lievore, ed., Padua Baptistery of the Cathedral: Frescoes by Giusto de' Menabuoi, Padova: G. Deganello, 1994

で,画質はともかく網羅的に写真も紹介されている.



 この後に拝観したサンタントーニオ聖堂のベアート・ルーカ礼拝堂にもメナブオイの作品があった.聖ピリポと小ヤコブに捧げられた礼拝堂なので,この聖人たちの物語を描いたフレスコ画である.

 写真撮影禁止で,ガイドブックも頼りないので,記憶が曖昧になってしまうが,絵柄の一つ一つに,文字で説明(ラテン語)があり,枠がついているように見えるので分りやすいが,ドゥオーモの洗礼堂で感じた圧倒されるような迫力はなかった.この日最後に訪れた場所で,かなり疲労していたし,暗いし,目もくたびれていたので,体調のせいもあったかも知れない.

 翌日の午前中再度拝観し,やはり迫力は今一つだと思ったが,すぐれた絵であるのは間違いない.ジョットとアルティキエーロを見ていなければ,今回の最大の成果の一つだと思っただろう.

 聖ピリポの殉教が磔刑によるものであることは,フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラのストロッツィ礼拝堂で見られるフィリピーノ・リッピのフレスコ画で学習済みだが,エレミターニ教会のグァリエントのフレスコ画にも着衣のピリポの磔刑の絵があり,メナブオイの絵柄と良く似ていた.


パドヴァのジョッテスキ(その3)−アルティキエーロ
 アルティキエーロについては,すでにヴェローナ訪問時に注目している.サン・ゼーノ・マッジョーレ教会にある彼に帰せられる「キリスト磔刑」,サンタナスタージア聖堂で彼の作品と断定されている「玉座の聖母子の前のカヴァッリ家の人々」,カステルヴェッキオ美術館で見た祭壇画が印象に残り,この画家のもっとたくさんの作品を見たいと思っていた.

 アルティキエーロの作品がパドヴァで見られることはやはり『地球の歩き方』とウェブページで予習済みだった.しかし,この画家には驚かされた.

 アルティキエーロは,ヴェローナ近郊の村ゼビオで1330年頃生まれ,1390年頃にヴェローナで没した.系譜的にどのようにジョットに連なるのかはわからないが,影響があるのは間違いないだろう.ただし,15世紀の末まで生きた人で,同時代の流行をも取り入れているので,ジョットとは自ずから違った印象を受けるのかも知れない.

 ヴェローナのサン・フェルモ教会に立派な「キリスト磔刑」のフレスコ画を描いたトゥローネ・ディ・マクシオの弟子とされることもあるが,であれば,画風からすればトゥローネもジョッテスキの一人であろうから,系譜的にはつながることになる.しかし,トゥローネはロンバルディア出身かも知れないという以上の情報を今は持っていない.

 パドヴァでアルティキエーロの作品が見られるのは,サンタントーニオ聖堂のサン・ジャーコモ(聖ヤコブ)礼拝堂と,聖堂の外側に独立して建っているサン・ジョルジョ(聖ゲオルギウス)祈祷堂である.メナブオイの作品があるベアート・ルーカ礼拝堂にも一部彼の絵があるとのことだ.

サン・ジョルジョ祈祷堂にあったのは,思わず「世紀の大傑作」と言いたくなるような見事なフレスコ画だった.この言葉はジョットの作品に使われるべきものなので,ここでは控えるが,ジョットの作品を見ていなければ,今まで見たフレスコ画の中でも,感銘度はほぼ最高に近いものと言える.


 左側の壁面に「聖ゲオルギウスの物語」(「聖ゲオルギウスの殉教」など)があり,カッパドキアの王女を救う有名な場面から殉教までの彼の生涯が描かれている.右側の壁面は上段が「聖カタリナの物語」,下段は「聖ルキアの物語」(「聖ルキアの葬儀」など)で,2人の殉教した聖女の生涯が伝説がコンパクトに描かれている.様々なやり方で迫害されてもなかなか死に至らず,最後に刃物で殺されるところがゲオルギウスと共通しているからだろうか.

 ファサード裏の「受胎告知」,「三王礼拝」,正面の祭壇上の「キリスト磔刑」も見事だ.後者は聖堂内のサン・ジャーコモ礼拝堂の「キリスト磔刑」とよく似ている.

この画家の絵は登場人物が多いのに,一人ひとりの表情が豊かで,本当に素晴らしい.毅然として,スックと立つルキアを見て,感動しない人は少ないのではないだろうか.


 この祈祷堂はパドヴァ・カードの中に含まれないので拝観料が必要だが,パドヴァ・カードを提示すれば2.5ユーロが2ユーロになるという割引がある.アルティキエーロの作品のガイドブックを売っていて,英訳版もある.サン・ジョルジョ祈祷堂の作品だけでなく,聖堂内のサン・ジャーコモ礼拝堂のフレスコ画も解説しており,修復に関しても言及されている.

 Daniela Bibisut & Lidia Gumiero Salomoni, tr., Ch. Wright, Altichiero da Zebio: The Chapel of St James / the Oratory of St. George, Padova: Messagero di S. Antonio Editrice, 2002

は,サン・ジャーコモ礼拝堂の共同制作者ヤーコポ・アヴァンツィについても言及し,かつどの部分がヤーコポの作品かも説明してくれていて,大変有益である.アルティキエーロの作品で現存するものが,ヴェローナと合わせてほぼ見られたことになるが,是非,どこか他のところでも仕事をしていて,それを私たちが見られるようであれば良いと思う.パドヴァではアルティキエーロの作品をまとまって見られたが,写真は1枚も撮れなかった.

 サン・ジョルジョ祈祷堂の作品についても共同制作者の名前が挙げられている.ヤーコポ・ダ・ヴェローナという画家だ.「ヴェローナ出身のヤーコポ」では固有名詞とは言えないかも知れないが,この人の名で伝わる作品がやはりパドヴァで見られる.


サン・ミケーレ祈祷堂
 旧市街の西端にあるサン・ミケーレ(大天使ミカエル)祈祷堂のフレスコ画がヤーコポ・ダ・ヴェローナの作品だ.「大天使ミカエル像」,「受胎告知」,「イエスの誕生」,「三王礼拝」,「キリスト昇天」,「聖母の死と大天使ミカエル」,「福音史家たち」などの絵が1397年に描かれたものとされ,師匠筋のアルティキエーロだけでなく,ジョット,メナブオイ,アヴァンツィなどの影響も見られるそうだ.

 ここでは他にもメナブオイやアルティキエーロの影響を受けた画家のフレスコ画も見られる.全体として特に優れた作品という印象は薄いが,まとまった作品を見られるという意味では貴重な場所だと思った.

普通の生活場面を間に挟んで,天使と聖母の絵が描かれている「受胎告知」が印象に残る.


 ここはパドヴァ・カードで拝観できて,写真入りのよくまとまった伊英対訳のパンフレットがもらえる.下の写真はフレスコ画によくある寄進者その他の肖像(たとえばアルティキエーロのフレスコ画には寄進者などの他にペトラルカの肖像がある)で,この祈祷堂の作品の中では良く描かれている部分と思われる.

写真:
フレスコ画の中の
肖像画と思われる
部分



サン・ロッコ祈祷堂
 さらに時代はくだるが,1500年にヴェネツィアで生まれ,1564年にパドヴァで死んだドメニコ・カンパニョーラなどに帰せられる連作フレスコ画「聖ロッコの生涯」が見られるサン・ロッコ祈祷堂もパドヴァ・カードで拝観できる.

 サン・ミケーレ祈祷堂と同じ2日目の19日に拝観したが,この日は18世紀の船の設計図の特別展(モストラ)開催のため入場無料だったので,パドヴァ・カードのご利益は無関係だった.しかし,蒸気船以前の大型船の設計図の展示はそれなりに面白かった.イタリア語版しかなかったし,コピーの印刷物だが,このモストラと祈祷堂の説明パンフレットがもらえた.貴重な情報源が入手できた.

 この祈祷堂のフレスコ画は特ににわか絵画ファンを唸らせるほどの作品とは思えないし,時代的にジョットの影響とは無関係だが,この聖人の物語のフレスコ画は初めてなので,それはそれで面白かった.

 フレスコ画ファンは,パドヴァ行くべし,である.マンテーニャのフレスコ画,ティツィアーノとその一派によるフレスコ画,教会や美術館で見られた芸術作品,ラジョーネ宮などその他の見所については,「明日に続く」としたい.





川の風景
サン・ミケーレ祈祷堂の近くで