フィレンツェだより |
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会 中央祭壇 |
§ローマの旅(その2) −モザイクとフレスコ篇−
バジリカ(聖堂)にパトリアカーレ(総大主教の)という形容詞がついている訳だが,ローマ・カトリック教会の「総大主教」とはローマ教皇のことなので,「教皇の」という形容詞がついていることになる.聖母被昇天の祝祭の儀式を,教皇がこの教会で司式するそうで,大変格の高い教会ということになる. 五大「総大主教聖堂」というのがローマにはあるそうで,サン・ジョヴァンニ・ラテラーノ聖堂,サン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ(城壁の外のサン・ロレンツォ)聖堂,サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂,ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂,それにサンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂を指すとのことだ.なるほど大きな教会だ. しかし,ローマの教会はたいてい大きくて,フィレンツェで可愛らしい教会を幾つも見てきた目には,大きすぎてつかみどころがない. サンタ・マリーア・マッジョーレ教会(以下バジリカ「聖堂」とキエーザ「教会」を区別せずに,教会とする)は,その大きさにも驚くが,外観のバロック的壮麗さ,堂内の絢爛豪華な装飾を見ていると,小さな共和国や君主国の首都だったフィレンツェではなく,世界の中心地,少なくとも中心地だったことのある町の代表的な教会なのだなと思う.
サンタ・マリーア・マッジョーレ教会は,教会大分裂の後,教皇庁がアヴィニョンからローマに帰ってきたときに一時的にローマ教皇の座所となったそうなので,やはりカトリック教会の中心的存在の一つと言えよう. この教会の主席司祭は枢機卿を兼務する大司教がなると聞くと,それだけで恐れ入ってしまいそうだ.創建も4世紀の教皇リベリウスだそうである.ともかく大きい.
![]() 購入した英訳版ガイドブック, Patrizia Riccitelli & Giammarco, A Visit to the Patriarchal Basilica of Santa Maria Maggiore, Vatican City, 2005 でも確認が取れないので,すこし落ち着いて考えてみたい.
モザイク・ファンの友人から「ガッド・ガッディが関わっている」という情報は得ているが,イタリア語版ウィキペディアで「ガッド・ガッディ」の項目を参照しても,その情報はない. フランス語版ウィキペディアでも同様だったが,英語版ウィキペディアには「ローマのサンタ・マリーア・マッジョーレのファサードのモザイクを完成させた」とあった.さらにドイツ語版のウィキペディアでは,「教皇クレメンス5世によってローマに呼ばれ,そこで一連の芸術作品を完成させ,サンタ・マリーア・マッジョーレにその作品が残っている」というようなことが書いてある.ここに言及されているチマブーエの名前が興味を引くが,今は深入りしない. フィレンツェのドゥオーモのファサード裏のモザイク「聖母戴冠」を彼の作品としたのはヴァザーリのようだが,ヴァザーリはローマのサンタ・マリーア・マッジョーレのファサードのモザイクに関しては言及していないようだ.今のところ,これ以上の情報は私にはないので,「ガッド・ガッディの作品だったら良いなあ」という以上のものではない. ![]() なお,フィレンツェの教会に関してはイタリア語版ウィキペディアの「フィレンツェの教会」が有益だが,ローマの教会に関しては英語版ウィキペディアの「ローマの教会」から要領よくまとまった情報が得られる.
![]() 英訳版ガイドブックには「メルキセデックの捧げ物とアブラハム」ともう一つの写真しか出ていないが,何せ巨大な教会のとてつもなく大きな身廊の壁面に列を成して描かれているモザイクだ.そのパネルの数はどのくらいあるのか,数える気にもならない.
ラヴェンナのものよりも古く,ビザンティンの影響を受けていない古代ローマの伝統を引くモザイクということになるのだろうか. この教会自体も1348年の地震で被害を蒙っているそうだし,5世紀と言えば,410年のアラリックのローマ劫掠があるが,これはシクストゥス3世の在位が432年から440年とのことなので,免れているとしても,長い歴史を経て,1527年のカール5世による有名なローマ劫掠によって,「永遠の都」は大破壊を蒙っているはずなので,どうやって残ったのだろうかと思う. ![]()
作者はヤーコポ・トッリーティで,依頼した教皇はニコラウス4世であるらしい.彼が最初のフランチェスコ会出身の教皇と聞いて思い当たることがあった.このモザイクの作者の名前をアッシジのサン・フランチェスコ教会で聞いている.上部教会のジョットの「聖フランチェスコの生涯」のフレスコ画の上の列にあるフレスコ画のうち聖書に取材した幾つかの物語(旧約/新約)を描いた画家だ. チマブーエにもモザイクの作品があるようだ.この時代の画家は両方を手がけたのであろう.15世紀後半でもバルドヴィネッティ,ギルランダイオ兄弟が板絵もフレスコ画もモザイクも手がけている.13世紀にはあるいは普通のことだったのかも知れない. この教会のボルゲーゼ礼拝堂にグイド・レーニのフレスコ画があるとのことだが,これは見ていない.また,聖ミカエル礼拝堂にはピエロ・デッラ・フランチェスカとベノッツォ・ゴッツォリの作品かも知れない小さなフレスコ画があるようだが,これも見ていない.15世紀にはマゾリーノとマザッチョがこの教会にまつわる「雪の聖母の奇跡」のフレスコ画を描いたらしいが,これは現存しない. サン・クレメンテ教会 この後ホテルにチェックインし,荷物を置いてから,フォロ・ロマーノとパラティーノの丘に行き,その後にサン・クレメンテ教会に回った.マゾリーノのフレスコ画「受胎告知」を見るためだ. 行ってみて分かったのだが,マゾリーノの絵は「受胎告知」だけではなかった.その名も「アレクサンドリアの聖カタリナ」の礼拝堂には,彼の描いた「聖カタリナの物語」(哲学者たちとの議論/殉教,など)と「聖アンブロシウスの物語」,「キリスト磔刑」,天井画の「福音史家と教会博士たち」があり,肝心の「受胎告知」は,礼拝堂の外側に「聖クリストフォルス像」などとともに描かれていた. この礼拝堂の写真撮っている最中に,「撮影禁止」という貼紙があることに気づいた.ローマの教会はフラッシュを焚かなければ写真撮影可という寛容な所がほとんどだったし,この教会も「聖カタリナ礼拝堂」と拝観料を取って見せる地下の古代教会とミトラ教神殿の跡以外は写真可だったので気づくのが遅れた.それで「磔刑像」はもう撮ってしまっていたが掲載は控える.しかし「受胎告知」などは礼拝堂の外側なので,堂内の様子として掲載させてもらうことにする.
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この磔刑の十字架が「生命の木」となっており,その下に,小さな鹿が描かれ,さらに下には谷川で水の飲む2頭の鹿が描かれていた.ラヴェンナのガラ・プラキディアの霊廟でも見た「詩篇」のモティーフだ. 鳩,不死鳥,羊,教会博士が細かく描き込まれているが,暗くて遠いのでよく見えなかった.全体として十字架を中心に配した抽象的な模様に見えるが,実際には人物,動物が細密に描かれ,最上部にはこのタイプのモザイクでは私たちのおなじみになった「神の手」が見える. このモザイクも起源を遡れば,4世紀,5世紀のものと考えられるが,現存するものは中世的な特徴が見られるし,そもそもこの教会の創建が12世紀であることから,地下に残る古代末期の教会にあったものを再構成したものと考えられているようだ. 13世紀はモザイクとしては新しいものだが,作家の名前はわからず,ラヴェンナの古いモザイクと似ているところも多いので,やはり貴重な良いものを見られたように思う. マゾリーノのフレスコ画を見るためにこの教会を訪れたのだが,意外にもモザイクも見ることができた.しかし,残念ながら地下の古代教会とミトラ神殿の跡は時間の都合で見学できなかった. ![]() サンタ・マリーア・イン・ドムニカ教会 サンタ・マリーア・イン・トラステヴェレ教会 サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ教会 サン・クリソーゴノ教会 がある.これでは時間がいくらあっても足りないが,次回ローマに行くときは十分に予習して,「昼休み」と「宗教儀式」を念頭に置きながら,ローマの有名無名の教会を幾つか訪ねてみたい. 今回見られたフレスコ画の傑作 多くの教会でやはりフレスコ画も見ることができた.今回見たうちで一番の傑作だったは,パンテオンの近くのサンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ教会のカラーファ礼拝堂にあるフィリピーノ・リッピの作品(一番下の写真)であろう.「聖母被昇天」を中心とするこの絵はさすがに親子2代に渡ってルネサンスを代表する画家の作品であると思わせた. この教会にはミケランジェロ作とされる「十字架を持つキリスト」像があったが,これはフィリピーノの作品を見ている間に,昼休みになって教会が閉まってしまい,遠くからかすかに見えただけだった. この日(10月7日)は日曜だったこともあるが,サンタ・マリーア・デル・ポポロ教会でもピントリッキオのフレスコ画「幼児イエスの礼拝」を見ている間にお祈りの時間がきて,カラヴァッジョの絵も見たかったのに,途中で出されてしまった.もちろん,教会としてはそれが本来の勤めなのだからやむを得ない.
2日目の10月6日の夕方,カラヴァッジョの「巡礼の聖母」を見るためにサンタゴスティーノ教会を拝観し,堂内の柱に描かれた,ラファエッロの作品とされる「預言者イザヤ」を見ることができた.
ミケランジェロの「モーゼ」像があるサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会は同日の午前中に拝観し,後陣中央祭壇の後方壁面と天井に描かれた,16世紀フィレンツェの画家でイル・メリオと通称されたヤーコポ・コッピのフレスコ画を見ることができた. サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会 サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリとは「鎖に繋がれた聖ペテロ」という意味で,教会の名称は,ペテロが牢獄に繋がれた鎖を聖遺物としていることに由来する. コッピのフレスコ画は,壁面のものが「牢獄から解放されるペテロ」,「聖ユウェナリスから聖遺物の鎖をもらう皇女エウドクシア」,「エウドクシアから教皇レオに渡される鎖」という,聖遺物がいかにしてローマ教会に渡ったかの物語になっており,天井画は「ベイルートの十字架」という奇跡の物語だった. 聖遺物の「鎖」はガラスケースに入って祭壇に祀られていた.トップの写真がその中央祭壇だが,拝観者の頭で隠れている. なお,この教会の再建に深く関わったのが,15世紀の哲学者ニコラウス・クザーヌスである.枢機卿だった彼はサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会に多大な貢献をしたので,彼を記念した礼拝堂があり,鎖と鍵を持ったペテロの両脇にクザーヌスと天使が控えている彫刻があるが,私たちは見落としてしまった.次回を期す. ![]() 通常,「聖セバスティアヌス」は美しい若者が裸で柱に縛られて,矢が突き刺さっている姿で描かれるが,着衣の姿で描かれているのはめずらしい.見たところ,若くも美しくもないのがさらにめずらしいが,左側にラテン語の省略表記で「聖セバスティアヌス」と書かれているので,彼に違いないだろう.
ローマの教会で,モザイクとフレスコ画をたくさん見ることができた.そのほかに,板絵,カンヴァス画も印象に残るものがあったが,その中でもカラヴァッジョの素晴らしい作品が教会で見られるのには本当に驚いた.その話は「明日に続く」としたい. |
フィリピーノ・リッピ 「聖母被昇天」と「受胎告知」 サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ教会 |
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