フィレンツェだより
2007年10月10日



 




サン・ヴィターレ教会
中央祭壇のモザイク
キリストと天使たち,聖ヴィターレ,初代司教エクレシオ



§ラヴェンナの旅(その1)


 全大地よ,結婚の春の
  装いを凝らして,
  主人の新床を祝え.
 川の流れとともに,森中が,
  深い海も歌うが良い.

 リグリアの野よ,喜べ,
  ウェネティアの山々もだ.
  アルプスの山の頂は
 バラの蕾の衣をまとって,
  氷の原は紅に染まれ.

 アテシス川は歌で響き渡り,
  曲がりくねるミンキウス川は
  風にそよぐ葦で軽やかに音をたて,
 パドゥス川は,琥珀の涙が滴る
  榛の木に共鳴して,流れよ.

 市民は祝宴に満ち足りて,
  ティベリス川に歓声が上がり,
  黄金のローマは主人の神聖な
 誓願に歓喜して,七つの丘を
  花冠で飾るが良い.



 399年,西ローマ帝国の初代皇帝ホノリウスは,父テオドシウスを補佐して帝国の支柱となったゲルマン人の将軍スティリコの娘マリアを皇后に迎えた.宮廷詩人クラウディウス・クラウディアヌスはその婚礼を祝って祝婚歌を書いたが,上の詩はそれに付随する祝い歌の一節である.

 父テオドシウスの思惑に拠り,ローマ帝国は分割され,ホノリウスは,兄アルカディウスとともに帝国の広大な領土を二分したとはいえ,かつて世界を支配したローマ皇帝の祝婚の歌に出てくる地名が,ローマ以北に偏っているのは奇異な感じを受ける.アテシス(アーディジェ),ミンキウス(ミンチョ),パドゥス(ポー)川と,ローマを流れるティベリス(テーヴェレ)川以外は,すべて現代風に言えば北イタリア,当時はアルプスのこちら側のガリアの川だ.

時代が緊迫していた.ゲルマン人の侵入により,イタリア北部が危機に陥っていたのだ.


 テオドシウスが皇帝になったのは,軍事能力の高さを評価されてのことだった.4世紀後半アッティラに率いられたフン族がヨーロッパにやって来て,侵略を受けたゲルマン人がローマ領内に入って来た.378年に皇帝ウァレンスがアドリアノポリスで敗死し,翌年テオドシウスは引退していたスペインから呼び戻されて皇帝に推戴される.様々な経過の後,テオドシウスは当時帝国の首都だったコンスタンティノポリスの主となり,東西ローマ最後の統一皇帝となった.

 395年に彼が死んだとき,ローマは東西に分裂し,2度と統一されることがなかった.そして彼の子どもたちのうち,兄のアルカディウスが東ローマ,弟のホノリウスが西ローマ皇帝となった.



 ホノリウスの後見人は,妻の父であり,テオドシウスの姪で養女となったセレナと結婚したヴァンダル族出身の英雄スティリコで,彼は当時ゲルマン人の中でも最大の勢力を誇った西ゴート族の梟雄アラリックの侵略を阻止していた.

 ホノリウスがミラノにあった宮廷をラヴェンナに移したのは402年のことで,この年,スティリコはポッレンティアの戦いでアラリックを撃破していた.こうした緊迫した状況の中,ラヴェンナは西ローマ帝国の首都となっていたのである.

 しかし406年にスティリコはホノリウスに暗殺され,その結果アラリックのローマ劫略を招くことになる.

 476年に西ローマが滅亡した後,イタリア王を称したゲルマン人オドアケル,その後イタリアに東ゴート王国を築いたテオドリックもラヴェンナを首都とした.493年のことだ.テオドリックの霊廟は,今もラヴェンナに残っている.

 540年には,東ゴート王国を滅ぼしてローマ帝国再統一を目指した東ローマ皇帝ユスティニアヌスがラヴェンナをイタリア支配の拠点とする.751年にゲルマン人ランゴバルド族に占領され,その栄光の時代が終わるまで,300年以上の間,ラヴェンナはその支配者を変えながらもイタリアの中心であり続けた.

写真:
テオドリックの霊廟


 ラヴェンナの名を知ったのは,中学校の図書館にあった阿部知二訳の新潮社世界詩人全集の『バイロン詩集』だった.注解でイタリアの古都と説明されても,どの時代にどのように栄えたのか全くわからなかったが,ラヴェンナの名前は以後,私の中では,1824年に死んだイギリス・ロマン派の詩人とともにあった.

 今回泊まることになった宿の名が「チェントラーレ・バイロン」であったのは偶然だが,何かの縁であろう.1321年にダンテが終焉を向かえ,その墓があるのもラヴェンナだが,ダンテの時代,バイロンの時代にラヴェンナがどのような歴史を辿っていたかはまだ勉強していない.

ともかくラヴェンナに一度来たかったのは,ここに西ローマの宮廷があったのであれば,宮廷詩人とも言うべき存在だったクラウディウス・クラウディアヌスがここにいたかも知れないと思ったからだ.


 しかし残念ながら,この詩人がラヴェンナにいたという証拠は,少なくとも私は見つけていない.

 エジプトのアレクサンドリアで生まれたと推測され,母語はギリシア語で,ラテン語は習得言語であった彼が,どうしてラテン詩人として大成したのかは分らないが,ローマで活躍し,彼を讃える碑がナポリに建てられていたことは間違いない.

 果たしてクラウディアヌスがラヴェンナにいたかどうかはわからないが,時代背景を知るためにもラヴェンナを一度訪れてみたいと思った.


サン・ヴィターレ教会
 9月26,27日,念願かなってラヴェンナを訪れた.ここで出会えたもので一番インパクトがあったのは,今までイタリア滞在中に出会ったもの同様,キリスト教芸術だった.

 多くの観光客同様,まず行ったのがサン・ヴィターレ教会だった.殉教者でラヴェンナの守護聖人とされるサン・ヴィターレに関しては,ローマの兵士だったらしいこと以外に情報はないが,この聖人も登場する一連のモザイクは聞きしに勝る見事なものだった.

写真:
サン・ヴィターレ教会


 今はこんなに魅せられているフレスコ画だが,実際に見るまでは素晴らしいと思ったことは一度もない.それを考えれば当然のことかもしれないが,モザイクがすぐれた芸術と言われても,人がそう言うならそうだろうという以上の感想を持ったことはなかった.

 小さな新しいモザイクなら,フィレンツェでもガッド・ガッディやギルランダイオ兄弟の作品を見ているが,ガッディ一族の家祖の名前や稀代の天才芸術家ギルランダイオの名前にひかれていたに過ぎない.

 サン・ヴィターレ教会のモザイクは違った.作者の名前もわからないし,絵柄を見る限り,大芸術と言われてもピンと来るものがまだないが,それでも下から見上げたときの素晴らしさは圧巻である.

 アブラハムやノアなど旧約聖書の人物たち,4人の福音史家や12使徒といった,後の時代のキリスト教芸術でもお決まりの人物たちの他に,サン・ヴィターレという地元の守護聖人やマクシミアヌスという地元の聖職者が登場する.

 さらには東ローマ皇帝ユスティニアヌスと皇后テオドラが登場する絵柄は,これがビザンティン美術の影響というものか,という思いを抱かせる.


写真:
モザイク
東ローマ皇帝ユスティニアヌスと
従臣たち
写真:
モザイク
皇后テオドラと侍女たち


 ジョットが13世紀末から14世紀の人だから,古いものは6世紀というラヴェンナのモザイクはフィレンツェで見るフレスコ画よりも圧倒的に古い.

 ゲルマン人たちが信仰していたキリストの神性を否定するアリウス派キリスト教ではなく,三位一体を基本理念とするアタナシウス派のキリスト教であることには変わりはないが,それでもコンスタンティノポリスのギリシア正教とローマ・カトリックの違いはあるであろうに,ラヴェンナの中で,アリウス派,正教,カトリックの力関係がどのように変遷していったのかは私にはわからない.

 そうした宗教上の教義の問題はしばらく置くとしても,このサン・ヴィターレ教会の後陣中央祭壇のモザイクは陽を浴びて黄金に輝き,それに緑と青,くすんだ赤が映える素晴らしい光景を見せてくれる.


ガラ・プラキディアの霊廟
 サン・ヴィターレ教会と合わせて拝観できるのが,ガラ・プラキディア(ガッラ・プラチーディア)の霊廟である.ガラ・プラキディアはテオドシウスの娘で,最初はゲルマン人アタウルフと結婚し,後にはローマ貴族と再婚した.再婚相手が西ローマ皇帝コンスタンティウス3世となり,二人の間に生まれた子が皇帝ウアレンティニアヌス3世となる.

 彼女の遺体はローマのテオドシウス霊廟に合葬されたというのが史実らしく,霊廟といっても実際には彼女の墓ではないし,プラキディアの柩と通称される石棺も,コンスタンティウス3世とウァレンティニアヌス3世の柩とされる石棺もあるが,実際の遺体はここにはない.

 しかし,この霊廟は素晴らしい芸術に溢れている.やはりモザイクである.

 正面入口の裏側の上部リュネットの「よき羊飼いの図」(『地球の歩き方』の用語に従う)という牧者キリストと6頭の羊のモザイクが有名だろう.実際には暗くて見えにくいのだが,ガイドブックの写真を前もって見ていることもあり,それなりの感動は得られた.髭のないキリストが若々しい.この霊廟のモザイクはローマの伝統を引き継ぐもので,東方の影響はないそうである.

 その反対側,「プラキディアの柩」の真上のリュネットにある「聖ラウレンティウス」は比較的よく見える.十字架と聖書を持った若きラウレンティウスが火にかけられた鉄格子に近づいていく.その左側には扉があいた戸棚があり,その中に4福音書が収められている.

 その他のリュネット画や天井画も興味深かった.黄金の小さな天使たち,福音史家の4つの印(天使,ライオン,牛,鷲),使徒たち,有名な「水盤から水を飲む白い鳩たち」,噴水の前にたたずむ鳩たち,などが印象に残る.2頭の鹿は「詩篇」の中の「鹿が泉の水を慕う如く,わが魂はあなたを恋い慕う,神よ」と言う私の好きな一節を想起させる.

 インディゴ・ブルーの背景に同心円模様を散りばめた装飾は特に印象的で,妻がこの模様のスカーフを買ったくらいだ.

写真:
ガラ・プラキディアの霊廟
内壁がすべてモザイク


 この後,ドゥオーモ,ネオニアーノ洗礼堂,大司教博物館,サンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会に行ったが,これらについては,翌日行ったもう一つのサンタポリナーレ教会であるサンタポリナーレ・イン・クラッセ教会とアリアーニ礼拝堂の報告とともに,「明日に続く」ということにしたい.

 初日の最後に行ったテオドリック王の霊廟は上で写真を紹介している.「この世の栄光は空しい」(シーク・トラーンシト・グローリア・ムンディー)の感を深くした.



三川先生
 同僚の三川基好(きよし)先生ご逝去の報があった.年齢的に幾つも違うわけではないので,同世代の教員は皆「三川さん」と言っていた.私が「先生」と言うのは,若い非常勤講師だった三川先生の授業に私が出席していたからだ.妻も一緒だった.

 私たちにとっては年が近くても恩師にあたる人だった.だから私は「先生」と呼んでいたが,実際には頼りになる年上の友人という接し方をして下さっていた.シャイだが自分の考えがはっきりしていて,言うべきことは言うが気配りの細やかな都会人だった.

 先生が休職なさると聞いて,友人に連れられてお見舞いに行った.帰ったらメールが来ていた.「今日は見舞いに来てくれてありがとう.イタリアに行って楽しんでおいで」

 三川先生と私はそんなに親しい間柄だったとは言えないかも知れない.長く同僚だった人たちに比べれば,新参者の私が,先生に接する機会は少なかったと言えるだろう.しかしお互いに憎まれ口をききあいながら,会えば楽しい時間を過ごすことができた.

 売れっ子の翻訳家でありながら,古英語などの授業を誠実にこなし,事務能力が高く,人望があり,スマートなかっこいい人だった.50台半ば,さぞ無念だったろう.今は冥福を祈るしかない.三川先生,本当にありがとうございました.





ガラ・プラキディアの霊廟のモザイク
「よき羊飼いの図」