フィレンツェだより
2007年10月11日



 




サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会



§ラヴェンナの旅(その2)

ラヴェンナは,西ローマ帝国の「首都」となって脚光を浴びたが,紀元前2世紀には,既にローマの植民都市が建設されている.さらに昔には,ウンブリー族とエトルリア人が町を造っていたらしい.


 ガフィオの羅仏辞典で「ラウェンナ」を引くと,初出はキケロの『書簡集』とある.形容詞形は同じ作者の『バルブス弁護』に出てくると知って目を見張った.私が訳した作品だからだ.情けないことに全く覚えていない.いずれにせよ共和制時代には,既にローマの勢力下にあったということだ.

 初代皇帝アウグストゥスは,このアドリア海沿いの湿地帯を干拓し,本格的な軍港を造営した.ポルトゥス・クラッシス(艦隊の港)は,イタリア語ではポルト・ディ・クラッセとなり,町の名前キウィタス・クラッシス(チッタ・ディ・クラッセ)が通称クラッセとなった.

 ラヴェンナから海沿いに南下してリミニに向かう鉄道のひとつ隣の駅がクラッセで,ここに,古いモザイクのある大きな教会サンタポリナーレ・イン・クラッセがある.しかし,多くのツーリストは,ラヴェンナの町からバスでこの教会に向かう.私たちも,ドゥオーモとサン・フランチェスコ教会の間にあるカドゥーティ・ペル・ラ・リベルタ(自由のために倒れた人々)広場からバスに乗った.

 途中,前日拝観したサンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会の前を通った.サンタポリナーレ(聖アポリナーレ/聖アポリナリス)は,ラヴェンナの守護聖人だが,守護聖人はもう一人いる.聖ヴィターレ(聖ウィタリス)がそうで,市の中心部ポポロ広場にはこの2人の像が高い円柱の上に立っている.

 聖ヴィターレに関してはキリスト教迫害で殉教したローマ兵士という以外にはわからないようだが,聖アポリナーレはシリアの大都市アンティオキア出身で,1世紀末か2世紀初めにこの地に来て司教となり,死後クラッセに葬られた.そこに6世紀に建てられたのがサンタポリナーレ・イン・クラッセ教会(バジリカと通称されているので「聖堂」と書いても良いが,「教会」で通すことにする)である.


サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会
 広々とした堂内に入ってまず目を引かれるのは,後陣の中央祭壇奥の4分の1球形内側の形の天井(英語ではコンク)の大きなモザイクだ.中央に描かれているのは聖アポリナーレで,彼の上には大きな黄金の十字架があり,その中心にはキリストの顔がある.

写真:
後陣天井のモザイク


 十字架の真下にはサルス・ムンディー(世界の救済)というラテン語が書かれており,聖アポリナーレの上にもサンクトゥス・アポリナリス(聖アポリナーレ)とラテン語が書いてある.

 古代末期のイタリアだから当たり前だと思う人もいるだろうし,事情を熟知している専門家にとっても何の不思議もないことかも知れないが,ラヴェンナのモザイクのかなりの部分が,東ローマ帝国支配下の時代にビザンティン美術の影響を受けているという先入観があると,どうして文字はギリシア文字でないのかと不思議に思う.皇帝と皇后の肖像があったサン・ヴィターレでもローマ字でラテン語が書かれていた.

これは私にとっては一つの学習項目となった.


 ただ肉眼では見えなかったが,ガイドブック(Basilica di S. Apollinare in Classe: Guida Artistica Illustrata, Milano: Kina Italia, n.d.)の写真で確認すると,コンクの最上部で雲から神の手が出ており,その下の十字架の上にギリシア文字でΙΧΘΥΣ(イクテュス)とある.「Σ」はラテン文字の「C」のように見えるが,古代ではよくあることだ.これは「魚」だ.「イエス・キリスト・神の・子・救世主」(イエースース・クリストス・テウー・ヒュイオス・ソーテール)の頭文字を繋ぎ合わせると「魚」になるという例のアナグラムである.

 アナグラムは用語不適切だが,他の語を今思いつかない.詩の行頭の文字の組み合わせならアクロスティックだが,これも一種のアクロスティックと言うべきだろうか.ラテン語でイエスス・クリストゥス・デイー・フィーリウス・サルウァートルの語頭の文字を組み合わせても「魚」(ピスキス)にはならないので,ギリシア語でなければならないだろう.

 また,こちらは肉眼でも確認できたが,十字架の両脇にΑとΩとある.前者はラテン文字と同じだが,後者を見ればギリシア文字で,聖書の中のイエスの言葉「私はアルファであるオメガである」を意味していることがはっきりわかる.



 サンタポリナーレ・イン・クラッセ教会はガイドブックなどで見る限り,古いモザイクが中央祭壇の奥だけにある巨大な「がらんどう」のようで,最初はあまり魅力を感じなかった.行く手間を考えると,場合によっては割愛しても良いかとさえ思ったが,行って良かった.

ここが見られるかどうかで,自分の人生観が随分違ってしまうのではないかと思えるほど,素晴らしい空間だった.


 『地球の歩き方』には昼休み情報はなかったので,11時過ぎに拝観を始めたが,12時になったら係員の女性が,「昼休みなので閉めるけれど,1時半になったら同じ拝観券で入って良い」とのたまわった.特に宗教儀式が日常的に行われている様子もないので,教会だからというよりは,管理している公務員の皆さんの労働条件の都合であろう.ここはイタリアだから何の不思議もない.

 私たちも時間的に余裕があったので,周りに何もないというのは言いすぎにしても,見渡す限りの平原の中にある教会の周囲でのんびりと昼休みを過ごし,また同じ拝観券であの素晴らしい空間に入れるのなら,それも良いと思えた.愛嬌のある係員の皆さんにも好感が持てた.

 この教会が魅力的だと思うのは私たちだけではないらしく,少し先に小さな集落はあるが,周囲に人家も稀なこの地区にホテルもリストランテもバールも複数あった.お客で賑わっている店を選んでお昼の定食とエスプレッソでのんびりとした時間を過ごした.

 この店はお手洗いもきれいでよかったし,何よりも従業員の皆さんが活き活きと働いているのが良かった.美術館の係員の中には,おしゃべりに余念がなく,あまり仕事をしているとは思えない人が少なくないが,現場で活躍しているイタリア人はみな働き者だ.そしてしっかり休憩は取る.これは素晴らしいことだと思う.



 ともかく1時半にはまた教会に入れた.午前中は明るかったが,昼ごろから雷鳴があり,小降りだが雨も降ったので,堂内は薄暗くなっていた.明るい空間で牧歌的に見えたモザイクが,今度は僅かな光に荘厳に輝いて見えた.同じモザイク,堂内を違う光線で見る体験ができて良かった.

 十字架と聖アポリナーレのモザイクをもう一度じっくり鑑賞した.聖人の下の12頭の羊は12使徒を表すのだろうか.

写真;
モザイクの羊たち



 十字架下方の両脇にいる計3頭の羊は何を意味するのだろうか,三位一体だろうかなどと,勝手なことを考えながら見ていたが,これもガイドブック(Ravenna: City of Art, Ravenna: Edizioni Salvaroli, n.d., p.16)に左側の1頭はペテロ,右側の2頭はヤコブとヨハネと意味すると書いてあった.タボル山でのキリスト変容の際に居合わせた3人の使徒を意味するとのことだった.

 十字架の上方両脇にいるのは,モーゼとイザヤだそうだが,これもラテン文字で明記されている.

 コンクの外側前面上方にある切妻壁の中央には,円の中のキリストが大きく目を見開いて祝福を与えている絵が描かれ,その両脇には福音史家を意味する天使(マタイ),ライオン(マルコ),牛(ルカ),鷲(ヨハネ)がそれぞれ羽の生えた姿で描かれている.その下にも左右の城門から丘に登る12頭の羊が描かれ,羊は12使徒,城門はエルサレムとベツレヘムを意味するとのことである.

 前面部分の両脇には中段に樹木,下段に天使(ミカエルとガブリエル)の姿が見える.これらは6世紀の作品で,天使の下に描かれたマタイとルカは12世紀の作品とのことなので,12世紀にこの教会が生きた宗教施設であった証拠となるだろう.

 後陣奥の5つの窓の間の4人の人物の絵はアポリナーレの後継者であるラヴェンナの司教たちで,エクレシオ,セヴェロ,オルソ,ウルシチーノとされ,エクレシオはサン・ヴィターレ教会の,オルソはドゥオーモの創建に関わった聖職者である.

 左右の壁面は,「神に羊を捧げるアベル,パンとワインを捧げるメルキゼデク,息子イサクを犠牲に捧げようとするアブラハム」,「ラヴェンナの教会に特権を与える皇帝コンスタンティヌス3世」が描かれている.これらが,似たような主題(神への捧げ物,ローマ皇帝)を扱っているサン・ヴィターレのモザイクに比べて,決して熟練性が高いとはいえない作品であることは,モザイクをほとんど初めて見るに等しい私たちの目にも明らかだった.それでも,このサンタポリナーレ・イン・クラッセの特別な空間には,これ以上ないほどふさわしい品格を持っているように思われた.



 ラヴェンナに特徴的な芸術作品の一つである石棺がこの教会にも幾つかあり,古代の床モザイクの展示などが見られるのも興味深かった.

 左身廊の奥に古代の床モザイクがあり,その上に大理石の天蓋がかけられた礼拝堂がある.「聖エレウカディオの礼拝堂」というそうだ.この聖人も私たちには新知識だが,やはりラヴェンナの司教だったとのことだ.この天蓋は9世紀のもので,本来はクラッセにあったサンテレウカディオ教会のものだったが,11世紀にこの教会が破壊を蒙り,ここに移されたとのことである.この礼拝堂に祀ってある聖母子像は,15世紀のものなので新しい.

 左壁面には浮彫彫刻の「受胎告知」があった.制作年代は不明だそうだが,可愛い「受胎告知」に思わずホッとして笑みがこぼれる.

写真:
「受胎告知」の浮彫彫刻



サンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会
 前日には,もう一つのサンタポリナーレ教会,サンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会に行った.ラヴェンナ市内にあるこの教会のモザイクは,大規模で,華麗で,その荘厳さに思わず息を呑むものだった.

 後陣にはモザイクはないが,身廊を3つに分かつ列柱の上の壁面にモザイクがある.左は天使に囲まれた玉座の聖母子への三王礼拝,右は天使に囲まれた栄光の王キリストが一番奥に配置されていて,それに向かって,左は女性の聖人(24人の乙女たち),右は男性の聖人(26人)が並んでいる.もっともファサードに近い壁面には,左側がクラッセの港,右側にテオドリックの宮殿が描かれている.




三王礼拝




玉座の聖母子



 さらにこれらの上段に,一連のキリストの生涯が描かれており,左側は奥の方から「カナの婚礼」から,「ベトサイダでの不随者の治癒」に至るまでの13場面,右側は奥の方から「最後の晩餐」から「トマスの不信」に至るまでのキリストの受難と復活の物語の13場面から成っている.このうち「最後の晩餐」は9月28日に写真を紹介している.

 上段の26場面の間には,絵が描かれた貝の上に黄金の十字架があり,その両側に鳩がいる装飾画が挿まれている.また上段と下段の間に窓があるが,その窓の間には左右両側で36人の人物が描かれており,特定はできないが,預言者や聖人であろうと思われる.

 ともかく規模の壮大さに驚く.モザイクの下に円の中に描かれた後世の聖人たちの肖像にフレスコ画があるのは,この教会が中世以降から現代までも生きた宗教施設であった証だろう.これについても何かの情報を得たいが,今のところ何もない.

 モザイクの男性の聖人たちのうち,キリストに一番近いところにいて,他の人物と違い茶色か紫に見える濃い色の衣をまとっているのが,聖マルティヌスとされる.この図柄は,教会が,5世紀末もしくは6世紀初めにテオドリックの命によりアリウス派の教会として創建され,その後東ローマに占領された時から9世紀半ばまでトリックの教会サン・マルティーノ(聖マルティヌス)教会であったことを反映しているだろう.

写真:
右端に聖マルティヌス


 9世紀半ばに海賊の略奪を逃れるために,クラッセのサンタポリナーレ教会から聖遺物が移されたことが,サンタポリナーレ・ヌオーヴォ教会の名のもととなったとのことである.テオドリックの宮殿が描かれているのも,この教会とモザイクの古い由来を示している.

 建物内にモザイクの工房があり,制作しているところが見られる.作品の販売もしているので,興味があれば立ち寄るのもおもしろいかも知れない.


ネオニアーノ洗礼堂とドゥオーモ
 サンタポリナーレ教会に行く前に,ドォーモを訪ねたが,まだ昼休み中だったので,先に同じ敷地内にあるネオニアーノ洗礼堂を拝観した.ここにも見事なモザイクがあったし,ラヴェンナ最古のモニュメントとのことなので,必見の場所であろう.モザイクは5世紀半ばの司教ネオーネの時代に遡り,この洗礼堂の通称もこの司教に由来する.

 次に,近くの大司教博物館を見学した.この博物館では幾つかの断片モザイクを見ることができ,そのうち「祈りの聖母マリア」は傑作だと思った.

 ただ残念だったのは,「見られるのはこの部屋だけか」と聞いて,「ここだけだ」と言われたことだ.というの,どのガイドブックにも乗っているサンタンドレーア(聖アンデレ)礼拝堂(オラトリオ)が同じ建物にあるはずなのに,そのモザイクが見られなかった.これはラヴェンナでの最大の痛恨事である.



 昼休みが終わってからドゥオーモも拝観させてもらった.創建は5世紀の司教オルソの時代だが,現在の聖堂の形になったのは18世紀と新しい.しかし,鐘楼はラヴェンナの他の教会と同じ特徴を持った円筒形で,10世紀のものだそうだ.

 これだけ大きな教会を建てる力があった町が,古代の栄光の後は「見捨てられ,経済的に逼迫していた」とは思えない.ダンテが亡命していた時代,ヴェネツィア共和国に支配された時代,教皇領になった時代,イタリア統一を迎えた時代のラヴェンナの歴史をもう少し詳しく知りたい.

 初日にはダンテの霊廟と墓,ダンテの葬儀が行われ,墓所を提供しているサン・フランチェスコ教会も訪ねた.教会は特にめぼしい芸術作品もない簡素なものだが,4世紀まで遡る石棺を蔵し,外観は古風だし,鐘楼が四角いのも特徴的だ.


アリアーニ洗礼堂のキリスト
 ラヴェンナで最後に訪れたのはアリアーニ洗礼堂だ.もともとはアリウス派の教会の洗礼堂だったそうで,この洗礼堂を「アリアーニ(アリウス派)の」と言うのに対し,ネオニアーノ洗礼堂を「オルトドッシ(正教徒)の」)と称するらしい.この場合の「正教」と言うのは,東方正教だけではなくローマ・カトリックを含むアタナシウス派キリスト教を指すのかも知れない.

 起源は5世紀に遡るこの洗礼堂にも,天井に「キリストの洗礼と12使徒」のモザイクがある.図柄はネオニアーノ洗礼堂のものと似ているが,ネオニアーノのキリストが大人であるのに対し,アリアーニのキリストは少年で可愛い.

写真:
モザイク「キリストの洗礼」
アリアーニ洗礼堂



市立美術館
 他にも見たいところもあり,もしかしたらそこでは古代末期の西ローマの遺物に出会えたかもしれないが,アリアーニ洗礼堂の前に行ったアカデミア美術館という名の市立美術館で時間をとられてしまった.

 展示は中世末期からルネサンス初期の宗教画から始まった.ロレンツォ・モナコなどビッグネームもあったが,おおむねボローニャ,フェッラーラなど同じエミリア・ロマーニャ州の画家の作品が多く,地味な印象だった.ヴェローナで見たヴェネツィアの画家モンターニャの「洗礼者ヨハネ」があったのは,ヴェネツィア共和国領だった名残だろうか.

 ルーカ・ロンギは16世紀の画家だが,これこそ究極のラヴェンナ地元の画家だろう.圧倒的に作品数が多く,多分息子と思われるフランチェスコや娘のバルバラの作品もあった.息子のフランチェスコの「キリスト磔刑と聖人たち」の「聖人たち」は聖ヴィターレと聖アポリナーレで,まさにラヴェンナのキリスト教を主題にした絵であろう.

 他にはフランチェスコ・ザガネッリ,バルダッサーレ・カッラーリ,ニッコロ・ロンデネッリなどが地元の画家であろうと思われた.ロンデネッリは15世紀後半から活躍しているので時代も早く,“「聖母子」の絵に描かれたマグダラのマリアが良かった”とメモには書いてあるが,絵柄は思い出せない.

 フィレンツェでも見られる画家としてはヴァザーリの作品もあったが,ヤーコポ・リゴッツィの「四人の聖人の殉教」が力ある絵のように思われ,ローカルにはローカルの味があるが,必ずしもビッグネームでなくてもローカルを越える力量の画家はいるものだと思わされた.

 有名な絵のコピーも展示してあり,作品数は多かったし,グエルチーノの「聖ロムアルド」はこの美術館の最大の呼び物だろう.

 しかし,そこからが大変なものだった.近現代の風景画や肖像画の点数は半端なものではなく,これを全て鑑賞したら,時間がいくらあっても足りない.涙を呑んで美術館を後にし,アリアーニ洗礼堂に向かい,拝観後,チェックアウト後も荷物を預かってくれたホテル「チェントラーレ・バイロン」に寄って,ラヴェンナを後にした.

 チェントラーレ・バイロンは日本語のウェブ・サイトでも好評のホテルのようだし,日本のガイドブックにもラヴェンナのくわしい紹介があるのに,イタリアでめずらしくないわが同胞には全く出会わなかった.気のせいかも知れないが,町の人たちの眼にも私たちアジア人はめずらしい存在に映るように思えた.日本の皆さんにラヴェンナのモザイクはお勧めである.是非,訪ねるべきところだと思う.



 行きはボローニャまでユーロスターで行って,ローカル線に乗り換えたが,帰りは1日に朝と夕方の2本しかない,別のローカル線を経由するフィレンツェ行きの各駅停車に乗った.

 中継駅のファエンツァに寄って,エミリア・ロマーニャからトスカーナの山間の鉄路を行く,味わい深い旅だった.ジョットの板絵が残っている教会のあるボルゴ・サン・ロレンツォの駅で,このあたりがメディチ家の故郷かも知れないムジェッロの谷だろうかと,ふと思ったが,もう暗くて何も見えなかった.





ダンテ霊廟にて