フィレンツェだより |
サンタ・キアーラ聖堂 (向田千能さん撮影) |
§アッシジの旅(その5) −フレスコ画 「聖フランチェスコの生涯」 −
幸いなことに, Ferruccio Canali, The Bisilca of San Francesc in Assisi, Firenze: Bonechi, n.d. Givanni Mariucci, Hew Evans, tr., Assisi: Whrere to Find, Firenze: Scala, 2004 という2冊の強い味方をアッシジのドゥオーモ博物館のブックショップで購入することができたので,これで勉強して,イタリアで見られるジョットの主要作品,ヴァチカン美術館の祭壇画とパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画を見る際の予備知識を得,合わせて「聖フランチェスコの生涯」そのものをより深く理解したい. 制作年代 今のところ,上記の著作から得た知識で説得力があると感じられるのは,「聖フランチェスコの生涯」の第7,第8,第9場面の上のリュネットの下段,7つの絵からなる全体のまとまりとしては中段部分にあたる2つの絵「ヤコブを祝福するイサク」,「イサクの前のエサウ」の作者とされる「イサクの親方」が,若いジョットではないかと言うものである. 写真禁止だったので,本に掲載されている小さな写真と,かすかな記憶をたよりに考えるしかないが,ここに描かれた凛々しく毅然とした人物造形は「聖フランチェスコの生涯」を手がける前の若いジョットによるものだと思いたい. カナーリは,「聖フランチェスコの生涯」の第1場面が1305年以前に描かれたとする理由として,左側の塔が未完成に描かれていることをあげ,これは定説のようだが,この塔の完成が1305年なので,この絵は1305年以後のものではあり得ないとしている.マリウッチは「フランチェスコの生涯」の制作年代を13世紀の終わりとしているので,そうなると1300年以前の作品ということになるだろう.彼はイサクの2つの場面をジョットの作品として,13世紀の最終四半世紀(1275年以後)のものとしている. Gian Carlo Vigorelli, Giotto, Milano: RCS Libri, 2004 はジョットの作品を年代順に紹介しているが,ここでもイサクの2つの物語をジョットの作品として掲載しており,1291年から1295年までの間に描かれたとして紹介している.これらの年代は確定したものではない大雑把な分類で,ヴィゴレッリの分け方は大体のところ次のようだ.
ここに出ていないサン・フランチェスコ聖堂下部教会のフレスコ画群に関しては,総説で,1305/1306年-1311年のものとしており,マリウッチも14世紀初頭としているので,下部教会のフレスコ画は上部教会よりも後に手がけられたことになる. ヴィゴレッリの年表では1367年頃を生年としているので,であれば,上部教会の「聖フランチェスコの生涯」を描いたころのジョットは,大体28歳から32歳頃で,チマブーエはまだ存命中,下部教会のフレスコ画群の頃は約38歳から44歳頃で,チマブーエ他界後の第1人者であったことになる. イサクの2つの絵は24歳から28歳くらいまでの作品なので確かに若い頃の作品ということになるが,驚くのは,あのサンタ・マリーア・ノヴェッラ教会の神々しい「キリスト磔刑像」もほぼ同じくらいの時期の作品になることだ.天才の20台はすでに修業時代ではなかったのだ. 時代が移り変わっても 連作フレスコ画「聖フランチェスコの生涯」には,物語としては超人的英雄のようであって,世俗を超越しているかのように思われるフランチェスコが,やはり歴史の中に生きた一人の人間であることが,きちんと描きこまれているように思える. たとえば第10場面「アレッツォの悪魔祓い」では,今は新しい別の建物が建てられているアレッツォのドゥオーモが古い姿で描かれていることもさることながら,聖職者としての職階を持たず,教会組織のヒエラルキーにおいて最下層にいる平信徒に過ぎないフランチェスコの立場や,「悪魔祓い」という儀式,「皇帝党」と「教皇党」の対立する時代背景などを読みとることができる. 第11場面「スルタンの前での火の試練」は,アル・カーミルというキリスト教世界でも評価されたエジプトのスルタンが登場し,十字軍やイスラムとの関係に対するフランチェスコの考え方など,たとえ超能力を発揮する場面であっても,そこに彼の生きた時代を読み取れることができるように思える.フランチェスコが教皇の認可を受けようとするのには,大虐殺を伴う南仏のアルビジョワ十字軍の記憶が生々しい時代背景もある.
![]() 1966年のアルノ川の大洪水ではサンタ・クローチェ教会にある,ジョットの師匠チマブーエの大傑作「キリスト磔刑像」が激しい破損を蒙った.これは永久に失われたわけではないが,被害の前後の様子を比べられるだけに,被害後の姿はいっそう痛々しく見える.
今この時にジョットを見ることのできる幸せ,チマブーエを見ることのできる幸せをサン・フランチェスコ聖堂は与えてくれる.この教会を見ると色々なことを考えさせられるが,少なくともその幸せに関してはこの教会とそれを支えている組織に深い感謝の念を捧げたい. −アッシジの丘で出会ったもの −
![]() この教会の聖ゲオルギウス(サン・ジョルジョ)礼拝堂にある「ダミアーノの十字架」は注目だろう.この磔刑像のようにキリストが苦しんでいない場合を「勝利のキリスト」(クリストゥス・トリウンパンス)と言い,キリストが苦しんでいたり,すでに死後の場合は「受難のキリスト」(クリストゥス・パティエンス)と言うそうだ.チマブーエの磔刑像,ジョットの磔刑像,アカデミア美術館にあるベルナルド・ダッディの磔刑像,アカデミア美術館,ホーン美術館,サン・ジョヴァンニーノ・デーイ・カヴァリエーリ教会で見たロレンツォ・モナコ作と伝えられる磔刑像などは全て後者である.板絵だけでなく,木彫やテラコッタ,ブロンズ,大理石のものもそうだ. これまで古拙な感じのする「ダミアーノの十字架」のような前者のタイプは見る機会が少なかったか,見ても注意を払うほど心ひかれるものがなかったのいずれかである.「ダミアーノの十字架」を見て感涙にむせぶには,私にはフランチェスコやキアラへの思い入れが少なすぎるが,すくなくとも「磔刑像」の様々なあり方を考えさせてくれるこの十字架に出会えてよかったと思う. ![]() ![]()
サン・ダミアーノ教会 「サン・ダミアーノの十字架」があったサン・ダミアーノ(聖ダミアヌス)教会と修道院は,フランチェスコが神の声を聞き,キアラが女子修道会を創設して,そこに起居し,その生涯を終えた聖人たち所縁の地である.ここにもフレスコ画をはじめ興味深いものがたくさん見られ,キアラ他界の場所も公開されているが,教会と修道院の内部は撮影禁止なので,それらは紹介できない. しかし,キオストロ(回廊)は開空間なので撮影できたから,エウゼビオ・ダ・ペルージャのフレスコ画「受胎告知」と「聖痕を受ける聖フランチェスコ」,それにキオストロに迷い出て,私たちと遊んでくれた仔猫の写真を撮らせてもらった.
![]() ドゥオーモ 再び丘の上に登って,ドゥオーモ(サン・ルフィーノ教会)を拝観した.聖ルフィヌス(サン・ルフィーノ)はアッシジの守護聖人で,フランチェスコもキアラもこの教会で洗礼を受けた. アッシジについて学ぶにあたり, Paolo Stanislao Maialerri, tr., Agnese Hutchinson, Assisi: Franciscan Itinerary, Assisi: Edizioni Porziuncola, 2006 を参照している.この本は薄いのに大変有益な情報に満ちているが,「フランチェスコの旅」から少し外れるせいかドゥオーモには冷たい. しかし,幸いなことに,ローマ時代の遺構など大変興味深いものが見られた付属の博物館のブックショップで英訳版のガイドブックを入手できた.ただし,博物館に展示してあった中世以降の芸術作品については紹介がなく,写真も撮れなかったので,今は良い作品やおもしろい作品を見ることができたとしか言いようがなくて残念だ.
何せ限られた時間,予備知識,体力の中で行動しているので,見られなかったものはたくさんある.ロッカ(岩)と通称される,アッシジの丘の頂に聳える封建領主の城,フランチェスコが修道に励んだカルチェーリの庵の跡にある修道院,幾つかの教会などがそうだ. しかし,ドゥオーモ,サン・フランチェスコ聖堂,サンタ・キアーラ聖堂,サン・ダミアーノ教会,麓のサンタ・マリーア・デーリ・アンジェリ教会という大所の他に3つの教会を訪ねた. 現在のドゥオーモの前に司教座教会であったサンタ・マリーア・マッジョーレ教会,ユニークなファサードと質実剛健の古武士のような風格を持つサン・ピエトロ教会,フランチェスコが息子を思うあまりの父親に幽閉された場所の跡に建てられたヌオーヴァ教会である. サンタ・マリーア・マッジョーレ教会 サンタ・マリーア・マッジョーレ教会には修復されたフレスコ画の他に,壁面に残っている剥落の進んだフレスコ画が多く見られ,この教会の古い由緒を思わせる. 現代の造形ではあるがキリストが馬小屋で生まれ,まぐさ桶の中に入っていて,聖母とヨセフがそれを礼拝し,そこに牧人たちが訪ねてくる様子を模型にした大きなプレゼピオが見られた.通常12月24日から1月6日頃まで飾られるものだが,フランチェスコにまつわる挿話の一つ「グレッチョのプレゼピオ」にちなんでずっと置いてあるのだろう. フランチェスコは1223年のクリスマスに,ベツレヘムの馬小屋のシーンを生きた人間と動物で再現しようとした.このエピソード「グレッチョのプレゼピオ」はジョットの「聖フランチェスコの生涯」の第13場面にも描かれている.
サン・ピエトロ教会 サン・ピエトロ教会は,フランチェスコに友好的で,修道の場としてフランチェスコにポルツィウンコラを明け渡したベネディクト会が,それよりもずっと以前の10世紀から11世紀に創建した教会で,13世紀には現在の姿の原形ができていたとのことだ.四角いファサードと3つのバラ窓,扉の前の2頭ライオンの像が特徴的だ. この教会にはマッテーオ・ダ・グァルドのトリプティク(三翼祭壇画)があるとされるが見た記憶がない.暗い堂内の壁面の高いところに,ジョット派の作品とされる「受胎告知」や「聖母子」のフレスコ画がかすかに残っているのが印象深い.
ヌオーヴァ教会 これらに比べるとヌオーヴァ教会はヌォーヴァ(新しい)という名前がついているくらいで,1616年の創建とイタリアでは相当に新しい教会だ.この年にはイギリスではシェイクスピアが死に,スチュワート王朝のもと時代は清教徒革命に向かって動いていた.日本では大坂夏の陣で豊臣氏が滅びたのが1615年なので,世界が「近代」に向かう激動の時代だったことになる. ローマなどでよく見られるバロック様式の丸屋根が特徴的だ.この教会が建っているところにフランチェスコの父ピエトロ・ディ・ベルナルディーネの家があったとされる.教会の前にはフランチェスコの両親ピエトロとピカの像がある.
![]() 聖人が幽閉された「牢獄」などを見て帰ろうとしたら,現れた老修道士が「どこから来た.イタリア語は理解できるか」と話しかけてくれた.「少し」と答えると,横の扉を出て小路を降りたところに,フランチェスコ所縁の祠堂があることを教えて下さった. そこにはサン・ダミアーノの十字架のコピーがあったので,もしかしたらこれがフランチェスコとイエスの類似化を意図した伝説の1つである「天使のお告げによってピカが馬小屋で出産した」という馬小屋の跡かも知れないと思ったが,それはまだ確認していない.老修道士は「父親が商売をしていた店の跡」だとおっしゃっていた. 祠堂から教会にもどり,老修道士にお礼を申し上げてから,礼拝堂に喜捨をして辞去した.この教会の堂内は写真撮影を禁じていなかったが遠慮した. ![]() 詩人たち 古代のアッシジはウンブリアに蟠居していたウンブリー族とエトルリア人によって現在の文化の基層が作られ,ローマの植民都市アシシウムとなった歴史を持っている.コムーネ広場のミネルヴァ神殿やその周辺にあったローマ時代の中央広場(フォルム/フォーロ),ドゥオーモ博物館で見た古代城壁の跡や古代教会の遺構,今回は見ていないがローマ劇場の跡もある. ![]() 期せずして,自分の専門とも関係の深い詩人の故郷とされているらしいことを知り,帰宅後ガフィオの羅仏辞典で,アシシウム(アシーシウム)を引いてみたら,「ウンブリアの都市」という説明があり,プロペルティウスの『詩集』が出典として挙げてあった. ただしアスタリスクがついていたので,テクストに何らかの問題があるかも知れないと思い,こちらで買った羅伊対訳注解付きのテクストにあたってみると,この箇所をアシシウムとするのは一部の学者の校訂によるものであり,この古代都市が詩人の故郷かどうかは不確かだとある.詩人自らウンブリアの出身と言っており,ウンブリアの人であることは間違いないのだが,アッシジの出身かはどうかは「その可能性もあるかも知れない」くらいのところのようだ. ![]() 本名ピエトロ・トラパッシというこの人物は「オペラの台本作家」などと言われたら不本意であろう.同時代には代表的な詩人として評価されたし,もしかしたら現代もイタリアではそのように思われているかもしれない.1698年に生まれ18世紀に活躍したこの詩人がアッシジの生まれとは全く知らなかったので,これもまた偶然の出会いということになる. 10月4日 ウェルギリウスのことを報告した日はたまたま詩人の命日だったが,フランチェスコに関しても中断なくアッシジの最終回を書き終えていれば,彼の命日10月4日がそれにあたっていたはずだ.やはりキリスト教の聖人とは縁が薄いらしい. その10月4日にはアッシジのサン・フランチェスコ聖堂で大きなイベントが行われ,テレビで中継されていた.カトリックの国の人々にとっては今でも大事な聖人なのだ. この日にちなんで,イタリアのテレビチャンネル,ライ・ウーノは,テレビ映画「キアラとフランチェスコ」を先週,今週の月曜日2回にわたって放映した.お金をかけ,好感度の高い俳優を使い,事前の宣伝も大がかりなもので,その後半だけを見たが,美しい映像を見ながら,この聖人の事跡とされる伝説を再確認することができた. 超自然的な要素はなるべく排除していたが,聖痕のシーンはしっかり映されていた.グレッチョのプレゼピオのシーンでは,フランチェスコがキリストの誕生を再現しようとする映像は特に違和感がなかったが,フランチェスコの不在中病んでいたキアラが,クリスマスの夜に回復し,サン・ダミアーノの十字架から「幼児」(バンビーノ)となって現れたキリストを胸に抱いて恍惚としている前で,妹のアニェーゼや他の修道女たち,看病に来ていたキアラの母が手を合わせ,十字架を切って,涙を流しながら礼拝する場面を見たときは,カトリックの文化がものすごく遠くにあるものに思えた. 愛する故郷の山 宗教抜きの近代的な意味の「登山」をした最初の人はペトラルカだそうなので,同じフランチェスコでもアッシジの聖人よりだいぶ後の時代のことだが,聖フランチェスコにとってアッシジのスバジオ山は心の支えだったかも知れない. アッシジの教会建築や道路に見られる淡いピンク色の石を産するこの山は,地元の人たちにとっては今も大切なものであり続けていると思われる.京都では比叡山が,盛岡では岩手山が,陸前高田では氷上山がそうであるように.
アッシジにもう一度行きたいかと聞かれたら,ジョットとチマブーエのフレスコ画を見たい,まだ拝観していない教会を訪ねたい,サン・フランチェスコ聖堂の宝物館でマゾリーノの「聖母子」に会いたい,市立美術館で地元の画家の絵について知りたい,フランチェスコとカトリックの文化について考えたい,スバジオ山などウンブリアの美しい自然を眺めていたい,以上の理由で「行きたい」と答えるだろう. |
フレスコ画「受胎告知」 サン・ピエトロ教会 |
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