フィレンツェだより |
アレッサンドロ・アッローリ作 フレスコ画「最後の晩餐」 |
§ブランカッチ礼拝堂
現役の教会であるサンタ・マリーア・デル・カルミネは,午前中と夕方のお祈りの時間に扉が開く.おかげで私たちも聖堂の方はもう何度か拝観させてもらったが,ブランカッチ礼拝堂のみは拝観に予約が必要で,未見だった. 絵画史に革新をもたらして夭折したマザッチョの数少ない作品があり,しかもそれも大がかりなフレスコ画なので,保存,管理の点からそうしているのだと思われる.予約料はかからないが,拝観料は払わなければならない.状況によっては予約なしでも入れることもあるようだが,実際にブランカッチが拝観可能な時間帯に行ってみた感じでは,予約していったほうが間違いないだろうと思う. フィレンツェで見られる教会,美術館でまだ見ていないものは少なくないが,大所で残っているのはサント・スピリト教会とブランカッチ礼拝堂だけになっていたと言っても良いだろう.妻の友人の向田さんをお迎えしたのを機に,私たちも一緒に拝観しようと思い立ち,思い切って前日に電話してみた. ウフィッツィやアカデミア,ローマのボルゲーゼ美術館など,より知名度の高い所だと,前日予約は難しいことが多いであろうし,ブランカッチでも,前日では無理な場合もあるかも知れないが,運よく予約できた.
![]() 拝観は15分間だが,その前に45分弱で見られる紹介DVDを鑑賞するので,合計で1時間かかる.DVDを鑑賞するかどうかは予め選択する.鑑賞する場合は,1時間ごとの区切りの良い時間帯の予約となるが,ブランカッチだけを見る場合は,1つのグループがDVDを鑑賞している45分間に,見ないグループが3つ入場できるので,もう少し時間には融通が効くと思う.
上映会場となる修道院の旧食堂にアレッサンドロ・アッローリの「最後の晩餐」があり,上映前のわずかな時間にそれが見られるという情報を得ていたのだ. 少し早めに行ったことが功を奏したのか,前の上映が終わって,次の上映が始まるまでの10分くらいの思ったよりも長い時間,このフレスコ画を鑑賞することができた. アッローリの「最後の晩餐」 アッローリの「最後の晩餐」は,サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会の旧修道院食堂で油彩カンヴァス画の作品をすでに見ている.「最後の晩餐」以外の彼のフレスコ画作品は,師匠のブロンズィーノが祭壇画を描いたサンタ・マリーア・ノヴェッラの礼拝堂と旧食堂で見ている.それでも,まだ見ぬ彼のフレスコ画の「最後の晩餐」には,それなりに期待していた. ウェブページにも比較的良質の写真がでているので,絵柄は前もって知っていたが,実際に見ると,やはり大きな絵で,思ったよりも迫力があったし,もともと描かれた場所にあるので,臨場感も満足のいくものだった.写真もOKだったので,何枚か写真を撮り,食堂の中に飾ってあった無名の作家たちの剥離フレスコ画もついでに鑑賞させてもらった. 絵柄はサン・サルヴィの旧修道院食堂で見たアンドレア・デル・サルトの「最後の晩餐」とよく似ている.若いヨハネはキリストにもたれかかっておらず,顔を上げて,「裏切り者は誰ですか」と問い質している. サン・マルコ修道院旧食堂のギルランダイオの「最後の晩餐」には猫が1匹描かれていてるのが印象に残るが,アッローリのフレスコ画の「最後の晩餐」には猫が2匹描かれていた.何か寓意があるのであろうか.
キリストの上部にはラテン語で「この者が私を裏切るだろう」と書いてある(上の写真).「ヨハネ伝」のラテン語訳ではヨハネに問い質されたキリストは「私が浸したパンを渡すものがそうだ」とあって,「この者が」とは書いていないので,聖書の引用ではなく,画家もしくはその周辺の人のアイディアだろう.
![]() デル・サルト,レオナルド,アッローリのフレスコ画とカンヴァス画が後者に分類されると思うが,その他は多くの場合前者に属するように思われる. 果たしてそこにヒントがあるかどうかわからないが,ヨハネが「それは誰ですか」と問う際に,キリストにもたれかかっていたのが,「同時」か「以前」かということを以前考えた. ギリシア語原文では「もたれかかる」はアオリスト分詞で,これは「同時」も「以前」も意味することができる. ラテン語訳では接続詞に導かれる従属文で,動詞の形(接続法・過去完了)から「以前」を表すと思われる. 明らかにもたれかかっていた際の描写は,ギリシア語原文もラテン語訳も現在分詞と英語のbe動詞にあたる動詞の未完了過去が用いられていて,「もたれかかっていた」と読めるので,それを考えるとラテン語訳者(ヒエロニュモス)が「以前」に訳したのは了解できる. ただ,現在分詞は動詞の過去形と一緒に使われているのに対し,問題の箇所のアオリスト分詞は主語の説明的同格で分詞だけで使われているので,どうしてもこのアオリスト分詞を「以前」と考えなければいけないわけではないだろう. 他の箇所で,ヒエロニュモスがどのように訳したか見てみると,たとえば同じ「ヨハネ伝」の「我に触れるな」の場面で,マグダラのマリアがイエスを見た後,彼女は「(イエスの)弟子たちのもとへと行って,告げた」とあるが,これは「行った」が動詞で「告げた」が分詞になっていて,ギリシア語はアオリスト分詞,ラテン語は現在分詞になっている. 文脈上,「告げた」は「行った」に対して,絶対に「以前」ではありえないこの箇所を,ヒエロニュモスは現在分詞を用いて訳していることから,「最後の晩餐」の場面を訳した際には,アオリスト分詞を「以前」と考えて訳したのではないかと思われる.
「最後の晩餐」を描いた画家の多くは,修道院や教会の注文で描いたカトリックの人たちなので,参考にしたのはラテン語訳聖書であり,だとすると,ヨハネがキリストに裏切り者は誰かと問い質す際には,彼はキリストの胸から顔を起こしていると考えられたはずだが,実際にはそうした絵柄が少ないように思われる. しかし,それも「最後の晩餐」のどの瞬間をとらえて描いているかで違うはずだから,まだヨハネが問い質していない段階を描いていると考えれば,「以前」か「同時」かなどこだわって考えなくても良いのかも知れない. 9月に見た,そのほかの「最後の晩餐」 ヴェローナで少なくとも4つ「最後の晩餐」を見た.ドゥオーモの礼拝堂にあった新しいカンヴァス画,サン・ゼーノ・マッジョーレ教会の左側廊の壁面にあった作者不明の古いフレスコ画,同教会の正面扉の裏側のブロンズ・パネルの浮彫,カステルヴェッキオ美術館で見た作品だ. 1つ目はもたれかかっていたヨハネが頭を起こし始めた場面に見える.2つ目と3つ目はキリストにもたれかかっている.4つ目は食卓に突っ伏している.
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6世紀の作品であれば,今までに見た「最後の晩餐」の中で,圧倒的に最古のものになる.腰掛けるのではなく横たわるタイプの古代型の宴席で,オトラントのサン・ピエトロ教会のフレスコ画と同じく,キリストの象徴である魚が食卓に置かれている. マザッチョとマゾリーノ ブランカッチ礼拝堂のフレスコ画は,さすがに見事なものだった.フレスコ画の歴史の全体像は,まだ私にはつかめていないが,ある専門家が言うように,本当の意味でのフレスコ画の歴史がジョットからミケランジェロまでであるなら,ジョットの次世代に多くの偉大な画家が輩出したにも関わらず,ジョットの死後約100年後に27歳で夭折したマザッチョが絵画史に革新をもたらし,ルネサンスという時代を開いたとされるのはまことに偉大なことに思える. ただ,これまでマザッチョについては,ホーン美術館の小さな作品は言うに及ばず,サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会の「三位一体」,ウフィツィ所蔵の「聖母子」と並べて見る機会のあったマザッチョ宗教美術館の「聖母子と聖人たち」を見ても,その偉大さはなかなか理解できず,作品数の少ない,顔の描き方に特徴のあるビッグネームの芸術家,という以上の印象はなかった. 今回,有名な「楽園追放」や「貢の銭」の部分だけでなく,マザッチョが描いたとされる部分をマゾリーノやフィリピーノ・リッピが制作した部分と比べながら見ることによって,顔や遠近法だけではないマザッチョの特徴がおぼろげながら見えてくるように思えた. たとえマザッチョが描いたのはその一部であるとしても,一つの礼拝堂の壁面を埋める大きな作品を見て,初めてその画家に対して何らかの感想を持てると言えるかも知れない.
![]() マゾリーノに関してはマザッチョの師匠と言われたり,郷里が近い年上の友人とされたり,関係がはっきりしないが,年下のマザッチョの影響をむしろ受けたともされるので,師匠とはもちろん言えないだろうが,マザッチョの才能を見抜き,その技法を自分も取り入れたのだとすれば,やはり,すぐれた画家の一人として評価されるべき人だろう. 彼の作品は今まで,ウフィッツィ美術館で通称「聖アンナ・メッテルツァ」と呼ばれる,やはりマザッチョとの共作とされる祭壇画「聖母子と聖アンナと天使たち」を見ただけだ.この絵の中の4人いる天使の一人と聖母子をマザッチョが描いたとされるので,マゾリーノが描いたのはマリアの母聖アンナと3人の天使たちということになる. この作品を見る限りでは,マザッチョの聖母子の方が印象に残り,この絵が描かれたとされる1424年の段階で,当時23歳のマザッチョが共同制作においてもイニシアチブをとっていたのだろうかと思わせる.マゾリーノはマザッチョよりも18歳上で,やはり師匠とされても不思議はない年齢の関係なので,少し不思議な感じがする. マゾリーノがブランカッチ礼拝堂の仕事に取り組むのが1426年,1427年にマザッチョはサンタ・マリーア・ノヴェッラ教会の「三位一体」も描くが,1428年,ブランカッチの仕事を中断してローマに向かい,同年もしくは29年に死ぬ. マゾリーノは1440年以後まで生き,幾つかの仕事が残っているようなので見てみたいが,マザッチョとの関係以外で言及されないのは,一般にそれほど評価が高くないからなのだろうか.ウフィッツィには彼の「謙譲の聖母」があるそうだが,見た記憶が無い.今度行った時には見られるものなら是非見たい. ![]()
背景の違いがあるとは言え,マザッチョが描いた不幸と後悔のどん底にあって,以後の人生の苦難が予想されるアダムとイヴとは違い,これからエデンの園を追放されることになるとも知らず,蛇に誘惑されようとしている無垢な男女が美しく描かれている. マザッチョの「新たな改宗者たちに洗礼を施すペテロ」は,洗礼を受けている若者の肉体が美しく,傑作の名に値するものだと思うが,その対応する位置関係にあるマゾリーノの「ペテロの説教」の場面は,説教するペテロもそれを聴いている人々も凛々しく描かれていて,ペテロだけ比べるならば,私にはマゾリーノに軍配が上がるように思える. マザッチョの最高傑作とされている「貢の銭」(と言われているので,この名称を使う)と対応する,マゾリーノの「脚の不自由な者を癒すペテロ」」と「タビタを蘇生させるペテロ」の2場面を描いた絵はとりわけ素晴らしく,真ん中にいる2人の貴公子の姿が特に人目を引くが,どちらの場面にも描かれているペテロの峻厳な表情も立派に思える. 一度見ただけで,この礼拝堂のフレスコ画が絵画史に革新をもたらした偉大な存在であることを了解するには私には知らないことが多すぎるが,マザッチョが偉大な画家であること,マゾリーノもまた素晴らしい芸術家であること,ブランカッチ礼拝堂の作品が全体として大傑作であることはよくわかった.せっかくフィレンツェに一定期間滞在し,拝観にもそれほど高いハードルのないこの礼拝堂をあと何度か訪れてみたいと思った.
![]() 私たちの時は,ドイツ人の高校生の団体が引率されて来ていて,少し多めの人数だったが,それでも十分満足の行く鑑賞ができた.むしろ折角熱心に解説している引率の長身禿頭の男性が静かにするように注意されて,気の毒に思えるくらいの心の余裕があった.ブランカッチ礼拝堂のフレスコ画は必見だと思う. ![]()
の英語版を入手した.これによって,今まで何度か訪れて,なかなかの作品だと思いながら,誰が描いたのかの情報も十分には得られなかったサンタ・マリーア・デル・カルミネ教会の本堂の作品について多少の知識を得ることできる. 1771年の1月の火事で本堂が焼け,ブランカッチ礼拝堂のフレスコ画も被害を受けた.地味な外観からは想像もつかないくらい立派なブックショップがあったのは,それだけ拝観者が多いということだろう.驚いたことにブランカッチ礼拝堂の中は写真撮影可だ.実り多い拝観だった. |
マザッチョの自画像がこちらを見つめる 左からマゾリーノ,マザッチョ, アルベルティ,ブルネレスキ |
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