フィレンツェだより |
カステルヴェッキオから見た アーディジェ川 |
§マントヴァとヴェローナの芸術作品
1328年から1707年までマントヴァに君臨したゴンザーガ家は,「侯爵」(マルケーゼ)であった時代の方が良く知られているが,1530年にフェデリコ2世が神聖ローマ皇帝カール5世から「公爵」の称号をもらっている.「侯爵」に叙されたのは,1433年だそうなので,封建貴族ではないゴンザーガ家が支配した時代が約100年,侯爵領の時代が約100年,公国であったのは約170年ということになる. 最後の公爵が廃位された後,マントヴァはオーストリアの直接支配下に入り,短い期間ナポレオンに征服された後,再びオーストリアに統治され,リソルジメントを迎える.
マントヴァのルネサンス 1116年,神聖ローマ皇帝ハインリッヒ5世によって自治都市として認められ,ボナコルシ家とゴンザーガ家などの有力な一族が台頭し,一時は前者が優勢であったが,最終的に後者が勝利してマントヴァの君主となった.
フェデリコ1世を経て,1484年の侯位についたフランチェスコ2世は,フェッラーラ公爵エステ家出身のイザベッラ・デステを妃に迎え,この侯爵と侯妃の宮廷が,イタリア・ルネサンスの一大中心地となる.「豪華王」(イル・マニフィコ)の異名を取るフィレンツェのロレンツォ・デ・メディチが亡くなったのが,コロンブスのアメリカ大陸「発見」と同じ1492年だから,時代的には重なる. フランチェスコ2世の子フェデリコ2世が「公爵」に叙せられることになるので,15世紀後半から16世紀前半までがマントヴァのルネサンスの最盛期と考えて良いだろう. フェデリコ2世の治世下に,ジュリオ・ロマーノことジュリオ・ピッピが活躍してマニエリスム芸術が栄え,4代目公爵ヴィンチェンツォの時代に,後にバロック音楽の巨匠となるクラウディオ・モンテヴェルディが宮廷楽師長として仕えた. ヴィンチェンツォの死が1612年で,17世紀以後のマントヴァは衰退期に入り,直系は1627年に絶え,傍系の君主によって公国は継承されるが,列強の政争の具となる.政治,経済の繁栄と芸術の隆盛は連動しているが,さらに大きな時代の流れによって翻弄される小国の姿を見ることができるだろう.中央集権的な統一国家が19世紀後半までできなかったイタリア各地がたどった歴史を,やはりマントヴァも経験したことになる. パラッツォ・ドゥカーレ それだけ栄えたマントヴァに,フィレンツェで見られる大芸術家の作品に匹敵するものがどれだけ見られるだろうか.確かにジュリオ・ロマーノは立派な芸術家(ヴァザーリ『画人伝』に伝がたてられている)で,マントヴァのマニエリスムを支えたかも知れないが,ローカルな印象は免れない. パラッツォ・ドゥカーレでどれだけの傑作に出会えただろうか.
を参照しながら思い出しても,ゴンザーガ家のコレクションだった古代彫刻(ホメロス,エウリピデス,キケロ,カエサル,ローマ皇帝たちが印象に残る)とギリシア神話などの浮彫彫刻を施したローマ時代の石棺が傑作に思えたくらいで,ルーベンスの作品が1点あり,剥落がだいぶ進んだピザネッロのフレスコ画が興味深かった他は,特に印象に残る作品がない. 公開していないところもあったが,広い空間を曲がらなくなった右足を引きずりながら階段を昇り降りして,相当丁寧に鑑賞したつもりだが,幾つかの例外を除いて,これといった傑作に巡り会えなかった.フィレンツェの教会や美術館に比べると,やはりローカルな印象はぬぐえない.『地球の歩き方』にあると書いてあったティントレットやグレコの作品にも出会えなかった. それでも,ティントレットの作品は後でヴェローナのカステルヴェッキオでいくつか見ることができた.下の「授乳の聖母」が私の好きな作品だ.
ただ,タペストリーはなかなか良かった.その中で,特に抜きん出ていたわけではないが,キリストが鍬をかついでいるだけでなく,粗末な帽子を被り,一層農民のような姿の「我に触れるな」の図柄が印象に残る. それに比べると,外観こそ古びているものの,このパラッツォは,邸宅よりもやはり「宮殿」と言うのにふさわしい豪華さで,さすがに400年近く続いた君主国の宮廷があった場所だと思われた.ここは宮殿と教会と城が組み合わされた複合的な空間だが,サンタ・バルバラ教会は閉まっていて,ファサードしか見ていない.
反対に「城」(カステッロ)の外観はほとんど注意を払わなかったが,そこの「結婚の間」にあるマンテーニャのフレスコ画は,マントヴァで見たほとんど唯一のルネサンスの傑作芸術に思えた. 「結婚の間」 マンテーニャについては特に予備知識があったわけではない.多くの参考書でイタリア・ルネサンスを代表する大芸術家とされるこの画家の作品を,一度見てみたいと思った程度でしかなかった.しかし,入場に多少苦労はしたものの,このフレスコ画を見ることができたのは幸せだった. 「結婚の間」(「新婚夫婦の間」と訳すのが近いのかも知れないが,『地球の歩き方』に従う)は,北面と西面,それに天井にマンテーニャの絵があるだけの部屋だ.1465年から1474年までかかって完成させたものだ. 北面の絵は「宮廷」(ラ・コルテ)と称されていて,左側にマントヴァ侯ルドヴィーコ2世が座っていて,ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァ重篤を知らせる,公妃ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティの手紙を受け取っている.侯爵の右側には侯妃バルバラだけが座っていて,その他の人物は全員立っている.男性は赤か黒の帽子を被っており,あるいはその色と形で身分がわかるのかも知れない. 侯爵と侯妃の間に次男のジャンフランチェスコ,彼の前にいるのが小さな弟のルドヴィーコ,その前で林檎の持って跪いて母親の膝に寄りかかって横顔を見せているのが幼い妹パオラ,侯妃の真後ろに立っているのが三男のロドルフォ,その右後ろの美しい女性が,侯爵からみると長女になるのか母親と同じ名前のバルバラということらしい.
を参照しているが,わざわざ「美しい」と書かれているだけあって,娘のバルバラは人目をひくであろう. このバルバラの右脇に小さな女性がやはりよく描かれている.後ろの黒い服の女性は「乳母」とされているが,赤い服を着た小さな老女はナーナと説明されているだけだ.「小人のように小さな女性」ということだろうか.侯爵家の中でどういう役割を果たした人なのかはわからないが,ともかく印象に残る.パラッツォ・ドゥカーレの英語版ガイドブックも,「結婚の間」のイタリア語版案内書もともに拡大写真を掲載している. 侯爵の椅子の下には犬が描かれていて,この犬はルビーノという名前で1467年に死んだことまでわかっているらしい. 西面の絵は「出会い」(リンコントロ)と称されていて,ルドヴィーコ2世がミラノ公を訪ねる旅に出た際の1462年の1月1日に,ボッツォロというところで,新教皇ピウス2世によって,ゴンザーガ家初の枢機卿になった息子のフランチェスコと会った場面を描いたものだ.神聖ローマ皇帝フリートリッヒ3世やデンマークのクリスティアン王まで描かれているそうなので,どこまでが史実なのかわからないが,枢機卿の手前の子どもたちの横顔と背景になっている町の様子(理想化されたローマだそうだ)が印象に残る.
ブランカッチ礼拝堂の絵によってフレスコ画に革新をもたらしたというマザッチョの名前が思い浮かんだが,マザッチョは1401年に生まれて1428年に死んだので,1431年頃生まれて1506年に死んだマンテーニャに比べると一時代前の人だ.これでは影響関係も何も,マザッチョの革新はマンテーニャの世代の人にはすでに自明のことであろうから,マザッチョの影響など考えるのも愚かなことかも知れない. ピエロ・デッラ・フランチェスカ(c.1420-1492),ベノッツォ・ゴッツォリ(1420-1497)はどうだろうか.マンテーニャより約10歳年上で,マンテーニャの絵の中に彼らの影響がないとは言えないかもしれない.しかし,ヴァザーリの「マンテーニャ伝」を読む限り,その接点を見出すのは難しい. この時代にフレスコ画を描いたとき,才能のある芸術家が前代までの技法を習得したうえで,独自性を発揮すると彼らのような絵ができ,必然的に似たように思える特徴が現れるのかも知れない. マンテーニャ ヴァザーリに拠れば,マンテーニャはマントヴァの貧しい家系に生まれ(後日の補足:これはヴァザーリの誤解で,実際にはパドヴァ近郊のイゾラ・ディ・カルトゥーロの生まれとされる),その才能を見出したパドヴァの画家ヤコポ・スクァルチョーネ(ヤコポはヴァザーリの誤解でフランチェスコが正しいと英訳者は注解)が弟子にして養子に迎えた.
功成り名遂げた画家は,故郷(ヴァザーリの誤解で実は故郷ではない)のマントヴァに家を建て,死後はサンタンドレーア教会に葬られた.この教会に彼の墓があることは『地球の歩き方』にも書いてあったが,今回は拝観していない. サンタンドレーア教会には伝マンテーニャ作のフレスコ画「キリスト昇天」があり,そのシノピア(下絵)がフランチェスコ・ゴンザーガ美術館にあるという以外に,「故郷」マントヴァにマンテーニャの作品があるかどうかの情報は今回は得られていない. むしろヴェローナで,2つだけだがマンテーニャの作品を見ることができた.サン・ゼーノ・マッジョーレ教会の祭壇画「聖母子と聖人たち」と,スカーラ家の居城だったカステルヴェッキオ(古城)にある美術館の板絵「聖家族と女性の聖人」である. 後者は地味な絵だが,顔に特徴があり印象に残る.真作ではなく「伝マンテーニャ」と言われても納得するが,ヴェローナのガイドブックと美術館のカタログでは真作としていた.前者は傑作の名に恥じない作品で,大変美しく修復されていた(実は修復中で,置かれていたのは精巧なコピーだった). マントヴァでは写真は厳禁だったが,ヴェローナでは教会だけでなく美術館も写真OKで,私たちはしなかったがフラッシュも可だったようだ.「聖家族と女性の聖人」を見た段階では,まだ写真OKであることに気づいていなかったので,撮って来なかった. 「聖母子と聖人たちは」は光の関係でうまく写らない部分もあるが,まずまずの写真が撮れたので,紹介する.信じ難いくらいきれいに修復された作品で,その分かえってありがたみが減ずる気がしないでもないが,見事な作品だと思う.
(後日の補足:インターネット上の情報によれば,この時点で,マンテーニャの祭壇画は修復に出されていて,その場にあったのは,忠実なデジタル・コピーであったようだ.この記事に拠れば,2006年の11月時点が修復前に見られる最後の機会で,その後2年間修復に出されるとのことだったが,別の記事に拠れば,フィレンツェの輝石博物館の工房(オピフィチオ・デッレ・ピエトレ・ドゥーレ)に修復に出されている同作品が再び見られるようになるのは2009年5月21日を待たねばならない,とのことだ.) ピザネッロ マントヴァとヴェローナに共通する画家としてはピザネッロ(アントーニオ・ピザーノ)も偉大な芸術家だろう.マントヴァのパラッツォ・ドゥカーレのその名も「ピザネッロの間」にあった剥落の進んだフレスコ画「馬上槍試合」はたいへん印象に残る絵だった.ヴェローナでは,カステルヴェッキオ美術館に展示されていた「鶉の聖母子」が,小さいが美しい作品だった. サンタナスタージア教会の有名なフレスコ画「聖ゲオルギウスとカッパドキアの王女」は,高いところにあるうえ,この絵を外壁上部に頂く礼拝堂が修復中で見にくかったが,やはり素晴らしい作品だった.
7日に拝観して,多くのフレスコ画を見たサン・フェルモ教会にも,墓碑の上部に「受胎告知」のフレスコ画があり,傑作とされているようだが,見た記憶が無い.修復中か何かで見られなかったか,見落としたのどちらかだろう. モローネ マントヴァのパラッツォ・ドゥカーレでおもしろい絵を見た.「モローネの間」にあったドメニコ・モローネの「ボナコルシ家の追放」である.芸術的価値については判断を控えるが,1328年のゴンザーガ家による政権奪取の歴史的事件が描かれている. 描かれたのが1494年で,描かせたのが当のゴンザーガ家であってみれば,どこまで史実を反映しているかわからないが,ソルデッロ広場での戦闘場面の中にパラッツォ・ドゥカーレやドゥオーモが現在とあまり違わない姿で描かれていて興味深かった. ドメニコ・モローネはヴェローナの画家で,ヴェローナで見た彼とその息子フランチェスコの作品については,ヴェローナで拝観した教会と,それらの教会や美術館で見ることができた作品とともに次回報告することにしたい. |
カステルヴェッキオ(古城)にて ヴェローナ |
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