フィレンツェだより |
ソルデッロ広場 マントヴァ |
§マントヴァ篇(9月6日)
朝9時台の後は,しばらくマントヴァ行きの列車がなくなるので,ブラ広場の城門のすぐ外側にあるバス停からバスに乗り,ヴェローナ・ヌォーヴァ・ポルタ駅に向かったのは8時を少し回った頃だった. ![]() 地名の由来は,古代ギリシアの予言者テイレシアスの娘マントの息子オクヌスによって建設されたからという説と,エトルリア人の神マントゥに拠るという2つの伝説があるようだが,現代的な感覚から言うと多分後者だという気がする.しかし,前者だと考える人が多かったようだ. ダンテが『神曲』でマントヴァの起源伝説を取り上げている(「地獄篇」XX.56-93)そうだが,古代の叙事詩『アエネイス』にも次のように詠われている.
マントヴァは,ラテン語ではマントゥアで,英語はラテン語綴りのまま,多分マンテュアに近い発音になるだろう. この箇所には矛盾もある.後の歴史時代に12のエトルリアの部族連合があったことを踏まえながら,「三つの民族」と言っているのは,エトルリア人の他に,ケルト人とウェネティー族が想定されており,詩人は意図的に,自分が生きていた時代までにマントヴァが辿って来た歴史を反映させている. アエネアスとその敵対者トゥルヌスの戦いに参加するには,マントヴァは北に位置しすぎており(古代の注釈家セルウィウスは「詩人は自分の故郷に贔屓してこう言っていると思われる」と注解を付しているが),そもそもアエネアスはトロイアが滅びてイタリアにやって来たことになっているので,トロイア戦争が紀元前1200年頃の出来事だとすれば,まだこの地方にはケルト人はもちろん,エトルリア人も住んでいなかっただろう. マントの父テイレシアスは,ソポクレスの悲劇『オイディプス王』や『アンティゴネ』の重要な登場人物としても知られるが,叙事詩『オデュッセイア』でも,オデュッセウスが冥界に降ってテイレシアスの預言を聞くことになっているので,トロイア戦争の時にはすでに死んでいた人物だ. 伝説上,オデュッセウス,アエネアス,マントは同時代人と考えても良いが,マントの息子がマントヴァを建設し,母の名前にちなんで町に命名したというのは,やはり一つの「お話」と考えるべきだろう.
「マントヴァの白鳥」 『ローマ皇帝伝』の作者スエトニウスは『詩人伝』を著したことでも知られ,その一部は現在に伝わっているが,カトゥルスの伝記は残っていないし,多くの場合は断片しか伝わっていない. しかし,例外的に「ウェルギリウス伝」はほぼ完全に残っていて,冒頭に「マントゥアの人,プブリウス・ウェルギリウス・マロー」とあって,さらに読み進むと,
と書かれている.厳密に言えば,詩人は地方都市マントヴァではなく,現在はどこかはわからない近郊の村で生まれたのだが,彼はマントヴァを故郷と思い,当時の人たちもそう思っていた. 三頭政治で有名なポンペイウスとクラッススが,最初にこの組み合わせで執政官であったのは紀元前70年のことだから,彼はユリウス・カエサルより30歳年下であったことになる.カトゥルスよりも十数歳若かった. ウェルギリウスはクレモナで少年時代を送り,さらにミラノ(メディオラヌム),ローマで学んだ.様々な経験を経て,詩人として立ち,ローマの「初代皇帝」となるアウグストゥス(オクタウィアヌス・カエサル)の寵遇を受け,『牧歌』,『農耕詩』,叙事詩『アエネイス』によって同時代の人々にも,後世の人々にも大詩人と認識されている. 彼は紀元前19年の9月22日に,ブリンディジ(ブルンディシウム)で亡くなり,ナポリ(ネアポリス)に葬られた. このように見てくると,彼は決してマントヴァにとどまっていたわけではなく,ローマを中心として広くイタリア中に活躍の場を求めたことになるが,紀元前44年にユリウス・カエサルが暗殺された頃にはマントヴァに住んでいたらしい.元老院派とカエサル派の内乱の戦後処理に巻き込まれて,彼は故郷を離れざるを得なくなったと思われる.結果的にはこれが彼の大詩人としての出発点になった. 静かに流れるミンキウス川(ミンチョ川) 上の『アエネイス』の引用にも垣間見られるように,多分彼は「故郷」マントヴァが好きだったであろう.彼の作品に描かれた風景にはギリシアやイタリアの様々な地方が反映されているであろうが,特にマントヴァを中心とする北イタリアの自然は,ずっと詩人の心にあり続け,作品にも活かされているだろうと思う.
マントヴァに着く途中,大きな湖のようなものが車窓から見えたが,それはとてもミンチョ川とは思えなかった.マントヴァ市内で小さな用水路を見て,これがそうなら良いのにと思ったが,ガルダ湖から流れ出て,大河ポー川に合流する川が用水路のはずはない.大きな地図を買って予習しなかった私が悪いのだが,はっきりとそれを認識できる川には出会えなかった. 後で購入したガイドブック, Giorgio Bombi, Hew Evans, tr., Mantua, Milano: Electa, 1992 に拠れば,12世紀に大がかりな治水工事が行われ,マントヴァを囲むように4つの湖(上湖ラーゴ・スペリオーレ,中湖ラーゴ・メッツォ,下湖ラーゴ・インフェリオーレ,パイオーロ湖)ができ,ミンチョ川はこれら一連の湖となって,マントヴァを過ぎた後また1つの川となり,ポー川に注ぐようである.したがって,マントヴァを三方から囲む4つの湖水が,実はミンチョ川であるようだ. ということは,ウェルギリウスの時代のままではないとは言え,ミンチョ川には実は出会っていたことになる.少なくとも鉄道の車窓から上湖,ウェルギリウス広場の向こうの中湖,サン・ジョルジョ城とパラッツォ・ドゥカーレの窓から下湖は垣間見ていた.
もう少しじっくり見て,写真に収めれば良かったとも思うが,また行く機会もあるだろう.
これらの詩句には様々な寓喩が込められていると思われるが,難しい議論を暫く措くとしてもここに詩人の故郷への愛を見出すことは許されるだろう. 17世紀の英詩人ジョン・ミルトンは若い頃の傑作とされる牧歌調哀悼詩『リシダス』の中で,「歌う葦の冠に飾られて,静かに流れるミンシアス川(ミンチョ川)」と詠じている.
![]() 公園になっているこの空間の奥に,20世紀前半に造られた大きな像は立っていた.向かって左側には「英雄詩」,右側には「牧歌詩」を表す大理石の像も建てられており,前者には『アエネイス』からの,後者には『牧歌』と『農耕詩』からの引用がラテン語で刻まれていた.
![]() 駅前のバス停も「駅」ではなく,駅があるドン・レオーニ広場の名を冠していてわかりにくいし,スタンドには次のバス停がどこかの表示も全くないので,初めて行った人間には非常に分りにくかった.しかし,これはマントヴァだけのことではない.イタリアでは多くの場合,次のバス停がどこかは表示も車内放送もないので油断は禁物である. 行きは,駅前から『地球の歩き方』にあった4番のバスに乗ったら,複雑な経路をたどって不安になったが,それでも目的地のソルデッロ広場に着いた. ![]() しかし,このマンテーニャのフレスコ画を見ることが大変だった. 通常「予約が必要」とされるこのフレスコ画を見るために,数日前に電話をしたのだが,「予約の必要が無い」と言われた.私の理解が足りなかったのだが,現在,多分マントヴァ出身の現代彫刻家フォンターナの特別展がサン・ジョルジョ城(カステッロ)で開催されていて,マンテーニャのフレスコ画のある「結婚の間」(カーメラ・デーリ・スポージ)に入るためには,この特別展とのセット券を買う必要があるということだったらしい. これがわかるまで,パラッツォ・ドゥカーレのビリエッテリア,「リゴレットの家」にあるツーリスト・インフォメーション,特別展が行われているサン・ジョルジョ城(カステッロ)を行ったり来たりして,少し時間がかかった. 最終的には城(カステッロ)で無事,特別展,「結婚の間」,パラッツォ・ドゥカーレの美術館のセット券を入手し,すばらしい作品を見ることができたが,これについては,明日ヴェローナの教会,美術館について報告する際に,一緒に感想を述べたい.
![]() 駅前のバス停はさすがに大勢が乗り降りするだろうから様子でわかるだろうと安易に考えていたら,分らずに乗り過ごして終点まで行ってしまうというスリリングな体験をする羽目になった. しかし,ハンサムで親切な運転手さんのおかげで,何とか駅にたどり着くことができ,少し遅れていた電車にすべり込みで乗り込んで無事ヴェローナに戻った.自動券売機はこわれていて,窓口で切符を買ったが,てきぱきと対応してくれた豪快で愛想の良い年輩の女性係員が印象に残る. 目に見えない縁 ヴェローナの宿でテレビをつけたら,オペラ歌手のルチャーノ・パヴァロッティを追悼する特別番組をやっていて,彼が亡くなったことを知った. オペラを聴き始めた時,パヴァロッティが歌うアリア集のCDを買ったことを思い出した.聴きたかったのはヴェルディの「リゴレット」のマントヴァ公爵のアリアだった.LDで見たオペラ映像の中にも映画風に作られた「リゴレット」があり,ここでもマントヴァ公爵はパヴァロッティだった. ツーリスト・インフォメーションがあった「リゴレットの家」で見たのは,当然ながらマントヴァ公爵ではなく道化師リゴレットの像だったが,それでも「リゴレットの家」に立ち寄った日にパヴァロッティの死を知ったのも何かの縁だろうと思う.大歌手の冥福を祈りたい. これも全くの偶然だし,当時と暦も違うわけだが,今日はウェルギリウスの命日だった. |
マントヴァの ドゥオーモ |
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