フィレンツェだより
2007年8月31日



 




寓居に咲く
「夏の名残のバラ」



§フィレンツェの教会(第4回)

教会の名称にバジリカを使うか,キエーザを使うか,その基準とか区別についてはまだ明確ではないが,オンニサンティ教会はバジリカではなく,キエーザという名称のようだ.その点は誤解があったので,訂正しておきたい.


 オンニサンティは,13世紀にウミリアート会の修道士たちによって創建されたが,同会が解散した16世紀に,フランシスコ会系修道会の教会および修道院となった.

 14世紀に栄えたことは,今はウフィッツィにあるジョットの「マエスタ」(通称オンニサンティの聖母)があったことからも想像できる.見たことはないが,聖具室にタッデーオ・ガッディの「イエスの磔刑」とジョット派のキリスト磔刑像が残っているらしい.

 この教会は,後にアメリカの名祖となるアメリゴを輩出したヴェスプッチ家と関係が深く,堂内にあるドメニコ・ギルランダイオの「謙譲の聖母」に,アメリゴとやはり一族(の妻)でジュリアーノ・デ・メディチの愛人であったとされる「美しきシモネッタ」が描き込まれているらしいことは前にも述べた.

 また,フィリペーピ家の墓所にもなっており,この家から出た有名な画家サンドロ・ボッティチェッリもオンニサンティに眠っている.



 ギルランダイオは,ここの修道院の「食堂」に「最後の晩餐」を描いているし,その息子のリドルフォも剥離フレスコ画「聖母戴冠」を残していて,オンニサンティとは縁が深いようだが,ボッティチェッリの作品でこの教会にあるのは剥離フレスコ画「聖アウグスティヌス」だけだ.

 「聖アウグスティヌス」はヴェスプッチ家の依頼によるもので,その家紋が絵の中に描きこまれている.1480年代の作品ということで,1445年頃に生まれ,1510年に死んだ彼の40歳前後の作品ということになる.

 ボッティチェルリの「聖アウグスティヌス」と対になるものとして,反対側の壁に飾られているのが,4歳年下のギルランダイオが描いた「聖ヒエロニュモス」の剥離フレスコである.

 ギリシア語読みならヒエロニュモス,ラテン語読みならヒエロニュムスだが,日本語では慣例でヒエロニムスと呼ばれることが多いかも知れない.イタリア語ではジローラモ,フランス語ではジェローム,英語ではジェロームが一般的だが,ジェロニモもある.

写真:
剥離フレスコ
「聖ヒエロニュモス」
ドメニコ・ギルランダイオ


 ボッティチェッリはアウグスティヌスの絵を比較的多く描いており,この思想家に心酔していたのではないかと想像される.他の画家の作品でもアウグスティヌスの絵は決して少なくないが,教会や美術館を多少見て回った印象では,聖ヒエロニュモスが絵に描かれる頻度の方が圧倒的に多いように思われる.

 ドメニコ・ギルランダイオが「聖フランシスの生涯」を描いたサッセッティ礼拝堂があるサンタ・トリニタ教会には,息子のリドルフォ・デル・ギルランダイオの「聖ヒエロニュモス」がある.ドメニコの作品はフレスコ画で,こちらは板絵だが,そのことを差し引いても,親子の作品でありながら非常に違う印象を受けるのは,画風の違いだけではないだろう.

写真:
「聖ヒエロニュモス」
リドルフォ・デル・ギルランダイオ
サンタ・トリニタ教会


 この聖人は最後の審判で,「汝はキリスト者なるや」と問われて,「然り」と答えると,「汝偽れり,キリスト者にあらず,キケロ主義者なり」(メンティーリス,キケローニアーヌス・エス,ノーン・クリスティーニアーヌス)と言われるという悪夢にうなされたと伝えられるほど,古典に通暁し,尊崇していた.

 アウグスティヌスも,キケロの今は失われた『ホルテンシウス』を読んで学問に目覚めた話は有名だが,ギリシア語は読めなかった.

 それに比してヒエロニュモスは,『新約聖書』をギリシア語原典からラテン語に訳し,『旧約聖書』にはギリシア語である,いわゆる「七十人訳」(セプトゥアーギンター)があったが,ヘブライ語を学び,原典からラテン語に訳した人である.

彼の翻訳が,いわゆるウルガータ(公開されたもの)と通称されるラテン語訳聖書で,カトリック教会公認のテクストとなる.


 アウグスティヌスはそれ以前のラテン語訳を読み,その訳はヒエロニュモスも参照したとのことである.紀元後340年頃に生まれて,420年頃に亡くなったヒエロニュモスは,354年に生まれ430年まで生きたアウグスティヌスのほぼ同時代の先人と言えるだろう.相互の影響関係は私にはわからない.

 ダルマティアのキリスト教徒の家に生まれたらしいので,現在ならクロアチアにあたる地域だろうか.当時の都市アクィレイアの近くとあるので,現在のトリエステ近傍ならばイタリアとスロヴェニアの国境地帯で,いずれにしろ当時は崩壊の足音が忍び寄っているローマ帝国の支配下にあった.

 彼はローマで教育を受けるが,ウェルギリウスの注釈を書き,中世に有名な教科書となるラテン文法を書いたドナトゥスの弟子とあるので,当時のローマで最も正統的な古典教育を受けたのであろう.

 アクイレイアに帰ったヒエロニュモスは,その後東方のアンティオキアに移り,カルキスの荒野で苦行の生活を送る.このときヘブライ語を学んだらしい.他の修行者の妨害などもあり,アンティオキアに戻り,コンスタンティノープルを訪ね,ローマにも住んだ.ここで当時の教皇ダマススと親交を結び,有力者たちの相談相手となったが,苦行を重んじる彼の思想と,歯に衣着せぬ批判をする激しい性格ゆえに,周囲の憎しみを買い,東方に戻り,386年ベツレヘムに居を定め,そこで死んだ.

 ヒエロニュモスという名は明らかにギリシア語であるし,父の名がエウセビオスなので,ギリシア系かも知れないが,ローマやアクイレイアではラテン語を使っていたはずだ.出自はわからない(私が知らないだけかも知れない)が,ギリシア語とラテン語を使い,ヘブライ語を学んだことは間違いないし,その成果が私たちが今も参照することのできるウルガータ聖書である.

 彼を描いた絵のテーマで好まれるのが「苦行」である.ドメニコの絵ではわからないが,リドルフォの絵は明らかにそれを描いている.この絵のヒエロニュモスは貫禄十分だが,かなり憔悴した感じに描かれる場合も少なくない.

 マグダラのマリアはキリストの同時代人だから時代はかなり違うが,一緒に描かれることが多いのは「荒野での苦行」でつながっているからだろうか.

 荒野で苦行している男性(多くの場合,痩せた老人)の絵は,ほぼ間違いなくヒエロニュモスの絵だと思っているが,十字架,骸骨,ライオン,赤い衣とつば広の帽子などが一緒に描かれている場合が多い.リドルフォの絵にはこの殆どがあるが,ドメニコの絵は書斎の学者として描いていて,言われないとわかりにくいが,それでも赤い衣を来て,棚の上につば広の赤い帽子が置かれている.



 オンニサンティ教会は16世紀後半にコジモ1世の肝いりで,フランシスコ会系の教会となった.この教会には修道院があり,そこには中庭つきの回廊(キオストロ)と,ドメニコ・ギルランダイオの「最後の晩餐」がある食堂(チェナコロ)がある.

写真:
回廊のフレスコ画
「聖フランシスの生涯」


 回廊の連作フレスコ画は「聖フランシスの生涯」である.ヤーコポ・リゴッツィ,ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニその他の画家たちによって17世紀に描かれた.フランシスコ会系なので,修道士たちは灰色の衣をまとっている.教会の堂内にも聖フランシスを描いた新しいフレスコ画があり,有名な小鳥に説教する場面も描かれている.

 フィレンツェには,こうした,中庭付き回廊のある修道院,もしくはかつて修道院であったものが相当数存在する.そのうち幾つかは今までも紹介してきたし,今後も紹介する機会があるだろう.

今,私が興味があるのは回廊のフレスコ画と「食堂」の「最後の晩餐」だが,既にかなりのものを見ることができた.


 サンタ・マリーア・ノヴェッラ修道院大回廊,死者たちの回廊は非公開で,外側から隙間を通して垣間見ただけだが,普段は公開されていないサンティッシマ・アヌンツィアータ修道院の大回廊は偶然入ることができた.しかし,そこにあるデル・サルトの「袋の聖母」は確認できていない.

 サンタ・マリーア・デル・カルミネ教会の旧修道院「食堂」にはアッローリのフレスコ画の「最後の晩餐」があり,ブランカッチ礼拝堂を拝観する際にこれも見られることはわかっているが,まだ見ていない.サン・フェリーチェ・イン・ピアッツァ教会に中庭付き回廊があるかどうかは確かめていないが,その旧「食堂」にマッテーオ・ロッセッリ「最後の晩餐」があることは知っており,絵柄もイタリア語版ウィキペディアで見られるが,この写真はぼけていて良くわからない.

 デル・カスターニョの「最後の晩餐」があるサンタポローニア旧修道院「食堂」,デル・サルト「最後の晩餐」があるサン・ミケーレ・イン・サン・サルヴィ修道院の旧「食堂」は美術館になっており,それぞれ「最後の晩餐」以外にも魅力的な作品を鑑賞することができる.曜日,時間に気をつければ,入場無料で写真も撮れる.特にサン・サルヴィは作品数,水準ともに並みの美術館では対抗できないくらいすばらしい.

 フランチャビージョ「最後の晩餐」があるサン・ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・カルツァ教会の旧修道院「食堂」は美術館ではないが,管理事務所を訪ねて時間の都合がつけば「最後の晩餐」は見せてもらえるし,その際に僅かにフレスコ画が残っているキオストロも見ることができる.

 「最後の晩餐」ではないが,デル・サルトとフランチャビージョのフレスコ画「聖ヨハネの物語」があるスカルツォ旧修道院のキオストロは必見である.これも曜日,時間に注意すれば入場無料で写真撮影可である.このキオストロのガイドブックが受付に閲覧用見本として置いてあるが,そこでは販売していない.どこかで買えるなら入手したい.

 フリーニョ旧修道院「食堂」はペルジーノ派「最後の晩餐」を展示する国立の美術館になっている.ペルジーノ,ロレンツォ・ディ・クレーディ,フランチャビージョなどの絵も見ることができるが,ここは写真撮影は不可だ.入場料はないが,小額の喜捨(宗教施設ではないので寄付か)をするのが習慣のようだ.



 この美術館にある「最期の晩餐」は,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートでも背景の「ゲッセマネの祈り」の部分の写真しか載せていないので,今まで紹介できなかった.しかし,思わぬ形で画像を持っているのに気がついた.

 サン・サルヴィの美術館入口に,随分前に終わった「最後の晩餐」展のポスターが貼ってあり,何気なく写真に撮っていたのをすっかり忘れていたが,これがフリーニョ旧修道院「食堂」のペルジーノ派「最後の晩餐」だった.

写真:
ペルジーノ派「最後の晩餐」
「最後の晩餐」展のポスターから


 ポスターだから掲載しても良いだろう.残念ながら全部は写っていないが,イエスとヨハネとユダ,それに背景の「ゲッセマネの祈り」は見ることができる.



 キリスト教についてはもちろん,古典についても勉強が足りないので,「キケロとルネサンス」だけでなく,「キケロとキリスト教」などというテーマも面白そうだと思っても,どこから勉強を始めたら一定の理解が得られるのか途方に暮れてしまう.まずキケロを理解しなければ,これが今私がとらわれている強迫観念である.

 私は一応,キケロの,今考えるとかなり重要な作品である『セスティウス弁護』を訳させてもらった.彼の栄光と失意,自負心と劣等感,当時の政治状況,家族,友人,敵対者,キケロをめぐるあらゆる要素がここには凝縮されている.間違いなく私自身の勉強にはなった.

 キリスト教徒ではないので最後の審判ではないが,閻魔大王に「お前は本当にキケロを訳したのか」と訊ねられ,「然り」と答えると,「嘘をつけ,お前はキケロを訳せるほど,ラテン語もできないし,彼の思想や生涯を理解できなかったはずだ」と言われて,舌を抜かれる悪夢にうなされるに違いない.





向かいの屋根で
鳩の雛も巣立ちの時