フィレンツェだより
2007年7月5日


 




サンティ・アポストリ教会と鐘楼



§サンティ・アポストリ教会

フィレンツェでも指折りの由緒ある教会,サンティ・アポストリ(聖使徒たち)教会に,まだ行っていなかった.


 ヴェッキオ橋に近く,雑踏を通り抜けて行かなくてはならないのに,メイン・ストリートからは少し外れた古い通りにあって,たまたま前を通りかかるといったことはない.そのうえ,現役の教区教会であるため,開くのが午前中と夕方のお祈りの時間に限定される.こういったことが理由で,何とはなしにこの教会拝観を後回しにしていたのだが,今日,ふと行ってみる気になり,お祈りの時間に合わせて,夕方になってから寓居を出た.

 アルノ川の方に向かって歩き,カリマラ通りからポル・サンタ・マリーア通りと進み,もう少しでヴェッキオ橋というところで,右に曲がるとサンティ・アポストリ通り(「通り」はヴィーアではなくボルゴ)である.この通りをまっすぐ進むとサンタ・トリニタ教会の前に出るが,途中で左に曲がったところにリンボ広場がある.ピアッツァを広場と訳すと,随分広いところを連想するが,広い「広場」も狭い「広場」もあり,ここは後者の方で,目指す教会はここにあった.

 ダンテの『神曲』を読んだことがある人は「リンボ」という語に聞き覚えがあるだろう.電子辞書の『リーダーズ英和辞典』でlimboを引くと,カトリックの用語という略語の次に,「リンボ,地獄の辺土《地獄と天国との間にあり,キリスト教に接する機会のなかった善人または洗礼を受けなかった小児などの霊魂がとどまる所》」と説明している.『神曲』では,ホメロスをはじめとするギリシア・ローマの詩人,哲学者たちの霊魂はここにいる.スコラ哲学の完成に影響したイスラムの思想家も同様だ.

 ここの広場を「リンボ」というのは洗礼を受ける前に死んだ嬰児たちの墓があったことによるらしい.



 教会のファサードに残る碑文や,14世紀に書かれた有名なジョヴァンニ・ヴィッラーニの年代記では,創建はカール大帝(シャルルマーニュ)の時代805年(カールの「ローマ皇帝」戴冠が800年)に遡るとのことだが,古文書でも1075年にはすでにあったということが確認できるらしい.

 具体的な年代を挙げて,「古い」と言われると,確かに日本の奈良,京都のお寺は随分古いと思う.法隆寺などはヨーロッパの歴史と照らし合わせても中世というよりは古代末期だ.

 古ければ良いというものではないが,この教会には法隆寺よりも古いものがある.堂内は円柱の列によって身廊(英語でネイヴnave)の両脇に2つの側廊(英語ではアイルaisle)がある構造になっているが,この柱列の最前列の2つの柱頭は,もともとはローマ時代の浴場にあったものらしい.

写真:
サンティ・アポストリ教会


 中央祭壇のキリスト磔刑像になっている木製十字架は,16世紀後半のものなので,それほど古いものではない.しかし,その前にある祭壇画のポリプティクは,オルカーニャ(アンドレーア・ディ・チョーネ)の弟ヤーコポ・ディ・チョーネとニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニの共作で1382年の「玉座の聖母子と聖人たち」である.

 4人の聖人は,左からラウレンティウス,洗礼者ヨハネ,フランシス,ステパノと分る.殉教者の印である棕櫚と本を持った美少年は大抵ラウレンティウスかステパノで,前者は火炙りになった鉄格子が側にあり,後者は石打ちに使われた石を頭に乗せていることが多い.洗礼者ヨハネは毛衣を着,杖を持って,聖母子を指差し(「見よ,神の子羊」),フランシスには「聖痕」(スティグマ)がある.

 聖母子の左右には,さらに4人の人物が2列に描かれているが,後列は向かって左に大天使ガブリエル,右に聖母がいるので「受胎告知」の形になっており,前列は左が聖キアラ(フランシスの女弟子),右が棕櫚を持っている殉教者アレクサンドリアの聖カテリーナである.イエスはラファエロの「鶸の聖母子」のように右手に小鳥をとまらせており,左手に持っている紙には「私は真理への道である」というラテン語が書いてある.

 絵の細部は暗くてよく見えなかったが,50チェンティの絵葉書と5ユーロのイタリア語版ガイドブックを購入したので,それらによってこうした細かい情報を得た.英語版のパンフレットも50チェンティの喜捨で入手できた.いずれにせよ,ここでサンタ・クローチェにおいても学習項目の一つであったニッコロ・ジェリーニに出会うことができた.

 この教会で最も見るべきものとされているのが,中央祭壇向かって左側のタベルナコロにある,アンドレーアとジョヴァンニのデッラ・ロッビア親子による彩釉テラコッタである.これは大きなすばらしい作品で,天使が美しかったが,暗いので写真はうまく写らなかった.

写真:
彩釉テラコッタ
ロッビア親子


 この教会はアルノ川に近く,しばしば水害に見舞われ,火事にも遭ったようで,古い時代そのままというわけではない.鐘楼も随分古いものに見えるが,実際には16世紀に再建されたものらしい.下の写真でも分るように,絵も比較的新しい作品が多い.一番左はヴァザーリの「無原罪の御宿り」で1540年頃描かれたもののようだ.

写真:
サンティ・アポストリ教会


 剥落が進んだものだが,フレスコ画もあった.パオーロ・スキアーヴォの「聖母子」である.赤色顔料による下絵(シノピア)も飾られていた.

 この教会は,60チェンティの喜捨すると,短い時間だが堂内に明かりがつく仕組みになっていた.昨日行ったピストイアのサンタンドレーア教会でもこの方式が採用されており,50チェンティを投ずることで,ジョヴァンニ・ピザーノの大傑作をしっかり鑑賞することができたので,今回も喜捨するのに何のためらいもなかったが,明かりが消えてから,なんと自分がサングラスをずっとつけたままだったことに気づいた.ちょっと残念だった.


サン・ジョヴァンニーノ・デーイ・スコローピ教会
 帰る途中,オルサンミケーレ教会に寄るつもりだったが,開いていなかったので,メディチ・リッカルディ宮殿の手前のサン・ジョヴァンニーノ・デーイ・スコローピ教会に寄って,アンマンナーティの墓のある礼拝堂に掲げられたアレッサンドロ・アッローリの絵を鑑賞した.

 アンマンナーティ派の作家がつくった墓碑がサンティ・アポストリにあって,手のかかったものだったが,アンマンナーティ自身の墓は,それこそラテン語の墓碑銘のみのプレートがあるだけだ.

 この教会での新たな発見は,説教壇である.右下の写真の左端の礼拝堂にアッローリの絵があるのだが,その右隣にある彫像の右の礼拝堂の,さらに右にある.

 天井のすぐ下の壁面はキリストの物語を描いた絵の連作になっており,説教壇の真上の部分の絵は「最後の晩餐」だった.誰が描いたか,いつ頃の作品なのかは今のところ全くわからない.

写真:
スコローピ教会の堂内



輝石作業所と付属美術館
 午前中に「輝石作業所と付属美術館」を訪ねた.

 宝石(precious)に対して,準宝石(semi-precious)の訳語は,「輝石」なのか,「貴石」なのか,普段使わない語なのでよくわからないが,後者は宝石の意味にも使うようなので,『最新完全版ガイドブック フィレンツェ』の訳語に準拠する.『広辞苑』では「輝石」は「カルシウム・鉄・マグネシウムなどを含む珪酸塩鉱物.斜方晶系または単斜晶系.一般に柱状,暗緑または暗褐色・黒色.火成岩などの中に産する」とあるが,厳密には考えてもわからないので,ともかく「輝石」という語を使わせてもらう.

 イタリア語ではオピフィーチオ・デッレ・ピエートレ・ドゥーレという名称なので,オピフィーチオが「作業所」だから,「輝石」は「固い石」ということになる.『伊和中辞典』で石(ピエートラ)をひくと,「石の種類」という項目があり,それによると「(大理石に似ている)非常に固い石」と定義してある.

 アカデミア美術館の入口のあるリカーゾリ通りを南に少し行って,アルファーニ通りを左に曲がってすぐの所に入口がある.入場料は1人2ユーロで,かなりのレヴェルの作品を鑑賞することができる.工芸品と職人技の伝統を持つフィレンツェならではの美術館で,作品だけでなく,材料や機材まで見せてくれて,加工の過程まで教えてくれるところがすごい.

 下の写真は出口近くにある貴族の居室風にした展示室だ.この部屋の大理石の胸像のそれぞれ外側にあるガラスケースに入っている小さな立像が,それぞれ向かって右側がダンテ,左側はチマブーエで,どちらも輝石加工像とのことだ.写真を撮ったときは,左側はジョットだと思ったのだが,購入した英語版ガイドブック(8ユーロ)を帰宅後読んだところチマブーエらしい.ちなみに大理石の胸像のうち左側の女性はナポレオンの妹エリーザ・バチョッキということである.

 手前のテーブルの表面のように,石を加工して花,果実,鳥の模様が美しくつくりあげられたものが多かった.私は漠然と「宝石」など装身具を展示した博物館だと思っていたので,認識を改めた.

写真:
輝石細工を実際に
インテリア装飾として
展示している部屋


 右下の写真はジョヴァンニ・バッティスタ・フォッジーニの作品だが,大理石かと思ったら素材はテラコッタだったので,「輝石」の加工品ではない.しかし,「ニオベの子どもたちの殺戮」とテーマにしていて,なおかつ,なかなかの迫力だったから写真に収めてきた.ガラス越しなので反射しているが,左の方で,うろたえ悲しんでいるニオベと,天から降りてきて矢を射掛けるアルテミス(左)とアポロ(右)の躍動感が良くあらわれているように思われた.

写真:
ニオベの子どもたちの殺戮
を描いたテラコッタ


 モデルになった絵と輝石加工作品を並べてくれている展示も良かった.サンティ・ディ・ティートなどという大物の名前もあったが,ジュゼッペ・ゾッキという18世紀の画家の絵が多く,きれいに描かれていたが,それだけにモデルになりやすかったのだろう.ほとんど輝石加工作品のモデルにするために描かれたのではないかと思えたほどだった.


フィレンツェのモンテーニュ
 夕方サンティ・アポストリ教会を訪ねるべく,サン・ロレンツォ通り(この「通り」もヴィーアではなくボルゴ)をアルノ川の方に向かって歩いているとき,左手にあるピッツェリアの看板(リュネット型で,キャンティ・ワインの瓶をおもしろく描いてある:下の写真)の上に,大体「ここは昔は宿で,1580年と1581年にミシェル・ド・モンテーニュが滞在した」と書いてあるプレートを見つけた.

 5月20日にインディペンデンツァ広場の「のみの市」で買ったモンテーニュの『イタリア旅行記』を覗くと,フィレンツェを訪問し,大公(フランチェスコ1世であろう)に謁見,サン・ロレンツォ教会を訪ねていて,たくさんの絵があり,ミケランジェロ(ミシェル・アンジュ)の作品であるすばらしい彫刻がある,と絶賛している.現在のメディチ家礼拝堂にも行ったのだろう.ドゥオーモにも行ったようだ.

 校訂者の注解によれば,「すばらしい彫刻」はヌムール公ジュリアーノとウルビーノ公ロレンツォの墓碑のことであり,「世にも美しく豪華なもの」と言っているのはジョットの鐘楼のことだそうである.






モンテーニュ滞在の
プレートのある店