フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2020年9月8日



 




「セルジャンニ・カラッチョロの墓碑」より
柩の上に立つセルジャンニ



§ナポリ行 その17 教会篇 その6 
   サン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会(後篇)


フィレンツェの教会を訪れると,華やかなフレスコ画やテンペラ祭壇画に心惹かれ,ローマの教会では,モザイクとコズマーティ装飾に目を奪われる.ナポリの教会の場合,それは間違いなく墓碑彫刻だろう.


 ナポリの墓碑彫刻は,フィレンツェの魅力的なルネサンスの墓碑彫刻とは別のゴシック風が特徴で,天蓋とゴシック装飾のある墓碑を幾つも見て,やはりティーノ・ディ・カマイーノか,ローマ周辺で天蓋付き祭壇と墓碑を作成したアルノルフォ・ディ・カンビオの影響を感じずにはいられなかった.

 こうしたタイプの祭壇,墓碑にはアルノルフォやティーノが関わった作品が多く,彼らに影響を与えた可能性のあるそれ以前の作例は思い当たらない.

 ナポリの墓碑も,トスカーナ出身(アルノルフォはコッレ・ディ・ヴァルデルサ,ティーノはシエナで,修行の場はいずれもピサ,主たる活躍の出発点はいずれもフィレンツェ)の芸術家の影響を受けて制作されたのではないかと想像するが,残念ながら,現時点では勉強不足で,結論は得られない.

 次回以降,サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂,サンタ・キアーラ聖堂について報告する時にも考えてみるが,多分,結論は出ないだろう.しかし,フィレンツェに代表されるトスカーナ芸術の影響を受けているのが事実だとしたら,非常に興味深い.


カラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂
 カルボナーラ教会はゴシック建築で始まったとは言え,長い時代が経過し,修復や,新たな時代要素の追加により,全体としてゴシック教会とは言えない状態にある.後陣も内装は漆喰で覆われ,新しい感じがするが,天井は,身廊が何度か修復されたであろう木組み天井であるのに対し,リブ・ヴォールト構造で,かろうじてゴシックを感じさせる.

 前回紹介した,後陣のラディズラオ王の墓碑も,ゴシックの遺風を引き継いでいるとはいえ,ルネサンス期のフィレンツェ出身の彫刻家による作品であり,後陣の右側壁に飾られているのは,マニエリスム期の芸術である,ヴァザーリ作の油彩祭壇画「キリスト磔刑」である.

 その向かいの左側壁にある,凱旋門風に装飾された入り口は,ルネサンス,マニエリスム,バロックの墓碑,彫刻があるカラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂に続いている.

写真:
カラッチョロ・ディ・
ヴィーコ礼拝堂
クーポラ


 伊語版ウィキペディアの平面図と撮って来た写真で確認する限り, カラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂は,ほぼ正方形の空間に円筒形の部屋を造り,明り取り窓と彫刻が飾られた壁がほぼ交互に並ぶドラム(タンブーロ)の上に,パンテオンのように同心円状の格間装飾が施され,天窓がついた円蓋(クーポラ)が掛けられている.

 残念だが,クーポラの外観は見られなかったし,ウィキメディア・コモンズにも写真が無い(グーグルの画像検索でそれらしいものが僅かに見られる).

写真:
カラッチョロ・ディ・
ヴィーコ礼拝堂
入り口


 礼拝堂の凱旋門型の入り口の両側は,フルーティング(縦溝彫り装飾)が施された円柱で,家紋の浮彫のある縦長四角柱の基壇に乗っている.

 通常のドーリア式であれば,柱の上には簡素な皿型の柱頭があるが,ここでは皿型柱頭が丸ではなく正方形で,さらにその上に,コリント式の柱頭を角柱にして,幾何学的簡素化を施したような柱頭がある.

 他にも類似の作例があるのかも知れないが,私は知らない.見たことがあるのかも知れないが,少なくとも記憶にはない.

 この正方形の皿型柱頭までのデザインは,礼拝堂内の装飾柱と共通しているので,礼拝堂は一人の設計に基づいて造られたと推測される.しかし,この礼拝堂を設計した人物名を知ることは今のところできていない.

写真:
ガレアッツォ・カラッチョロ
の墓碑


 礼拝堂は,ガレアッツォ・カラッチョロの所望で建設された.この人物は1480年から81年に,イスラム教徒の侵略を退けたオトラントの戦いで活躍したとされているので,この礼拝堂の建設が始まったと思われる1516年には相当の年齢だったはずだ.

 礼拝堂に彼自身の墓碑が完成したのは1557年とされる.間違いなく彼の死後だいぶ経ってからのことであろう.

 ヴィーコ侯爵ガレアッツォ・カラッチョロという人物は複数いるようで,中でも,ジャン・カルヴァンの宗教改革に共鳴してジュネーヴに行き,そこで亡くなった同名の甥が有名なようだが,指揮官としてオトラントの戦いの勝利に貢献したガレアッツォに関しては詳しい情報が得られていない.

 礼拝堂の建設を委嘱され,設計に関わった芸術家は不明だが,「ガレアッツォ・カラッチョロの墓碑」に関しては,作者はアンニーバレ・カッカヴェッロとジョヴァンニ=ドメニコ・ダウリアとされている.

 同じ作者による「ニコラントニオ・カラッチョロの墓碑」が礼拝堂の反対側の壁にあって,こちらの作成年代は1573年とされるので,16年後に制作されたことになる.


ご公現(エピファニア)祭壇
 礼拝堂には向かい合う二つの墓碑の他に,もう一つ重要なモニュメントがある.

 二つの墓碑は入り口から見て,円形の床の中心を通る横の直線の左右の線端に向かい合ってあるが,その線と中心で十文字に交わる縦の直線の,入り口と反対側の端に「ご公現(エピファニア)祭壇」がある.

写真:
「ご公現(エピファニア)祭壇」


 この祭壇は1516年の制作で,作者はディエゴ・デ・シロエ,バルトロメ・オルドニェスとされる.名前からスペイン人であろうと察せられるが,前者の名には聞き覚えがある.

 フランドルのアントワープからブルゴスに移って,スペインで活躍した彫刻家ヒル・デ・シロエの芸術に目を見張ったのは2011年の2回目のスペイン旅行だった.ディエゴはその息子で,ブルゴスに生まれ,スペイン各地に業績を残した彫刻家で,彼の作品もブルゴスで見ている.

 後期ゴシックのフランボワイヤン様式(イサベル様式),イスラムの影響を受けたムデハル様式,イタリアの影響を受けたルネサンス様式を総合して,スペインとその支配地域に時代を超えて広まっていくプラテレスコ様式の成立に貢献したとされる.

 6年前にブルゴスで出会った芸術家ディエゴ・デ・シロエの作品をナポリで見られるとは思っていなかったが,よく考えてみれば,1516年はレコンキスタが完成して24年目で,その6月までナポリ王はアラゴン王フェルナンド2世でだった.

 1504年に妻でカスティーリャ女王イサベルの共同統治王としての地位は失っていたものの,カスティーリャの王権もナポリの王位も娘(フアナ)と孫(カルロス1世)に引き継がれていたので,トラスタマラ家からハプスブルクへの安定的王位継承の時期であり,スペインの芸術家がナポリで仕事をしても何の不思議もないだろう.

 エピファニア祭壇の制作が1516年なら,カラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂の建設が依頼されたのとほぼ同時期ということになり,であれば,この礼拝堂を設計も,建築家でもあるディエゴがしたのかもと一瞬思った.

 伊語版ウィキペディアの彼に関する項目でも,建築家と紹介されており,英語版ウィキペディアでは,グラナダ,アルメリア,マラガ,グァディクス,メキシコのグアダラハラ,ペルーのリマとクスコのそれぞれ大聖堂,やはりスペインのウベダの救世主礼拝堂の建築に関わったとある.

 こうした業績を見ても,当時を代表する一流の建築家であるのは間違いないだろう.建築家としてのディエゴにはブラマンテ,ブルネレスキの影響であるルネサンス建築の古典的諸要素が見られるとのことだ.

 しかし,カラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂の堂内で最も古いエピファニア祭壇に関しては,もう一人の制作者バルトロメ・オルドニェスに主導権があったようだ.


エピファニア祭壇と礼拝堂の設計者は誰か
 1495年生まれのディエゴ・デ・シロエに対して,バルトロメ・オルドニェスは1480年頃の生まれとされるので,15歳ほど年長であり,場合によっては師弟関係であっても不思議はない.

 ブルゴスで生まれ,ヒル・デ・シロエ,ドメニコ・ファンチェッリの影響を受けたとのことだ.前者はイタリアで修行しているし,後者はスペインで活躍し,アラゴン王国の首都サラゴサで亡くなってはいるが,フィレンツェ近郊の小邑だが多くの彫刻家が輩出したセッティニャーノで生まれたイタリア人なので,バルトロメも系譜をたどればイタリア芸術にたどり着く.

 ドメニコ・ファンチェッリはグラナダの国王礼拝堂に「カトリック両王(イサベルとフェルナンド2世)の墓碑」(1517年)を,バルトロメも同礼拝堂にカルロス1世の両親である「フアナとフィリップ美男公の墓碑」(1519年)を作成している.

 バルトロメはその翌年,1520年にイタリアの大理石の産地カッラーラで亡くなる.



 バルトロメの制作活動で知られているのは,最後の5年間(1515-20年)だけで,その中でバルセロナ大聖堂の後陣合唱隊席を囲む大理石外枠壁の制作は大仕事であった.

 ここに施された浮彫のうち,「聖エウラリアの物語」が特に重要で,その中の一面の「聖エウラリアの審判」には明らかにミケランジェロの影響が見られる(英語版ウィキペディア).

 トスカーナの芸術家の影響については後で触れるが,この作品で注目すべきは複数面の浮彫のパネルを挟んで壁面に連なっている飾り柱である.

 基壇の上に植物文様の浮彫で装飾された円柱があり,それに連続する形でフルーティングを施された円柱,その上に簡素だが装飾された柱頭,さらにドーリア式の柱頭を正方形にした柱頭があり,通常のドーリア式ギリシア神殿なら,この上にエンタブラチャーと称される横長構造物の最下部アーキトレーヴが来るが,方形ドーリア式柱頭の上に,さらに幾何学的浮彫が施された柱頭がある.これを,日本語では「手すり子」という訳語があるようだが,英語でバラスター(baluster)もしくはバラストレイド(balustrade)と言うようだ.これの上に,神殿ならエンタブラチャーにあたり,欄干や階段なら手すりにあたる横長構造物が庇のような形で乗っている(参考写真:ウィキメディア・コモンズ).

 この構造はまさに,カラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂の凱旋門型の入り口の柱の構造で,この類似性を根拠に,この礼拝堂の設計者をバルトロメとする説があるようだ.

 さらに,この柱の構造はエピファニア祭壇の中央浮彫の両側の4本の柱にも共通している.


カラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂の凱旋門型の入り口(上部)


 バルトロメとディエゴがエピファニア祭壇の制作に関わったことは,1524年に書かれたピエトロ・スンモンテという人の手紙に言及があるが,礼拝堂の設計については言及が無く,確証はないとのことだ(英語版ウィキペディア).

 最初,エピファニア祭壇と礼拝堂の設計が同一人物だとしたら,それはスペイン・ルネサンスの彫刻と建築の分野を代表する芸術家ディエゴの方であろうと思ったが,バルセロナ大聖堂の合唱隊席大理石外枠壁の装飾列柱との類似から考えて,他に作者の明らかな別の作例が無い限り,カラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂の設計者はバルトロメ・オルドニェスで良いのではないかと思えてきた.

 伊語版ウィキペディアでは,この礼拝堂の設計者の候補として,ジョヴァンニ=トンマーゾ・マルヴィート,ジョヴァンニ=フランチェスコ・モルマンドの名を挙げているが,その上で,上記の人文主義者ピエトロ・スンモンテが,ヴェネツィアの文人で美術収集家として知られたマルカントニオ・ミキエルへの手紙において,ナポリの同時代の芸術状況について報告し,サンタンナ・デイ・ロンバルディ教会のピッコローミニ礼拝堂,サン・ドメニコ・マッジョーレ聖堂のサンタ・セヴェリーナ礼拝堂の後に,カルボナーラ教会のカラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂に言及し,少なくともエピファニア祭壇の作者がディエゴ・デ・シロエとバルトロメ・オルドニェスであると述べていることに触れている.

 結局のところ,エピファニア祭壇の制作者はある程度明らかになっていると言ってよいが,礼拝堂自体の設計者に関して明らかな証言はないということだ.


トスカーナのルネサンスの芸術家の影響
 エピファニア祭壇には,さまざまなルネサンス的要素が見られる.中央の「三王礼拝」(=ご公現)の浮彫を囲む柱の装飾に関しては上述の通りであり,ギリシア神殿の構造に関しては,ローマ時代の建築理論家ウィトゥルウィウスのラテン語著書によって知られていたはずなので,間違いなくルネサンスの芸術思潮を反映している.

 さらに中央の,おそらくバルトロメの制作であろう「三王礼拝」の浮彫は,聖母子を中心に三王がキリストを礼拝する様子が二等辺三角形もしくは正三角形の構図になっていて,ウフィッツィ美術館に展示されているレオナルド・ダ・ヴィンチの「三王礼拝」の構図を反映しているとされる.

 であれば,バルトロメは,バルセロナの作品でミケランジェロの,ナポリの作品でレオナルドの影響を隠さず,イタリア・ルネサンスを自己の芸術に意識的に取り入れていたと言って許されるであろう.

 実際,エピファニア祭壇を見たとき,トスカーナの芸術家の影響を瞬時に感じたも部分があった.祭壇画で言えば裾絵に(プレデッラ)にあたる部分の「聖ゲオルギウスの竜退治」の浅浮彫である.

 左右反対の方向になってはいるが,これを見た全ての人が思うであろうように,元々はフィレンツェのオルサンミケーレ教会の外壁壁龕の一つにあって,現在はバルジェッロ博物館に展示されている「聖ゲオルギウス」の彫刻の下の「裾絵」部分に施された浅浮彫と瓜二つと言って良いほど似ている.「模倣」と言い切って許されるだろう.

 この部分は若きディエゴ・デ・シロエの制作とされる(伊語版ウィキペディア).

 北スペインを旅行した時,ブルゴスとその周辺で出会ったディエゴはイタリアとは根を異にするスペインの芸術家に思えた.父から引き継いだ,ゴシックの影響が残るフランドル芸術の要素も濃厚であったと思われる.

 その上で,もし,このエピファニア祭壇のプレデッラの浮彫がディエゴの作品であったなら,彼は,推測されているように,フィレンツェを重要な修行の場にしていたと思われる.

 彼の生きた時代は,印刷術の発達により版画が図像の伝播に貢献する時代に入っていたかも知れない.1520年に亡くなるラファエロは自作を版画によって世に知らしめることを試み,ある程度成功をおさめたようだ.

 それでも,僅か,3年前とは言え,まだラファエロ存命中に,スペインの若い彫刻家が,約百年前(1415-18年)のドナテッロの浮彫を模倣したとしたら,やはり実際に見たのだと考える方が合理的だろう.ディエゴの修行の場は,やはりフィレンツェであったと考えても許されるように思える.

写真:
ドナテッロ作
聖ゲオルギウス像

フレンツェ
バルジェッロ博物館


 ドナテッロの聖ゲオルギウス像を収めた大理石壁龕は上の写真の通り,龕の上部にあるだけなので天蓋とは言えないが,破風型の天蓋に見える構造物があり,破風と龕の両脇には角柱がある.角柱の基壇の下には,プレデッラの両脇がさらに基壇に見えるように造られていて紋章の浅浮彫が施されている.

 白い大理石の角柱には縦長の溝を掘り,黒い石を嵌め込んで,簡素で幾何学的な装飾が施されている.

 柱の上部には四角い(厳密には四辺のうち,内側が台形に突出していて正方形ではない)コリント式柱頭があり,その上に下の柱と同じ黒い溝のある短い柱身があって,さらにその上に,方形のドーリア式柱頭がある.そこにはアーキトレーヴや,手すりがあるわけではないが,見た目には,破風を支えているように見る.

 さらに,方形ドーリア式柱頭の上に尖塔があって,ちょうど破風の両側が尖塔になっているように見え,アルノルフォの祭壇,ティーノの墓廟の形を思わせる.もちろん,ドナテッロの方が,アルノルフォやティーノよりも後進である.

 オルサンミケーレ教会の外壁にはこうした壁龕が14あって,ドナテッロの壁龕と似ているもの,ところどころに個性を見せているものと様々だ.

 堂内にはそれより古いオルカーニャ作の大理石製小神殿型礼拝祭壇があり,ドナテッロの聖ゲオルギウスの壁龕が一面であるのに対し,それを四面を組み合わせた立体構造にして,装飾を豪華にしたもので,時代的にはゴシックの芸術であり,アルノルフォの祭壇,ティーノの墓廟と時代的にも近い.

 アルノルフォは1235年頃,ティーノは1280年頃の生まれとされ,オルカーニャは1308年頃の生まれであれば,私たちから見れば全員が中世ゴシック期の芸術家であっても,それぞれ生きた時代には時間差がある.彼らの祭壇,墓廟作品をいつの日か,比較,整理して影響関係を考えて見たいが,今はできない.

 ただ,ドナテッロの壁龕の写真を眺めていて,バルトロメ・オルドニェスが,カラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂の凱旋門型入り口を設計したとしても,全くの独創ではなく,何らかの形でイタリアの先行作品にヒントがあったかも知れないと思った.

 そもそも,先に述べたバルトロメのバルセロナでの仕事は,確実にナポリにいた1517年を挟んで前後に分かれており,カラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂はイタリア人が設計し,それをヒントにして,バルセロナでの仕事に再び取り掛かった可能性も否定できない.



 エピファニア祭壇中央の「三王礼拝」の浮彫に描かれたギリシア神殿を意識した構築物は,フルーティングを施した円柱の上部に柱頭があり,その上にエンタブラチャーが乗っている.エンタブラチャーの上部で庇のように突出して,通常ならその上に破風のある屋根が乗るコーニスもある.

 ただし,屋根は無く,その点は凱旋門型入り口や,バルセロナの後陣合唱退席大理石外枠壁と同じだが,柱頭はおそらく渦巻のあるイオニア式とアカンサス模様のコリント式を組み合わせたコンポジト式に見える.

 ドーリア式のギリシア神殿であれば,柱頭の上には,最下部からアーキトレーヴ(梁),フリーズ,コーニスと続く三層構造のエンタブラチャーが載る.装飾帯とか蛇腹とか訳されることもあるフリーズは,ドーリア式では,3本の縦線(三条溝)による区切り部分(トリグリフ)と,トリグリフによって囲まれた四角壁面(メトープ)が交互に繰り返され,メトープには場合によっては浮彫によって装飾が施される.

 こうした基礎知識を念頭に置きながらカラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂の入り口を再見すると,方形ドーリア式柱頭の上にある「手すり子」のように見える部分はトリグリフで,つまりフリーズが張り出していて,当然,その上のコーニスも張り出していることに気付く.

 ギリシア神殿であれば,柱頭は横一線のアーキトレーヴ,フリーズの下にあって,そうでなければ柱が屋根の重みを支えることはできない.つまりこれは古典的な神殿の構造を踏まえた装飾的なデザインということだ.

 コーニスの張り出し部分と柱の連動などは,エピファニア祭壇より,カラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂の方が,堂内の装飾も含めて,洗練度が高まっているように思えるが,メトープの部分に熾天使の浮彫が施されている点は共通している.

 張り出し,メトープの熾天使の浮彫についてはバルセロナ大聖堂の作品も同様で,三つの作品の類似性は極めて高いと言えるだろう.


カラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂
 最後に,後陣の国王の墓碑の下に開けられたトンネルのような通路をくぐり抜けた先にあるカラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂について報告する.

 礼拝堂はセルジャンニ・カラッチョロ一族の墓所で,セルジャンニ・カラッチョロは,女王ジョヴァンナ2世の寵臣(愛人だったとの説もある)で,アンジュー家のナポリ王国,アンジュー=ドラッツォ家の柱石ともいうべき人物だった.

 この礼拝堂の建設が企図されたのが1427年,セルジャンニは1432年に,彼を恐れるようになった女王の意を受けた4人の騎士に,当時の王宮カステル・カプアーノで刺殺された.

 ジョヴァンナ2世の薨去はその3年後の1435年,セルジャンニの後嗣であるトロイアーノが礼拝堂のセルジャンニの墓碑などを制作依頼したのが1441年とされる(伊語版ウィキペディアの典拠はアバーテ).

 アラゴン王アルフォンソ5世が,アルフォンソ1世としてナポリ王国に君臨するのが1442年からなので,カペー家から分かれたアンジュー家ではなく,ヴァロワ・アンジュー家のレナート(ルネ)1世の不安定な治世下末期にこの礼拝堂の建設は始まったことになる.

 礼拝堂の平面は正八角形で,うち一面には出入口があるが,出入り口の上の壁面には大きな「聖母戴冠」のフレスコ画がある.作者レオナルド・ダ・ベゾッツォとされる.

 生没年不詳だが,彼の父がミラノ,ヴェローナ,ヴィチェンツァ,パドヴァで出会ったミケリーノ・ダ・ベゾッツォであることは,ミラノ大聖堂で父の仕事を手伝ったという記録で分かるようだ(伊語版ウィキペディア).ナポリでは,サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂に祭壇画「パドヴァの聖アントニウス」を遺しているので,一定期間活動したものと思われる.

写真:
「聖母戴冠」
レオナルド・ダ・ベゾッツォ


 カラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂に入り,振り返って背後の大きな「聖母戴冠」を見た時,ミラノのサン・シンプリチャーノ教会の後陣半穹窿天井のベルゴニョーネのフレスコ画「聖母戴冠」を思い出した.

 レオナルド・ダ・ベゾッツォがナポリに来たと思われる1438年は,ベルゴニョーネが生まれる15年くらい前なので,もちろん,直接の影響関係はなく,レオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受け,レオナルデスキの一人とされ,ミラノのルネサンスを支えたベルゴニョーネとレオナルド・ダ・ベゾッツォを繋ぐものがあるとすれば,レオナルド・ダ・ヴィンチ到来以前のロンバルディアの宗教画の伝統で,それをベルゴニョーネが引き継いでいたということだろう.

 ロンバルディアの伝統に根差した要素が無ければ,レオナルド・ダ・ヴィンチの圧倒的な影響下にありながら,レオナルデスキの画家たちが,フィレンツェ・ルネサンスとは全く異なる個性的な絵を描くはずがない.そうした伝統の形成者の中にダ・ベゾッツォ父子がいて,それをレオナルド・ダ・ベゾッツォがナポリにも伝えたと考えたい.

 後に,やはりレオナルデスキの一人チェーザレ・ダ・セストがナポリ周辺で活躍する背景もそこにあると考えるのは飛躍が過ぎるだろうが,彫刻ではイタリア中で活躍したロンバルディアの芸術家が,絵画においても,諸方にその痕跡を遺したことは注目しても良いように思う.

 一方で,息子に大きな影響を与えたミケリーノ・ダ・ベゾッツォがその作風から明らかに国際ゴシックの画家であることを考えると,地方的でありながら,やはり全イタリア的,全西欧的な流れの中で芸術活動を行なったのは間違いなく,既に時代遅れ気味ではあったろうが,レオナルド・ダ・ベゾッツォの作風にも反映し,また父子ともに写本細密画家として活動したことも,大きな意味を持っただろう.

 出入口の上に「聖母戴冠」に描かれた壁面を第1面とすると,そこに向かって時計回りに付番すると,第1面に隣り合う,第2面と第8面に計4場面の「聖母の物語」がある.各面ともに上から天井の三角面(スピッキオもしくはヴェーラ)の上段,絵画面の中段,基底部の下段の3段に分かれている.

 天井三角面には何も描かれていないが,上述のように,第1面に隣り合う第2面と第8面の中段はそれぞれ2場面,計4場面にわかれ,第8面中段下部が「聖母の誕生」,その上が「受胎告知」,第1面の「聖母戴冠」を挟んで,第2面中段下部が「聖母の神殿奉献」,その上が「聖母の死」で,全体として5場面で「聖母の物語」を構成している.

 他の5面の中段には窓がついていて,さらに,窓の周辺に上下左右4つの部分に分かれ,墓碑が前にある第5面も含めて,それぞれ人物が描かれていて,概ね聖人たちと思われる.

 入り口のある第1面と,墓碑が置かれている第5面を除いて,残り6面には,下段にも絵が描かれている.下段もさらに上下に別れ,下部には色大理石を幾何学的に嵌め込んだ模様が絵で描かれている単純な装飾になっていて,上段は計6場面からなる「隠修士たちの物語」になっている.

 隠修士は黒衣を纏っているのでアゴスティーノ会の修道士たちと思われ,農作業などの労働,食糧生産,音楽,読書,説教,祈りの諸場面が描き込まれ,建造物,動物の他に天使や悪魔と思われる人物もいるので,牧歌的風景の中に,修道生活とともに,天使,悪魔が関わる物語が描かれている可能性があるが,今のところ把握できていない.

 フレスコ画の作者は「聖母の物語」がレオナルド・ダ・ベゾッツォ,「隠修士たちの物語」がペリネット・ダ・ベネヴェント,「聖人たち」がアントニオ・ダ・ファブリアーノの作とされている.

 この中では最も実力者と思われるレオナルド・ダ・ベゾッツォの「聖母の物語」ですら,傑作からは遠いように思われる.

 イタリア・ルネサンス絵画の幕開けとなった,サンタ・マリーア・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂の作品をマザッチョが描いたのが1420年代後半,彼と「聖ペテロの物語」を共作したマゾリーノがカスティリオーネ・オローナで参事会教会の後陣天井と洗礼堂にフレスコ画を描いたのが1435年,国際ゴシックの画風への回帰が見られたこの作品ですら,レオナルド・ダ・ベゾッツォが1438年にとりかかったカラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂の作品より新しく感じられる.


フレスコ画「聖母の物語」より聖母の誕生の場面


 しかし,たとえ,絵が大して上手と思えなくても,壁一面のフレスコ画は魅力的である.部分的に注目を集める場面もある.

 「聖母の誕生」には,稚拙な遠近法を駆使して室内での聖母誕生場面が描かれている建物の外側階段の下に,光輪のある初老の男性が控えていて,聖母の父ヨアキムと思われるが,その左側にうずたかくなった青い帽子に,青い装束の中年の伊達男が描かれている.これはセルジャンニ・カラッチョロ自身を描いていると考えられている.崩壊の危機を常にはらんでいるナポリ王国を支えていると言う自負心に溢れているように見える.

 さらにセルジャンニの左側を見ると,絵の端につば広の帽子を被った,黒っぽい模様の衣装の人物が立っていて,これはレオナルド・ダ・ベゾッツォの自画像とされている.

 現場では,まずフレスコ画の大きさに目を奪われ,細かいところまで見る余裕がないが,写真を拡大してみると,高齢出産が無事済んで安堵と疲労が表情に出ているアンナや,聖母に産湯を使わせようとしている明るい青の服を着た女性など,あるいは15世紀当時のナポリ貴族の家の出産風景をモデルにしたのかも知れないと思わせる説得力を持っている.

 好きか嫌いかで言ったら,このタイプの絵は好きだ.個人的には「隠修士たちの物語」に関して,じっくり絵解きを試みたいようにも思うが,勉強も足りず,心の余裕も無いので,後日を記す.

 これらのフレスコ画の中では,画力も劣り,題材も平凡で,剥落が進んでいる「聖人たち」が最も魅力に乏しい.

 第5面の中段下部の窓を挟んだ左右に,当時のナポリ風と思われる装束を着用した,伊語版ウィキペディアで vir illustris と解説されている男性がおり,それらの人物の丁度真ん中に,墓碑の柩の上部に彫られたセルジャンニ・カラッチョロの立像が見える(トップの写真).



 棺の上の立つセルジャンニの足元には,ラテン詩による碑銘が刻まれている.

Nil mihi ni titulus summo de culmine derat.
Regina morbis invalida et senio,
fecunda populos proceresque in pace tuebar
pro domine imperio, nullius arma timens.
Sed me idem livor, qui te, fortissime Cesar,
sopitum extinxit nocte iuvante dolos.
Non me sed totum laceras, manus impia, Regnum
Parthenopeque suum perdidit alma decus.

私には,至高の天からの称号が何も無かったとしても,
 女王が病と衰弱によって健やかならざる時にも,
民衆も貴顕も豊かな平和の中にいるのを私は見守っていた,
 女性君主の王権のためを思い,いかなる者の武器を恐れることもなく.
だが,私を,あなたの場合と同じ悪意が,勇武の誉れ高きカエサルよ,
 後顧の憂いを断つべく,夜闇の助けを借りて,消し去ったのだ.
だが,非道なる輩よ,お前たちは私を完全に滅ぼしはしないが,
 慈愛深きナポリの王国は,自身の栄光を失ったのだ.

 作者はイタリア・ルネサンスの人文主義を代表する文人ロレンツォ・ヴァッラである.

 北イタリアのピアチェンツァに出自のある家系にローマで生まれ,ローマで亡くなった彼が,ナポリに滞在していたのはアルフォンソ1世の治世下で,1435年から1447年までであった.そこで彼は有名な「コンスタンティヌス寄進状」が偽文書であることを証明した(1440年で,公刊は1517年で彼の死の50年後).

 したがって,この碑銘が彼のナポリ滞在中に書かれたとすれば,セルジャンニの死後,3年から15年経っていて,ヴァッラがセルジャンニに心から共鳴して書いたものかどうかはわからない.

 domineをdominae,CesarをCaesarと綴り直せば,古典ラテン語として読むことができるし,このように綴ったのはこれを刻んだ職人の,当時のラテン語の慣用的発音からの思い込みであろう.文意は分かりにくいところもあるが,「私」はセルジャンニで,「王ではない私が病弱な女王のためにナポリに豊かな平和を齎したが,ローマの英雄ユリウス・カエサル同様,敵対者どもの嫉妬によって暗殺されてしまった.しかし,非道な者たちが私の功業を消すことはできず,むしろ私の死によってナポリ王国が栄光を失ってしまったのだ」ということであろうと解釈した.

 スポレートでポリツィアーノが書いた「フィリッポ・リッピの墓碑銘」,ローマのパンテオンでピエトロ・ベンボが書いた「ラファエロの墓碑銘」に出会った.ヴァザーリの「ピエトロ・カヴァッリーニ伝」ではピエトロに捧げられた無名氏の墓碑銘を読んだ.

 いずれも,エレギア(elegia)と言う二行連句の詩形で書かれたラテン詩である.もともとはエレゲイオンというギリシアの詩型であったが,ローマ人がこれをラテン語の恋愛詩に応用して盛んにした.長短短六歩格(ヘクサメトロス)と五歩格(ペンタメトロス)の組み合わせで,二行だけでも良いし,それが二行単位で長く連なっても良い.六歩格だけだと,本来叙事詩の韻律であるだけに,どうしても長くなることが求められるので,墓碑銘のように短いことに意味があるものには最適の韻律ということになる.

 元になったギリシア語のエレゴスは「(笛の伴奏を伴う)歌」の意味で,そこから中性名詞のエレゲイオンが二行連句の詩形とそれで書かれた詩を意味するようになり,複数形のエレゲイアが,ラテン語では女性名詞のエレギア(エレギーア)になった.

 古典期のラテン語には「挽歌,悲歌,嘆き」の意味は無いが,ギリシア語ではローマ時代から「悲歌,挽歌」を意味する用例が出てくる.それが古代後期から中世のラテン語に影響したのであろうと思われ,英語のelegy,イタリア語のエレジーアなどは「悲歌,挽歌」が主流の意味となる.

写真:
「セルジャンニ・
カラッチョロの墓碑」


 セルジャンニの立像は,後ろの大きな窓から後光のように光が射しこむため,正面からは逆光になって,下から見上げる角度の写真でしか確認することはできないが,随分若い姿だと思う.

 墓碑の下部でギリシア神殿ならカリアティド(女性立像支柱)の役割を果たして棺を支えている五体の男性彫刻(男性なのでアトラスもしくはテラモン)は,兜は被っていないが,鎧を着て,武器を持っており,武勇の寓意と考えられている.

 棺正面にも有翼の武装した若者の高浮彫が左右にあり,棺の両側面にも大天使ミカエルのように武装した有翼の若者浮彫がある.

 セルジャンニの立像は,短衣(トゥニカ)にタイツの姿で,帽子を被っているように見えるので,フレスコ画同様,一見平服かと思われるが,肩当とマントは軽武装を思わせ,欠けているが右手には剣を持っているようなので,武装した指揮官,政治指導者としての様子を表しているのかも知れない.

 いずれにせよ,この墓碑全体で,彼の武徳が顕彰されていると考えて良いだろう.武装男性支柱のうち,正面中央の一体は,左右が若者なのに,有髯の中年男性で,右手に棍棒を持ち,左手でライオンの鬣を掴んで立つ姿は,ライオンの毛皮こそ被っていないがヘラクレスを思わせる.

 この時代には,ヘレニズム諸王国の君主や,ローマ皇帝がヘラクレスになぞらえられて図像化されたことは既に知識としてあったであろうから,セルジャンニへの武徳への称賛と考えて良いように思う.

 柩の上のセルジャンニの立像の両脇には,一部破損していて,写真もよく写っていないので,断言はできないが,狛犬のように侍する戴冠したライオンであろうと思われる.柩の左右の高浮彫の若者たちもライオンを従えており,棺正面の浮彫も,ランパン(後ろ足立ち)のライオンが彫られたクリペウス(丸楯)を,左右の有翼の少年たちが支えている.

 ランパンのライオンはカラッチョロ家の紋章で,少なくとも立体的に表されたライオンが5頭いて,墓碑全体に統一感を与えているように思われる.

 柩の両脇にはそれぞれ3つずつの壁龕を持つ飾り柱があり,4つの壁龕には勇気,智恵,信仰,節制が,それぞれ女性名詞なので,女性の姿で現された彫像が置かれ,これらもカトリック教会の重んずる枢要徳に数えられるが,最上部はそれぞれ「告知の天使」と「聖母マリア」と言う「受胎告知」になっており,やはり古代的武徳を備えた人物の墓碑をキリスト教精神でまとめ上げていると言えるのではないだろうか.



 さて,「セルジャンニ・カラッチョロの墓碑」の制作者が誰かという話だが,前回,「ラディズラオ王の墓碑」の制作者はアンドレア・ダ・フィレンツェことアンドレア・チッチョーネである可能性が高いことを報告した.

 「ラディズラオ王の墓碑」は,王が亡くなったは1414年に作り始められ,1428年に完成している.「セルジャンニ・カラッチョロの墓碑」が1441年以降に制作依頼があったとすれば,前者の完成から後者の制作開始まで13年以上も間があったということになる.

 13年という時間差があって制作されたことを思えば,同じ作者であっても作風が違っても不思議はないし,そもそも前王の墓碑を存命中の王でしかも実の姉が依頼するのと,暗殺された権臣の墓を公爵とは言え,名を成していない後継者が,王朝交代の動乱期に依頼するのだから,おのずと資金その他に差はあったはずで,同じ条件で制作できたとは思えない.

 こうした諸事情を割り引いたとしても,「セルジャンニ・カラッチョロの墓碑」は,小ぶりではあるが美しくまとめ上げられた作品で,少なくとも職人としては一流の人物が作成したのだろうと思われる.

 前回は「カトリック百科事典」とウィキペディアを参考に「ラディズラオ王の墓碑」と「セルジャンニ・カラッチョロの墓碑」の作者はアンドレア・チッチョーネと言われていることは間違いないようだ,と記したが,今回は,主として制作年代の差と作風の違いを根拠に,「セルジャンニ・カラッチョロの墓碑」の制作者と「ラディズラオ王の墓碑」の制作者は別人で,可能ならば,前者はアンドレア・グァルディ,後者はアンドレア・チッチョーネと思いたい,と記しておく.

 伊語版ウィキペディア「カラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂」は,「セルジャンニ・カラッチョロの墓碑」は最初,ロンバルディアの工匠に依頼され,未完だったのをアンドレア・グァルディが仕上げたと推定している.

 グァルディは1451年から10年間ピサで仕事をし,1460年頃,カッラーラ大聖堂で祭壇彫刻「聖母子と聖人たち」を,1463年にピオンビーノで「ヤコポもしくはゲラルド・アッピアーニの墓碑」作成しているので,ナポリでの墓碑制作は1440年代であろうと思われる.

 「セルジャンニ・カラッチョロの墓碑」は,すぐ近くにある「ラディズラオ王の墓碑」とは圧倒的に違う印象を受ける.もちろん,規模が小さいと言うことも大きな理由であろうが,同一人物か,別人かわからないが,ともに「フィレンツェ出身のアンドレア」という彫刻家が手掛けたルネサンスの芸術作品でありながら,全く異なる作風のように思われる.

 「セルジャンニ・カラッチョロの墓碑」は,サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂に残るバボッチョ作成の墓碑の影響を受けている可能性があるとの指摘もある.それに関しては,次回,サン・ロレンツェ・マッジョーレ聖堂について報告する時に可能なら考えて見たい.

 最後に,カラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂のもう一つの魅力は,光を取り入れた空間で映えるマヨルカ焼きタイルの床であることを付け加えておく.ナポリの教会を回っていて心魅かれたものとして床のタイルがあるが,この礼拝堂のタイルは特にすばらしいように思われた.いつの日か,それについても整理できるようでありたい.







マヨルカ焼のタイルの床
カラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂