フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2020年8月25日



 




「ラディズラオ王の墓碑」より
玉座のラディズラオとジョヴァンナ2世



§ナポリ行 その16 教会篇 その5 
   サン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会(前篇)


拝命している担当校務が忙しかったところにもって,新型コロナウィルスという未曽有の災いで職場も大変なことになり,更新が久しぶりになったが,少なくとも前者には区切りがついたので,また少しずつ報告を書き足していく.


 ナポリの教会編もこれで5回目だが,なかなか終わらない.今回もサン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会について書いていたら,新たな学習項目が複数出てきて,前後篇の2回に分けることになってしまった.

 一応今後の予定を言っておくと,この後,サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂,サンタ・キアーラ聖堂,その他の教会という順番に書いていく.


カルボナーラ
 サン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会(以下,カルボナーラ教会)を拝観したのは,2017年12月11日だった.

 後期ゴシックの教会(1339年創建開始)であるカルボナーラ教会は,短い階段の上にあって,階段下にはバロック教会であるコンソラツィーネ・ア・カルボナーラ教会(以下,コンソラツィオーネ教会)がある.

写真:
カルボナーラ教会(右)
コンソラツィオーネ教会(左)


 この両教会を囲んでそこへと向かう門がある塀の外側の向かって左手には新古典主義建築のピエタテッラ・ア・カルボナーラ教会(以下,ピエタテッラ教会)があり,「カルボナーラ」はこれらの教会が面している通りの名前である.

 石炭がカルボーネ,木炭はカルボネッラ,「炭」に関係する形容詞がカルボナーロで,男性形は名詞で「炭焼き人」も意味する.カルボナーラという女性形になっているのは,「道,通り」を意味するヴィーアという女性名詞を修飾しているからだろう.

 私たちの世代(1960年前後の生まれ)は,高校時代に「世界史」という科目で「カルボナリ党」(カルボナーリ)という19世紀前半に急進革命を目指した結社名(「党」は日本語の訳語)を学んでいるし,パスタ料理のカルボナーラも良く知られているので,比較的なじみのある響きであろう.

 前者は秘密結社を炭焼き職人の団体に見たてて名詞化した男性・複数形であり,後者はパスタ・アッラ・カルボナーラ,スパゲッティ・アッラ・カルボナーラという名称がある(英語版ウィキペディア)ので,アッラ(前置詞+定冠詞)の後に女性名詞モーダ(様式)を補い,それを修飾する形容詞の女性・単数形であろう.

 小学館の『伊和中辞典』にはカルボナーラでのパスタ料理の立項は無かった.なぜ「炭焼き(職人)風」と言うかは不明らしいが,あるいは,よく言われるように,クリーム色の中で目立つ黒胡椒が「炭」を連想させるからであろうか.


カルボナーラ教会の入り口
 上記3つの教会のうち,まずコンソラツィオーネ教会を拝観し,その後,階段を上ってカルボナーラ教会へ向かった.

 上った正面にはゴシック風のポルターユがあり,タンパンにはフレスコ画,その上方には地味なバラ窓が残っていて,一見ここが教会全体の正面に思えるが,実はこれはサンタ・モニカ礼拝堂の入り口である.教父アウグスティヌスの母の名を冠した礼拝堂があるのは,アゴスティーノ会の修道院教会であることを想起させる.

 礼拝堂の扉は閉まっていたが,その左手に地味な石造アーチに囲まれた鉄柵のある入り口があり,鉄柵が開いていたので中に入ると,中庭のような空間に出た.向こう側に建物の長い壁が続いており,真ん中あたりに簡素だがゴシック風のポルターユのある入り口があった.

写真:
右身廊にある入り口


 ここから中に入って堂内を見渡して,この入り口が身廊の後陣に向って右側壁に開けられていることが分かった.全体としてはラテン十字型の平面構成であり,サンタ・モニカ礼拝堂は右翼廊に当たる部分に位置しているようだ.

 本来ならファサード裏にあたる場所は別の礼拝堂があって,本来のファサード部分には外からの入り口は無いようだった.

 この入り口から右手の後陣方向を眺めると,ラディズラオ王の墓碑が見える.もちろんこの時点では,それがラディズラオ王の墓碑で,作者はアンドレア・チッチョーネであったかも知れないなどという知識は無かったが,最上部で剣をかざす,王冠を被った騎馬武者の姿が目に入り,ともかく心魅かれた.


ラディズラオ王の墓碑
 後陣にあるこの墓碑は,高さ18メートルという巨大なもので,全体は4層構造になっている.

 最下層は4つの柱で区切られており,それぞれの柱の前には4体の美徳の寓意女神像(左から節制,剛毅,思慮,寛容)が,墓碑全体を支えるカリアティドのように置かれている.剛毅と寛容の間には通路が穿たれ,カラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂に繋がっている.壁には装飾フレスコ画が描かれている

 墓碑は,節制と寛容の所で礼拝堂の壁に沿って直角に曲がって左右に側面が続くコの字型をしている.

写真:
ラディズラオ王の墓碑


 2層目も1層目と同様,柱によって5つの部分に分かれる.

 1層目の通路部分の上部には玉座のラディズラオ(左)とジョヴァンナ2世(右)がいて,両脇に2体ずつ寓意像(左から希望,正義,慈愛,信仰)があるが,柱の後ろに壁はなく,一続きの空間になっているので,正面から見ると中央部分に4体の彫像があって,その両脇の部分に1体ずつ彫像があるようにも見える.

 6本の柱のうち両端を除く4本に上下2体ずつ,計8体の男性像が彫られている.君主,使徒,聖人ということだが,それぞれ,誰の像かは今後の課題とする.

 側壁の2面には,左側に洗礼者ヨハネ,右側にアウグスティヌスのフレスコ画が描かれ,作者はレオナルド・ダ・ベゾッツォとのことだが,この画家に関しては,カラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂について触れる時に述べる.


「ラディズラオ王の墓碑」より王の柩部分


 3層目は中央部分だけで,他の4部分はそれぞれ屋根がかかったような破風装飾が施されている.

 この中央部分はラディズラオ王の柩であり,最下部は3頭のライオンが支えている.正面に見える棺の長側面には4体の王冠を被った人物の浮彫が施され,左からラディズラオ,ジョヴァンナ2世,カルロ3世とその妃マルゲリータとされる.

 棺の上部には蓋としてラディズラオのジサンの高浮彫,石棺の両側にカーテンを支える天使,棺の奥には祝福する大司教とその両側の侍者たちの彫刻が見られる.天使が掲げるカーテンの上に屋根がかかっていて,その屋根の上に聖母子と聖人たちの彫刻が置かれている.この聖人たちも洗礼者ヨハネとアウグスティヌスである.

 この屋根がかかった石棺の上に,さらにゴシック風装飾が施された破風のある天蓋(バルダッキーノ)がかかり,破風にはアンジュー=ドゥラッツォ家の家紋,両脇には尖塔風で龕をそれぞれ3つずつ備えた柱が聳え,それぞれの龕雁には1体ずつ計6体の男性像が置かれている.それぞれ聖人や預言者であろうが,どれが誰かはやはり今後の課題である.

 天蓋の上部の第4層には,最初に目を惹いた,剣をかざす騎馬武者のラディズラオ像が飾られている.


二人のアンドレア・ダ・フィレンツェ
 ラディズラオ王の墓碑の作者はアンドレア・ダ・フィレンツェとされるが,私たちがこの名を聞くと,フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ修道院の緑の回廊のスペイン人礼拝堂に「聖トマスの勝利」などドメニコ会の栄光を称える大作フレスコ画を描いたアンドレア・ディ・ボナイウート(アンドレア・ダ・フィレンツェ)をまず初めに思い起こす.

 しかし,この画家は1377年に生地フィレンツェで亡くなっているので,たとえ,彫刻の技術を持っていたとしても,1414年に亡くなったナポリ王の墓碑を制作できるはずもない.

 ボナイウートとは別に,15世紀に活躍したアンドレア・ダ・フィレンツェと称される彫刻家が少なくとも二人いる.

 一人は1388年にフィレンツェで生まれ,1455年にナポリで亡くなった(英語版ウィキペディアは生没地どちらもフィレンツェとしている.2019年12月30日参照)アンドレア・チッチョーネもしくはアンドレア・ディ・オノフリオ,もう一人は主としてピサ周辺で活躍し,1476年に亡くなったアンドレア・グァルディ,もしくはアンドレア・ディ・フランチェスコ・ダ・フィレンツェである.

 独語版ウィキペディアは,14世紀から15世紀にかけて活躍した同名の作曲家でオルガニストにリンクしているが,これは全くの間違い(2020年3月7日参照)であろう.それだけ「フィレンツェ出身のアンドレア」は大勢いて,名を残した同時代人にも珍しくなかったということだと思う.

 この2人のアンドレア・ダ・フィレンツェという彫刻家の経歴を少し詳しく見ていく.

 まず,アンドレア・チッチョーネについては,他に参考書がないので,英語版ウィキペディア,伊語版ウィキペディア,ウェブ上の英語による「カトリック百科事典」を参照する.

 英語版では「生没地ともフィレンツェだが,活躍の場はナポリで,ナポリの彫刻家マズッチョ2世の教えを受け,ラディズラオ王の墓碑を完成させた」とあり,生没年も1388年-1455年としている.しかし,リンク先の「マズッチョ2世」を見ると,その没年が1387年となっており,フィレンツェで生まれてすぐにナポリに移住はあり得るとしても,この彫刻家の教えを受けるのは無理だろう.

 伊語版は,1388年にフィレンツェで生まれ,1455年にナポリで亡くなったとしており,初期ルネサンスの彫刻家,建築家として,アンジェロ・アニエッロ・フィオーレの師匠だったとしている.

 「子供時代にナポリに移住し,早くから彫刻家として活動し,カラッチョロ家の墓碑などを手掛け,マズッチョ2世の時から始められていたサン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会を完成させ,ラディズラオ1世の時代に始まったサンタンナ・デイ・ロンバルディ教会の建築を任され,王の死後,サン・ジョヴァンニ・ア・カルボナーラ教会に王の墓碑と,セルジャンニ・カラッチョロの墓碑を制作した.それ以前に,セルジャンニによって,現在はサンタ・マリーア・デッラ・パーチェ教会になっている場所にパラッツォ・カラッチョロの建設を委託された」としているので,少なくともラディズラオ1世の墓碑は彼が制作したという立場だろう.

 「カトリック百科事典」は,「ナポリ生まれの15世紀前半の彫刻家,建築家で,マズッチョ2世の弟子であり,サン・セヴェリーノ教会の回廊,モンテ・オリヴェートの教会と修道院などを建てたと言われ,彼については諸説あるが,かつて大聖堂にあったジョズエ・カラッチョロの墓碑を制作し,ジョヴァンナ2世が先王ラディズラオの墓碑と,彼女の寵臣で,現在で言えば首相にあたる地位にいたセルジャンニ・カラッチョロの墓碑の制作を依頼した」とし,両方の墓碑に関して詳しい説明をしており,その説明は現存する墓碑の説明として正確である.

 マズッチョ2世に関しては,伊語版には立項が無く,英語版,仏語版に立項(ほぼ同じ内容なので,どちらかが翻訳だろう.2019年12月31日参照)されており,ロベルト賢王がサンタ・キアーラ聖堂の建築を依頼したが,ローマにいて計画に間に合わず,ナポリに戻ってその仕事を完成し,他の教会と,サンタ・キアーラ聖堂の鐘楼を建てた人物のようだ.いずれにせよ没年は1387年で,アンドレア・チッチョーネを指導するためには早く死に過ぎたように思う.

 マズッチョ2世との関係は不明だし,伊語版ウィキペディアにあるポンターノ礼拝堂との関係もわかりにくいが,上記の3つのページに拠れば,アンドレア・チッチョーネがラディズラオ王の墓碑とセルジャンニ・カラッチョロの墓碑の制作者と言われていることは間違いないようだ.

 一方のアンドレア・グァルディについては,カルボナーラ教会についてウェブ検索していて,数カ所でその名前が散見された.例えば,先にリンクしたラディズラオ王の墓碑に特化した伊語版ウィキペディアページでは,墓碑はアンドレア・グァルディと助手たちの制作としている.

 それが事実なら,この墓碑の制作依頼をした,ラディズラオの姉で王位を継承したジョヴァンナ2世の没年は1435年だが,彫刻家は1475年まで生きているから,死の40年以上前には既に名声が確立していて,ナポリで仕事を受注したということになる.もちろん,これがあり得ないとは言えない.伊語版ウィキペディアの彼のページでは,たった数語だが「15世紀半ばにナポリで活動した」と記されている.

 しかし,彼が,主としてトスカーナの,しかもドナテッロの系譜に属し,ベルナルディーノ・ロッセリーノやミケロッツォの影響を受けたとされる,ピサ周辺で仕事をした彫刻家と同一人物であるならば,この人は現存する作品も,小品がほとんどなので,若くしてナポリまで呼ばれて,大きな仕事を任されるほどの芸術家だったのだろうかという疑問が湧いてくる.

 それでも,墓碑の作例がない訳ではない.ピサで大司教ピエトロ・リッチの墓碑の断片パネル(ピサ大聖堂博物館),ピオンビーノの大聖堂に残るアッピアーニ家の墓碑(ゴシック期の墓碑を思わせる)も制作している.

 以上を勘案し,現在のところ,カルボナーラ教会の墓碑制作者は,少なくともラディズラオ王の墓碑に関しては,アンドレア・チッチョーネである可能性が高く,その他の墓碑の制作者をアンドレア・グァルディと考える人が多い,と一応理解しておくことにしたい.



 今回,開いていなかったサンタ・モニカ礼拝堂には,ティーノ・ディ・カマイーノの到来以来,ナポリで良く制作されたタイプの,尖頭に囲まれた破風型の天蓋を柱が支え,柱の複数の龕には聖人たちの彫刻が施され,その天蓋を神学的美徳の寓意像がカリアティドのように支え,蓋には横たわる被埋葬者の高浮彫(ジサン)が施された棺がある墓碑がある.

 この「ルッジェーロ・サンセヴェリーノの墓碑(墓廟)」は,ウィキメディア・コモンズにも写真がないが,伊語版ウィキペディアのサンタ・モニカ礼拝堂の紹介にリンクしてあるページに解説付き(かなり文字化けしている.2020年3月7日参照)の写真があって,解説は,この墓碑にはラテン語で「フィレンツェ出身のアンドレアの作品」(OPVS ANDREAE DE FLORENTIA)と刻まれていると述べ,脚注で典拠を挙げて,このアンドレアをアンドレア・グァルディとしている.

 脚注を含めたこの解説の立場としては,少なくとも「ルッジェーロ・サンセヴェリーノの墓碑」と,本堂後陣奥のカラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂の「セルジャンニ・カラッチョロの墓碑」の作者はアンドレア・グァルディであり,サンタ・モニカ礼拝堂のポルターユに付された彫刻はグァルディ工房の制作と言うことになるようだ.

 であれば.アンドレア・チッチョーネの他に,アンドレア・グァルディという,ともにフィレンツェを出自とする二人の彫刻家がカルボナーラ教会の芸術に関わったことになり,それはそれで分かりやすいが,これに関しては,これ以上考えても混乱を来たすので,その可能性もあるという程度に理解しておく.


フィレンツェの二組の兄弟
 今回,二人のアンドレア・ダ・フィレンツェという彫刻家について学習したが,他にもフィレンツェからナポリに来て仕事をした彫刻家たちがいる.

 アンドレア・グァルディより遥かに有名で,後の世代に属するフィレンツェの彫刻家アントニオ・ロッセリーノジュリアーノベネデットのダ・マイアーノ兄弟がナポリで活躍し,特にジュリアーノはナポリで亡くなっている.

 アントニオ・ロッセリーノが1475年に,サンタンナ・デイ・ロンバルディ教会ピッコローミニ礼拝堂で,ナポリ王フェルディナンド1世の娘アラゴンのマリアの墓碑と「キリスト誕生」を作成し,ベネデット・ダ・マイアーノが1485年から89年にかけて残りを完成させた.

 教会の拝観もできていないので,もちろんこの礼拝堂は今回見ていない.しかし,写真や解説を見る限り,フィレンツェのルネサンスがナポリに影響を及ぼしたとしたら,最も重要な事例のひとつと言っても過言ではない空間に思える.

 ピッコローミニ礼拝堂は,フィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂の「ポルトガル人枢機卿の礼拝堂」を手本にしている.コズマーティ風装飾を使った床,赤斑岩に大理石の彫刻を組み合わせた墓碑,テンペラ祭壇画と浅浮彫の違いはあるが,宗教的主題の芸術で装飾された祭壇,腰掛を配しながら,その上部に受胎告知のフレスコ画のある壁面などは良く似ており,墓碑がある壁面に左右の違いはあるが,写真で見る限り,酷似していると言っても許されるだろう.

 「ポルトガル人枢機卿の礼拝堂」には,レオン=バッティスタ・アルベルティ,アントニオ・マネッティ,ルーカ・デッラ・ロッビア,アントニオ・ポッライオーロ,アレッソ・バルドヴィネッティというフィレンツェの初期ルネサンスを支えた芸術家たちが関わったが,ベルナルドとアントニオのロッセリーノ兄弟も貢献した.

 ロッセリーノ兄弟のうちのアントニオがピッコローミニ礼拝堂の原案をつくり,フィレンツェ・ルネサンス彫刻の正統を受け継ぐ芸術家としてベネデット・ダ・マイアーノが完成させた.

 ベネデットはフィレンツェに帰り,1497年にフィレンツェで亡くなったが,兄のジュリアーノは1490年にナポリで客死し,盛大な葬儀がナポリで行なわれた.

写真:
カプアーナ門


 ジュリアーノは,弟のベネデットが彫刻も手掛け,現存作品が写真等により可視化が容易なのに対し,フィレンツェを中心に活躍した頃から,邸宅などの建築,設計がその仕事の中心で,ナポリでもそれは変わらなかった.

 ジュリアーノが仕事をした王宮,邸宅を今回全く見ていないが,唯一,宿の近くにあって,街に出る時に眺める機会に恵まれたのが,カプアーナ門だ.

 城壁が残っていないので,防衛上の意味よりも,凱旋門のイメージが強いように思われるが,両側の石積みの塔は重厚で,城砦の一部のように見える.彼の師筋にあたる建築家にイル・フランチョーネがおり,この人物が設計した城壁に付随する円筒形の「稜堡」をサン・ジミニャーノで見ている.

 稜堡のように見える両側の塔の間に大理石で門が作られ,コリント式柱頭を使うなど装飾性が強く,華やかである.ナポリ滞在中,ほぼ毎日見ていたこの城門(実際には城壁が無いので城門とは言えない)が,フィレンツェの芸術家の設計であったことに今更ながら驚く.

 1478年のパッツィ事件に続く国家的危難を乗り越えるためにメディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコがナポリに渡り,時のナポリ王アラゴン家のフェルディナンド1世にその勇気を買われ,危機を乗り切ったとされる逸話は有名だが,この後,ダ・マイアーノ兄弟がナポリで仕事をするようになったのは偶然だろうか.


身廊左側壁にある作品
 さて,ナポリ芸術に対するフィレンツェの影響,またナポリの芸術環境に対する歴史的背景などは,いつの日か別途考察するとして,カルボナーラ教会で見て印象に残ったものを整理する.

 後陣とその奥の礼拝堂から始まって,後陣に向って左側に一周してみる.後陣のラディズラオ王墓碑については前述の通りである.

 後陣のさらに奥のカラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂にはセルジャンニ・カラッチョロの墓碑,壁面を埋めるフレスコ画,マヨルカ焼きタイルの床装飾があるが,これらについては次回,報告する.

 サンタ・モニカ礼拝堂と対を為して,聖具室とともに左翼廊を形成するように見えるカラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂とその中に飾られた墓碑彫刻についても次回,報告する.

 カラッチョロ・ディ・ヴィーコ礼拝堂の左隣に,聖具室に向かう通路があり,そこに現在はカポディモンテ美術館に収められているヴァザーリの連作画があった.

 その隣の壁面にはミケランジェロ・ナッケリーノ「恩寵の聖母子」の壁龕型祭壇彫刻(1578年)がある.この彫刻家も1550年にフィレンツェで生まれ,ジャンボローニャに学び,1573年にナポリ王国に移住し,ナポリ,パレルモに活躍の場を得た.そうした実績を評価されてのことか,現在,フィレンツェのボーボリ庭園の「アダムとイヴのグロッタ」(1817年)に収められている「アダムとイヴ」像(1616)を作成し,1622年にナポリで亡くなった.

 レッコ礼拝堂(もしくはプレゼーペ礼拝堂)には,別名の元になったピエトロ・アラマンノとジョヴァンニ・アラマンノ作のプレゼーペ(キリスト降誕場面の模型)がかつてあったが,現在は,サン・マルティーノ国立博物館に所蔵されている.

 拝観時には,カラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂の床装飾のマヨルカ(またはマヨリカ)焼き陶板タイル(日本語ウィキペディア「マヨリカ焼き」が詳細で有益だが,タイルについての情報は無い)のオリジナル・パネルとその修復、保存に関する解説板が展示されていたと記憶する.

 その左隣の壁面に,デチオ・トラモンターノ作の油彩祭壇画「ロザリオの聖母子」を収めた大理石祭壇がある.

 この画家に関しては探した限りではウィキペディアでの立項はないが,グーグルの画像検索で多くの絵が見られ,ウェブページに彼の経歴と業績が紹介されている.典拠も明示されているので,信頼して良いであろう.現在ナポリ都市圏地域に属しているブルシャーノに生まれた16世紀の画家で,「ロザリオの聖母子」も1556年の制作とのことだ.

写真:
ミロバッロ家祭壇


 さらに左隣にはミロバッロ家祭壇(15世紀末)がある.コモ出身のトンマーゾ・マルヴィート,その子ジョヴァンニ=トンマーゾ・マルヴィート,ミラノ出身と思われるヤコポ・デッラ・ピーラ作の浅浮彫,壁龕彫刻を含む大理石祭壇で,左側面にロレンツォ・ヴァッカーロ作による浮彫の胸像に記銘板を付した「アントニオ・ミロバッロの墓碑」(1693年)が加えられている.ロンバルディア出身の芸術家たちがナポリで活躍した貴重な作例と言えよう.

 ミロバッロ家は,13世紀のシャルル・ダンジューの時代まで遡り,15世紀から栄えた貴族である.この祭壇は,アンジュー家からアラゴン家へと王権が移って行く時期のナポリにあって,政治,宗教において要職についていたブラシリアーノ侯爵アントニオ・ミロバッロという人物が,ヤコポ・デッラ・ピーラとトンマーゾ・マルヴィートに依頼したと思われる.

 ロンバルディア出身の彫刻家たちがナポリで活動し始めたのが,ヤコボは1471年,トンマーゾは1484年とされるので,最初はヤコポだけへの依頼だったとしても1471年以降のことであろうと推測される.

 アントニオ個人に関しては伊語版ウィキペディアにも立項が無いが,ミロバッロ家の家系を紹介したウェブページに拠ると,アントニオは1478年から1503年までレッテレの司教職にあったとのことなので,少なくとも1503年までは存命であったろうから,制作開始は1471年から1500年前後の間だったと思われる.

 大理石製の祭壇は,全体として凱旋門型の構築物の上に,リュネットがある構造になっており,アーチの奥は,壁面とその上部のリュネットから成っていて,四角い箱がアーチ型に刳られているようにも見える.垂直方向には,両脇の柱を含めて3面,水平方向には概ね4層に分けて見ていくことができよう.

 最下層は,両脇の柱の基層部には,中世のスティローフォロ(門柱下部を支える動物彫刻)のようなラインがそれぞれ置かれていた.頭部が祭壇全体より前に突き出ていて,安定感と力強さを感じさせる.彫刻としても見事なものに思われる.

 中央は,墓から上半身を出すキリストを,福音史家ヨハネと聖母が左右から支えるタイプのピエタの浮彫パネルで,その両側にはそれぞれ,2人のプットが花綱を持っている浮彫,それぞれの外側は張り出していて,内側にできた2面には,やはりプットが花綱を持っている浮彫が施されている.正面に張り出した部分にスティローフォロのライオンがいる.

 2層目は,奥の中央にアーチ型の壁龕があり,中には「福音史家ヨハネ」の立像が置かれている.若者ではなく老人の姿だが,足元に象徴物の鷲がいるので,福音史家ヨハネで間違いないだろう.この彫刻の作者は,地元の彫刻家ジョヴァンニ・ダ・ノーラとのことだ.

 この彫刻家は1488年に生まれ,1558年に亡くなっているので,同時代ではあるが,祭壇の制作は始めたロンバルディアに出自のある芸術家たちに対してかなり後進にあたるので,「福音史家ヨハネ象」は祭壇が完成して,しばらくたってから置かれたものと想像される.

 別の地方から来た彫刻家の仕事を,その作風から学びながら,地元出身の後進が仕上げていくという形は,カルボナーラ教会の礼拝堂,祭壇の彫刻によく見られる傾向であろうと思われる.

 いずれにせよ,福音史家のいる壁龕は,貝殻状の半穹窿天井の下に像があることで壁龕としては完結しているが,周辺に疑似遠近法の手法による装飾が施されている.アーチの下側と,それを支える壁雄内側を奥行きを感じさせるように表現し,前者には,格間の中に花と熾天使の浮彫,後者には上下になった2体ずつの「告知する天使」の浮彫が左右それぞれに配されている.

 福音史家ヨハネの壁龕の両脇にやはり,貝殻状の半穹窿天井のある壁龕があり,左右にそれぞれ,寓意女神像「節制」,「剛毅」が,また,さらに両側に張り出した面があって,そこにも同様の壁龕があり,寓意女神像「正義」が左に,「思慮」が右に置かれている.

 3層目は奥の三つの壁龕の上に一つの大きなリュネットがあって,そこには「玉座の聖母子と聖人たち」の浮彫があり,聖母子の下には「ただお一人(他に)例無く」(SOLA SINE EXEMPLO)というおそらく聖母を讃えるアンティフォナ(典礼で歌われる聖歌の一種)の一節が刻まれている.

 聖人は左が洗礼者ヨハネ,右は福音史家ヨハネと思われるが,それぞれ,アントニオ・ミロバッロとその妻を聖母子に紹介している.

 半円アーチには当然ながら,奥行きがあり,アーチ型に張り出している内側の天井部分を「内輪」(英語ではintrados,イタリア語ではイントラドッソ)と言うが,そこには規則的に交互に繰り交わされる熾天使と,八角形型の花模様の浮彫が施され,格天井のようになっている.

 アーチの上の,アーチの頂点のところで左右に分かれる空間については,「三角小間」とか「窓小間」という日本語訳のある英語のspandrelという名称があるようだが,伊英辞典ではこれに対応する語はティンパーノまたはペンナッキオと書いてあり,これだと私たちは,前者をタンパン,後者をペンデンティヴかスキンチの意味に受け取ってしまうので,とりあえずスパンドレルと言っておくことにする.

 このスパンドレルには,有翼の勝利の女神(ギリシア語でニケ,ラテン語でウィクトリア)が槍先に敵将から奪った甲冑(トロパイオン/トロパエウム/trophy)をかざした姿で向かい合っている.持っているものは違うが向かい合う勝利の女神がスパンドレルにいるのは,フォロ・ロマーノのティトゥス凱旋門(後81年)を思い起こさせる。

 一番上の4層目の半円状部分には,中央に二人の天使に支えられるメダイオンの中に祝福を与えるキリストの浮彫,最上部には大天使ミカエル,両脇には左側にペテロ,右側にパウロの像がある.

 ミラバッロ家祭壇の左隣には,バボッチョ周辺の彫刻家作とされる古風な大理石聖母子像が置かれ,やはりバボッチョ周辺作家作とされる「アンジェリッロ・マンコの墓碑」があり,その周辺には15世紀の氏名不詳のカンパーニアの画家による古拙なフレスコ画「トレンティーノの聖ニコラウスの生涯」が残っている.

 ここまでが身廊左側壁(単廊式なので,側廊にはなっていない)で,ファサード裏に目を向けると,右手に 「カルミネの聖母の祭壇」の壁龕があり,ミケランジェロ・ナッケリーノ作の「聖母子」像,壁龕の上にはトンマーゾ・マルヴィート作「永遠の父」の高浮彫がある.左手には「聖母マリアのお清め(≒イエスの神殿奉献)の祭壇」があって、浅浮彫の「お清め」(神殿奉献)と「全能の神」はアンニーバレ・カッカヴェッロによる16世紀の作品とされる。

 この2つの祭壇の間に、記念碑のような大理石の装飾を施した入り口があり、本来はファサードだったであろう壁の向こうに、ソンマ礼拝堂がある。


ソンマ礼拝堂
 この礼拝堂は、身廊を挟んで反対側にあるカラッチョロ・デル・ソーレ礼拝堂より天井は低いが、広い方形の空間で、壁面と天井は壁画「キリストの受難の物語と預言者たち」で埋め尽くされている。

 この壁画について,伊語版ウィキペディアはフレスコ画としているが、現場の解説プレートには油彩とあった。規模から言うとフレスコ画と言いたいところだが、絵の感じは油彩画に見える。16世紀前半から半ばにかけての氏名不詳のナポリの画家の作品とのことだ。確かに傑作とは思えないが、これだけの分量の絵の仕事があったということは、当時は一定の評価を得ていた画家だったのであろう。

 コリント式柱頭の柱を装飾的に使い、幾何学的均整を意識した内部はジョヴァンニ=ドメニコ・ダウリアとアンニーバレ・カッカヴェッロの設計で、1557年から66年にかけて制作され、堂内にはダウリア作の「被昇天の聖母」の浮彫がある祭壇と,カッカヴェッロ作の「シピオーネ・ソンマの墓碑」がある.どちらも完成度の高い立派な芸術作品に思える.

写真:
シピオーネ・ソンマの墓碑


 シピオーネ・ソンマに関しては,ウェブ上のソンマ家の紹介ページによれば,神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)治下のナポリ王国で指揮官として活躍した軍人で,領内の諸地域をフランス,ヴェネツィア,トルコといった対外勢力から解放したとのことだ.

 ソンマ家の出自はロンバルディアとも,ヴェスヴィオ火山近隣のテッレ・ディ・ソンマとも言われ不詳だが,アンジュー家のカルロ2世に仕えたニコラという人物までは遡ることができ,現在はモリーゼ州イゼルニア県に属するミランダの領主としてナポリ王国の貴族となった.

 15世紀までは男爵であったが, 16世紀末から別の地の伯爵(コンテ),侯爵(マルケーゼ)を経てミランダ公爵(ドゥーカ)となり最終的には,現在はカンパーニャ州ベネヴェント県に属するコッレの君主(プリンチペ:教皇,神聖ローマ皇帝,ナポリ王が授けた一種の爵位とも言うべき地位)となった.

 この過程で,シピオーネの果たした役割は大きかった可能性はあるが,ソンマ家の別の紹介ページも参照すると,彼自身は1581年からチルチェッロの侯爵に封じられ(伊語版ウィキペディア),1605年に亡くなっている.

 妻はアトリパルダ公女カテリーナ・カラッチョロとのことなので,この教会と縁が深い名門と通婚していたことになるが,亡くなったのが,1605年ということであれば,礼拝堂の設計者の一人で,墓碑の制作者とされるカッカヴェッロの死が1570年なので,死の30年以上前に制作依頼されたことになる.

 ナポリ王でもある,神聖ローマ皇帝,スペイン王の寵遇を得て,上り坂の地方貴族がナポリの名門社会に食い込んでいく過程で,その証としての礼拝堂,墓碑制作であったのだろうか.


ナポリ王国
 ソンマ礼拝堂を出て身廊に戻り,後陣に向って今度は右側壁を眺めると,一番手前にデボリ・ディ・カストロピニャーノ礼拝堂がある.

 この礼拝堂にある「フランチェスコ・デボリの墓碑」は18世紀の氏名不詳の彫刻家の作品ということで,であれば,墓の主はおそらくカストピニャーノ公爵フランチェスコ・デボリ(もしくはデヴォリ)という人物であろう.

 この人物については伊語版ウィキペディアに立項されているので,現在はモリーゼ州カンポバッソ県に属しているカソトロピニャーノの生まれで,1758年ナポリで亡くなった,軍人,外交官であったことがわかるが,今のところ,それほど興味を惹かれない.

 しかし,スペイン継承戦争,オーストリア継承戦争に関わったと聞くと,前者は,フランスのルイ14世の時代,後者は,オーストリアのマリア・テレジアの時代ということになり,個人の生きた大きな時代背景,「世界史」を意識させられる.

 さらにこの礼拝堂には,やはり18世紀の氏名不詳の彫刻家による「ザノビア・レベルテラの墓碑」があるが,向かい合った「フランチェスコ・デボリの墓碑」とよく似た地味な墓碑で,特に目を惹くものではない.

 この女性は英語版ウィキペディアに立項があり,それによるとフランチェスコの妻だったようだ.宮廷に出仕し,ナポリ王妃に仕え,王妃を通して国王に影響したことが夫の出世にもつながったとのことだ.

 修復工事を意図したものか,床に大きな穴があけられ,地下の空洞に向って階段があり,地下にも祭壇のようなものがおぼろげながら見えたので,あるいは地下は墓室になっているのかも知れないが,じっくり見られるような状態ではなかったし,鉄柵越しにズームで撮った写真も良く写っていないので,分からない.

 ただ,仕えた王妃がザクセン出身のマリーア・アマーリアであり,とすればその夫は,後にスペイン王カルロス3世となる人物ということになる.彼はファルネーゼ家出身の母エリザベッタの縁でパルマ公爵(カルロ1世)となり,そのあとナポリ王(カルロ7世)とシチリア王(カルロ5世)を兼務し,最後にスペイン王となった.

 副王(国王代理の総督)がスペインから派遣され,その後一時的にオーストリアの支配下に入ったナポリに,「国王」が君臨するのは,1504年以来,231年ぶり(1735年)で,カルロ7世がスペイン王としてマドリッドに移った後も,彼の子フェルディナンドが,ナポリ王としては4世,シチリア王としては3世として,ナポリに宮廷を置いた.

 ただし,1806年にナポリの王権はナポレオンに奪われ,ナポレオンの兄と義弟が相次いでナポリ王になった.ナポレオン失脚後,フェルディナンドがナポリに復帰し,名称としては存在していた「両シチリア王国」のフェルディナンド1世としてナポリに君臨した.

 その後,フランチェスコ1世,フェルディナンド2世,フランチェスコ2世と,「両シチリア」王位は1861年に新生の統一イタリア王国に併合されるまで継承されたが,フランチェスコ2世は廃位され,ローマ教皇の賓客としてローマで暮らした.フェルディナンド1世からフランチェスコ2世まで4人の両シチリア王の墓所はすべてナポリのサンタ・キアーラ聖堂にある.

 以上のように,カルロ7世がナポリ王(シチリア王兼務)となった時代(1734-59年)は,フランス革命(1789年),ナポレオン戦争(1799-1815年),イタリア統一(1861年)を控えた激動期だったし,彼がナポリ王になる前のナポリは,スペイン継承戦争の余波で,オーストリアの支配下にあった(1713年のユトレヒト条約以後21年).

 彼は,カゼルタの王宮をはじめとする,現在世界遺産に登録されている幾つかの建築物を建造し始め,ファルネーゼ家のコレクションをナポリに齎し,ポンペイ,エルコラーノの発掘を推進した,プロイセン王フリードリヒ2世,ロシア皇帝エカテリーナ2世を思わせる啓蒙専制君主と言って良く,結果的にパルマはオーストリアの手に渡り,スペイン王としてははかばかしい治績をあげることができなかったとしても,少なくともナポリ王だった時代に,都市ナポリには現代以前の最後の繁栄を齎した.

 教会の一礼拝堂から「世界史」を想起すると言うのは大げさかも知れないけれど,修復や管理によってギリギリかつての繁栄を偲ばせる堂内にあって,まかり間違えば廃墟と見まがうばかりのデボリ・ディ・カストロピニャーノ礼拝堂にある2つの地味な墓碑について何か調べようと思っただけで,ナポリという都市の歴史の渦に吸い込まれるように,ナポリ,イタリア,地中海,ヨーロッパ,世界と連想が繋がっていく.


身廊右側壁にある作品
 先を急いで身廊右側壁を進んでいく.まずアントニオ・ガレアッツォ・ディートリの墓碑石板が壁に飾られていて,その先に伊語版ウィキペディアでジョヴァンニ・ダ・ガエタ作の15世紀の「受胎告知」の板絵(ターヴォラ),Wikigalleryではカンヴァス油彩の「洗礼者ヨハネと告知する天使」として写真が掲載されている作品がある.

 しかし,撮って来た写真を確認する限り,板絵でもカンヴァス画でもなくフレスコ画で,確かに「受胎告知」ではあろうが,告知する天使の後ろに多分,洗礼者ヨハネと思われる聖人が描かれ,告知が行なわれる室内が克明に描かれていても,マリアの姿は残っていない.しかし,花冠を被り,ピンクの衣を着てほっそりとした少女のようなガブリエルが美しく,巧拙はともかく,古雅な美しい絵に思えた.

写真:
「洗礼者ヨハネと
受胎告知の天使」


 ジョヴァンニ・ダ・ガエタ(ガエタ出身のジョヴァンニ)本人に関しては,伊語版ウィキペディアにも立項が無いが,「ジョヴァンニ・ダ・ガエタの磔刑像」という記事が伊語版ウィキペディアにあり,また簡単だが英語版ウィキペディアには画家本人が立項されている.そこでは,カルボナーラ教会の「聖母被昇天」の作者とされている.これは「受胎告知」の間違いだろう(2020年4月5日参照).

 伊語版ウィキペディアの「磔刑像」は写真で見る限り,一瞬フィレンツェ周辺で良く見るロレンツォ・モナコの磔刑像に似ているように思えたが,磔刑柱にしがみつくマグダラのマリアの華やかさが,やはり既にルネサンス期の画家なのだと思わせられる.

 英語版ウィキペディアはアッバーテという専門家の著書を典拠に,ナポリで仕事をしたレオナルド・ダ・ベゾッツォと,ナポリに滞在した可能性のあるピザネッロの影響があるとしている.前者は後述するように,カルボナーラ教会で大きな仕事しているが,後者も1448年にナポリで仕事をした(英語版ウィキペディア「ピザネッロ」)とされている.

 であれば,大きな意味では「国際ゴシック」の流れの中にいる画家で,カンパーニャの遅い後期ゴシック(英語版ウィキペディア)という説明はまずまず妥当だろう.

 ジョヴァンニ・ダ・ガエタの生没年は不明だが,カルボナーラ教会のフレスコ画が彼の作品だとすれば,前述の磔刑像が1460年頃の作品とされている(伊語版ウィキペディア)ことから,フィレンツェではとうに初期ルネサンスから盛期ルネサンスに移行しようという時期に活動していたと推測される.マザッチョは1428年,フラ・アンジェリコは1455年に亡くなっている.それにしてはカルボナーラ教会のフレスコ画は,特に床の描き方を見ると遠近法を完全には消化していないように見える.

 おそらく受胎告知の場面の両側に聖人がいる絵だったと思われるが,洗礼者ヨハネ(教会名の記念聖人)と対になっていた聖人は誰だったのか,分からない.後述するラディズラオ王墓碑のある後陣への入り口の両脇の彫刻の組み合わせを考えると,或いはアウグスティヌス(教会を支える修道会の名称になった聖人)であったかも知れない.

 断片になってしまったが,反対側側壁にあった「トレンティーノの聖ニコラウスの物語」ともに,今後もずっとこの教会の壁に残っていてほしい絵だ.

 このフレスコ画の左隣には,そこからこの教会に入堂した入り口があり,その向こうには,「聖母子と聖人たち」の絵が掲げられている.16世紀の氏名不詳の画家の作品とのことだ.トスカーナなら,リドルフォ・デル・ギルランダイオが描くようなルネサンスからマニエリスムへの移行の予言するような絵に思われ,まずまず上手な絵だと思うが,有力な教会に飾られた端整な絵でも,作者の名前は伝わらない場合は少なくない.

 その絵が嵌め込まれた彫刻祭壇は,レッコ祭壇と称され,制作者はトンマーゾ・マルヴィートで,反対側のミロバッロ祭壇と同じ作者ということになる.

 その左隣にはアルジェント礼拝堂があり,堂内にはガエターノ・アルジェントの墓碑(ラテン語の碑銘がありガエタヌス・アルゲンティウスと記されている)がある.墓碑はフェルディナンド・サンフェリーチェの設計に基づいて,フランチェスコ・パガーノが制作した(1730年).

 この礼拝堂は本来はエピファニア(ご公現)礼拝堂で,入り口のコリント式柱頭の飾り角柱のある凱旋門型アーチは,1500年代の南イタリアの氏名不詳の彫刻家の作品とのことだ.

 ガエターノ・アルジェントは,伊語版ウィキペディアに拠れば,ラテン語とイタリア語の著書が少なくとも1冊ずつある知識人で,法律家,政治家であったようだが,彼が要職についた1707年から彼の死の1730年を挟んで,1735年までナポリはオーストリアの支配下にあり,その体制の中で彼は活動したことになる.

 さらに左隣のクローチフィッソ(磔刑のキリスト)礼拝堂には, 15世紀の氏名不詳の彫刻家による「ファビオ・カラッチョロの墓碑」があるとされている(伊語版ウィキペディア)が,左側壁にある,鎧を着た中年の人物が肘枕で横たわっているジサンのような高浮彫のあるものがそれであれば,確かに立派なものだが,素人目にはバロック期の作品に見える.

 正面奥には古代石棺に似せて作られたような墓碑,床にはフランチェスコ・カラッチョロ(フランキスクス・ガラッキオルス)の墓碑があり,ランパンのライオンの家紋と,ラテン語の墓碑銘があり,1541年に40歳で亡くなったと読める.

 ネットでファビオ・カラッチョロを検索すると,ベルギーの同名のサッカー選手の記事がたくさんヒットするがナポリのファビオは見つからない.フランチェスコ・カラッチョロで検索すると,同名の海軍提督で革命家として処刑された18世紀の人物が見つかった.ナポリの貴族の出身とあるので,縁者ではあろうが,この礼拝堂の被埋葬者でないだろう.ネット検索では,この礼拝堂に眠っている人物について情報が得られない.

 この礼拝堂の入り口も,イオニア式柱頭のある飾り角柱のある凱旋門型で,レッコ祭壇,アルジェント礼拝堂,クローチフィッソ礼拝堂と3つ大理石のアーチが並んだ様子は,この教会のルネサンス期の遺産と言えよう.

 以上が身廊で,後陣と身廊はゴシックの尖頭型の巨大なアーチ型にくり抜かれた壁によって隔てられており,壁の左右下部にはそれぞれ,洗礼者ヨハネとアウグスティヌスの大理石立像がある.いずれもアンニーバレ・カッカヴェッロの作品ということで,16世紀の制作である.



 カルボナーラ教会において,見る者をナポリ芸術の世界に誘ってくれる最高傑作は, 間違いなく,「ラディズラオ王の墓碑」であろう.

 この墓碑の制作者がアンドレア・チッチョーネであれ,アンドレア・グァルディであれ,出身地のフィレンツェでは,それほどの芸術家とは評価されていなかったと思われる彫刻家であろう.

 細かく見て優れた作品なのかどうかを判断する能力も気力もないが,これを,何の予備知識もなく,初めて見た時,実はルネサンス期の作品なのに,ゴシック彫刻の傑作のように思え,ティーノ・ディ・カマイーノがナポリで活躍したことを知識として知っていたので,あるいはティーノ,もしくはその作風を受け継いだ彫刻家の作品かと思い,大いに胸が高鳴ったことを記しておく.







アントニオ・ミロバッロと
洗礼者ヨハネ
ミロバッロ家祭壇より