フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2018年8月27日
チボリ公園の遊園地
コペンハーゲン
§コペンハーゲン行 後編 彫刻博物館と国立博物館「ローマ,エトルリア」篇
前篇から8カ月も間が空いてしまったが,漸くコペンハーゲン行の後篇をまとめる.
前篇では彫刻博物館の「ギリシア彫刻」について報告しているが,「ギリシア彫刻」として紹介される彫刻のかなりの割合がローマン・コピーであり,ローマ時代を抜きにして古典古代彫刻を語ることはできない.
よって,今回は「ギリシア彫刻篇」に続き,「ローマ,エトルリア」の古代遺産についてまとめ,彫刻を見るためだけに行ったコペンハーゲンの旅の報告を完了したいと思う.
彫刻博物館の古代ローマ彫刻
旅の目的であったデモステネス像(ローマン・コピー)があった彫刻博物館の第5室(付番はあくまでも自分が周った順番で,正式なものではない)は肖像彫刻の部屋だったが,部屋一杯のギリシアの詩人や哲学者たちの像に交じって,「ローマ人男性」とプレートのついた胸像が複数あった.
第6室以降は,主にローマの歴史上の人物を題材に制作された胸像・全身像を,時代を区切って部屋を分けることにより,ローマ帝国滅亡までの変遷を肖像彫刻で辿ることができるような展示の仕方になっていた.
各部屋の時代
区切りとなる出来事,年代など
「共和政後期」
前1世紀
「帝政初期」
前27年の元首政開始から後60年のネロ帝の自殺まで
「四帝時代,フラウィウス朝,ネルウァ,トラヤヌスの時代」
トラヤヌスの死が117年
「ハドリアヌスからマルクス・アウレリウスの時代」
マルクス・アウレリウスの子コンモドゥスの暗殺が192年
「セウェルス朝の前後」
セウェルス朝は193年から235年
「危機の時代(軍人皇帝時代)」
235年から284年
「西ローマ滅亡までの時代」
284年のディオクレティアヌス即位,286年からの四分割統治,313年のミラノ勅令,476年の西ローマ滅亡が目安
各部屋の解説プレートの写真も幾つか撮ってきたので,それを参考にしながら時代を分類すると,正確に博物館の分類の通りではないかも知れないが,概ね上記のようになると思う.
帝政以前の人物だが,帝政初期の彫刻の部屋にあって人目を引くのが,ユリウス・カエサルのライヴァルだった
グナエウス・ポンペイウス・マグヌス
の胸像だ.
グナエウス・ポンペイウス・マグヌスの胸像
肖像性を持ったギリシア人の彫像は,多分,前5世紀の後半から存在するので,ギリシア文化の影響を受けているローマに前2世紀以前の肖像彫刻があっても不思議は無い.
しかし,コペンハーゲンの彫刻博物館の収蔵品で,前2世紀以前に作られた著名なローマ人の肖像彫刻は,私が見た限りでは無い.名前がわかっているローマ人の肖像彫刻は,紀元前106年に生まれ,天下分け目のパルサロスの戦いの敗戦後,前48年にエジプトで暗殺されたポンペイウスの胸像が最古のものである.
本人が亡くなったのが前1世紀だからと言って,現存作品が古いとは限らないが,敗れた側の人物であり,少なくともオリジナルは彼の生前に制作されたもの,もしくはそれを基にして死後,追慕のために制作されたものと思う.
スエトニウスの『ローマ皇帝伝』では,紀元前44年の3月15日に元老院でユリウス・カエサルが襲われたとき,暗殺者たちの中にマルクス・ブルトゥスの姿を認め,「子どもよ,お前もか」(カイ・スュ・テクノン)とギリシア語で呟いて絶命したのは,ポンペイウス顕彰のための像の前だったとされる.
多分,これは全身像だったと思われるが,知る限り,ポンペイウスの全身像は現存しない.
彫刻博物館のポンペイウス像に良く似た胸像を,少なくともヴェネツィア考古学博物館で見ているが,彫刻博物館とヴェネツィア考古学博物館の2つの胸像をポンペイウスとする根拠は何なのか,今は確認できていない.
複数(少なくとも2体)あるということは,よく知られた人物の胸像だった可能性は高いだろう.
写真:
特徴的な髪型の
ローマ女性像
ローマ彫刻の女性胸像は特徴的な髪型をしているものが多く,フロント部分の髪を高く盛り上げたそのスタイルは身分の高い女性の間で長く続いた流行のスタイルであったのか,諸方でしばしば見られる.コペンハーゲンの彫刻博物館にも複数あった.
興味深かったのは,その胸像の近くにあった裸体の全身像が,頭部の造作はお馴染みのローマ女性像そのものだが,手で胸と腰部を隠す所謂「羞恥のヴィーナス」(ウェヌス・プディカ)と同じ格好をしていたことだ.
顔と髪型を見る限り上流階級の女性のようだが,若い女性というよりは中年の年恰好に見え,若さと美が強調される女性裸体像にしては特異な感じがしたし,ウェヌス・プディカのような女神の「美」を表現したものというより,生身の人間の表現のように感じられ,目を見張らずにはいられなかった.どんな意図があって作られたのかわからないが,類例があるのであれば,調べてみたい.
帝政後期の胸像では,私の研究テーマの一つである「祝婚歌」も作ったという皇帝
ガリエヌス
(ガッリエーヌス)が目を引いた.
軍人皇帝時代と言われる内乱期の皇帝たちに関しては,これまであまり関心を持ったことがなく,正直,「皇帝」とされる人々の名前も良く知らなかったが,数年前に有力国立大学から赴任して同僚となった若い専門家の著訳書を通して,「軍人皇帝時代」にも興味を持つようになった.特にも,同僚が訳した,
トレベリウス・ポリオ「二人のガリエヌス伝」(アエリウス・スパルティアヌス他,桑山由文,井上文則(訳)『ローマ皇帝群像』3,京都大学学術出版会,2009)
に,ガリエヌスが優れた祝婚歌を書いたことが報告されている(pp.271-272).
写真:
皇帝ガリエヌス
ガリエヌスの父
ウァレリアヌス
はササン朝ペルシャとの戦い(
エデッサの戦い
)に敗れ,捕虜となって敵国に連行され,おそらくそこで亡くなった話は,私たちの時代には高校の世界史の教科書にも出て来たように思う.
現存する磨崖碑
に,もちろん事実とは限らないが,シャープール1世に跪いて助命を乞うウァレリアヌスの浮彫(跪いているのはフィリップス・アラプスという説もあるようだ)があり,その写真はよく紹介されている.このウァレリアヌスの胸像断片もこの博物館には展示されていた.
軍人皇帝時代にはほとんどの皇帝が寿命を全うできず,ガリエヌスもミラノ(メディオラヌム)で暗殺された.
軍人皇帝時代を開いたトラキア(現在のブルガリア共和国南東部,ギリシア共和国北東部,トルコ共和国のボスポラス海峡西側のヨーロッパ側領土)出身の
マクシミアヌス・トラクス
や,中近東出身とされる
フィリップス・アラブス
などの横顔が彫られた古銭も蒐集されており,本人にどこまで似ているのかは分からないが,これらもこの時代を考える上で貴重な資料と思われる.
古代ローマの伝説に依拠した彫刻では,複数の仔豚に乳を与える大きな雌豚の大理石像に目が留まった.なぜわざわざ豚の彫刻が大理石で作られたのかは,ローマの建国神話が関わっている.
トロイアの王族アエネアスは祖国滅亡後,地中海を越えて,祖先の故郷とされるイタリアの地へと亡命する.そして,ティベリス川(現在のテヴェレ川)の畔を仮の宿りとして,地元民の軍隊と戦を交えようとしていた時,河神ティベリヌスが現れ,英雄を励ますが,その言葉の中に,
巨大な雌豚が川岸の樫の木のもとに見つかる.
三十頭の仔を産み落として横たわっていよう.
地面に横たわった母豚も白く,乳房に群がる仔豚も白い.
(一行略)
この予兆のもと,三十年の歳月がめぐったとき,都を
アスカニウスが築き,アルバという輝かしい名をつけるだろう.
(『アエネイス』6巻43-48行)
(ウェルギリウス,岡道男/高橋宏幸(訳)『アエネイス』京都大学学術出版会,2001,p.350)
という一節がある.
アエネアスはラティウム地方の王ラティヌス(ラティーヌス)の娘ラウィニア(ラーウィーニア)を娶り,ラウィニウムを建国し王となるが,やがて天界に昇り,王位は先妻クレウサ(プリアモス王の娘,トロイア陥落の際に亡くなった)との間に生まれた息子ユルス・アスカニウスへ渡る.
その後,アスカニウスがラウィニアに王位を譲って,新たに建設した町がアルバ・ロンガで,アルバの王家からロムルスが出て,ローマを建国したとされる.
つまり,豚が白い(アルバ)ことと,アルバという都市名を関係づけた,一種の民間語源説に基づく伝承に依拠した彫刻ということだ.博物館の説明プレートでは「ラウレンテス地方の雌豚」(Den laurentinske So / The Laurentian Sow)と命名されている.
写真:
ラウレンテス地方
の雌豚
今までいい加減な記憶に頼って「白豚が長々と(ロンガ)寝そべった」から「アルバ・ロンガ」になったと人に言ったりしていたが,『アエネイス』本文には少なくとも,「アルバ」は出てくるけれど,「ロンガ」は使われていない.注釈書等の説明にも見当たらないので,私の思い込みだろう.
いずれにせよ,ローマ彫刻のコーナーで「豚」を見たら,『アエネイス』を読んだことがある人なら,都市アルバの,さらに後にはローマの建国伝説が関係しているとすぐに予想がつくくらいには有名な話だ.
カールスベイの仔豚は30頭もいなかったが,愛情溢れる造形だった.
ギリシア,ローマ関係のコレクションの他に,古代エジプト関連の収蔵品も立派だったが,以前に述べたように,これを観始めると,あまりにも魅力的できりがないので,このコーナーは足早に通り過ぎた.
予備知識がなかったが,古代エトルリアの発掘品を集めたコーナーも時代別に整理され,複数の部屋に展示されており,大変見事なものだった.もちろん,デンマークからエトルリアの遺物が出土するはずもないので,購入によるコレクションであろう.
テラコッタの神殿破風装飾彫刻,浮彫が見事な墓碑,黒光りするブッケロ陶器,線刻の施された銅鏡,エトルリア人のギリシア愛好(フィルヘレニズム)を物語る,幾何学文様,コリント式,アッティカ黒絵式,同赤絵式の陶器,墓所の壁面を飾ったフレスコ画(ただし,これはコピーのようだ)など,およそ「エトルリア」を想起させる殆どの種類の遺品が集められている.
国立博物館
当初の計画では,昼過ぎにコペンハーゲンに到着したら,まっすぐ二―・カールスベイ彫刻博物館に行き,閉館の21時まで見学して,翌日,
国立博物館
に行き,可能なら国立美術館を訪ねる予定だった.
彫刻博物館が21時まで開いているのと,博物館の方が開館時間が早かった(午前10時)ので,こういう予定を組んだが,2日目は朝食をゆっくり取ってもまだ博物館の開館まで間があったので,空港のインフォメーションでもらった観光地図を見ながら,いくつかの教会を訪ねることにした.
開いていたのはカトリックなら大司教座聖堂にあたるであろう聖母教会だけだが,幾つかの教会でゴシックの遺風を意識した外観などを楽しむことができた.
国立博物館は民族学コレクションが充実しており,アフリカ,西アジア,西南アジア,東南アジア,太平洋オセアニア,中央アジア,南北アメリカの民具,民芸品,日用品などがあり,私たちにはなじみ深い中国,韓国,日本の仏像,陶器,武具も見られる.中国の唐三彩などは豊富なコレクションがあった.
日本に関しては,仏壇,仏具,仏像,仏画,頂相など仏教関係だけでなく,武家の居宅と思われる和室まで再現していて優遇されている感があるが,なじみのあるものだけに,日本人の目からすると色々と違和感があって,あらまほしき展示とは言い難い.
しかし,古いものだけではなく,現代の日本の文化を紹介したコーナーがあるのに驚いた.その部屋には「コスプレーヤー」,「川平利光」という日本語の表示があり,コスプレと思われる写真が複数展示されていた.
写真:
コスプレを紹介する
コーナー
インターネットで検索すると2015年3月にオープンした「
Cosplayer! Manga Youth
」というタイトルの常設展のようで,川平氏は紹介されているコスプレーヤーの一人のようだ.このコーナーにはデンマーク唯一のプリクラがあるらしい.ゲーム,アニメ,コスプレ,同人誌といった日本の現代文化に対する海外の関心の高さが窺える.
これらの日本の現代文化の中にも,ギリシア神話,聖書,中世の騎士物語といった西洋の文化の影響が読み取れるので,広義では私の守備範囲と言えなくもないが,現在の私の関心は専らギリシア,ローマ,エトルリアの文化にある.
国立博物館の古代陶器のコレクションは,数ではカールスベイを上回ると思われる.幾何学文様,コリント式,黒絵式,赤絵式,白地レキュトス,プーリア式などの,酒杯,壺,皿,ともかく,その数の多さに驚く.
アレッツォで観た
チェラーミカ・シジッラータ
を思わせる浮彫のような装飾のある赤色陶器が複数あったが,いずれも前2世紀のシリアや紀元前後のエジプト産のもので,エトルリアの遺産ではないようだ.
ギリシア陶器に関して印象に残ったものを列挙すると,
幾何学文様
に近い古い陶器では,
「葬送儀礼の舞踊と戦車競技が描かれたワイン壺」(前8世紀後半)
コリント式ではスフインクスなど様々動植物文様の皿,壺(前8世紀後半)
黒絵式
では,「アテネの伝説上の建国者
エリクトニオス
が御者を務める競技戦車から飛び移るアテナ」(前6世紀後半),
「3人に見守られて女神アテナに迎えられる若者」(前6世紀後半,アマシスの画家),
「ヘルメス,アテナ,アリアドネに見守られてミノタウロスを殺すテセウス」(紀元前6世紀前半,アテネ出土,ロンドンの画家),
「ゼウスの額から生まれるアテナ」(前6世紀後半),
赤絵式
では「オリュンポスに迎えられるヘラクレス」(前5世紀前半,アテネ出土,トロイロスの画家).
プーリア式陶器
では,「贈り物に囲まれて小神殿で女神に捧げ物をしている少年が描かれた葬礼用壺」(前4世紀後半,コペンハーゲンの画家…「コペンハーゲンの画家」という作者名はこの壺に由来),
「有翼のエロスたち,鏡や花冠を持つ女性たち,水浴びする鳥などが描かれ,同型の小型壺を上に乗せた婚礼用の装飾瓶」(前4世紀後半)
が印象に残った.
写真:
エリクトニオスと
アテナ
アテネの伝説上の王の中で最も有名なのはテセウスで,トゥキュディデスの『歴史』でも史実の中に位置づける努力がなされ,プルタルコスの『対比列伝』(英雄伝)でもローマの建国者ロムルスと対比されて,伝記がまとめられている.
テセウスは,神話上は海神ポセイドンの子とされるが,一方で人間界の父はアテネ王アイゲウスとされ,高津春繁『ギリシア・ローマ神話辞典』(岩波書店,1960年)の巻末に付されたアテネ王家の系図を参照すると,アイゲウスの父がパンディオン(音引き省略),そこから父系を遡ると,ケクロプス,エレクテウス,パンディオン(前出と同名異人),エリクトニオスとなる.これには,当然ながら異伝もあるが,概ねアテネ王家の祖先と考えられている.
女神アテナの祭礼であるパナテナイア祭を創設し,四頭立て戦車競技を創始したとされるので,それが,上の写真の黒絵式陶器でアテナが乗っている馬車を御しているのがエリクトニオスとされる根拠となっていると考えられる.
エリクトニオスと血縁のない先代の王がアンピクティオン,その前がクラナオス,その前がエリクトニオスの子と同名のケクロプスという伝承もあるので,アテネ王家の始祖とまでは言えないが,アテネの建国神話に関係する主要な人物にまつわるエピソードを図像化した可能性のある陶器と言えよう.
写真:
テラコッタの壺
(前4世紀後半)
アラバスタ―製のエトルリアの骨灰棺も数点あり,「相打ちに果てるポリュネイケスとエテオクレス」,「オイノマオスを殺すペロプス」(キウージ近郊パラッザッチョのプルニ家の墓から出土,前2世紀前半)などおなじみの浮彫が施されていた.
立体的な小彫刻で装飾を施されたテラコッタの壺(前4世紀後半),鏡を入れる容器のテラコッタ製の蓋に施された「ディオニュソス,エロス,竪琴を奏でる女性」,「オレステスと思われる戦士」の浮彫(前2世紀後半),多分,副葬品として用いられたテラコッタや青銅の小彫刻など,ともかく見事なコレクションと言えよう.
写真:
「楽園のアダム」
シリア出土
紀元後6世紀
ギリシア・ローマの展示室のある階から降りていく階段には,古代末期のキリスト教主題の床モザイクの断片が壁に掛けられている.シリアで出土した紀元後6世紀のものだ.ここではギリシア文字で「アダム」と書かれた楽園で椅子に腰掛けている男性像のモザイク断片を紹介する.
その階段を通って,地階(日本式には1階)に降りると,中世のデンマークの芸術遺産が展示されている.これがまた,かつて教会を支えていた石造柱頭,石彫の聖人像,古拙なフレスコ画,木彫の磔刑像,鍍金やエナメル細工の聖櫃など,そのままそこで数時間を費やしても悔いのないほど立派なコレクションに思われた.
ここで,持参のコンデジがSDカードのエラーで動かなくなったので,涙を呑んで退館し,駅の近くにあった,西南アジア方面から来たとおぼしき人が経営している店で新しいSDカードを買って一旦宿に戻った.
この後,国立博物館に戻ることも考えたが,エラーになったSDカードのデータが復旧できるかどうか分からなかったので,前日のニー・カールスベイ彫刻博物館のデータが失われた可能性を考慮して,もう一度写真を撮りに行くことにした.
コペンハーゲン・カードが同一箇所に何度も有効とは思えなかったので,新たに入館料を払うつもりだったが,常にそうなのかどうか確信がないけれど,少なくともその時に窓口にいた男性は「何の問題も無い」と言ってコペンハーゲン・カードで再び入館させてくれた.
このトラブルのせいで
国立美術館
に行く時間はなくなり,コペンハーゲン・カードを使って見学したのは彫刻博物館(2回)と国立博物館だけで,使い放題の交通機関も,どちらの博物館も中央駅も宿から近かったので,空港からの行き帰りに電車を利用しただけとなった.
結果的にコペンハーゲン・カードの購入は割高なものについたが,これさえ持っていれば市内の公共交通機関が乗り放題で,いちいち券を買ったりせずに大抵のところにはすぐに移動できるという安心感を買ったと思い,納得している.
2つの博物館を見て思うこと
この日は閉館時間が19時だったので,そこまでずっと彫刻博物館にいて,館員の皆さんに「昨日も来たよね」と言われながら,多少の交流もして,破損してデータが消えた可能性があると思われた(実際にはあとで復旧できた)カードに入っているギリシア彫刻の写真を撮り直し,前日は夕方で暗い時に写真を撮った石棺や床モザイクの写真を撮り直した.
前日は不十分にしか観られなかったエトルリアの遺産を丁寧に観て,写真にも納めた.さすがに2日連続だったので,古代遺産に関しては,かなり充実した鑑賞ができた.
彫刻博物館の建築は展示の仕方も興味深い.古代遺産を見せてくれる部屋に囲まれた,天窓のある屋根付き
アトリウム
の床中央に「牡牛に運ばれるエウロパ」を中心とした床モザイクがあり,それを囲むように古代彫刻,石棺が配されている.
これら一つ一つについて,できれば勉強してみたいが,今はその余裕がない.撮ってきた写真,解説プレート,購入済みもしくはこれから入手できる案内書,研究書を参考に少しずつ学んで行きたい.
デンマークの12世紀の木彫鍍金磔刑像(部分) 国立博物館
コペンハーゲンの私が観た2つの博物館は古代ギリシア,ローマを研究するのに貴重な材料を提供しているのは間違いないが,日本人にとってはそう何度も行ける場所ではない.
国立博物館の中世デンマークのキリスト教遺産は,特に17世紀以降のデンマークにおいてプロテスタントが主流となってからは,北欧にキリスト教とその図像表現が浸透,独自の展開を見せる過程をかなり詳細に知る機会を提供してくれると思う.
有名な黄金の祭壇(12世紀前半),それぞれ別の修道院が出自の12世紀と13世紀の磔刑像は特に興味深く,12世紀と13世紀で,キリストの顔が全く違う(後者は新しすぎるので,あるいは後世の改変が施されているかも知れないと思う程だ)のに驚く.
これらには大変心惹かれたが,途中でデジカメが叛乱を起こしたのは,これは全くお前の守備範囲ではないという天の声であろうと思う.
中世デンマークのキリスト教遺産をもう少し見たかったし,ヴァイキングが遺した船,船具,日用品などは全く見ていない.図録,案内書,ウェブページを確認すると,カールスベイ彫刻博物館でも見ていないものも少なくないようだ.しかし,自分の年齢を考えると,多分,これがコペンハーゲンを訪れる最後の機会だったろう.残念だが仕方がない.
その最高傑作は今の世に遺っていないとしても,ギリシア,ローマの諸芸術はやはり魅力的であることを,コペンハーゲンの2つの博物館で再確認することができた.
待降節のコパンハーゲンの町は,クリスマスに向けて街路が華やかに装飾されていた.
ヨーロッパの他の町と同じように寿司その他の日本食の店も多く,印象に残ったことはいっぱいあるが,イタリアでは,少なくとも私は見たことがないセブン-イレブンの店舗の多さに驚いた.
空港でコペンハーゲン・カードその他を入手した時の感じからいって,少額でもクレジットカード決済が主流に思われたので,ユーロからデンマーク・クローネへの交換は全くしなかったが正解だった.キャッシュレスが徹底的に進んでいるのは驚くほどだ.どちらが良いということではないが,イタリアは日本ほどではないが,少額の買い物では現金決済が中心なので,コペンハーゲンの町は余計に近未来都市のように思えた.
彫刻博物館の道を挟んだ隣が,遊園地も併設している
チボリ公園
で,ジェットコースターの運転音や歓声がギリシア彫刻の展示室まで聞こえてくる.
チボリ公園はコペンハーゲン・カードで入園できるはずだが,研究出張だし,博物館優先で入らなかった.当時は遊園地はなかっただろうが,アンデルセンが通って思索したという公園なので行く意味はあったと思うが,時間がなかった.
なぜかは知らないが,「世界三大ガッカリ」の観光名所の一つとされることもある,有名な人魚像もその他の観光スポットも全く行っていない.2泊3日でフィレンツェからチューリヒ乗り換えで行った旅としては,2つの博物館と1つの教会,それと幾つかの教会の外観を見ただけだ.でも有益な旅だったと思う.
バーガーキングとセブン-イレブンが向かい合う
コペンハーゲンの街