フィレンツェだより第2章
2018年2月25日



 




北欧の冬の旅
コペンハーゲン駅



§コペンハーゲン行 ‐ 前篇 彫刻博物館「ギリシア彫刻」篇

コペンハーゲンに行きたかった理由の95パーセントは,古代アテネの弁論家デモステネスの全身像を見たいということにあった.


 デモステネスの像に関しては,プルタルコス『対比列伝』(英雄伝)の「デモステネス伝」(「キケロ伝」と一対)に言及があり,肖像性の高い彫像が作られたことは間違いない.

 現存するデモステネスの全身像,胸像の顔はほぼ共通している.やや神経質そうで峻厳な表情のこの男性像には多分,デモステネス本人に関する肖像性があるだろう.仮に伝言ゲームの途中経過みたいな誤伝があったとしても,ある時からデモステネスだとして伝わって来たことは間違いなく,少なくとも現時点において,デモステネスの像であることを否定する理由はない.


ローマで,コペンハーゲンに行く理由を見失う
 ところが,コペンハーゲンに先立って別の目的で行ったローマで,ヴァティカン博物館のブラッチョ・ヌォーヴォ(「新しい腕」:新館)において,このデモステネスの全身像に出会うという事件が起きた.

 ブラッチョ・ヌォーヴォは,2014年の再訪の際は閉まっていて見られなかった.2006年の初訪の時の記憶は曖昧だが,恐らく今回初めて見たのだと思う.

 とすると,以前,エルミタージュでデモステネス像とされる胸像(通常のデモステネス像とは少し違って見える)を見て,少し整理した際に,「私たちはヴァティカン美術館で,彼の立像を見ている」と言っているのは,思い込みによる誤解だったことになる.

 それどころか,これが本当なら,わざわざコペンハーゲンに行く理由は最初から無かったことになるし,上記のように言っていながら,ブラッチョ・ヌォーヴォでデモステネスの全身像を見て驚くとは,間が抜けているとしか言いようがない.

 ヴァティカンの像も,コペンハーゲンの像も,多分,現存しないオリジナルからのローマン・コピーなので,似ているのは当たり前だが,写真で見て憧れていたコペンハーゲンの全身像と較べて素人目には寸分違わぬように見える像を見て,コペンハーゲンに行く理由がかなり薄れた.

 デモステネスの胸像は各地で複数見ているが,全身像は未見だったから,そのためにコペンハーゲン出張を計画し,教授会の承認を得たので,今更ながら自分の勉強不足に少なからずショックを覚えた.

写真:
デモステネス
二ー・カールスベイ彫刻博物館
コペンハーゲン


 ショックなことはもう一つあった.いずれ報告するが,12月のローマ出張の主要な目的は,ヴィラ・ジュリア・エトルリア博物館再訪と,ヴァティカン博物館で悲劇詩人ソポクレスの全身像を見ることにあった.

 ソポクレスの有名な全身像(これもローマン・コピー)については,ヴァティカン博物館のムゼーオ・グレゴリアーノ・プロファーノ(「世俗の」と言う意味の「プロファーノ」はこの際,「非キリスト教」と言う意味であろう)で無事見ることができたが,これとは全く違うソポクレスの全身像がブラッチョ・ヌォーヴォにあるのを見て,これについても知らなかったので,また大いに恥じ入り,勉強にもなった.

 要は筆舌に尽くし難いほどヴァティカンが凄いということだが,コペンハーゲンでもまた,自分の無知を思い知る体験をし,人生観が変わるほど勉強になったので,やはり行って良かった.



 直前に行ったナポリは,聞きしに勝る個性に満ちた町だった.多くの人から気をつけろと散々言われたのに,スリ被害にあい,雑多なエネルギーにまみれてフィレンツェに戻った翌々日に行ったコペンハーゲンは,清潔,便利,上品で,昔流行った言葉で言うと「近未来都市」のように思えた.

 職場は都心にあって,日常の多くの時間をその現代性の中で過ごしていても,それで一括りするには東京は余りにも巨大で,数多ある魅力に統一感を持つのは難しい.それに比べて,コペンハーゲンは一国の首都としては小さいこともあるが,まとまった雰囲気を醸している.

 ともかく直前がナポリで,前近代的要素が少なくないイタリアに滞在していることもあり,コペンハーゲンの空港に着いた時,夢を見ているのではないかと思った.

 ナポリに行くとき,その話をした殆ど全員からスリに気をつけろと忠告され,それでもスリ被害に遭ったが,コペンハーゲンに関しては,やはり殆どの人から「なぜこの時期にそんな寒い所に行くのだ」と言われ,自分でもそう思っていたので,覚悟していた.

 しかし,幸いなことに,12月14日から2泊3日の間はそれほど寒くは無かった.高校時代に経験した盛岡の冬の方が大変だったと思ったが,2泊3日の旅なので,偶然の巡り合わせだろう.

 宿はBooking.com,飛行機はGoogleの地図検索から入ったスイス航空のHPで予約し,フィレンツェ・ペレトーラ空港(アメリゴ・ヴェスプッチ空港)から,チューリヒ乗り換えのスイス航空便でコペンハーゲンに向かった.

 フィレンツェ9時50分出発の便は30分くらい遅れて出たので,乗り換えのチューリッヒ到着が遅れ,飛行機が待ってくれていて,私が最後の搭乗客だった.

 コペンハーゲンに時間通り12時25分に着くと,乗り物と複数の博物館の料金を含むコペンハーゲン・カード72時間券を購入し,電車で中央駅まで行って,そこから徒歩で宿に向かった.

 チェックインは前日ウェブ上で済んでいで,鍵は無く,チェックイン時に知らされた暗証番号で扉を開けるシステムだったので,荷物を置くとすぐに彫刻博物館に向かった.12月14日は木曜日で,この曜日は,普段は18時閉館のニー・カールスベイ彫刻博物館(以下,彫刻博物館)が22時まで開いているはずだった.


ニー・カールスベイ彫刻博物館
 彫刻博物館の創設者は,デンマーク語を勉強したことがないので,カールスベイと言う読み方で良いかどうかわからないが,英語ならカールスバーグ,ドイツ語ならカールスベルクになるだろう名前で,カール・ヤコブセンという人物である.

 大学時代,ニーチェで卒論を書き,大学院で哲学の専攻することを目指していた友人が,当時ワセダにあった語学教育研究所の設置科目のデンマーク語の授業を,ニーチェとの関連でキルケゴールを勉強するために履修していた.

 その志の高さに憧れ,自分も馬場下の交差点近くにあった小さな洋書店「アテネ書房」で,英語で書かれたデンマーク語の教科書を買い,その頃住んでいた高円寺の都丸書店にたまたま売っていたアリストテレス『霊魂論』のデンマーク語訳を買って,実家に置いていた.

 老後の楽しみと思っていたデンマーク語だが,もう「老後」が近くなった今は,どちらも津波で流れてしまい,多分,デンマーク語を勉強することは今後も無いであろう.

 友人が,デンマーク語担当の先生から,「この授業を取る人の殆どはアンデルセンかキルケゴールを勉強したい人だ」と言われたそうだ.

 私たちがアンデルセンと言う読み方をしている作家は,原語の発音ではアナスンに近いという情報がネット上にある(日本語ウィキペディア「ハンス・クリスチャン・アンデルセン」)ので,多分「ヤコブセン」という表記も原語とは違うであろうが,彫刻博物館の創設者を慣例に従い,カール・ヤコブセンと表記することにする.

写真:
ニー・カールスベイ
彫刻博物館


 私たちが「カールスバーグ」として知っているビール会社の創業者がヤコブ・クリスチャン・ヤコブセンで,その息子がカール・クリスチャン・ヒルマン・ヤコブセン,通称カール・ヤコブセンである.

 息子が一時的に父と袂を分かって創業したビール会社が「新カールスバーグ」で,「新」が英語のnewにあたる「ニー」(ニイ)で,この新会社の経営者だった時に,カールが創設したのが,彫刻博物館である.

 したがって「新」(ニー)は彫刻博物館にかかるのではなく会社名のカールスベイ(カールスバーグ)にかかる.あまりこだわるようなことではないかも知れないが,私自身が何で彫刻博物館に「新」が付くのだろうと思っていたので,一応整理してみた.日本語ウィキペディア「ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館」にもこの情報は簡単に分かりやすく紹介されている.

 1906年に新旧のカールスバーグ社は再統合されたが,彫刻博物館の名前には「新」が残った.

 いずれにしても産業革命後の先進国で,事業で成功を収めた資本家が本気になって収集を行うと,どれだけのものを集められるか,その財力のほどを窺わせる収集品の量と質である.

 カールの死は1914年,博物館の創設は1882年なので,一つ一つの作品に今ほどの高値はつかなかっただろうし,資本家が一般人に対して圧倒的に金持ちであった時代だったから,これだけの物を集められたという面もあるかも知れない.

 博物館はカールの死後100年以上経った現在も,デンマークどころかヨーロッパを代表する博物館で有り続けているので,創設者の死後も,収集と収蔵品の充実は継続したものと思われる.

写真:
収蔵品が所狭しと
並ぶ展示室


 彫刻博物館(グリュプトテーク)の名称には先例があり,バイエルン国王ルートヴィヒ1世がその収集品を展示したことに起源を持つ彫刻博物館がミュンヘンにある.ミュンヘンの場合も,コペンハーゲンの場合も,核になるコレクションは古代彫刻であり,グリュプトテークという名称もギリシア語が語源である.

 グリュポー(グリュフォー)(glypho)という動詞があり,「(私は)彫る」(古典語は辞書登録形が直説法・能動相・現在・1人称・単数)という意味で,そこから派生したグリュプトン(glypton)が「彫刻」を意味するようになる.

 テークの部分もギリシア語のテーケー(theke)から来ており,ティテーミ(tithemi)「置く」という動詞から派生した名詞で,「置く場所,納める場所,箱,容器,入れ物」というような意味になる.

 他に,ドイツ語のビブリオテーク「図書館」(ギリシア語ではビブリオテーケー)の語源は,「ビブリオン(本)を収める場所」,ピナコテーク「絵画館」(ギリシア語ではピナコテーケー)の語源は「絵(を描く板)(ピナクス)を収める場所」ということになる.

 図書館,絵画館はイタリア語でもビブリオテーカ,ピナコテーカという同語源の語が用いられる.

 ビブリオテーケー,ピナコテーケーは古代ギリシア語にも存在したようだが,グリュプトテーケーという語は古代語辞典には登録されておらず,ミュンヘンに彫刻博物館が創設された際(1830年)の造語と思われる.

 コペンハーゲンの彫刻博物館も,古代彫刻がメインと考えて良いだろうが,新古典主義のカノーヴァ,フランスの巨匠ロダン,ノルウェー生まれでデンマークに帰化しパリで亡くなったシンディング,19世紀デンマーク彫刻の黄金時代を開いたトルヴァルセン,ドイツ生まれだが,デンマークで活躍し同地で亡くなったフロイントなど,近代の傑作彫刻も観られた.

 トルヴァルセンの崇高なキリスト像は翌朝行った聖母大聖堂で観ることができたし,彫刻博物館でもフロイントの「トール像」など,北欧神話の神々などの彫刻は特に印象に残った.


ロダン ヴィクトル・ユーゴーの記念像 ブロンズ


 ロダンの作品は,「カレーの市民」,「考える人」,「青銅時代」など有名な作品(同じ鋳型で複数の同じ作品が作られ諸方にある)もあったが,大作家ヴィクトル・ユゴーの胸像が複数あり,ユゴーの記念碑とされる作品が印象に残った.

 彫刻博物館ではあるが,デンマーク絵画,印象派以降のフランス絵画のコレクションも立派に思えた.画家として高名なドガのブロンズ彫刻「14歳の踊り子の少女」が一押し作品のようだったが,これは見た記憶がなくて残念だ.

 ギリシア以前の古代でも,メソポタミアの作品もあるし,特にエジプト彫刻のコレクションは立派だったが,これを見出すと,時間がいくらあっても足りないので,どこの博物館に行ってもエジプト彫刻からは目をそらすことにしている.


「詩人」たち
 2泊3日の旅だが,3日目は飛行機の時間が早く,何にも活動ができないので,着いたその日も有効に時間を使いたかった.上述のように荷物を置きに宿に寄っただけで,最大の目的であるデモステネス像に会うべく彫刻博物館に急いだ.

 到着すると,空港で買ったコペンハーゲン・カードを提示して入場し,ロッカーにコートを預けて,カメラを持って,古代石棺が飾ってある中庭を通り,4頭の堂々たるライオン石像が置かれたエントランス・ホールに着いた.

写真:
ライオン石像のある
エントランス・ホール

先に進むと
床モザイクのある大広間


 ホールの先には古代床モザイクを囲むように神像と浮彫パネルが飾られた神殿風の中央大広間(アトリウム)があり,この大広間の周囲にギリシア,ローマの彫刻の展示室が複数ある.エントランス・ホールを右に進み,反時計回りに第1室から順番にぐるりと見て行った.

 ギリシアの墓碑,神殿装飾と奉納物,神像,肖像彫刻,その後,ローマの時代別の肖像彫刻に割り当てられた諸室をめぐって,エジプトのコレクションにはなるべく目を向けないようにしながら一周したが,デモステネスの全身像は見つからなかった.

 コペンハーゲンまで来たのに,どこかの特別展に出張中であったり,修復中で見られない結果に終わるのかと不安になりながら,知的な感じのする長身の年配男性の係員に訪ねたが,この方のお仕事は何か間違いが生じないように監視することなので,無理もないことだが,デモステネスという名前もご存じではなく,何も情報は得られなかった.

 これだけ見事なコレクションなのだから,たとえデモステネスに会えなくても,間違いなくここまで来た甲斐はあるのだと気を取り直して,1室目から丁寧に見て行くことにした.

 結果的に言えば,5室目の肖像彫刻の部屋に,見落とすはずもない存在感を放ちながら,弁論家はいた.「鎮座」と言いたいところだが,立ち姿なので,座ってはいない.

写真:
デモステネス(右端)は
ソポクレス,
エウリピデスたちと一緒に
第5室にいた


 第1室では,躍動感に満ちたライオン,見事に様式化されたスフィンクスやセイレンが魅力的だったし,人物たちの浮彫のある墓碑が見事だった.

 小さな第2室では.前400年頃のオリジナル作品「風の女神」全身像の断片,広い第3室ではローマン・コピーだが,「傷ついたアマゾン兵士」が立派だった.第3室には,ニオベの娘,息子,レダと白鳥,アルテミスとイピゲネイアなど神話に取材したギリシア彫刻のローマン・コピーを観ることできた.

写真:
「風の女神」断片
前400年頃


 第5室は,殆どが胸像の肖像彫刻だが,ポリュムニア(抒情詩),クリオ(歴史),メルポメネ(悲劇),エラト(恋愛詩)などミューズ(詩神)たち(ムーサイ)の全身像やその断片から展示が始まる.

 竪琴を持ったエラトの側に,恋愛詩人アナクレオンの全身立像があった.ローマン・コピーだが,顔は,メディチ・リッカルディ宮殿の古代大理石胸像博物館(ムゼオ・デイ・マルミ)所蔵の胸像によく似ている.メディチ・リッカルディの方が引き締まった美形に出来上がっているが,似ているのは間違いない.

 コペンハーゲンの全身像は頭頂部が切り取られており,両肩に衣服をかけただけの裸体像で,下半身が完全に裸なのは,何となく滑稽に見える.しかし,抒情詩人の全身像は貴重な作例と思われ,観ることができて良かった.

 博物館の説明板にも「想像上の肖像彫刻」とあるように,アナクレオンが生きていた時代(前6世紀)は,ギリシアで肖像性のある彫刻が作成されるようになる以前なので,本人の姿を反映しているものではないと思われる.

 1887年に発見され,現在はローマのカピトリーニ博物館にある,もともとヘルマ柱の一部だった胸像にアナクレオンという記銘があり,それと顔が似ているので,全身像もアナクレオンと考えられるようになったことは,以前ウフィッツィ美術館所蔵のアナクレオンとされる胸像との関連で報告した.

写真:
アナクレオン像


 この全身像は,ローマのあるラティウム地方の北東に位置するサビーニー連山にあったモンテ・カルヴォのローマ時代の別荘跡で1835年に発掘され,その際に上述の詩神たち,およびやはり詩人と考えられる男性の全身座像とともに発見された.少なくとも上記の4体の詩神像とアナクレオンともう一人の詩人像は,この彫刻博物館の所有である.

 博物館で,図録

 Flemming Johansen, Catalogue: Greek Portraits, Copenhagen: Ny Carlsberg Gryptotek, 1992(以下,ヨハンセン)

を購入したが,この図録では同時に発見されたもう1体の詩人像をアルキロコスとしている.ただし,根拠は示されず,アルキロコスの記銘のある像は無いことと,アルカイオスの可能性も考えられることにも言及していて,あくまでも可能性の示唆に過ぎない.

 現在の博物館の解説板には「腰かけている詩人」とあるだけで,アルキロコスという言及はない.

 「詩人」とする根拠は,詩神たちの像とアナクレオン像とともに別荘跡に置かれていたことと,アナクレオン像と同じく,不完全に残っている腕の形から言って,竪琴を爪弾いている姿だったと考えられることだろう.

 たとえ,このローマン・コピーのオリジナルの制作者がアルキロコスかアルカイオスと考えていたとしても,アナクレオンよりも年長の詩人たちなので,想像上の肖像彫刻だったのは間違いない.


ダブル・ハーム
 詩人の全身像は他にはないが,胸像は,叙事詩人ホメロス(2体),悲劇作家アイスキュロス,ソポクレス(2体),エウリピデス(2体)のものがあり,喜劇作家メナンドロス,名前が特定されない「ギリシアの詩人」(4体)があった.

 こうした胸像の多くは,一種の道祖神のようなヘルマ柱(日本語ウィキペディア「ヘルマ」は英語版の部分訳と思われるが有用)だったと思われる.

 2人の胸像が「背中合わせ」(頭部だけのこともある)になっているヘルマ柱があり,英語ではdouble hermと言うが,有名なダブル・ハームとして,ベルリン美術館の古代美術コレクションの「ソクラテスとセネカ」がある.

 山ほど残っているソクラテスの胸像は,どれも似た特徴があって,それがプラトン『饗宴』におけるアルキビアデスの演説「ソクラテス讃美」とかなり合致する.それを備えたこのダブル・ハームの一方がソクラテスであることはほぼ間違いない.

 一方,セネカに関しては「セネカ」という記銘があり,最近公刊,翻訳された名著,

 ジェイムズ・ロム,志内一興(訳)『セネカ 哲学する政治家:ネロ宮廷の日々』白水社,2016


では,この像がセネカの真の肖像であるとしているが,私自身は,タキトゥス『年代記』の,セネカが若い頃から病弱で,自死の際に痩せていることが障害となったという記述と,ベルリンの肥満のセネカ像には矛盾があるように思え,賛成できない.

 しかし,ルーベンスの「四人の哲学者」にも描き込まれた,長らくセネカ像として伝わってきたが現在は否定されている痩せた蓬髪の「伝セネカ像」より,ベルリンのセネカ像に肖像性があるとする考えが有力なのは間違いないだろう.


ダブル・ハーム 伝セネカ(ヘシオドス?)とウェルギルウス(エンニウス?)


 コペンハーゲンの彫刻博物館にもダブル・ハームがあり,目を見張った.一方は,かなり破損しているが,間違いなく私たちが「伝セネカ」として知っている男性像(上の写真右)である.

 ベルリンのダブル・ハームが哲学者の組み合わせであるように,組み合わせに意味があるとすれば,哲学者,詩人,歴史家(ナポリの考古学博物館にはヘロドトスとトゥキュディデスのダブル・ハームがある),弁論家,政治家,将軍などが考えられる.

 博物館の解説板は伝セネカ(ヘシオドス?)とウェルギルウス(エンニウス?)としているが,「?」を付した括弧内だけではなく,最初に示した名前にもシングル・クォーテーション・マークが付されており,いずれも確証がないことが,それによって示されている.

 私の研究テーマはまさにそれを対象としているが,哲学者セネカはギリシア悲劇をラテン語で翻案した作品を書いた「詩人」でもある.ということは,セネカあるいはヘシオドスと,ウェルギリウス,エンニウスとの組み合わせは「詩人」同士のダブル・ハームと言えないことはない.

 ただ,古代にもセネカが悲劇を書いたことに言及しているように思われる人物(クィンティリアヌス)もいるが,セネカはあくまでも政治家,弁論家,哲学者であって,「詩人」としての認識は一般的ではない.

 現在の哲学史的観点からすると,セネカを「哲学者」としてソクラテスと組み合わせることは過大評価に思われるかも知れないが,ベルリンのダブル・ハームはギリシアとローマのそれぞれの代表的哲学者を表していると考えれば,極めて納得のいきやすい組み合わせと言える.

 そのような観点からコペンハーゲンのダブル・ハームを考えると,伝セネカとされた像は実は古代ギリシアでホメロスに次ぐ詩人と考えられていたヘシオドスで,もう一方の詩人は,農事暦を詩の題材としたヘシオドスに対応し,その影響を受けながら『農耕詩』(ゲオルギカ)を書いたウェルギリウスの「詩人」のダブル・ハームだとすれば,後世の人間からはまことに都合が良い.

 伝セネカ像をヘシオドスの肖像とする考えもあったことは,やはり以前簡単に言及している.実際にヨハンセンは,このダブル・ハームをヘシオドスとウェルギリウスに同定しようという試みがなされてきたことを報告している.

 一方で,ヨハンセンのデータには,いかなる根拠からかは示されていないが,このダブル・ハームのオリジナルは前2世紀のギリシアのものであり,この像は前1世紀のローマン・コピーとしており,この推定が正しければ,前8世紀の人物と考えられるヘシオドスはともかく,紀元前70年に生まれたウェルギリウスの像では有り得ないことになる.

 これに決着が付けられるような肖像性に説得力のあるウェルギリウス像は残念ながら現存しない.現存する最古のウェルギリウス像はチュニジアの国立バルド博物館に残る2人の詩神に囲まれたモザイクの詩人像で,手に持つ巻物に『アエネイス』の1節があるのでウェルギリウスだとされているが,3世紀の作品であれば,詩人の没後200年以上経っており,肖像性があるとは考えにくい.

 以上,オリジナルの推定制作年代も含めて考えると,最も説明がつく仮説としてはヘシオドスとエンニウス(前3世紀後半から前2世紀前半)ということになる.英語版ウィキペディアはエンニウスの項目でコペンハーゲンのダブル・ハームの写真を使っているが,根拠は示されていない.

 エンニウスに関しては,ENNIVSと言う記銘のあるモザイクと,日本の特別展に出展されたこともある,アッピア街道のスキピオ家の墓にあったとされる「伝エンニウス」胸像があるが,それらにエンニウスの肖像性があるとは考えにくい.

 したがって,何か新発見でもない限り,コペンハーゲンのダブル・ハームの一方がエンニウスであるという仮説を証明するのは難しい.

 しかし,今回,ダブル・ハームについて考えたことで,「伝セネカ像」について自分の中で分かったことがある.

 「伝セネカ像」の人物描写には分かりやすいインパクトがあり,「漁師」など一般人の胸像の可能性があるとも言われている.しかし,これが全身像も含めてヨーロッパ中の多くの博物館に伝わっており,ダブル・ハームにも使われているという事実から見て,セネカやヘシオドスではないにしても,誰か名のある人の肖像彫刻に違いないという確信を持つにいたった.


「哲学者」たち,「王」たち
 第5室には「詩人」の他に,哲学者ではソクラテス,プラトン,アリストテレス,エピクロス,クレアンテス,ヘルマコス,クリュシッポス,アンティステネス,ストア派のゼノンの像があり,弁論家として知られるアイスキネス(ヴァティカンと大英博物館の記銘像に類似),ヒュペレイデス(研究者の推定,別の研究者は弁論家のイソクラテスと推定)とされる像もあり,プラトンとゼノン像が立派だった.

 ギリシア一の彫刻家ペイディアス(フェイディアス)とされる胸像もあったが,大英博物館にある女神アテナ像の楯の浮彫が,伝統的にペイディアス像とされ,それに似ていることから推測されたらしいが,ヨハンセンも解説板も「?」を付している.

 アエネアスとされることもある胸像もあったが,これはそもそも実在の人物とは考えられず,実在したとしても紀元前13世紀の英雄の名を冠した像に肖像性があるとは思えない.


第5室の肖像彫刻 左から ソポクレス,プラトン,エウリピデス,ゼノン


 かつて私がアルキビアデス像と思っていたのとほぼ同じ人物と思われる胸像があったが,博物館の解説はアレクサンドロス大王の父,ピリッポス2世としていた.ヨハンセンの解説は「かつてアルキビアデス像と一般的に考えられていた」としながらも,やはりピリッポス2世としていた.

 アレクサンドロスの母方の血縁で,ローマを一時的に危機に陥れたエペイロスの王ピュッロスとされる像もあったが,「?」が付されている.アレクサンドロスの後継者とされるプトレマイオス王朝の諸王の像とされる胸像もあった.

 アレクサンドロス大王の像も複数あったが,最も立派だったのは解説板では4世紀の原作のローマン・コピーとされ,ヨハンセンの解説にはアレクサンドリアで発見されたという触れ込みで,パリで1894年に購入されたとあるものだった.

 ルーヴルにある胸像が本人を見て彫ったオリジナルに最も近いとすれば,それとはだいぶ趣の異なる繊細な美青年として表現されており,本人には似ていないかも知れないが,これはこれで魅力的なので最後に,その写真を紹介する,

 コペンハーゲンの彫刻博物館についてどのようにしたら簡潔にまとめられるか見当もつかないので,とりあえず,最大の目当てだったデモステネスの全身像,本来なら知っていて当然だったアナクレオンの全身像(これについては「フィレンツェだより」でも言及したことがあるが,コペンハーゲンに行った時点では全く忘れていた),誰の肖像かは不確かだが,伝セネカ像が一方に使われていたダブル・ハーム(これは存在自体を知らなかった)を観たことで,古代肖像彫刻についてますます興味を深めることができたということを述べて,次回に続く,とする.







アレクサンドロス大王
ニー・カールスベイ彫刻博物館