フィレンツェだより第2章
2018年2月15日



 




ヴィターレ・ダ・ボローニャ
「聖母戴冠」



§ボローニャ行 後篇

ボローニャにはいつでも行けるという意識があって,一時帰国後はエミリア=ロマーニャの都市巡りにエネルギーを注いでいるうちに冬になり,3回目のボローニャ行が実現したのは12月24日のクリスマス・イヴの日だった


 この日は夕方,複数の人と約束があったので,時間効率を優先し,ローカル線ではなくイタロで往復したが,よく遅れるイタロのこと,この時も帰りの便のボローニャ到着が遅れ,サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅で待ち合わせていた友人に,到着が遅れる見込みであると連絡する羽目になった.

 しかし,区間によっては時速300キロで走るイタロは,がんばってその遅れを回復し,修正した予定を再び修正する連絡が必要となった.



 クリスマス・イヴであることが教会の拝観にどのように影響するかは不明だったが,今回は国立絵画館がメインだったので,教会に関しては,幾つかでも拝観できれば良しという構えで臨んだ.

 ボローニャ駅に着くと,いつものようにインディペンデンツァ通りを南進し,旧市街に入った.大聖堂の前を通って,サン・ペトロニオ聖堂の前のピアッツァ・マッジョーレに出ると,ペトロニオ聖堂に向って右側(西)に曲がり,クァットロ・ノヴェンブレ(11月4日)通りに進んだ.

 目当ては,この通りを真っ直ぐ行って,ポルタ・ヌォーヴァをくぐった先にあるサン・フランチェスコ聖堂だったが,途中,何度かその前を通ったことはあるものの,開いているのを初めて見たサン・サルヴァトーレ教会(以下,サルヴァトーレ教会)を拝観した.


サン・サルヴァトーレ教会
 献堂が1623年なので,新しい教会といえよう.それでも,この教会には中世の遺産も少なくとも2点存在する.シモーネ・デイ・クローチフィッシの「聖母子」と,ヴィターレ・ダ・ボローニャの多翼祭壇画「聖母戴冠」である.

写真:
シモーネ・デイ・
クローチフィッシ,あるいは
リッポ・ディ・ダルマシオの
「聖母子」


 イタリアの教会でよく見かけるタイプの祭壇に,古くからのキリスト教遺産として崇敬の対象になっている中世以前の小さな「聖母子」を,大きな装飾枠の真ん中にガラスで保護して祀ったものがあるが,サルヴァトーレ教会の「聖母子」は,それに似ている.

 宝石(だと思う)を散りばめたアーチ型の額に収められ,その両脇には彩色木彫の天使の姿の燭台が置かれ,大事にされているこの小さな絵を遠目で見て,名のある画家の作品かどうかを見極めるのは素人には難しい.

 こうした作者不明の古い聖母子は,古拙な感じのものが多いが,サルヴァトーレ教会の聖母子は何らかの根拠によって,ボローニャのゴシック芸術を代表するシモーネ・デイ・クローチフィッシの作とされている.

 この画家について立項した伊語版ウィキペディアに作品リストがあり,サルヴァトーレ教会の「聖母子」も,元々マドンナ・デル・モンテ教会にあった「玉座の聖母子」,通称「勝利の聖母」として挙げられているうえ,教会に関する説明のところでもシモーネの作品としている.

 ところが,堂内のイタリア語,フランス語,英語による,写真を付した比較的詳細な解説板では,リッポ・ディ・ダルマシオの作品とされており,郊外の丘の頂にあり,現在は別の建物になっているマドンナ・デル・モンテ教会にあったという情報は共通しているところからすると,この作品の作者に関して記録的根拠は無いのだろうと想像する.

 解説板には1443年8月14日にアンニーバレ・ベンティヴォーリオ,アキッレ・マルヴエッツィ,ディオニージ・カステッリに率いられたボローニャ市民が,ミラノ公爵の傭兵隊長ニッコロ・ピッチニーノの侵入軍を撃破したことにちなみ,「勝利の聖母」と称されるようになったとある.より若いリッポの死が1410年なので,これは作者の同定には決め手にならない.

 1400年以前に描かれたと推測され,であれば,1399年が没年と考えられているシモーネの作品である可能性も否定できない.

 以前,少し誤解してリッポがシモーネの義理の甥であるとフィレンツェだよりに書いているが,リッポの父ダルマシオがシモーネの姉妹ルチアと結婚し,その間にリッポが生まれているので,リッポはシモーネの血縁のある甥ということになる.

 最初の師匠は父であっただろうが,1374年に父が亡くなった時,19歳くらいの若者だったとすれば,血縁の叔父(伯父)でボローニャでは名のある画家だったシモーネがリッポの後見人となり,技術的指導をしたと想像しても許されるだろう.

 何よりも,この絵は,ジョット風のゴシックの峻厳な遺風が色濃いシモーネの他の作品に比して,国際ゴシックの影響かどうかは分からないが,華やかな色彩で,洗練性を備えたリッポもしくはその周辺の画家の作品と考える方が納得がいくように思う.

写真:
シモーネ・デイ・
クローチフィッシ

「玉座の聖母子と天使たち,
寄進者ジョヴァンニ・
ダ・ピアチェンツァ」(部分)


 前回の報告で,ベネデット教会の「聖母子」をリッポの作品と自分が納得する根拠として,国立絵画館の三翼祭壇画の中央パネルの「聖母子」の聖母とベネデット教会の聖母の顔が似ているように思えたことを挙げた.

 しかし,華やかな色彩や,聖母の顔の雰囲気の類似から考えるなら,国立絵画館に展示されているシモーネ作とされる「玉座の聖母子と天使たち,寄進者ジョヴァンニ・ダ・ピアチェンツァ」の聖母の顔もまた,これらによく似ていることを言って置かなければならない.

 上記3作の聖母子の作者の同定が正しいとすれば,両者は似たような聖母子を描いていることになり,作者を確定する記録等が無く,シモーネとリッポが共に存命だった時代の作品である場合,片方の可能性を排除するのは難しいと言えよう.

 私が考えても結論は出ないので,記録上の根拠が無いのであれば,とりあえず,両方の可能性があるとは思うが,個人的には教会の解説板に従ってリッポの作品と考えておきたい.


写真:ヴィターレ・ダ・ボローニャの多翼祭壇画「聖母戴冠」


 ヴィターレ・ダ・ボローニャの「聖母戴冠」は「多翼祭壇画」といわれているが,凸型の一枚の板に多翼祭壇型のパネルが組み込まれた,もしくはその形の枠の縁取りが施された小品で,中央の尖塔アーチのパネルには「聖母戴冠」,その両脇の細長い尖塔アーチ・パネルには(向かって)左側に「カンタベリーの聖トマス・ベケット」,右側に「洗礼者ヨハネ」が描かれている.トマス・ベケットの足許には「聖母戴冠」に向って修道士姿の寄進者が描かれている.

 ここまでは三翼祭壇画の形になっているが,それぞれその両脇に二段の半円アーチのパネルがあり,左側上部は「イエスの誕生」,下部は「聖ベネディクトと聖スコラスティカの対話」,右側上部は「アレクサンドリアの聖カタリナの殉教」,下部は「聖アウグスティヌスと聖アンブロシウス」が描かれている.

 なにせ「多翼祭壇画」と称されながらも小品で,覆っているガラス板が反射するため写真が写りにくいだけではなく,飾ってある位置も高めで,肉眼で鑑賞するのも困難を伴う.

 教会の解説板には1353年の7月6日に制作が依頼され,最初は現存しないサンタ・マリーア・ディ・レーノ教会にあったとあるが,依頼されたのがヴィターレであるとは書いていないので,この解説板の根拠となる記録には名前もあるのかも知れないし,無いのかも知れない.

 いずれにしても,複数のヴィターレの作品を観ていれば,小品ながら,素人目にもヴィターレの作品と思えるような存在感がある



 この教会は1623年の献堂で,建設開始が1606年なので,時代は既にバロックだが,伊語版ウィキペディアでは後期マニエリスム様式としている.

 見た目に新しく,大規模な教会は何でもバロックと思ってしまうので,どう区別をつけるのかは今後の課題である.確かにバロック教会に良く見られる派手な装飾はないので,そのあたりがバロックと区別するポイントになるのであれば分かりやすいのだが,そんなに単純な問題かどうかは今のところペンディングだ.

 堂内にある中世の作品は元々別の場所にあったものであるが,この教会礼拝堂や壁面に飾られているマニエリスム以降の作品(高水準のものが多い)の大半はこの教会のために描かれたのであろう.

 その中で,後陣に向って左側のファサードから2番目の礼拝堂にあるガロファロの作品「父ザカリアの前に跪く少年の洗礼者ヨハネと聖人たち」の制作年代は解説板にもないが,画家の死が1559年なので,これも元々は別の教会などのために描かれたのだろう.

 ボローニャの芸術は後期ルネサンスからマニエリスムの時代にはフェッラーラの画家たちの影響を受けており,ガロファロの絵がボローニャにあっても不思議は無い.

 その右隣の礼拝堂にもフェッラーラの画家の作品がある.先日フェッラーラの特別展で初めて知ったカルロ・ボノーニの「キリスト昇天」である.この画家は1632年が没年なので,この作品はこの教会のために描かれたのであろう.

 ボローニャとその周辺出身の画家の作品としては,インノチェンツォ・ダ・イーモラの「キリスト磔刑と聖人たち」,マステッレッタことジョヴァンニ=アンドレア・ドンドゥッチの「キリスト復活」,アレッサンドロ・ティアリーニの「聖家族」が挙げられる.この中でインノチェンツォの没年が1550年なのでやはり,この教会以外のために描いた絵であろう.

 高い場所にあったので,鑑賞も撮影も十分ではないが,ジローラモ・ダ・カルピ「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚」,ジローラモ・ダ・トレヴィーゾ「聖母の神殿奉献」,上記マステッレッタの「ユディトとホロフェルヌス」は確認できた.

 2人のジローラモは2人とも1555年前後が没年で,前者はフェッラーラの画家でエステ家の宮廷で活躍したとのことだ.当然,元々はこの教会以外のために描かれた作品と言うことになる.

 フィレンツェの画家の作品もあった.具体的には何を意味するのか今のところ調べがついていないが,解説板に「ベイルートの磔刑像」とある古代神殿を背景としたキリスト磔刑像のカンヴァス油彩祭壇画で,作者はヤコポ・コッピである.現在は空港のあるペレトーラで生まれ,フィレンツェで亡くなったフィレンツェのマニエリスムの画家である.没年が1591年なので,やはりこの教会の創建以前に描かれた絵だ.



 この教会で,気になる墓があった.ジョヴァンニ=フランチェスコ・バルビエーリと12歳下の弟パオロ=アントーニオ・バルビエーリの墓で,前者は画家グエルチーノの本名と記憶していた.

 帰宅後,伊語版ウィキペディアの写真を見ると,ラテン語の碑銘があり,「ここに(綴りが古典語のHICと違うHEIC)チェントを故郷とする画家兄弟ヨハンネス=フランキスクスとパウルス=アントニウス・ライボリーニの遺灰が(横たわっている).(チェントの)同胞市民たちが,ヨハンネス=フランキスクス,通称(ウルゴー)グエルチーノの誕生日の3世紀経って(この墓を)作った」と記されている.

 最後の「作った」は「P.」としか記されていないので,主語(CONCIVES)が複数形だから,勝手にproduxeruntの省略記号と考えたが,あるいは墓碑の約束事として別の語かも知れない.

 後世に改めて作成された墓碑にせよ,ともかくグエルチーノと先に亡くなった弟の墓である.その場で気づいて,写真を撮り,きちんとお参りしてくれば良かったが,気が急いていたので怠ってしまった.次回の課題である.


サン・フランチェスコ聖堂
 サルヴァトーレ教会を出て,クァットロ・ノヴェンブレ通りをさらに進んだ.チェーザレ・バッティスティーニ通りと交わった先はポルタ・ヌォーヴァ通りとなり,その東端にあるポルタ・ヌォーヴァ(新門)を出ると,大きな通りに出る.この大きな通りはバスを初めとする自動車の交通量の多い道だが,そのあたりだけピアッツァ・マルピーギ(マルピーギ広場)と称するようだ.

 ここまで来ると,以前,簡単に紹介した法学者たちのモニュメンタルな3基の墓と,鐘楼を含む,いかにもゴシックという姿の大教会の後陣が見える.未拝観のこの聖堂を,この日どうしても拝観したかったので,急ぎ足でマルピーギ広場を越えた.

写真:
サン・フランチェスコ聖堂
ファサード


 ファサードの前に初めて立った.「小屋型」で一見,アルプス以北のハッレン・キルヒェ型に見える.このタイプの教会であれば,三廊式でも身廊とその両側の側廊の天井の高さが同じくらいの場合が想像されるが,入堂すると,身廊の交差リブ・ヴォールトの天井の高さが圧倒的で,側廊の天井は低い.

 フランチェスコ会の教会なので,単廊式,エジプト十字型と言うのが多いはずだが,ボローニャのフランチェスコ聖堂はバジリカ型で翼廊はないように見える.しかし,写真を良く見ると身廊に交差する短い翼廊があるようだ.

 巡礼教会のように後陣を囲む周歩廊がある後陣は翼廊の躯体の後ろに丸く張り出しているので,この部分を十字架の頭の部分と考えればラテン十字型,そうでなければエジプト十字型に後陣の張り出しが付加されたタイプと言えよう.多分,前者だと思う.

写真:
回廊から見た
サン・フランチェスコ聖堂


 ファサードだけ見るとハッレン・キルヒェ型のようだが,側面に回ると,天井の低い側廊部分が身廊の躯体に付加されていることが分かる.

 さらに,身廊の躯体の側面から,側廊の屋根を跨いで側廊側面にかけて「飛び梁」(フライング・バットレス)が数本(と言う数え方で良いかどうか分からないが)ある.

 写真で見る限り,一方の側面に関して,交互に丈の高いものと低いものが3本ずつ,計6本の飛び梁がある.また後陣の張り出し部分にも写真を見て数えた限り7本(見えないだけで8本かも知れない)の飛び梁がある.

 フランス,スペイン,ドイツのゴシック教会だと,躯体の壁面を薄くして自重を減らし,より高い建物を建てるために,ステンドグラスと飛び梁が多用される.イタリアにもゴシック教会はたくさんあるが,飛び梁が重要な役割を果たしている教会としては,勉強不足だからだろうが,ミラノ大聖堂くらいしか思いつかない.ミラノ大聖堂の場合も,縦に林立する小塔装飾に埋もれて,なかなかその存在に気付かない.

 ミラノ大聖堂が化粧大理石に覆われて白く優美な姿であるのとは対照的に,ボローニャのフランチェスコ聖堂は,優美な洗練よりも質実剛健を重んじ,武骨なまでに装飾性を排しているように思える.

 この教会でも,ファサードの中央ポルターユはいかにもゴシック風の尖頭アーチ型であるが,大理石が使われており,その上部左右には浮彫が施された仕切り壁のような欄干があるが,これも大理石製で目を惹く.

写真:
中央祭壇の
大理石の祭壇衝立


 今回,初めてフランチェスコ聖堂の拝観が叶ったが,さすがにクリスマス・イヴともなれば,断続的にかなりの頻度で儀式が行われており,その間は堂内の見学は控えざるを得なかった.

 幸いに,修道院の回廊では古本市が,修道院の広間では大きなプレゼピオが公開されていたので,儀式の最中はそちらを見学しながら,堂内も半分くらいは見ることができた.

 ゴシック期,ルネサンス期の墓碑など興味深いものが少なくなかった中,最も魅かれたのは中央祭壇の大理石の祭壇衝立だった.後で確認したところ,ピエルパオロヤコベッロ・ダッレ・マゼーニェ兄弟の作品とされるようだ.

 この兄弟はヴェネツィア出身で,14世紀後半から15世紀初頭にかけて活躍したが,ボローニャにも複数の作品を遺している.ボローニャの市立中世博物館に飾られている法学者の講義風景の浮彫のある墓碑パネルについては,作者の名前は挙げてなかったが,以前紹介(下から3番目の写真)している

 今回,中央祭壇の近くまで行って鑑賞することは遠慮したが,きっと名のある彫刻家,もしくは現在は名前を伝わらなくても,当時はその実力を評価された名匠の作品であるに違いないと思い,斜め遠くからだが写真を撮らせてもらった.


「十字架」をテーマとする特別展,再び
 2回目(8月11日)の訪問の際に,市立芸術コレクション,市立中世博物館,12月24日に国立絵画館と3つの博物館,美術館を見た.

 2008年1月に初めて市立中世博物館に行った時,「マルコ・ゾッポの十字架とボローニャのピエロ・デッラ・フランチェスカ風文化」という特別展が開催されていた.ピエロの作品そのものは無かったので,全体としては地味な特別展だったが,ボローニャの芸術史に重要な足跡を遺したマルコ・ゾッポの名を知る契機となった.

 その時に買った図録は津波で流れたが,驚くべきことに10年近く経ったこの8月に,まだ博物館のブックショップで売られていて,再入手することができた.また,国立絵画館でゾッポの「聖ヒエロニュムス」に再会することができた.

 そして今回は,「1143年 ボローニャのサンタ・マリーア・マッジョーレ教会の再発見された十字架」という特別展が開催されており,ロマネスク期の興味深い石造の十字架,磔刑像を幾つか見ることができた.


左:「使徒たちと福音史家たちの十字架」 右:磔刑像断片を修復した石の十字架


 個人的には1159年にピエトロ・ダルベリコという彫刻家が作成した,一見古拙な造形に見える「使徒たちと福音史家たちの十字架」が魅力的に思えた.これには,私は見つけられなかったが,「アルベリクスの子ペトルスが私(十字架)を作った」というラテン語の記銘があったらしい.

 しかし,この特別展の目玉は,創建は5世紀に遡るが,現在は全く新しい教会になってしまっているサンタ・マリーア・マッジョーレ聖堂で発見された石灰岩の磔刑像断片を修復した石造十字架であるようだ.これも根拠となる記録があるのであろうか,1143年と言うはっきりとした制作年代が示されていた.

 他には,関連の彩色写本,花模様の浮彫の施された石板などが展示されていた.

 小さな冊子だが図録を買ってきたので,いつか勉強してみたいが,今のところ,この特別展を見たと言うだけのことだ.


ボローニャの芸術家
 市立芸術コレクションでも,ゴシック,ルネサンス,バロックの有名,無名の芸術家たちによる作品と再会し,これらについて何か言いたい気持ちはあるが,今回は特に,17世紀以降のボローニャの画家たちによるギリシア,ローマの神話・伝説を主題とする装飾絵画を見直したこと,また,同じ建物内の広間の壁面のフレスコ画の間に飾られたウルビーノの画家フェデリコ・バロッチの大きなカンヴァス油彩の宗教画「キリスト哀悼」がやはり傑作に思えたことを報告するに留める.

 バロッチの絵は前回もそうだったが,光が足りないのか,写真はうまく写らなくて残念だった.

 12月24日の国立絵画館の再訪では,ゴシック期の宗教画をかなり丁寧に見たので,ボローニャの美術家が一番輝いていたバロック絵画は,またしても時間切れで,辛うじてグイド・レーニとグエルチーノの作品を確認したに留まった.

 カッラッチ一族を始め,栄光のボローニャ派のその他の画家たちの作品を観るために,何とか時間を作って,もう一度だけボローニャに行き,しっかりとした鑑賞を果たしたい.

写真:
グイド・カニャッチ
「ホロフェルヌスの首を
皿に乗せて持つユディト
と侍女」


 2008年1月にボローニャに来たとき,駅で「もう一人のグイド」というタイトルのフォルリで開催されていた特別展の宣伝ポスターを見た.もう一人のグイドとは,グイド・カニャッチのことで,とても魅力的な特別展に思えたが,見に行くことができず,それ以来ずっとこの画家を意識している.

 今回は国立絵画館で1点の作品をしっかり鑑賞することができた.「ホロフェルヌスの首を皿に乗せて持つユディトと侍女」で,彼自身もカラヴァッジョの影響を受けたことはリヨン美術館の「ルクレティアの自殺」について紹介した際に学んだが,このユディトは,カラヴァッジョやその影響を受けた画家たちとのユディトとは一線を画した,カニャッチの個性に溢れた作品だと思う.

 傑作かどうかの判断は保留するが,印象に残る作品だったので,写真を紹介する.

写真:
ロレンツォ・コスタ
「奏楽の天使たちに
囲まれた被昇天の聖母」


 最後に,奇をてらっていると思われるかも知れないが,フェッラーラ出身でボローニャで活躍したロレンツォ・コスタの,彼の作品にしては地味な「奏楽の天使たちに囲まれた被昇天の聖母」を紹介する.

 この作品に再会したかったのは,スペインのオビエドにあるアストゥリアス美術館で出会ったペドロ・ベルゲーテの絵に良く似ていると思っているからだ.

 ベルゲーテの作品は,浮遊感(浮揚感と言うべきかも知れないが,今まで「浮遊感」と言って来たので,当面それで通す)があって,一見「聖母被昇天」のようだが,説明プレートには「聖母戴冠」とあり,購入した図録でもそのように記載されていて,それを不思議に思って,当時,それについて可能な限り考察を試みた.

 コスタの作品でも,天使たちがマンドルラを構成するように,宙に浮く聖母を囲み,全能の神は描かれていないが,上部の2人の天使が聖母に冠を被せようとしているように見える.天使が左右対称にバランスを取って配置され,非常にデザイン性の高い絵のように思える.

 これまで見てきたイタリアの「聖母被昇天」は,聖母が地上にいる使徒に腰帯を垂らしている「腰帯の聖母」型が多かったように思うが,中空に浮かぶ聖母と天使のみが描かれているコスタの絵は,それらと異なり,むしろベルゲーテの絵に似ているように思われる.

 この絵の出自はボローニャ都市圏地域に属する基礎自治体ヴァルサモッジャの一地域モンテヴェーリオサンタ・マリーア・アッスンタ大修道院ということなので.「聖母戴冠」や「無原罪の御宿り」ではなく,「被昇天の聖母」もしくは「聖母被昇天」で良いのだと思う.

 1480年から90年頃に描かれた作品ということであれば,ベルゲーテの作品が1490年頃の作品とされるので,同じ頃か,場合によってはコスタの絵の方が先に描かれた可能性もある.

 ペドロ・ベルゲーテはスペインのルネサンスを代表する画家だが,イタリアに長く滞在し,その主たる活躍の場の一つが,ウルビーノ公爵フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの宮廷だったので,コスタとの相互影響の可能性が全く無いとは言えないだろう.

 今は手に余るので,今後の課題だが,ウルビーノの宮廷の芸術環境を考えるとフランドル絵画やピエロ・デッラ・フランチェスカの影響も,もしかしたら彼らの共通要素の中にあるかも知れない.

 似ているというだけで,無関係な画家を結び付けるのであれば乱暴な話だが,それにしてはコスタとベルゲーテの絵は,色彩などは別にして,構図的によく似ていると思うし,生きた時代や活躍した地域を考えると全く無関係とは思えない.

 これについても現状では,オビエド以来気になっていたコスタの絵に再会したということに留まるが,この絵を紹介して,ボローニャに関する報告は一区切りとする.



 次回はフィレンツェどころかイタリアですらなく,コペンハーゲンについて,その次はミュンヘンについて,そこで観ることができた古代彫刻について報告し,その後,ナポリ,ポンペイ,エルコラーノの報告をまとめる.

 今期のフィレンツェだより更新のペースを考えると,そのあたりで滞在中の報告は終わってしまう可能性が高い.

 最近,ペルージャ,グッビオ,スポレートとウンブリア州の諸都市,モンタルチーノ,ピエンツァというオルチャ渓谷の小さな町を訪ねた.この後は,ヴェネツィア,ミラノ,サン・クィリコ・ドルチャ,ローマ,パレルモ,ナポリに行くべく,電車,飛行機,宿の手配をしている.

 ミラノ以外は泊まりがけの旅だが,日帰りできる幾つかの町にも行きたいと思っている.まだ報告していないトスカーナの諸都市,トリノ,パヴィア,モンツァ,ヴェローナ,パドヴァとともに,これから行く町や,そこで観ることができた文化遺産や芸術作品に関しては,帰国後,仕事の合間に少しずつして報告していくことになるだろう.







マルコ・ゾッポ
「聖ヒエロニュムス」