フィレンツェだより第2章
2018年1月15日



 




アンテーラミの浮彫のある「聖母の門」
パルマ洗礼堂



§パルマ行 後篇

パルマでロマネスクの遺産と言えば,まずはベネデット・アンテーラミの作品だろう.彼の作品は洗礼堂でたくさん見られるが,大聖堂の堂内にも一つだけ彼の作品とされる浮彫パネルがある.


 この「キリスト降架」の浮彫パネルは,教会で聖職者席とその他を区切る仕切り(ポンティーレ)の残存部分,もしくは説教壇のパネルの1枚だったようだ.もし,後者だったとすれば一層興味深く思える.


説教壇のパネル
 説教壇の魅力に開眼したのは,2007年7月4日にピストイアで,サンタンドレーア教会でジョヴァンニ・ピザーノ作の説教壇を観た時だ.初めてこの種の芸術の素晴らしさに気付き,以来,既に見ていたものも含めて,教会を拝観する際の重要な注目対象となった.

 これまで観てきた中で印象に残るものをざっと挙げると,ラヴェンナの大聖堂と司教区博物館で観た古代末期の石棺,フィレンツェのサン・ミニアート・アルモンテ聖堂のロマネスクの説教壇,ローマのサンタ・マリーア・イン・アラチェリ聖堂のコズマーティ装飾の説教壇,ピサ大聖堂と洗礼堂,シエナ大聖堂に見られるニコラとジョヴァンニのピザーノ親子のゴシックの説教壇,フィレンツェの諸教会にあるルネサンス期の説教壇などが思い起こされる.

 これらの作品はどれも,時代を反映したスタイルの中に作家の個性が満ちて溢れていて,見飽きることがない.

 しかし,人が織りなす物語の場面の浮彫パネルのある説教壇となると,ピザーノ親子もしくはその工房出身者が制作したゴシックの説教壇は思いつくが,ロマネスクの説教壇では多分見たことが無いと思う.ピストイアのサンタンドレーアもピサ大聖堂も教会自体はロマネスクの教会だが,説教壇はいずれもゴシックの大芸術家に拠る作品だ.

 パルマ大聖堂の翼廊の壁に飾られている説教壇断片は,一見すると地味だが,これが貴重な作例である点としては,アンテーラミ作(後述するように記名がある)であること,物語を彫り込んだロマネスク期の作品であること,であろうと想像する.

写真:ベネデット・アンテーラミ 「十字架降下」


 このパネルは図像としても面白い点が少なくないと思うが,まずラテン語による記銘がある所に注目したい.

 現場ではなかなか読み取れない(ロープが張ってあって近くまでは行けない)が,幸いに伊語版ウィキペディアに,欠落まで補ってくれた転写がある.

ANNO MILLENO CENTENO SEPTVAGENO / OCTAVO SCVLTOR PAT(RA)VIT M(EN)SE SE(C)V(N)DO // ANTELAMI DICTVS SCVLPTOR FVIT HIC BENEDICTVS


 伊語版ウィキペディアには二行詩(多くの場合六歩格と五歩格の組み合わせ)とあるが,韻律分析すると長短短六歩格(ヘクサメトロス)が3行分ある.序数詞が古典語の形と違うように思えるが,理解できる範囲内だ.

「1178年の第2月に彫刻家が完成し,この彫刻家はベネデット・アンテーラミ(ベネディクトゥス・アンテーラーミー)と呼ばれていた」と読める.

 前半部分の動詞が完了,後半は過去完了の受動態(古典語であれば,過去完了であっても英語のbe動詞にあたる動詞は未完了過去になるが,ここでは完了形が使われている)になっている.韻律に関しても,中世なら許容範囲と思われる.

 ホラティウスがこれを「詩」だと言われたら,卒倒して憤死するかも知れないが.

 「第2月」は伊語版ウィキペディアによれば,中世には一年が「三月」から始まったので,「四月」を意味し,そうであればキリストのエルサレム入城から始まる受難と復活の「聖週間」に合致するであろうとしていて,これはその通りであろう.

 古代ローマの最初の暦は「三月」から始まる10カ月であったが,早いうちに「一月」と「二月」が加えられ,12カ月になっていたし,ローマではユリウス暦以前は太陰暦で,中世の西欧は基本的に太陽暦であり,さらに何月から一年が始まるかは地方によって異なっていたそうなので,即断はできないが,聖週間との対応を考えると,12世紀のパルマは「三月」から一年が始まっていたのであろう.

 後述するパルマ洗礼堂のアンテーラミによる「十二カ月」の彫刻も三月から始まっている.



 十字架の横木には「ナザレのイエス,ユダヤ人の王」とあり,キリストの遺体を降ろそうとしているのは「アリマテア(アリマタヤ)のヨセフ」,梯子に登って(釘を外そうとして)いるのは「ニコデモ」,両側に天使がおり,聖母マリアにキリストの右手を取らせているのがガブリエル,反対側の天使がラファエルであろう.

 ラファエルが頭を押さえつけている小さな女性の所には,「ユダヤ人教会(シュナゴガ)は捨てられる」という刻文がある.それに対し,キリストを挟んで反対側の小さな女性は聖杯でキリストの血を受けており,「キリスト教会(エクレシア)は高められる」と記されている.

 この寓意的女性の隣にいるのが聖母,その後ろの男性が「福音史家ヨハネ」,それに続く3人の女性は,「マグダラのマリア」,「ヤコブの母マリア」,「マリア・サロメ」のいわゆる「3人のマリア」で,聖母と合わせて4人のマリアがそこにいることになる.

 マリア・サロメには「サロメ」としか記銘が無いが,洗礼者ヨハネの斬首に関わったサロメでないことは明らかだろう.

 『ヨハネによる福音書』では「イエスの十字架のそばには,その母と母の姉妹,クロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた」(新共同訳)とあり,4人のマリアとは書いていないが,4人の女性が磔刑に立ち会っていたのは『聖書』に根拠を持つことになる.

 なお,『マタイによる福音書』では,「またそこでは,大勢の婦人たちが遠くから見守っていた.この婦人たちは,ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である.その中には,マグダラのマリア,ヤコブとヨセフの母マリア,ゼベダイの子らの母がいた」とある.

 「ゼベダイの子ら」は大ヤコブと福音史家ヨハネ(学問的には使徒ヨハネは福音史家ではないというのが定説であるが,通例に従い「福音史家ヨハネ」としておく)であるので,「ヤコブとヨセフの母マリア」の「ヤコブ」は小ヤコブの可能性がある.いずれにしても聖母の他の3人すべてがマリアと言われているわけではない.

 現存する最も古い福音書の可能性が高い『マルコによる福音書』では「また,婦人たちも遠くから見守っていた.その中には,マグダラのマリア,小ヤコブとヨセフの母マリア,そしてサロメがいた」とあり,以上の中では,「マルコによる福音書」がアンテーラミの浮彫パネルの記銘に最も近いことになる.

 ヤコブの母マリアとマリア・サロメの頭上には円環の中に人物の顔が彫られていて,写真を拡大するとSで始まる記銘がある.反対側の円環の中の人物の所にはルーナ(長音保持)とあり,「月」を意味しているので,マリア達の頭上の円環は「太陽」(ソール)(長音保持)であろう.

 高校の科目「世界史」で,全盛期の教皇イノケンティウス3世が「教皇は太陽,皇帝は月」と言い,教会が世俗の権力に優越する比喩として太陽と月を用いたことを多くの人が習ったと思うが,このパネルでも,十字架の右側が優れ,左側が劣っていると言う寓意だろう.

 そもそもキリストの体が,右側に傾いているのは,秤が重い方に傾くことを想起させる.



 反対側にいる人物たちのうち,「ユダヤ人教会」の寓意である女性と大天使ラファエル以外は2つのグループに分かれる.

 十字架に向っている6人にうち,先頭の人物は楯を持っていて,楯には「ケントゥリオ」と書かれているので,百人隊長(『マタイによる福音書』27章54節)および,一緒に見張りをしていた者たちであろう.

 パネルの(十字架から見て)右下の端にいる4人は,イエスの衣服を分け合う兵士たち(『マタイによる福音書』27章35節,『ヨハネによる福音書』19章13-24節)であろう.このうち2人は有髯,残りは髯が無い.有髯の2人は「ユダヤ教会」の女性と同じ帽子をかぶっている.

 百人隊長の後ろの5人のうち3人が有髯,2人は髯無し,髯のある3人はやはり「ユダヤ教会」と同じ帽子を被り,そのうち2人は,左手を挙げて指でイエスを指しているように見える(最後部の人物の指は前の者の体で隠れている).

 これが伊語版ウィキペディアの言うように,イエスに死に際して地震などの天変地異が起きた時,「本当に,この人は神の子だった」と言ったことを指しているのであれば,これらの人物たちにも信仰による救済の希望があると言うことであろうか.

 ただし,『マタイによる福音書』では,その言葉を言ったのは,「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」(27章54節)で,『マルコによる福音書』では,百人隊長(一人)がこの言葉を言い,『ルカによる福音書』では百人隊長(一人)が「本当に,この人は正しい人だった」と言ったことになっており,『ヨハネによる福音書』にはこの話は書かれていない.

 いずれにせよ,イエスが神の子,もしくは義人であったことへの肯定的言辞が含意されている表現であれば百人隊長も同じような動作をしているべきであろう.そう思って見ると,彼は左手には楯を持っているが,右手は指さしてはいないがイエスの方に向けて挙げている.



 現場では少し距離を置いてロープが張られていたので,近くには寄れなかったし,写真もうまく写っておらず,刻銘をヒントにした絵柄の解釈に関しては,ほぼ伊語版ウィキペディアに依存しているが,それでもあえて整理して見たことで,アンテーラミという芸術家の制作姿勢に思いが至った.

 ラテン語の読み書きに関しても,曲がりなりにも韻律の規則を概ね守った詩を書くことができ,当時流布していた聖書はラテン語訳だけであったろうから,助言者がいたにしてもこれをきちんと読みこなし,教会と神学解釈に齟齬が無いような図像を制作できたと推測される.

 アンテーラミは,親方の元できちんと技術的修練を積み,親方となってからは,仕事の受注と工房の経営の傍ら,ラテン語の学習と聖書の熟読を怠らず,随分,勤勉な人だったのではないかと想像する.

 しかし,それはあくまでも想像であって,後世に偉大な作品を遺した稀有の天才だから,さほど努力をせずとも軽々と仕事も,ラテン語学習もこなしたのかも知れない.

 だとすれば羨ましい話だが,建築と彫刻という,とりわけ労力の要る仕事を成し遂げたこの職人芸術家はやっぱり,刻苦勉励の人だったのではないかと思いたい.

 仮に,説教壇のパネル1枚が彼の業績であったなら,彼のような天才には努力はいらなかったかも知れないが,パルマの洗礼堂の建築と堂内,堂外の浮彫彫刻の制作を指揮監督し,自らも鑿を振るったと聞けば,天才に任せて,勤勉努力をないがしろにする人物だと想像することは誰もできないだろう.


洗礼堂
 フィレンツェでイタリアの洗礼堂を初めて見て,その後,ピストイア,ラヴェンナ,シエナ,ピサ,パドヴァ,グラードで見て,今期になってヴォルテッラの洗礼堂の堂内も拝観し,さらに先日ローマでサン・ジョヴァンニ・ラテラーノ聖堂の未訪だった洗礼堂を拝観することができた.

 フィレンツェの洗礼堂(11世紀に建築開始で12世紀に大体完成)も,私たちの感覚からは随分大きい建物(高さ25.6メートル)だが,どちらかと言えば,ずんぐりとしていて安定感がある.

 その次に見たピストイアの洗礼堂(1303年に建築開始で1361年に完成)はフィレンツェの洗礼堂に比べると細長い形に見える.同じく八角柱の躯体に八角錐の屋根が乗り,最上部に明り取りのための「越し屋根」(やはり八角柱と八角錘)がついている形なので,フィレンツェ洗礼堂を縦に細長くした感じ(約40メートル)で,やや安定感に欠けるように思えた.

 日本語でウェブ検索すると,

小川熙「イタリア12都市物語10 パルマ フランス文化の投影」(以下,小川)


というエッセイを読むことができる.同氏の著書『イタリア12小都市物語』(里文出版,2007)は,最初にモデナに関して考察した時に参考にした.この著書は,文化広報誌「SPAZIO」に連載されたエッセイを元にまとめられたもので,印刷版の12のエッセイのうち少なくとも3つ(8.マントヴァ,9.フェッラーラ,10.パルマ)をウェブ上で読むことができる(2018年1月10日参照).

 もちろん本は北本の茅屋にあるので,今は参照できないが,この稿を書いていて,途中からだが,小川のエッセイを参考にできて勉強になった.さまざま自分の理解を訂正しなければいけない点もあるが,一応自分の目で見た感想を優先させるので,見解の相違などに関しては,今後考えて行くことにする.

写真:
ドゥオーモ広場
(右)洗礼堂
(左)大聖堂


 パルマの洗礼堂は,まずその大きさに圧倒される.高さを確認しようとして,伊語版ウィキペディア,博物館で買った洗礼堂に特化された案内書を見たが,探し方が悪かったのか,見つけられず,英語,イタリア語,日本語でウェブ検索する過程で,このエッセイに到達し,そこには「約35メートル」とあった.

 これだとピストイアの洗礼堂よりも5メートルほど低いことになり,俄には信じ難かった.

 ピストイアの洗礼堂は,八角形の躯体の上に,躯体の天井部分より少し小さめの八角錐の屋根が見え,この屋根の頂上までが高さであろうと考えられるが,パルマ洗礼堂の屋根は,躯体の外壁が上まで伸びて屋根は見えない.恐らく,この躯体外壁の高さがパルマ洗礼堂をより大きく見せているのだと思う.

 しかも,躯体の最上部の八角部分には,それぞれ1つの小塔(エディコラ)が合計8つ付されていて,これがさらにパルマ洗礼堂の丈を高く見せていると思われる.

 ピストイア洗礼堂にも小塔があるが,屋根の方が高く,さらに屋根の頂に細長い「越し屋根」があるので,小塔は見かけの高さには貢献していない.

 創建で言えばフィレンツェ洗礼堂が1番古く,基本部分は11世紀から12世紀のロマネスク建築,ピストイア洗礼堂は1303年に建築開始で,1361年の完成であれば,ゴシック建築である.ピサの洗礼堂は1152年に建築が開始されたので,すぐに完成すれば全体的にロマネスク建築だったかも知れないが完成は1390年と遅く,下層部のアーチは半円形でロマネスクに見えるが,上層部の装飾には尖頭アーチなどが多用され,よく見るとゴシック建築の要素が濃い.

 それらに比して,パルマの洗礼堂は,アンテーラミが着手した時点では,イタリアの,特にエミリア=ロマーニャの伝統はロマネスクが主流であったので,基本的にはロマネスク建築とされている.

 アンテーラミの人生については全く不明なので,あくまでも推測の域を出ないが,南フランス,北フランスで修行もしくは仕事をし,彼のロマネスク彫刻には前者からの影響が見られると同時に,後者で始まっていたゴシック芸術の流行の影響を受けた可能性があると考えられている(伊語版ウィキペディア,小川).

 パルマの洗礼堂の外観には,堅牢で重厚なロマネスクの遺風を感じさせるとともに,それを超えて上方への志向を伴う華麗で装飾的なゴシックの印象を受ける.

 もちろん,先人がそのように言っているので安心してそう思える面は否定できないが,的外れかも知れないけれども,ピストイアの洗礼堂との類似を最初に意識したのは,その細長い外観だけではなく,何かしらゴシック的な幾何学的装飾性に類似点を感じるからかも知れない.



 前々回,ピアチェンツァとパルマの両大聖堂のファサードに見られる柱列装飾をアーケードと言ったが,パルマの洗礼堂にも同じように,壁面に柱列が並び,多少の空間を造る構造が躯体8面のそれぞれ4層ずつある.

 小川はこれを「柱廊(ロッジャ)」(英語版伊語版ウィキペディア)と言っており,あるいはその方が良いかも知れない.

 ただロッジャと言うと,開廊と訳されることも多く,そこで人がくつろいだり(英語でもイタリア語でも同語で「涼み廊下」と訳される場合がこれにあたる),何かを展示したりする(フィレンツェのシニョリーア広場に面したランツィの開廊など)比較的ゆったりとした空間を想起させる.

 しかし,パルマの洗礼堂の列柱にはアーチがかかっておらず,上部の区切りは楣石式になっているので,少なくともアーケード(アルカータ)という言い方は適切ではないだろう.人が歩けるくらいの奥行きもあるので,小川に習ってロッジャと言うことにする(案内書にはsovrapposte logge architravate「重なった楣石式ロッジャ(複数形)」とある).

 一方,大聖堂のファサードは柱が半円アーチを支え,ロマネスク感を増幅しているので,これは当面アーケードと言っておく.ただし伊語版ウィキペディアはロッジャという用語,英語版ウィキペディア「ロマネスク建築は」ギャラリーという語を使っている.

 英語のギャラリーにあたるガッレリーアというイタリア語を検索すると,伊語版ウィキペディアのアルカータ(アーケード)に行き当たり,「アルカータもしくはガッレリーア」として同じものとして扱われている.さらのその項目からのリンク先に「アルカータ・チエーカ」と言う項目がある.

 英語でもアーケードの関連で,ブラインド・アーケードという用語があり,これがイタリア語のアルカータ・チエーカにあたる.

 パルマ洗礼堂の列柱装飾はこれにあたるかと思ったが,ブラインド・アーケードの場合,装飾に徹した柱が幾つか並んでアーチを造るが,いずれも壁に密着するので,密着していないパルマの8面4層の柱列はこれにあたらない.そもそも上述のように,洗礼堂のロッジャにはアーチが無いので,アーケードではあり得ない.

 ただし,4層のロッジャの更に上部には各面ともブラインド・アーケードがあって,それぞれのアーチは尖頭式なので,この洗礼堂にゴシック感を持たせる重要な要素になっているであろう.


洗礼堂のアンテーラミの作品
 洗礼堂には,北に「聖母の門」,西に「審判の門」,南に「生命の門」と3つの扉口(ポルターユ)がある.

 それぞれコリント式の柱頭を持つ左右各8本の付け柱に装飾アーチが掛かり,アーチ下にはリュネット,さらにその下に楣石があって,この楣石とそれを支える左右の角柱が門を形成している.3つのリュネットにはそれぞれ見事な浮彫がある.

写真:「聖母の門」のアンテーラミの浮彫


 「聖母の門」のリュネットには聖母子の(向かって)左側に「三王礼拝」,右側に「エジプト退避のお告げ」,リュネットの外周を形成する迫持(ギエーラもしくはアルキヴォルト)には,「十二使徒の肖像を持つ旧約の十二預言者」,楣石には「キリストの洗礼」,「ヘロデの饗宴」,「洗礼者ヨハネの斬首」の2場面が彫り込まれている.

 これらの浮彫はアンテーラミの作品とされている.聖母子に青い彩色が残っていると言う共通性もあって,ヴェローナ大聖堂のファサードにあるリュネットの「玉座の聖母子」(向かって左が「牧人礼拝」,右側に「三王礼拝」)を思い出させる.

 ヴェローナの浮彫の作者ニッコロ(ラテン語でニコラウス)は,モデナ大聖堂でヴィリジェルモの仕事に参加しており,1230年くらいまで活動したと考えられているアンテーラミは,少し時代は下るが,やはりヴィリジェルモの系譜の連なるとされるようなので,似ていると思っても,それほど的外れではないであろう.

写真:洗礼堂のアンテーラミの浮彫


 堂内にあるアンテーラミの作品で最も目を惹くのは,十二カ月と「春」,「冬」の寓意像である.これらは堂内の2層のロッジャの初層に置かれているが,もとは大聖堂のファサードを飾る予定があったらしい.何らかの都合で,洗礼堂の堂内のロッジャに置かれることになったとされる.

 高浮彫として制作されたものだが,ロッジャに置かれているので,ほとんど丸彫りに見える.

 各月には黄道十二宮の浮彫が付されているが,各月の高浮彫の背後のパネルに彫られている場合もあり,ロッジャとその下の半円アーチの間の帯状の壁面に彫られている場合もある.

 黄道十二宮(黄道十二星座)は,各月と一対一対応になっており,「三月」と「牡羊座」」が対応するので,残念ながらピアチェンツァのサン・サヴィーノ聖堂の床モザイクとは異なり,私と家族の誕生月である「十月」は「天秤座」ではなく「蠍座」に対応している.

 一年は向かって左の「三月」から始まり,「五月」と「六月」の間に「春」,「八月」と「九月」の間に「冬」の寓意像が置かれている.

 「三月」は牧人と思われる若者が笛を吹き,「四月」は諸月の王として冠を被り,「五月」は騎馬の人物が鎌を持って麦の収穫の時期の到来を告げている.

 「六月」はその鎌で麦を刈り取り,美しい女性像の「春」に続いて,「七月」は軛に繋いだ2頭の馬に脱穀をさせ,「八月」は葡萄酒製造の準備なのか樽の修理をしている.

 「九月」は葡萄の収穫,長い髯を生やした半裸の男性像である「冬」の後に,麦の種を蒔く「十月」,蕪の取入れをする「十一月」,薪として使うためか木の枝を切る「十二月」,正面にはローマ人の姿の中高年の男の顔(旧年)しか見えていないが,その反対側に若者の顔(新年)があるらしい二顔一体のヤヌスの姿の「一月」(ラテン語で「ヤヌス月」のヤヌアリス),鋤で畑を耕す「二月」と,簡潔な農事暦が主たるテーマであることが分かる.

 「三月」から始まることと,「一月」が旧年と新年を表しているのが矛盾しているように思われるが,古代ローマでは,「三月」から始まる十か月に「一月」と「二月」が付加されてからは,「一月」から1年が始まり,中世のパルマでは「三月」から始まったと言うことで良いのだと思う.

 「春」と「冬」が置かれている位置と,寓意像としては存在しない「夏」,「秋」との関係については,一年を四季ではなく前半,後半に分け,「春」の寓意像は前半の真ん中に,「冬」は後半の始まりに置かれていると考えて良いように思う.


洗礼堂のフレスコ画
 上掲の写真を見てもらえれば分かるように,ロッジャ以外の壁面はフレスコ画で埋め尽くされている.

 まず,扉口のある最下部は,扉のある下部と半穹窿型(リュネット)の上部に分かれ,扉口の無い面(外部はブラインド・アーチ)は凹面になっている.

 この凹面に関しては,伊語版ウィキペディアでは壁龕を意味するニッキアと言われ,案内書にはそれに拡大語尾をつけたニッキオーネと言う名称が使われている.ニッキオーネはフレスコ画で埋め尽くされていて,上部の半穹窿部分には浮彫もある.

 ニッキオーネのフレスコ画は,「1302年の親方」という通称を持つ画家と,可能性の一つして伝統的にブォナミーコ・ブッファルマッコとされてきた画家などの作品と考えられている.と言うことは,画風から考えてもゴシック期のフレスコ画で,アンテーラミの時代にはまだ描かれていなかったことになる.

 ブッファルマッコの伝記をヴァザーリが書いているので,そのような画家がいたとは思われるが,伝統的に彼に帰属させられてきた作品の作者に関して,現代では諸説あり,私が考えて分かる問題ではないので,一応,ジョットの影響を受けたかも知れないフィレンツェの画家が描いたフレスコ画の可能性があると考えておくことにする.

 これらのフレスコ画が14世紀前半の作品であるのに対し,洗礼堂の天井のフレスコ画はもう少し古い.

写真:洗礼堂のクーポラの天井フレスコ画


 リブで十六面に区切られたクーポラに描かれたフレスコ画の作者は,グリソポロという名前の伝わる,パルマ出身の可能性のある画家で,他にマントヴァでも仕事をしたらしい.1200年代,13世紀の前半に描かれたのであれば,アンテーラミと時代的に重なる,ロマネスクからゴシックへの移行期の絵画作品ということになる.

 窓の位置を洗礼堂の外観写真と比べて見ると分かると思うが,このクーポラ天井は,外壁の上3層のロッジャ,さらにその上のブラインド・アーケード部分に対応している巨大なものだ.

 リブは,下から見ると概ね長い三角形に見える三角部分(スピッキオ)と,その底辺に湾曲して入りこむリュネット部分に分かれる.リュネット部分は外壁の下から3層目のロッジャの位置に対応している.

 計16のリュネットには一つ置きに明り取りの窓があるが,窓の無いリュネットだけではなく,窓のあるリュネットの窓の両側にもフレスコ画が描かれている.案内書に拠れば,この部分には一連の「アブラハムの物語」が描かれている.

 スピッキオの部分は,下から見上げると同心円状に中心の円と4重の円環を構成している.

 まず,一番外の円環には「洗礼者ヨハネの生涯」,2つ目の円環は16のリブに,キリスト,聖母,洗礼者ヨハネ,福音史家ヨハネと12人の旧約の預言者と王たちが一人ずつ描かれている.

 3つ目の円環にいるのは12使徒と4人の福音史家だが,福音史家ヨハネが12使徒と両方を兼ねるため15人になるので,パウロが加えられて16人になっている.4つ目の円環には菱形の中に星の装飾が見られ,中心の円には何も描かれておらず,16本のリブがその中心に収束して行く.

 3つ目の円環の福音史家は人間の体に,それぞれの象徴物である天使,ライオン,牛,鷲の頭部が加えられていて,これらは目立つので,下から見上げていても気づくが,その他に関しては,案内書やウェブ上の写真を良く見れば,文字も書いてあるが,現場では一つ一つ認識するのは難しい.

 印象として,ロマネスクの古拙だが,味わいのあるフレスコ画と言うよりは,洗練度が高まっているゴシック的な特徴が見られるように思える.



 洗礼堂の外壁に再び注目すると,外壁の下部の,長身の人の頭部よりも高いくらいの位置に,外壁を一周するように,動物の浮彫が施されている.

 洗礼堂の外壁にはヴェローナのいわゆる「ピンク大理石」(小川は「桃色の礫岩」)が使われていて,とても美しいし,そこに彫り込まれた動物の小さな浮彫は見ていて飽きない.洗礼堂より先にできた大聖堂の外壁にも,随分高い所ではあるが,浮彫や様々な装飾が施されている.

 アンテーラミが,時代の流行が異なるとはいえ,大聖堂の外観に調和するように洗礼堂を設計したことは十分考えられるが,とても自分の知識や理解力では把握しきれないので,7回くらい生まれ変わった後かも知れないが後日の課題とする.


パルミジャニーノ
 さて,コレッジョと並んでパルマを代表する芸術家パルミジャニーノこと,ジローラモ・フランチェスコ・マリーア・マッツォーラの作品がどこで見られるか.大聖堂の堂内にはだいぶ新しい芸術家の作品もあるにも関わらず,彼の作品は無い.

 11月2日の再訪の際,パルマの国立美術館で,2016年3月23日にローマの特別展で出会った通称「トルコ人の奴隷の少女」と再会したが,パルマの美術館にはパルミジャニーノの作品は小品があと1点あるだけで,コレッジョに比べると出身地なのに残念な少なさである.

 このローマの特別展と日本の特別展で都合2度観た通称「アンテア」と,やはりローマの特別展で出会えた「ローマのルクレティア」には,12月11日にナポリのカポディモンテ美術館で再会を果たした.

 ウフィッツィ美術館,ボローニャの国立絵画館やウィーン美術史美術館など,パルマ以外の各地に彼の作品があるということは,彼が人気の高い画家だった証しかも知れないが,故郷パルマの美術館で大作は「トルコ人奴隷の少女」ただ1点というのは拍子抜けの感を免れなかった.

 それでも,パルマで以外の場所では見ることができないパルミジャニーノの作品に出会えた.教会に残る剥離されていないフレスコ画である.例えマニエリスムの画家であったとしても,フレスコ画を観ることによって,その真価を知ることができたような気がする.

 しかし,大きなことは言えない.彼のフレスコ画を観ることができたサン・ジョヴァンニ=エヴァンジェリスタ大修道院教会,サンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ聖堂の拝観は偶然だったと言って良い.

 前者にはコレッジョの「福音史家ヨハネの幻視」※があることは知識としては知っていたので,6月の初訪問の時,寄れたら寄ろうというくらいの気持ちはあった.

(※もしくは「キリスト昇天」,小川に拠れば「聖ヨハネの彼岸への旅立ち」という説が有力で,キリストの下方にいる老人が福音史家ヨハネで,キリストが彼を天国に迎え入れようとしている絵と考えられているとのことだ.であれば,大聖堂の「聖母被昇天」と似た構図であり,説得力のある説だと思う.)

 ローマの特別展について感想を述べた際に調べて,この教会にパルミジャニーノの「聖ウィタリス(サン・ヴィターレ)と馬」というフレスコ画があることも知っていたはずだが,全く忘れていた.

 堂内の説明板でパルミジャニーノのフレスコ画が少なくとも4面あることを知り,写真に収めたが,暗かったので「聖ウィタリスと馬」の写真は良く写らなかった.

上手く撮れなかった
「聖ウィタリスと馬」


 このフレスコ画は,後陣に向って左側の側廊のファサード裏から2つ目のモナステーロ礼拝堂の入り口のアーチの下側(イタリア語ではソッタルコ,英語ではイントラドスで,日本語訳は「ジーニアス英和大辞典」に拠れば内弧面)の右端に描かれていて,反対側の左端にある「殉教聖人ステパノとラウレンティウス」ともにパルミジャニーノが1522年から23年に描いたものとされる.

 であれば,1503年生まれのパルミジャニーノが20歳になるかならないかの頃の作品と言うことになる.

 その隣のファサード裏からすぐのサンタ・ジェルトルーデ礼拝堂のアーチの内弧面には右端に「聖ルキアとアポロニア」,左端には「聖アガタの殉教」が描かれているが,こちらはファサードに近いせいか,やや光が良く,少しだけ良く写った.

 いずれにしても,これらのフレスコ画には既に,装飾部分も含めてパルミジャニーノの個性が出ていると思われる.


写真:ステッカータ教会に残るパルミジャニーノのフレスコ画


 11月2日にサンタ・マリーア・デッラ・ステッカータ聖堂(以下,ステッカータ聖堂)を拝観したのも,美術館に急ぐ途中の寄り道だった.

 堂内のクーポラ天井を支える大きなアーチの内弧面や壁面に描かれている装飾的なフレスコ画が美しく,写真に収めたが,昼休みのために教会が閉まる直前だったので,作者が誰かを確認しないまま,目的地である美術館に急ぎ,帰宅後,この随分新しく思えた教会について調べて,パルミジャニーノのフレスコ画であることを確認した.

 こちらは1531年から39年にかけての仕事とされ,20代後半から30代半ばの,1540年に37歳で亡くなったパルミジャニーノとしては円熟期から晩年の作品ということになる.

 彼は1524年にローマに出て,既に亡くなっていたラファエロの絵を研究し,セバスティアーノ・デル・ピオンボやロッソ・フィオレンティーノの影響を受け,1527年の「ローマ劫略」を経験し,仕事の場をボローニャに移した.

 1530年にパルマに帰り,翌年ステッカータ聖堂の仕事を依頼され,現在ウフィッツィ美術館所蔵の「首の長い聖母」をパルマのサンタ・マリーア・デイ・セルヴィ教会の礼拝堂のために描いたのが1535年,現在ナポリにある通称「アンテア」を描いたのもこの頃とされているので,他の仕事もこなしながら,彼はステッカータ聖堂の美しいフレスコ画を仕上げたことになる.

 1540年に,現在はロンバルディア州クレモナ県に属しているカザルマッジョーレで仕事をし,今はドレスデンの美術館にある「カザルマッジョーレの祭壇画」を同地のサント・ステファノ教会のために描き,最後の作品かも知れないカポディモンテの「ローマのルクレティア」を仕上げ,同年カザルマッジョーレで,マラリアのために亡くなった.

 最も有名な「首の長い聖母」を初めて見たときはエクセントリックな芸術家に思えたが,特別展や美術館で,彼の作品を複数観ていくうちに,確かな技術によって,時には力強い,時には繊細な絵を描いたと思うようになっていた.

 その思いはパルマの教会でごく若い頃と円熟期に描いたフレスコ画を観ることによって,確信に近いものになった.まだまだ見ていない作品も少なくないので,少しずつでも,未見の作品を鑑賞していければと思う.


パルマ国立美術館
 パルマの国立美術館のパルミジャニーノの作品は小品をあわせても2点のみなので,この美術館の主役はやはりコレッジョである.

 剥離フレスコ画の「聖母戴冠」,「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚」,「聖ヒエロニュムスのいる聖母子」は特に傑作の誉れ高いであろう.

写真:
レオナルド・ダ・ヴィンチ
「ほつれ髪の女性」


 コレッジョに間接的にでも影響を与えたと思われる画家の作品もある.コレッジョは多分この絵は見ていなかったと思うが,レオナルド・ダ・ヴィンチの秀作「ほつれ髪の女性」である.日本でも2012年に渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで,ほぼこれ1点を目玉作品として「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」展が開催され,見たかったが,どうしても時間がとれなくて見に行けなかった.

 パルマでこの作品と初めて出会うことができた.レオナルドの芸術を遠くに感じてしまう私でも,この絵は素晴らしいと思う.

 ゴシック絵画の展示が終わり,ルネサンス芸術への展示に切り替わる部屋の片隅に,周囲を暗くして仄かな光に照らされて展示されていた.有名な絵なので,今更私が述べる感想はないが,素描の段階でありながら,見たものを幸せにする作品だと思う.じっくり観ることができて良かった.



 アンテーラミのゴシックの要素を内包したロマネスク芸術,ルネサンスの革新を自家薬篭中のものした上でのパルミジャニーノのマニエリスム芸術にも心魅かれる.

 しかし,国立美術館を含め,パルマで観ることができて最も感銘を受けたのは,大聖堂のクーポラ天井のフレスコ画「聖母被昇天」だ.

 2番目は何だろうか.私としては特に熟考を要さず,国立美術館のコレッジョの「聖ヒエロニュムスのいる聖母子」だと思った.向かって右側の女性が印象に残り,主題は「アレクサンドリアの聖カタリナの神秘の結婚」だと思い込んでいたが,それは別の絵で,この絵のイエスに寄り添う女性はマグダラのマリアだった.

写真:コレッジョ
「聖ヒエロニュムスのいる
聖母子」


 フィレンツェのピッティ宮殿にあるパラティーナ美術館に,フェデリコ・バロッチに帰せられてきた美しい絵がある.これまで何度も観ているのに1月の第1日曜(国立美術館が無料の日)にパラティーナに行って,初めてその絵はコレッジョの「聖ヒエロニュムスのいる聖母子」のコピーであることに気が付いた.

 バロッチが描いたと言われてそのまま信じてしまう程美しい絵だが,パルマで本物も観たので,今後はバロッチが描いたかどうかはともかく,パラティーナの絵は忠実なコピーであると思って観ることになる.

 影響関係があるとすれば,もちろん後進のバロッチが影響を受けたわけだが,華やかな色彩と躍動感のある構図と言う共通点が両者にはあると思う.

 コレッジョにもバロッチにも,写真等で見るだけだった昔から魅かれ続けている私としては,バロッチにはコレッジョの影響があると思いたいが,これはあくまでも印象による個人的な感想なので,強く主張するつもりはない.

 コレッジョが描いた綺麗な絵をつまらないと思う人がいても,それはそれで理解できるように思うが,念願だった「聖母被昇天」,「聖ヒエロニュムスのいる聖母子」,「聖母戴冠」をこの目で観ることができたので,コレッジョが好きだという私の確信は生涯動じることはないと思う.

 絵を観る幸福というものが,思い込みではなく,本当にあるのであれば,私は間違いなく,コレッジョの絵を観て幸福な気持ちになれる.

 パルマに2度行って良かった.できれば,今期の滞在中にもう一度行きたい.サン・パオロ修道院のコレッジョ作の装飾フレスコ画を観るために.







コレッジョ作
「聖ヒエロニュムスのいる聖母子」(部分)