§特別展「フィレンツェの1500年代 マニエーラ・モデルナと対抗宗教改革」
9月いっぱい執筆を休んでいたが,フィレンツェだより「第2章」を再開する. |
予告ではエミリア・ロマーニャの諸都市に関して報告することにしていたが,10月4日に特別展「フィレンツェの1500年代 マニエーラ・モデルナと対抗宗教改革」を見たので,印象がフレッシュなうちに,これについて先に報告する.
ストロッツィ宮殿
特別展が開催されているストロッツィ宮殿は,フィレンツェを代表するルネサンス建築で,豪壮な外観は前を通るたびに見上げて感嘆する.
フィリッポ・ストロッツィ・イル・ヴェッキオの依頼で,ベネデット・ダ・マイアーノの設計により1489年に着工されたが,フィリッポは1491年,ベネデットは1497年に亡くなり,彼らの死後,シモーネ・デル・ポッライオーロ,通称イル・クロナカも関与したが,彼も1508年に亡くなる.
最終的な完成は1538年で,完成時の当主は祖父と同名のフィリッポ・ストロッツィ・イル・ジョーヴァネ,建築家はバッチョ・ダーニョロだったとされる.
49年の歳月を費やし,当主も3人代替わりし,現在バルジェッロ博物館に残る木造模型の制作者とされるジュリアーノ・ダ・サンガッロも含めると4人の有名な建築家が関わってストロッツィ宮殿は完成した.
「フィレンツェの1500年代」と銘打たれた特別展が開かれるのに,これ以上にふさわしい場所はないだろう.
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特別展の色鮮やかな
バナーが掛かる
ストロッツィ宮殿 |
ストロッツィ宮殿と,20世紀初頭まで所有者だったストロッツィ家に関しては,別途参考書やウェブページを参照してもらいたいが,保険会社を経て,現在は(1999年から)国家の所有になっており,地階(日本風には1階)部分にはバールなどがあり,1階(日本風には2階)は様々な催しの会場として利用されている.
2007年の滞在時にも,ここで「フィレンツェにおけるセザンヌ」展を見ているし,今期もアメリカの現代芸術家「ビル・ヴィオラ」展を見に行った.
ビル・ヴィオラに格別関心があった訳ではないが,光や映像を多用する彼の芸術表現の源泉として併せて展示されている絵画作品の中に,エンポリの参事会教会博物館所蔵のマゾリーノ作の剥離フレスコ画「ピエタのキリスト」があり,エンポリを訪ねた時に,この作品は特別展に出張中で見られなかったので,ストロッツィ宮殿に行く気になった.
マゾリーノの他に,カルミニャーノのサン・ミケーレ・アルカンジェロ教区教会にあるポントルモ作「エリザベト訪問」(通称「カルミニャーノのご訪問」)も展示されていた.この作品が教会に飾られているところを見たくて,10月11日にバスでカルミニャーノに行って来たが,それは別の機会に報告したい.
マニエリスムと彫刻
イタリアでは盛期ルネサンスが終わり,新しい芸術が求められた時代に,後世に「マニエリスム」と称される流行が生まれた.フィレンツェではロッソとポントルモがそれを支えた.
「蛇状形」(フィグーラ・セルペンティナータ)と称されるS字カーブ型の人物の動作や組み合わせに特徴があり,ラファエロの遺作「キリスト変容」(1520年)やそれに先立つミケランジェロの作品にその傾向が表れているとされる.
彼らに影響を与えたかも知れない古代芸術として,ヴァティカンにあるラオコン像が挙げられている.
ラオコン像が発見されたのは1506年で,それ以前に制作されたミケランジェロのヴァティカンのピエタ(1499年),アカデミア美術館のダヴィデ像(1504年)は,サン・ロレンツォ聖堂新聖具室の諸彫刻(1526年から33年)に比べれば,確かにS字カーブは多様されていないが,本当にラオコン像の影響でS字カーブを用いるようになったのかどうかは私が考えても分からないことなので,一応信じることにする.
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バッチョ・バンディネッリ
大理石彫刻「メルクリウス」 |
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「巨匠たち」と名付けられた第1室には,ミケランジェロの粘土などによる塑像断片「河神」(フィレンツェ,カーザ・ブオナッローティ,1526-27年頃),アンドレア・デル・サルトの油彩画「キリスト哀悼」(フィレンツェ,パラティーナ美術館,1523-23年),バッチョ・バンディネッリの大理石彫刻「メルクリウス」(ルーヴル美術館,1512年頃)の3点が展示されていた.
ラオコン像の影響を受け,蛇状形の流行の先蹤となったミケランジェロの作品があるのは理解できるし,デル・サルトに関しては,フィレンツェのマニエリスムの先駆けとなったポントルモとロッソにとっては師匠筋にあたるかも知れず,影響関係は確実にあった画家なので分かるとしても,バッチョの作品はなぜ置かれていたのであろうか.
1520年代前半に教皇レオ10世の命により,ラオコン像を模刻(ウフィッツィ美術館に展示)しているバッチョだが,「メルクリウス」の制作年代が本当に1512年頃であれば,1493年の生まれで,制作当時20歳になるかならないかの彼がラオコン像を見ていたとは思えない.
しかし,欠損部分が多いので何とも言えないけれども,首を傾げ,両足は多分コントラポストになっていると思われるから,「メルクリウス」はまずまずS字カーブ型の姿形なのであろう.
この特別展での出展は「メルクリウス」のみで,この展示の仕方であれば,1512年と言う随分早い時代に,この彫刻を制作したことにより,マニエリスムの先駆けの一人となったと言うことなのだろう.バッチョはポントルモたちよりは年長だが,シエナのベッカフーミ(1486年生まれ)よりは年下だし,時代的にはマニエリスムの時代の彫刻家と言って良いのだと思う.
現在ウフィッツィ美術館にある,かつてデル・サルト作とされていたバッチョの肖像画はコピーだそうだが,それでもヴァザーリがバッチョの肖像画をデル・サルト(1486年生まれ)が描いたと言っているので,確かに存在した原作を反映しているのだろう.
若きバッチョがデル・サルトの周辺にいたことが想像される.
ポントルモ,ロッソ,ブロンズィーノ
「1550年以前」と言う題目が付けられていた第2室の注目は,何と言ってもポントルモ,ロッソ,ブロンズィーノの競演だろう.
ポントルモの「キリスト降架」(1525-28年)は,普段はフィレンツェの中心地からヴェッキオ橋を渡ったすぐ先にあるサンタ・フェリチタ教会のカッポーニ礼拝堂に,彼のフレスコ画「受胎告知」とともに飾られている.
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ポントルモ
「キリスト降架」
(板に油彩) |
昼でも暗い礼拝堂で,コイン式の明かりをつけて鉄柵の間から観て,そのたびに感銘を深くしているこの作品を,比較的明るい展示会場で間近に観て,傑作であるとの思いを今まで以上に深くした.
展示の仕方も良かったように思う.向って左の壁にヴォルテッラの市立博物館にあるロッソ・フィオレンティーノの「キリスト降架」(1521年),右の壁にブザンソン美術・考古学博物館から来ているブロンズィーノ「キリスト降架」(1543-45年頃)が飾られ,その中央に位置する壁にポントルモの絵は置かれていた.
ブロンズィーノの作品がやや小さいが,高さ3メートル前後,幅2メートル前後の遠目には同じような大きさに見え,上が丸くなっている細長い形もほぼ同じ3点の絵があたかも,もともと一緒に並べられるために描かれたかのように展示されている.
3作品とも「キリスト降架」だが,ロッソの絵はキリストを十字架から降ろす場面,ポントルモの絵は降ろしたキリストを地面に置こうとする直前の場面,ブロンズィーノの絵は担ぎ下ろされたキリストの遺体を聖母が抱えている「ピエタ」型で,奇しくも絵柄に時間的な連続性がある.
構図,色彩,人物描写にそれぞれの作家の個性が際立っていながら,親和性が高いように見えるのが不思議だ.
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ロッソ・フィオレンティーノ
「キリスト降架」(部分) |
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特にロッソに関しては,この天衣無縫の「キリスト降架」が他の作品と調和して飾られることを想像するのは難しい.この作品が,ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会でチェンニ・ディ・フランチェスコのフレスコ画「真の十字架の物語」が描かれた礼拝堂に祭壇画として飾られていたと知った時は驚いた.
会場でも,ピンクが印象に残るポントルモ,青が基調のブロンズィーノに比して,強烈な赤のインパクトがロッソの降架を際立たせている.それでも,この空間の主役はポントルモで,ロッソの孤高の傑作ですら,ポントルモの作品を引き立てる役割を果たしているように思えた.
この組み合わせと並べ方で,この3点の絵を特別展で観られる機会がまたあるだろうか.
ポントルモの降架があるカッポーニ礼拝堂には,彼のフレスコ画「受胎告知」があるから,教会としては短期間のデメリットに目をつぶれるだろう(実際には,10月5日でカッポーニ礼拝堂は修復中で閉ざされていた)し,ロッソの降架はヴォルテッラの博物館の目玉ではあるが,同じトスカーナにあるのだから,絶対に無理と言うことはないだろうが,ブザンソンのブロンズィーノは,交渉と運搬の手間暇を考えると難しいかも知れない.
実はこれとほぼ同じ絵柄の作品が,フィレンツェのヴェッキオ宮殿にある.ブロンズィーノのフレスコ画で装飾されたトレドのエレオノーラ礼拝堂に掲げられた,板に油彩の祭壇画(1540年頃)である.ブザンソンの降架の方より早いが,よく似ていると言うよりは,素人目には細部まで殆ど同じに見える.特別展の会場では最初,ヴェッキオ宮殿の作品が展示されていると思ったほどだ.
会場の解説プレートに拠ると,トスカーナ大公コジモ1世が,神聖ローマ皇帝カール5世の個人秘書ニコラ・ペルノー・ド・グランヴェルと言う人物に贈り,その人物の死後,彼の墓所であるブザンソンの教会の個人礼拝堂に飾られていたとあった.こうした事情で,フランスの中規模都市にブロンズィーノの傑作があるらしい.
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3つの「キリスト降架」
左からロッソ,ポントルモ,
ブロンズィーノ
彫刻はチェッリーニ作
「アポロンとヒュアキントス」 |
3つの祭壇画が並んで観られたことに感銘を受けていながら,矛盾したことを言うようだが,この形でもう一度観たいかと聞かれたら,私は,やはりそれぞれぞれの作品は,それぞれの作品が置かれている場所で,その際立った個性を感じながら鑑賞したいと答えると思う.
宮廷画家だったブロンズィーノはともかく,ロッソとポントルモには時として狂気を感じ,「個性」と言う語はこの人たちのためにあるのではないかと思う.
個性は誰にでもあるわけだが,その個性が受け容れられるだけでなく,求められるのは,その個性の所持者が天才の場合だけであろう.また,天才であっても時代の流行に適合するかどうかは重要だったのではないかと思う.
第2室には他に,ヴァザーリの「無原罪の御宿り」(フィレンツェ,サンティ・アポストリ教会,1540-41年),フランチェスコ・サルヴィアーティの「受胎告知」(ローマ,サン・フランチェスコ・ア・リーパ教会,1534年頃),ベンヴェヌート・チェッリーニの大理石彫刻「アポロンとヒュアキントス」(フィレンツェ,バルジェッロ博物館,1546年以後)が飾られていた.
今までヴァザーリの絵を観ると「またか」とウンザリすることが多かったが,今期の滞在で考えを変え,マニエリスム絵画の巨匠としてのヴァザーリにも注目したいと思っている.
彼の絵にウンザリしていた頃でも,サンティ・アポストリの「無原罪の御宿り」だけは傑作だと思っていた.教会の堂内では光が反射して,なかなか満足の行く写真が撮れなかったが,今回は近くで観ることができ,光も丁度良いので撮影(?)も鑑賞も満足の行くものだった.
そのくせへそまがりなことを言うようだが,この絵もできれば教会で観たい.当分,サンティ・アポストリに行ってもこの絵が無いのは残念だ.
サルヴィアーティの「受胎告知」も一度,ローマで観ているが,この絵も教会で観た方が良い絵のように思う.
チェッリーニの「アポロンとヒュアキントス」はバルジェッロにあるのなら見たはずだが,記憶にない.2人の人物関係はバッチョの「ヘラクレスとカクス」(フィレンツェ,シニョリーア広場,1525-34年),凛々しい青年の姿はやはりバッチョの「オルフェウス」(フィレンツェ,メディチ・リッカルディ宮殿,1519年頃)を思わせる.すぐにライヴァルになるが,影響は多分受けたのだろう.
「対抗宗教改革の祭壇画」
第3室の題目は「対抗宗教改革の祭壇画」で,広い部屋の壁いっぱいに大きな祭壇画が展示されていた.
解説プレートには,デル・サルト,ポントルモ,ブロンズィーノの作品に既に表れている,キリストの遺体の描き方に対する神学的解釈などがあったが,これに踏み込む知識もないし,その点に関しては今のところ興味を喚起されていないので立ち入らないことにする.
第3室の展示作品は,付された番号順に,ヴァザーリ「キリスト磔刑」(フィレンツェ,サンタ・マリーア・デル・カルミネ教会,1560-63年),ジローラモ・マッキエッティ「三王礼拝」(フィレンツェ,サン・ロレンツォ聖堂,1568年),ジョヴァンニ・ストラダーノ「キリスト磔刑」(フィレンツェ,サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂,1569年),ブロンズィーノとその工房「無原罪の御宿り」(フィレンツェ,サンタ・マリーア・レジーナ・デッラ・パーチェ教会,1570-72年),サンティ・ディ・ティート「キリスト復活」(フィレンツェ,サンタ・クローチェ聖堂,1574年頃),アレッサンドロ・アッローリ「キリストと不義の女性」(フィレンツェ,サント・スピリト聖堂,1577年),ピエトロ・カンディード「キリスト哀悼」(ヴォルテッラ,市立博物館,1586年頃)の絵画7点と,ジャンボローニャ作のブロンズの磔刑像(フィレンツェ,サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂,1598年)である.
カンディードの作品以外は現在も教会に飾られた作品で,ブロンズィーノとその工房の「無原罪の御宿り」以外は,複数回拝観している教会にあるので,今まで何度か観ているが,どれも決してその場では印象に残った作品とは言い難い.記憶にはないが,ヴォルテッラの市立博物館にも2度行っているので,カンディードの作品も観ているはずだ.
しかし,あらためて,この第3室で丁寧に鑑賞すると,どれも立派な作品だと思った.
ブロンズィーノとその工房に拠る「無原罪の御宿り」が来ているサンタ・マリーア・レジーナ・デッラ・パーチェ教会は寓居からさほど遠くない場所にあるようだ.伊語版ウィキペディアに拠れば,この教会の献堂は20世紀も半ばになってからなので,元々この教会にあったのかどうか疑問だが,ともかく今はこの教会の中央祭壇にが飾られているようなので,特別展が終わって教会に戻されたら,一度拝観を試みようと思う.
ただし,傑作が置いてあっても常に教会が開いているとは限らないので,何度か足を運ぶことになるかも知れない.その他の作品もそれぞれの教会に戻されたら,改めて観てみるつもりだ.
第2室のように,世紀の傑作が3点,他に時代をリードした芸術家の佳品が3点という程の感動は第3室では味わえなかったが,ストラダーノとカンディードは現在はベルギーに属しているブルージュ(ブルッヘ)出身のフランドル人でありながら,イタリア式のマニエリスム絵画を描いたし,アッローリとサンティ・ディ・ティートはフィレンツェのマニエリスムを支えた画家たちなので,それらのことが改めて認識できて良かったと思う.
第4室「肖像」
第4室は「肖像」が主題で,絵画が9点,彫刻が4点で,肖像画の作者としてアレッサンドロ・アッローリ,サンティ・ディ・ティート,ポッピ,エンポリ,マーゾ・ダ・サンフリアーノなどフィレンツェでおなじみのマニエリスムの画家たちの作品があった.
ミラベッロ・カヴァローリという画家の作品も2点あったが,この画家の作品を今まで見たことは多分無いと思うし,名前も初めて聞くような気がする.伊語版ウィキペディアに拠れば,フィレンツェのバルディーニ博物館に「若者の肖像」があるということなので,これを見た可能性は高いが,記憶には全くない.
カヴァローリはリドルフォ・デル・ギルランダイオの工房で修行し,ヴェッキオ宮殿のストゥディオーロ(小書斎)で仕事をしていると言うことだ.
ストゥディオーロを見学したことはまだないが,2代目トスカーナ大公フランチェスコ1世の意を受けて,ヴァザーリの指揮監督のもと,関わった芸術家がアレッサンドロ・アッローリ,サンティ・ディ・ティート,ジローラモ・マッキエッティ,ジョヴァン=バッティスタ・ナルディーニ,ポッピ,ジョヴァンニ・ストラダーノ,マーゾ・ダ・サンフリアーノ,ヤコポ・ズッキなど,この特別展に作品が展示されている画家たちであり,ストゥディオーロもまたフィレンツェのマニエリスム芸術の精華であると言えよう.
そこに2点の作品を遺しているカヴァローリもまた,大芸術家には遠く及ばないまでも,当時のフィレンツェで高い評価を受けた画家だったと言うことがわかる.この特別展に展示された作品でも特に「女性の肖像」(個人蔵,1570年頃)は優れた肖像画に思えた.
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リドルフォ・シリガッティ
「カッサンドラの肖像」 |
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カヴァローリの師筋にあたるリドルフォ・デル・ギルランダイオはラファエロの友人でもあったので,マニエリスムではなくルネサンスの画家だが,彼の孫リドルフォ・シリガッティの彫刻作品が2つあった.自分の父ニッコロと母カッサンドラの肖像である.
これまでシリガッティの作品を見たことが無いし,名前も多分初めて聞くと思う.ルネサンスの巨匠ドメニコ・デル・ギルランダイオは40代で早世したが,その工房の伝統を,弟のダヴィデ,フラ・バルトロメオの工房で修行した息子のリドルフォが継承し,リドルフォは血縁の無い弟子のミケーレ・トジーニにギルランダイオの名乗りを許した.
リドルフォの子どもたちは芸術家にはならなかったが,娘のカッサンドラの子であり,自分と同じ名前のリドルフォ・シリガッティが見事な肖像彫刻を2点遺していることは,まことに喜ばしい.実際にシリガッティの肖像彫刻2点は立派な作品だと思う.
肖像画も肖像彫刻も写実性が大事なので,ここにマニエリスムの影響を読み取るのは,私には難しいが,マッキエッティ,アッローリ,エンポリの絵は時代の特徴と画家の個性が反映して,服装などのせいもあろうが,やはりマニエリスム絵画なのだと思った.このコーナーは地味ではあったけれども見ることができて良かった.
第5室「ストゥディオーロの様式とその先」
第4室にあった2点のアレッサンドロ・アッローリの作品のうち1点はトスカーナ大公フランチェスコ1世の肖像だったが,フランチェスコ1世の希望で造られたのがヴェッキオ宮殿のストゥディオーロで,第5室に付された題目は「ストゥディオーロの様式とその先」であった.
絵画が16点,浮彫2点を含む彫刻が7点で,主題は宗教だけではなく,神話,寓意,歴史と多岐にわたり統一感にはかけるが,彫琢を施され,丁寧に作り込まれた,いかにもトスカーナ大公国の宮廷の周辺で醸成された文化を反映しているように思われる小品が並ぶのを見て,フィレンツェのマニエリスムには間違いなく,宮廷文化との深いつながりがあるだろうとの思いを新たにした.

第6室「寓意と神話」
マニエリスムを主題とする特別展なので,時代的に対抗宗教改革(カトリック改革)の影響が色濃く,展示作品には宗教画が多いが,第1室に展示された3点の作品のうちキリスト教関連は1点で,ミケランジェロの「河神」が一応神話を扱ったものと考えれば,バッチョのメルクリウスとともに2点の神話を題材とした作品で展示がスタートしている.
キリスト教徒にとっては「神」は唯一絶対の存在で,ギリシア神話の神々はキリスト教の神と同じでは有り得ない.あくまでもお話の世界であり,そこに教訓が籠められれば「寓意」(アレゴリー)につながる.こうした事情を踏まえて,第6室の題目は「寓意と神話」であった.
絵画7点,彫刻が4点で,登場する女性,男性の殆どは裸体で,着衣の女性であっても,フェデリコ・ズッカーリの「美徳の門」(ウルビーノ,マルケ国立美術館,1581年以後)の中央に立つ甲冑姿のアテナ(ミネルウァ)のような「美徳」(女性名詞)を除けば,乳房を露わにしているか,ポッピ「慈愛」(フィレンツェ,アカデミア美術館,1575-80年頃)のように,その存在が強調されている.

ミケランジェロの墓碑彫刻の「夜」の部分 ミケーレ・ギルランダイオ「夜」 |
リドルフォ・デル・ギルランダイオはルネサンスの画家だったが,その弟子のミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオことミケーレ・トジーニは1503年の生まれで,ポントルモ,ロッソよりだいぶ年下だから,マニエリスムの画家と言えるだろう.
彼の寓意画「夜」(ローマ,コロンナ美術館,1555-65年頃)は,明らかにミケランジェロがフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂に制作した「ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑」に付随する寓意彫刻「夜」を意識していて,曲げた左脚の膝の下にミミズクが,体を支える左腕の下に男性の仮面があるところまで真似している.
ミケーレの作品にはミケランジェロの彫刻にはないエロティシズムが,絵画の特質を活かして現出しており,このエロティシズムは,同室に展示されていたアレッサンドロ・アッローリの「ヴィーナスとアモル」(モンペリエ,ファーブル博物館,1575-80年頃)に共通している.
アッローリの作品は構図的にポントルモの「ヴィーナスとアモル」(フィレンツェ,アカデミア美術館,1533年頃)に似ているが,ポントルモの「ヴィーナスとアモル」はミケランジェロの下絵に基づいているとされるだけに,筋肉質のヴィーナスにはエロティシズムが欠けているように思え,その点に限って言えば,ミケーレやアッローリの絵は時代が成熟したような印象を受ける.
こうした寓意画,神話画,彫刻を見ていると,ひと口にマニエリスム芸術と言っても,時間の経過に伴って変容があることが分かってくる.この経験を重ねているうちに,マニエリスムがやがてバロックに超克されて行く展開も見えてくるかも知れない.
第7室「1600年代への始動」
第7室の題目はイタリア語では「1600年代への始動」(アッヴィーオ・アル・セイチェント),英語では「新たな世紀の先触れ」(ヘラルディング・ザ・ニュー・センチュリー)で,どちらにしても,17世紀の芸術思潮の主流となるバロックの胎動を予感させるタイトルだ.
しかし,バロック芸術においてフィレンツェはもはや主役ではないので,その関係性と位置付けは難しいと思われる.
絵画7点と彫刻3点が展示されていたが,彫刻3点のうち2点はジョヴァン=バッティスタ・カッチーニの「聖ルキア」と「聖アグネス」である.
この作品は普段,フィレンツェのサンタ・トリニタ聖堂のストロッツィ礼拝堂で,エンポリの「受胎告知」(1609)の両脇に置かれているが,この展示室でも同じようにエンポリの作品の両脇に置かれていたので3点一組で考えるべきものとして展示されているのだろう.
あるいは,作品の依頼者がストロッツィ家の人物であったことが,ストロッツィ宮殿での特別展になにがしかの意味を持ち,実際にストロッツィ家がフィレンツェのルネサンス,マニエリスム芸術に貢献したことを物語らせているのかも知れない.
しかし,彫刻としての重要なのは,作品番号が最後のVII-10(第7室の10番目)のピエトロ・ベルニーニ「外套を貧者に与える聖マルティヌス」(ナポリ,カルトゥジオ修道院博物館,1598年)であろう.
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写真:
ピエトロ・ベルニーニ
「外套を貧者に与える
聖マルティヌス」 |
ピエトロはセスト・フィオレンティーノの生まれなので,フィレンツェ人と言って良いだろう.師匠にあたるのは,前出のリドルフォ・シリガッティとのことだ.展示された作品はナポリでの仕事であり,ピエトロはナポリで結婚し,そこで生まれたのが,バロックの巨匠ジャン=ロレンツォ・ベルニーニである.
カラヴァッジョとともにイタリアのバロックを代表するジャン=ロレンツォの芸術にフィレンツェのルネサンス,マニエリスムが何ほどの影響を与えたのかは,私にはわからないが,父が彫刻家である以上,最初の手ほどきはピエトロから受けたと考えるのが自然だろう.
そのピエトロの師匠が,フィレンツェ・ルネサンスの巨匠ドメニコ・デル・ギルランダイオの曾孫と知れば,やはり何がしかの関連を考えて見たくなるというものだ.
特別展の第7室にあった絵画は,サンティ・ディ・ティート「聖トマス・アクィナスの幻視」(フィレンツェ,サン・マルコ聖堂,1593年),グレゴリオ・パガーニ「玉座の聖母子と大天使ミカエル,聖ベネディクトゥス」(テッラヌィオーヴァ=ブラッチョリーニ,サン・ミケーレ・アルカンジェロ教会,1595年),アレッサンドロ・アッローリ「聖フィアクリウスの奇跡」(フィレンツェ,サント・スピリト聖堂,1595年頃),ジョヴァン=バッティスタ・パッジ「キリスト変容」(フィレンツェ,サン・マルコ聖堂,1596年),アンドレア・ボスコリ「受胎告知」(ファブリアーノ,サン・ルーカ修道院教会,1600年),チーゴリ「大ヤコブと改宗者ヨシュアの殉教」(ペゴニャーガ,サン・ジャーコモ・マッジョーレ教会,1605年),前述のエンポリ「受胎告知」(フィレンツェ,サンタ・トリニタ聖堂,1609年)である.
全て宗教画であり,3点の彫刻もキリスト教の聖人を表現している(カッチーニの2作品は寓意像の可能性も指摘されている).
この中で,特別展全体を通じて,多くの部屋に作品が展示されていたのが,アレッサンドロ・アッローリとサンティ・ディ・ティートだ.
サンティ・ディ・ティートに関しては,サン・マルコ聖堂,サンタ・クローチェ聖堂,彼の出身地サン・セポルクロの博物館で多くの作品を観ていながら,上手で綺麗であるだけに,インパクトのない,面白みに欠ける絵を描く画家という印象を捨てることができないでいた.
しかし,サン・マルコ聖堂で何度も観ているサンティ・ディ・ティートの「聖トマス・アクィナスの幻視」の解説プレートは,その3次元的技巧にフォーカスしていて,それを意識しながら作品に向き合うことで,これまでに気が付かなかった新しい視点で鑑賞することができた.
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サンティ・ディ・ティート
「聖トマス・アクィナスの幻視」 |
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右端の僧服の人物が聖トマス・アクィナスで,木枠が描かれていることや,周囲の様子から,一見,彼は教会に飾られた磔刑図(絵)を見ているようだが,よく見ると,絵の中にいるはずの聖母と福音史家ヨハネ,マグダラのマリア,壊れた車輪からアレクサンドリアの聖カタリナとわかる聖人は木枠からトマスの方に立体的にはみ出していて,トマスは,絵の中から磔刑のキリストと聖人たちが出てくるのを幻視していることが分かる.
さらに,トマス自身が斜めに描かれることによって,この幻視の祭壇画の鑑賞者たちも3次元的な幻視の世界に引き込まれる工夫がなされていると思われる.
第3室に展示されていた「キリストの復活」は同じ作者の絵でありながら,錯覚を利用して3次元を感じさせる立体表現への指向は見られなかった.このことはアレッサンドロ・アッローリの第3室の「キリストと不義の女性」と第7室の「聖フィアクリウスの奇跡」に関しても言えることで,同じ作者の作品でも,新しい時代を予感させるものが第7室に集められたことが分かる.
平面でありながら立体表現へ,浮彫はまさにその途中の表現とも言える.ピエトロ・ベルニーニの浮彫の展示は,それを示していたのかも知れないし,同時に,フィレンツェのマニエリスム芸術の中で育った彼の息子がバロックの巨匠ジャン=ピエトロ・ベルニーニであることを考えると,最後の部屋のコンセプトが二重にこの浮彫に集約されているように感じられた.
特別展のタイトルは「フィレンツェの1500年代 マニエーラ・モデルナと対抗宗教改革」だったが,第1室のラオコン発見以後のミケランジェロから,最後のバロックを予感させる第7室まで,各展示室が明確なテーマをもって,様々な切り口でマニエリスムを見せようとしていたと思う.
フィレンツェのマニエリスムとイタリア芸術のバロックとの関係は,まだまだ私には理解できていないが,フィレンツェのマニエリスム芸術が,宗教的にも,芸術の面でも重要な意味を持っていることを再認識する契機にはなった.
ロッソ,ポントルモ,ブロンズィーノの大きな祭壇画を同じ空間で見ることができたことが,何よりもインパクトがあったが,それに魅かれて特別展を比較的丁寧に観たことより,フィレンツェのマニエリスム芸術の重要性を考えさせられた.
バロックへの連続と対抗宗教改革期のマニエリスム芸術の神学的意味に関しては,残念ながらペンディングである.
この特別展はストロッツィ宮殿で,来年の1月21日まで開催されている.その間にフィレンツェを訪れた人にとってこの特別展は見る意味があると思う.特別展のコンセプトに関しては,特に理解しようとしなくても,ロッソ,ポントルモ,ブロンズィーノの「キリスト降架」をじっくり鑑賞するだけでも,貴重な体験になると,少なくとも私は思う.
次回は休載期間の活動報告を簡単にまとめ,その後,エミリア・ロマーニャの諸都市に関して報告する.
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ポントルモ
「キリスト降架」(部分)
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