フィレンツェだより第2章
2017年5月14日



 




ポンテデーラからヴォルテッラへ
バルツェ(崖)のある風景



§春のヴォルテッラ,再び

初めてヴォルテッラに行ったのは2008年3月20日,この日,フィレンツェは雨で,ヴォルテッラに近づくにつれて春の雪になった.帰国を目前に,最後のチャンスだったので,悪天候をついてヴォルテッラ行きを決行したが,結局,天気はじきに回復し,風景を含めてヴォルテッラの魅力を堪能することができた.


 この時は時間に余裕が無くて見られなかったエトルリア門と,3つ目の「真の十字架の物語」を観るべく,5月9日にヴォルテッラに行く心づもりをしていたが,前日の夜から明け方にかけて結構な雨となった.

 ヴォルテッラまでは幾つか丘を越える.前回はバスの窓から,丘に越える度に雨が雪に変わるのを眺め,ヴォルテッラに着いたらかなりの雪で驚き,帰る時は,その雪が全て消えていて,また驚いたが,9日の朝は雨を眺めながら,ヴォルテッラ行きには悪天候のジンクスができたかな,と思わないではいられなかった.

 今回は悪天候をついてまでして決行する必要はないので,この日は諦めたが,なるべく早いタイミングで行きたいのが本音だった.それで,翌10日は来伊されている学習院大学の兵藤裕己教授ご夫妻を在伊の日本学研究者が囲む会に招かれていたが,夜の7時半からなので,朝8時5分の電車に乗れば,十分な見学をしても,間に合うように帰って来られると考え,出かけることにした.


どうやってヴォルテッラに行く?
 前回はバスの時間と乗り換え経路の確認が結構大変だったうえ,バスの本数がともかく少なく,日帰りを確実なものにするために滞在時間は短くならざるを得なかった.

 一体,他の人はどうやってヴォルテッラに行っているのか,日本語で何か情報がないか,「フィレンツェ ヴォルテッラ バス」のキー・ワードで検索すると,第3位(2017年5月8日参照)で,私たちが9年半前にヴォルテッラに行った報告がヒットしたが,もちろん,この情報は役に立たない.

 第2位でヒットするのが「イタリア旅行の知恵袋:質問掲示板」と言うページで,フィレンツェからヴォルテッラに行くにはどうすれば良いかと言う質問に対して,1つ目の回答は基本的に私たちが以前行ったのと同じものだったが,2つ目の回答が,まず鉄道でポンテデーラまで行くと,そこからヴォルテッラまでのバス便が比較的本数が多いというものだった.

 2011年の質問と回答なので,私たちよりも後ではあるが,少し古い情報に思われた.そこで,そこにリンクしてあるページを始め,英語,イタリア語で検索し,その結果,やはり,この第2の回答のルートが現在も有効で,効率も良いとの結論に至った.

 上記の回答には,ポンテデーラでバスに乗り換えるルートは,フィレンツェからバスで行ってコッレ・ディ・ヴァルデルサで乗り換えるルートとは違う景色が見られると書かれていて,これは私にとって貴重な情報だった(トップの写真参照).



 フィレンツェ・サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅をピサ(ピーザ)・チェントラーレ行きの電車で8時5分に出ると,ポンテデーラ・カシャーナ・テルメの駅に9時1分に着く.8時28分発でも9時13分に着き,目標とするバスには間に合う(2017年5月現在)が,初めての場合は,グーグル・マップなどで位置関係を確認していても,実際の風景は異なって見え,とまどうケースが少なくないので,時間には余裕があった方が良い.

 駅の前方にバスの乗り場があり,ヴォルテッラ行きは4番の乗り場から出るが,「ヴォルテッラ」という表示は分かりにくい.cptという,ピサに本社のあるバス会社の運行するバスで,車内でも乗車券は買えるようだが,非居住者で,特に外国人の私たちの場合は,前以て往復のバス券を買っておいた方が良い.

 バス乗り場の左手に大きなビルがあり,そのビルの1階部分の真ん中よりちょっと右側の所に「cpt BIGLIETTERIA INFORMAZIONI」と書かれたオフィスがある.フィレンツェのバス・ターミナルと違い,人影もなく,入るのに若干躊躇したが,勇気を出して入ると,奥で休んでいた中年男性が窓口に来てくれて,往復のバス券(ビリエッティ・ペル・アンダーレ・エ・リトルナーレ)がほしいと言うと,親切に対応してくれた.

 バスに乗りこむと,まだ運転手さんの姿は無く,打刻機も動いていなかったが,しばらくすると運転手さんが運転席に着き,地元の人たちとともに打刻して出発を待った.

 乗ってからバス券を買うというのも時間が迫っていれば仕方がない(cptの場合,地元の人たちがそうしていた)が,イタリアではバス券は乗車前に,券売所のある所で往復券を買うべきだと少なくとも私は思う.生活していて地元のことをよく知っている人はこの限りではない.

 フィレンツェの市内バスを運営するATAFの場合,車内での購入は割高になる.私が通勤で利用する高崎線の自由席グリーン券もそうだが,JRのような,「車内でご購入の場合,料金が異なりますのでご注意ください」などと歯切れの悪いことは言わず,はっきり「高い」と言う.

 9時24分にバスはポンテデーラを出発した.2時間に1本くらいの本数だが,生活バスなので,あちこちに留まり,乗降も少しずつあり,10時40分にヴォルテッラのマルティーリ・デッラ・リベルタ広場のバス・ターミナルに着いた.フィレンツェからシータ社のバスで来て,コッレ・デル・ヴァルデルサで乗り換えたcptのバスが9年半前に着いた場所と同じターミナルだ.


チェンニの「真の十字架の物語」
 プリオーリ広場に着くと,大聖堂や洗礼堂を横目にツーリスト・インフォメーションに急いだ.チェンニ・ディ・フランチェスコの「真の十字架の物語」があるサン・フランチェスコ教会は昼休みがあると予想され,最優先で向かうべきと思われた.それにはまず,地図だ.

 地図は前回は0.5ユーロで,少額とは言え有料だったが,今回は無料だった.サン・フランチェスコ教会が町の中心部から少し坂を下りたところにあるのを確認すると,急ぎ足で向かった.

 開いていた.正面の扉から入堂すると右手に,「クローチェ(十字架)・ディ・ジョルノ礼拝堂」はこちら」と言う表示が見えた.ああ,観光客もいいんだ,と安堵しながら,そこへ直進した.

写真:
サン・フランチェスコ教会


 いつものことではあるが,「素晴らしかった」としか言いようがない.

 伊語版ウィキペディアに,この礼拝堂(カペッラ・デッラ・クロチェ・ディ・ジョルノの「ジョルノ」がここでは何を意味しているのか調べ切れていない)は独立した項目として立項されており,そこに「真の十字架の物語」の絵柄(図像プログラム)の概要が示されている.曰く,

 1.セトが天使から生命の樹の小枝を受け取り,アダムの墓に植える
 2.その木材が橋の材料にされた後,シバの女王が認知し,それを礼拝する
 3.その木材が池から取り出され,十字架が造られる
 4.聖ヘレナが十字架を発見し,ある男の蘇生を試す
 5.ペルシア王ホスローの十字架略奪
 6.ホスローが自分を神のように崇拝させる場面とヘラクレイオスの夢
 7.ヘラクレイオスがホスローを斬首し,裸足で,十字架をエルサレムに入城させる
 8.イエスの誕生と牧人礼拝
 9.イエスの神殿奉献
 10.受胎告知
 11.聖家族のエジプト退避
 12.聖母の遷化

とある(以上,付番は宮城).4は壁面上部のリュネット型画面に描かれており,その下にはアーニョロ・ガッディも描いている「ヘレナによる十字架のエルサレム入城」があるのだが,これが上記の説明には抜けている.その他は概ね異論はない.

 8から12までの場面をアーニョロは描いていない.10の「受胎告知」はピエロにも類似の場面はあるが,意味は違うかも知れない(聖母の死と被昇天のお告げの説がある).

 1から7までは全てアーニョロの「真の十字架の物語」に描かれており,しかも両者のそれぞれの場面を比べると良く似ている.チェンニがこのフレスコ画を完成させたのが1410年,アーニョロの作品は1390年の完成で,完成年で20年の差がある.一方,チェンニの作品は,1452年から1466年にかけて制作したとされるピエロに対して,約50年以上先行している.

写真:
クローチェ・ディ・ジョルノ
礼拝堂


 この礼拝堂は,側廊,翼廊などに見られる,いわゆるサイド・チャペルではなく,教会の本堂に付属してはいるものの,もし本堂から離れたところにあれば,祈禱堂(オラトリオ)と言っても良いほど独立性を保持した建造物である.

 天上は2つの交差ヴォールトによって通常は4つの三角面に分かれるところを,祭壇に近い面はさらに3つに分かれており,三角面の下部はそれぞれリュネット型で,その下の壁面は若干上窄まりではあるが,ほぼ四角面をしている.

 不正確な言い方だと思うが,一応,三角面,リュネット面,四角面と称すると,2つのヴォールト天井からなる礼拝堂には,それぞれが10面ずつ存在する.

 本来1つの三角面が3つに分かれた部分は青地に塗られているだけだが,その他の三角面は,祭壇に近いヴォールト天井(第1ヴォールトと称しておく)の3面には聖人たち,もう一つのヴォールト天井(第2ヴォールトと称する)の4面には福音史家たちが,その象徴物とともに描かれている.

 第1ヴォールトの3つの三角面に描かれた聖人は,2人が修道服,1人が司教姿で,フランチェスコ会の教会であることを考えると,フランチェスコ,パドヴァのアントニウス,トゥールーズの聖ルイと思われる.聖人が描かれていない3つのリュネット面には明り取りのバラ窓があり,それらの反対側にある第2ヴォールトの1つのリュネット面にもバラ窓がある.

 また第1ヴォールト,第2ヴォールトともに,祭壇に向かって右側のリュネット面には明り取りの縦型長方形に近い形の窓がある.また祭壇に向かって左右の壁面と祭壇の反対側壁面下部には出入口(祭壇に向かって右側は漆喰を塗り込めて閉ざしているが,出入口だった痕跡はわかる)を開けていて,そこには絵は描かれていないか,描かれた絵が一部破却されている.

 第1ヴォールトと第2ヴォールトの間の柱の下部に描かれた「聖痕を受けるフランチェスコ」,「洗礼者ヨハネ」は,単に隙間を埋めるために描かれたとは思えないほど力の籠った絵だ.

 アーニョロ・ガッディ,ピエロ・デッラ・フランチェスカの「真の十字架の物語」は共に,教会にとって一番重要な中央祭壇のある礼拝堂に描かれたフレスコ画だが,それに比して,チェンニの「真の十字架の物語」は,写真等で見る限り,もう少し重要度の低い小規模の礼拝堂に描かれたと想像していた.これが良い意味で全く裏切られた.ほぼ独立した建造物とも言える大規模な礼拝堂に描かれた堂々たる作品だ.


アーニョロ・ガッディとの比較
 受胎告知から嬰児虐殺に至るまでの新約に取材した場面を除いて,チェンニのフレスコ画はほぼアーニョロの先行作品を踏襲しているように思われる.特に,上記の付番を使うと,5には細部に違いがあるがよく似ているし,6,7は全く同じと言って良いくらい似ている.

 1は明り取り窓の関係もあって,構図に多少の違いは見られるが,立派な姿のセトが天使から樹(小枝)を受け取る場面はアーニョロと全く同じに見える.

 2はかなり剥落していて絵柄が分かりにくいが,かろうじて読み取れる,シバの女王が木材を礼拝している場面は,やはりアーニョロの描いた同場面と似ているように思われる.であれば,ほとんど見えないその右側のシーンは木材を埋伏している場面であろう.

 3に関しては,右側に十字架を作る場面が残っていて,この部分はやはりアーニョロの絵とほぼ同じ(アーニョロでは描かれていない犬がいたりする)と言って良く,であれば,よく見えない左側の絵は,伊語版ウィキペディアが言うように埋伏されていた木材が池から取り出されるところであろう.

 こうして見てくると,チェンニの「真の十字架の物語」は,先行するアーニョロの同主題作品の模倣になっていると言っても過言ではない.

写真:
「ヘレナによる真の十字架の
エルレム入城」


 しかし,違いが無い訳ではない.上記の図像プログラムは分かり易く時系列になっているが,実際は,1は第2ヴォールトの,祭壇から見て右側のリュネット面に描かれ,2は祭壇の反対側の壁のリュネット面,3は第2ヴォールトの左側のリュネット面,4はその隣で,第1ヴォールトの左側のリュネット面にある.

 このリュネット面の下の四角面に大きく描かれているのが,伊語版ウィキペディアの概要には言及がないので付番していない,「ヘレナによる真の十字架のエルレム入城」である.

 時間的にその次に来る5は,その左隣の四角面で,ここで,ようやく第2ヴォールトの左壁のリュネット面から右側に物語が進行し,第1ヴォールトの右側の壁のリュネット面から,物語はその下の四角面に移り,そこからは左側に進行して,1が描かれたリュネット面の下に7が来て,「真の十字架の物語」は完結する.

 画面が時系列に並んでいるアーニョロの作品との違いがここにある.これは描かれた礼拝堂の構造の違いが影響しているものと考えられる.

 「ヘレナによる真の十字架のエルサレム入城」を含めて8画面という数は,アーニョロの「真の十字架の物語」と同じで,三角面,リュネット面,四角面(この3つの面を合わせた1単位をイタリア語でカンパータ,その日本語訳は「径間」と言うようだ)の「面」単位で考えた画面には複数の構成要素があり,その内容もアーニョロの作品とほぼ同じである.

 内容ばかりではなく,それを表現している絵も良く似ている.今だったら,20年前に別人が描いた絵を模倣して大きな仕事をすることには,殆どの芸術家は抵抗があるだろう.そもそも,そのようなこと自体があり得ないかも知れない.

 しかし,チェンニはアーニョロの20年後に,受胎告知から嬰児虐殺に至る新約の物語の絵が付されているとは言え,「真の十字架の物語」に関しては,並び方は違えど,ほぼ同じ構成で描いた.

 フィレンツェからヴォルテッラまで,現代でも電車とバスを乗り継いで2時間半,舗装道路を自動車で行っても,1時間半くらいはかかるだろう.写真も電車も自動車もない時代,行ったり来たりが容易ではない距離にある別の教会の,構造の全く異なる礼拝堂の壁面に,似た絵が描けると言うのは,観察力,把握力,記憶力,構想力が優れていたからだろう.アーニョロ・ガッディの大作と同じような絵が描けると言うことは,相当の画力があったと言うことである.

 今のところ,伊語版ウィキペディアにミゼリコルディアの親方,ジョヴァンニ・デル・ビオンドの影響を受け,後者の協力者であったとある以外に,チェンニの画家としての背景に関する情報はないが,ミゼリコルディアの親方がジョヴァンニ・ガッディであれば(可能性が指摘されている),アーニョロの兄弟であり,オルカーニャ工房にいたかも知れないジョヴァンニ・デル・ビオンドにタッデーオ・ガッディの影響を見る人もいるようなので,大きな意味では,チェンニもジョット派の正当を引き継ぐガッディ工房の影響を受けながら,画業を成し遂げて行った可能性はあると思われる.

 だからと言って,似たような絵を誰もが描けるわけではない.現代であれば,別の画家の絵と同じような絵を描くことは芸術家にとって名誉なことではないだろう.当時の画家たちがどう考えていたのか,私には知る術もないが,ともかく,チェンニの「真の十字架の物語」が,アーニョロ・ガッディの同主題作品を手本にして描かれたことはよく分かった.



 偶然の連鎖で,このところチェンニ・ディ・フランチェスコの作品を諸方で観ている.

 一方,「真の十字架の物語」を主題とする3作のフレスコ画のうち,アーニョロ・ガッディとピエロ・デッラ・フランチェスカの大作を続けて観て,残りの1作も是非観たいと思って,ヴォルテッラのサン・フランチェスコ教会の拝観を計画したのは自分の意志であった.それがチェンニの作品であったのは,やはり偶然である.

 別の画家の作品に酷似した絵を描いた芸術家を現代ならば尊敬することはないが,様々な要因があるが,チェンニの「真の十字架の物語」を観た私の感想は「素晴らしかった」であり,この画家についてますます興味を抱くようになった.

 似ていることを強調し,似ている意味も少し考えた上で,矛盾することを言うようだが,この画家の作品にはアーニョロとは違う個性が間違いなく存在すると思う.でなければ,こんなに興奮してチェンニ作品を観るはずがない.


ヴォルテッラの絵画館
 「真の十字架の物語」がある礼拝堂の祭壇にあたる部分には,カンヴァス油彩の「キリスト磔刑」が置かれている.作者はサン・ジミニャーノ出身の16世紀初めの画家ヴィンチェンツォ・タマーニである.私はこの画家のことは全く知らなかったが,伊語版ウィキペディアの写真を見る限り,堅実な仕事を成し遂げた,そこそこの実力を持つ芸術家に思える.

 しかし,タマーニの絵に差し替えられる1788年まで,この場所には時代を超越した天才画家の絵が置かれていた.ロッソ・フィオレンティーノの「キリスト降架」である.

写真:
ロッソ・フィオレンティーノ作
「キリスト降架」


 現在,この絵はヴォルテッラの絵画館にあり,前回も今回も感嘆の念とともに鑑賞した.時代を超える天才の作品だと思うが,この絵がチェンニのフレスコ画が描かれた礼拝堂を飾っていたのを想像するのは難しい.

 多くの作品は,教会のために描かれたのであれば,本来の場所で見られるのが望ましいが,ロッソの作品は,もしかしたら美術館で観た方が良いかもしれない.作品そのものが単独で鑑賞されることを望み,周囲との調和を拒んでいるように思える.

 いずれにせよ,ロッソがこの作品を完成させたのが1521年(私は確認していないが絵の下方にラテン語による記述があるとのことだ)なので,チェンニのフレスコ画の完成後110年以上経っている.

 祭壇と祭壇画の置かれた場所の後ろの壁面にはフレスコ画が描かれていないので,当初から祭壇画を飾る場所に予定されていたのだと思う.ロッソ以前にやはり後期ゴシックもしくは国際ゴシックや初期ルネサンスの祭壇画があったのか,それともロッソの「キリスト降架」が初めて飾られた祭壇画だったのか,今のところ,情報を得ていない.

 ロッソの「キリスト降架」は,1788年に大聖堂のサン・カルロ礼拝堂に移され,その後1901年にプリオーリ宮殿に飾られ,現在,絵画館が置かれているミヌッチ・ソライーニ宮殿に移ったのは1982年のことのようである.

写真:
ギルランダイオ作
「聖人たち,寄進者たちの間の
栄光のキリスト」(部分)


 ヴォルテッラの絵画館は,2008年3月に初めて行った時も忘れがたい記憶を心に刻んでくれた.主としてロッソの「キリスト降架」を観ることができたことに拠るが,ギルランダイオの「聖人たち,寄進者たちの間の栄光のキリスト」,ルーカ・シニョレッリの「玉座の聖母子と聖人たち」,「受胎告知」は盛期ルネサンス絵画の傑作と言えよう.

 ゴシック絵画でも,タッデーオ・ディ・バルトロの多翼祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」など3作品が傑出しているが,チェンニ・ディ・フランチェスコ作とされる,「玉座の聖母子と聖人たち」の多翼祭壇画も見られる.

 すでにゴシックではないが,その遺風を残しているネーリ・ディ・ビッチの「聖セバスティアヌスと聖人たち」も傑作からは程遠いが,観ることができて,例によって嬉しかった.

 前回注目していなかった作品としては,ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラの剥離フレスコの寓意画「正義」,ドナート・マスカーニの「聖母の誕生」,ニッコロ・チルチニャーニ(通称ポマランチョ)の「キリスト哀悼」(絵はあちこち剥落してボロボロ),ダニエーレ同様,地元出身のヴォルテッラーノの「聖母子と聖人たち」,今回シエナを始め,諸方で作品を観ることができ,注目している木彫作家フランチェスコ・ディ・ドメニコ・ヴァルダンブリーノの「受胎告知」が立派な作品に思えた.

 特に感銘を受けたわけではないが,コジモ・ダッディと言う,多分,これまで知らなかったか,全く記憶になかった画家の作品が2点あった.サン・フランチェスコ教会,サン・リーノ教会,サンタントーニオ・アバーテ祈祷堂でも彼の作品が見られた.1555年にフィレンツェで生まれ,1630年にヴォルテッラで亡くなっており,ヴォルテッラを主たる活躍の場としていたのであれば,地元の画家と言って良いであろう.

 ヴォルテッラの絵画館は満足度が高いので是非行くべきである.


その他に見たもの
 サン・フランチェスコ教会の他に,同じ通りを大聖堂の方に少し登った所にあるサン・リーノ教会,大聖堂,サン・ミケーレ教会サンタントーニオ・アバーテ祈祷堂を拝観し,前回は屋根しか見ていない洗礼堂も見学した.現在は修復中で見られない宗教芸術博物館の方から出入りしたので,前回見なかった大聖堂のファサードも見たが,これも三分の一くらいに修復の覆いが掛けられていた.

 大聖堂,洗礼堂,サン・ミケーレはロマネスクの遺産であり,それぞれ興味深かったが,大聖堂の堂内は比較的じっくり観た報告を前回しているし,前回見落とした中世の木彫の「キリスト降架」は,聖堂の修復と関係があるのか,今回入れなかった左翼廊に置かれていて,遠目にしか見ていない.既にだいぶ長くなったので,これらの教会に関する報告は別の機会にする.

 古代に関しては,前回観ていないエトルリア時代の城門,ローマ劇場は見ることができたが,考古学公園はやはり時間切れで見られなかった.

 サン・フランチェスコ教会と絵画館にたっぷり時間をかけ,前回は開館されていなかったアラバスタ―博物館も丁寧に見て,その上,眺めの良い食堂(オステリーア・コン・ヴィスタ)で,その日の定食(アーティチョークの酢漬けサラダと,軽めの上品なラザーニャ)とグラス・ワインで21ユーロの贅沢昼食をゆっくりと楽しんだので,最後のエトルリア博物館は駆け足で,石棺(骨灰棺)の写真を全部(相当数ある)撮っただけで,4時2分発ポンテデーラ行きのバスに駆け込んだ.

 エトルリアの遺産に関しては,城門の他には,博物館で,墓にどのように骨灰棺と陶器が置かれていたかを再現したコーナーの写真を紹介するにとどめる.

 次のバスにすることも考えたが,次が2時間後でフィレンツェでの約束に間に合わないので,涙を呑んで,さまざまな課題を残しながら,ヴォルテッラの丘を後にした.

写真:
エトルリア博物館の
エトルリア人の墓の再現
コーナー


 ヴォルテッラは素晴らしいが,フィレンツェからの往復の時間を4時間から5時間は見なくてはいけない.でも,また行くつもりだ.町のある丘からの風景,バスの車窓からの眺めには,往復時間のハードルを越えて,この町に行きたいと思わせるものがある.

 次回から,トスカーナの小さな町,カステル・フィオレンティーノ,チェルタルド,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノについて報告し,その後,ローマ行に関してまとめる.






エトルリア門
古代ローマと同じくらい古い町ヴォルテッラ