フィレンツェだより番外篇
2016年8月8日



 




ポルタ・コンソラーレ(執政官の門)
スペッロ



§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その9 スペッロ,モンテファルコ

昨年のツァーでは「フランスの最も美しい村」を4つ訪問し,特色のある景観を楽しんだが,今回は「イタリアの最も美しい村」(英語版伊語版ウィキペディア)に登録されている,スペッロ(英語版伊語版ウィキペディア)とモンテファルコ(英語版伊語版ウィキペディア)を続けて一日で観光した.


 「フランスの美しい村」には人口2000人を超えないと言う条件があるが,スペッロは8500人超,モンテファルコは5700人超の人口で,どちらも小なりと言えども,「都市」のようであり,以下では「村」ではなく,「町」と言うことにする.

 どちらもウンブリア州ペルージャ県に属しており,ウンブリア州はイタリアの中でも人口が少ない地方ではあるが,少なくともこの2つの町に関しては山間僻地と言う雰囲気は全く無く,「フランスの美しい村」に比べると,鄙びた感じに乏しい.

 スペッロではピントリッキオ,モンテファルコではゴッツォリのフレスコ画を鑑賞することが主たる目的だったので,自由に町の散策を楽しむ時間はなかったが,どちらも「フランスの美しい村」より観光客が少なく,ひっそりとして落ち着いた印象を受けた.

 スペッロに関しては,ウェブページと,地元の土産物屋で買った,

 Giuliano Sozi, Spello: Hisitorical and Artistic Guide, Spello: Pro Spello, 2005(以下,ソーツィ)

を参照する.この土産物屋では,ペルージャから15キロのところにある,マヨルカ焼きで有名なデルタで作られたコーヒーカップを記念に買った.


スペッロの古代遺産
 スペッロは城壁に囲まれた町で,ローマ時代に築かれた城門が残っている.まず,バスがついた傍には,ポルタ・ウルビカ(町の門)と称される古い門があり,ポルトゥラ(小門)と称されるローマ時代の門があった.

 トップに掲載したポルタ・コンソラーレ(執政官の門)は,下部のアーチの周辺はローマ時代のもので,上部は中世の後補だが,そこに取り付けられている3体の彫刻は町に残る円形闘技場跡から出土したローマ共和政期(前1世紀以前)の作品とされる.

 ポルタ・ウルビカの近くの城外にサン・ヴェントゥーラ教会と言う小さな教会があった.堂内にはフレスコ画などが残っているようだが,団体行動なので拝観できなかったし,そもそも開いていなかった.

写真:
ポルタ・ヴェーネレ
(ヴィーナス門)
紀元前1世紀後半


 スペッロで見た古代遺産で最高のものは,多分上の写真の「ウェヌス(ヴィーナス)門」と,写真では片方しか写っていないが,両側にある「プロペルティウスの塔」(トッリ・ディ・プロペルツィオ)であろう.

 プロペルティウス(英語版伊語版ウィキペディア)は前1世紀から後1世紀にかけて活躍した詩人であり政治家だった人物だ.ウンブリア出身と自ら言っており,アシシウム(アッシジ)又ははヒスペッルム(スポレート)生まれとされることもあるが,確証はない.

 ウィキペディアは英語版,伊語版ともにアッシジの生まれとしているが,以前述べたことがあるように,プロペルティウス自身の作品で,アシシウムと言う地名の出てくる個所は,後世の学者の校訂復元であり,絶対とは言えない.

 もちろん,スペッロ出身を確信する根拠も無い.塔に彼の名前がついているのは,多分,プロペルティウスにあやかるくらい古い起源の塔と言うことであろう.

 上述のようにスペッロ(Spello)はヒスペッルム(Hispellum)と言う名の古代都市であった.ラテン語古典では大プリニウス『博物誌』(3巻14章114節),ギリシア語古典ではストラボン『地理誌』(5巻2章10節)に言及がある.

 ストラボンは紀元後20年代が没年と考えられているが,生まれたのは紀元前で,プロペルティウスと時代が重なるが,プロペルティウスの『詩集』にはこの地名は登場しない.有名なウェススウィウス(ヴェズーヴィオ)火山の噴火の際に有毒ガスで亡くなった大プリニウスは後79年が没年で,生まれはストラボンが亡くなった紀元後20年代の前半である.


花の町スペッロ
 スペッロは花に関係する行事が有名らしい.特に花絨毯(インフィオラータ)が敷き詰められる行事(インフィオラーテ・ディ・スペッロ)は有名なようだ.

 カトリックの祭日は未だによく理解できないが,「春分の日の後の最初の満月のすぐ後」の日曜日が「復活祭」(イースター/パスクァ)で,これは年によって3月22日から4月25日の間に祝われる移動祭日である.2016年は3月27日であった.

 復活祭から50日目が「聖霊降臨の主日」(日曜日)で,聖霊降臨の主日の次の日曜日が「三位一体の主日」,それに続く木曜日が「聖体の祝日」(英語版伊語版ウィキペディア)で,2016年は5月26日,この日にインフィオラーテ・ディ・スペッロが開催される.

 私たちがスペッロを訪れたのは3月20日,復活祭の一週間前の日曜日の「枝の主日」だったが,報告をまとめるのに時間がかかっている間に,今年のインフィオラーテ・ディ・スペッロが行われたことになる.

写真:
多くの人がここで
シャッターを切るだろう
花の小路


 そうした行事が行われることと関係があるかどうかわからないが,上の写真に見られるように,住居の壁面が花で飾られた小路があった.イタリアの小都市ではよく見られる光景のように思うが,この通りの写真はあちらこちらで見かけるので,よく知られた写真スポットなのであろう.


スペッロのピントリッキオ
 サンタ・マリーア・マッジョーレ参事会教会のバリオーニ礼拝堂に描かれているピントリッキオ(英語版伊語版ウィキペディアのフレスコ画が,今回のスペッロ観光の唯一の目玉と言っても過言ではない.

 しかし,小さな町の殆ど唯一の観光資源に思われるからか,あるいは本来は信仰の助けであって,観光資源と考えているわけではないからか,堂内の写真撮影は厳禁で,バリオーニ礼拝堂(英語版伊語版ウィキペディア)の前にはロープが張ってあって,管理者が入堂料を集め,人数を制限しながら,狭い礼拝堂に観光客を入れていた.

 人数制限のおかげで,僅か十数人の私たちの団体だけ入って,じっくり観ることができたので,満足の行く鑑賞ができた.遠近法の観点からは,礼拝堂の外から鑑賞することも意味がある.

 私たちの次に,大勢の体格の良い男女の団体がやって来た.使用言語からすると多分ドイツ人(かスイス人かオーストリア人)の団体だと思うが,大人数なので何グループかに分けての鑑賞になったようだ.

 最初,写真を撮りまくっていたが,注意されてからは,きちんと従っていた.管理者の毅然たる態度と,拝観者たちの民度の相乗効果だろう.拝観者としては,できれば写真は撮らせてほしいが,それがルールであればやむを得ない.

 ピントリッキオ(Pintoricchio)に関しては,ピントゥリッキオ(Pinturicchio)と言う綴りもあり,英語版も伊語版ウィキペディアもその綴りで立項しているが,前者の方が言いやすいし,今回の説明明快なイタリア人現地ガイドの方も終始「ピントリッキオ」と発音されていた.

 バリオーニ礼拝堂の自画像の下には,ラテン語で「ベルナルディウス・ピクトリキウス・ペルシヌス」(ペルージャの人ベルナルド・ピントリッキオ)とあった.ラテン語では画家はピクトル(pictor)なので,この語に「ン」(n)はないし,そこから派生したイタリア語のピットーレ(pittore)にも「ン」はない.

 しかし,ピクトルを派生させた「描く」と言う動詞はピンゴーで「ン」がある.ピクトルを派生させた過去分詞(完了分詞)のピクトゥス(pictus)はnが無いので,「小さな画家」(身長が低かったようだ)ピットリッキオとかピットリッチョとかになりそうな気がするが,実際にはピントリッキオもしくはピントゥリッキオになった.

 伊語版ウィキペディアに拠れば,ピットーレと同義のピントルと言う語があって,そこからピントル・ピッコロと言う意味でピントリッキオと言う通称になったようだ.であれば,ピントリッキオの方が良さそうなものだ.

写真:
サンタ・マリーア・
マッジョーレ参事会教会
堂内は撮影禁止


 バリオーニ礼拝堂は,左壁に「受胎告知」,中央に「牧人礼拝」,右壁に「博士たちと議論する少年イエス」の場面が描かれ,前二者の聖母と,右壁の少年イエスが美しい.「受胎告知」の左隣には,画家の自画像もある.

 ヴァザーリはピントリッキオを評価しなかった.現在でもルネサンスの画家として名は知られているが評価が高いとは言い難いかも知れない.絵が発散する生命感のようなものがあるとすれば,彼の絵はそれに欠け,平板で様式的過ぎると思う人もいるだろうし,私もそう感じないわけではない.

 しかし,それを補ってあまりあるほど,キリストや聖母など主題として描かれた人物の顔の美しさ,色彩の華やかさには心打たれる.私はピントリッキオが好きだ.

 シエナ大聖堂のピッコロミーニ図書館の壁画には及ばないかも知れないが,ローマのサンタ・マリーア・アラチェリ教会のブファリーニ礼拝堂,サンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂のプレゼピオ礼拝堂,ヴァティカン宮殿のボルジアの間のフレスコ画と並ぶ傑作と私には思われる.

 今回の旅行では,スポレート大聖堂コンスタンティーノ・エローリ司教の礼拝堂で,やはりフレスコ画の「聖母子と洗礼者ヨハネと聖レオナルド」を観ることができ,こちらは写真にも収めることができたが,ピントリッキオ自身の作品と言うより,工房作品に思えるほどで,水準は高くはなかった.

 それに比べれば,バリオーニ礼拝堂のフレスコ画は「美しい」の一言につきる.

 サンタ・マリーア・マッジョーレ教会にはもう1作,おそらくフレスコ画の一部であったろう「聖母子」が額に入れられて飾られている.これは残念ながら,高水準の作品とは言えず,巨匠本人の作品ではないだろうが,嬰児キリストの顔は十分美しいし,決して下手な作品ではない.立派に額装されていて,見られて良かったと思う.

 ピントリッキオとペルジーノの作品に関して,

 Flavia Romanò, tr., Shanti Evans, Guide to the Places and Works of Pinturicchio and Perugino, Firenze: Scala, 2008(以下,ロマノ)

があるが,この「聖母子」はロマノにも僅かに言及があるだけで写真は掲載されていない.

 堂内にはペルジーノの「玉座の聖母子と聖人たち」,「ピエタ」もあるが,これはまた本人の作品とすれば,時々この画家が見せる最も能天気な側面が表れているように思われる.

 この作品の制作年代は1522年頃(伊語版ウィキペディア「ペルジーノ」)とされており,死の前年で,気力も技量も衰え,高い報酬の大都市での仕事は無くなっていただろうから,ウンブリアの地方都市で,それでも過去に得た栄光の余慶で細々と仕事をしていたと想像される.

 しかし,同世代のボッティチェリのように貧窮死した画家も少なくない中,生涯現役だったのだから,彼の75年の生涯は,傑出した職人として幸福な人生だったのではないかと思う.矛盾することを言うようだが,そう思うと,スペッロの作品はあまりにも下手で一層痛々しく思われる.

 伊語版ウィキペディアのリストを参考に,今まで観ることができたピントリッキオの作品を年代順に並べてみる.

  「聖ベルナルディーノの物語
 (ペルジーノらとの共作)
 国立ウンブリア絵画館  1474年
 「聖ヒエロニュムスと聖クリストフォロスの間の
キリスト磔刑
 ボルゲーゼ美術館  1475年頃
 「ブファリーニ礼拝堂のフレスコ画」  サンタ・マリーア・
アラチェリ聖堂
 1484-86年頃
 「バッソ・デッラ・ローヴェレ礼拝堂のフレスコ画」  サンタ・マリーア・デル・
ポポロ聖堂
 1484-92年頃
 「プレゼピオ礼拝堂のフレスコ画」  サンタ・マリーア・デル・
ポポロ聖堂
 1488-90年頃
 「ボルジアの間のフレスコ画」  ヴァティカン宮殿  1492-94年
 「サンタ・マリーア・デイ・フォッシ祭壇画」  国立ウンブリア絵画館  1496-98年
 「エローリ司教の礼拝堂のフレスコ画」  スポレート大聖堂  1497年
 「鞭打ち苦行修行者の間の聖アウグスティヌス  国立ウンブリア絵画館  1500年
 「バリオーニ礼拝堂のフレスコ画」  サンタ・マリーア・マッジョーレ
参事会教会(スペッロ)
 1500-01年頃
 「ピッコロミーニ図書館のフレスコ画」  シエナ大聖堂  1502-07/08年
 「ピウス3世の戴冠  シエナ大聖堂  1503-08年頃
 「洗礼者ヨハネ礼拝堂のフレスコ画」  シエナ大聖堂  1504年


 ピントリッキオが亡くなる1513年の作品も残っているようで,最晩年の1510年以降の諸作品も伊語版ウィキペディアには数点リストアップされているが,いずれも見ていない.スペッロのサンタンドレーア教会にもピントリッキオの「玉座の聖母子と聖人たち」(1506-08年頃)があるようだが今回は見ていない.

 見た可能性があるのは,サン・ジミニャーノの市立絵画館にある「栄光の聖母と聖人たち」(1510-12年頃)であるが,サン・ジミニャーノに行った2007年5月2日には,ピントリッキオと言う画家の名前もまだ知らなかったのではないかと思うし,写真撮影も禁止(確かカメラは受付に預けた)だったので,思い出せない.

 この作品は着座して祈る聖母が,熾天使が作るマンドルラの中に描かれている.ボルジアの間やポポロ聖堂でも,マンドルラの中の聖母を観たが,1480年代半ばと言う比較的早い時期のアラチェリ聖堂のフレスコ画にもマンドルラの中のキリストが描かれおり,ピントリッキオ作品の一つの特徴を示すものであるように思われる.


モンテファルコのゴッツォリ
 スペッロの観光を終えると,バスで少し南に下ったところにあるモンテファルコ(英語版伊語版ウィキペディア)に向かった.スペッロよりもさらに小さな町だが,それでも私たちの感覚では「村」と言う用語はなじまず,小なりと言えども「都市」と言う風格を持っているように思われる.

 城外の駐車場でバスを降り,地下道を通って道を渡り,サンタゴスティーノ門から城壁内に入った.ここからまっすぐ坂を上っていくと,途中にサンタゴスティーノ教会があり,やがて丘の頂にあるコムーネ広場(ピアッツァ・デル・コムーネ)に出る.

 広場の左奥の通りを少し下った右手にあるのが旧サン・フランチェスコ教会で,現在は博物館になっている.この博物館とモンテファルコの町に関する案内書,

 Bruno Toscano / Massimo Montella (eds.), tr., Clare Donovan, Guide to the Museum of San Francesco in Montefalco, Prato: Giunti, 2015 (2)(以下,トスカーノ&モンテッラ)

をブックショップで購入したので,これを参考にする.網羅はしていないが,案内書としては詳細だ.

 旧サンフランチェスコ教会の堂内全体にゴッツォリのフレスコ画があるようなイメージを持っていたが,全てゴッツォリのフレスコ画と言う訳ではなく,彼が担当したのは中央礼拝堂と右壁面のファサード裏寄りの聖ヒエロニュムス礼拝堂(カッペッラ.ディ・サン・ジローラモ)である.

 いずれも1452年の作品で,この年にレオナルド・ダ・ヴィンチが生まれている.ゴッツォリの正確な生年はわからないが,1421年頃の生まれとすれば,モンテファルコで仕事をした時,彼はようやく30歳を越したばかりの新進気鋭の画匠だったことになる.

 フィレンツェでルネサンス芸術に目覚めた私たちにとって,ゴッツォリといえば,やはりメディチ・リッカルディ宮殿で出会った「三王礼拝堂」のフレスコ画だ.この印象が強烈なので,ゴッツォリが地方でした仕事は,画力が衰えて,地元トスカーナの諸都市で仕事が得られずに,心ならずもウンブリアまで行って,画家としての生活と矜持を支えたものかと思っていたが,実は若い頃の作品だったのだ.

 ウンブリアは教皇領もしくはその影響の大きい地域なので,巨匠フラ・アンジェリコを手伝ってヴァティカン宮殿のニッコリーナ礼拝堂(英語版伊語版ウィキペディア)の仕事をした(1447年と48年)彼を,あるいは教皇(ニコラウス5世)かその関係者がウンブリアのフランチェスコ会に紹介したのであろうか.

 1450年にフラ・アンジェリコはフィエーゾレの修道院長として一旦トスカーナに戻るが,その際にゴッツォリは工房から独立する決意をし,その機会を得たのだろう.

 独立した親方としての初めての仕事はモンテファルコのサン・フォルトゥナート教会の板絵とフレスコ画であり,その流れで,サン・フランチェスコ教会の聖ヒエロニュムス礼拝堂と後陣のフレスコ画と言う,普通の画匠なら一世一代とも言うべき大仕事を託されたことになろう.



 カトリック教会の歴史の複雑さに劣らず,1226年の聖人の死後,大組織となったフランチェスコ会のたどった歴史も容易に理解できないほど複雑だ.

 「清貧」と言う聖人が重視した徳目はカトリック教会の体制派と常に対立する要素を持っており,事実,聖人の思想を厳格に遂行しようとする「聖霊派」(スピリトゥアーリ)と称された人々は相当の影響力を持ったが,異端の疑いで弾圧され,14世紀半ばには鎮静化させられた.

 しかし,その影響力は大きく,カトリック教会の内部抗争(1378年から1417年の「大分裂」など)と相まって,「聖霊派」の考えも受け継ぐ改革派の会則(遵守)派がフランチェスコ会の中で力を持ち,保守派であった修道会派(コンヴェントゥアーリ)と対立した.

 1517年にメディチ家出身の教皇レオ10世が2つの会派を正式の別々の修道会とした.フランチェスコの「小さな兄弟会」(フラーティ・ミノーリ)の名を引き継いだ最大勢力は会則派で,現在もこの会派が圧倒的な会員数を持っている.

 私たちにはフランチェスコ会の「総本山」のように思われるアッシジのサン・フランチェスコ聖堂を管理しているのは,英語でグレイ・フライアーズ(灰色服の托鉢修道士たち)と呼ばれる修道会派だが,こちらは現在は少数派のようで,16世紀の対抗宗教改革の中で会則派から分かれたカプチン派よりも小さい.

 会則派,修道会派,カプチン派がいわゆる「フランチェスコ会」(小さな兄弟会)の第一修道会で,女性の修道士からなる第ニ修道会が「キアラ会」,他に在俗修道会である第三修道会があり,それぞれに複数の会派があると一応理解しておく.

 前置きが長くなったが,同じくモンテファルコのフランチェスコ会と言っても,サン・フォルトゥナート教会は会則派(オッセルヴァンティ),サン・フランチェスコ教会は修道会派(コンヴェントゥアーリ)である.正式に分離する以前であったとはいえ,それだけに思想的対立が先鋭であったと思われる時代に,前者で仕事をしたゴッツォリが,後者でも仕事ができるように計らったのは,教皇のゴッツォリへの高い評価を物語っているかもしれない.


「聖フランチェスコの物語」のプログラム
 サン・フランチェスコ教会の後陣ヴォールト天井にはマンドルラに囲まれ十字架を持って玉座に座る「栄光のフランチェスコ」が描き込まれている.「第二のキリスト」としての聖人の絵ではあるが,さすがにそこまで思い切った絵柄を描くことは画家一人の判断ではできないだろう.

 ゴッツォリに図像プログラムの案を提供したのは,注文主であるモンテファルコのフランチェスコ会の代表だったフラ・ヤコポ・ダ・モンテファルコ(下の写真の右から3番目の人物)とされる.

写真:
「小鳥に説教するフランチェスコ」
(左部分)
「モンテファルコを訪れた
フランチェスコ」(右部分)
1452年


 ゴッツォリに関する日本語で読める参考書として,

 クリスティーナ・アチディーニ・ルキナート,池上公平/野村幸弘(訳)『ベノッツォ・ゴッツォリ』(イタリア・ルネサンスの巨匠たち12)東京書籍,1995(以下,ルキナート)

がある.フィレンツェで出版された元のシリーズに収められているのでその一環として訳されたのであろうが,奇跡的な存在だ.ヴァザーリの「ベノッツォ・ゴッツォリ伝」の邦訳(『続 ルネサンス画人伝』白水社,1995)もあるが,モンテファルコの仕事への言及が無いなど不備な感は免れない.

 旧サン・フランチェスコ教会では殆どのフレスコ画の写真を撮ることできたし,トスカーノ&モンテッラ,ルキナートと言う優れた手引書もあるので,勉強の材料は私のレヴェルなら十分以上だ.後者はサン・フォルトゥナートとサン・フランチェスコを同じく「フランチェスコ会」の教会とするなど,説明不足な点もあるように思えるが,ゴッツォリの生涯に渡る作品うを鳥瞰し,彼をルネサンスの歴史の中に位置づけると言う点で極めて有益な参考書だと思う.

これらを参考にして考えると,図像プログラムの共通性から言っても,ゴッツォリが自分の時代より150年前のアッシジのサン・フランチェスコ聖堂上部教会のジョット作とされる「聖フランチェスコの物語」を実見し,参考にしたのはほぼ間違いないだろう.


 しかし,ジョットかも知れないアッシジの作者が取り上げなかった絵柄もある.上記の「栄光のフランチェスコ」はもちろん,「驢馬と牛がいてキリストの降誕になぞらえられたフランチェスコの誕生」,「矢を持って世界を滅ぼそうとするキリストを取りなす聖母/フランチェスコとドメニコの出会い」などがそうだ.

 貧しい者に施しをする場面,スルタンの前での火の試練はアッシジでも描かれているが,モンテファルコでは前者に,白馬に乗って施しをする聖マルティヌスとの同一化が意図されており,後者にはスルタンの意図を受けて聖人を誘惑しようとする若い女性が書き加えられている.

 「アレッツォの悪魔祓い」は両方に描かれているが,もちろん「モンテファルコの町と人々を祝福する場面」はアッシジでは描かれていない.

 フランチェスコの生涯に関しては,チェラーノのトマスに拠る2つの伝記と,ボナヴェントゥーラによる伝記があるので,一介の画家や地方の修道会指導者が勝手に創作できるものではないが,それらの伝記に語られている出来事をどう組み合わせるかは,場面を描き込む場所に制限がある以上,画家と図像プログラム企画者の考え次第と言う面があるだろう.



 ジョット作とされる「フランチェスコの物語」は,旧約聖書の物語を描いたリュネット型の壁面の下の3つずつの大きなほぼ正方形の壁面に一場面ずつ描かれており,北側壁面の西から東に向かい13場面(最後のユニットだけ4面),東側正面の入り口の両側に各1場面,南側壁面の東から西に向かって13場面(最初のユニットだけ4面)の計28場面から成っている.

 それに対し,モンテファルコの後陣礼拝堂では,本来は正八角形になるリブヴォールト天井を無理やり六角形にして,手前に「栄光のフランチェスコ」,リブで区切られた残り5つのスペースにはフランチェスコ会の聖人が描かれ,その下のリュネットと,それに続く壁面を上下2段に分けて「フランチェスコの物語」が描かれている(下の写真).

写真:
後陣ヴォールト天井の
フレスコ画
ベノッツォ・ゴッツォリ


 リュネット部分に描かれているのは,「グレッチョのプレゼピオ」,「火の試練」,「聖痕拝受」,「フランチェスコの永眠」の4場面(中央は窓の尖端があり,右隣のリュネットのフランチェスコに聖痕を与える熾天使に囲まれたキリストのみ描かれている),その下の計8面の長方形の中に14の場面,合計18場面が描かれている.

 長方形の画面は「アレッツォの悪魔祓い」と「父の相続権を放棄するフランチェスコ」を除いて,1画面に2場面が描かれており,1画面に1場面が描かれているアッシジのサンフランチェスコ聖堂上部教会と異なる.

 キリストの怒り,聖母の取り成し,フランチェスコとドメニコの出会いを結び付けた絵としてはリヨン美術館でルーベンスのを観ているが,早くても1618年の作品とされるので,であれば当たり前だがゴッツォリの方が170年近く古いことになる.

 この伝説を簡単に説明したウェブページがあるが,例として出されているのがゴッツォリの絵なので,それより古い類例があるのかどうかも今のところわからない.2聖人が出会った可能性があるとすれば1215年の夏とのことだが,記録上の証拠はないのであろう.


里帰りの作品
 サン・フランチェスコ教会のプログラムを企画したヤコポのように,サン・フォルトゥナート教会の方にもフラ・アントニオ・ダ・モンテファルコと言う,ヤコポの好敵手とも言うべき知識人宗教者がいて,彼がゴッツォリを招聘したようだ.

 ゴッツォリがサン・フォルトゥナート教会に描いたのは,「特筆すべき規模の連作」(ルキナート,p.17)だったようだが,リュネットの「聖母子と聖フランチェスコ,聖ベルナルディーノ」,「玉座の聖フォルトゥナトゥス」,「玉座の聖母子と奏楽の天使」しか残っておらず,今となってはどのような図像プログラムだったのかもわからない.

 ただ,アントニオの構想が反映しているかどうかわからないが,この教会のためにゴッツォリが制作した板絵の祭壇画が現存している.

写真:
ヴァティカンから167年ぶりに
モンテファルコに戻った
「腰帯の聖母」(部分)
1450年


 かつてサン・フォルトゥナート教会にあった「腰帯の聖母の祭壇画」は,19世紀に教皇ピウス9世に寄進されて,現在はヴァティカンの絵画館に展示されている.私たちもそこで少なくとも2回はこの作品を見ている.今回はモンテファルコに里帰りして,本来あった教会ではないが,旧サン・フランチェスコ教会に特別展示されていた.

 上の写真ではカットしているが,裾絵は左から「聖母の誕生」,「聖母の婚約」,「受胎告知」,「イエスの誕生」,「イエスの神殿奉献」,「聖母永眠」で,「腰帯の聖母」の両側に3人ずつ(左はフランチェスコ,フォルトゥナトゥス,パドヴァのアントニウス,右はトゥールーズのルイ,ユリアヌス,シエナのベルナルディーノ)が描かれており,残存するフレスコ画同様に奇跡の杖を持ったフォルトゥナトゥスがいて,サン・フォルトゥナート教会のために描かれたと言うことがわかる.

 既に巨匠フラ・アンジェリコ率いるチームで筆頭助手の役割を数年果たしていたとは言え,30歳になる前の清新の気風に溢れた若々しい作品と言えよう.


今後の課題
 ルキナートとウェブ・ギャラリー・オヴ・アート,伊語版ウィキペディアを参考に今まで観ることができたゴッツォリの作品を時系列に整理すると,

 サンマルコ修道院のフレスコ画(特に第39室の「三王礼拝」)(1440-41年頃)
 オルヴィエートのサン・ブリツィオ礼拝堂のフレスコ画(1447年)
 サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂「聖母と祝福する幼子キリスト」(1449年)
 ヴァティカン絵画館の「腰帯の聖母被昇天」(1450年)
 モンテファルコのサン・フランチェスコ教会のフレスコ画(1452年)
 ペルージャ国立ウンブリア美術館の「聖母子と聖人たち」(1456年)
 サンタ・マリーア・アラチェリ聖堂のフレスコ画「パドヴァの聖アントニウス」(1458-60年)
 メディチ・リッカルディ宮殿のフレスコ画「三王礼拝」(1459-60年)
 ミラノ,ブレラ絵画館の「ナポレオーネ・オルシーニを蘇生させる聖ドメニコ」(1461年)
 フィレンツェ,アカデミア美術館の祭壇画の柱絵の「聖人たち」(1461年)
 フィレンツェ,サン・マルコ博物館の祭壇画裾絵(1461-64年)
 サン・ジミニャーノ,サンタゴスティーノ教会のフレスコ画(1464-65年)
 サン・ジミニャーノ,参事会教会のフレスコ画「聖セバスティアヌスの殉教」(1465年)
 サン・ジミニャーノの市立絵画館の「聖母子と聖人たち」(1466年)
 アヴィニョン,プティ・パレ美術館の「マグダラのマリアと聖フィーナ」(1467-70年)
 ピサ,シノピエ博物館所蔵のカンポ・サントのフレスコ画下絵(1469-84年)
 ピサ,大聖堂博物館「聖母子と聖人たち」(1470年)
 ルーヴル美術館の祭壇画「トマス・アクィナスの勝利」(1471年)
 ピサ,サン・マッテーオ国立博物館の「聖母子と聖人たち」(1490年)
 フィレンツェ,ホーン美術館の「キリスト降架」(1496-97年)

 他に,伊語版ウィキペディアには,サン・ジミニャーノの市立博物館,ヴェローナのカステルヴェッキオ博物館,フィレンツェのバルディーニ博物館,ヴォルテッラ大聖堂に彼の作品があったとしており,いずれも行ったことがあって,写真も撮らせてもらえた場所だが,撮ってきた写真を確認する限り,見ていないように思える.

 今回のウンブリア旅行でも,モンテファルコでの仕事に先立つと思われるナルニ,エローリ博物館の剥離フレスコ画の「受胎告知」はもちろん見ていない(この博物館にはドメニコ・ギルランダイオの祭壇画「聖母戴冠」もあるとのことだ).

 今後の課題としては,フィレンツェ県カステルフィオレンティーノの大きな2つの壁龕に描かれ,剥離して今は同市のベノッツォ・ゴッツォリ博物館に収められているフレスコ画群を観ることだ.

 やはりフィレンツェ県のチェルタルドの旧サンティ・トッマンーゾ・エ・プロスペロ教会にも別の場所の壁龕にあった彼のフレスコ画がある.これもチャンスがあれば観たい.

 モンテファルコの作品を観て,ゴッツォリに関しては,やはりメディチ・リッカルディ宮殿の礼拝堂のフレスコ画が圧倒的に素晴らしいと言う印象に一層の確信を得る結果となったが,地味であっても,時には実力を発揮していなくても,あるいははっきりと技量に衰えが見られるとしても,彼のような多作の職人型芸術家の実作をコツコツと観ることによって,イタリア・ルネサンスへの理解が深まると信じる.

 最晩年のホーン美術館の「キリスト降架」を観る限り,死の直前まで技量の衰えなかった画家なのではないかと思う.地味な印象は免れないが,ゴッツォリのような職人型の芸術家が私はやっぱり好きだ.


地元の画家の作品
 旧サン・フランチェスコ教会には中央礼拝堂の他にも,天井や壁にフレスコ画残る礼拝堂が幾つかある.下の写真は「大修道院長アントニウス礼拝堂」の天井に残るフレスコ画だ.

写真:
大修道院長アントニウス礼拝堂
ヴォールト天井と壁面リュネット
のフレスコ画

 このフレスコ画はアンドレーア・ディ・カーニョ作の可能性があるとされるが,ウィキペディアには立項はなく,アッシジのサンタ・キアーラ聖堂などに関して参考にしたキー・トゥー・ウンブリアと言う英語ウェブページに説明がある.

 それに拠れば,1403年にフォリーニョで活動記録があり,同地のサンタンナ女子修道院食堂に「最後の晩餐」など帰属作品のフレスコ画が残っている,モンテファルコの旧サン・フランチェスコ教会に複数の作品を遺しているジョヴァンニ・コッラドゥッチョの工房にいた画家とのことだ.

写真:
ティベリオ・ダッシージ
「救済の聖母」
(マドンナ・デル・ソッコルソ)
1510年


 サン・フランチェスコ教会は,旧教会,旧修道院,そして地下のクリプタを合わせた複合博物館で,旧修道院部分は絵画館,クリプタは考古学的なエリアになっている.板絵などは絵画館に展示されているが,一部,堂内に展示されているものもある.

 上の写真の板絵は,堂内に展示されているティベリオ・ダッシージの「救済の聖母」だが,これとよく似た「救済の聖母」が絵画館の方にもある.作者はフランチェスコ・メランツォ(英語版,伊語版には立項されておらず仏語版ウィキペディアが詳細で作品リストもある)で,1465年にモンテファルコで生まれ,没年は不明だが1526年までは活動記録があるとのことだ.「地元の画家」である.この画家に関する英語の情報もやはりキー・トゥー・ウンブリアにある.

 絵画館にはメランツォの祭壇画が複数あり,上手ではないし,1465年生まれ(レオナルド・ダ・ヴィンチより13歳年下)にしては,中世の雰囲気を残す古臭い感じのする絵だが,モンテファルコのような鄙びた町にはよく似合うように思える.

 メランツォは,私にとっては今後注目の画家である.2010年に研究書が出版されたようだが,各国のアマゾンで探しても,現在入手不可能のようだ.残念である.1973年出版の研究書もあるようで,イタリアとイギリスのアマゾンに出品されているが,国内のみの販売のようだ.チャンスを待とう.

 ティベリオ・ダッシージのフレスコ画も堂内にある.身廊北壁の聖アンデレの壁龕にあるリュネット型の「玉座の聖母子と聖アンデレ,聖ボナヴェントゥーラ」である.

 バーニョレージョ出身のボナヴェントゥーラは,教会博士で枢機卿にもなったフランチェスコ会のスターであるが,対になっている聖人が,なぜアンデレなのかはわからない.アンデレの後ろに小さい2人の人物が風景の中で跪いて祈っており,寄進者のアウグスティ一族(モンテファルコのアウグスティ家と言う名前がラテン語碑銘に見られる)であろうが,このうちの一人がアンドレーアと言う名であれば説明がつきやすいが,その情報はトスカーノ&モンテッラにもない.

 トスカーノ&モンテッラはこのフレスコ画をペルジーノとピントリッキオの影響を受けた,ティベリオの最上の作品の一つとしている.遠近法がしっかりとして,風景が美しく,玉座と天幕が良く描けていて,立派な絵だと思うが,アンデレの顔は残念で,このあたりがローカルを超えることのできなかった画家と言うことなのだと思う.

写真:
サンタ・キアーラの表現主義の
親方「磔刑像」
14世紀初頭


 アッシジのサンタ・キアーラ聖堂で初めて出会った「サンタ・キアーラ(聖堂)の表現主義(者)の親方」の絵に(同定が確かなら)モンテファルコで出会うことができた.

 こうして写真を見ていると「古拙」とか「下手うま」のレヴェルを遥かに超えたゴシック末期のプロの画家の絵だと思う.ジョットが活躍した時代に,これだけの画家がウンブリアにいたことは驚嘆に値する.ジョットの影響は明白だろうが,どういう人物かは全くわからないようだ.サンタ・キアーラ聖堂のフレスコ画と同じ作者であるとどのようにして推定されたのかも興味深いが,ペンディングとする.

 足に打たれた釘が一本のタイプで,その釘にフランチェスコが接吻しているところが芸が細かい.これだけで,依頼者はフランチェスコ会の修道院か教会であったことは容易に想像がつく.

 もともとは,フランチェスコ会からの依頼で制作され,サンティ・フィリッポ・エ・ジャーコモ教会の中央祭壇にあったが,1340年にサン・フランチェスコ教会の後陣礼拝堂の側壁に飾られ,1562年頃,側壁が破却された時に現在の位置に移されたとのことである(トスカーノ&モンテッラ,p.58).

写真:
モンテファルコのサン・フランチェスコ教会
の右後陣の親方
「聖バルトロマイ」
生皮とそれを剥いだナイフがアトリビュート
1410-30年頃


 上述のように,旧サン・フランチェスコ教会は単廊式だが右(南)壁面の5つの礼拝堂をはじめフレスコ画の残る複数の礼拝堂がある.ゴッツォリの「聖フランチェスコの物語」のある後陣礼拝堂の左右にも小後陣の礼拝堂があり,左は「受難の礼拝堂」で,ジョヴァンニ・ディ・コッラドゥッチョの「受難」を題材とするフレスコ画群がある.

 このフレスコ画群は1415年から20年にかけての制作とされるので,ゴッツォリの作品よりも30年以上早い.最も遅い20年としてもまだゴッツォリは生まれていなかった.そう考えると,貴重な作品を観ることができたと思えるし,「キリスト磔刑」,「リンボのキリスト」,「我に触れるな」等,絵柄も良い.「聖なる顔」(ヴォルト・サント)のフレスコ画は破却されて両手しか残っていない.

 右後陣は特に名称はないが,上の写真の「聖バルトロマイ」を描いた名前の伝わらない画匠のフレスコ画で飾られている.1410年から30年の制作ということでやはりゴッツォリの作品よりも古い.

 右(南)壁面の5つの礼拝堂は,1番ファサードに近いのが,ゴッツォリ工房のもう一つの作品がある聖ヒエロニュムスの礼拝堂で,そこから後陣に向かって,聖ベルナルディーノ礼拝堂,我らの聖母礼拝堂,上述の大修道院長アントニウス礼拝堂,受胎告知礼拝堂と続く.

 左(北)壁側唯一のボンタドージ礼拝堂は,1598年に増築された新しい礼拝堂で,アシェンドーニオ・スパッカと言う画家の「聖フランチェスコとパドヴァのアントニウスの間の無原罪の御宿り」と言う祭壇画があるが,特に注目するような作品ではない.

 そのすぐ西(左)隣にパドヴァのアントニウスの壁龕があり,ヤコポ・ヴィンチョーリのリュネット型のフレスコ画がある.中央に描かれているのは「パドヴァのアントニウス」の疑似祭壇画で,その左は「悪魔に憑かれた男への悪魔祓い」,右は「パドヴァのレオナルドへの治癒」と言ういずれもアントニウスの奇蹟物語,上部はキリスト磔刑になっている.15世紀中頃の作品とされる.

 この画家に関しては,ヴィンチョーロと言う名前でキー・トゥー・ウンブリアに情報があり,1444年にスポレートに活動記録があり,モンテファルコでは,この壁龕のフレスコ画の他に,上述の聖ベルナルディーノ礼拝堂,サンタゴスティーノ教会のフレスコ画が紹介されている.

 観た記憶がないが,絵画館に,サンタゴスティーノ教会にあったキリスト磔刑像もあるとされ,これはトスカーノ&モンテッラにも写真付きで紹介されている.

 忘れてはならないのが,ファサード裏にあるペルジーノの「受胎告知」,「永遠の父なる神」,「嬰児キリスト礼拝」の3つの画題から構成されたフレスコ画だ.1503年の作品で,その後20年余生がある巨匠の55歳くらいの時の作品である.円熟期の傑作と言いたいが,この時代にはかつてはあった独創性が既に枯渇していたかも知れない.かろうじて上部の「受胎告知」と,「礼拝」における聖母の顔に巨匠の卓越性が垣間見えるのみだ.


生きている教会
 コムーネ広場に向かう途中にあったサンタゴスティーノ教会は,ゴシックのポルターユを持ち,堂内はフレスコ画の残る空間で,左側手前の「聖母戴冠」はアンブロージョ・ロレンゼッティの帰属作品と説明される場合も有り,ピエトロ・ロレンゼッティの弟子筋による絵とする説明も見られるが,いずれにせよ,シエナ派の巨匠たちの真作ではないことは,絵の完成度から言っても明白だろう.

 拝観予定ではなかったが,前を通ったので,皆さんから離れないことに注意しながら,堂内に入り,何か展示会が行われている様子を写真に撮らせてもらった.もう拝観することはないだろうから,せめてネット上に良い写真がないかと探したが,残念ながら見つからない.

写真:
サンタゴスティーノ教会


 モンテファルコでは,バスとの待ち合わせ時間まで,少しだけ自由時間が貰えたので,地図を頼りに幾つかの教会を回った.この時間帯には,是非余裕のある拝観をしたいと向かったサンタゴスティーノ教会は既に閉まっていたので,拝観できたのはマドンナ・デッレ・グラーツィエ教会とサンタ・ルチーア教会(下の写真)だけだった.

 前者は13世紀のサン・ロレンツォ教会が前身で,外観はロマネスクかと思わせるような古風な外観だが,内部は新しくなっており,教会と言うよりは祈祷堂と言った感じだ.メランツィオ作と伝えられる聖母子のフレスコ画断片が額で覆われ,中央祭壇を飾っているが,残念ながらプロの画匠が描いたゴシック風ルネサンス絵画とは思えないほど改変が施されている.

 後者も12世紀まで遡る教会で,外観はロマネスク風,内部には14世紀のものとされるフレスコ画の断片が2つ残っていて,一方は聖ルキアとされるが,かろうじて人物とわかる程度のものだ.

 集合場所に向かう途中,城壁の外側にサンタ・キアーラ修道院とその教会があったが,外観を見ただけである.ただし,このキアーラはアッシジ出身のキアラ修道会(フランチェスコ会女子部)の創設者ではなく,モンテファルコのキアーラ(英語版伊語版ウィキペディア)と言う聖女のようだ.13世紀半ばに生まれ,14世紀初めに死んだ人物だが,列聖は1881年と遅い.

 13世紀にフランチェスコ会の影響を受けながら,アウグスティヌス修道会規則を受け入れて修道女となり,女子修道院長となって,ご公現の日(1月6日)に十字架を担ったキリスト幻視を見ると言う神秘体験をした女性と言うことらしい.

 列福も列聖も19世紀なのにそれ以前から,この修道院と教会があったと言うのは,地元では死後ずっと崇敬され続けていたということなのだろう.聖遺物(多分,遺体であろう)も残っている.

 上で何度も名前をあげたサン・フォルトゥナート教区教会にはゴッツォリのフレスコ画と,ティベリオ・ダッシージの作品があるとのことだが,手元の地図に載っていなかったので,どこにあるか分からなかった.地元の画家フランチェスコ・メランツォのフレスコ画に満ちたサンティッルミナータ教会も拝観していない.



 スペッロとモンテファルコで,ゴッツォリ,ペルジーノ,ピントリッキオの作品を鑑賞することができた.ペルジーノはどの作品も気力と技量が衰えてからのものに思われ,ゴッツォリは若い頃の,これから名匠になって行く過程の作品だが,スペッロのピントリッキオのフレスコ画は,彼としてもほぼ最高傑作に並ぶ水準の作品と思われた.もちろん,これら巨匠たちの絵を観ることができたのはこの上ない幸運であった.

 たとえ,下手な作品に思われても,私はペルジーノが好きだし,絶頂期と最晩年の作品を既に鑑賞しているゴッツォリについては,その名声を確立した連作フレスコ画を観ることでき,心の底からの満足感を得た.一方,

 サンタ・キアーラの表現主義(者)の親方(14世紀初頭に作品)
 モンテファルコのサン・フランチェスコ教会の右後陣の親方(15世紀初頭に活躍)
 ジョヴァンニ・コッラドゥッチョ(没年は1437年以降)
 アンドレーア・ディ・カーニョ(没年は1446年以降)
 ヤコポ・ヴィンチョーリ(没年は1495年以降)
 フランチェスコ・メランツォ(c.1465-1520)
 ティベリオ・ダッシージ(c.1465-1524)

の14世紀初頭から16世紀初頭に至るまでの,ウンブリア派山脈を形成したであろう画匠たちの作品を,たとえその一部ではあっても鑑賞することができた.中世を僅かでも知ってこそ,ルネサンスをより深く理解し,古典古代の特性も浮き彫りにできると言う気持ちが一層確固としたものになった.

 ラテン語が多少読めても,非キリスト教徒であり,その文脈から遠い所にいる私が「中世」を理解するのは,ほぼ不可能に近いが,それでも,それを少しずつでも知ろうとしないことは,学問を放棄することであるように思える.到達点が全く見えない時点で寿命がつきるのはほぼ確実だが,それでも学問に対して前向きでありたいと思う.いつも前のめりになって,結果,躓いているだけだと思うくらいの自己分析はできているつもりだが,知りたいと言う気持ちには抗えない.

 ゴッツォリ工房の助手たちについては今回は思いが至らなかった.また旧・サン・フランチェスコ教会の絵画館にあるはずのアントニアッツォ・ロマーノの美しい祭壇画は,今回はどこかの特別展に出張中だったのか見られなかった.満足はしたが,思いは残るスペッロ,モンテファルコ訪問であった.





サンタ・ルチーア教会
モンテファルコ