§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その8 アッシジ
ペルージャ2日目の午前中はアシッジ観光だった.サン・ピエトロ広場でバスを降り,まずサン・フランチェスコ聖堂に向かった.まだ少し時間が早いのか,広場にはほとんど人影もなかった.下部教会から聖堂に入り,9年前に2日にわたって見つめたフレスコ画と再会した. |
今回は,上部教会の「聖フランチェスコの物語」を観ながら,これはジョットの作品ではないのではないかという,素人ならではの感想を抱いた.ピエトロ・カヴァッリーニの影響を受けたローマ派の画家の作品だとしたら,それはそれで興味深いし,何と言っても「フランチェスコの物語」は大きな連作フレスコ画で,心魅かれる.
下部教会では,シモーネ・マルティーニ,ピエトロ・ロレンゼッティの美しい作品の立派さに改めて感銘を受けたし,ジョット工房のフレスコ画は,表現の巧拙はともかく,私たちがジョットの絵に求めるイメージに近く,心打たれるものがあった.
作者については,私が考えて何か結論が出るわけではないが,誰が描いたにせよ,「サン・フランチェスコの親方」の「小鳥に説教するフランチェスコ」を含め,下部教会の全ての作品を,もっと時間をかけて観たいと思う.
サン・フランチェスコ聖堂は相変わらず,写真厳禁だったので,堂内の写真は全く無い.
パラッツォ・デル・モンテ・フルメンターリオ
サン・フランチェスコ聖堂を出て,ローマ時代から町の中心であったコムーネ広場に向かって進む途中にフレスコ画の断片の残る建物があった.撮ってきた写真,Googleのストリートビュー,文化評議会のサイトの情報を総合すると,このフレスコ画のあった建物はパラッツォ・デル・モンテ・フルメンターリオというらしい.
直訳すれば「穀物の山の宮殿」であろうが,「宮殿」と言うには小さいし,「邸宅」と言うほど立派でもない.もともとは救貧病院(オスペダーレ)だったらしい.歴史的建造物に敬意を表してパラッツォと称しているのであろうか.現在は展示会場として使用されている.
モンテ・フルメンターリオは,伊語版ウィキペディアに拠ると,15世紀に起源を持つ,貧しい農民に小麦や大麦の種を貸し付ける団体のようだ.『伊和中辞典』でモンテを引くと,もちろん「山」が1番目の意味だが,4番目に「質屋」とあり,「何かをモンテに運ぶ」は「質入れをする」と言う意味になるという用例があった.
アッシジのモンテ・フルメンターリオは,アントーニオ・バルベリーニ枢機卿によって1634年に設立されたようだが,この時,教皇ウルバヌス8世(マッフェーオ・バルベリーニ)の弟のアントーニオ・マルチェッロ・バルベリーニ,甥のアントーニオ・バルベリーニと,2人のアントーニオ・バルベリーニ枢機卿がいたので,そのどちらかということになる.
1746年に司教オッターヴィオ・リンギエーリが,その団体をこの建物に移したことで,パラッツォ・デル・モンテ・フルメンターリオと称されるようになった.
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写真:
サン・フランチェスコ通りの
フレスコ画
14世紀初頭 |
通りに面した部分は開廊(ロッジャ)もしくはポルティコ(柱廊式玄関)になっていて,7つのアーチが懸かっている.右から3番目のアーチが少し大きく,そこだけ,他のアーチの下部にある腰壁が無く,出入りができるようになっている.
アーチの柱頭は,文化評議会のサイトに拠れば,ビザンティン風で,ヴェネツィアの彫刻家に拠るものとのことだが,記録上の根拠があるのであろう.柱頭の形は様々で,コリント式のアカンサス文様もあり,中世風の楕円型の葉を2段に重ねたものもある.建物の建設は1267年,フレスコ画は1300年頃のジョット派のウンブリア人画家が描いたとのことだ.
上のフレスコ画は確かにジョットの影響を受けているであろうが,1300年頃と言うほど古いかどうかは確信が持てない.絵柄は「聖痕を受けるフランチェスコ」であろうか.
この右側には「聖キアラ」と思われる女性像と,「玉座のキリストと聖人たち」にように見える断片があった.パラッツォ・デル.モンテ・フルメンターリオの他にも,フレスコ画の残っている建物や門があって,じっくり見れば,やはりそれぞれ興味深いように思えた.
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写真:
ヌォーヴァ教会を出て
「サン・フランチェスコの
両親の家」に向かう階段で |
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コムーネ広場からサンタ・キアーラ聖堂に向かう途中,ヌォーヴァ教会に寄った.ここも2回目の拝観だ.前回同様,フランチェスコが幽閉された場所などを見学した後,中央祭壇近くの左手の扉から出て「両親の家」を見学した.
サンタ・キアーラ聖堂
サンタ・キアーラ聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)は,2007年の時は堂内全体が写真撮影禁止だったが,今回はサン・ジョルジョ礼拝堂以外は,聖キアラの地下墓所も含めて全て撮影可(おそらく)だった.
フランチェスコに語りかけ,信仰を深める契機となったという伝説の「サン・ダミアーノの十字架」」(キリスト磔刑像)(英語版/伊語版ウィキペディア)のあるサン・ジョルジョ礼拝堂は,壁を隔てて身廊右手に続く大きな部屋で,修道女たちはここでミサを行う.
修道会の組織と管理体制については未だ理解に至っていないが,フランチェスコ会とキアラ会は,その起源はアッシジのフランチェスコにある点では同じだが,前者が様々の立場に分かれているのと関係あるかどうかは知らないが,修道会の立場を越えて,教会ごとに管理体制は異なると言うことだろう.
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写真:
サンタ・キアーラ聖堂 |
ファサードの形はサン・フランチェスコ聖堂の上部教会に似ている.基本的にゴシックの建造物ではあるが,上部教会のポルターユが尖頭アーチであるのに対し,こちらのポルターユはロマネスク調で,右側の大きなサン・ジョルジョ礼拝堂とのバランスをとるためであろうか,左側に大きな半アーチを含む壁が付されているといった個性的な外観をしている.
何よりも,ピンクと白の縞模様で,全体としてほんのりとしたピンク色の外観は一度見たら深く印象に刻まれる.
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写真:
サンタ・キアーラの親方
「キリスト磔刑像」
13世紀 |
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上の写真の磔刑像の作者はサンタ・キアーラの親方(マエストロ・ディ・サンタ・キアーラ)と称される不詳の画家とのことだ.サン・ダミアーノの十字架は,キリストが目を見開いた「勝利のキリスト」(クリストゥス・トリウンパンス)であるのに比して,こちらは身を捩っている「苦難のキリスト」(クリストゥス・パティエンス)である.
「苦難のキリスト」のタイプの磔刑像は,様々な教会や博物館でジュンタ・ピザーノらの作品を観てきた.アレッツォのサン・フランチェスコ教会のバッチ礼拝堂に掲げられた磔刑像もこのタイプだ.これが洗練されると,アレッツォのサン・ドメニコ教会,フィレンツェのサンタ・クローチェ教会の博物館のチマブーエの磔刑像になる.
そもそも鑑賞の対象としての芸術ではなく,信仰の助けとなる磔刑像なので,出来がどうのこうのと言う対象ではないが,このタイプの磔刑像は,教会の中央礼拝堂に掲げられてこそ映えると言う思いを新たにした.
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写真:
サンタ・キアーラの親方
「聖キアラとその生涯」
13世紀
聖堂内の右翼廊 |
上の磔刑像の作者と同じ画家の作品と考えられているのが「聖キアラ(クララ)とその生涯」の板絵だ.中央の大きな聖人像の周辺に,聖人にまつわる様々なエピソードのコマ絵を時間順に配する形式の祭壇画である.
このタイプを最初に観たのは,フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂のバルディ礼拝堂にある,サンタ・クローチェ・バルディの親方(もしくはコッポ・ディ・マルコヴァルド)が描いた「聖フランチェスコの生涯」だ.以後,同じタイプの祭壇画を教会や美術館で幾つか観てきたが,だいたい13世紀のチマブーエ以前の作品と理解している.ただ,サンタ・クローチェなどで見られる「聖フランチェスコの生涯」は上部に屋根のような三角部分を頂いている.
一口に言って,チマブーエ,ジョットによって絵画芸術に革新がもたらされる以前の,古拙な,いかにも西欧中世を感じさせる絵だ.もっとも,古拙というのは現代的視点からの偏見かも知れないし,ジョット等による革新というのも,ヴァザーリに植え付けられた一種の先入観かも知れない.
コマ絵に描かれているのは,「1211年もしくは翌年の棕櫚の日曜日に,サン・ルフィーノ大聖堂の司教グィードから棕櫚を受け取る聖キアラ」,「ポルツィウンコラでキアラを受け入れるフランチェスコ」,「フランチェスコの修道規則を受け入れ,髪を切るキアラ」,「サン・パオロ・デッレ・アッバデッセ教会の前で家族に抗するキアラ」,「サンタンジェロ・イン・ポンツォ教会の前での前で家族に抗するアニェーゼ(キアラの妹)と,彼女の髪を切るフランチェスコ」,「サン・ダミアーノ教会で修道女たちのパンを増やすキアラ」,「キアラの死とその際に見た女性聖人たちの幻視」,「聖キアラの葬儀」の8つ場面である(Key
to Umbria という英語サイトのアッシジの頁参照.イタリア語のサンタ・キアーラ聖堂のサイトはより詳細).
参照した英語ウェブページに拠れば,聖堂内の左翼廊にホディギトリア型の「荘厳の聖母子」もサンタ・キアーラの親方の作品であるとのことだ.この作品も,しっかり目で観て,ピンボケではあるが,写真に収めた.チマブーエのウフィッツィ美術館所蔵の「荘厳の聖母子」よりも,それ以前のグイド・ダ・シエナとか,コッポ・ディ・マルコヴァルドの聖母子を想起させる.
聖キアラが生まれたとされる1193年は,小学校でならった鎌倉幕府の成立の年(現在は諸説あり)の翌年で,日本語版ウィキペディアに拠れば,富士の巻狩りが挙行され,そこで曾我兄弟の仇討ちが行われた年であるらしい.
藤原隆信もしくはその周辺の人物が作者とされる,平重盛や源頼朝像(これも現在は別人の説がある)とされる「似絵」が既に描かれていたとすれば,「サンタ・キアーラの親方」の作品は1260年から80年代の作品とされるので,もしかしたら,絵の技術は日本の方が高かったかも知れない.
Key to Umbriaに拠れば,サンタ・キアーラ聖堂には,板絵の他にサンタ・キアーラの親方に帰せられるフレスコ画断片もあるようだ.
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写真:
サンタ・キアーラの
表現主義の親方
「聖母子と聖キアラ」
身廊と翼廊の交差部天井 |
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サンタ・キアーラ聖堂は,身廊が思ったより狭く,側廊のない単廊型で,翼廊との交差部の向こうに後陣(アプシス)はあるが,基本的にT字のエジプト十字型で,サン・フランチェスコ会の教会に多く見られるタイプの建築である.
交差部のリブ・ヴォールトの天井のリブで区切られた4面にフレスコ画が描かれている.後陣に向かって一番奥が「聖母子と聖キアラ」(上の写真)であることはわかるが,アトリビュートがはっきり見えないので,「アッシジのサンタニェーゼ(聖アグネス)とローマの聖アグネス」,「アレクサンドリアの聖カタリナとマルゲリータ(もしくはマグダラのマリア)」,「聖ルキアと聖カエキリア」どの部分にあるのかはまだ理解していないが,ウィキメディア・コモンズの写真と説明を参照すると,それぞれ前,右,左になるようだ.
このフレスコ画を描いたのは「サンタ・キアーラの表現主義の親方」である.この訳語には問題があるかも知れないが,イタリア語ではマエストロ・エスプレッショニスタ・ディ・サンタ・キアーラで,英語版/伊語版ウィキペディア,Key to Umbria に解説がある.
この親方は画風から言っても明らかにジョッテスキの一人であり,であれば,早くとも14世紀初頭の画家である.この画家の名前に関しては,パルメリーノ・ディ・グイードに比定する立場もあるようだが,この固有名詞に何の知識もないので,ここで何かを言うことはできない.
左翼廊にあるフレスコ画,「最後の審判」,「ヨアキムの夢」,「聖母の婚約」,「嬰児虐殺とエジプト退避」,「博士たちの中の少年キリスト」,「サン・ダミアーノ教会での聖キアラの葬儀」,「聖キアラの遺体の移送」も彼の作品のようだが,光が足りなくて,撮ってきた写真はどれも資料的価値に乏しいものだった.
Key to Umbria には彼の多翼祭壇画も紹介されており,写真で見る限り立派な作品に思えるが,女子修道院にあって,公開はされていないようだ.
翌日に観光したモンテファルコで,今は博物館になっている旧サン・フランチェスコ教会で見事なキリスト磔刑像を観たが,それもこの親方の作品のようだ.今,撮ってきた写真を確認すると,こちらはきれいに写っていたので,少し幸せな気持ちになった.
この聖堂に芸術を遺した画家としては,右翼廊に「ご降誕」のフレスコ画を描いたサンタ・キアーラのご降誕の親方,地下祭室のキアラの墓所近くに飾られている折り畳み式三翼祭壇画「聖母子とキリストの物語」を描いたとされるリナルド・ディ・ラヌッチョ(国立ボローニャ絵画館に「磔刑像」),さらに撮影禁止のサン・ジョルジョ礼拝堂にあるフレスコの多翼祭壇画の作者とされるプッチョ・カパンナ(英語版/伊語版ウィキペディア)(Key to Umbria の解説が詳細で,小さいがフレスコ多翼祭壇画の写真も掲載)がいる.
前二者は13世紀の画家,リナルドはスポレート出身,プッチョは13世紀末の生まれだが,ジョットの影響を受けた画家で,サン・フランチェスコ聖堂の下部教会にも見事な磔刑図のある芸術家である.ウンブリアのジョッテスキの代表的存在と言って良いのだろう.ヴァティカン絵画館にも彼の祭壇画が飾られている.
サン・フランチェスコ聖堂と異なり,超一級の芸術作品があるわけではないが,堂内に残るフレスコ画はどれも魅力的だ.
サン・ルフィーノ大聖堂 サン・ルフィーノ大聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)も2度目の拝観になる.前回は付属の司教区博物館も丁寧に見たので,堂内にも古いものが少なくないような印象を持ったが,バロックの改築が施された堂内に,古いものは殆どない.Key
to Umbria に堂内の詳細な解説がある.
それに対し,ファサードはロマネクスの遺産に満ちていて,魅力的だ.「ゾクゾクする」と言っても言い過ぎではないと思う.堂内の新しさに失望するのは,このファサードに期待を持たせられるせいかも知れない.団体行動のため博物館が見られなかった今回は特にそう思う.
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写真:
ポルターユのタンパン
「玉座のキリスト,聖母子,
司教聖人ルフィーノ」 |
シンプルな上部の三角部分の次の層には,3つの薔薇窓があり,その下層にはアーチの列,最下層にはそれぞれの薔薇窓に対応するように3つのポルターユがある.ポルターユのタンパン部分の浮彫はそれぞれ魅力的だ.
上の写真は中央のポルターユの上部の浮彫で,中央の人物は丸盾枠の中で,左右上部に月と太陽を配した玉座のキリストで,左側に聖母子,右側のアッシジの初代司教ルフィーノ(ラテン語ではルフィヌス)(英語版/伊語版ウィキペディア)が彫られている.
ルフィーノは3世紀の人物で,首を石臼に結び付けられて,テヴェレ川の支流キアーショ川(ラテン語ではクラシウス)に投げ込まれ,溺死させられた殉教聖人で,アッシジの守護聖人とのことだ.
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写真:
中央の薔薇窓
下でそれを支える巨人たち |
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薔薇窓はどれも見事だが,分けても中央の薔薇窓は大きく,周辺の四隅に福音史家の象徴物の高浮彫があり,アーチの列の上で,3人のテラモーネ(英語版/伊語版ウィキペディア)が支えているのが特徴的に思える.しかし,これも私が知らないだけで,類例があるのかも知れない.
やはりウンブリアのロマネスクを代表するスポレート大聖堂のファサードと雰囲気は良く似ているが,中央の薔薇窓の上部の三角部分に違いがある.サン・ルフィーノはアーチ型の窪みが一つあるだけで他に何の装飾もないが,スポレートの方はアーチ型の窪みは3つあって,中央の窪みには見事な聖母子のモザイクがある.その上部にも3つの薔薇窓があって,薔薇窓は計8つある.
もしかすると,サン・ルフィーノもの三角部分の窪みもモザイク装飾が施される予定だったのかもしれない.アーチ型の窪み一つというのはすっきりしているが,どこか未完成感が漂う.
スポレート大聖堂の中央の薔薇窓は枠で囲われ,四隅にはサン・ルフィーノより見事な福音史家の象徴物の浮彫があり,下では3本の列柱と2人のテラモーネが支えている.さらに,スポレート大聖堂にはあるポルティコがサン・ルフィーノには無いし,鐘楼の位置や形も違う.
スポレート大聖堂は建設開始が1067年,献堂が1198年,サン・ルフィーノは建設開始が1140年,献堂が1253年で,前者が先行しているので,影響を受けたのは明白だろうし,手本としたわりには,あるいは財力に差があったか,サン・ルフィーノは装飾が少なく,未完成に見える.
それでも,サン・ルフィーノのファサードは魅力的だ.より質実剛健な感じがして,決してスポレート大聖堂に見た目では勝るとも劣らない.
アッシジのロマネスク教会としては,サン・ピエトロ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)があり,前回は充実した拝観ができたが,今回は見ていない.ゴシック教会としてはサンタ・マリーア・マッジョーレ教会(英語版/伊語版ウィキペディア))もあり,これも前回,比較的丁寧に拝観しているが,今回は訪れる余裕がなかった.
元々はロマネスク教会で,ゴシックの遺産もあるサント・ステーファノ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)は残念ながら,今回も拝観は叶わなかった.後日の楽しみだ.
ローマの遺跡
前回見ることができず,その存在すらも意識していなかった市立博物館を見ることができたのは大きな収穫だった.ツァーの観光予定には組み込まれていなかったが,コムーネ広場に向かってポルティカ通りを歩いている時,入り口のガラス越しに半地下に展示されている石棺や石碑を見かけたので,自由時間を貰ったときに,すぐに飛んで行った.

地下にある博物館(左上).旧ミネルヴァ神殿(右上)の前の白線はポディウムの位置を示しており,実物は博物館で見られる(右下).左下が当時の想像図,地面の高さに注目. |
チケット売り場のある最初の展示室は,旧サン・ニッコロ教会のクリプタだった場所で,そこからコムーネ広場にある旧ミネルヴァ神殿(英語版/伊語版ウィキペディア)(現サンタ・マリーア・ソプラ・ネルヴァ教会)の先まで地下で続いていて,現在のコムーネ広場よりもかなり下にあった古代のフォロ・ロマーノの跡を見せている.
展示品にエトルリアの遺産は少ししかないようだが,紀元前4世紀末に,まだその後300年近く共和国だったローマの支配下に組み込まれたこともあり,ローマ文化の遺産が相当残っている.殆どが墓標や墓碑の断片で,芸術的に高水準なものは殆ど無いと言っても過言ではないが,中央に酩酊したバッカス神が彫り込まれ,両側はストリジラトゥーラ文様になっている石棺(3世紀)など,面白いものもあった.
フォロ・ロマーノの遺跡として興味深いのが,古代に神殿の前に置かれていた演壇(ラテン語でポディウム,英語では同じ綴りでpodium)だ.おそらくオリジナルの場所のまま,地下の博物館にあるのだと思う.地上の旧ミネルヴァ神殿の前には,演壇の場所が白線で示されている.
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古代ローマの
円形闘技場の跡 |
アッシジは,ローマ時代にはラテン語でアシシウムと言う名の古代都市で,ローマの支配下に入ってからは,ローマ文化に影響された.
ローマ時代から続く諸都市に見られる円形闘技場(ラテン語でアンピテアトルム,イタリア語でアンフィテアートロ)の完全な構築物は残っていないが,楕円形であったその跡に建てられた建物の外壁がその跡をなぞっているの様子が今でも見られる(上の写真).
おりしも,復活祭に先立つ「枝の主日」を前に,棕櫚の代わりにオリーヴが飾られている石造の壁の,私たちとは違う家の建て方を興味深く眺めながらアッシジの町を歩いた.日本風に言うと2階から街路に死者の体を下ろすための扉が残っている家々を見ながら,今は使われていないものにも昔の風習の名残が見られるのだと言う思いを嚙み締めた.
丘の上の,石で固められた町と言うのは,私たちが育った環境の中には無かった.現在は舗装道路や鉄筋コンクリートの建造物も日本の田舎でも当たり前にあるが,それでも,私たちは時が経てば,木々や草の中に生活の痕跡が埋もれていく文化に生きてあり,イタリアの文化は積み上げた石が古代,中世を物語り続ける文化なのだと言う感想を新たにした.
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復活祭を間近に 「枝の主日」のオリーヴ
聖キアラがこの日に家を出た
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