フィレンツェだより番外篇
2016年4月16日



 




ジャンヌ・ダルクの大モザイク(部分)
ノートルダム・ド・フルヴィエール聖堂
リヨン



§2015 フランス中南部の旅 - その15 リヨン (その2)

ボルドーから始まった旅も,いよいよリヨンで最後となった.ボルドーも大都市に思えたが,リヨンはさらに巨大な街だった.


 リヨン(英語版仏語版ウィキペディア)はオーヴェルニュ・ローヌ・アルプ地域圏の首都で,2016年から施行された制度による新しい地域圏の中心都市であるが,他の基礎自治体とは違う特別な都市圏の設定があるようで,これが容易にはわかりにくい.取り敢えず,フランスでも特別な大都市圏であると考えておくことにする.


リヨンの歴史
 カエサルのガリア平定以後,紀元前43年にローマ人ルキウス・ムラティウス・プランクスという人物が,ローマの植民としてルグドゥヌム(英語版仏語版ウィキペディア)を建設した.元老院の指示によると,歴史家カッシウス・ディオのギリシア語による『ローマ史』にある.

 プランクスは43年の時点で前執政官資格属州総督であったが,前42年に執政官,20年後の前22年には監察官となり,ローマのエリートコースを歩んだ人物である.現在スイスのバーゼルに,その都市としての起源となる植民都市アウグスタ・ラウリカを建設した(前44年)のも彼とされる.

 スエトニウス『ローマ皇帝伝』の「アウグストゥス伝」に,アウグストゥスという尊称を提案したのはプランクスであるとの記述がある.カエサル,アントニウス,アウグストゥスといった日本でもよく知られている人物ほどではないにしても,ローマの歴史に名を残した人物と言えよう.

 後にルグドゥヌムを首都として,属州ガリア・ルグドゥネンシスが創設される.この属州は北フランスを包摂し,当時ルテティア・パリシオールムと称された現在のパリも含んでいた.ルテティア・パリシオールムは栄えた都市だったが,ルグドゥヌムはそれ以上に栄えていた.

 ルグドゥヌムの「ルグ」はケルト人の神の名で,「ドゥノ」は要塞や丘を意味するケルト語に由来する名前とのことである(仏語版ウィキペディア).-ドゥヌムという語形はラテン語の中性名詞の語尾で,ケルト語由来のラテン語名の都市だったことになる.


写真:水の豊かな街 リヨン フルヴィエールの丘からモンブランを望む


 地元に住む日本人ガイドの方が最初に案内したのが,フルヴィエールの丘だった.

 フルヴィエールの丘の名称の語源は,ラテン語のフォルム・ウェトゥス(古い中央広場)とのことだ(英語版ウィキペディア「ノートル・ダム・ド・フルヴィエール聖堂」).ここには,古代の劇場跡(英語版仏語版ウィキペディア)(「跡」と言い切ってしまうには相当立派な姿で残っている)がある.残念だが,今回この劇場跡は見ていない.

 丘の上からモンブランが鮮明に見えるのは珍しいとのことだったので,運が良かった.リヨンの市街地も一望のもとに見られた.丘とソーヌ川に挟まれた旧市街(英語版仏語版ウィキペディア)と,その向こうのローヌ川のあたりまでは赤い屋根の建物が続き,その先には高層建築や,オフィスビル,集合住宅が広がる.

 その日と翌日,実際にリヨンの街を歩き,丘の上から見た風景を自分の足で確かめた.下の写真のオペラ座も街路からも見,写真に収めた.市庁舎の手前がテロー広場で,リヨン美術館はその右の旧修道院の建物である.

写真:
かまぼこ屋根のオペラ座
手前は市庁舎
その右手前にリヨン美術館


 様々な観光名所が一望できるフルヴィエールの丘だが見えないものもある.建物の中の通路,トラブール(英語版仏語版ウィキペディア)だ.

 ある通りで,建物のドアを開けて入ると,その先は狭い通路になっていて,うす暗い中をしばらく歩いて,たどり着いたドアを開けると全く別の通りに出る.この通路がトラブールである.

 トラブールの語源を遡るとトランスアンブラーレ(越えて歩き回る)と言うラテン語にたどりつく.そこからトラブラーレ(通り抜ける)という民衆ラテン語ができたとされる.紀元後4世紀にはできていたとされ,水が不足しがちな地域から,ソーヌ河畔の下町までの近道がもともとの用途だったらしい.

 時代はかなり下って19世紀には,リヨンの主要地場産業であった絹織物工業の職人たちが,工房と買い取り商人たちのいる地域を行き来する経路として使い,さらに第二次世界大戦でフランスを占領した際の抵抗運動(レジスタンス)にも利用されたとされる.

写真:
トラブールの中


 実際にトラブールを案内していただいたが,建物の扉を見ても,どれがトラブールの扉か,知っている人でなければ分からないであろう.中はかなり暗く,段差や階段もあるので,足元に注意して歩く必要があった.上の写真を通り抜けたところに,「薔薇の塔」があり,中庭もある.観光客にアピールする空間だからであろうが,現役の芸術家が作品を展示しているコーナーもあった.


ノートルダム・ドフルヴィエール聖堂
 フルヴィエールの丘に聳えるノートルダム・ドフルヴィエール聖堂(英語版仏語版ウィキペディア)の外観は,見るからに新しい.しかし,1872年に着工され,1884年に完成しているので,思ったよりも古い.

写真:
丘の上に白く輝く
ノートルダム・ドフルヴィエール
聖堂


 設計者はピエール・ボサン(英語版仏語版ウィキペディア)で,ネオ・ゴシック(英語版仏語版ウィキペディア)とネオ・ビザンティン様式(英語版仏語版ウィキペディア)で建設された.

 ボサンはこの大聖堂の他にも,いくつかリヨンの教会を設計している.サン・ジョルジュ教会(英語版仏語版ウィキペディア),サン・ポリカルプ教会(英語版仏語版ウィキペディア),無原罪の御宿り教会などがそうだ.リヨンのその他の建造物,リヨン以外の町の教会の設計も手掛けており,当時多くの仕事をした建築家であった.

 このうち,バスの車窓からサン・ジョルジュ教会の外観を見ており,是非拝観したいと思ったが,この時点でネオ・ゴシックの新しい教会とは気づかなかった.

写真:
モザイクで埋め尽くされた
堂内


 堂内は目を見張るばかりの豪華なモザイクが壁面と天井に施されている.撮ってきた写真で反芻すると,モザイクだけでなく,ステンドグラス,堂内を支える柱と柱頭彫刻など,新しいものにはそれほど魅力を感じない私でも,圧倒されるような芸術空間であったように思う.


サン・ジャン大聖堂
 ノートルダム・ド・フルヴィエール教会は19世紀の建造だが,司教座教会であるサン・ジャン大聖堂(英語版仏語版ウィキペディア)は一部にロマネスクの遺産も残るゴシック建築である.

写真:
サン・ジャン大聖堂


 1175年に建造が開始され,完成は1480年であった.ファサードはジャック・ド・ボージュー,ステンド・グラスはアンリ・ド・ニヴェールと言った製作者の名も伝わっている一方,19世紀の建築家たちが,修復その他に随分かかわったようだ(仏語版ウィキペディア).

 堂内にはいくつか,近代以降の宗教画もあったが,特に作者の確認はしなかった.仏語版ウィキペディアで,少なくとも1点は,イアサント・コラン・ヴェルモンの「イエスの神殿奉献」(1735年)であると知ることができた.

写真:
ノートルダム・
ドフルヴィエール聖堂を
見た後では随分簡素に
感じられる堂内


 リヨン大聖堂は,エミール・マール『ゴシックの図像学』(国書刊行会,1998)でもフォーカスされており(上巻,pp.78-84),ステンドグラスとファサードに施された浮彫は丁寧に見るべきであったが,いかにもゴシックと言う外観と堂内を写真に収めるだけで満足してしまった.

 ツァーなので,比較的時間が切迫した拝観であったことも原因だが,もう少し丁寧に見るくらいの時間はあったので,勉強不足を悔やむべきだろう.


ヴィエンヌ
 「美食の旅」のツァーの一環で,個人では決して行くことのない有名レストラン「ラ・ピラミード」で食事をすることができた.「美食」に興味がない私ですら,繁盛している店の雰囲気,見た目も味も素晴らしく思える料理に感心し,ワインを堪能した.

 店の名前は所在地に残る同名の古代遺跡に由来するとのことだ.

写真:
ヴィエンヌのローマ劇場


 この「ラ・ピラミード」は,リヨン近傍のヴィエンヌ(英語版仏語版ウィキペディア)と言う町にある.ヴィエンヌと言う名の町はフランスに複数存在するようだし,オーストリアの首都ウィーンのフランス語名もヴィエンヌなのでややこしい.ネット上で検索するときはイゼール県(英語版仏語版ウィキペディア)のヴィエンヌがこの都市に該当する.

 リヨンと同じ,オーヴェルニュ・ローヌ・アルプ地域圏に属しているが,県は異なり,ヴィエンヌ郡の中にある.

 古くはケルト人(ガリア人)の一派アッロブロゲース族の首邑であったようだが,ユリウス・カエサルのガリア平定後の紀元前47年にローマの植民都市となり,ラテン語名はコロニア・ユリア・ウィエンナもしくはコロニア・ユリア・ウィエンネンシス(ユリウス建設の植民都市ウィエンナ)であったとされる.現代フランス語では同じ名前になるが,オーストリアのウィーンはウィンドボナであったので,古代には違う名前の町だったことになる.

 工事中で,ローマ時代の古代劇場(上の写真)はフェンス越しに見ただけだが,かなり大きなもので,これだけでも古代に栄えた町だったことがわかる.紀元後1世紀の建造とされるので,ローマのコロッセオと同時代の建築物ということになる.現場にあった説明版に拠れば,40-50年の建設とのことなので,それが正しければ,むしろコロッセオよりも古いことになる.

写真:
遺跡公園の中に残る
紀元後1世紀の建造物の
一部


 古代劇場から少し歩くと,「キュベレの庭」と称される遺跡公園にたどりつく.現場にあった説明版に拠れば,古代の市場があった場所で,キュベレ(フランス語ではシベール)と言う古代の小アジア地方の大地母神の名を冠しているのは,この女神への犠牲を行う儀式の浮彫が発見されたからとされる.この浮彫は多分,見ていない.上の写真にも人面の浮彫があるが,これも紀元後1世紀のもので古い.

 古代の建造物の石材は,後世に建築資材として持っていかれてしまうため,完全な姿で残ることはまず無いが,この考古学公園は,廃墟感に満ちているとはいえ,古代の雰囲気を味わうのに十分なくらいの構築物の部分は残っており,ヴィエンヌを訪れたら是非立ち寄りたい空間である.

 コリント式柱頭を両脇に持つ大きなアーチを複数見ることできた.

写真:
アウグストゥス=リウィア神殿
紀元前1世紀末


 何と言ってもヴィエンヌ最大の古代遺産は,ほぼ完璧に現存するアウグストゥスと妻のリウィア・アウグスタに捧げられた神殿である.ニームのメゾン・カレ(英語版仏語版ウィキペディア)をまだ見ていないので,この目で見たローマ神殿としては,ローマのポルトゥヌス神殿(英語版伊語版ウィキペディア)と双璧と言える.素晴らしい.

 内部に何が残っているわけでもないが,中に入ることもでき,隅々まで鑑賞することができた.稀有の体験だった.オリジナルではないであろうが,木組み天井まで見ることができた.

写真:
サンタンドレ・ル・バ修道院教会
鐘楼


 ヴィエンヌは中世も栄えた町なので,ロマネスクとゴシックの遺産もある.ロマネスク教会としては,サン・ピエール教会(英語版仏語版ウィキペディア)とサンタンドレ・ル・バ修道院教会があるが,後者の鐘楼(上の写真)とファサードを見ただけで,拝観はしていない.

 ゴシック教会としては,サン・モーリス大聖堂(英語版仏語版ウィキペディア)があるが,バスの車窓からファサードを垣間見ただけだ.

 ネット上の写真で見ると非常に魅力的な教会に思えるので,拝観が果たせなかったのは残念だが,思いが残っていれば,ヴィエンヌの町に行く機会もあるかも知れない.次回を期すということだ.興味深い考古学博物館も複数()あるようなので,チャンスがあれば,これも是非見学したい.



 今回の旅は,実り多いものだった,古代,ロマネスク,ゴシック,ルネサンス,バロック,近現代とボルドーからリヨンまでの旅程の中で,思いもよらぬほど多くのものに出会うことができた.

 憧れのコンク,オーヴェルニュ・ロマネスク,フランスの美しい村,自分に記憶というものが存在する限り,忘れ難い様々なものに出会うことできた.「良い旅だった」と言う以外の感想はない.

 この3月には,ローマ,ラツィオ,ウンブリアを旅して来たので,次回から,その報告をする.語りたいことはいっぱいある.






空の彼方を見つめる2人の下で
2015.8.26 リヨン ベルクール広場