フィレンツェだより番外篇
2016年4月4日



 




サン・ミッシェル・デギーユ礼拝堂
ル・ピュイ近郊のエギーユ



§2015 フランス中南部の旅 - その13 ル・ピュイ

サン・ティアゴ巡礼の4つの有名な起点のうちの一つ,ル・ピュイに着いた.ここでもまた,ロマネスクの素晴らしい遺産を観ることができた.


 ル・ピュイ・アン・ヴレ(以下,ル・ピュイ)は,オーヴェルニュ・アルプ・ローヌ地域圏,オート・ロワール県,ル・ピュイ・アン・ヴレ郡に属する基礎自治体で,人口は2013年の統計で19万人弱で,14万人程度のクレルモンフェランより多い.

 クレルモンは,街の中心部の繁華な通り,今はややさびれているがかつては殷賑だった通り,少し中心部から離れた通りと,自分の足で歩いてみたので,大きな街に思えた.一方,ル・ピュイは住宅地のようなところしか歩いていないので,クレルモンよりずっと人口が多いと知って,少し意外な感じがする.

 ヴレ(ヴレー)はル・ピュイが属する地方名で,もともとはル・ピュイだけが都市名だったが,現在は「ヴレ地方のル・ピュイ」と言うのが基礎自治体の正式名称になっている.

写真:
サン・ミシェル・デギーユ
礼拝堂
創建は10世紀



サン・ミシェル・デギーユ礼拝堂
 岩山(高さ85メートル)の麓の駐車場でバスは止まった.車窓からもその奇観は見えていたが,バスを降りて,すぐ下まで歩いていって,改めてその姿に驚いた.岩山の狭い頂上いっぱいにポツンと建物が建っている.サン・ミシェル・デギーユ礼拝堂だ.

 この礼拝堂へ行くには,岩山の麓のポルターユのある入り口のところで拝観料を払い,つづら折りの階段を上って行くしかない.頂上から眺めは素晴らしい.緑に覆われた起伏のある土地のかなり遠くまで赤い屋根が広がっている.

写真:
岩山から見える
中世の橋
ポン・トルデュ(曲がった橋)


 サン・ミシェル・デギーユ礼拝堂(英語版仏語版ウィキペディア)は,仏語版ウィキペディアでは教会(エグリーズ),英語版では礼拝堂(チャペル,仏語ならシャペル)とあるが,かつてはともかく,今は拝観料を払った人だけが「入山」,「入堂」できる観光ポイントで,現役の「教会」とは思えないので,「礼拝堂」と考えておく.

 トップの写真はファサードの一部をアップにしたものだ.ポルターユの外側には左右一対のライオンのような動物がいて,柱頭はアカンサス模様,そこから弧を描いて,多色の石モザイク幾何学模様,その下に植物の浮彫,柱頭に接して始まる半円弧の先頭には人物の顔があって,口から唐草を吐き出している.楣石には鱗のある尻尾の浮彫が写っている.

 ポルターユは,相似した形のものが左右対称に配置されているが,モチーフや細部などで左右に変化がつけられている.例えば,写真の柱頭中央には翼を広げた鳥の浮彫があるが,これと対になっている右側の柱頭中央はアカンサス模様の中央に両手を広げて祈っている,いわゆるオランスの姿の人物の浮彫だ.楣石に彫られた一対の人魚型セイレンもほとんど同じ姿で尻尾だけ違っている.三つ葉模様の左右の半円の中の浮彫も似ているようで,少しずつ違う.

 左右対称(シンメトリー)への志向が,ギリシア・ローマの古典様式の特徴とすれば,それを意識しながら,左右で微妙な違いを出しているのが,ロマネスク的と言えるかも知れない.

写真:
弧のリズム,石モザイクの
華やかさ,連続する浮彫
文様が一体となって
独特の美しさを見せる


 タンパンには何の浮彫も残っていないが,その上部には3層の浮彫が残っている.特徴的なのは,少し大きめの3つの弧,いわゆる「三つ葉模様」になっていることだろう.その中にそれぞれ浮彫があって,中央は多分,キリストを象徴すると思われる十字架を担った羊,左右はそれぞれ供物を捧げる人々が彫り込まれている.三つ葉模様の外側は,天使であろう人物が複数いて,それ以外は植物文様になっている.

 タンパンを支える楣石には,振り分けた長い髪を両手で持つ,乳房のある人魚のような浮彫が,左右対称に向かい合うように彫られているが,上述のように,向かって右側は魚,左側は蛇のような下半身をしており,左右に変化がつけられている.

 この楣石の浮彫彫刻は,尾形希和子『教会の怪物たち』(以下,尾形)が写真とともに取り上げている.尾形は,こうした人魚を古代図像を援用しながら,鳥から魚の姿になっている女怪セイレンと説明し,実際にロマネスクの諸教会に見られる人魚の浮彫等は,殆どの場合セイレンとしている.

写真:
堂内のフレスコ画
「天国」(部分)


 サン・ミシェル礼拝堂の堂内はフレスコ画に満ちている.

 入って右手の少し天井の高い部屋には,天井に「全能のキリスト」を中心として,四隅に福音史家の象徴物,他に太陽,月,熾天使,大天使ミカエルなどが描かれ,その下は横一列に聖人たちがいて,さらに下には窓をはさんで,地獄(大天使ミカエルが剣を持って人々を追い立てている)と天国と考えられるフレスコ画があった.

 上の写真の右端は大天使ミカエル(サン・ミシェル)で,ミカエルが人を導いていく先の建物では人々がやすらっており,これが「天国」を現していると考えられる.

 その他の空間にも裸体の人物たちや,ヴォールトに描かれた修道士たちなど,様々なフレスコ画があった.薄暗いし,剥落も進んでいるので,何が描かれているのか,すぐには分からない.

 サン・ミッシェル礼拝堂の券売所で買った,英訳版案内書,

 Noël Graveline, tr. Annie Fatet Traductions, Le Puy-en-Velay: Excitement, Colours & Fun, Beaumont: Éditions Debaisieux, 2003(以下,グラヴリーヌ)

にも堂内の写真が掲載されているが,フレスコ画はよく分からない.



 サン・ミシェル・デギーユのデギーユは,「エギーユの」という意味である.この地名の日本語表記については「エギール」も可能と思われ,意外なほど情報豊富な日本語版ウィキペディアは「エギル」で立項しているが,ここでは一応「エギーユ」としておく.

 この「エギーユ」(英語版仏語版ウィキペディア)と言うのは,ル・ピュイ・アン・ヴレとは別の,2013年の統計で1574人の人口(仏語版ウィキペディア)を擁する基礎自治体のようだ.この礼拝堂のある岩山を降り,そこから歩いてル・ピュイ大聖堂まで行ったので,別の自治体とは意外な感じがする.

 グラヴリーヌに拠れば,エギーユは,ラテン語でウィア・ポディエンシス(ル・ピュイの道)と呼ばれる巡礼路の起点で,サンティアゴを目指す貧しい巡礼たちを収容するオピタル・サン・二コラの周辺に徐々に形成されて行った集落であるとのことだ.

 この場合のオピタルは「病院」(英語のホスピタルと同語)と言う意味(ロワイヤル仏和中辞典の1)の意味も含むかもしれないが,概ね「慈善施設」(同辞典の2の一部)を意味し,巡礼に宿と食事と休息を提供したのであろう.


もう一つの礼拝堂
 岩山の麓から,ル・ピュイ大聖堂まであるいて行く途中に,やはり12世紀の創建になるオクタゴン型で,粘板岩の瓦をいただくサン・クレール・デギーユ礼拝堂があった.これもロマネスクの遺産のようである.堂外に15世紀の石造の十字架もあり,ともに写真には収めたが,礼拝堂の内部を拝観するには至らなかった.扉は開いていたが,この時は集団行動だったのでやむを得ない.

 グラヴリーヌに掲載されている堂内の写真を見ると,壁面に天使の彫像,小後陣に祭壇と簡素な十字架があり,信者用の新しい椅子が置かれているだけの簡素な内観だが,ロマネスクの雰囲気が濃厚で,是非見たかったと思わせるものだ.

 驚いたのは,写真を撮ったのに注目しなかったポルターユだ.楣石が破風型もしくは山形五角形になっている.これで実物を観た4つ目のオーヴェルニュ型楣石ということになる.

写真:
4つ目の
オーヴェルニュ型楣石
サン・クレール・デギーユ
礼拝堂


 サン・クレールが,サント・クレールであれば,アッシジの聖キアラを意味するかも知れないが,「聖」が「サン」である以上,男性であろう.そもそもキアラを記念するために時代が早すぎるように思える.

 男性聖人としてはナントのクレール(英語版仏語版ウィキペディア)(ラテン語ではクラールス)という3世紀の司教聖人(ナントの初代司教)がおり,この人かなと思ったが,さらに調べると,英語版にはないが,仏語版に,南仏の司教聖人アルビのクレールがいることが分かった.こちらは5世紀の人物で,ガスコーニュ地方で崇敬されたとのことだ.

 他に4世紀の殉教聖人マルムティエのクレール,9世紀のベネディクト会修道士司祭でイギリスのケント州出身の通称ボヴェシのクレールがいるが,確証はないけれどもアルビのクレール(別称アキテーヌにクレール)の可能性が一番高いかも知れない.

 グラヴリーヌに拠れば,地元ではディアナ(フランス語ではディアーヌ)の神殿と言う呼び方があるそうだが,それは楣石に地球を回る月の満ち欠けが彫り込まれ,ローマ神話ではディアナが月の女神に比定されるところからくるようだ(p.100).

 写真を見ると,折角の山形五角形楣石だが,浮彫彫刻は魅力的と言うには程遠い.

 サン・クレール礼拝堂も黒い外観で,「ヴォルヴィックの石」ではないようだが,火山性の石で作られており,この火山性の石はサン・ミシェル礼拝堂でも重要な素材となっている.

 2つの礼拝堂に共通する特徴はもう一つある.もしかしたらイスラム芸術の影響を受けているかも知れないという点だ.ポルターユ上部の半円枠は,片やコルドバのメスキータのアーチ群を思わせる交互に違う色の迫持ち(アーチを構成するブロック)が用いられ,片や多色の石モザイクによる幾何学装飾が見られる.

 スペインに向かう巡礼路の起点であるから,イスラム教徒とせめぎ合っている地方の影響を受けたことは十分考えられるだろう.


ル・ピュイ大聖堂
 サン・ミシェル礼拝堂から,ル・ピュイ大聖堂を臨むと,左側に礼拝堂のある岩塊と別の岩山(コルネイユ岩塊)があり,その上には赤い聖母像が聳えている.

 1855年にクリミア戦争で,セバストポリ要塞を陥落させた際,ロシア軍から奪った大砲を材料(鋳鉄)に,この聖母を造ったとされる.時のフランスの国家元首は第二帝政の皇帝ナポレオン3世であったとのことだ.

 背景を知ると急に興味をそがれるが,間違いなく目を引くモニュメントだ.「ノートルダム・ド・フランス」と称するらしい.制作した彫刻家はジャン=マリー・ボナッシュー(英語版仏語版ウィキペディア)と言う有名な芸術家だったようだ.

写真:
赤い聖母が大聖堂を
見下ろす


 エギーユから,ル・ピュイのノートルダム大聖堂(英語版仏語版ウィキペディア)(より厳密には「受胎告知の聖母大聖堂」カテドラール・ド・ノートルダム・ダノンシアション)を目指して歩いた.坂道の途中で振り返ると,陽を受けたサン・ミッシェル礼拝堂が美しく見えた.本文最初の写真は,この時に撮影したものだ.

 ノートルダム・ド・フランスを見上げながらさらに進む途中,中世やバロックの幾つかの遺産を見ることができた.



 大聖堂に着くと,堂内の見学に先立って,回廊と博物館を見学した.回廊のイスラムの影響を思わせる多色の石のモザイクや,色違いの迫持ちによる半円アーチは,サン・ミシェル礼拝堂とも共通したもので,目を見張る.

 本堂の統一感のある茶色と白の石の組み合わせ(白い砂岩と黒っぽい角礫岩)も見事だが,回廊のアーチ上部に見られる多色(実際には白,黒,赤の三色であろう)モザイクは,なかなか他所では見られないル・ピュイならではの遺産に思える.

写真:
回廊アーチの
モザイク装飾


 イスラムの影響ではない,柱頭彫刻も多様で面白かったし,ほとんど写真に収めたが,今回は他の教会で,柱頭彫刻にフォーカスしたので,ル・ピュイ大聖堂の付属回廊に見られる柱頭彫刻に関しては,別の機会に取り上げることがあれば,その時,考えてみたい.

 それから,ぐるっと回って,出入り口の一つ(「裁きの扉」ポルシュ・デュ・フォル)になっている南側翼廊に向かう途中,北側翼廊にある,下の写真の「聖ヨハネの扉」を見ることができた.12世紀に造られたとのこと(グラヴリーヌ,p.21)とのことなので立派にロマネスクの芸術であろう.

 良く見ると,「最後の晩餐」の部分は破風型もしくは山形五角形の楣石になっている.これで実際に見ることできた5例目のオーヴェルニュ型楣石と言えるであろう.

写真:
5つ目の
オーヴェルニュ型楣石
「聖ヨハネの扉」


 幸い,説明版の写真を撮ってきたし,帰国後,フランス・アマゾンで入手した,

 Bernard Galland, Le Puy-en-Velay: L' ensemble cathédral Notre-Dame, Paris: Éditions du patrimoine, 2005(ガラン)

でもこの扉を取り上げている.

 それに拠れば,このヨハネは福音史家のヨハネではなく,洗礼者ヨハネとのことだが,摩耗しているように見えるタンパンの彫刻は上部が,天使に囲まれた玉座のキリスト,下部は「最後の晩餐」に見える(ガランも説明版も「最後の晩餐」としている)ので,何で洗礼者ヨハネなのかはわからない.

 木製扉に取り付けられた金具が貴重な遺産であるらしい.ここは王侯が利用する扉口だったようで,もちろん私たちにも開放されていなかったが,そのおかげで,金具をじっくり見ることができた.

写真:
身廊からファサード側に
向かって撮影
ファサード裏の壁面にオルガン


 ル・ピュイ大聖堂の堂内の構造は基本的にロマネスクであるが,上の写真のように一部に尖頭アーチも見られる.ロマネスク教会にしては巨大で複雑な構造を持つ教会を支えるのに,あるいは後にゴシックの構造物が必要になったか,新しい時代の後補も知れない.

 ラテン十字型の三廊式で,身廊と翼廊の交差部にはオクタゴン型の屋根がかけられていて,それが明り取りになっている.

 堂内にはところどこに,メスキータを思わせる色違いの迫持ち石を交互に配したアーチが見られる一方,入り口部分には,交差ヴォールトやリブ・ヴォールトが見られる.これらのヴォールト構造はゴシック時代の増築ではなく,それに先駆けたロマネスクの遺産であるようだ.回廊の天井も良く見ると交差ヴォールトになっている.



 内陣には「黒い聖母」が祀られている.ル・ピュイの聖母像は中世以来有名であったが,オリジナルかどうかは別にして18世紀まで伝わった像はフランス革命で焼かれ,現在のものは当時のスケッチをもとに復元されたものとのことだ.

 「黒い聖母」に関しては,モンセラット,ロカマドゥールで拝顔の栄に浴したし,今回の旅でも,クレルモンのノートルダム・デュ・ポール教会のクリプタで観ている.日本語の参考書もあるので,一度整理したことがあるように思っていたが,「フィレンツェだより」も相当のページ数になった今,その箇所がどこだったか自分で見つけられずにいる.記憶違いで,まだなのだったら,どこかでは整理し感想を述べたい.

 今回,中世以来の崇敬の対象となっている「ル・ピュイの聖母」を,オリジナルではないが見ることができ,その雰囲気を多少とも体感することができたので,私のささやかな西欧理解の一助としたい.

 「黒い聖母」が祀られた内陣の反対側(西側)のファサード裏側にあたるところに,大きなオルガンが置かれている.このオルガンの位置は何度か変わって,現在は身廊の奥(ファサードの裏側)にある(グラヴリーヌ,p.29)とのことだが,ネット上で見つけた大聖堂の平面図(※)では,内陣もしくは後陣部分に「大オルガン」とある.もともと(17世紀)はそこに設置されたようだ.
(※「2」としてリンクしたものは,大聖堂について詳しい紹介がなされている日本語ページからたどっていくことができて,大変参考になった.)

 グラヴリーヌに比較的大きな平面図があり(pp.10-11),そこにはオルガンの位置は示されていないが,内陣の位置には「黒い聖母」(ヴィエルジュ・ノワール)とあるので,現在の位置関係としては,内陣に黒い聖母像,その反対側にあたるファサード裏側に大オルガンということで良いだろう.

 たくさんの見どころを駆け足で観て回ったので,堂内の位置関係を再構築するのに,写真と平面図を見ながら四苦八苦した.ル・ピュイ大聖堂は,勾配を利用して建てられているので,少し複雑な構造になっていると言い訳しておく.

写真:
「聖カタリナの殉教」
(部分)


 大聖堂内部のフレスコ画も魅力的だ.ここにはジョットやミケランジェロのフレスコ画にある圧倒的な芸術性は見られないかも知れないが,「素朴」とか「原初的」と言う月並みな表現では語り切れない,見る人に高揚感をもたらすような力に満ちているように思われる.

 上の写真は北側翼廊の奥に2つある礼拝堂のうち,向かって右側の礼拝堂の半穹窿天井に描かれたフレスコ画の一部である.聖人の上の文字が「カテリナ」と読める.

 日本語では「アレクサンドリアの聖カタリナ」(日本語版ウィキペディア「アレクサンドリアのカタリナ」から十分以上の情報が得られる)というが,この名はラテン語表記のCatharinaに由来するようだ.thがあるので,ギリシア語ではθを使いそうだが,ギリシア語表記は,「ἡ Ἁγία Αἰκατερίνη ἡ Μεγαλομάρτυς」となり,エラスムス式では,「ヘー・ハギアー・アイカテリネー・へー・メガロマルテュス」と読み,「大殉教者聖アイカテリネー」と訳せるであろう.

 東方正教会の聖人にもなっているので,現代ギリシア語版ウィキペディアにももちろん立項されており,綴りは古典語と大差がないが,表記上,気息記号は無くなり,発音も「エカテリニ」のようになると思われ,ロシアの女帝エカテリーナ2世の名もこれに由来していることを実感できる.

 英語のキャサリンもフランス語のカトリーヌもラテン語と同じくthを使う(ラテン語では通常ギリシア語由来の外来語に使われる)のに,古典ギリシア語のアイカテリネーは,ラテン語のカタリナと違い,thにあたるθではなく,tにあたるτが使われる.

 上の写真の絵に書かれた文字はthではなく,tを使っていて,偶然かどうかイタリア語の表記と同じである.イタリア人の画匠が描いたからなのか,中世ラテン語ではこのように表記したのか,現代イタリア語の基礎となるトスカナ方言の文学作品である『神曲』をダンテが書き始めた時は既に14世紀になっており,この作品が描かれた13世紀にはそもそも標準的なイタリア語というものも存在していなかったから,CATERINAという綴りが何語表記かは容易に定められない.

 まあ,各民族語の影響を受けた中世ラテン語と考えておくことにする.

 描かれている人物が,アレクサンドリアの聖カタリナ(英語版仏語版伊語版ウィキペディア)であることは,彼女のアトリビュートである,拷問に使われた棘付き車輪が描かれていることからもわかるが,この絵が独創的なのは,車輪がマンドルラのようになっていて,彼女の聖人としての救済を現しているように思われるところであろうか.

 巨大な姿の大天使ミカエルのフレスコ画と,「ソロモンの裁き」を描いているフレスコ画がよく知られているようだが,これらは北側翼廊のトリブーナ(階上廊)にあるということで,見ることはできなかった.また,回廊西側にある「聖遺物の礼拝堂」にめずらしいフランドル風の15世紀の「七学芸」を描いたフレスコ画の一部が残っているようだが,これも見ていない.

写真:
バルテルミー・ダイク作
「聖家族」


 フランドル風と言えば,博物館にはバルテルミー・ダイク(英語版仏語版ウィキペディア)作とされる「聖家族」があった.ヤン・ファン・アイク(エイク)の親族か工房の弟子とも考えられているようだが,証拠はなく,フランドル出身だが,主としてフランスのブルゴーニュ地方で活躍し,宗教画と写本画を遺している.

 この作品がバルテルミーの真作かどうかは,バルテルミー自身のことをよく知らないので,私たちにはそれほど重要ではなく,フランドル絵画の持つインパクトに目を見張る.上手かどうかは私にはにわかに判断はつかないが,色彩と衣の襞の精密な感じと,時代はルネサンスでありながら強烈にゴシックを志向している画風は,私が「フランドル風」と考えるほぼ全ての要素を備えている.

 北フランスやスペインだけでなく,南フランスでもフランドル絵画が見られることは,アルルその他で体験しているが,やはり強烈な印象を残す.無名の画家の作品かもしれないが,堂内にもフランドル風の祭壇画が見られた.

写真:
ル・ピュイ大聖堂の
ファサード


 南側翼廊の入り口から入ったので,ファサードは出るときに見ることになった.ロマネスクへの私のイメージに反して巨大ともいえる教会を象徴するファサードだが,半円上心アーチがロマネスクを感じさせるだけでなく,色違いの石を組み合わせた装飾性に富む外観は,やはりなにかしらイスラム建築の影響を思わせる.

 イスラム建築自体が,ギリシア・ローマや初期キリスト教建築の影響を受けているわけだから,単純にイスラムの影響とは言えないかもしれないが,その他の西欧の有名教会に比べて,ル・ピュイの持つ異国情緒性は群を抜いているように思われる.

写真:
ポーチのフレスコ画
「キリスト変容」


 堂内からファサードの前に出るまでに階段があり,その途中の壁面や柱を,剥落の進んだフレスコ画が飾っている.リュネットに描かれた「玉座の聖母子と聖人たち」と「キリスト変容」(上の写真)は比較的保存が良く,出来も良いように思われた.

 13世紀の作品だが,ビザンティン芸術の影響があるように素人目には思われる.参考書の解説もそのように考えているものが多いように思えるので,あながち的外れとは言えないだろう.キリストの両脇にいるモーゼとイザヤの姿が,やはりビザンティン芸術の後進にあたるアンドレイ・ルブリョフのロシア・イコンを思わせる.時代的にはルブリョフよりも200年くらい古いであろうか.

 ファサードに出る最後のアーチの頂には「大天使ミカエル」の上半身像が描かれていて,これもビザンティン風に見える中世の作品だが,サン・ミシェル・デギーユ聖堂が近傍にあることからも察せられるように,この地方のミカエル崇敬が窺われる.

 回廊西側の参事会員の間(別名,死者たちの礼拝堂)にも,ビザンティン風とされるキリスト磔刑のフレスコ画があった.キリストの右側に聖母,左側に福音史家ヨハネのいるおなじみの構図だが,やはり13世紀の作品とされ,ジョット以前の作品だが,「玉座の聖母子」や「キリスト変容」の洗練された画風よりももっと古拙な感じがした.

写真:
複合柱の回廊


 ル・ピュイ大聖堂に関しては,事前の勉強を全くしていなくて,多くのものを見逃したので,その点は残念だった.それでも,この回廊をじっくり観られただけでも,自分にとっては大きな成果と言える.伝統的な様式の中にありながら,異文化の様相を大胆に取り入れ,間違いなくロマネスクを代表する建築なのに,その他のロマネスク教会や修道院回廊と際立って違う特徴も備えている.

 ル・ピュイ大聖堂に,もう一度行って,今回じっくり鑑賞できて感銘を受けた諸芸術作品と,今回見られなかったトリブーナのフレスコ画を,是非見たいという気持ちを抑えきれない.






ル・ピュイ大聖堂
回廊にて