フィレンツェだより番外篇
2016年3月31日



 




ゴシックと言えば薔薇窓
被昇天の聖母大聖堂



§2015 フランス中南部の旅 - その12 クレルモンフェラン(その2)

クレルモンフェランのロマネスク教会と言えば,前回紹介したノートルダム・デュ.ポール教会であるが,もともとは大聖堂(カデドラール)がそれに先行するロマネスク教会であった.


 大聖堂(英語版仏語版ウィキペディア)もノートルダムの名称が冠されており,少しややこしいが,こちらは聖母被昇天にフォーカスして,「被昇天の聖母大聖堂」(カデドラール・ノートルダム・ド・ラソンプション)と称するようだ.


被昇天の聖母大聖堂
 教会の創建は古く,5世紀に遡る.クレルモン司教であったナマティウス(現代フランス語ではナマース)(英語版仏語版ウィキペディア)の力が大きかったとされる.

 ナマティウスは446年から462年までクレルモンの第8代もしくは第9代の司教であったと英語版ウィキペディアにはあるが,仏語版ウィキペディアは,ナマティウスの生没年を486-559年としている(2016年3月25日参照).西暦500年までが5世紀だから,5世紀創建の教会に彼が司教として深く関わったとすれば,14歳以下の年齢で司教だったことになり,貴族階級の14歳の少年が司教と言うのは全く不可能ではないとしても,5世紀中に地域最大の教会が創建されることには無理があるように思える.

 堂内の片隅で,アフリカにルーツがあると思われる女性がおまけ付きで売ってくださった,

 Paul Arbitre, La cathédrale notre-dame de Clermont, n.p., n.d.(以下,アルビートル)

を参照すると,450年頃に司教だったナマティウスが創建したとあり,現在得られる情報では,英語版とアルビートルが説得力を持っている.

 仏語版ウィキペディアを含め,典拠は例によってトゥールのグレゴリウスの『フランク人の歴史』である.英語版ウィキペディアに引用されている英訳を見てもわかるように,大きさも含む比較的詳細な説明で,そこにはボローニャからもたらされた2聖人アグリコラとウィタリスの聖遺物が祀られたことも言及されている.

 仏語版ウィキペディアは,ラヴェンナからとしているが,これは聖ウィタリス(サン・ヴィターレ)の教会が有名だから誤解したのであろう.ラヴェンナのサン・ヴィターレ教会が記念する聖人はミラノのウィタリスとされる別の人物である.

 被昇天の聖母大聖堂は760年にピピン短躯王によって壊され,数年後に司教アダルベルトゥスが再建したが,915年に襲来したノルマン人が再び破壊し,新たに聖母に捧げられたロマネスク教会として再建される.再建を開始したのはノートルダム・ド・デュ・ポール教会の場合と同じく,司教エティエンヌ2世であった.946年と言えばまだ,10世紀半ばなので,ロマネスクとしては早いが,この再建の完成形が11世紀のロマネスク建築を反映したということでろう.

写真:
被昇天の聖母大聖堂


 現在の聖堂の隣にラ・ヴィクトワール(勝利)広場があり,その中央に教皇ウルバヌス2世(英語版/仏語版ウィキメディア)の像が高い台座の上に聳え立っている.クレルモンの公会議を開き,第1回十字軍を提唱し実現させた人物だ.

 彼はクレルモンの出身ではないが,北フランスのシャンパーニュ地方,シャティヨン・シュル・マルヌ生まれの,現代風に言えばフランス人だ.公会議が1095年,十字軍の開始が翌96年,エルサレム占領が1099年である.ウルバヌスは占領の14日後の7月29日にローマで亡くなるが,通信手段に限界があったのか,エルサレム「解放」の知らせは彼の存命中にイタリアまで届かなかったそうである(英語版ウィキペディア).

 ウルバヌスがクレルモンで見た大聖堂は現代の姿と同じゴシック建築ではなく,ロマネスク建築だったことになる.現在も残る地下祭室は10世紀のもので,そこには4世紀に遡る石棺があり,「ラザロの蘇生」などキリストの奇跡を描いた浮彫が施されている(アルビートル,pp.48-49)が,これは見ていない.

 現在のゴシック建築の教会が作られ始めたのは1248年である.当時の司教だったユーグ・ド・ラ・トゥールが,パリで創建されたばかりのサント・シャペル(英語版仏語版ウィキペディア)を見て,刺激を受けてのこととされる.

 依頼されたのは,当時ナルボンヌやリモージュで聖堂建築に関わったジャン・デシャンと言う親方で,彼は幾つかの独創性を発揮したが,何といっても顕著な特徴は「ヴォルヴィックの石」と呼ばれる溶岩性の黒い石を積み上げた外観であろう.

写真:
大聖堂と同じ溶岩性の黒い
石で作られた家が並ぶ


 クレルモンの町はオーヴェルニュ山塊の北方にあって,大聖堂は町の緩やかな坂を上り切った岡の頂にある.古代からの由緒ある町の歴史を半分に割れば,13世紀は明らかに後半部で,そこから建築が始まったとは言え,この黒い大聖堂の聳える姿が,現在のクレルモンの町の景観に大きく影響している.

 日本でも熊本城とか,松本城といった黒い外観が印象的なモニュメントがあるが,クレルモンの大聖堂には街全体の印象を深く刻みこむ圧倒的なインパクトがある.クレルモンフェランの街を歩いていて強く感じるのは,「ヴォルヴィックの石」を使った建造物がともかく目立つことだった.

 赤砂岩のコロンジュ・ラ・ルージュ,黄色石灰岩のサルラはそれぞれ,小さな村と,大きくない町であるのに比べ,クレルモンフェランは,世界的企業ミシュラン・タイヤの本拠もあり,間違いなくフランスでは大都市である.その大都市の景観が,あくまでも要所要所で使われているに過ぎないとは言え,「ヴォルヴィックの石」の黒さによって印象付けられるのは驚嘆に値することに思えた.

写真:
ゴシック様式の堂内
後陣には周歩廊がある


 リブ・ヴォールト,尖頭アーチ,ペディメント付きの装飾性の強いポルターユ,有名なゴシック大教会よりは控えめだが,しっかりと躯体を支えているフライング・バットレス,ファサードに聳え立つ双塔,大きな薔薇窓,大革命その他による破損を蒙りオリジナルは残り少ないとは言え,堂内の華やかさを演出するステンドグラス,クレルモン大聖堂は間違いなくゴシックの教会である.

 ジャン・デシャンが始めた建設を息子のピエールが引き継ぎ,さらに長い年月をかけて現代の姿になったが.ゴシックで初期ではなく盛期に属するフランボワイヤン様式の外観にまとめ上げられているのは,費やされた時間の長さを物語っているであろう.

 ゴシックか,ロマネスクのどちらを好むかと問われれば,躊躇なくロマネスクと答えるであろう私も,ボルドー,クレルモン,リヨンで観ることができたゴシック教会の壮大な魅力には抗い難い.わけてもクレルモン大聖堂の黒い姿に,ゴシックの様式がよく似合っている.


写真:フレスコ画「聖ゲオルギウスの物語」(部分)


 ロマネスク以前の遺産が残る地下祭室は見逃してしまったが,堂内のゴシックの遺産は幾つか観ることできた.

 13世紀から14世紀に描かれた(アルビートル,p.35)とされる「聖ゲオルギウスの物語」は,「ゲオルギウス礼拝堂」(シャペル・ド・サン・ジョルジュ」と称されるサイド・チャペルの比較的大きな壁面に,長い帯状に描かれている.

 私たちがよく知っている「龍を退治して王女を救う物語」はここには描かれておらず,「拷問」,「斬首による殉教」の後,どうも天使の力で(アルビートルには「キリストによって」とある.p.35)再生し,王冠を被った迫害者の前に現れる場面と,天使が乗っている馬車に救われる場面が描かれている.

 向かって左から時系列に並んでいるように見えるが,右端に描かれた縛られた傷だらけの人物がやはりゲオルギウスに見えるので,拷問,殉教,蘇生,救済と言う物語の最後の場面としては矛盾しているように見える.

 上の写真右側の,王冠を被った人物と従者の前に蘇生したゲオルギウスが現れる場面に描かれた王冠の人物の上にDacienもしくはDacianと読めるように見える文字が書かれている.これは,ゲオルギウス伝説に出てくるローマ帝国の総督プブリウス・ダキアヌス(ウィキペディアでの立項は仏語版と西語版しか今のところ見つけられていないので,とりあえず仏語版にリンクしておく.2016年3月29日参照)であろう.

 ブブリウス・ダキアヌスは,キリスト教迫害で有名なディオクレティアヌスとマクシミアヌスが皇帝であった時代にイベリア半島や南仏地方の属州総督として,多くの殉教聖人を処刑した人物とされるが,歴史文書での実在確認はできないようだ.コンクのロマネスク教会に祀られている聖女フォアを殉教させたのもダキアヌスとされている.

 ゲオルギウスに関しては,『黄金伝説』のゲオルギウスの章(人文書院版の前田・山口訳では,第二巻,pp.75-88)にも言及され,「ペルシアの皇帝」もしくは「皇帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌス治下の裁判官」とされ,『黄金伝説』が採用している物語では後者であるが,いずれにせよ,キリスト教徒迫害伝説に登場する,実在が確認できない人物と考えて良いであろう.

 『黄金伝説』には,殉教後の天使による蘇生の話は出てこないので,今のところ,典拠は確認できないが.ここまで確信的に描かれているので,有力な典拠があるのだろう.


写真:フレスコ画「十字軍とイスラム教徒の戦い」(部分)


 「ゲオルギウスの物語」の下には帯状に,戦闘の場面が描かれたフレスコ画がある.上の写真の右側の棋士たちの盾が白地に赤十字に塗られており,キリスト教徒を現しているであろう.対峙している兵士たちををイスラム教徒とする根拠は明確ではないが,時代背景を考えると十字軍の戦いを描いていると考えられているようだ(アルビートル,pp.35-36).


ステンドグラス

 大教会のステンドグラスの見事さを認知したのは,2007年春にフィレンツェに滞在し始めた最初の頃に,サンタ・マリーア・ノヴエッラ聖堂を拝観した時のことだと思う.それ以前,大学時代にパリのノートル・ダム大聖堂などでステンドグラスも見ていると思うが,特に印象には残らなかった.

 サンタ・マリーア・ノヴエッラ聖堂のトルナブオーニ礼拝堂のステンドグラスの見事さに感銘を覚えてから,ドゥオーモやサンタ・クローチェ聖堂でもステンドグラスの存在を意識するようになったが,それでもフィレンツェでは,ステンドグラスのデザインをしたのが,ジョット,ジョッテスキなど後期ゴシックの画家,ルネサンスの有名画家たちであることが気になったくらいで,特にステンドグラスそのものには注目しなかった.

 フィレンツェ滞在を終えた2008年以降,イタリア,南仏,スペインを旅行するようになって,ミラノ大聖堂でステンドグラスの壮麗さに感銘を受け,さらにレオン大聖堂でレヨナン様式と言うステンドグラスを多用して堂内に光を取り込むゴシックの手法を知るにいたり,ようやくのことで,その芸術性に気付くにいたった.

 ステンドグラスという芸術形態そのものを意識し始めたのは,アレッツォの大聖堂を訪ねた時から2007年6月からだと思う.ギョーム・ド・マルシヤ(英語版仏語版ウィキペディア)というフランス人が制作したステンドグラスが見ものの一つであるとの情報を得て,それが記憶にとどまった.

 しかし,その時の「フィレンツェだより」のページを見ても,その名前を挙げて,伊語版ウィキペディアにリンクしているだけなので,ステンドグラスに特に感銘を受けたというほどではなかったらしい.

 ヴァザーリの芸術家列伝の中にギョームの伝記があるらしいが,今のことろそこまで調べる気力がない.参照したウェブページの中で最も詳しい仏語版ウィキペディアを見ても,フランス人でフランスで職匠となったのは間違いないようだが,フランスには彼の業績は遺っておらず,ヴァティカンで仕事するためにイタリアに呼ばれたのが呼ばれたのが1509年で,ユリウス2世とレオ10世が雇用していたとのことなので,当時,既に名の有る職人だったのだろう.

 ヴァティカンには少なくとも彼のステンドグラス作品は遺っておらず,ローマではサンタ・マリーア・デル・ポポロ聖堂の内陣に作品があるとのことだが,今まで何度か拝観したにも関わらず,これには全く注目していなかった.他には,アレッツォ,コルトーナ,ペルージャで仕事をし,アレッツォで亡くなったとのことなので,これではフランス生まれだが,イタリアの芸術家のようである.

 しかし,ローマに来た時点で既に40歳前後ということは,やはり,ステンドグラスに関する傑出した技術はフランスの伝統の中で修得したと考えて良いのだろう.この匠の活躍が16世紀前半であるから,それに比べればクレルモン大聖堂のステンドグラスの古い遺産は400年近く古いことになる.

 その間,フランスには脈々とステンドグラスの伝統が形成され,継承されていたわけだが,クレルモン大聖堂のステンドグラスの一部は,その初期の時代のものであり,貴重な作例と言えよう.

写真:
ステンドグラス
「天使に導かれる三王」
12世紀
写真:
ステンドグラス
「牧人たちへの天使のお告げ」
12世紀


 今回,ボルドー大聖堂でもステンドグラスを見ているが,クレルモン大聖堂では堂内の解説板を読んで,幾つかの真正のゴシックの遺産とされる作品を確認した.まだまだ勉強が足りず,とてもその価値を評価できるに至らないが,今回は,幾つか確実に中世の遺産とされる作品を鑑賞したことで良しとする.

 ステンドグラスの意味と芸術性に関しては,

 佐藤達生/木俣元一『図説 大聖堂物語 ゴシックの建築と美術』河出書房新社,2000

の第三章「大聖堂の時代と新しい視覚文化」に「ステンドグラスが開いた可能性 物語とメッセージ」と題された一節(pp.70-83)があり,参考になる.後半部ではシャルトル大聖堂の「放蕩息子のたとえ話」の物語をステンドグラスの写真を示して解説してくれている.

 良く知っている人にとっては当たり前のことであろうが,特に私が教えられたと思ったのは,前半部で「鋳鉄の技術の発達によって成形された複雑な形状の窓枠」(p.70)の重要性の指摘である.新しい時代の芸術表現も,ガラスや金属加工の技術革新に支えられた面があり,「芸術」と言う文化現象の持つ性質の一端を考えさせてくれる.



 今回はゴシックにフォーカスしていないので,勉強はまだまだこれからである.ようやく,エミール・マール『ゴシックの図像学』(国書刊行会,1998)を通勤電車の中で読み始めた.ステンドグラスに特化した日本語著書,訳書も書架に数冊あるので,これから読んでいくのが楽しみだが,いつ読み始められるかはわからない.

 ルネサンスの新しい芸術を際立たせるために,否定的な意味で命名された「ゴシック」と言う名称ではあるが,そもそも私たちのイタリア美術体験も,絵画に関しては後期ゴシックを集大成してルネサンスへの道を開いたジョット,ルネサンスの芸術家でありながら国際ゴシックの遺風を作品に活かしたフラ・アンジェリコの作品群に感動した所から始まっており,彫刻に関しては,ルネサンス彫刻の古典性を既にジョットよりも先人の二コラ・ピザーノが実現していたことに早くから気づかされ,その前提となるのがロマネスク,ゴシック彫刻の伝統であることは,了解済みなので,既に「ゴシック」への否定的な謬見は免れている(と思う).

 なるべく多くの実例をこの目で観て,先人の研究成果を学びながら,ゴシックに関しても少しずつ理解を深めていきたい.クレルモン大聖堂の壮麗さは,そうした高揚感を与えてくれる,総合芸術作品であると思われた.


街角の楣石
 上で紹介した大聖堂のファサードの写真は正面階段から撮影したものだが,その階段に至るまでは,グラ通りと言う上り坂を歩いていくことになる.その途中にグラ広場と名付けられた,小さな広場とも言えないような空間があり,そこにロマネスクの遺産と思われる浮彫が,建物の壁面に組み込まれている.

 この浮彫の写真は『地球の歩き方』にも紹介されており,「見逃さないように」とキャプションがついている.実は,私たちも最初見逃してしまい,夕方の自由時間にあらためて大聖堂を拝観しに行った際に見つけた.

 大聖堂正面に向かって坂を上っている途中,左に入る道があり,それを曲がってすぐ左側の壁面にある.大聖堂に向かって坂道を上っているときは振り返らないと気付かない場所なので多くの人が見逃してしまうのだろう.夕方の自由時間の時は,ホテルが大聖堂を越えたずっと先にあって,後陣側から坂を下る向きで歩いたので,すぐに見つけられた.

写真:
建物の2階の高さの
壁面に埋め込まれた
サン・ピエール教会の
楣石


 「Clermont-Ferrand place des Gras」で画像検索すると山のように写真を見ることができる.探して見つけた私たちも気づかなかった,坂を下ると見えたであろう山の遠景まで写っている写真も複数あって,楽しめる.

 いつまで存在するわからないが情報が得られたページにリンクしておく.古いサン・ピエール教会の遺構で,「弟子たちの足を洗うキリスト」(ラーヴマン・デ・ピエ)の浮彫が施された「楣石」(ラントー)であると説明されている.また,2つある写真の一方に「見つけるためには振り返らなければならない」とわざわざ書いてあって,実際に見つけるのに少し苦労した私たちとしては可笑しい.


写真:「弟子たちの足を洗うキリスト」


 形状から予想はつくが,オーヴェルニュ・ロマネスクに特徴的とされながら,作例があまり現存していないように思われる「破風型」もしくは「山形五角形」の楣石の貴重な作例であろう.観ることができて良かった.

 幸い,この広場についての説明板も写真に撮っていた.それによれば,「フランス革命で破壊されたサン・ピエール教会の12世紀の楣石で,弟子たちの足を洗うキリストの場面が彫り込まれ,中央はペテロとキリストである」と説明されている.間違いなく,ロマネスクの遺産と言うことになるだろう.


街の散策
 夕方,宿に荷物を置いたあと,少し時間があった.ノートル・ダム・デュ・ポールは比較的丁寧に拝観できたが,大聖堂の方は十分でないように思えたので,宿から大聖堂までの道筋を地図で確認し,歩いて大聖堂に向かった.

 その途中,「ヴォルヴィックの石」を積み上げたのであろうオベリスク風のモニュメントがあり,その傍らに,新古典主義風の建物があった.

 オベリスク風の建造物は,「Clermont-Ferrand obelisque」でウェブ検索すると,「クレルモンフェランの公共建築」と言うページがヒットし,ここから基本的な情報が得られる.ナポレオンのエジプト遠征に従軍し,功績を挙げた将軍ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゥセを記念して1801年に建てられたものらしい.仏語版ウィキペディアはこのモニュメントについて立項しており,「ピラミッドの泉」(フォンテーヌ・ド・ラ・ピラミード)と言うようで,「ヴォルヴィックの石」で作られていると説明されている.

 新古典主義風の建造物の壁面にはバナーがあったので,博物館か何かと見当がついた.調べてみるとバルゴワン博物館と言い,考古学博物館も併設されているようだ(『地球の歩き方』にも言及).仏語版ウィキペディアに立項されているが,建物に関しては写真があるだけで言及は無い.博物館のHPもあるが,ここに建物そのものへの言及はない.20世紀の建造らしい.

写真:
サン・ジュネ・デ・カルム教会


 途中に,やはりヴォルヴィックの石で作られたであろう教会があったので寄ったが,開いていなかった.プレートにはサン・ジュネ・デ・カルム教会とあった.ゴシックのポルターユとそれとは別に脇にあった木の扉が立派で,誰かはわからないが司教聖人の丸彫りに近い浮彫が施されていた.

 仏語版ウィキペディアにも立項されておらず,ウェブ検索しても場所を示す観光案内がいくつか見つかるだけで,あまり情報が得られないが,古い案内書の項目が見られるページがあり,それに拠れば,フランス革命で破壊されたサン・ジュネ教会を,1288年に創建された緩律カルメル会の教会のあった建物に移したということらしい.建物自体にはゴシックの古い部分も相当遺っていると想像される.

 ジュネと言う聖人はラテン語ではゲミヌスになるようだが,複数の聖人がいて,フランスに関係がありそうなのは,アルルのジュネクレルモンのジュネであろう.前者はアルルのサン・トロフィーム聖堂に「ゲミヌスの石棺」があったようだが,特に調べていない.308年にディオクレティアヌスの迫害の際にアルルで殉教したとされる.後者は7世紀のクレルモンの司教で,教会の扉に司教の姿の人物の木彫があったので,こちらが本命だろう.ややこしいことに,やはり7世紀の司教聖人にリヨンのジュネと言う人物もいるが,一応,クレルモンのジュネであると考えておくことにする.

 拝観できなくて残念だが,ポルターユと,新しいものだろうがよくできた木製の扉を観ることでき,おそらく「ヴォルヴィックの石」を積み上げたのであろう黒い外観も立派で,印象に残った.

 クレルモンフェランで昼食を取った際に傍を通った,繁華なジョード広場に面したサン・ピエール・ド・ミニーム教会も,「ヴォルヴィックの石」でできた印象深い教会だった.ただし,この教会は拝観していないし,創建も17世紀と新しい.バロックの時代にミニモ会によって新設された教会だ.堂々たる立派な姿で,大聖堂に向かう岡の麓で下支えをしている感じが頼もしく思えた.

 ヴォルヴィックの石でできた印象深い建物を写真に収めながら街を歩き,大聖堂でステンドグラスやフレスコ画を丁寧に観たあと,帰りは少し違う道を辿って宿に戻った.






黒い岩山
被昇天の聖母大聖堂