フィレンツェだより番外篇
2015年9月5日



 




ジョヴァンニ・ベッリーニ作 「玉座の聖母子と聖人たち」
通称「サン・ジョッペ祭壇画」(奏楽の天使部分)



§2015 ヴェネツィアの旅 - その4 アカデミア美術館

2年続けてアカデミア美術館に行ったことになる.わずか1年前には写真撮影厳禁だったのに,今回はたくさん写真を撮ることができて,写真付きの鑑賞報告が可能となった.


 昨年は,ヴェネツィア出身のカラヴァッジスト,カルロ・サラチェーニの特別展を開催中で,ローマで見たいと思って見られなかった彼の作品を目の前にして,常設展示に対する集中力が幾分そがれたようなところがあった.今回は,ひたすら所蔵作品に集中した.


イタリアの美術館
 2008年に初めてこの美術館を訪れた時は,既にイタリア滞在10か月が過ぎ,フィレンツェでウフィッツィ美術館とパラィーナ美術館に何度も通い,ミラノでもブレラ美術館をはじめ幾つかの美術館を見ていた.

 それにもかかわわらず,イタリアの美術館は地元の作品を中心としたイタリア絵画を主に展示していることがまだ理解できていなくて,美術大国イタリアを代表する美術館だから,さぞかし世界中の名画が集められているのだろうという先入観を持っていた.

 イタリアでは,地方の小さな美術館,博物館は言うに及ばず,世界的に有名な美術館であっても,そこに展示されているのはイタリア絵画ある.ウフィッツィとパラティーナではトスカーナ絵画,ブレラではロンバルディア芸術,ヴェネツィアのアカデミアでは「ヴェネツィア派」の諸作品が中心で,しかも,多くの場合,それらは「宗教絵画」である.

 ところが,ルーヴル美術館を見学すれば,当然フランス絵画にも目は行くが,イタリア絵画の立派なコレクションに目を奪われるし,エルミタージュ美術館でも,圧倒的な質と量のイタリア美術,フランス美術の展示の方に関心が向かう.

 同じサンクトペテルブルクにあるロシア美術館に行くときは,ロシア美術を鑑賞する気でいたわけだから,事前情報の有無もあるが,世界屈指の大美術館と地元の美術館とを切り分けて考えていたことは確かだろう.

 行ったことがはあるが,まだ十分な鑑賞を果たしておらず,近い将来,訪問の機会を得たいと思っている,ロンドンのナショナル・ギャラリー,マドリッドのプラド美術館についても,地元の作品以上にイタリア美術や北方絵画を見ることが,訪れたい主たる動機になるであろう.

 その他,未見の大美術館として,ミュンヘンのアルテ・ピナコテーク,ドレスデンの国立美術館,ニューヨークのメトロポリタン美術館,ワシントン・ナショナル・ギャラリーなどが挙げられるが,それぞれに固有の特徴があるにせよ,それらの美術館がある場所にとっては「外国」であるイタリアの美術が入館者の注目を集めていることは,想像に難くない.

 上野の国立西洋美術館の常設展示でも多くの傑作絵画が見られるが,「西洋」と冠するだけあって,そこに期待されているのは,長い立派な伝統を持つ日本美術ではなく,外国の諸作品の鑑賞である.

 多くの日本人にとっての「泰西名画」は,まず印象派であり,ルネサンスの3大巨匠の傑作や,現代絵画に思いがいたる人は,「美術通」の部類に入るであろう.

 泰西名画に憧れて,専門家が書いた啓蒙的紹介本を手にして,まず驚くのは,美術史的な記述の中心がキリスト教絵画であることだろう.こんな抹香臭い作についてではなく,西欧の近代性,先進性への憧れを感じさせ,「芸術」への憧憬を満たしてくれる,19世紀以降の有名作品に関して,自分たちのちょっとした知識と琴線が触れ合う満足感を与えてくれる解説を読みたいと思った人は,そこで本を閉じてしまうかも知れない.

 「西洋美術」は,絵画に関して言うなら,風景画,人物画,静物画,抽象画であり,宗教芸術はそれらの背景として控えめに語られるに過ぎない.レオナルドの「最後の晩餐」,ラファエロの「キリストの変容」,ミケランジェロの「最後の審判」といった作品も,教科書で見たことがある,何が良いのかはわからないが,有名な作品らしいという程度の認識が一般的なのではないだろうか.


ジョヴァンニ・ベッリーニ
 2008年の訪問報告を読むと,一応,フォーカスはヴェネツィア派にあり,ヴェネツィア派以外の画家としてはピエロ・デッラ・フランチェスカ,マンテーニャ.コスメ・トゥーラに言及しているだけだ.

 1回目は,ティントレットなどのヴェネツィア派に食傷したと言っているが,2回目の訪問報告では,サン・ロッコ同信会の見学を直後に予定していたこともあり,比較的熱心に観たせいか,ティントレットを評価する趣旨が語られている.今回は彼の墓のあるマドンナ・デッロルト教会を拝観したので,後日報告したい.

 とは言え,私にとってヴェネツィア派最大の巨匠は,やはりジョヴァンニ・ベッリーニである.

写真:
ベッリーニ,チーマの
祭壇画の大作が並ぶ部屋


 ヴェネツィアのゴシック絵画の部屋の次の部屋には,ベッリーニとチーマを中心に,昔は教会にあった祭壇画が展示されている(上の写真).ここでの最高傑作は,もちろんベッリーニの「サン・ジョッベ祭壇画」(向かって右端)であろう.

 かつては,写真で見ても,美術館で実物を見ても,ベッリーニの最高傑作に思えていたこの作品に,今回は不満を感じた.同じ作者のサン・ザッカーリア教会の祭壇画を観た後だからだ.飾られる場所の祭壇装飾まで計算に入れた「サン・ザッカーリア祭壇画」の見事さを知った後では,おそらく同じような工夫が施されていたであろう「サン・ジョッベ祭壇画」のパネルだけの展示は,世紀の大傑作を裸で見ているようで,悲しくなってしまう.

 同じ部屋に展示されているチーマの「玉座の聖母子と聖人たち」やカルパッチョの「イエスの神殿奉献」も同様だが,両者とくらべても懸絶した傑作である「サン・ジョッベ祭壇画」の場合は特に残念である.

 両者とも,創作年代はそれぞれ数年と十数年後になるし,奏楽の天使は「サン・ジョッベ祭壇画」の影響を受けているであろう.カルパッチョの祭壇画はベッリーニと同じサン・ジョッベ教会にあったようだ.カルパッチョの奏楽の天使も良いが,やはりベッリーニの作品(トップの写真)が圧倒的だ.夢に見るほど美しい.

写真:
ジョヴァンニ・ベッリーニ
「双樹の聖母」(部分)


 今回,ベッリーニの複数の作品をじっくり鑑賞して,写真も撮ることができた.わけても「受胎告知」,「死せるキリストへの嘆き」,「聖母子と2人の女性聖人」,「ピエタ」を多少時間をかけて観ることができたことは,代え難い喜びと言えるだろう.

 もちろん,上の写真の「双樹の聖母子」(マドンナ・デり・アルベレッティ)も素晴らしい.アルベレッティは「小さな樹」(アルベレット)の複数形で,旧約聖書の「ソロモンの雅歌」に発想源があると考えられているようだ.


ヤコベッロ・デル・フィオーレ
 エントランスと券売所(ビリエッテリア)のある地上階から,1階(日本風に言うと2階)の展示場に行く階段を上って最初に出会うのが,ヤコベッロ・デル・フィオーレ(英語版伊語版ウィキペディア)の「正義の寓意と大天使ミカエルとガブリエル」である.

 天使に囲まれている以上,「女神」という表現は避けるべきであろうが,剣と天秤を持って王冠を被っている女性は,キリスト教絵画でなければ「女神」と呼ぶのがふさわしいだろう.ラテン語で「正義」を意味するユスティティア(イタリア語ではジュスティーツィア)が女性名詞なので,こうした寓意表現になるのだろう.

 フィレンツェのサンタ・トリニタ教会の前にある広場の高い柱の上にも,天秤を持つ女性として表された「正義」像があった.「剣と天秤」はミカエルのアトリビュートでもあり,ヤコベッロの絵でも,向かって左側の人物は「剣と天秤」を持ち悪龍を踏みつけているのでミカエルとわかる.

 カスティリオーネ・オローナの洗礼堂のマゾリーノのフレスコ画の洗礼者ヨハネを斬首する刑吏の姿に,ヤコベッロの描いた天使との類似が指摘されていて,ずっと気になっている作品だ.要するに,剣を片手で背中の方から振り下ろそうとしている姿が似ているということなのであろう.

 しかし,黒づくめのマゾリーノの刑吏と,ヤコベッロのまばゆいばかりのミカエルは一目見た印象も随分違って思える.この絵を既に3回観て,2回目以降はマゾリーノのフレスコ画を意識しながら観ているが,影響関係よりも,偶然の相似に思える.


写真:ヤコベッロ・デル・フィオーレ「正義の寓意と大天使ミカエルとガブリエル」 1421年


 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートによれば,ヤコベッロの絵は1421年,マゾリーノのフレスコ画は1435年の制作ということなので,マゾリーノがヴェネツィアを訪れ,上の写真の絵があったとされる総督宮殿を見学していれば,その可能性は高いと思われるが,そうした伝記的事実は確認できるのだろうか.

 ヤコベッロは1439年頃まで生きているようなので,絶対に影響関係がないとは言い切れないが,文献的証拠無しに考えて結論の出る問題ではないであろう.

 ヤコベッロが国際ゴシックの華やかな画風をジェンティーレ・ダ・ファブリアーノから受け継いだのは間違いないようだ.ジェンティーレが総督宮殿を飾る絵を描くためにヴェネツィアに招かれたのが,1414年から15年で,ヤコベッロが1370年頃の生まれとすれば(伊語版ウィキペディア),その頃,彼は40代半ば,既に後期ゴシックのマエストロとして一家を成していたと思われる.

 ヤコベッロのイメージとしてはどうしても「国際ゴシック」と思ってしまうが,上の写真の絵は50歳を越したばかりの頃の作品と考えられる.60代後半まで生きたようなので,晩年の作品とは言えないが,画家人生の中でもかなり後期の作品と言えるだろう.


ミケーレ・ジャンボーノ
 国際ゴシックから出発して,ヴェネツィア派のルネサンス芸術の土台を築いたヤコポ・ベッリーニはヤコベッロよりも30年近く若い.ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノがヴェネツィアで仕事をした時,ヤコポは10代後半の若者で,ヤコベッロとヤコポには相当の世代差があったことになる.

 ヤコポに僅かに遅れて生まれ,数年早く亡くなったミケーレ・ジャンボーノ(英語版伊語版ウィキペディア)の方が,むしろ,ヤコベッロとの連続性を感じさせる.英語版ウィキペディアは影響を指摘するにとどまっているが,伊語版ウィキペディアは「弟子」としている.

 今までも,この画家に関しては,注目に値すると思ってきたが,残念ながら,整理,考察を試みたことはない.今のところ,これについて何か自分の考えをまとめるほどの材料も知見もないので,他の多くのことと同じように,今後少しずつ勉強していきたい.

 今回ヴェネツィアとパドヴァで彼の複数の作品を見ることができた.パドヴァの市立博物館で観た絵は随分見事な作品に思えたが,写真厳禁で,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにも写真がないし,せわしない観光の一環だったので,メモも取っておらず,なかなか思い出すことができない.

 グーグルの画像検索で「michele giambono padova museo civico」でヒットするページ(写真とイタリア語解説)に拠れば,祭壇画の一部で,「聖アウグスティヌス」(フェデリコ・ゼーリ財団のHPにミケーレの作品をまとめたページがあり,そこでは単に「司教聖人」としている)を描いたもののようだ.情けないことに確信が持てない.

 2008年に,滞在中のフィレンツェからボローニャを訪れた時,市立博物館で購入した案内書,

 I Musei Civici di Padova: Guida, Venezia: Marsilio, 1998

は実家に置いていて津波で流され,その後,ウニリブロかイタリア・アマゾンのどちらかで再入手したが,この本に写真付きで上記の「聖アウグスティヌス」と「大教皇グレゴリウス」が紹介されている.それを見ても,現場で観たときのような感動は甦ってこない.

 アカデミア美術館にはミケーレ作の5連祭壇画「大ヤコブの祭壇画」(1450年頃)と,「聖母戴冠」(1448年頃)がある.彼の生没年情報と制作年代の推定が正しいとすれば,50歳直前の円熟期の作品である.同じくアカデミアに,ヤコベッロの描いた「聖母戴冠」もあるようなので,比較してみたい気持ちになった.

 ところが,撮ってきた写真を確認すると,どちらの「聖母戴冠」も写真に収めていなかった.私の乏しい記憶では,少なくとも一方は観て,あった場所も覚えているような気がしたが,もしかしたら,その時は外してあったのかも知れないし,単に見逃してしまったのかも知れない.

 1438年の作品であれば,ヤコベッロの方が10年早いので,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの写真で両方見ると,間違いなくミケーレにはヤコベッロの影響があると思えてしまう.

 似ているから影響があるというのは,単純すぎるようにも思えるが,マゾリーノと違い,ミケーレは,ヤコベッロと同じくヴェネツィア出身の画家であり,ヤコベッロが後期ゴシックから国際ゴシックの時代,ミケーレがフィレンツェではルネサンスの時代に,遅い国際ゴシックの画家として活躍したことを考えると,両者の影響関係は,ほぼ自明のことと言えるであろう.



 ミケーレ・ジャンボーノの作品で,今回,チャンスがあったにも拘らず,見逃してしまった作品としては,サン・マルコ大聖堂のマスコリ礼拝堂の天井を装飾するモザイク「聖母の誕生」と「エリザベト訪問」がある.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの情報が正しければ,前者は1430年代前半,後者は1451年頃の作品ということで,同じ場所にあるよく似た作品だが,制作年代に20年くらいの差がある.

 サン・ザッカーリア教会のサン・タラージオ礼拝堂の天井にフレスコ画を描いたフィレンツェの画家アンドレーア・デル・カスターニョが,サン・ザッカーリアのフレスコ画と同時期(1442年)にサン・マルコでモザイクを担当したことが知られており,「聖母永眠」がその作品とされている.これもマスコリ礼拝堂を飾っている.

 同じ礼拝堂で,10年くらいずつの間隔をおいて,ヴェネツィアの国際ゴシックの画家とフィレンツェの初期ルネサンスの芸術家がモザイクを制作したことは興味深いが,何分にも実物を見逃したわけだし,それぞれについて何か知見があるわけではないので,これ以上は保留とする.

 それでも,ミケーレの「聖母の誕生」の10年くらい後に,「聖母永眠」を制作したアンドレーアは,前者の作風を意識したのか,さらに10年弱経った後に,ミケーレは「エリザベト訪問」制作に関してフィレンツェ・ルネサンスの影響を受けたのかは考えて見たい気がする.その前に,本当に上記の制作年代が正しいかどうか,参考書にあたってみる必要はあるだろう.


「聖母戴冠」を手掛かりにして
 ヤコベッロとミケーレ自身の「聖母戴冠」は見たかどうかあやふやになってしまったが,16世紀前半の火災で大きな被害があって,ティントレットの「天国」に代えられたグァリエントの「聖母戴冠」を,ヤコベッロもミケーレも間違いなく見ているであろう.

 今回もヴェネツィア派の「聖母戴冠」を複数見ることができた.再訪したサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂では,チーマの「聖母戴冠」(制作年代はウェブページや参考書でははっきりせず,追随者の作品とする考えもあるようだ)を見た.

 ジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母戴冠」は,ペーザロの市立博物館にあるが,ペーザロに行った時はローマの特別展に出張中で,見ることができなかった.3大巨匠ではヴェロネーゼの同主題作品が,今回も行かなかったサン・セバスティアーノ教会(ヴェロネーゼの作品に満ちた教会で,次回は是非拝観を果たしたい)にあるようだ.後者の制作が1555年,前者は1470年代前半とされている(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート)ので,チーマ(もしくはその追随者)の「聖母戴冠」は間違いなくその中間であろう.

 今回,アカデミア美術館で観たパオロ・ヴェネツィアーノの立派な多翼祭壇画の中央のパネルが「聖母戴冠」だった.「最後の晩餐」や「キリスト磔刑」などキリストの生涯の諸場面と聖人たちを描いた見事な多翼祭壇画だが,ここから感動を得るためには,ヴェネツィア絵画の中のビザンティン芸術の影響とイタリアのゴシックの相克に思いが至る文脈が必要かも知れない.

 現在の私にはまだまだ難しいが,それでも,信者たちが聖母への崇敬の念を抱きながら,教会に寄進し,その浄財をもとに画家への注文がなされたのだと想像すると,中世の人々の思いが伝わってくるようで,一概に古拙で時代遅れの作品と片付けることはできない.

 Giovanni Nepi Sciré / Francesco Valcanover, Accademia Galleries of Venice, Milano: Electa, 1985(以下,シレ&ヴァルカノヴェル)


は古い本なので,その後,新説が出された可能性もあるだろうが,一応参照すると,この祭壇画はヴェネツィアのサンタ・キアーラ教会のために制作された.上部パネルにキアラも登場し,フランチェスコの諸場面もあることから,フランチェスコ会が関係していることは容易に想像がつく.ただ年代は示されていない(伊語版ウィキペディアも年代は特定していない)が,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに拠れば1350年頃の作品とのことだ.

 この多翼祭壇画をパオロの作品と特定するに際し,参考にされたのがワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵の「聖母戴冠」で,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートも伊語版ウィキペディアも1324年の作品としているので,何か文献的根拠があるのだろう.

 パオロが1300年頃の生まれとすれば,ワシントンの「聖母戴冠」は20代の新進気鋭の時代の,アカデミアの多翼祭壇画は50歳前後の円熟期の作品ということになる.

 グアリエントの「聖母戴冠」は1365年くらいの作品(総督宮殿に「大評議の間」を飾っていたのだから記録があるのだろう)とされる.

 グアリエントには,1344年作とされる「聖母戴冠」を中心とする多翼祭壇画(パサデナ,ノートン・サイモン美術館)もあるようだ.パドヴァ近郊のピオーヴェ・ディ・サッコのサン・マルティーノ教会にあった作品とされる.迂闊なことに,これまで確認を怠っていたが,ピオーヴェ・ディ・サッコはグアリエントの生まれ故郷のようだ.

 アルティキエーロと並んで,14世紀のヴェネト地方が生んだ最大の画家と言っても良いであろう彼の見事な絵が,二束三文だったかどうかまでは分からないが,故郷の教会から売りに出され,現在はアメリカの美術館にあるというのは何となく物悲しいが,忘れ去られた時代にも誰かが評価したのだと思うことにする.

 中央パネルがともに「聖母戴冠」であるグァリエントとパオロの多翼祭壇画を比べてみて,個々の場面については,前者に「最後の晩餐」が無いなどの相違はあれ,構成が似ていると思う人は多いだろう.この場会,気になるのは,10歳ほど年下のグアリエントの作品がおそらく数年早く,しかもグアリエントはヴェネト地方の代表的なジョッテスキの1人と考えられていることだ.

 パオロの作品にジョットの影響があるかどうか私にはわからないが,ワシントンの「聖母戴冠」とアカデミアの多翼祭壇画中央パネルの制作には,四半世紀ほど間があいていて,作風が変わるのは当然であろうが,大きな変化が見られるように思う.ビザンティン風に見えることが多いように思えるパオロの作品の中で,アカデミアの多翼祭壇画は,フランチェスコ会の教会の注文ということもあろうが,ずっとイタリア的に思える.

 ジョットは1260年代の生まれとされるので,パオロより30歳以上年長と考えられるから,たとえ地域的に遠く,直接ジョットの作品をパオロが観ていないとしても,少し後進のグアリエントなどを通じて,ジョットの影響を受けたのではないかと思いたい.



 アカデミア美術館には「聖母戴冠」のゴシック祭壇画は他にもある.王冠を被ったキリストが,右手をマリアの頭に伸ばし戴冠を行っている上方で奏楽の天使たちがそれを祝福している構図は,パオロと同じと言って良いだろう.

 しかし,パオロがビザンティン風の金色に満ちた「聖母戴冠」を描いたのに対し,こちらはよりイタリアのゴシックの特徴が出ているように思われ,マリアが修道女風の姿に見える.

 この祭壇画は,シレ&ヴァルカノヴェルに拠れば(p.172),ラテン語記銘によりステファノ・ディ・サンタニェーゼ(サンタニェーゼ教会の教区民であるステファヌス)と称する画家の作品で,正確に制作年代を知ることはできないが,1369年から85年の活動記録があるらしい.ステファノ・ヴェネツィアーノ(英語版仏語版ウィキペディア・・伊語版は見つからなかった)とも言うようだ.仏語版ウィキペディアにたった4作だが作品リストがあり,この4作はすべてウェブ・ギャリー・オヴ・アートに掲載されている(stefano di sant' agneseで作者名検索すると全ての作品が一度に見られる).

 この画家の作品を昨年観ていた.サン・ザッカーリア教会のサン・タラージオ礼拝堂にあるアントニオ・ヴィヴァリーニとジョヴァンニ・ダレマーニャ共作の見事な多翼祭壇画の中央パネルの聖母子を描いた画家で,そのことは昨年の旅行報告でも言及している.

 今回,アカデミアで撮った写真の中に,この作品はなかった.したがって,これも実際見たかどうか曖昧だ.

 写真があって,はっきり見たと言える「聖母戴冠」は,シレ&ヴァルカノヴェルに拠れば,カタリーノという画家の作品のようだ.残念ながら,ウィキペディアには情報がないが,私たちが観た「聖母戴冠」の写真ともにこの画家を紹介したウェブページがある.別の作品をカタリーノ・ヴェネツィアーノ作として紹介したページもあった.さらに写真はないが,「カテリーノ」という名で立項された詳しい紹介ページもある.ウェブページなのでいつまで見られるかわからないが,当面は参考にできるだろう.

 ややこしいことに,シレ&ヴァルカノヴェルを見ると,中央パネルだけのカタリーノ「聖母戴冠」がもう1作アカデミアにあったようで,これは見落とした.図柄的にもパオロの影響から始まり,ロレンツォ・ヴェネツィアーノの影響も見られるようなので,ステファノの場合とよく似ていると言えるだろう.

 さすがに14世紀には,ヴェネツィアは既にヨーロッパ有数の有力国家だったので,ゴシックの時代にも立派な芸術の花が咲いていたことを,今更ながらだが確認できた.まだまだ深みにはまっていきそうな予感がある.

 今後はヴェネツィア(とその周辺の)絵画の「聖母戴冠」に注目していきたい.


ロレンツォ・ヴェネツィアーノ
 パオロと並んでゴシック期のヴェネツィア絵画を支えた画家として,ロレンツォ・ヴェネツィアーノ(英語版伊語版ウィキペディア)がいる.今まで,観た作品の数は,パオロよりもロレンツォの方が圧倒的に多い.今回もアカデミア美術館とコッレル博物館でロレンツォの複数の作品を観ることができた.

 伊語版ウィキペディアに作品リストがあって参考になるが,最初に挙げられたリオン祭壇画(Lionと綴るのでライオンかと思ったが,注文主ヴェネツィアの元老院議員の姓のようだ.イタリアの他地域よりも,ヴェネツィアには子音で終わる家名が多いようだ)には,ラテン語が記入され,そこにMCCCLVIIとあるので,1357年の制作とわかる(シレ&ヴァルカノヴェル,p.130).

 19世紀に廃絶したサンタントーニオ・ディ・カステッロ教会を飾っていた作品のようだ.この祭壇画の中央パネルは「受胎告知」(下の写真)で,ここに描かれた聖母は美しい.

写真:
ロレンツォ・ヴェネツィアーノ
「受胎告知」


 Cristina Guarnieri, Lorenzo Veneziano, Cinisello Balsamo, Milamo: Silvana Editoriale, 2006(以下,グァルニエーリ)

という立派な本が茅屋の書棚の重しになっているが,美しい表紙は,手を交差して天使の告知を謹んで受け入れているこの聖母だ.その大きな写真で観ると,聖母定番の青と赤の衣に,モザイクのような金色が巧みに活かされており,既にビザンティン風には見えないが,それでもヴェネツィアの伝統を感じさせる.

 この作品とともにアカデミア美術館で見られる「受胎告知と聖人たち」の多翼祭壇画には,1371(MCCCLXXI)年との記銘が見られ,この画家が(記銘が嘘でなければ)1357年から1371年まで活動したことはアカデミア美術館の展示作品だけでわかることになる.

 ロレンツォに関して,伝記的事実はほとんど知る術がないようだが,それでも全てではないけれど,重要作品に制作年を含む記銘があることで,14世紀後半に活躍した芸術家ということがわかる.伊語版ウィキペディアには1356年から1372年までヴェネツィアに活動記録があるとしているので,少なくとも72年に関しては別に資料があるのだろう.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにはルーヴル美術館所蔵の「バラの聖母子」の制作年が1372年,コッレル博物館所蔵の祭壇画が1380年としているが,後者については伊語版ウィキペディアに拠れば1360年頃とされているので,これをもって彼が1380年まで作品を描いたのだと即断することはできない.後者は,ロレンツォにしてはパオロのようなビザンティン風の造形が残っているように思え,それに比べると,前者は華やかな絵柄で国際ゴシックを思わせる.

 ルーヴル美術館のHPの検索機能アトラスの仏語版(英語版はヒットしなかった)に拠れば,「バラの聖母子」には1372(MCCCLXXII)年のラテン語記銘があるようだ.それとは別にヴェネツィアに契約書の類の古文書も残っているのかも知れないが,いずれにせよ,アカデミアのリオン祭壇画とルーヴルの「聖母子」に拠って,彼の活動年代の上限と下限が証明できることになる(ロレンツォのラテン語名ラウレンティウスにあたる記名も両方にあるようだ).

 ちなみに,ルーヴルにあるパオロの祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」にも1354(MCCCLIIII)年の記銘があることは,やはりアトラスの簡潔な解説で知ることができる.こちらも美しい絵だが,聖母子の両脇の別パネルにそれぞれ侍している4人の聖人がロシアで観たイコンのようで,14世紀も既に半ばになっても,ビザンティンの影響が大きかったことがわかる.



 ロレンツォが1357年に仮に25歳だったとすれば,1372年には40歳だったことになり,誤差として前後に5年くらいの幅を持たせるとしても,1330年前後の生まれということになる.

 これに対応するトスカーナの画家は誰だろうかと考えてみるが,なかなか思い当たらない.強いて言えば,オルカーニャ兄弟の末弟ヤコポ・ディ・チョーネとシエナ派のバルトロ・ディ・フレーディであろうか.またフィレンツェ出身だが,パドヴァで活躍したジュスト・ディ・メナブオイ,ヴェローナ近郊出身のアルティキエーロもおそらく同世代と言えよう.

 もし,ヴェローナのサン・ゼーノ聖堂で観た十字架型の彩色板絵のキリスト磔刑像がロレンツォの真作ならば(グァルニエーリはその立場だ),ロレンツォがジョッテスキの影響を受けていたことは間違いないであろう.その点は,もしかしたら師匠だったかも知れないパオロよりも明瞭だ.ロレンツォにも間違いなくビザンティン芸術の遺風は残っていると思うが,はっきりとイタリアの画家として個性を示しているだろう.

 であっても,彼はイタリアを代表する国際ゴシックの画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノよりも40歳くらい,国際ゴシックへの流れを想起させる華やかな画風の後期ゴシックの画家アーニョロ・ガッディよりも20歳くらい年長である.イタリア以外の国際ゴシックの流れを考えても,少し早いように思うが,時代の流行に敏感で,それを先取りするだけの感性はこの画家にはあったのではなかろうか.

 確かに,マルケ州出身で,トスカーナでも活躍したジェンティーレ・ダ・ファブリアーノがヴェネツィアの総督宮殿で仕事をして,弟子筋のヤコポ・ベッリーニが故郷ヴェネツィアに工房を開き,国際ゴシックからルネサンスと言うヴェネツィア絵画の流れを作ったのではあろうが,それを支える基層のところに,パオロ・ヴェネツィアーノ,ロレンツォ・ヴェネツィアーノ,ヤコベッロ・デル・フィオーレ,ミケーレ・ジャンボーノという系譜があって,ヴェネツィアの絵画芸術が栄える土台が形成されたのではないかと思いたい.

 ただ,ヴェネツィア出身のカルロ・クリヴェッリはヤコベッロの影響下に位置づけられるとしても,ヤコベッロの父であり師匠であったとされるフランチェスコ・デル・フィオーレ(ヤコベッロの父にして師匠という言及以外の情報は今のところ,仏語版ウィキペディアのみ),ベッリーニ工房のライヴァルだった工房の始祖アントニオ・ヴィヴァリーニやその師匠筋の画家(英語版,伊語版ともウィキペディアはアンドレーア・ダ・ムラーノの名を挙げているが,そこにリンクされている画家は15世紀後半に活躍した画家なので同名異人であろう)をどのようにロレンツォと結びつけたら良いのかわからない.

 話が堂々巡りしてしまうが,伊語版ウィキペディアでヴェネツィアのサン・パンタロン(パンタローネ)教会にあると紹介されているアントニオ作の「聖母戴冠」は,中央に聳える玉座の聖母とキリストを幾層にわたって大勢の天使や聖人たちが取り囲む荘厳な様子が,多くの相違があるにもかかわらず,ヤコベッロの「聖母戴冠」によく似た雰囲気をたたえている.1444年の作とのことなので,アントニオがヤコベッロの影響を受けたのであろう.でありながら,ヤコベッロの方がやはりグァリエントを強く意識しているように思える.いくら考えても,結論のようなものが出るはずもないが,普段「ヴェネツィア派」と言っても名前が浮かんで来ない,ヤコベッロ・デル・フィオーレの存在感を感じることができた.

 今回,撮ってきた写真からは観たかどうか確認できないが,多分観たであろうヤコベッロの「聖母戴冠」から,様々なことを考えさせられた.やや飛躍するが彼の先人であるパオロ・ヴェネツィアーノ,ロレンツォ・ヴェネツィアーノの重要性に思いが至り,ヴェネツィア絵画がビザンティンの影響を活かしながら,「イタリア絵画」になっていく過程をたどれるような気になった.気のせいかも知れないが.



 アカデミア美術館がすばらしい美術館であるのは自明だが,宗教絵画のほとんどは,もともと教会などの宗教施設のために描かれたのだから,できれば,もともとあった場所かその周辺で観たかった.

 その意味では,今までパオロ・ヴェネツィアーノの「聖母子」をサンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ聖堂で,ロレンツォ・ヴェネツィアーノの彩色磔刑像をヴェローナのサン・ゼーノ聖堂,「謙譲の聖母子」を同地のサンタナスタージア聖堂で,「聖母永眠」を中央パネルとする多翼祭壇画をヴィチェンツァ大聖堂(この作品もグァルニエーリは真作として掲載)で観ることができたことは幸運な体験であった.

 ゴシックの祭壇画をまとめて相当数見ることができる美術館には,確かに利点もある.何よりも廃絶した教会や修道院の,場合によっては二束三文で異郷に売り払われるかも知れなかった諸作品を収蔵,展示しているアカデミア美術館で,玉石混交のルネサンス以前の絵画を鑑賞できるのは,それもやはり幸運なことと言わざる得ないだろう.


ティントレット
 さて,以前は苦手だったティントレットである.アカデミア美術館のティントレット作品は傑作ぞろいだ.

 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートで「tintoretto accademia」で検索すると,「聖母被昇天」,「万物の創造」,「元首アルヴィーゼ・モチェニーゴの肖像」,「キリスト哀悼」,「カメルレンギの聖母子」,「アントニオ・カッペッロの肖像」,「ソロモンとシバの女王」,「聖ヒエロニュムスと聖アンデレ」,「トゥールーズの聖ルイ,聖ゲオルギウスと王女」,「イスラム教徒を難破から救う聖マルコ」,「一千人の殉教」,「奴隷を救う聖マルコの奇跡」,「アベルの殺害」,「イエスの神殿奉献」,「アダムの誘惑」がヒットするが,そのほとんど観ることできたし,写真も撮ることができた.

写真:
ティントレット
「聖マルコの遺骸の運搬」


 「聖マルコの遺骸の運搬」(上の写真)と「奴隷を救う聖マルコの奇跡」が有名で,紹介されることも多いようだが,どれも一つ一つ見れば,さすがに天才画家の力作と思わされる.

 ただ,幾つも鑑賞できると贅沢な話だが,「またティントレットか」と思わせる側面もある.矛盾すること言うようだが,一方で,この画家の作品は,やはり,幾つもまとめて観た方が,その良さを認識できるように思う.

 昨年のサン・ロッコ同信会,今回のマドンナ・デッロルト教会は,そう思わせるだけの傑作ぞろいで,ティントレットと言えば,サン・ロッコ同信会がとどめを刺すというのが現在の感想だが,それでもアカデミア美術館は外せない鑑賞スポットであろう.


ティツィアーノ
 ティツィアーノに関しては 最初にアカデミア美術館を訪れた2008年2月に,たまたま彼の特別展が行われていて,ナポリ,マドリッド,ウィーンから来た作品も観ることができ,初期段階からティントレットよりは親しみを持っていた.

 その後,ローマ,モスクワでも特別展を見ることができて,作品点数から言っても,鑑賞時間から行っても,結構見ている方だと思うし,ティントレットよりは自分と相性が良いと思い続けてきた.

 神話画や肖像画もそれなりの数を観ているが,やはり,この画家の真骨頂は,他のイタリア画家と同じく,宗教画にあると思う.「聖母の神殿奉献」(下の写真)は,扉の所が切り取られている(もともとはそこにも絵が描かれていたのではないかと想像する)ことからも推測できるように,もともとこの場所にあったものと思われる.

写真:
ティツィアーノ
「聖母の神殿奉献」


 アカデミア美術館が入っている建物は,中世から続いたカリタ同信会とその教会だったもので,「聖母の神殿奉献」は同信会がティツィアーノに注文したものだ.伊語版ウィキペディアに拠れば,1534年から38年が制作年代とされており,1480年代に生まれ,1576年に亡くなった画家の50歳代の円熟期の作品と考えられる.

 ティツィアーノの全体像を把握するに至っていない(多分,生涯把握できないだろう)ので,この作品が巨匠の全作品の中でどのような位置にあるか分からないが,私としては,サンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ聖堂の「聖母被昇天」(1516-18)(英語版伊語版ウィキペディア),遺作「ピエタ」(1576)(英語版伊語版ウィキペディア)(下の写真)と並んで,最も心打たれる作品だ.

 今回初めて観ることができた,サンタ・マリーア・デッロルト教会のティントレットの「聖母の神殿奉献」(1553-56)と比較して,どちらも傑作だとは思うが,やはりティツィアーノの清澄な印象は捨て難い.どちらが影響したのかは,情報が得られる限りの制作年代ではわからない.ティントレットの方が先で,師匠筋かも知れないティツィアーノが影響されたなら話としては面白く,その逆なら,私の気持ちが納得しやすい.後者だと思いたい,すなわち,ティツィアーノの「聖母の神殿奉献」にはそれだけの影響力があったと考えたいが,証拠無しでは個人的な思い入れに過ぎないので,これ以上,触れないことにする.

 その他のヴェネツィア派の「聖母の神殿奉献」は,チーマとカルパッチョの作品に関しては,伊語版ウィキペディア(チーマカルパッチョ)から情報が得られる.前者は現在ドレスデンの美術館にあり,1490年代半ばの作品,後者は現在ブレラ絵画館にあって,1505年の作品なので,ヴェネツィア派の中で,この主題(英語版伊語版ウィキペディア)の作品はティツィアーノの影響が濃いと断ずるのは難しいと思うが,昨年,ローマでヴェネツィア出身のバロックの画家カルロ・サラチェーニの作品を,今回,ヴェネツィアのサンタ・マリーア・デッラ・サルーテ教会ででナポリ出身のルーカ・ジョルダーノの作品を観ることができ,それぞれ,ティツィアーノの「聖母の神殿奉献」を想い起させたので,気になった.他の多くのことと同様,「今後の課題」だ.


写真:ティツィアーノ「ピエタ」


 巨匠ティツィアーノと言えども,他の画家の影響は受けたであろうし,特に長命であったから,晩年には後進の影響もあえて自作の中に取り込んだであろうと言う想像は許されるだろう.

 ヴェネツィア伝統の華やかな色彩を集大成したティツィアーノが,暗い色調の絵を描いたからティントレットに影響されたはずだというのは,あまりに乱暴すぎるとは思うが,今回,やはり特別展以来気になっている作品である,ジェズイーティ教会の「聖ラウレンティウスの殉教」(1550年代後半),サン・サルヴァドール教会の「受胎告知」(1560年代前半)など,人生の後半に行くほど,色調は暗く,構図はダイナミックになって,意識している,していないに関わらず,ティントレットからの影響はあったのかなと思う.

 もちろん,たとえそうだったとしても,ティツィアーノはティツィアーノであって,その偉大さには何の疑問もない.未完のまま残され,弟子筋のパルマ・イル・ジョーヴァネが完成させたと言われる(シレ&ヴァルカノヴェルは「ティティアヌスが遺し,パルマが敬意を込めて完成させた」と言うラテン語の記銘を掲載)「ピエタ」は,17世紀にはヴェネツィアのサンタンジェロ教会にあったらしいが,その教会は廃絶し,1814年からアカデミア美術館の所有となった(シレ&ヴァルカノヴェル,p.180)ようだ.この作品を初めて観たときは常設の場所から特別展示会場に移されていたが,その展示の仕方が良かったせいもあり,深く心に刻まれた作品だ.

 広く,明るい常設室は,この作品の深い精神性を引き立てることには貢献していないように思う.ティントレットとヴェロネーゼはこの部屋で良いが,ティツィアーノの「ピエタ」は,少し暗めの部屋で単独の展示をしてほしいと愚考した.しかし,どこでどのように観ても,この作品が世紀の傑作であることに異論はない.

 決して相性が良いとは言えない,ヴェネツィア派の画家たちの中でも,ジョヴァンニ・ベッリーニとティツィアーノは,少なくとも私にとっては特別な存在に思える.

 なお,ティツィアーノの諸作品とその制作年代に関しては,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートだけではなく,伊語版ウィキペディアの作品リストが参考になる(ただし,以前はあった解説ページが削除された作品もあるようだ).


様々な聖母子
 ティツィアーノの「ピエタ」や,ジョヴァンニ・ベッリーニの作品でも総督宮殿の「ピエタ」は,その暗さ故に,素朴すぎる感想ではあるが,深い精神性を感じる.それに比べれば,同じジョヴァンニの作品でも,アカデミアの「ピエタ」は何と明るい色彩だろう.それにも関わらず,この作品にも感銘を禁じ得ない.

写真:
ジョヴァンニ・ベッリーニ
「ピエタ」


 ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの解説とシレ&ヴァルカノヴェルの解説(p.90)でも,背景には,チヴィダーレ・デル・フリウリ周辺のナティゾーネ川ヴィチェンツァ大聖堂,ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌォーヴォ聖堂の鐘楼が見られことが言及されている.

 聖母が死せるイエスを膝に乗せる「ピエタ」は,私たちがヴァティカンにあるミケランジェロの彫刻で良く知っている姿だ.ジョヴァンニの作品が1505年(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート)とすれば,ミケランジェロの作品は1497-8年とされるので,現在の私たちが考えれば,ミケランジェロの影響をジョヴァンニが受けたのだろうと思われる.

 ジョヴァンニは「ピエタ」として知られる作品を複数描いており,それが天使が支えるエンジェル・ピエタであれ,聖母,福音史家ヨハネ,その他の人物がそばで嘆いているものであれ,その制作年代は.1550年代から70年代と考えられていて,聖母がイエスの遺体を膝にのせているのは,これ1作のようだから,なおさらである.しかし,メディアが発達した現代とは違うので,ミケランジェロのピエタと単純に連結するのは早計だろう.

 もともと「キリスト降架」から派生し,13世紀から14世紀にスペインと北方で広まり,すぐにイタリアにも波及したが,中央イタリアでは十分に知られておらず,ランドゥッチという人物が,1482年6月の日記で,「聖母が座って,十字架から降ろされた死せるキリストを抱えているのを,ピエタと呼んでいる」とわざわざ書いているとのことだ.ヴァティカンにあるミケランジェロのピエタは,注文主がフランス出身の枢機卿で,契約書に図像についての取り決めがあったとのことだ.

 上の段落は,

 Peter and Linda Murray, eds., The Oxford Companion to Christian Art and Architecture, Oxford Univarsity Press, 1996

を参照した(p.391).ただし,この本は,ベッリーニ他の「ピエタ」に関しては複数の作品名を挙げているが,アカデミア美術館のピエタへの言及はない.

 Peter Humphrey, ed., The Cambridge Companion to Giovanni Bellini, Cambridge University Press, 2004

にもミケランジェロへの言及はない.

 1420年代の生まれのジョヴァンニは,1475年生まれのミケランジェロより50歳くらい年長であるが,類似のピエタで比べるとミケランジェロの制作の方が早い.しかし,影響関係は私がいくつかの本やウェブページを見た限りでは論じられていない.

 日本語で読める本では,

 マリオリーナ・オリヴァージョ,篠塚二三男(訳)『ジョヴァンニ・ベッリーニ』(イタリア・ルネサンスの巨匠たち22)東京書籍,1995

があるが,この本に拠れば「1505年ころには制作されていた」とあり,ヴェネツィア周辺の都市の風景,「閉ざされた庭」としてのマリアの表現,デューラーの影響などを言及した後,グロナウという研究者が北方の木彫やヴェスパービルト(ピエタ)(伊語版独語版ウィキペディア)と1928年の論文で関連付けたのを支持している(p.66).当然のようにミケランジェロへの言及はない.

写真:
コスメ・トゥーラ
「黄道十二宮の聖母」(部分)


 眠れる嬰児イエスを膝に抱く「聖母子」も,死への連想から,場合によっては「ピエタ」と関係するかも知れない(塚本博『イタリア・ルネサンス美術の水脈 死せるキリストの系譜』三元社,1994,pp.104-130)が,そうしたことよりも,今回アカデミアとコッレルでコスメ・トゥーラの作品と再会でき,写真まで撮らせてもらえたことが嬉しい.

 コスメとの出会いは,ラヴェンナに初めて行ったとき,フィレンツェからの乗り換え駅だったボローニャの観光案内所で,特別展のモストラの表紙に使われていた「ピエタ」の写真であったが,この作品はコッレル所蔵のものなので,コスメに関しては,コッレル美術館の報告の時に感想を述べたい.

 ただ,コッレルの「ピエタ」は1460年頃の作とされるので,ミケランジェロよりも40年近く早かったことになり,やはりジョヴァンニ・ベッリーニの作品を見て,ミケランジェロと簡単に結びつけてしまうのは,単に知識が足りない現れであろう.福音史家ヨハネなど複数の人物に囲まれて,聖母が死せるキリストを抱きかかえているコスメ作の「ピエタ」をルーヴルで見ている.1474年の作なので,やはりミケランジェロよりずっと早い.

 「黄道十二宮」の通称は,十二の星座のうち水瓶座,魚座,射手座,乙女座のしるしが聖母の背後に書き込まれていることに拠る.「十二宮」は正確ではないかも知れないが,ゴロが良いので残す.上記の塚本の書物では,「眠れる幼児キリスト」として,1470年頃の作品としている.

 すっかり絵葉書の種類が減ってしまったアカデミア美術館のブックショップ(これが有名美術館のブックショップかと驚く)でも,この作品の大判の絵葉書を売っていた.それなりに傑作と考えられているのだろう.私はアカデミア美術館でこの作品が1番好きだと断言しても良い.もちろん大判の絵葉書は買ってきて,額装して部屋に飾っている.

写真:
ジョルジョーネ
「嵐」(部分)


 コスメの作品は,現地に住んでガイドをされている方もほとんど興味がなかったようだが,それに引き換え,多くの日本人はアカデミア美術館にこの作品を見に来る言っても過言ではないのが,ジョルジョーネの「嵐」(テンペスタ)であろう.なるほど謎に満ちて人目をひく作品であり,多くの美術史家がイタリア・ルネサンスについて語り,ヴェネツィア派に言及すれば,必ず触れる作品だが,へそ曲がりなことを言うようだが,私はアカデミアのジョルジョーネの作品なら,リアルに徹している(実は何か戦略があるのかも知れないが)「老女」の方が良い.

 本当に何か寓意があるのかどうかわかならいが,多くの学者がまじめに「嵐」の寓意を読み解こうとしてるのは見ると,寓意画は苦手だなあ,と思い込んでしまう.私はわかりやすい絵が好きだ.


カルパッチョ
 「わかりやすい」絵を描くヴェネツィア派の代表はカルパッチョであろう.

 ジェンティーレ・ベッリーニの「聖十字架のサン・マルコ広場行進」などの大きな物語画同様に,連作「聖ウルスラの物語」にも,伝説の語る時代よりも,画家が生きていた時代のヴェネツィア周辺の風俗などが描きこまれて,興味深いばかりではなく,絵そのものも,写実性を備えながらも,ファンタジックにも見え,色彩も華やかで,ヴェネツィアの黄金時代を反映した画家に思える.

 ヴェネツィアから数多輩出した画匠たちの中にあって,決して第一級の画家ではないかも知れないが,彼の絵が好きだという人は多いであろう.

 ティントレットが入っていない「イタリア・ルネサンスの巨匠たち」のシリーズの中に,単独で,

 フランチェスコ・カノーヴァ,篠塚二三男(訳)『カルパッチョ』東京書籍,1995(以下,カノーヴァ)


として取りあげられ,,

 Ruggero Rugolo, tr., Huw Evans, Venice: Where to Find, Firenze: Scala, 2003

に,ジョヴァンニ・ベッリーニ,ティツィアーノ,ティントレット,ヴェロネーゼともに五大巨匠(とは言っていないが)のように扱われていることからもわかる.

 カルパッチョは,聖ウルスラ同信会のために,「聖ウルスラの物語」を描くように依頼され,9点の大画面の作品を描いた.いずれも見事な作品だ.これらの作品は現在,すべてアカデミア美術館にある(下の写真).これが高く評価されて,6つしかなかった大同信会の1つサン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ大同信会から,「聖十字架の奇跡」の数場面のうちの1場面の作成を依頼された.

 依頼された画家の中には,ペルジーノもおり,実際に作品は描いたようだが,これは現存しない.現存する8場面のうち3場面をジェンティーレ・ベッリーニが担当し,その中の一つが上記の「聖十字架のサン・マルコ広場行進」である.他に,ジョヴァンニ・マンスエーティが2場面,ラッザーロ・バスティアーニが1場面,ベネデット・ディアーナが1場面で,現存作品はすべてアカデミア美術館に飾られている.

 ジェンティーレとラッザーロが1429年,カルパッチョが1465年頃の生まれなので,この仕事をした1496年にはカルパッチョは30歳前後の若手,前の2人は60代後半の大家だった.

 カノーヴァは,

 現在アカデミア美術館にあるこれらの作品を比較してみると,年長の画家たちの総花的な調子の古くさい描写と,カルパッチョの描いたいきいきとして魅力的なヴェネツィア風景との根本的な差異がわかる.(p.32)

と断じている.

 マンスエーティは伊語版ウィキペディアでも生没年未詳だが,1527年まで活動したことはわかっているようなので,1526年くらいまで生きたカルパッチョと同世代くらいの画家(カノーヴァには1485年生まれとあるが,であれば大同信会で絵を担当し始めた96年ごろ11歳の少年となり,これは訳者の誤解だろう)だったろう.

 ディアーナは1560年生まれ(伊語版ウィキペディア)とされているので,カルパッチョより少し年長だが,やはり同世代だった思われるので,カルパッチョが特に抜擢を受けて,仕事を委託されたというのではないかも知れないが,後世の評価は同世代の2人だけではなく,大家2人よりも高いと言えよう.

写真:
カルパッチョ
「リアルト橋の近くでの
十字架の奇跡」(部分)


 サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ大同信会に描いた1場面が,上の写真の絵であり,1396年に当時ヴェネツィア共和国の影響下にあったキプロス王国高官から同大同信会に贈られた,キリスト磔刑に使われた「聖十字架」(真の十字架)の「木片」の力で,グラード大司教が,リアルト橋の近くで,悪魔に憑かれた男を癒したという話らしい.

 非キリスト教徒にとっては荒唐無稽にもならないような逸話であるが,絵の内容が何であれ,そこに描かれた古いリアルト橋,日本の物干し台のようなアルターナ,林立するヴェネツィア型の煙突,奴隷として連れてこられたかも知れないアフリカ系の人物もいるゴンドリエーレたち,といった,私たちがヴェネツィアの風景に期待する様々なものが当時の様子で描かれていて,見飽きない.

 以上,駆け足で,アカデミア美術館の見学報告をまとめたが,もとより,このページだけで,語りきれるものではない.是非,またいつの日かいつの日かアカデミア美術館を訪れ,心躍らせながら報告をまとめたい.

 今回,見られなかった,もしくは見落とした重要作品も少なくない.特にヴェネツィア派以外の作品だが,シレ&ヴァルカノヴェルには間違いなく掲載されてる,マッティア・プレーティの「ホメロス」が,前回も今回も見られず残念だった.今でも,アカデミアにあり,常設の場所で展示されているのであろうか.






カルパッチョの連作
「聖ウルスラの物語」の部屋で