§2015 ヴェネツィアの旅 - その3 サン・マルコ大聖堂
Windows10の無料インストールでトラブルが起こり,自宅のWindows7のPCが故障した.学校の仕事はMacで何とかできたし,1500人の採点は,ほぼ毎日出勤することで何とか終わらせたが,ホームページの更新ができなくなった.
あちらこちらに電話した結果,データの復旧とパソコン修理にはかなりの費用がかかったが,パソコンの製造会社と,データ復旧サービス会社はそれぞれ誠実に対応してくれて,ようやく元の状態を回復した.と言うわけで,書きかけの以下の原稿に久しぶりに取り組むことになる(8月15日).
サン・マルコ大聖堂(以下サン・マルコ,聖人については「聖マルコ」もしくは「福音史家マルコ」とする)を初めて拝観したのは,フィレンツェ滞在中の2008年2月の初めだった.「祈りの場なので写真は厳禁」という趣旨の貼り紙があったように記憶する. |
写真を撮っても良いことになったという現地ガイドさんの案内には耳を疑った(「撮影禁止」の貼り紙はまだある)が,堂内では多くの人が写真を撮っていて,誰も注意されていないので,拝観の終了間際になってからだが,私もカメラを取り出した.ローマやフィレンツェの多くの有名博物館,美術館が撮影可になり,ヴェネツィアでもアカデミア,コッレルがそれに倣ったことに連動しているのだろうか.
堂内の拝観に先立って,階上の博物館を見学したが,その時点では「撮影禁止」の貼り紙を信じていたので,コンスタンティノープル占領の際の戦利品である,有名なローマ時代の4頭の馬(英語版/伊語版ウィキペディア)の本物(レプリカはファサード上部に置かれ,外から見られる)を始めとする興味深い展示品や,階上から見た堂内の写真は撮っていない.
 |
|
写真:
薄暗い堂内で
モザイクの金地が光る |
「サン・マルコ大聖堂」(英語版/伊語版ウィキペディア)は,19世紀初頭(1807年)以来,大司教座教会であり,現在もヴェネツィアの司教は大司教であり,総大司教という高い格を持っているようだ.英語版ウィキペディアにも,2012年以来の総大司教フランチェスコ・モラーリアの紹介ページがあるくらいだ.
イタリア語の名称はバジリカになっているので,「聖堂」でも良いかも知れないが,大司教座教会であっても,カッテドラーレやドゥオーモではなくバジリカと称する例もあるそうなので,現在は大司教座教会であることに鑑みて「大聖堂」としておく.
起源としては,ヴェネツィア共和国の元首の個人礼拝堂であり,ヴェネツィアが属する教区における大司教座は,ずっと別の教会にあった.
ついでに言うと,古くはトルチェッロ島のサンタ・マリーア・アッスンタ聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)にも司教座聖堂(カッテドラーレ)があったが,これは,もともとは古代から続く本土の都市アルティヌム(アルティーノ)から移転したものであった.
アルティヌムとその周辺からのトルチェッロ島移住は,452年のアッティラに率いられたフン族侵略の際の避難をを嚆矢とするが,司教座聖堂の移動は,ランゴバルド族の侵入を避けた647年のことのようだ.
アルティーノの司教区は5世紀からのもので,アルティーノのヘリオドルスが初代司教として知られ,現在もトルチェッロ島の守護聖人はこのヘリオドルスとのことだ.
この司教区には現在は常駐の司教はおらず,1818年以降は名義司教区となっている.古代アルティヌムの後継都市クァルト・ダルティーノは人口が8000人強(伊語版ウィキペディア),トルチェッロ島は17人(伊語版ウィキペディア.ただし,これは住民登録された人口で,実際には観光地なので,観光業その他の従業員は常時相当数がいるであろう.もちろん,私たちが訪ねた時,私たちを含む観光客はかなりいた)ということであれば,司教常駐の司教区としては成立し難いかも知れない.
ヴェネツィアの司教座
ヴェネツィアの諸島は長くパドヴァ司教区に属し,ヴェネツィア本島が栄えるようになってからは,サン・ピエトロ・ディ・カステッロ聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)が,この地方の司教座であった.
サン・ピエトロ・ディ・カステッロは,7世紀に遡る古い教会で,正式に司教座聖堂になったのは1074年,初代の大司教はエンリーコ・コンタリーニというヴェネツィア人で,彼の父ドメニコは元首(ドージェ)だった.
この聖堂に,グラードにいた総大司教が総大司教座を遷したのが,1451年のこととされる.上記のように1807年には大司教座はサン・マルコに移ったが,現在も総大司教区内の「小聖堂」として「聖堂(バジリカ))」の名乗りは認められている.
|
写真:
「昇天」のクーポラ |
 |
大司教座ないし司教座がサン・マルコになかったことは,教皇庁に必ずしも従順ではなかったヴェネツィア共和国にとって好都合であったことは,
塩野七生『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』上/下(新潮文庫)(以下,『海の都の物語』) |
でも強調されている.総大司教座がサン・マルコに移った1807年は,1797年のカンポ・フォルミオ条約で,ヴェネツィア共和国消滅が国際的に承認されてから20年後である.
サン・ピエトロ・イン・カステッロに司教座があった当時,教皇庁が大司教を指名するに際して,ヴェネツィア共和国が限定した候補者の中から選ぶしかなかったと『海の都の物語』は言っている.
『海の都の物語』には,いくつかのわかりやすい基本構造が見られるが,重要な核のひとつはヴェネツィアとジェノヴァのライヴァル関係であろう.
現在の総大司教は,英語版ウィキペディアに拠れば,長くヴェネツィア共和国の宿敵だったジェノヴァの出身とのことだ.ジェノヴァ出身の総大司教がドイツ出身の前教皇ベネディクト16世によって指名されたことは,地中海世界に君臨したアドリア海の女王が,イタリア共和国所属の一都市になった時代の流れを象徴しているであろう.
サン・マルコのモザイク
モザイクで有名な教会は,ラヴェンナにも,パレルモにも,ローマにもあるが,ヴェネツィアの教会のモザイクは,ビザンティン風の作品が多く,わけてもサン・マルコでは,「豪華絢爛,きんきらきん」と思わず揶揄の言葉を口にしたくなるほど,黄金の輝きに満ちている.
ビザンティン風と断言できる古風なものも多いが,新しい時代のものもかなりあり,時代も様式も多様で,全体の把握が相当難しい.そもそも,全てのモザイクをじっくり時間をかけて,良い場所から観られたわけではない.
幸い,ウィキメディア・コモンズの「サン・マルコ大聖堂のモザイク」に多くの写真があるし,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの「medieval」の項目からも,数は少ないが系統だった写真が見られるので,サン・マルコにどんなモザイクがあるか,それがどの時代に制作されたのかは,大体の知識を得ることができる.
古代後期ローマの影響を受けて発展し,反対に中世西欧に影響を与えたビザンティンのモザイクを抜きにして,サン・マルコのモザイクを語ることはできないが,それに関しては,やはり英語版ウィキペディアの「ビザンティン芸術」が参考になるだろう.思ったより遥かに簡潔でわかりやすい.
英語版ウィキペディア「イタリアの古代後期から中世のモザイク」も,簡略にまとめられていて,学問的に正確かどうかは私にはわからないが,写真付きでわかりやすい.

モザイクの最後の晩餐は,ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂とフィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂で観ている.前者は6世紀,後者は13世紀後半以降の作品であるのに対し,サン・マルコの「最後の晩餐」(上の写真)は,例によって
Last Supper,London: Phaidon Press, 2000
を参照すると,12世紀(ウィキメディア・コモンズでは13世紀)の作品とのことである.同時代の作品としては,モザイクではないが,モデナ大聖堂で,アンセルモ・ダ・カンピオーネの大理石の彩色浮彫を見ている.
サン・マルコに「最後の晩餐」のモザイクがあることはウェブページ等の情報で知っていたが,掲載されている写真はどれも平板に見え,平らな壁面に描かれたものとずっと思い続けていた.
実際には,この「最後の晩餐」はギリシア十字型の聖堂の交差部の,後陣に向かって右側のアーチの内側にあり,さらにこの下に「弟子たちの足を洗うキリスト」のモザイクがある.ガイドさんの紹介も無かったので,例によって根気強い妻がこれを見つけてくれた時は狂喜した.
静謐な,いかにもビザンティン風のモザイクらしい「最後の晩餐」だ.なるほどこの時代には,確立された遠近法はないかも知れないし,レオナルドの同主題作品のように劇的でもない.しかし,永遠を瞬間に凝縮したかのような美しさに見惚れる.
キリストの胸に福音史家ヨハネが頭をもたせかけているのは,「ヨハネ福音書」に典拠がある,よく見られる図像だが,そのヨハネに「主よ.それは誰ですか」と裏切者のことを聞くように促したのはペテロなので,であればヨハネの隣にいて,手を上げて問いかけているように見える人物がペテロということになるのだろうか.
ユダはどれだろうか.キリストにもたれかかるヨハネを含め,11人の人物が食卓の長い辺に一列に並ぶなか,真ん中で食卓に手を伸ばしている人物がいる.光輪もあり,財布は握っておらず,若者のように描かれている.これがユダだろうか.特に極悪人には見えないが.それとも右端の短い辺で,キリストに向かい合って座っている人物がそうだろうか.腰のあたりにある茶色のものは銀貨の入った革袋とも思えるが,年配の人物であり,むしろペテロのイメージに近い.この人物も右手を上げている.
下の写真の「ユダの接吻」を見ると,ユダは食卓の真ん中で手を伸ばしている若者の姿形に近い.やはり,手を伸ばしている若者がユダということになるだろうか.


計5つあるクーポラ(丸屋根)のうち,入り口から後陣に向かって縦3つには,「聖霊降臨と十二使徒」,「キリスト昇天と二人の天使に囲まれた聖母と十二使徒」,「若きキリスト(イマヌエル)を囲む聖母と預言者たち」の穹窿のモザイクがあり,「最後の晩餐」は交差部の「キリスト昇天」のクーポラを支えるアーチに描かれている.
クーポラを支える4つのアーチそれぞれには「キリストの物語」が描かれている.最も入口に近いアーチの,後陣に向かって右側に下から「ユダの接吻とエッケ・ホモ(見よ,この人なり)」と「キリスト磔刑」(上の写真)が描かれている.
上の写真の向かって右上方は「聖霊降臨」のクーポラのペンデンティヴの4人天使の1人だが,「キリスト昇天」のクーポラのペンデンティヴは執筆中の4人の福音史家,1番奥のクーポラのペンデンティヴは象徴物で表された四福音史家であることは,撮って来た写真と参考書,
Ettore Vio (ed.), La Basilica di San Marco a Venezia, Antella (Firenze):
Scala, 1999
で確認できる.今回見られていないモザイクも多いので,サン・マルコにまた行きたいという気持ちが高まってくる.
|
写真:
サン・マルコ大聖堂正面
イタリアの教会は
いつもどこかを修理中だ |
 |
サン・マルコ大聖堂の前の広場がサン・マルコ広場(ピアッツァ)だが,鐘楼の所を大聖堂に向かって右に曲がると,小広場(ピアッツェッタ)へと続き,海に向かって視界が開ける.ここで大聖堂と総督宮殿を眺めている時が,最も古き良きヴェネツィアを感じる時かもしれない.
ヴェネツィアでも最も観光客が多い(自分もその1人だが)場所のひとつなので,何度も行くのは躊躇されるが,人が少し散り始めた夕方,夕陽に染まるこの空間にいるのは,至福の時と思えるであろう.
いずれにしても,これからの人生で,あと何度ヴェネツィアに行けるかわからないが,行くたびにサン・マルコ大聖堂と総督宮殿は,外からも中からも見たいと思う.
フェニーチェ劇場 「フェニーチェ劇場」(英語版/伊語版ウィキペディア)の「フェニーチェ」は,「フェニックス」(英語に由来する日本語)と同じく,古代ギリシア語「ポイニクス」(φοῖνιξ)を語源として,「不死鳥」を意味している.
1996年に電気工事をめぐるトラブルによって放火され焼失したが,火から甦る不死鳥のように再生した.ルキーノ・ヴィスコンティ監督の古い映画(1954年の作品なので,56歳の私が生まれる前の映画だ.邦題は「夏の嵐」)などを参考に再建,再開されたのは2003年12月14日のことである.
 |
|
写真:
フェニーチェ劇場 |
内部見学は,もともとツァーの予定に入っていて,再建とはいえ,古き良き時代の社交の場としてオペラ劇場の雰囲気を知ることできたのも良かったが,思いがけず,3月28日公演のグルックのオペラ「アルチェステ」の最終場面のリハーサルをパルコ席から見学できたのが素晴らしかった.
「アルチェステ」はエウリピデスのギリシア悲劇『アルケスティス』を原作として,夫の身代わりになって死んだ妻を,夫の友人のヘラクレスが冥界から連れ戻して生き返らせるハッピーエンディングのオペラだ.
リハーサルなので服装こそカジュアルだったが,指揮者,演出家,歌手,合唱団,オーケストラの緊迫したやりとりを目の当たりにし,どのように作品が作り上げられていくのか,間近で体感することできた.
フェニーチェ歌劇場のHPで,この公演について確認したところ,アドメート(アドメトゥス)はマーティン・ミラー,アルチェステ(アルケスティス)はカルメーラ・レミージョ,演出はピエール=ルイージ・ピッツィだったらしい.
指揮はギョーム・トゥルニエールというフランス人で,フェニーチェ歌劇場の来日公演の際のウェブ・ページの情報に拠ると,1992年から指揮者の経歴があり,フェニーチェ歌劇場でも合唱指揮の経験があると記されていた.
演出家は比較的高名で,歌手と指揮者は初めて聞く名前だったが,緊張感に満ちた高水準の本番が予想される素晴らしいリハーサルだった.
トゥルニエールとミラーも私が知らないだけで,国際的に活躍しているアーティストのようだ.レミージョに関しては英語版ウィキペディアに紹介がある.1973年アブルッツォ州ペスカーラで生まれたソプラノ歌手で,世界中の有名な劇場で歌っているようだ.
演出家のピッツィはミラノ生まれのやはりイタリア人だが,1930年生まれなので,今年85歳のオペラ界の重鎮ということになる.若い指揮者の後ろで,厳しい指示を出していた大物感溢れる老人が彼だったのだろう.
歌手たちも「マエストロ」と呼びかけ,敬意は払いつつも,トゥルニエールに対して遠慮のない質問をしていた.オペラの世界では「若手」とはいえ,92年からすでに20年以上のキャリアを積んでいる指揮者が,前後からの難しい注文に応えながら,ピットのオーケストラを率いて音楽づくりをしていく姿には感動した.
バロックとモーツァルトの間の時代のオペラ改革者グルックの「アルチェステ」を私は実演で見たことはないが,CDは複数持っており,NHKで放映されたガーディナー指揮のフランス語版「アルセスト」を見たことがあって,授業でも時々紹介している.ウィーン初演(1767年)のイタリア語版に,バレエを加えたパリ上演(1776年)のフランス語版で見る限り,原作のギリシア悲劇に勝るとも劣らない傑作だ.
不死ではないが,甦りの話なので,フェニーチェ劇場にふさわしい演目だろう・
英語版ウィキペディアに拠れば,ピッツィは1984年と85年にも同作品の演出をジュネーヴとパリで行っているが,多分,場所から言ってフランス語版だったのだろう.モンテヴェルディの「オルフェーオ」も1884年にフィレンツェ,2008年にマドリッドで演出している.
トゥルニエールに,穏やかだが妥協しない指摘を繰り返していた長身の老人がピッツィだったのだと信じたい.1985年にヘンデルの「「リナルド」を演出しており,早い時期からバロック・オペラにも関心を示し,ロマン派の作曲家だが,トロイア戦争とローマ建国伝説に取材したベルリオーズの「トロイア人」の演出も1990年に手掛けている.この時の指揮者はチョン・ミュンフンだったようだ.
久しぶりに,イタリアは美術だけではなく,音楽も良いなという今更ながらの感想を抱く体験をした.美術だけでなく音楽にもヴェネツィア派があったことを英語版ウィキペディアが整理,紹介している.
フランドル出身のアドリアン・ヴィラールトが,サン・マルコ大聖堂の楽師長(マエストロ・ディ・カッペッラ)に就任した1527年からその死の62年まで,彼の影響を受けたと考えられる音楽家たちがヴェネツィアで育った.
やはりフランドル出身で,ヴィラールトの死後短期間,サン・マルコの楽師長となったチプリアーノ・デ・ローレがヴィラールトにヴェネツィアで教えを受けたという伝承に関しては,現在では否定的見解が出されている(リンクした英語版ウィキペディアと日本語版ウィキペディア「チプリアーノ・デ・ローレ」)らしいが,クレモナ出身でパドヴァで亡くなったコスタンツォ・ポルタ,キオッジャ生まれで,音楽理論家としても知られ,1565年デ・ローレの後任のサン・マルコ楽師長となり,死の1590年までその地位にあったジョゼッフォ・ツァルリーノ,サン・マルコの首席オルガン奏者を務めた,パドヴァ出身でグラーツで亡くなったアンニーバレ・パドヴァーノ,その後任となり,現代までオルガン名曲を残している,画家コッレッジョの生地として知られる同名のエミリア・ロマーニャの小都市出身でパルマで亡くなったクラウディオ・メールロ(画家の死が1534年,オルガニストの生年が,1533年であることを知ると,ルネサンスの新進の画家のイメージのあるコッレッジョと,昔のオルガン作曲家という印象を持ってしまうメールロの前後関係に驚く.この時点でヴェネツィアを含むイタリアは音楽の発展途上国だったのだ)などがヴェネツィアで活躍した.
メールロが首席オルガン奏者だった時に第2オルガン奏者だったアンドレーア・ガブリエーリ,その甥で,叔父と親交があった大作曲家オルランドゥス・ラッススにミュンヘンで師事して,帰国後メールロの後任となったジョヴァンニ・ガブリエーリが,ヴェネツィア出身で,ヴェネツィアで亡くなった音楽家たちだ.アンドレーアはヴィラールトの弟子,ジョヴァンニはアンドレーアの弟子という風に,ヴェネツィアにおける学統も,サン・マルコ大聖堂を中心に形成された.
アンドレーアもドイツを訪ねて,ミュンヘンでラッススと親交を結び,ジョヴァンニははそのラッススにミュンヘンで師事し,ジョヴァンニがヴェネツィア音楽の中心的存在となったとき,そのもとで「ドイツ音楽の父」と呼ばれるハインリッヒ・シュッツが学んだ.
こうした国際性は,イタリアが当時は音楽としては当初発展途上にあり,ヴィラールトやラッススの出身地フランドルの影響を進んで受け入れたこと,ガブリエーリ一族が,アルプスの麓のフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州のカルニア出身で,その地はバイエルンなどドイツ系の君侯の支配も受けたことがあること,また活躍の舞台ヴェネツィアが,伝統的にドイツ人,スラヴ人,ギリシア人,アラブ人,トルコ人が行きかう国際都市であったことが背景にあったであろう.
ジョヴァンニは,パレストリーナの次世代を担うイタリア最大の音楽家となり,イタリアの音楽がルネサンス(皆川達夫の考えではマニエリスム)からバロックに移行していく時代を支えた.ジョヴァンニの死は1612年である.
この間,楽師長の地位は,ツァルリーノ(1590年まで)から,バルダッサーレ・ドナート(1603年まで),ツァルリーノと同じくキオッジャ出身のジョヴァンニ・クローチェ(1609年まで),ヴェローナ出身のジュリオ=チェーザレ・マルティネンゴに引き継がれた.
1613年マルティネンゴの死後,その後任となったのが,クレモナ出身で,既にマントヴァの宮廷で活躍していたクラウディオ・モンテヴェルディであった.彼の活躍やその偉大さについては今さら言うまでもないであろう.
モンテヴェルディの師は,クレモナ大聖堂の楽師長だったマルカントニオ・インジェニエーリとされている.
インジェニエーリはパレストリーナの影響を受けた作曲家と考えられているが,彼がヴェネツィア共和国支配下のヴェローナで,ヴェネツィア出身の家系に生まれ,パルマで音楽のヴェネツィア派形成に深くかかわったかもしれないチプリアーノ・デ・ローレに師事し,1550年代にヴェローナに滞在したアンドレーア・ガブリエーリに影響を与えたとされる(英語版ウィキペディア「アンドレーア・ガブリエーリ」)ヴェローナ大聖堂楽師長ヴィンチェンツォ・ルッフォに同地で師事したらしいことが,モンテヴェルディと音楽のヴェネツィア派を結びつけることになるかどうかはわからない.
しかし,モンテヴェルディが,サン・マルコの楽師長となって,ヴェネツィアの,イタリアの,世界の音楽を変革したことは,誰にも異論がないだろう. |
音楽のバロックは,彼から始まったと言っても過言ではなく,モンテヴェルディがヴェネツィアで活躍したことが,後に同地から,トマーゾ・アルビノーニ,アレッサンドロ・マルチェッロ,ベネデット・マルチェッロ,アントニオ・ヴィヴァルディと,作曲家が輩出していることにつながると言うのは単純すぎる発想かもしれないが,無関係ということは無いだろう.
アルビノーニとマルチェッロ兄弟は貴族の出身なので,天才ではあってもプロの音楽家とは言えないであろうが,ヴィヴァルディはヴァイオリニストの子として生まれ,父も本人もサン・マルコの楽団でヴァイオリン奏者でもあったので,やはりサン・マルコの音楽とは切り離せない.
なお,音楽のヴェネツィア派もしくはヴェネツィア楽派というとき,アルビノーニ,マルチェッロ兄弟,ヴィヴァルディなど17世紀後半以降の作曲家たちは入れないようだ.絵画におけるティエポロ(18世紀)のように後期ヴェネツィア派とか,第2次ヴェネツィア派と言うような言い方もしないようだ.
16世紀に活躍した絵画のヴェネツィア派の3巨匠のうち,最も若いヴェロネーゼ(生まれはヴェネツィアではなくヴェローナだが)が生まれたのが,1528年で,アンドレーア・ガブリエーリが1530年代前半の生まれとされるので,やはり音楽のヴェネツィア派は,絵画にくらべて遅い出発だったと思われる.
ヴィラールトがサン・マルコの楽師長となった1527年は,ティツィアーノがサンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ教会の「聖母被昇天」を描いてから既に10年が過ぎ,ジョヴァンニ・ベッリーニの死後11年が経っていた.
「 |

サン・マルコ大聖堂のバルコニーで
小広場の向こうに海を見る
|
|

|
|