フィレンツェだより
2007年5月16日


 




考古学博物館
(クロチェッタ宮殿)



§文化週間 第3弾 −考古学博物館−

第4弾の報告が先になったが,一昨日は,「文化週間」便乗第3弾として,フィレンツェ考古学博物館に行った.


 この博物館は,サンティッシマ・アヌンツィアータ広場の角の交差点を渡ったところのクロチェッタ宮殿の中にあり,17世紀前半に建てられたこの宮殿自体にも由緒があるそうだ.主にエジプト,エトルリア,ギリシア,ローマの遺物を収蔵している.



 フィレンツェ近傍のフィエーゾレはラテン語ではファエスラと言い,キケロの『カティリーナ弾劾演説』にも2箇所言及がある古いローマの植民都市だが,それ以前からエトルリア人の都市があったことが良く知られている.

 トスカーナという地名も,ラテン語でエトルスキーと同じ意味のトゥスキー,すなわちエトルリア人たちの住む地域ということだろう.英語でトスカーナを意味するタスカニー(Tuscany)の綴りにその痕跡が残っている.

 したがって,エトルリアに関する収蔵品が充実しているのはよくわかる.大変なものである.ギリシア文化の影響も彼らの独自性も,それぞれ想像させてくれるのに十分な質量の展示物だと思う.未公開のものや修復中のものを含めると,大変な遺産を抱えていることになるだろう.

 図式的に言うと,ローマ人もしくはラテン人に対して先進的な位置を持っていたエトルリア人が,独自の文化にギリシアからの影響を受け,それがローマ文化の基礎になっているということになるだろうから,ギリシア本土からの渡来物,またギリシア人の植民都市が栄えた南イタリアで作られたものが多いのもよくわかるし,後にエトルリアは逆にローマの支配を受けるわけだからローマ時代の遺物が多いのも理解できる.

 意外だったのはエジプト関係の展示物が非常に充実していることだ.トリノの博物館についでイタリア第2位の充実度だそうである.

写真:
古代エジプトの展示品も
様々なものがある


 ローマがエジプトに影響力を持ったり,支配してから後の時代なら,広く地中海文化ということでエジプト産のものが出土することもわかるのだが,先史時代,古王国,中王国,新王国といった,ヘレニズム時代以前のエジプトのものがかなりあって,しかも実物のミイラの展示があったりすると,一体どうやって集めたのだろうと疑問に思ってしまう.

 イギリスとかフランスのような帝国主義の大国ならともかく,トスカーナ大公国がそれほど海外に影響力を持っていたとは思えないのだが,ヨーロッパ人が古代エジプトの遺物を集めたがり,お金を出せばある程度以上のものが手に入った時代があったということなのだろう.

 ここでも課外授業の小学生たちが先生の説明を一所懸命に聞いていたが,エジプト部門だけで十分以上に考古学博物館の役目を果たしている.




 入り口付近に,文化週間にちなんで行なわれる特別講演に関連した展示コーナーがあって,オイディプスの息子たちで,王位を争って相打ちに果てたエテオクレスとポリュネイケスの物語がテーマに選ばれていた.

 エトルリアの骨灰用石棺に,好んでこの伝説が用いられたようで,実際に幾つか展示されていたが,下の写真のものが一番見事なように思われた.

写真:
骨灰用石棺に刻まれた
オイディプスの息子たちの物語


 このコーナーには当時の遺物を一部使って復元した「戦車」(馬がひくchariot)もあって,興味深かった.

 中庭にはエトルリア人の墓が復元されていた.盛り上がった塚は,そのまま古墳のイメージである.

写真:
エトルリアの墳墓(復元)


 エトルリアの遺物は,彼ら独自のもの,ギリシア文化の影響を受けたものと様々あり,絵や模様の入った壺,骨灰用石棺,銅鏡,ブロンズ像,装飾品と種類も豊富だった.

 その中で,「弁論家」という通称を持つ有名なブロンズ像は修復中で見られなかったが,街の土産物屋にもコピーが売られている「キマイラ像」は傑作の名にふさわしいものだった.

写真:
エトルリアのブロンズ像
「キマイラ」


 館内は写真撮影が許されていたが,係員の人たちが窓際の良い場所を占領して私語に夢中になっており,キマイラを撮りたくても立ち往生している人が多かった.私の撮った写真も角度が悪くて(?)没にせざるを得ないが,妻の撮ったものがかろうじて雰囲気を伝えているので掲載する.

 あちこちの土産物店で見かけるミケランジェロのダヴィデ像のマスコットはいらないが,キマイラのレプリカは私も自分用の土産にほしいと思っている.


ギリシアの影響
 エトルリア人はローマ人に影響を与えた.ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』では,トロイアから亡命してきたアエネアスがラテン人たちに君臨してローマ人の祖先となるのを,エトルリア人が助ける.ローマの伝説の王たちの中にもエトルリア系の者たちがいる.

不幸にしてエトルリアの言語も民族も歴史の中に消えてしまったが,ローマに多大な影響を与えるという形で,彼らの文化は生き残っていく.


 しかし,彼らもまた自らの独自性に加えて,先進性と魅力に溢れたギリシア文化の影響を受けた.ローマは地中海世界を制覇していく過程でヘレニズム文化を通じて直接にギリシアの影響を受けていくが,初期のローマにギリシア文化を伝えたのは,エトルリア人と南イタリアに植民都市を築いていたギリシア人であろう.

 この博物館の古代ギリシア壺絵コレクションも相当のものだ.

 下の写真は,アテネの王子テセウスがクレタ島の迷宮にいた半牛半人の怪物ミノタウロスを退治する絵柄の壺だ.紀元前6世紀から5世紀にかけてアテネで作られたものらしい.クレイステネスの改革からペルシア戦争の時代である.

写真:
古代ギリシアの壺絵
退治されるミノタウロス
紀元前6世紀から5世紀



古代作家の彫像
 最後の部屋にブロンズの胸像が4つあった.ホメロス,アイスキュロス,ソポクレスと,誰か不明の男性のものである.先日行ったサン・ジミニャーノを海のほうに真西に向かうと,ピサとシエナとの間にリヴォルノという町があり,こちらではよく耳にする地名であるが,このリヴォルノ近辺で1722年に発見されたそうである.

 フラウィウス朝というから,ウェスパシアヌス,ティトゥス,ドミティアヌスの三代の皇帝を出した紀元後1世紀後半のローマ時代の「王朝」以降の,ギリシア原作からコピーとも考える人もいるが,ルネサンス時代に模刻したものである可能性が高いそうである.

 購入した英語版ガイドブックには,他の作品は製作年代を古代にしているのに,この4つの胸像を代表して掲載されたホメロス像には16世紀後半から17世紀初頭の作とあって,みもふたもない.

  しかし,一目見てそれとわかる古代作家の胸像があり,しかも写真撮影可だったので,3人の古代作家と記念写真を撮ってもらった.今回は最初のコーナーの特別展示が,先日見た歌劇「アンティゴネ」とも関連していたので,敬意を表してソポクレス先生と一緒の写真を掲載する.

ソポクレスの胸像の隣で
喜色満面の男


 韓国人の若い女性が,妻に英語で話しかけてきて,デジカメを差し出し,ホメロスとアイスキュロスの間で写真を撮って欲しいと言った.妻が撮ってあげて,モニターで確認を求めると,確認の後,英語で丁寧にお礼を言って,最後に「どうもありがとうございます」ときれいな日本語を話してくれた.「どういたしまして」と妻が答えて別れた.

 西洋古典文学もヨーロッパ人だけのものではない時代が来るかもしれない.愛好家がたくさんいることが大事なのだ.クラシック音楽の愛好者が多いので,その土壌からチョン・ミョンフンや大野和士を輩出したように.





エトルリアの骨灰用石棺に囲まれて
考古学博物館