§2014ローマの旅 - その11 ヴィラ・ジュリア・エトルリア博物館
自由行動の5日目(8月15日),念願のヴィラ・ジュリア・エトルリア博物館を見学した. |
今まで,エトルリアの遺産を,
フィエーゾレ考古学博物館
フィレンツェ国立考古学博物館
フィレンツェ大聖堂博物館
コルトーナ・エトルリア・アカデミー博物館
オルヴィエート市立考古学博物館
パレルモ州立考古学博物館
ヴォルテッラ・エトルリア博物館
で見ている.ルーヴル美術館とヴァティカンのグレゴリアーノ・エトルリア博物館にも,立派な収蔵品があるが,それぞれ他分野の展示を優先したため,これらはまだ見ていない.また,アレッツォとペルージャにも有名な博物館があるが,これも,教会,美術館等を優先したため,未見である.
エトルリアに関する参考図書
この報告をまとめるにあたって,架蔵している下記の日本語著訳書,
シビレ・クレス=レーデン,河原忠彦(訳)『エトルリアの謎』みすず書房,1965
ヴェルナー・ケラー,坂本明美(訳)『エトルリア ローマ帝国に栄光を奪われた民族』佑学社,1990
ジャン=ポール・テュイリエ,松田廸子(訳)『エトルリア文明 古代イタリアの支配者たち』(「知の再発見」双書37)創元社,1994(以下,テュイリエ)
マッシモ・パロッティーノ,小川熙(訳)『エトルリア学』同成社,2014(以下,パロッティーノ)
同,青柳正規(編訳)『エトルリアの壁画』岩波書店,1985(以下,『壁画』)
ラリッサ・ボンファンテ,小林標(訳)『エトルリア語』(大英博物館双書6)學藝書林,1996(以下,ボンファンテ)
アネッテ・ラッチェ,大森寿美子(訳)『エトルリア文明 700年の歴史と文化』遊タイム出版,2001(以下,ラッチェ)
池田正三『エトルリア芸術逍遥』大阪芸術大学出版局,1985
三輪福松『エトルリアの芸術』中央公論美術出版,1968(以下,三輪)
を参考にした.他にも英語,イタリア語の本をそれぞれ数冊ずつ持っているが,今回は以上の著作の一部とウェブページの情報を参考にしてまとめる.G・ボルドリーニ,榊原晃三(訳)『エトルリアの秘密』(ぎょうせい,1989)と言う本も所蔵しているが,エトルリアの歴史と文化を紹介するために書かれた一種の小説で,読み物としてはおもしろいかも知れないが,今回は参考にしない.
分かりやすさではテュイリエとラッチェが双璧だが,ヴィジュアルへの配慮と,企画構成,また入手しやすさの点からも,テュイリエをまず参考にすべきだろう.
上記に挙げた参考文献の他に,非専門家である文学者が書いた作品として,プロスペル・メリメの『エトルリアの壺』(杉捷夫訳,岩波文庫),D.H.ロレンスの『エトルリアの遺産』(土方定一/杉浦勝郎訳,美術出版社)があり,これらは有名だろう.
前者は「エトルリア」が,作品の主題にほとんど本質的な意味を持っておらず,エトルリアについて考える参考には全くならないが,神秘的な空想を抱かせるタイトルであるのは間違いない.この翻訳があることで,多くの日本人は作品そのものは読んでいないにしても,「エトルリア」という語についてなにがしか異国情緒のイメージを与えることに貢献したのではないかと思う.
それに比べると後者は,作家自身に付随するイメージは古代とは結びつきにくいが,実際にエトルリアの故地を訪れ,自分の目で見,自分の感性で叙述していて,これは読者にエトルリアへの憧憬をかきたてる傑作と言えよう.
章立てとして使われている,チェルヴェテリ(英語版/伊語版ウィキペディア),タルクィニア(英語版/伊語版ウィキペディア),ヴルチ(英語版/伊語版ウィキペディア),ヴォルテッラと言う地名は,全て現在のイタリア語名ではあるが,エトルリアの歴史を考えさせる.
この作品は,未完で死後出版のようだが,生涯,未訪のアレッツォ,コルトーナ,キウージ,オルヴィエート,ノルキア(英語版/伊語版ウィキペディア),ビエダ(=ブレラ)(英語版/伊語版ウィキペディア)のことが気にかかっていたらしく,ロレンスのエトルリア愛好は本物だったと思える.専門的見地からは批判もあろうが,できれば原文で読んでみたいと思わせる迫力を感じさせる.
エトルリアとフェニキア
上記の参考図書のうち,言語について書かれたボンファンテを繙くと,下の写真の3枚の金の板の紹介がある.2枚はエトルリア語,1枚はフェニキア語で書かれており,両者の内容がほぼ同じようなので,発見時にはロゼッタ・ストーンが古代エジプト文字解読に果たしたのと同じ役割が期待された.
しかし,全くの逐語訳ではなく,大意が同じと言う程度だったので,仮にシャンポリオンやトーマス・ヤングのような天才が取り組んだとしても,エトルリア語そのものの飛躍的解明にはつながらなかったであろう.それでも,同じくこれを取りあげているテュイリエに拠れば,数字など幾つかの点で,エトルリア語解明に大きな貢献をしたとのことだ(p.47).

写真:中央はフェニキア語,左右2枚はエトルリア語(展示は複製で本物は銀行の金庫)
ピルジ出土 前500年頃 |
エトルリア文字は,ギリシア文字を参考に造られ,ギリシア文字は,子音のみだったフェニキア文字に「子音+母音」のシステムを導入して,現在のアルファベット方式を確立したとされる.他の箇所でも触れたが,ギリシアを代表する歴史家ヘロドトスは自分たちの文字(ギリシア文字)を「フェニキア文字」と言っている.
古代の地中海世界と言えば,私たちはギリシア,ローマを想起するが,フェニキア人が重要な役割を果たしたことを忘れてはならない.ヨーロッパの名祖とも言うべきエウロパ(エウローペー)はフェニキアのテュロス王女で,ゼウスとの間にクレタ王ミノスを産んだとされ,行方不明となった彼女を探しに西進した兄カドモスがギリシアはボイオティアの地にテーバイを建都し,オイディプス王の祖先となったとされる.
彼らの造船技術,航海術,通商慣習,植民都市建設が地中海の多民族に大きく影響したことは間違いない.
エトルリア人の起源は,小アジア出身とするヘロドトスの証言,土着の民とするハリカルナッソスのディオニュソスの反論にも関わらず,未だ謎のままだが,相当に古い時代からイタリアに定住していたのは間違いないであろう.ヴィッラノーヴァ文化(英語版/伊語版ウィキペディア)と称されるイタリアの先史文化(最初期の鉄器文化)の一つにも,エトルリア人が関わっていた可能性は高いようだ.
とすれば,
エトルリアの歴史の概略としては.
ヴィッラノーヴァ文化(9世紀)
草創期(オリエントの影響)(8世紀)
発展期(7世紀)
最盛期(6世紀)
衰退期(5世紀以後)(以上,全て紀元前)
に分けられるだろうか.
エトルリア人(英語版/伊語版ウィキペディア)はアレクサンドロス以前のギリシア人同様,民族に拠る広域統一国家を形成しなかった.ただ,有名な12都市同盟があり,これらを含む民族の紐帯としての宗教的中心地があり,そこで,ギリシアで言えばオリュンピア競技会のような,民族全体に求心的影響力を持つイヴェントが行なわれ,デルフォイの神託所のような,精神的拠り所の役割を果たしたらしい.
12都市については,諸説あるようだが,一応,エトルリア語名/ラテン語名/イタリア語名と整理すると,
カイスラ/カエレ/チェルヴェーテリ(英語版/伊語版ウィキペディア)
タルクネ/タルクィニー/タルクィーニア(英語版/伊語版ウィキペディア)
ウェルク/ウルキーもしくはウォルキー/ヴルチ(英語版/伊語版ウィキペディア)
ウァトゥルナ/ウェトゥローニウム/ヴェトゥローニア(英語版/伊語版ウィキペディア)
ププルナ/ポプローニウム/ポプローニア(英語版/伊語版ウィキペディア)
ウェイ(ス)/ウェイイー/ヴェイオ(英語版/伊語版ウィキペディア)
ウェルズナ/ウォルシニイー/(現在のオルヴィエートと考えられるが,名称としては移転先のボルセーナが後継)
クレウシン/クルシウム/キウージ(英語版/伊語版ウィキペディア)
ペルスナ/ペルシア/ペルージャ(英語版/伊語版ウィキペディア)
ウェラトゥリ/ウォラテッラエ/ヴォルテッラ(英語版/伊語版ウィキペディア)
アリティム/アッレティウム/アレッツォ(英語版/伊語版ウィキペディア)
クルトゥン/コルトーナ/コルトーナ(英語版/伊語版ウィキペディア)
とされることが多いようだ(英語版,伊語版ウィキペディアなど).
テュイリエは,ポプローニアの代わりに,
ウィスプル/ファエスルム/フィエーゾレ(英語版/伊語版ウィキペディア)
を入れている.フィエーゾレはアルノ川北岸の山地なので,これが入ると,いかにもエトルリア人の勢力圏が広い感じがして,説得力があるが,その代わりにポプローニアを外すとしたら,鉱物資源に恵まれたエルバ島の対岸にある港湾都市で,その重要性は捨て難いようにも思える.
ヴィッラノーヴァ文化を継承し,東方の影響を受けながら,独自の文化を発展させたエトルリアの発展は,農業生産と鉱物資源の確保を踏まえ,海上でも陸路でも交易を行なって,経済的繁栄を謳歌したことが主たる原因であろう.
陸路ではテヴェレ川を越えて,ローマ,プラエネステ(パレストリーナ),カプアまで進出し,ギリシア人の植民都市の北限であるキュメ―(ラテン名クマエ)にも影響を及ぼすようになった.エルバ島などの鉱山を支配下に置き,交易路を確保するために,ティレニア海(「エトルリアの海」を意味する)制海権を握ったが,その大きな助力となったのが,カルタゴ人(フェニキア人)との同盟関係であった.
海洋商業民族であるフェニキア人は,ギリシア人に文字使用を教えたが,エトルリア人は,直接にはギリシア人との交流を通じて,エトルリア文字を発明したようだ.しかし,政治的,軍事的には,シチリアや南イタリアに多くの植民都市を築いたギリシア人を抑えるためにフェニキア人と手を握った.
このことがエトルリアに繁栄をもたらし,特にコルシカ島東岸のアレリア沖の戦い(前540-535年)でカルタゴと連合してギリシア人を撃退したことで,彼らは絶頂期を迎える.
上の写真の金の板に書かれた内容は最高神への奉献文であるらしいが,それはともかく,エトルリア語の他にフェニキア語が記されている背景にこうした時代状況があった.
エトルリアからローマへ
フェニキアとの同盟関係を背景に繁栄を謳歌したエトルリアだったが,前509年には,ローマでエトルリア人であった王が追放され,ラティウム地方における覇権に翳りが見え,アペニン山脈を越えて進出していたポー川流域にケルト人が勢力圏を築きはじめ,北からも脅威が迫った.
さらに前474年,キュメ―沖の海戦で,西地中海のギリシア人勢力の中心であるシチリアのシュラクサイの僭主ヒエロン1世に敗れ,ティレニア海の制海権も失う.
それに先立ってヒエロンの伯父でやはりシュラクサイの僭主だったゲロンが,ヒメラの戦いで,第2次ペルシア戦争に乗じてペルシアと連携したカルタゴを撃破した.サラミスの海戦と同年の前480年のことである.
こうした,ペルシア人,ギリシア人,フェニキア人が絡んだ国際情勢の中,ケルト人の進出,ローマの勃興があって,エトルリア人はその勢力を喪っていく.エトルリアの有力都市ウェイイーが,百年近いローマとの抗争を経て,前396年に陥落したのを皮切りに,エトルリアの諸都市が次々とローマの勢力圏に組み込まれ,ポエニ戦争を通じて,カルタゴも,南イタリアのギリシア人諸都市もローマの支配下に入る.
エトルリアは歴史の大波の中で,その独立を失っていき,エトルリア人の多くは,帝国化したローマで新たな「ローマ人」となる.エトルリア語は使用されなくなり,エトルリア人と言う「民族」は歴史から消えたが,その制度,宗教,文化は「ローマ帝国」を通じて,後世のイタリア,ヨーロッパに引き継がれて行くことになる.
ネクロポリスの出土品 エトルリアと言えば「ネクロポリス(英語版/伊語版)」(死者の町)と通称される墓域が知られ,多くの場合,華やかなフレスコ画で装飾され,様々な副葬品が出土している.
現在は,壁からフレスコ画を剥離して移動させることもできるわけだから,どこかで目にしていても不思議はないのだが,これまでエトルリアのネクロポリスのフレスコ画を観たことは多分ないと思う.
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写真:
オリジナルなフレスコ画を
使用して再現した墓の内部
タルクィーニア出土
「葬送寝台の墓」
前470-460年頃 |
ヴィラ・ジュリアには,タルクィーニアの「葬送の寝台の墓」(tomba del letto funebre)と称される墓から剥離したフレスコ画が,墓を再現する形で展示されている.
この絵に関して,『壁画』にカラー写真(写真番号110-112)と詳細な解説(pp.325-326)があった.ギリシア,特にアッティカ地方の影響が色濃いとされている.同書では,剥離された後,タルクィーニアの博物館に展示されているとあるが,コピーであるとの情報がない以上,現在は(少なくとも私たちが観た時点では)ヴィラ・ジュリアに寄託,展示されているということであろう.
宴会の場面,アウロス笛奏者,踊り手,円盤投げ競技者,馬を使った曲乗り芸人,波間に跳ねるパターン化されたイルカの他に,4色の市松紋様や,コズマーティ装飾のように連続する円と植物文様の天井装飾が印象に残る.エトルリアの壁画の中でどのくらいのレヴェルの作品かは,これしか見ていないので判断がつきかねるが,代え難い体験をしたように思われる.

ヴィラ・ジュリア博物館の案内書や紹介写真で,最も目を引く作品といえば「夫婦の棺」と言われるこのテラコッタの棺と,「チェルヴェーテリのアポロ」(次の次の写真の中央)であろう.後者もテラコッタ製であることを考えると,エトルリア芸術におけるテラコッタの占める位置の高さが察せられる.
「夫婦の棺」が通常言われるように紀元前520年頃の作であれば,ギリシア古典彫刻の最盛期以前であり,素朴な味わいから理想主義的リアリズムに急速に進化したギリシア彫刻とは,全く違う作風で,古代に興亡した民族の相互影響と,それぞれの個性を二つながら考えさせられる.
鼻梁の高さから,エトルリア人はコーカソイドと思われるが,言語系統的にはインド・ヨーロッパ語族に属していない言語を使用していたと考えられており,エトルリア人の起源はやはり謎のままと言えるだろう.
短絡的な結論は避けなければならないが,人種と言語の間には必然的関係は無いとは言え,コーカソイドでインド・ヨーロッパ語族系の言語を使用しない民族は,バスク人,ユダヤ人,アラブ人,ムーア人など少数だろう.フィンランド,エストニア,ハンガリーでも非インド・ヨーロッパ語族系の言語が使用され,多くの国民はコーカソイドに見えるが,これは長い歴史の過程での混血の結果であろう.
中央アジアから来て,現在はアナトリアにあるトルコ共和国の人たちに,見た目が白人に見える人が少なくないのと同じ理屈だろう.しかし,エトルリア人はおそらくもともとコーカソイドであったのだろう.民族としては歴史の中に消えたが,トスカーナの人たちは,後に人工的に復活した記憶であるとは言え,自分たちがエトルリア的要素の継承者であると意識しているようだし,そもそもエトルリア人の多くがローマの市民権を得て,帝国化して行くローマに取り込まれた.
トスカーナのラテン語名がエトルリアであることに気が付いたのは,フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂のメディチ家礼拝堂で,トスカーナ大公の墓碑を見た時だが,ラテン語ではエトルリア人をエトルスキーともトゥスキーとも言うことを思い出せば,エトルリアは前者と,トスカーナは後者と語源的に繋がることは容易に想像がつく.
浅浮彫の石棺パネルはフィレンツェの大聖堂博物館でも見ているし,パレルモで見たキウージ出土の浅浮彫石棺は他にもあるが,下の写真の浅浮彫を紹介するのは,書記役が彫り込まれているからだ.ある時期から(前8世紀),エトルリアが文字使用社会となり,識字率は高かったどうかわからないが,この石棺が造られた時代には,文字使用は珍しくなかったことがわかるものとして,ボンファンテも紹介している.
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写真:
競技の勝利者の名前を記述する書記
キウージで発掘された石棺の浅浮彫
パレルモ州立考古学博物館
(2008年3月撮影) |
それだけでも貴重な作例だが,書記の前にいる兵士の格好の競技者と,その後ろにいる踊っている女性はこの浮彫の場面が,何らかの武術と舞踊の競技会の勝利者を名簿に登録している場面と考えられる.ギリシアの競技会は,一般市民も参加したのに対し,エトルリアではプロの競技者が技を競った(テュイリエ,p.124)とされ,その点も興味深い.
この浮彫だけで,それを察することはできないと思うが,上の写真の向かって右側にはアウロス笛(二本連結縦笛)の奏者,書記の後ろ側になる左側には1人の半身は収められており,審判者の印と考えられる杖を持っている.さらにもう1人の審判者が彫り込まれ,さらに書記と審判者が座る台の下には,賞品と思われるワインの入った皮袋が置かれている(テュイリエ,p.123の写真解説).
上の写真はスペースの関係で,書記と競技者の両側はカットしたが,自分が撮った写真にも,上記の要素は全て写っている.この写真を撮った時,パレルモで,トスカーナのキウージ出土のエトルリアの遺産が観られるとは思っていなかったが,フィレンツェの大聖堂博物館で観たアウロス笛奏者の浅浮彫がある石棺パネルに似ているように思え,注目した.
記憶が曖昧だが,やはり強烈に魅力的な,セリヌンテの神殿のメトープにあったペルセウスやアポロンの高浮彫の近くに展示されていたと思う.同じ部屋ではなく,隣室だったかも知れないが,ともかく間を置かずに見たと思う.
2008年3月なので,既に1年間のフィレンツェ滞在が終わろうとしていた頃で,イタリアで古代ローマ,中世,ルネサンス,バロック,近現代のイタリア以外の遺産が見られることに,既に驚きはしなかったっが,似ているようでいながら多様な古代遺産の豊かな個性を,パレルモの考古学博物館にいた,その短い瞬間に深く印象付けられた.
エトルリアにおけるギリシア神話
下の写真は, ヴェイオ近郊ポルトナッチョのメネルウァ(ミネルウァ)聖域の神殿のアクロテリオン(屋根飾り)で,「チェルヴェーテリのアポロ」と呼ばれる中央のアポロ像は特に有名である.
このアポロがヘラクレス(手前)と対峙しているのは,ヘラクレスの十二の功業の1つである「ケリュネイアの鹿」をめぐって,それがアポロの姉妹アルテミスの聖獣であることから,争ったと言うギリシア神話に基づく場面と考えられているのであろう.
この想定が正しければ,6世紀には既にエトルリア人はギリシア神話を受け容れていたことになる.ローマ神話同様,対応する神をギリシア神話の神になぞらえていたようだが,そもそもアポロとヘラクレスに関してはそのエトルリア名がギリシア語から派生したものであり,エトルリア人にとっては,はっきり外来の神々だったことになる.
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写真:
メネルウァ(ミネルウァ)聖域の
アクロテリオン(屋根飾り)
中央:アプル(アポロン)
左:ヘルクル(ヘラクレス)
右:幼子を抱く女神レト
紀元前6世紀後半 |
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同じく,ヘルメス(エトルリア名テゥルム/ラテン名メルクリウス)の頭部や,ゴルゴンの顔のテラコッタの軒先飾りも展示されていおり,前者には対応するエトルリアの神もいるが,つばのある「ペタソス」と言う帽子(ラッチェ,p.58)を被っていることで,やはりギリシア神話の影響を想起させる.
これらの像は,エトルリア芸術の中で,唯一と言っても良い,固有名詞の伝わっているウルカとその工房の作品と考えられており,古典期以前のギリシア彫刻の影響があるとは言え,古拙感に満ちていながら(有名な「古拙の微笑み」をアポロにもヘルメスにも見ることができる),高い完成度を見せ,同時代のギリシア彫刻にはない個性を感じさせる.
それだけ民族的個性の強いエトルリア人のギリシア趣味は,驚嘆に値する現象だろう.宗教そのものに関しては判断を控えなければならないが,宗教を周辺で支える神話に関しては,後世のローマ人同様にギリシア神話を自分たちの文化の中に取り込んだと言うべきなのか,自分たちの文化が取り込まれたと言うべきなのか迷う程,エトルリア人の遺産の中にギリシア神話の図像が見られる.
それが端的に現れているのが陶器である.
エトルリアの遺跡から発掘される陶器は,
ブッケロ式黒陶
コリントス式ギリシア陶器
アッティカ式黒絵ギリシア陶器
アッティカ式赤絵ギリシア陶器
その他
に大きく分類することが可能であろうか.最初のものを除いて,殆んどがギリシアから輸入したか,ギリシアの職人がエトルリアの諸都市で工房を構え,作成したものと考えられる.エトルリア人の職人もいたであろうが,主要な役割を果たしたのははギリシア人の職人と思われる.
そうした嗜好をフィルヘレニズム(ギリシア愛好)と言い,そうした愛好者はフィルヘレストと言うことになるであろうが,ギリシア民族との葛藤がその盛衰の重要なポイントであったエトルリア人が,歴史上並ぶ者が無いほどのフィルヘレニストであったことは不思議な感じがする.
特に彼らにとって衰退に向かう重要な転機となったキュメー沖の海戦以後も,こうしたギリシア愛好が続いたことは驚嘆に値する.
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写真:
「キージのオルペ」 (取っ手付き水差し)
ヴェイオ近郊
「モンテ・アグッツオ墳丘」出土
前640-630年頃
おそらくコリントスで制作 |
上の写真の「キージのオルペ」(英語版/伊語版ウィキペディア)は,イタリア語と英語の詳しい解説を付して,重要作品として展示されていた.
作風から,初期コリントス式の作品と考えられる.多色で多くの図像が描かれており,上下3列に描かれた絵は,上段が密集隊形の重装歩兵(制作はペルシア戦争以前である),下段が一団の犬を連れた3人の短髪の猟師によるウサギとキツネ狩りで,中段が,楯を持った兵士,戦車の御者,戦車から降りた兵士,ライオン狩り,スフィンクスにも見える魔物,そしてギリシア神話の「パリスの審判」と最も多彩である.
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写真:
「パリスの審判」 |
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上の写真は「キージのオルペ」の「パリスの審判」の部分だ.3人の女性が並び,先頭の女性は後頭部のみだが,最後の女性の向かって右側にギリシア文字があり,途中で欠けているが残存の4文字はΑΦΡΟと読め,後ろから2番目の女性の頭部の後ろに7文字ΑΘΑΝΑΙΑと読める.
後者のアターナイアーは,女神アテナはホメロスではアテーナイエーであるから,そのドーリス方言形であろう.すると前者のアプロはアプロディーテー(ドーリス方言形はアプロディーター)であり,後頭部だけの女性がヘーラ―(ホメロスなら,イオニア方言なのでヘーレー)なら,これだけで既に「パリスの審判」を想起させる.
左端に見える槍を振り上げた人物はライオン狩りの図柄の一部だが,その右隣の,女神たちの方を向いた人物は,顔の右側にΑΛの文字が見え,アレクサンドロスと言うパリスの別名であることは,疑問の余地がないだろう.通常,この場面にゼウスの代理としてヘルメース(ヘルメイアース)がいるはずだが,それはヘーラ―の後頭部以外の部分とともに欠けている.
トロイア戦争の遠因と言うより,パリスが美女ヘレネ―(ドーリス方言ではヘレナ―)と結ばれることで,ほとんど直接の原因となってしまうこの物語は,現存する『イリアス』,『オデュッセイア』を含む「叙事詩の環」という一連の作品群(epic
cycle)の中のひとつ,叙事詩『キュプリア』に歌われていた.
『キュプリア』をはじめ「叙事詩の環」の作品群のほとんどは現存しないが,これらが『イリアス』,『オデュッセイア』に続いて,前8世紀に創作されたとすれば,前6世紀に制作されたとされるこの壺(厳密にはオルペ―と言う取っ手付き水差し)は,前5世紀以降のギリシア古典文学やヘレニズム文学に先立って,「パリスの審判」の伝承を証言する貴重な資料と言うことになる.
なお,文字の書かれ方がコリントス式ではなく,アッティカ地方にあるがドーリス方言を話したアイギナもしくは,シチリアのシュラクサイ式とする考えは,英語版ウィキペディアにも,博物館のイタリア語と英語の解説にもあったが,不勉強でそれが何を意味しているのか今はわからない.
コリントスも神話の時代はともかく,歴史時代にはドーリス人の都市国家だったはずで,これに関してはコリントス式の陶器に書き込まれた文字の書き方の知識が無いとわからいないことのように思える.
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写真:
「ポリュペモスの目を突く
オデュッセウスたち」が描かれた
ヒュドリア(水差し)
チェルヴェテリ出土
紀元前520年頃 |
上の写真は カエレでギリシアの職人が製作したヒュドリア(水差し)で,複数の男たちが杭で,巨人の目を突いており,明らかに『オデュッセイア』9巻で歌われた,一つ目巨人(キュクロプス)のポリュペモスへの報復場面が描かれていることがわかる.
ポリュペモスは,客人としての礼を尽くそうとるオデュッセウスに対し,彼の部下を貪り喰らうことで応じ,主人としての義務を果たさず,そうした主客関係の守護神でゼウスに対しても不遜な態度を取って,オデュッセウスの土産のワインを飲んで酔い,その間に一つしかない目を潰されてしまう.
オデュッセウスがあらかじめ「誰でもない者」(英語のno oneもしくはnobody)と名乗って危機を切り抜ける機知とともに良く知られた挿話で,しかも,この行為によってポリュペモスの父である海神ポセイドンの怒りを買い,地中海を十年に渡ってさまようことになる.目を突かれる巨人はおそらくワインが入っているであろう杯を持っているので,物語が短縮されているが,小さなスペースで,物語の概要を示す手法と言えよう.
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写真:
絵:ナッザーノの画家
赤絵式壺絵「トロイアの落城」
(イーリウー・ペルシス)
前370-360年頃 |
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上の写真で,武装した大人が幼児を投げ殺そうとしている右上の図柄は,オデュッセウスがヘクトルの子アステュアナックス(「城市の王」と言うアイロニカルなギリシア語名)をトロイア(イリオン)の城壁から投げ落とそうとしている場面だ.
その左側で矢を構えているのはアキレウスの弱点を射ぬこうとするパリス,その下は襲い掛かろうとする小アイアスから女神アテナがカッサンドラを守ろうとしている場面であろう.さらにその右側がアキレウスの子ネオプトレモス(ピュッロス)がトロイアの王プリアモスを殺そうとしている場面であろう.
上述した「叙事詩の環」の中に『トロイアの落城(イリオンの陥落)』という作品もあったとされる.2大叙事詩以外に現存するものはないが,後代のギリシア悲劇などはここから材源を得ている.もちろん,直接叙事詩に取材しなくてもよく知られた伝承であっただろう.
独自の文化を持ちながら,媒介者ともなって
ヴィラ・ジュリアの案内書は既に持っていると思い込んで,現地では買わずに帰国したら,架蔵しているのはヴォルテッラの博物館の案内書で,急遽イギリスのアマゾンで,英訳版の案内書
Anna Mari Moretti Sgubini ed., tr., Graham Sells, The Villa Giulia National
Etruscan Museum: Short Guide, Roma: <L' Erma> di Bretschneider, 1999
Anna Maria Moretti, ed., tr., Maureen B. Fant, Villa Giulia Museum: The
Antiquities of the Faliscans, Roma: <L' Erma> di Bretschneider, 1998
を購入した.後者のタイトルにある「ファリスカン」が何であるかを意識して買ったわけではないし,現地でも特に何か展示の違いに気が付いたわけでもなかったが,2冊のガイドブックが手元に届いて,一体ファリスカンとは何だろうかと疑問に思った.
ストラボンという紀元前1世紀に生まれ,紀元後1世紀まで生きたギリシア人作家の『地理書』(邦訳は,飯尾都人『ギリシア・ローマ世界地誌』龍渓書舎,1994)に拠れば,現在のラツィオ地方のテヴェレ川北岸地方に住むファリスキー人は,エトルリア人とは別の出自を持つ民族とされる.使用言語も,ラテン語と同じくインド・ヨーロッパ語族のイタリック語派に属する「ファリスク語」(電子辞書の『ジーニアス英和大辞典』の用語)を話していて,その証拠となる碑文もあるようだ.
ストラボンが言うギリシアのアルゴス起源は,ウェルギリウスの『アエネイス』の主人公の敵対者トゥルヌスが王であったルトゥリー人の都市アルデア(現在はアルデーア)(英語版/伊語版ウィキペディア)に関してもあって,出自を有名な英雄や異民族に求めるよくあるタイプの伝説と言えよう.
伝承に拠れば,トゥルヌスはギリシアの英雄ペルセウスの異父兄弟の子と言うことになり,ペルセウスの数代後の子孫にあたるヘラクレスがトロイア戦争以前の自分で,そのトロイア戦争で亡命者となったのがアエネアスなので,伝説とは言え,相当のアナクロニズムと言えよう.
ファリスキー族の首邑はラテン語ではファレリイーと言うが,彼らは常にエトルリア人と同盟してローマに対抗しており,場合によっては,上記のエトルリアの12同盟都市に数える場合もあるほど,エトルリア化していたようだ.
12同盟都市のひとつ,ウェイイーがローマと戦争した際にも,タルクィニーがローマに反抗した際も,それに味方してその度に敗北を喫し,最終的に前241年にファレリイーの町が破壊され,生き残った人々は新しい町(ファレリイー・ノウィー)の建設を余儀なくされた.
現在,ローマの北50キロにあるチヴィタ・カステッラーナ(英語版/伊語版ウィキペディア)がこのファレリイーの故地であるようだ.ここには,国立の考古学博物館もある.
ファレリイーの東南には,ホラティウスの抒情詩にも歌われた有名なソラクテ山(モンテ・ソラッテ)があり,その南麓にカペーナ(英語版/伊語版ウィキペディア)という町がある.厳密には現在のカペーナ郊外のチヴィトゥコラと言う地域に古代のカペーナがあったようだが,いずれにせよ,この町の住民はカペナテス(カペーナーテース)人と称され,一定の独立性を保っていた.
この地域は,ファリスキー人,ローマ人,サビーニー人の勢力圏と隣接し,常に緊迫した対外関係を強いられていた.彼らの言語的特徴は,あるいは碑文等によって確かめられるのか,ファリスキー語とサビーニー語に似ているとのことだ(伊語版ウィキペディア).
モレッティの案内書に拠れば(p.7),彼らはサビーニー語を話していたとのことなので,或いはファリスキー語の影響が見られるサビーニー語と言うことであろうか.いずれにしてもサビーニー語もオスク語の一派で,広くはインド・ヨーロッパ語族のイタリック語派と考えられているので,ラテン語も含め親族関係の近い異言語で,それぞれ影響は受け容れやすかっただろう.
それに比べれば,エトルリア語は全く異なる言語なので,ファリスキー人が一貫してエトルリア人と同盟関係を結び,深くエトルリア文化の影響を受けたことは驚くべきことだと言えるだろう.
いずれにせよ,ヴィラ・ジュリアには,ファリスキー人の勢力圏(ラテン語ではアゲル・ファリスクス,イタリア語ではアグロ・ファリスコ)からの出土品は勿論,カペナテス人の支配地域からの出土品も数多く展示されている.
上の「トロイアの落城」の絵が入った陶器はアグロ・ファリスコからの,下の象が描かれた皿はカペーナの墓域から発掘されたもので,いずれもギリシア陶器なので,純粋にエトルリア人の遺産とは言えないだろう.
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写真:
カペーナで発見された皿
前3世紀前半 |
しかし,ファリスキー人は政治的,軍事的同盟を通じ,カペナテス人は交易を通じて,エトルリア文化の影響を受け,エトルリア人のフィルヘレニズムの影響も受けたことになる.
しかも,ファレリイーにはおそらくギリシアからやってきた職人の工房があり,特に紀元前370-60年くらいに活躍したと思われる「ナッザーノの画家」と称される陶器画職人もしくはその工房の絵壺(多くは混酒器)は,西地中海諸地域に輸出され,現在ではルーヴル美術館やアメリカの美術館,博物館にも複数見られるほどで,古代世界で愛好され,多くの作品が現存しているようである(英語版ウィキペディア「エトルリアの壺絵」参照).
そう思えば,本来エトルリア人ではなかったファレリイー人は,エトルリアのギリシア文化愛好を積極的に取り入れ,それをエトルリア文化を代表して西地中海世界に広めたことになる.
知っていたつもりで,知らなかった知識を今回また得たことになり,古代を多少とも専門的に勉強していると称している人間としては胸を張って言うことはできないが,ヴィラ・ジュリアで多くのものを観て,あらためて古代地中海世界の歴史について学ぶことができた.
今回,特に線描画が施された青銅製の鏡は,以前から確かにフィレンツェの考古学博物館でも観ていたが,圧倒的な量と多様性をほこるコレクションを観ることができ,さまざま思うところがあったし,そもそも,様々な文様の陶器に関しては質量ともに,今までを上回る作品群を観ることができたので,何かは言いたいのだが,ともかく,2014年ローマ編を完成させ,先日(既に二か月前)行ってきたヴェネツィア編に取り掛かりたいので,エトルリアに関しては,今回はここまでとする.
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煌々,だが,ひっそりとした館内
ガラスケースの中の永遠のくつろぎ
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