§2014ローマの旅 - その4 (小遠足)
チヴィタ・ディ・バーニョレージョ(以下,チヴィタ)は地区名で,行政単位としてはヴィテルボ県のコムーネであるバーニョレージョ(以下,バーニョレージョ)に属している.2010年末の統計ではコムーネ自体の人口が3700人弱(伊語版ウィキペディア)なので,大きな町ではない.
その起源は2500年前に遡ると推測されるチヴィタは,崩壊が危惧されるような断崖絶壁に囲まれた丘の上にあり,現在は居住者はあまりおらず,観光に携わる地元の人びとがバーニョレージョから通っていると聞いた.
バーニョレージョ側からチヴィタに渡る長い橋は,住民であればスクーターも可のようだが,観光客は橋の前で料金を払って,徒歩で渡らなければならない.空中に浮いているわけでないので,厳密には正しい表現ではないが,「天空の町」と言われるのもわからないではない.
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写真:
長くて,勾配のある橋を
ゆっくり歩いて
チヴィタに向かう |
ローマから乗って来た観光バスをバーニョレージョの広場で降り,チヴィタに通ずる橋の前まで行く路線バスに乗り換えた.
路線バスの中から,サンタゴスティーノ広場にある通称サンタゴスティーノ教会が見えた.正式には「被昇天の聖母」教会(キエーザ・デッランヌンツィアータ)と言うらしい.古いフレスコ画の断片があるようだが,残念ながら車窓から外観を見ただけだ.
路線バスを降りると,チヴィタが一番良く撮れる展望台(トップの写真もそこで撮影)に向かい,しばしカメラ・タイムがあって,それから長い橋を渡って,チヴィタに着いた.
チヴィタは狭い街なので,現地ガイドさんの手配もなく,各自,自由散策となった.
自分で歩いてみた感想だが,実際にはずっと新しいであろうが,石造のロマネスク建築を想起させる建物が多く,観光地ではあるが,ごてごてした感じはなく,交通手段が確保できて,長い橋を渡るのを厭わなければ,一見の価値は十分以上にあると思う.
サン・ドナート教会
中心となる広場に教会があった.ロマネスクの鐘楼を見れば,起源が古いのは一目瞭然だったが,ファサードはルネサンス様式で新しい.
この教会については,堂内の売店で,小冊子
Il Duomo di San Donato, Civita di Bagneregio,Genova: B.N.Marconi, 2000
を,路線バスの乗り場にあった土産物屋で,
Maria Luisa Polidori, Civita e Bagnoregio, Sesto Fiorentino: Bonechi Edizioni
"Il Turismo", 2010
を購入し,さらに伊語版ウィキペディアに立項されているので,それなりの情報が得られるが,この教会の表記については,少し整理が必要だ.
かつては司教座聖堂だったので,上記の案内冊子のタイトルもドゥオーモ(大聖堂)となっているが,現在はヴィテルボ司教区に属し,大聖堂(カッテドラーレ)ではない.したがって,サン・ドナート教会と呼ぶべきであろうかと思ったが,1986年にバーニョレージョ司教区は廃止され,ヴィテルボ司教区に統合されたものの,現在は名義司教区として,常駐はしないが名義大司教が存在するようで,その意味では大聖堂と称しても良いのかも知れないと思う.
しかし,1695年の地震でサン・ドナート大聖堂は破損し,司教座聖堂はバーニョレージョのサン・ニコラ教会に移って以来,サン・ニコラ教会がサンティ・ニコラ・ドナート・エ・ボナヴェントゥーラ大聖堂として,1986年まで司教区の中心教会の役割を果たしてきて,現在の名義大司教の司式する教会は,こちらのようである.
やはり,チヴィタに現存するかつての大聖堂は,サン・ドナート教会と称するべきであろう.
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写真:
サン・ドナート教会 |
堂内に超一級の芸術作品があるわけではないが,地元の画家による油彩祭壇画や,中世教会の遺品であろう聖水盤などが,古格に満ちていて,好もしい.
昔は司教座教会であったとは言え,人口非稠密地帯,はっきり言えば過疎地域の小さな教会で,こういう教会にこそ,草の根の信仰の蓄積が見られるようで好もしく思える.
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写真:
聖ウィクトリアの聖遺物が
かつて収められていたと
される石棺
(上のプレートにラテン語の
説明があるが,1782年のもの) |
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上の写真は「石棺」というには小さなもので,ラテンではウルナと帰されているので,骨箱(骨灰棺)と言った方が良いかも知れない.可愛らしいフレスコ画があり,聖ウィクトリア(サンタ・ヴィットーリア)を描いているのであろうが,これに関する情報は,上記の案内書にも無い(写真は掲載され,ラテン語石版への言及はある).
この教会には地元の司教であった聖イルデブランド(ヒルデブランドゥス)と,聖ウィクトリアの聖遺物があり,それぞれ,ガラス越しに中の見える棺に納められている,後者は多分,もともとは上の写真の小さな石棺に収められていたのだろう.
アントニアッツォ・ロマーノ派の画家の作品とされる「聖母子」のフレスコ画断片が,装飾を施した石と木の枠で囲まれた祭壇の中にある.佳作とは言えないかもしれないが,教会の中にあると美しく見える絵に思えた.「解放者マリア(サンティッシマ・マリーア・リベラトリーチェ)の祭壇」と称するようだが,由来等の情報はない.
フレスコ画の断片は他にもあって,聖ボナヴェントゥーラ(英語版/伊語版ウィキペディア)が描かれたものがあった.良く見ると,堂内に複数ある油彩の祭壇画の殆んどにボナヴェントゥーラが登場する.
フランチェスコ会の教会であれば,修道会を代表する神学者で,教会博士であるボナヴェントゥーラの絵があっても何の不思議もないが,「旧」がつくとは言え,「大聖堂」であるから,特に特定の修道会の代表的聖人にフォーカスする理由はないように思えたので,不思議な感じがした.
しかし,じきにその疑問は氷解した.
聖ボナヴェントゥーラ
最初にチヴィタを撮影した展望台に帰りも立ち寄った時,入口脇に下に降りる階段があるのに気づいた.石のプレートには「聖ボナヴェントゥーラの洞窟(グロッタ)」とあり,降りてみると,その先に鉄格子で閉ざされた岩窟(グロット=小洞窟)があった.
一体,聖ボナヴェントゥーラがこの小さな町にわざわざやって来て,何をしたのだろうかと不思議に思ったが,路線バスの停留所でバスを待っているとき,建物の壁面にあったプレートを読んで,謎が解けた.
プレートはボナヴェントゥーラの列聖500年を記念して設置されたもので,そこに彼はチヴィタの出身とあった.ボナヴェントゥーラに関する記述を注意深く読めば,今までも知っていて当然のことだったが,迂闊にも全く知らなかった.
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写真:
ボナヴェントゥーラの小洞窟 |
現在,この地方のフランチェスコ会の修道院はバーニョレージョにあるが,当時はチヴィタとバーニョレージョの間にあり(ウェブページの説明),現存する古い修道院の痕跡がこの岩窟であるらしい.
専門の学生を対象としない哲学史の講義などでは,ドメニコ会のトマス・アクィナスがアリストテレス哲学に基づいて中世神学を集大成したことに対して,同時代のフランチェスコ会のボナヴェントゥーラは,伝統的なアウグスティヌスやアンセルムスと言ったプラトニズムの影響を受けた神学者の思想に基づき,それに批判的であったという説明がなされる(熊野純彦『西洋哲学史 古代から中世へ』岩波新書,2006の人名索引など参照).
これだけ見ると,西洋哲学史の基本的なパターンである,プラトニズムとアリストテリズムの葛藤を13世紀の中世キリスト教神学の舞台で展開したと要約できるように思うが,ことはそう単純ではないであろう.しかし,私の理解を超えているので,ここでは触れない.
日本語で読める文献としては,書架には
聖ボナヴェンツラ(ママ),関根豊明(訳)『神学綱要』エンデルレ書店,1991
J.G.ブージュロル,丘野慶作(訳)『霊性の大家 聖ボナヴェントゥラ キリスト教的英知』中央出版社,1981
坂口ふみ『天使とボナヴェントゥラ ヨーロッパ13世紀の思想劇』岩波書店,2009 |
があるが,アマゾンや日本の古本屋で検索すると他にも重要著作の翻訳や,研究書が散見されるようなので,興味のある方は参照されたい.
ボナヴェントゥーラは医師であった同名の父と,母マリーア・ディ・リテッロの間に,1217年頃,ジョヴァンニ・ファデンツァとして生まれた.1225年生まれのトマスより年長である.奇しくも同年の1274年に亡くなっているが,トマスが3月,ボナヴェントゥーラが7月なので,先に生まれて,僅かだが後に亡くなったことになる.
ただし,ボナヴェントゥーラの生年は伊語版ウィキペディアは1217年もしくは1221年とし,英語版ウィキペディアは1221年,ブージュロルは上掲書で,ボナヴェントゥーラとトマスは生没年ともに同じであるとしている(pp.58-59).
チヴィタからアッシジはさして遠くはなく,フランチェスコ会の修道士たちがこの町にもおり,また幼い時に,大病した際に,母がフランチェスコの名を唱え,神への取り成しを願って,病気が平癒したという体験もあって,同修道会の影響を受け,修道士たちから,ラテン語の手ほどきを受けたとされる.
学才があったので,パリ大学で学ぶことになり,そこでもフランチェスコ会修道士でもあったアレクサンデル・ハレシウス(ヘイルズのアレグザンダー)の指導下に神学を学んで,自身も同会の修道士となった.1243年のこととされるので,既に20代半ばの少壮神学者であった.
彼は,トマス同様にパリ大学の教職(「教授職」と言っても良いであろう.坂口は「教授」としている)に選ばれたが,フランチェスコ会の「総会長」(坂口は「フランシスコ会総会長」)に選任され,大学の教師としての活動は以後は行わなかった.
パリ大学で彼の講筵に列したことのある教皇グレゴリウス10世によって,アルバーノの枢機卿兼任の司教に補任された.
第2リヨン公会議(1272-74年)で,彼は準備と運営の役割に担ったが,その大きな課題の一つは東西両教会の再融合であった.しかし,その閉会を待つことなく,病に倒れて亡くなった.彼の葬儀の様子を後世のスペインの画家スルバランが描いた絵をルーヴル美術館で観ている.
トマスと並び称せられる思想家でありながら,巨大な組織となったフランチェスコ会の運営責任者となり,枢機卿の重責を担って,重要な公会議も開催に力を尽くした.
貴族社会と縁組をするような医師の子として恵まれた家庭に生まれ,当時最高の教育を受けたとは言え,チヴィタ・ディ・バーニョレージョと言う小さな町で,思想界,宗教界の巨人とも言うべき人物が生まれ育ったことに,驚きと感動を覚える.
オルヴィエートの歴史 バーニョレージョから,オルヴィエート(英語版/伊語版ウィキペディア)に向かった.バスの車窓からの遠景で,オルヴィエートの町が丘の上にあるということがよく分かる.
実際に麓まで行くと,「切り立った崖」というより,垂直に崩落して,樹木も生えないままに赤茶けた土が露出しているように見えるので,大地震や,嵐が起こると大きな被害があるのではないかと心配してしまうが,城門をくぐって,城壁に囲まれた旧市街に入ってしまうと,中世の面影を残す,いかにもイタリアの丘の上の町で,特に不安は感じない.
オルヴィエートの地名の語源は,以前も書いたが,ラテン語の「古い街」(ウルプス・ウェトゥス)とされる.これが正しければ,「古い」とする根拠は何なのだろうか.
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写真:
オルヴィエートの町
ドゥオーモの姿が見える
バーニョレージョに向かう
バスの中から撮影 |
先史時代,青銅器時代,鉄器時代を経て,エトルリア人がここに都市を建設し,それがヴェルズナという名である可能性が従来指摘されてきた.ギリシア語ではウーイルシニオイ(ストラボン『ギリシア地理誌』に典拠),ラテン語ではウォルシニー(英語版/伊語版ウィキペディア)(ティトゥス・リウィウス『ローマ史』等に典拠)と表記され,いずれも男性・複数形であるが,ウーイルシニオン,ウォルシニウムと言う中性・単数形も存在する.
この町は紀元前265年に内紛に介入したローマ軍に占領され,その時の捕虜は翌年の,ローマで最初の剣闘士ショーの出場者とされたと伝えられている.残余の住民は新しい町の建設を許され,ボルセーナ湖のほとりにウォルシニー・ノウィー(新ウォルシニー)を築き,そこに移住したとされる.
このウォル シニー・ノウィーが現在のボルセーナであり,旧ウォルシニー(ウォルシニー・ウェテレース…ウェテレースはウェトゥスの複数形.ここでは便宜上音引きによる長音を保持する)が現在のオルヴィエートであれば,「古い」をすっきりと説明できる.
しかし,問題はそうは簡単ではないようだ.
オルヴィエートにはエトルリア人のものと思われる遺跡が残っており,この町をウォルシニー・ウェテレース,すなわちエトルリアのコインの刻銘にその名を残すヴェルズナだったと考える人は多かったようだが,ボルセーナ湖畔から,ウォルシニー・ノウィーと思われる町の跡が発見され,さらに1946年に現在のボルセーナの町から東に2キロの山の斜面に,紀元前4世紀から5世紀に遡る巨大な砦の跡が見つかり,現在では,ここがウォルシニー・ウェテレースがあった場所と考えられているようだ.
こうした経緯については,専門書ではないが,
ヴェルナー・ケラー,坂本明美(訳)『エトルリア人 ローマ帝国に栄光を奪われた民族』佑学社,1990 |
に簡潔に説明されている(pp.316-322).「エトルリア美術」に関する邦語の参考文献は少なくないが,民族の歴史を視野に入れた本は少ない.書架には他に,
シビレ・クレス=レーデン,河原忠彦(訳)『エトルリアの謎』みすず書房,1965
ジャン=ポール・ティリエ,青柳正規(監訳),松田廸子(訳)『エトルリア文明 古代イタリアの支配者たち』(「知の再発見」双書37)創元社,1994 |
があるだけだ.前者は古いが,クレス=レーデンは考古学者なので,専門家の書いた本ということになる.他は少年向けの本,エトルリア語の紹介書(ラリッサ・ボンファンテ,小林標(訳)『エトルリア語』学藝書林)と複数の美術紹介書があるだけだ.クセジュ文庫に1冊(ドミニク・ブリケル『エトルリア人』)があるようだが,持っていない.
ウォルシニーの降伏は,エトルリア全体がローマへ最終的に屈服したことを意味するので,周辺にあって,その同盟都市であったサルピニウムにも影響があったであろう.サルビニウムはオルヴィエートの前身のエトルリア都市であった可能性がある(クレス=レーデン,p.225)とされる.
語形から言っても,ウォルシニーと言う名称は,現在のイタリアでは,ラツィオ州のボルセーナに継承されており,新ウォルシニーの後継都市はボルセーナでほぼ間違いないであろう.そして旧ウォルシニーも,ボルセーナ近傍にあったとすれば,オルヴィエートはヴェルズナとは別のエトルリア都市であったことになるが,サルピニウムであった可能性も確証はなく,現在はローマ時代に何と言う名であったかは不明と言うしかないようだ.
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写真:
パラッツォ・
デル・カピターノ・デル
ポポロ(13-15世紀) |
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オルヴィエートの人口は2012年6月で2万1千人強(伊語版ウィキペディア)ということなので,決して大きな町ではない.ウンブリア州テルニ県に属しているが,同県の県都はテルニなので,地方の小さな県の県庁所在地ですらない.
しかし,その歴史は上述のように,エトルリア人の時代に遡り,ローマ帝国の都市として続き,5世紀以降,ゴート人に占領され,東ローマ帝国の将軍ベリサリウスに包囲され,その後ランゴバルド人の支配下に入り,10世紀に中世自治都市(コムーネ)となった.
自治都市となるに際しては,司教に忠誠を誓って,自治権を獲得したようで,10世紀にこの町を訪れた教皇ベネディクトゥス7世の甥が1016年に執政官になり,13世紀までに教皇の滞在居館が3つも建造され,1262年から64年まで,ワグナーの楽劇で有名なタンホイザー伝説に関連するとされる教皇ウルバヌス4世が滞在するなど,教皇もしくは教皇国家(教皇領)と深い関係と持った.
また,ローマとフィレンツェを結ぶ街道沿いの要衝として栄え,13世紀末には3万人の人口があった(英語版ウィキペディアは1950年の学術論文を典拠として挙げている)とされる.
また,トマス・アクイナスがこの町の学堂で教鞭を執ったと言われている.
オルヴィエートの教会
オルヴィエートは小さい町であるが,ローマ教皇との関係が深かったせいもあるのだろうか,由緒ある教会が多い.残念ながら,その多くは,観光客が拝観できる状況ではないようだ.
今回は「共和国広場」にあるサンタンドレーア教会の前を通った時,皆さんの列を一瞬離れて中に入り,僅かだが写真を撮った.
私が入口あたりから,ざっと見わたした感じでは,ロマネスクを思わせるアーチに支えられた三廊式で,木組み天井,中央祭壇の木造の磔刑像,説教壇,複数のフレスコ画断片,家紋の入った石棺などがあるようだった.お祈りに来た地元の人数人と,短パン姿の観光客数人が堂内にいた.
下の写真で見ていただくとわかるように,鐘楼は十二角柱(ドーデカゴナル)で,教会のファサードのバラ窓とともにゴシック風である.リュネットにも浮彫もバラ窓のステンドグラスも,20世紀の修復・再建の際に付加されたもの(伊語版ウィキペディア)のようで,見た目にも新しいが,もともとは6世紀に古代神殿跡に建設された教会に遡り,11‐12世紀に再建され,14世紀に完成した由緒ある教会だ.
この教会の前の共和国広場は,古代都市の中央広場(フォルム)があった場所とのことだ.
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写真:
サンタンドレーア教会 |
他にも,外観がいかにもロマネスクと言う感じのサン・ジョヴェナーレ教会,13世紀創建のゴシック様式のサン・ドメニコ教会(かつては,ここに後述するシモーネ・マルティーニ作の多翼祭壇画があった),やはりゴシック様式のサン・フランチェスコ教会など,機会があれば是非拝観したい教会があるが,これは今回は叶わなかった.
サン・フランチェスコ教会は,聖人存命中の1216年に修道会士たちが居を構え,教会の定礎も1240年頃と考えられるが,一時期ベネディクト会の別の教会となっていたのを,ボナヴェントゥーラが指示して,サン・フランチェスコ教会として再生させたものらしい(伊語版ウィキペディア).
Loretta Santini, Orvieto: Art-History-Folklore, Sesto Fiorentino:Centoro
Stampa Editoriale, n.d.(以下,サンティーニ) |
という英訳版案内書には,一時期他の教会だったと言う言及はないが,やはりボナヴェントゥーラが関与したことには触れている.
外観を見た教会としては,サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会,サン・ルドヴィーコ教会があり,どちらも修道院の建物が伴っているが,記憶に間違いが無ければ,ラニエーリ広場をはさんで僅か数メートルの距離にある.
前者はエトルリアの最高神の神殿跡に建てられた教会に起源を持ち,その後,アゴスティーノ会の修道院と教会として出発した.
この教会が「ラテランシ(Lateransi)」と言う団体に委ねられた(サンティーニはAbbey of the Lateran Canons)と説明しているサイトがあって,これは何であろうかと疑問に思い,「ラテランシ(Lateransi)」の日本語訳に定訳があるかどうかわからないが,他の人の訳語を参照したいと思い,ウェブ検索していると,「聖アウグスチノ会則」と言うサイトが見つかり,そこにあった「聖アウグスチノ盛式律修参事会」と言う項目の中の「ラテラノ至聖救世主律修参事会」(英語版/伊語版ウィキペディア)がこれにあたるであろうと思い至った.
「参事会」と言うと,司教座聖堂の管理運営に関わる「聖堂参事会」が思い浮かぶが,構成員が修道生活を送り,事実上修道院の機能を果たす「律修参事会」(P.ディンツェルバッハー/J.L.ホッグ(編),朝倉文市(監訳)『修道院文化事典』八坂書房,2008,には「アウグスチノ修道参事会」で立項)があり,「ラテランシ」はその律修参事会であるようだ.
後者(サン・ルドヴィーコ教会)は,サント・ジャンヌ・ドゥ・レストナック女子修道会(伊語版/仏語版ウィキペディア)が管理主体で,1746年の改築後,現在の姿になったと言うことなので,一見古い教会に見えるが,かなり新しい.もともとはサンタ・キアーラ修道会の管理だったようで,地元の画家アンドレーア・ディ・ジョヴァンニの15世紀の絵もあるらしい.
外観だけ見ることができた教会は他にもあり,ウィキペディアに立項されていなくても,場合によっては,オルヴィエートの紹介サイトからたどって掲載写真で確認できたものもあるが,写真がなくて,わからないものもある.
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写真:
現地ガイドさん一押しの
大聖堂撮影ポイント |
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これらの教会の中にあり,圧倒的に傑出した存在であるのが,オルヴィエートの大聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)だ.これに関しては,2007年秋に初めてオルヴィエートを訪れた時の感想も以前報告している.
前回同様,サン・ブリツィオ礼拝堂(英語版/伊語版ウィキペディア)のルーカ・シニョレッリのフレスコ画に圧倒され,堂内の中央祭壇に向かって左壁面にあるジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの「聖母子」,「聖体布(聖餐布)の礼拝堂」(カッペッラ・デル・コルポラーレ)のリッポ・メンミの祭壇画「慈悲の聖母」に改めて感銘を受けた.
今回は「聖餐布の礼拝堂」に入ることができたので,「慈悲の聖母」も正面から観て,聖餐布を収めるウゴリーノ・ディ・ヴィエーリ作の聖遺物容器と,それが置かれているオルカーニャ作の大理石の壁龕にも注目した.
この礼拝堂と中央礼拝堂に描かれた地元の画家たちの見事なフレスコ画とも再会を果たした.
2007年時は大聖堂には拝観料が設けられておらず,サン・ブリツィオ礼拝堂だけは拝観料を取って,入場は一度に25人に限られていたが,今回は大聖堂全体で拝観料を払う仕組みになっており,博物館になったような感じがした.また,前回はサン・ブリツィオ礼拝堂以外では写真撮影可であったが,堂内全て写真不可となっていた.
サン・ブリツィオ礼拝堂は混んでいたので,落ち着いた鑑賞は前回ほどにはできなかった.それでもルーカの作品の素晴らしさには,再び圧倒される思いだった.
宗教的なフレスコ画の他に,ルーカはこの礼拝堂にダンテ他,詩人たちの肖像を描いている.前回も気づいていて,それを忘れただけかもしれないが,描かれた古典詩人たちの中にクラウディウス・クラウディアヌスの肖像があることを地元ガイドさんから教えられた.
もちろん,彼女は,私がこの詩人の作品を日本語に訳す仕事に取り掛かっていることを知る由もないし,そもそも同時代の人以外に彼の顔を知っている人はいなかったであろうから,これはルネサンス芸術家の想像の産物に過ぎない.
ルーカのフレスコ画が「最後の審判」を中心とする題材を描いていることを考えれば,ダンテがそこに描かれていても当然だが,その他に,ウェルギリウス,ホラティウス,オウィディウス,スタティウスといったラテン詩人とともに,クラウディウス・クラウディアヌスがそこに描かれていることに,ルーカの同時代の人々の古典詩人への評価の在り方が読み取れるだろう.
中世には高く評価されていたスタティウスとクラウディアヌスがここにいるのは,前者はダンテの『神曲』に登場し,後者は物語詩『プロセルピナの誘拐』で「地獄」に相当する冥界を描写していることによるのかもしれないが,むしろ,中世からの連続性を持つ,当時の人文主義を反映したものと,私には思われる.
ギリシアの詩人でそこに描かれているのはホメロスと,詩人哲学者(ピロソポス・エポポイオス)のエンペドクレスだ.後者に関しては,どのような基準の選択だったのか疑問が残るが,まだ一般にはなじみが薄かった有名なギリシア詩人の名を挙げたということだろうか.それとも,四元素が愛憎2つの力で離合集散して世界を構成すると言う思想を反映した選択だったのだろうか.
いずれにしろ,目下の課題である詩人の肖像に,それが想像の産物であるとは言え,出会うことできたのは僥倖であった.
シモーネ・マルティーニ
前回,大聖堂の堂内はけっこう丁寧に観たが,大聖堂の博物館は修復中で観ることができなかった.今回,僅かな自由時間が設けられたとき,シモーネ・マルティーニの「サン・ドメニコの多翼祭壇画」だけでも観られればと,すぐに博物館に飛んで行った.
念願のシモーネの作品は,予想していた多翼祭壇画の形では展示されていなかった.先ず中央の「聖母子」のパネルの展示をみつけ,その後ろに回ったところに,もう1点別のシモーネの作品をみつけた.
この多翼祭壇画は,現存するのが,「聖母子」,「マグダラのマリア」,「聖ペテロ」,「聖パウロ」,「聖ドメニコ」の5枚のパネルで,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートやウィキペディアの写真では,「聖母子」の左側には外側からペテロ,マグダラのマリア,右側には外側からドメニコ,パウロが並べられている.
両脇の聖人のうち,向かって左向きはパウロだけで,後は全て右向きであるため,上記の並べ方だと,パウロとドメニコが互いに顔をそむけた状態で,しかもドメニコは聖母子の方を向いておらず,奇異な感じがする.
そこで,聖人たちのパネルの並びは,ドメニコを左端として,次にペテロ,マグダラのマリアと置き,聖母子パネルを挟んで右側は,中央パネルに近いところから,マグダラのマリアに対応するアレクサンドリアの聖カタリナ,ペテロに対応するパウロ,ドメニコに対応するトマス・アクイナスのパネルがあって,全体として七翼であったのではないかと言う推定がなされるようだ(ピエルルイージ・レオーネ・デ・カストリス,野村幸弘(訳)『シモーネ・マルティーニ』京都書院,1994,pp.90-92).
そもそも,この多翼祭壇画のペテロは,私たちがルーヴルで観たリッポ・メンミ作とされる「聖ペテロ」にそっくりで,デ・カストリスもペテロとドメニコはリッポの作品とする説を紹介し,自分もそう思うと言っている.
中央パネルの聖母子は間違いなくシモーネの作品として展示されていたが,もう一つあったシモーネの作品が何だったか,情けないことに二人とも覚えていない.
とにかく時間がなかったので,作品の前にどうにか辿り着いて,シモーネの作品の特徴を確認しただけで安心してしまった.この博物館の図録を茅屋に架蔵していたはずだから,作品はあとで確認できると思ったので,メモもとらなかった.
あるはずの図録が探しても見当たらない(あるいは実家に置いていて,失われたか)のもさることながら,シモーネやリッポの作品が好きだと言っていながら,確認と鑑賞が不十分で,記憶が曖昧なことに愕然としている.
実は,スピネッロ・アレティーノの小さな板絵もあったのだが,スピネッロ名前がプレートになければ全くそれと認識できないほど,興味を魅かれる作品ではなかった.図柄が何だったかも記憶が曖昧だった.しかし,これに関しては,ウェブの画像検索で,小さな「キリスト磔刑と聖母,福音史家ヨハネ,マグダラのマリア」であることがわかる.
この写真をたどっていったら,オルヴィエート大聖堂博物館のHPに行き当たり,ここに小さいが,かなりの収蔵作品が写真付きで紹介されている.しかし,シモーネの多翼祭壇画の並べ方は,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート,伊語版ウィキペディアと同じである.ただ,ここにも元は七翼の祭壇画であった推測と,リッポの協力は言及されている.
コッポ・ディ・マルコヴァルドの作品かも知れない「聖母子」,ルーカ・シニョレッリの「マグダラのマリア」とともに,シモーネの作品がもう1点,紹介されている.「聖母子と救世主キリスト,天使たち」だ.だとすると,私たちが見たシモーネの2点の作品は,この作品と,多翼祭壇画の中央パネルだったかもしれない.さだかではないが,確かに,この作品も観たように思える.
チマブーエ以前のフィレンツェの画家コッポ・ディ・マルコヴァルドの「聖母子」は,やはりオルヴィエートのサン・マルティーノ・デイ・セルヴィ教会にもあった作品のようだ.ヴァザーリなら「チマブーエ以前」として切って捨てるかも知れないが,華やかな美しい絵だ.コッポの作品かどうかは,おそらく伝承によるのであろうが,古く美しい絵であるのは間違いない.
HPでも確認できるが,中世の彫刻と,地元出身の16世紀の画家,チェーザレ・ネッビア,ブレーシャ県アックァフレッダ出身のジローラモ・ムツィアーノの複数の油彩宗教画が観られた.華やかな色彩の美しい手堅い絵だが,特に魅かれるには至らなかった.もともとは,大聖堂の堂内に飾られていた作品らしい.大聖堂の持つロマネスク感,ゴシック感を際立たせるために,現在は博物館に納められたのだろうか.
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白とピンクの化粧石は足もとまで
オルヴィエート大聖堂 ファサード前
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