フィレンツェだより番外篇
2014年9月14日



 




豪華な部屋に古代彫刻が並ぶ
カピトリーニ博物館「新宮殿」大広間



§2014ローマの旅 - その2 (フォロ・ロマーノ周辺)

中を歩いたのは今回を含め僅かに2回だが,外から覗いた経験を含めると4度目のフォロ・ロマーノであり,これで大体のところは理解できたと思う.


 それにしても,真夏の晴天の日に日蔭のほとんどないフォロ・ロマーノを歩くのは,さすがにきつかった.


記憶の中の凱旋門
 まず,ホテル前のバス停から路線バスに乗ってコロッセオまで行き,入場見学するところから観光が始まった.

 コロッセオ入場も2度目だが,どうしても陰惨なショーの場という先入観があるので,思い入れて見ることができない.現地日本人ガイドのU氏は,ウェブ上でも評判の博識の方で,建築方法や素材について,大変勉強になることをおっしゃっていたのだが,熱心に聴き入るには,暑いのと人が多いのにウンザリして,身が入らなかった.

 しかし,撮って来た写真を見ると,なるほどこの構築物を造り上げた技術の高さは相当なものだと思う.外壁の飾り柱の柱頭が,1層目はドーリス式,2層目はイオニア式,3層目がコリント式になっていておもしろい.しかし,これを全て一つの写真に収めるのは相当難しいだろう.それだけ巨大な建造物ということだ.

 コロッセオの予約時間が来るまで,近くのコンスタンティヌス凱旋門を見学して待った.これは何度見ても素晴らしいと思う.ミルヴィオ橋の戦いで勝利したコンスタンティヌスのために急いで造られたので,それ以前にあった彫刻などを利用しているとのことで,専門的な見地からはあるいは統一感に欠けるかも知れない.

写真:
コロッセオの中から撮った
コンスタンティヌスの凱旋門


 小学生の時,親が買ってくれた文学全集(講談社「世界名作図書館」)の中に,H.G.ウェルズの『世界史外観』を子供向けに書き直した「子どものための世界史物語」が収録されていた.写真もいくつか掲載されていて,中でも,アテネのアクロポリス(カラー)と,コンスタンティヌスの凱旋門(白黒)に憧れた.と,少なくともそのように記憶していた.

 この全集は,大事にされたり,粗雑に扱われたりしながら,長い歴史を背負って実家の書架に鎮座していたが,津波で流された.

 今回,この稿を書いていて,ウェブサイト「日本の古本屋」で神戸の書店が,この巻の比較的保存の良い本を出品しているのをみつけて,懐かしさに負けて購入したが,そこに凱旋門の写真はなく,あったのは「コンスタンティヌスのバジリカ」の写真(白黒)だった.記憶の曖昧さに愕然とした.


サン・クレメンテ聖堂
 コロッセオの後,徒歩でサン・クレメンテ聖堂(英語版伊語版ウィキペディア)に向かった.この聖堂の見学も2回目だ.

 2007年のフィレンツェ滞在中,マゾリーノのフレスコ画を観るためにここを訪れ,素晴らしい後陣のモザイクに出会うこともできたが,時間の都合で,地下教会とミトラ教の礼拝所は入らずじまいだった.今回,それらを見ることできて,心残りが解消した.

 地下教会のフレスコ画とミトラ教礼拝所は興味深いものだった.比較的富裕な個人の住宅に礼拝所が設けられ,そこに信者が集まる形態は,ローマ帝国で非公認だった時代のキリスト教会の在り方と似ていないだろうか.

 ミトラ教以外にも,非キリスト教的な遺産があった.「ヒッポリュトスとパイドラの物語」を浮彫にした石棺(2世紀)だ.石棺に見られる神話の浮彫としてはよくある図柄で,初めて見たのは多分,ピサのカンポ・サント(2007年11月訪問)だと思う.サン・クレメンテにはその1ヶ月ほど前に行っているので,この時に地下教会を見ていたら,最初の出会いはここだったであろう.

 マゾリーノのフレスコ画(15世紀),後陣のモザイク,コスマ―ティ装飾の床とヴァッサレットの装飾柱,地下教会のフレスコ画(11世紀),ミトラ教礼拝所に残る「牛を殺すミトラ」の浮彫が施された祭壇(2世紀)等,どれをとっても素晴らしいが,前回は地上の教会は撮影可であったが,今回は地上も含めて堂内は全て撮影不可だったので,残念ながら紹介写真はない.


セプティミウス・セウェルスの凱旋門
 サン・クレメンテ聖堂の後,再びコロッセオの所まで戻り,フォロ・ロマーノへ入場した.

 ローマ皇帝の凱旋門は,初代アウグストゥスのものから数多あったようだが,ローマ市内に現存するのは3つだけ,このうち2つはフォロ・ロマーノの中に,もう一つのコンスタンティヌス凱旋門も近くにある.全て紀元後のもので,造られた順にいうと,ティトゥス凱旋門(70年),セプティミウス・セウェルス凱旋門(203年),コンスタンティヌス凱旋門(325年)で,それぞれ,約130年,120年ほど間が空いている.

 現在西暦2014年だが,今から120年くらい前に日本で何があっただろうか.1895年は年号で言うと,明治28年で,日本語ウィキペディア「1895年」に拠れば,樋口一葉が『たけくらべ』の連載を始め,日清戦争の講和条約である下関条約が調印された年のようだ.この年から台湾が日本の領土となった.

 その翌年のページを参照すると,死者2万人を出した「明治三陸大津波」がある.これは,三陸海岸出身で,両親,知友,故郷の町を津波で失った私には切実な事件だが,多くの人にとってはピンと来ないかもしれない.ついこの間までは私も「明治三陸大津波」と言う事件すら知らないに等しく,下関条約の方が私にとっても,その時代を理解するヒントになったであろう.

 「下関条約」でピンと来なくても,それに調印した日本の総理大臣が伊藤博文,外務大臣が陸奥宗光で,相手方の代表が李鴻章と聞けば,やはり「歴史」を感じるであろう.

 この時,中国(清国)から主権を割譲された遼東半島の返還を日本に求める三国干渉があって,それが日露戦争につながる.多くのことが現代と直結しており,「歴史の彼方」とは言えないが,約120年という時間の長さに対する実感は得られる.



 ひと口に「ローマ帝国」と言っても長い歴史を背負っている.ティトゥス凱旋門を献じられたティトゥスは後に皇帝(元首)となり,彼も含め同じ家族から3人の皇帝が出たので「フラウィウス朝」と称されるが,その始祖ウェスパシアヌスは,スエトニウスの『ローマ皇帝伝』(岩波文庫に邦訳)に拠れば,ローマ市域の出身ではない.

 ウェスパシアヌスの父方の祖父は,現在はラツィオ州リエーティになっている都市レアテの出身で,父は属州アシア(現在トルコ共和国がある小アジア地方)で徴税請負人となった.こちらが「フラウィウス」と言う氏族名の出所である.スエトニウスには,ウェスパシアヌスの祖父の父が,ポー川北岸地方出身の季節労働者の手配師で,サビニ地方のレアテに定着したとある.これが,ウェスパシアヌスの父と兄が家名としたサビヌスの起源であろう.

 ウェスパシアヌスの母は,ヌルシア(現在はウンブリア州に属し,聖ベネディクトの出身地として有名なノルチャ)の騎士階級の名門氏族ウェスパシウス家の出身で,兄弟は元老院議員に出世している.

 つまり,代々,季節労働者の手配をしたり,金融業に関係したりして財産を形成し,名門氏族との婚姻によって格上げされた家系に,ウェスパシアヌスと彼の兄は生まれ,兄は政治家として,弟は軍人としてのキャリアを積み,ついには弟は元首となって,「王朝」の始祖となった.ウェスパシアヌスと言う家名は母の出身氏族であるウェスパシウスに由来する.

 ウェスパシアヌス帝のフルネームはティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスである.

 ローマ人は,自由人(奴隷身分ではない者)であれば,基本的に個人名(プラエーノメン),氏族名(ノーメン),家名(コグノーメン)と言う3つの名を持っている.ローマ人の個人名はマルクスとかガイウスとか限られた数しかなく,親子,兄弟,近い親族でも同名になる者も少なくない,ウェスパシアヌス帝の後継者で,凱旋門を献じられた将軍でもあったティトゥス帝は,公式名は父と全く同名である.

 前代の「ユリウス・クラウディウス朝」においても,初代のアウグストゥスの養子先であるユリウス氏族,2代目のティベリウスの出身氏族であるクラウディウス氏族は,名門貴族だが,アウグストゥスの出身氏族オクタウィウス氏族は騎士階級の出身で,政敵の誹謗ではあるが地方出身の解放奴隷の子孫と言う人もいる.5代目のネロは母が皇帝の一族だが,自身はドミティウス氏族の出身である.しかし,ローマで歴代高官を出した名門貴族である.

 こうしてみてくると,ウェスパシアヌスの登場に,ローマにおける社会変動の兆候を見ることもできるかも知れない.

 だが,共和政後期のマリウスとキケロはアルピーヌム(現在はラツィオ州アルピーノ)の出身で,カエサルの叔母はマリウスに嫁いだ.ローマには確かに累代の貴族や有力者の家系が多く存在したが,常に支配下の地方から新しい人材を自分たちの体制の中に取り込んできた.

写真:
ゲタの名前が削られた
セプティミス・セウェルスの
凱旋門
フォロ・ロマーノ


 ウェスパシアヌスはそれでもイタリア出身の家系だったが,彼に続く通称「五賢帝」には,南フランスやスペイン出身の家系から出た者もいる.200年後の話だが,コンスタンティヌス大帝は現在はセルビアに属している属州モエシアの出身である.

 さらに,203年に凱旋門を献じられたセプティミウス・セウェルスは,父方も微賤の出ではなく,地元の有力氏族の出身であり,母系はローマの名門氏族に出自を持つ可能性もあるが,地元は北アフリカで,その地のレプティス・マグナで生まれ育った.思ったよりも正統的な教育を受けた教養人であったようで,政治家としてのキャリアを積み,若くして元老院議員となった.

 マルクス・アウレリウスの死後,混乱に陥ったローマ帝国にあって,イタリアに比較的近い属州パンノニア(現在のオーストリアの以南,以東の諸国を少しずつ含む地域)総督の地位にあって,政界の混乱に乗じ,帝位に名乗りをあげて蜂起した.

 自称も含め,5人の皇帝が立った193年に,自身も帝位につき,敵対者を完全に倒したのが197年で,そこからさらに外征を敢行し,東方の大国パルティアの首都クテシフォンを陥落させた.

 フォロ・ロマーノに残る彼の名を冠した凱旋門(上の写真)は,この戦勝を記念して造られた.彼の故郷レプティス・マグナにも凱旋門は造られ,これも現在まで残っている.

 レプティス・マグナの凱旋門は,4面アーチがあり,形状としては,むしろ,サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ教会の傍にある「ヤヌス門」(アルコ・ディ・ジアーノ)(英語版伊語版ウィキペディア)に似ている.

 このような形をギリシア語でテトラピュロン,ラテン語でクァドリフロンスと言うようだ.「四面型」(ラテン語直訳)もしくは「四門型」(ギリシア語直訳)と訳すべきであろうか.このタイプのものは,交差路に建てられたらしい.

 「ヤヌス門」という名は,中世以降の通称で,ヴェラブロ教会に残る碑文の断片に拠れば,4世紀のコンスタンティウス2世のマグネンティウスに対する勝利を記念したもので,であれば,これも「凱旋門」であった可能性がある(伊語版ウィキペディア).

 ヴェラブロ教会に接して,「両替商の門」という古代遺構が残っており,ここには当初,東側にセプティミウス・セウェルス,皇后ユリア・ドムナ,カラカラの弟ゲタの浮彫,西側にはカラカラと妻と義父の浮彫があったが,後にゲタの姿は削除された.このことは以前のページで触れている.共治皇帝となった兄に殺され,「記憶の断罪」(ダムナティオ・メモリアエ)という,肖像,記録抹消処分が行われたからである.

 カラカラの妻と義父も,陰謀に連座して,その浮彫は削られたとのことだが,これは私は実物では確認していない(写真では「arco degili argentari」で画像検索すると確認できる).

 フォロ・ロマーノのセプティミウスの凱旋門にも,ゲタへの「記憶の断罪」が行われ,彼の事績に関する図像や碑銘は削除されている(英語版ウィキペディア).外征と内患,一族の骨肉相食む争いなど,多くのことが反映している凱旋門だが,形は美しいと思う.

 当面,「凱旋門」に特化した研究書,紹介書などを読む予定はないが,英語版ウィキペディア「凱旋門」は,写真の選択も良く,「ローマの凱旋門」に関しても概説してある,参考になる.

写真:
ロストラとセプティミウスの凱旋門

奥に見える教会は
サンティ・ルーカ・エ・マルティ―ナ
教会(英語版伊語版ウィキペ
ディア)で,現在の建物の設計は
ピエトロ・ダ・コルトーナ
(残念ながら未拝観)


 上の写真でセプティミウスの凱旋門の手前にある,赤みを帯びた茶色の壇が,政治家が民衆に訴える演説をする際に,「演壇」の役割を果たしたロストラである.

 単数形ロストルムは「船首(とその衝角)」を意味する語で,ロストラは複数形である.戦勝記念に敵船から奪った船首が演壇近くに置かれたことから,演壇の通称となった.

 無知を曝すようで恥ずかしいが,前回フォロ・ロマーノに行った時は,衝角の形をした尖ったものを探していた.今回は前以て,案内書やウェブページで確認していたので,しっかりと見て,写真にも収めた.


「1565/2014ミケランジェロ」展
 下の写真は,カピトリーニ博物館で開催されていた「1565/2014 ミケランジェロ」という特別展の会場風景である.

 向かって右端に見える白い胸像はカラカラで,弟,妻,義父に対して「記憶の断罪」を行いながら,当時の世界有数の大都市エジプトのアレクサンドリアで市民大虐殺を敢行した暴君だ.結局自身も暗殺されたが,大浴場を造ったことと,帝国支配下の自由民全員にローマ市民権を付与したことで有名な皇帝は,あちらこちらに肖像のコピーが残っている.

写真:
「ホラティウス兄弟と
クリアティウス兄弟」の間で
開催された特別展
(会場エリアの外から撮影)


 以前からあったのかも知れないが,今回初めてカピトリーニ博物館のHPにアクセスしてみた.検索機能で作品の写真と簡単なデータを参照することができるすぐれもので,それに拠れば,このカラカラ胸像が所蔵作品であるなら,215年から217年の間の作品ということで,だとするとこの暴帝が暗殺された年が217年なので,限りなくオリジナルに近い作品ということになる.

 ただ,帰国後イタリア・アマゾンで購入したこの特別展の図録を見ると,展示作品はヴァティカン美術館の所蔵で,制作年代は212-217年とされている.オリジナルが多数あったのか,あるいは,少数のオリジナルから大量のコピーが製造されたのか,この場合はギリシアの有名作品のローマン・コピーとは事情を異にするであろう.

 カラカラのすぐ左(実際にはずっと手前)に見えるブロンズ像は,やはりこの博物館所蔵の有名作品「カピトリーノのブルトゥス」(ブルートゥス)(ラテン語固有名詞の長音省略)で,紀元前4世紀から3世紀の作品とされる.ローマ彫刻の現存するオリジナル作品としては圧倒的に古い.

 本当にブルトゥス像かどうかと言う問題もあると思うが,もしブルトゥスだとすれば,カエサルが暗殺されたのが,紀元前44年であるから,当然このブルトゥスはカエサル暗殺を敢行したマルクス・ユニウス・ブルトゥスではなく,紀元前509年にローマ最後の王タルクィニウス・スペルブスを追放し,最初の執政官となって,共和政を実現したルキウス・ユニウス・ブルトゥスである.

 一番左の白飛びしてしまった像は,フィレンツェのバルジェッロ博物館所蔵のミケランジェロ作「ブルトゥス」で,こちらは紀元前1世紀のマルクス・ユニウス・ブルトゥスである.

 ミケランジェロはメディチの恩顧を蒙りながらも,心情的には共和主義者だったので,「王」になろうとしたと考えられていたカエサルを倒した暗殺者に個人的に思い入れがあったであろう.この作品が制作された1538年頃,フィレンツェ公爵であり,教皇クレメンス7世の実子と言われるアレッサンドロが,一族のロレンツォ(ロレンツィーノ,通称ロレンザッチョ)に殺された史実(1537年)を反映しているらしい.

 マルクス・ユニウス・ブルトゥスも,シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に描かれたような,人々の思い入れ通りの傑物ではなく,ましてロレンザッチョは高邁な理想からは遠い人物で,それがミケランジェロの傑作に反映したのは,皮肉なことに感じられる.

ダンテが「裏切者」として地獄に落とした人物が,その200年後に同じフィレンツェから出た偉大な芸術家の理想像になったのは,やはり時代による人物評価の変遷ということであろう.


 ヴァザーリの「ミケランジェロ伝」には,「大理石ブルータス(ママ)頭部像」に関して,「チェゼリーノ卿所有の,非常に古い紅玉髄に彫られたブルータスの肖像から引き写した」(白水社『ルネサンス画人伝』田中英道・森雅彦訳,p.309)とあり,当時はブルトゥスと思われていた作品は,実はカラカラの胸像だったと考える立場もあるようだ(伊語版ウィキペディア,および上記の図録,p.284).

 他には,カーザ・ブオナッローティの「階段の聖母」,サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂の「十字架を担うキリスト」,フィレンツェのアカデミア美術館の「死にゆく奴隷」,「髯もじゃの奴隷」,これは見逃したかも知れないがサント・スピリト聖堂の木彫「キリスト磔刑像」が出展されていた.

 ミケランジェロのブルトゥス像は,ヴァザーリ以来,晩年には珍しい完成彫刻の傑作とされており,私も最初バルジェッロで見た時は,写真では何度も見た作品の実物を見たこともあり感動したが,今はあまり魅かれない.サンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァの「十字架を担うキリスト」は間違いなく傑作だ.



 この特別展が開かれていたのは,カピトリーニ博物館の入っているコンセルヴァトーリ宮殿の「ホラティウス兄弟とクリアティウス兄弟」の間(サーラ・デリ・オラーツィ・エ・クリアーツィ)で, 前回この部屋は閉められていて,見ることができなかった.

 古代彫刻「ブルトゥス」など,この博物館の所蔵作品も含めて特別展の展示物は撮影禁止だったが, この広間にもともと鎮座しているジャン=ロレンツォ・ベルニーニの大理石による「教皇ウルバスス8世」,アレッサンドロ・アルガルディのブロンズによる「教皇イノケンティウス10世」(上の写真向かって左奥)の巨像と,広間の名のもとになっている,カヴァリエール・ダルピーノによる「ホラティウス兄弟とクリアティウス兄弟の戦い」他の壁画は写真に収めることができた.

 初めて入った広間に見るべきものが多かったので,ミケランジェロ展にフォーカスしきれなかった怨みが残る.小規模だが堅実な良い展示だっただけに,ちょっと残念だ.古代彫刻を見たことで,どうもこの先の古代彫刻の展示を早く見たいと言う気持ちが勝ってしまい,博学な現地ガイドU氏の熱弁も上の空で聞いていたところがあった.

 ちなみにカピトリーニの常設展示にはマルクス・ユニウス・ブルトゥスの古代胸像もある(英語版ウィキペディア「マルクス・ユニウス・ブルトゥス」に写真)ようだが,見逃した.


カピトリーニ博物館の古代彫刻
 カピトリーニ博物館は,特別展が開かれていたコンセルヴァトーリ宮殿と,カンピドーリオ広場を挟んで向かい側の「新宮殿」(パラッツォ・ヌオーヴァ)から成り,両者は地下でつながっている.

 チケット売り場および入口はコンセルヴァトーリの方にあって,地下道を通って,途中,古代の文書庫だったタブラリウムの展望スペースからフォロ・ロマーノを眺めながら新宮殿に至り,新宮殿から出る.

 複数の博物館を意味するムゼーイ・カピトリーニが現在の正式名称で,単数ならばムゼーオ・カピトリーノとなる.カピトリーノはラテン語のカピトリーヌスと同じく形容詞で,被修飾語が複数形なら,英語と違い形容詞も複数形になる.これまでも単数形(カピトリーノ)は使用せずに,カピトリーニ美術館と言っていたが,今後は,複数形はそのままで,カピトリーニ博物館と呼ぶことにする.

写真:
「瀕死のガリヤ人」
この後,アルテンプス宮殿の
国立考古学博物館で
関連する素晴らしい特別
展示を見ることができた


 古代彫刻の多くは新宮殿にあり,上の写真の「瀕死のガリア人」の他,「皇帝たちの間」に皇帝たちとその関係者の胸像,「哲学者たちの間」に哲学者,歴史家,詩人たちの胸像,さらに,「エロスとクピド」,「カピトリーニのヴィーナス」といった傑作彫刻群が展示されている.

 古代彫刻のうち,一部の有名な作品,「牝狼」,「棘を抜く少年」,「ヘラクレスの姿のコンモドゥス帝胸像」,「エスクィリーノのヴィーナス」,「マルクス・アウレリウス帝騎馬像」はコンセルヴァトーリの方にあって,カラヴァッジョを含む中世からバロックまでの絵画もコンセルヴァトーリにある.

マッシモ宮殿,ディオクレティアヌス浴場,アルテンプス宮殿などの国立考古学博物館にも,古代彫刻の傑作が溢れんばかりであるが,カピトリーニの古代彫刻が置かれている空間に身を置くことができるのは至福以外のなにものでもない.


 確かに,ギリシア彫刻のローマ時代の模刻がほとんどかも知れない.しかし,ここにいると,ギリシアのオリジナルはすばらしいが,それをローマン・コピーで見ることは有害無益であるなどと言う能天気な美術史家の著作はこの世から消えてしまえば良いと思うほどの傑作の森である(実際にはその美術史家が偉大なことは認識しており,彼の著書は殆んど架蔵して,愛読しているが).



 「哲学者たちの間」で,ホメロスの胸像4点,ソクラテスの胸像2点(他にもコンセルヴァトーリにも1点),エウリピデスの胸像2点,デモステネス,エピクロスのお馴染みの胸像(全て,おそらくローマン・コピーだ)を確認する中,今回は,ピタゴラス(ピュータゴラース)とピンダロスの胸像を確認することができた.

 近現代の芸術観から言えば,何と言うことのない胸像であろうが,古代を学ぶ者にとっては,随喜の涙が流れるような1点,1点だ.

写真:
右)ピタゴラス
左)ピンダロス


  ピンダロスは,英語版ウィキペディア「ピンダロス」に写真が掲載されているナポリの国立考古学博物館の胸像の方が有名かも知れないが,カピトリーニの作品の方が,引き締まっていて好感が持てる.ただし,本人に似ているかどうかは神のみぞ知る,であろう.

 紀元前6世紀に,「合唱抒情詩」という文学形式が流行し,合唱隊が歌い踊る大規模なパフォーマンスを伴う芸術として発展した.有名な詩人が複数出たが,ピンダロスが最高の詩人とされ,ギリシアの有名な4つの競技会の勝利者を讃え,それぞれの競技会の名を冠した4つの「祝勝利歌(エピニキア)集」が現存している.

 その詩句は難解で知られているのに,古来人々を魅了して,場合によってはホメロスに次ぐ大詩人として遇されてきた人物である.

 ピタゴラス(表記は慣用に従う)については,英語版ウィキペディア「ピタゴラス」もカピトリーニの作品の写真を掲載している.ヴァティカン博物館所蔵の胸像の写真も掲載されているが,とても同一人物とは思えない.

 490年のマラトンの戦いの際には,既に亡くなっていたとされるので,オリジナルも作者自身がピタゴラス本人の顔を知っていたわけではなく,もしかしたら先行する手本もあったのかも知れないが,想像だった可能性もあるだろう.まして,私たちが見た胸像は,紀元後1世紀の作とされるので,ローマ時代のコピーであろう.

 画像検索で複数の古代彫刻の写真が見られるが,カピトリーニの胸像が最も威厳があるように見える.

 
   
写真:「カピトリーニのヴィーナス」
正面からだけでなく,全身を鑑賞する
ことができるように造られている



 和辻哲郎は『イタリア古寺巡礼』に,「カピトリーニのヴィーナス」に関して,

 ギリシア人の原作であることは間違いないと思う.しかし,ギリシア人として優れた芸術家の作品とあるとはちょっと言い難い.まずプラクシテレースの亜流とでもいうところであろうか.ギリシアの正しい芸術の伝統のなかで育った人,しかもみずから一つの様式を創造するというような天才的な仕事をしたのでない人,むしろそういう天才に導かれてそのあとをついて歩いている人,そういう感じである(岩波文庫,pp.73-74)

と,後ではブレーキをかけているが,この箇所に先立って,初見の際には,

 H(和辻の従兄弟,和辻春樹)と一緒に数日の間見て回って,ローマはやはり古代の遺跡だと思った.ルネッサンスのものなどは影が薄く,ローマ時代の巨大な建築と,ギリシアの彫刻とが,おもにわれわれに迫ってくる.ギリシア人はやっぱり偉いとつくづく思う.カピトリノ(ママ)の美術館にあるヴィナス(ママ)などは,そう大したものだろうとも思っていなかったが,実物を見ると案外にいい.大理石が実にほのかな好い色をしているのみならず,肌の起伏が新鮮な生きた感じを持っている.この形のヴィナスはプラクシテレースの<クニドスのヴィナス>―実物は残っていない,有名なコピーがヴァティカンにある―の流れを汲むものと言われているが,そういうプラクシテレース模倣者の作のうちでは,相当いいものであったかも知れない.一般に認められているように,この作がとにかくギリシア人の作(「ギリシア人の作」に傍点)であるということは,私も認めたいと思う.もちろんそれはギリシアの一流の彫刻家の作ではなく,そういう作の影響の下におのずと模倣に陥らざるを得なかったエピゴーネンの作とは言えるであろうが,しかしそれでも創作であってコピーではなかろう.肌の表面は,コピーに通有な,鈍い,冷たい,死んだ感じではなく,とにかく生き生きしている.横にすべる面の感じでなく,中から盛り上がってくる感じである(p.52)

との感想を語っており,「絶賛」には遠いが,それでも「称賛」ではあろう.「称賛」のポイントは,模倣,追随ではあっても,コピーではなくギリシア人の創作である,と言う点にあり,その根拠は,コピーなら「死んだ感じ」のする肌の表面が,起伏して「新鮮な生きた感じ」を持っていることにあるようだ.

 これに対して文庫版巻末の解説で,有名な美術史家(ただし古代彫刻の専門家ではない)である高階秀爾は,『イタリア古寺巡礼』の「ギリシア以来の西欧美術の鑑賞の手引き」として優れていることに触れ,その説明として,

 美術史的に言うなら,例えば有名な「カピトリーノのヴィーナス」はギリシア古典期の原作ではなく,紀元前五世紀の原作に基づく古代の模刻であると一般に認められているといったような点で,若干の修正を要する部分がないとは言えないかもしれない.しかし,それは,模刻であるにしてもきわめて見事な出来栄えの作品であって,ギリシア彫刻の本質を充分に伝えている.そして,その点を見抜く著者の眼は,流石に鋭い.ギリシア彫刻においては,各部分の面は内部を「包んでいる」のではなくて,逆に「表出している」という指摘は,きわめて正当なものであろう(pp.256-257)

と述べている.

 和辻の審美眼に関しては,論及する立場にないが,オリジナルとコピー,コピーの出来不出来,現在に伝わるギリシア彫刻とは,いったいどのようなものなのかを考えさせられる.

 私もカピトリーニのヴィーナス※はすぐれた作品だと思う.しかし,カピトリーニ博物館のあまたの傑作の中で,最高の作品かと言われると躊躇する.和辻の分析的評価にもかかわらず,私は,ギリシア彫刻かローマ彫刻か,あるいはギリシアのオリジナルかローマン・コピーかにこだわらずに,他の彫刻群とともに,虚心坦懐に鑑賞するのが良いのではないかと思う.

(※高階のように「カピトリーノのヴィーナス」と言う言い方がおそらく日本語としては正しいだろう.「カピトリーノ」は形容詞であり,複数形のカピトリーニを私が使うのは複合体である「カピトリーニ博物館」にあると言う意味で使い,単数形のカピトリーノと複数形のカピトリーニの混在を避けようとしているためだが,上では「カピトリーノのブルトゥス」と言っているので,我ながら矛盾している.イタリア語ではヴィーナスはヴェーネレで,もちろん女性名詞なので,ヴェーネレ・カピトリーナと言う)


マルクス・アウレリウスの図像
 マルクス・アウレリウスは個人としては立派な人であったかも知れないが,彼の死後,ローマ帝国が危機に瀕したことは否めない,もし,息子のコンモドゥスが愚帝であったからと言うのがその理由ならば,後継者の選定に問題があったと言えるだろう.

 知性,教養,人格の点で傑出した人物であっても,帝国の巨大さと,歴史の大波の前に,苦悩に満ちた人生を生き,後継者の選択を誤ることはあり得るのだ,と言うことだと思う.

写真:
マルクス・アウレリウスの
記念碑のパネルの1枚


 敗れた敵に対して,寛大な態度を取ることを,クレメンティア(クレーメンティア)といい,通常「寛容」と訳される.

 上の写真でも,一番下の写真でも馬上のマルクス・アウレリウス帝は,まるで仏像の施無畏印のように,右手の掌を相手に向け,跪く異民族たちに赦しを与えようとしている.この姿をも「クレメンティア」と称するようだ.

 この女性名詞は女神としして擬人化(擬神化?)され,ユリウス・カエサルが,敵対したポンペイウスを打倒した内戦終結後,相手方の者たちに寛容な姿勢を見せたことを讃え,紀元前44年に元老院決議によって,この女神に神殿が奉献された.

 同じような擬人(神)化に,ギリシアにエレオス(憐れみ)信仰の先例がある.こちらは男性名詞なので,男の神で,男神エレボス(闇)と女神ニュクス(夜)の息子とする場合もあるようだ(英語版ウィキペディア)が,ヘシオドスの『神統記』の系譜では,エレボスとニュクスの子たちの中には挙げられていない.

 パウサニアスの『ギリシア旅行記』(1.17.1)に,ギリシアで唯一のエレオス祭壇がアテネにあることが語られて※おり,アポロドロス『ギリシア神話』では2か所「憐れみの祭壇」への言及(2.8.1と3.7.1で,岩波文庫の邦訳,pp.113, 137および,p.223の訳注)があり,それぞれヘラクレスの子供たち,テバイ攻めの七将の1人アドラストスが,一方は助力を乞い,他方は嘆願の印を捧げている.
(※龍渓書舎刊の飯尾都人の邦訳,p.32.ただし邦訳は「女神」としていて,大部な古典の翻訳と言う偉業に比べれば瑕瑾に過ぎないが,これは誤訳である.原文を見ると関係代名詞が男性形で,ロウブ叢書のジョーンズ訳は関係代名詞を訳していないが,高名な人類学者のフレイザーの英訳はheとなっている)

 エレオスに関するこれらの言及は,いずれも戦争に関係しているが,勝者の慈悲を示す例にはなっておらず,クレメンティアは普通名詞としての語感からも,ローマ独自のものと考えて良いだろう.

 ストア哲学者として知られるセネカには『寛容論』があり,16世紀に宗教改革で知られるジャン・カルヴァンが若い頃に注解を施すなど,哲学的概念としても,後世に影響を持った語と言えよう.

セネカの後継者ではないが,同じくストア哲学者として知られるマルクス帝の図像としてこの上なくふさわしいものと言えよう.


 一番下の写真の騎馬像は,ルネサンス期のドナテッロ(パドヴァのガッタメラータ騎馬像),ヴェロッキオ(ヴェネツィアのコッレオーニ騎馬像)に決定的な影響を及ぼし,レオナルドの創作意欲をかきたてた.そうした瑣末な知識を越えて,この像の素晴らしさに心打たれる.間違いなく,カピトリーニ博物館で最高の傑作と言えよう.


2人のクレメンス
 ところで,サン・クレメンテ聖堂の「クレメンテ」は,ラテン語のクレメンスのイタリア語形で,これはラテン語の対格という変化形のクレメンテムが,前置詞の被支配格なのでロマンス語への移行期にも残り,最後のm音は省音の対象となったという歴史的経緯がある.

 もちろん,この場合のクレメンテは固有名詞で,教会の名の基になっている聖クレメンスは,初代の聖ペテロから数えて4代目の教皇を務めたとされるので,教皇としてはクレメンス1世と称される.

 メディチ家出身で,ローマ劫略を招いたクレメンス7世は16世紀前半の教皇で,1世が亡くなったのが,紀元後100年前後とされるので,同じクレメンスという名の教皇でも7世とは1400年以上の時代差がある.

 新約聖書以外では,最も古いキリスト教文書群に属する「クレメンスの手紙第1」は,ローマ教会の他教会に対する優位の証拠とされるが,これを書いたのがクレメンス1世とされる.「クレメンスの手紙第2」も現存しているが,これは彼に仮託した偽書と考えられている.

 いずれにせよ,クレメンス1世は実在した人物には違い無い.聖ペテロや聖パウロと面識があり,使徒からの権威を引き継ぐとされ,後世さまざまな伝説に彩られることになった.

 トラヤヌス帝治下に囚われて,ギリシアのケルロネソス地方の石切り場に流罪となり,そこで水不足に喘いでいた囚人たちに水を齎す奇蹟を起こして,彼らを改宗させ,それが当局の怒りに触れて,錨に縛り付けられて黒海に投げ込まれ,殉教したと言うのが最も知られたエピソードである.

 ローマのサン・クレメンテ聖堂には,東方から齎された彼の遺骨と錨が聖遺物として保存されているとされ,この殉教物語を描いた装飾画もある.もっとも,クレメンスに言及したカエサレアのエウセビオスヒエロニュムスなどの4世紀から5世紀のキリスト教著述家がこの殉教に触れていないことから,それ以後の創作であろうと考えられている.



 これらの伝説群の中に,教皇クレメンス1世は,ローマ出身で,フラウィウス朝の皇帝たちの一族だったティトゥス・フラウィウス・クレメンス(以下,執政官クレメンス)の解放奴隷だったというものがある.根拠としては名前の共通性以外には思い浮かばないが,興味深く思えた.

 執政官クレメンスの父は,上述したウェスパシアヌスの兄で,政治家として成功を収めたティトゥス・フラウィウス・サビヌス(サビーヌス)で,家名は異なるが,弟と同様に父の氏族名を継承している.

 父と同名の兄も,従兄弟のドミティアヌス帝治下の92年に執政官を務めたが,父の方はクラウディウス帝治下の52年に執政官を務めており,フラウィウス朝が成立(69年)する前から,弟ウェスパシアヌスとは別の道で自らの地位を確立していたことがわかる.

 父や兄とは別の家名を名乗ったティトゥス・フラウィウス・クレメンスは,95年にドミティアヌス帝とともに執政官になったが,同年,皇帝によって殺された.何年かは正確にはわからないが,兄もドミティアヌスに殺されていた.いずれも,スエトニウスの『ローマ皇帝伝』の「ドミティアヌス伝」に言及(前者は15章,後者は10章)されている.

 その際にスエトニウスは,執政官クレメンスを「この唾棄すべき無精者」(岩波文庫,下巻,p.329)と呼び,それに対して訳者の国原吉之助は「キリスト教信者で国事に無関心であったと考えられている」と注解している.ただし,キリスト教徒であったと言う根拠は示されていない.

写真:
ウェスパシアヌスの時に建築が
始まり,ティトゥスの時代に
完成したフラウィウス闘技場
(アンピテアトルム・フラウィウム)
別名「コロッセオ」(ネロの巨像
コロッソスがそこにあったこと
からの通称)


 ディオ・カッシウス(ディオン・カッシオス)という,ギリシア語でローマ史を書いた作家がいるが,紀元後155年の生まれで,没年は235年とされるので,140年頃にスエトニウスが亡くなって10年以上経ってから生まれ,マルクス・アウレリウス帝の没年が180年なので,マルクス帝の死後なお55年生きていた人物ということになる.

 生まれたのはアントニヌス・ピウス帝の時代で,フラウィウス朝は彼が生まれる前に消滅しているが,遥か後代の人物と言うわけではない.

 父はローマ生まれの元老院議員だが,母は,たとえ伝説が語るように哲学者ディオン・クリュソストモスの娘か姉妹でなかったとしても,ギリシア系だった可能性が高い.彼が生まれたのもビテュニア地方(小アジア北東部)のニカイア(後に325年の公会議で有名)で,自身も執政官を務めながら,ラテン語ではなく,ギリシア語で著述した.

 彼の著した『ローマ史』68巻14章に,執政官クレメンスは,妻フラウィア・ドミティッラとともに,「無神論故に断罪され,この断罪は,ユダヤ人の習慣に転じた多くの者たちがそれによって処刑されたものである」とある.「キリスト教」とはっきり述べられてはいないが,執政官クレメンスが妻とともにキリスト教徒になっていた可能性はあったと思われる.

 名前から多少とも推測できるように,執政官クレメンスの妻もフラウィウス朝の一族である.彼女の母である小ドミティッラは,ウェスパシアヌス帝と大ドミティッラの娘で,ティトゥス帝,ドミティアヌス帝の同母姉である.したがって,執政官クレメンスはドミティアヌスの父方の従兄弟,その妻フラウィア・ドミティッラはドミティアヌスの姪と言うことになる.

なぜ,これだけ家系にこだわるかと言えば,フラウィウス朝という,ローマ帝国でも五賢帝以前のかなり早い時期に,皇帝の一族で,執政官も務めた人物が,妻とともにキリスト教徒になっていた可能性があることになるからだ.


 新約聖書の記述からすると,福音書記者は,第一次ユダヤ戦争における紀元後70年のエルサレム陥落を意識していた可能性があり,エルサレムを陥落させ,その象徴である銀の燭台を戦利品としてローマにもたらしたのが,後にフラウィウス朝2代目の皇帝となるティトゥスである.

 エルサレム陥落から執政官クレメンスの死までわずか25年,この間に皇帝の一族がキリスト教徒になっていた可能性があることを考えると,キリスト教の浸透力は相当のものであったことがわかる.



 ディオの言及に拠れば,執政官クレメンスと妻の断罪の理由は「ユダヤ人たちの習慣」とあるので,これではユダヤ教徒になった可能性もあるわけだが,少なくとも後世のキリスト教徒はそうは考えなかったようで,さらに驚くべきことに,妻のフラウィア・ドミティッラは,キリスト教の聖人とされている.

 ただし,カエサレアのエウセビオスはフラウィア・ドミティッラを執政官クレメンスの姪と言っており,フラウィア・ドミティッラの流刑先を,ディオはティレニア海のパンダテリア島(現在のヴェントテーネ),エウエビオスは同じティレニア海だがさらに沖のポンティア島(現在のポンツァ)としており,ここから,初期キリスト教に関わるフラウィア・ドミティッラという女性が2人いた可能性を示唆する人もいる.

 聖女ドミティッラの遺体は,カラカラ浴場の近くのサンティ・ネーレオ・アキッレーオ教会に安置され,聖遺物となっているとされる.この教会には,その名のもととなった聖ネレウス聖アキレウスの間に,ドミティッラを神々しく描いたポマランチョ(クリストフォロ・ロンカッリ)の油彩祭壇画があるようだ.インターネットのリンクをたどると,ほぼ同じ図柄の絵をルーベンスも描いているが,どこにある作品かは情報がない.

 いずれ,とぼしい資料から推測されることは,フラウィウス朝の一族から,キリスト教徒になった者が出て,その中の1人の女性が,史実に基づくかどうかは別にして,後にキリスト教の聖人に列せられたと言うことだけであろう.

 英語版ウィキペディアは根拠の1つに挙げていた事典が,たまたま書架にあった.

 William Smith, ed., Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology, London: Walton and Maberly, 1858(以下,スミス)


である.3巻本の古い事典だが,現在も利用価値があるようで,比較的有名な本である.これでクレメンスを引くと,複数の人物が立項されており,その8人の中で,かなりのスペースが割かれているのが,キリスト教思想家として有名な教父アレクサンドリアのクレメンス,教皇クレメンス1世として知られるローマのクレメンスで,その次に長い記述があるのが執政官クレメンスである.

 英語版ウィキペディアもほぼそのまま引用しているが,そこでは,1727年に枢機卿アンニーバレ・アルバーニが,サン・クレメンテ聖堂で,「執政官を務めた人物で殉教者であるティトゥス・フラウィウス・クレメンスの名高い墓」と言うラテン語の碑銘を発見したと記述している.

 しかし,これは,今の所,スミスとほぼその引用の英語版ウィキペディア以外には言及がない.また,

小畑紘一『ローマの教会巡り』誠文堂新光社,1991


は,類書のない名著だと思うが,ティトゥルス(名義教会)と言う古代教会の在り方を,

 当時は,キリスト教が公認されていなかったこともあり,独立の建物を建築するというよりは,信者ないしキリスト教に同情的な富豪の一戸建ての家やあるいは街の中心街の,一階は商店,二階以上は個人の住宅となっている雑居アパート(インスラ)の一部を改造して使用するといった方法が取られました.
 ローマでは,このような建物は,所有者の名前を書き込んだ大理石製の名札を家の玄関口につつけていたことから,「名義教会(ティトゥルス)」と呼ばれ,四世紀の初めには,二十五あったと言われています
(pp.61-62)

と,きちんと説明した上で,「サン・クレメンテ聖堂」に関して,「地下二階は,一世紀に建てられた,フラヴィア・クレメンテ家(ママ)のものといわれる邸宅跡」とした後に,この邸宅の幾つかの小部屋のうち,キリスト教の礼拝の場として使用されていた部屋が,「後にティトゥルス・クレメンティスと呼ばれた」(クレメンティスはクレメンスの属格と言う格変化形で,英語の所有格と思えば良い)と説明している.

写真:
サン・クレメンテ聖堂(ファサードは18世紀)
アトリウム※からファサードを撮影
(※教会正面の吹き抜けの四角い中庭)

他にアトリウムが現存している教会としては
ミラノのサンタンブロージョ聖堂と
サレルノ大聖堂がある
(池田健二『イタリア・ロマネスクへの旅』
中公新書,pp.15-16)


 古代教会の在り方や,フラウィウス・クレメンス家のキリスト教との関わりの可能性を考えると,魅力的な説明だが,ここに,執政官クレメンスの家があったと言う根拠がはっきり示されない以上,断定はできないだろう.


ローマ的な「女神」
 スミスの事典でクレメンスを引いていると,その後に,上述の女神クレメンティアが立項されていた.典拠の一つにクラウディアヌスの詩が挙げられている.また,現存する硬貨からわかる,その図像表現は,右手に神酒を入れる浅い大きな皿パテラを持ち,左手に槍を持った姿になるようだ.

 男神エレオスは,普段頼りにしているピエール・グリマルの『ギリシア・ローマ神話辞典』(仏語原著と英訳)には立項されていないが,スミスには立項されている.ただし,出典等も含めて,英語版ウィキペディアから得られる以上の情報は無い.

 エレオスがエレボスとニュクスの子であると言う説明もスミスにはない.英語版ウィキペディアにも典拠がないので,これに関しては保留だ.

 ヘシオドスが挙げている,エレボスとニュクスの子供たちの傾向を見ると,エレオスが彼らもしくはどちらかの子というのは,なかなか説得力があるし,もともとは「お話」に過ぎないわけだが,それでもギリシア神話とされるからには,古代ギリシア語,せめてラテン語による証言は必要だろう.

 今回知り得たエレオスに関する資料で見ていないのは,ソポクレスの悲劇『コロノスのオイディプス』への写本欄外古注(スコリア)と碑文資料だが,それらのどちらかに記述があれば,胸を張ってエレオス(「憐れみ」の男神)はエレボス(「闇」の男神)とニュクス(「夜」の女神)の子と言えるであろう.いずれも,普通名詞の擬人化である.

 同じく普通名詞の擬人化であるクレメンティアは,特に神話系譜学的な説明がどこかになされていると言う情報は今のところ持っていない.ユリウス・カエサルの「寛容」に起源を持つ「女神」の名であり,私たちはその精神をマルクス・アウレリウスの図像表現として認識する.まさに,ローマ的な「女神」であり,図像表現であろう.

 ローマ最大の詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』の6巻には,

Tu regere imperio populos, Romane, memento;
hae tibi erunt artes; pacisque imponere morem,
parcere subiectis, et debellare superbos.
(汝ローマ人よ,諸民族を支配下に置くことを心に銘記せよ.平和の掟を定め,従う者らを赦し,驕れる者らを打ち破ることは,汝に固有の流儀となるであろう.)(851-853行)

とある.「従う者らを赦し」がまさに,ローマ的理想の重要な一面を語っている.

 現実は理想からは遠かったではあろうが,一つの「あるべき姿」をマルクス帝の浮彫やブロンズ像は表現しており,他でもない,苦悩の人生を生きて,人間の能力が許す限り既存の大帝国を支えた哲人皇帝だからこそ,私たちの心に説得力のある姿で迫って来るのであろう.

 同じくクレメンティアを表していても,威厳を取り繕った軍装の浮彫よりも,彼方の理想を希求しているような,非武装の市民の姿のブロンズ騎馬像に,より心打たれる.






2007年当時と展示室の様子も変わっていたが
いずれにせよ,哲人皇帝に再び挨拶