フィレンツェだより |
ヴァザーリの回廊 ヴェッキオ宮殿からウフィッツィ美術館へ |
§文化週間 第1弾 −ウフィッツィ美術館−
このチャンスを最大限に活かしたいと思うが,昨年の「文化週間」に大混雑するウフィッツィ美術館の写真を新聞で見たので,残念だったがウフィッツィだけは最初からあきらめた. ![]() まず,ドゥオーモ広場に出て,サン・ジョヴァンニ洗礼堂とドゥオーモの間をまっすぐ進み,オルサンミケーレ教会を通り過ぎて,シニョリーア広場に出て,混んでいると思われるウフィッツィ美術館を横目に見ながら,アルノ川沿いに出て,ヴェッキオ橋を渡り,ピッティ宮殿に行くという,きわめて正統的なコースをたどる予定だった.
「入場無料」はウフィッツィには適用されないのだろうかと訝しく思ったが,かりに入場料を払うとしても,この程度の行列で済むのなら,チャンスであることは間違いない.すぐに列の最後尾に並んだ.結局1時間強待ったが,入ってからは余裕のある美術鑑賞ができた.やはり無料だった. あるはずの「サン・ピエル・スケラッジョの間」は今日も見つからなかったし,ルーベンスの絵は今日も見られなかったが,先日は見せてもらえなかった2階の素描版画閲覧室でデューラーの版画を見ることができたし,この間は開いていなかった,レンブラントの絵のある間も見ることができたので,大変充実した時を過ごすことができた. ウフィッツィとメディチ家 ウフィッツィ美術館のある建物がウフィッツィ宮殿だが,「宮殿」という言葉からイメージされる豪華さからは遠い,わりに質素な建物という印象を受ける. 「ウフィッツィ」という語は,私たちが「オフィス」として知っている英語と同じ語源のラテン語「オッフィキウム」に由来するウッフィーツィオの複数形で,もともとは1560年のトスカーナ大公コジモ1世が,行政機関を集中しておくためにヴァザーリに注文して作らせ始めた建物とのことである. 結局,完成したのは1580年で,パリージとブオンタレンティの手になるそうだ.当時の大公フランチェスコ1世の考えから美術品の収集・展示が始まったらしい.様々な経過を経て現在の美術館になっているが,「ウフィッツィ」という名称の由来と,美術館としての起源はともに16世紀後半のことだから,私たちが良く知っている,フィレンツェ共和国時代のメディチ家とは関係が薄い. ![]() コジモ1世とトレドのエレオノーラとの間の子供で,後のフランチェスコ1世とオーストリアの皇女ジョヴァンナとの婚礼に関連してのことだそうだ.
![]() ウフィッツィ美術館の入り口がある回廊の中側には彫像が並んでいるが,一番最初の彫像は「老コジモ」像である.その隣に「ウフィッツィ美術館」(ガッレリーア・デーイ・ウッフィーツィ)というプレートがある.開かない扉の隣にロレンツェ豪華王の彫像もあるが,作者は誰かまだ調べていない.
外側にも一連の彫像があり,こちらはフィレンツェ出身もしくはフィレンツェに関係の深い文化人たちだ.先頭2番目から,ニッコラ・ピザーノ,ジョット,ドナテッロ,レオナルド・ダ・ヴィンチ,ミケランジェロ,ダンテ,ペトラルカ,ボッカッチョ,マキアヴェッリと錚々たる人物が続く. 先頭にいるのはアンドレーア・オルカーニャだ.
![]() この作品が展示されているのは第4室「1300年代のフィレンツ絵画」で,第2室は「1200年代絵画とジョット」,第3室は「1300年代のシエナ絵画」,第5室と第6室が「国際ゴシック絵画」の展示室と,このあたりまでがルネサンスに先駆ける中世の終わりの芸術と言って良いであろうか. 今回は,これらの部屋を丁寧に見た.ジョットの素晴らしさは言を俟たないが,チマブーエ,シモーネ・マルティーニとリッポ・メンミ,ベルナルド・ダッディ,ジョットーネ,ロレンツォ・モナコとコジモ・ロッセッリの作品は素晴らしかった. 古くても13世紀ということであれば,日本の歴史で言えば鎌倉時代で,さほど古い時代とは思えないが,ルネサンスというのは,何もない状態から生まれたのではないことを認識するどころか,私はルネサンスよりも中世の絵の方が好きなのではないかと思うほど,この手の絵にははまってしまいそうである.
とはいえ,オルカーニャにとって上記の作品の制作動機は,有力ギルド銀行家組合からの注文であり,それを支える経済力もまた芸術にとって大事なものであることも間違いないだろう. ![]() ![]() ![]() 後方にあるのは,ランツィのロッジアと呼ばれる柱廊で,一部はコピーだが傑作彫刻群で知られている.人出はまずまずだった. |
ウフィッツィを堪能後 賑やかな人混みに戻って |
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