フィレンツェだより番外篇
2013年9月13日



 




ウードン作 「ヴォルテール座像」
エルミタージュ美術館



§ロシアの旅 - その5 エカテリーナ2世のコレクション

現地のロシア人ガイドさんの案内に耳を傾けていると,歴史上大きな業績を残した人物として,2つの名前が他を圧倒して頻出する.


 ピョートル1世(大帝)と,エカテリーナ2世(「エカチェリーナ」が原音に近いそうだが,慣例に従う.この人にも「大帝」という呼称を使う人もいる)だ.美術作品に関しても例外ではない.


数多あるレンブラント
 芸術よりも実学に興味があったと言われるピョートル大帝だが,彼のコレクションに既にレンブラント「ダヴィデとヨナタン」があったとのことだ.今回,この作品は観ていないが,エルミタージュとプーシキンで観たレンブラント作品の数が半端でないだけではなく,レヴェルが高い.

 ロシア人一般の好みに合ったのかどうかは分からないが,ロマノフ王朝の君主たちの趣味には合致したのかも知れない.私は,特に,レンブラントが好きと言うほどではないが,エルミタージュのコレクションには目を見張った.

 なかでも,多くの案内書が,エルミタージュ収蔵作品の最高傑作に挙げるのが,「放蕩息子の帰還」だ.私の好みから言うと,同主題の作品なら,日本の特別展で観ることのできたグエルチーノの作品の方が好きだが,レンブラントの作品が傑作であることに異論はない.

写真:
エルミタージュ美術館
レンブラント作
「放蕩息子の帰還」(部分)
ダンセズューヌ公爵家の
コレクションから,
1766年取得


 一応写真は撮ってきたので紹介するが,うまく映らなかった.多くの人がこの作品の前に群がるのと,置かれている場所にあたる光が,ちょうどこの絵の絵具やニスに反射するので,写真を撮ることにそれほど意味はないように思われ,観ることに専念した.

 エルミタージュのHPの作品解説には,少なくとも有名な画家の作品には,入手の経緯とその年代に関して,簡単な説明が付されている.正確なものと信頼する他はないが,非常に貴重な情報であろう.エカテリーナ2世の在位は1762年から1796年で,およそ34年の長きに渡っており,作品の入手年代がこの期間内であれば,彼女の意向を反映したものと推察できよう.

 エルミタージュのHPの他,すでに,言及した本だが,

 郡司良夫・藤野幸雄『エルミタージュ 波乱と変動の歴史』勉誠出版,2001(以下,郡司・藤野)

も貴重な情報源だ.1917年後の革命後の歴史が,あるいはご専門に近いのか,かなりの分量だが,古い歴史についても,一般読者には十分以上だろう.労作だと思う.

写真:
エルミタージュ美術館
レンブラント作
「イサクの犠牲」
ロバート・ウォールポールの
コレクションから,
1779年取得


 ロバート・ウォールポール(ウォルポール)は,私たちが高校生の頃は,「世界史」という科目で,「イギリスの初代首相」と習ったが,彼は美術品の収集家としても知られていた.彼のコレクションは,ノーフォーク州のホウトン・ホールに収蔵,陳列された.

 『オトラント城奇譚』(オトラントの城)で有名な作家ホラス・ウォルポールは,ロバートの息子だが,爵位継承の関係で,オーフォード伯爵は第1代が父,第2代は父と同名の兄,第3代が甥で,彼は第4代伯爵になる.エカテリーナ2世にコレクションを売ったのは1779年のことなので,第3代伯爵であるジョージの時だったようだ.

 この「イサクの犠牲」は,私は傑作だと思う.天使に制止されて,ナイフを落とすアブラハムの狼狽があるいは,独創的なのかも知れないが,全体の印象からすれば些末なことのように思える.少し先輩にあたるカラヴァッジョの作品が有名だが,レンブラントの方がずっと良い.

 『ブリジストン美術館開館30周年記念 エルミタージュ美術館秘蔵 レンブラント展』東京新聞・中日新聞,1982

は,1982年の秋に2か月弱,東京のブリジストン美術館で開かれた特別展の図録で,この年に私は東京にいたが,見ていない.図録も,今回の旅行でロシア美術に関心を持ったので,何か適当な参考書を探しに行った,神田の源喜堂で偶然入手した.

 その解説を読むと,ウオールポールは1767年にこれを入手したが,アムステルダムで売りに出されたのが,1760年とのことで,それ以前にどこにあったのかわからない.J.ヘルドと言う研究者が,テオドール・ペザという16世紀の劇作家の戯曲『犠牲を捧げるアブラハム』をレンブラントが知っていたと推定したと記述している.この戯曲のト書きに「アブラハムは短剣を手放し,地面に落とす」とはっきり書いてあるそうだ.

 この特別展は.「学者の肖像」,「フローラの装いのサスキア」,「(天使のいる)聖家族」,「老ユダヤ人の肖像」,「ダヴィデとウリア(モルデカイに栄誉を与えるように命じられたハマン?)」その他と素描,エッチングなど,垂涎のラインナップであったようだ.

 「フローラの装いのサスキア」(フローラを装うサスキア)の解説も詳細だが,そこには,ティツィアーノ作「フローラ」(ウフィッツィ美術館)が,当時アムステルダム在住だったアルフォンソ・ロペスの所蔵で,レンブラントがそれを観たとされている.周辺の考察もおもしろい.この図録はレンブラントに興味のある人は読むべきだろう.


「イサクの犠牲」
 カラヴァッジョの「イサクの犠牲」は,ウフィッツィ美術館所蔵の有名な作品を何度か見ているし,今回,エルミタージュ美術館で行われていた特別展「グエルチーノからカラヴァッジョまで」で “ナイト・ヴァージョン”と称される作品を初めて見た.

 しかし,プレートのメモを取らず,図録も売っていなかったうえ,ウェブ上にもこの出展に関する情報はないので,今は,この作品の所蔵が分からない.ただ,ウフィッツィの作品とは別の「イサクの犠牲」の写真がウェブ・ギャラリー・オヴ・アートあり,この作品を紹介した別のイタリア語のウェブ・ページに「夜の光で」(ア・ルーメ・ディ・ノッテ)とあるので,今一つ自信はないものの,おそらくこの作品であろうと思っている.

 「紋章の間」で開かれていたこの特別展の感想は別に書くが,文脈上,一応調べてみた.日本語で読めるカラヴァッジョの本は,相当数あるが,画集も含め,見た限り,この作品への言及はない.

 Felix Witting and M. L. Patrizi, eds., Michelangelo da Caravaggio, New York: Parkstone Press International, 2012

は,どれほどの水準の本かわからないが,新しいので参照すると,この作品も掲載されている.正直,カラヴァッジョの作品かどうかは疑問に思うが,感想は別の回で述べる.



 『旧約聖書』の「創世記」にあるこの物語の図像化には,どれほどの歴史があるのだろうか.

 良く知られているのは,フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉に使われるブロンズ・パネルの制作者の公募コンクールがあった時の,最終候補ロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキの競作になるそれぞれの「イサクの犠牲」で,これは両方ともバルジェッロ博物館に現存するが,1401年のものだ.

 写本挿絵の細密画をグーグルの画像検索(sacrifice of Isaac, miniatureで検索)で見ても,相当古いものもあるようだが.私たち一般の人間に見られるものとしては,思いつくのはラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイクだ.6世紀前半のもので,境内にあるガラ・プラキディア霊廟のモザイクよりは新しく,聖堂の建築とともにビザンティン様式の芸術だ.

 リュネット型の画面の向かって右端に「イサクの犠牲」(「創世記」22章)であり,その画面の中央から左側には,「3人の客をもてなすアブラハム」(「創世記」18章)が描かれている.今回,ロシアでイコンを見て,後者がイコンでは三位一体を表すものとして描かれたことを知った.そのことは,またイコンについて報告する時に触れる.


クロザ・コレクション
 エカテリーナ2世(1世に言及する機会も少なくないと思うので,その都度「2世」をつける)在位中に取得された最も重要なコレクションは,フランスの銀行家ピエール・クロザの収集品であろう

 郡司・藤野に拠れば,このコレクションの取得によって,ロシアに来た作品の中には,「ダナエ」を含むレンブラントが8点,自画像を含むヴァン・ダイクが6点,ルーベンスが3点,ラファエロの「聖家族」,ジョルジョーネの「ユディト」,ヴェロネーゼの「キリスト哀悼」(ピエタ)がある.

 このコレクションの取得に関しては,思想家ドゥニ・ディドロの助言があった(p.33).

 ピエール・クロザの死は1740年で,コレクションが競売に付されたのは1770年であるから,その間は甥たちが所有していたようだが,その中の1人ルイ・アントワーヌの死後,売りに出され,それをディドロの仲介で,エカテリーナ2世が買ったとのことだ(英語版ウィキペディア).

写真:
エルミタージュ美術館
ヴェロネーゼ作
「キリスト哀悼」(ピエタ)
クロザ・コレクションから


 最近,あまりヴェロネーゼの作品に感動しなくなったが,エルミタージュの「キリスト哀悼」は晩年のティツィアーノの絵に華やかな色彩を加味したように見え,何かしらの精神性を感じさせ,久しぶりに,良いと思った.

 複数あったティツィアーノ名の作品や,その他のヴェネツィア派の作品では,チーマとジョルジョーネを除けば,ヴェロネーゼのこの作品が,エルミタージュでは最高傑作に思えた.ピオンボの作品も3点あって,どれも傑作だと思う.

写真:
エルミタージュ美術館
ファン・ダイク作
「自画像」
クロザ・コレクションから


 今まで,ヴァン・ダイク(慣例に従い,この読みで通す)に特に感銘を受けたことはないが,破綻の無い高水準の絵を,出来不出来の差無く量産する画家,と言う印象を持っている.

 エルミタージュのHPの作品検索では23点がヒットする.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにも取り上げられ,私も写真を撮ったので,やはり印象に残る作品だと思うが,「ヴィルジニオ・チェザリーニの肖像」(エルミタージュのHPでチェザリーニの名前に「?」がついているが,解説は詳しい)もクロザ・コレクションにあった作品のようだ.

 チェザリーニは,フィレンツェ出身のマッフェーオ・バルベリーニ枢機卿,後の教皇ウルバヌス8世の周囲にいた人物で,ガリレオ・ガリレイの弁護者としても知られる.伊語版ウィキペディアに拠れば,ローマ生まれで,父はチヴィタノーヴァ公爵,母もオルシーニ家の出身,さらに,『小曲集』(カンツォニェーレ)というペトラルカの作品集と同名の詩集を発表した当時の代表的知識人であったようだ.ドメニキーノが描いた彼の肖像がウフィッツィ美術館に所蔵されているが,観た記憶はない.

 彼が29歳か30歳で亡くなったのは1624年で,ガリレオに対する異端審問は1616年から始まるが,有罪判決は1633年なので,ヴィルジニオは,科学と宗教と政治と思想と文化が葛藤した「ガリレオ裁判」の全体像を知ることなく夭折したことになる.

 見落とした可能性があるが,エルミタージュHPに拠れば,「イニゴー・ジョーンズの肖像」のあったようだ.「英国のウィトゥルウィウス」と称された17世紀前半を代表する建築家である.これはロバート・ウォールポールのコレクションで,ホウトン・ホールから来たようだ.ホウトン・ホールも18世紀に英国で流行したパッラーディオ風の建築で,芸術作品とされる.

 エルミタージュで観て,記憶に残っている彼の作品では,有名画家の作品としては平凡なものかも知れないが,「エジプト逃避行の休息」がある.これも,ウォールポールのコレクションだったようだ.宗教画,神話画,歴史画,肖像画にすぐれた画家であろう.

 1599年にアントワープ(アントウェルペン)に生まれ,画業の師は別の人物であったが,独立後ルーベンスの助手として活躍,1620年にイングランドでチャールズ1世の肖像を初めて描き,その後イタリアに渡り,20台の7年間を過ごした.帰国後,アントワープで5年間活動した後,1632年にイングランドでチャールズ1世の宮廷画家に迎えられ,寵遇を受けた.1641年にロンドンで死去し,セイント・ポール大聖堂に埋葬された.その年に清教徒革命の内乱がはじまり,チャールズ1世は1649年に斬首された.

 ヴァン・ダイクが描いたチャールズ1世の肖像画としては,ルーヴル美術館所蔵のものが有名だが,エルミタージュにも1点ある.これもウォールポールのコレクションだったようだ.

 チャールズは美術の愛好家として有名で,ジェンティレスキ父娘をそれぞれイングランドに招くなど,しっかりとした審美眼があったようだ.ただし,彼の宮殿を飾ったであろう多くの作品は,清教徒革命後に売却され,プラド美術館などのコレクションを豊かにしたことは良く知られている.


ルーベンス
 ヴァン・ダイクが筆頭助手として,一時期その工房を支えたルーベンスの作品も相当数,エルミタージュに所蔵されている.もともとルーベンスの絵を観て,それほどの感銘を受けたことはないが,もちろん偉大な画家だとは思っており,いつかアントワープ大聖堂の祭壇画を観てみたいと思っている.

 この美術館所蔵のルーベンスの名で伝わる作品としては,「バッカス」と寓意画「土と水の結合
が挙げられるが,前者はクロザ・コレクション,後者はローマのキージ・コレクションから取得された.後者の取得は1798年から1800年の間とあるので,エカテリーナ2世の時代ではなく,皇帝は息子のパーヴェル1世であったはずだ.

 クーデタで夫を排除して,結果的には殺害におそらく関与して帝位についたエカテリーナ2世を,実子であるはずのパーヴェルは好きではなかったようだが,彼もまた息子のアレクサンドル1世のクーデタで暗殺される.こうした血腥い歴史は背後にあるが,皇太子時代のパーヴェル夫妻はエカテリーナ2世の勧めで,ヨーロッパ諸国を歴訪し,その際,イタリアにも行っている.

 そこでパーヴェルは,古代彫刻とイタリア彫刻のコレクションに魅せられ,その購入を図った.これはうまく行かなかったが,帰国後,買い付けに成功し,在位中の1800年にこれを取得した.フランスではセーヴル陶器をルイ16世から贈られ,現在はエルミタージュの貴重な収蔵品となっている.後に皇后となるマリア・フョードロヴナが購入した,家具,調度,工芸品には彼女の趣味の良さが現れていて,後の皇帝となる2人の息子(アレクサンドル1世とニコライ1世)に引き継がれたとされる(郡司・藤野,pp.48-51).

 エルミタージュで観たルーベンス作品では,壁の高いところにあった「スザンナと長老たち」が印象に残ったが,HPでも,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートでも同名の別の作品の写真が紹介されていて,これは観た記憶がない.その作品をエルミタージュが入手したのは1932年なので,社会主義政権下のことのようだ.

 「スザンナと長老たち」だけではなく,絵柄から言って「マルスとヴィーナス」,「ルクレティアの凌辱」であろう作品も,HPのルーベンス作品の中にはない,それぞれ立派な作品に思えたが,あるいは別の画家の作品であったかも知れない.HPの題名検索が英語には対応していないようなので,今の所,これ以上は調べる術がない.

 色彩豊かで,大きな作品としては「キリスト降架」も目立っていたが,特に感銘はない.マルメゾン城の皇后ジョゼフィーヌのコレクションから1814年に取得されたとある.ナポレオンの妻だった女性だが,離婚後も「皇后」の称号を保持していた.

 1814年にナポレオンが最初に退位した後,戦勝国だったロシアの皇帝が彼女を保護した.同年の彼女の死去に際して,当時の皇帝アレクサンドル1世がマルメゾンの38点の絵画を購入した.その中には,レンブラントの「キリスト降架」,クロード・ロランの風景画4点が含まれていた.もともとは,ヘッセン=カッセル大公のコレクションであったが,ナポレオンがイエナ会戦の戦利品としてフランスに持ち帰っていたものらしい(郡司・藤野,pp.63-65).

写真:
エルミタージュ美術館
ルーベンス作
「ローマの慈愛」
ルートヴィッヒ・フォン・コベンツル
伯爵のコレクションから,
1768年取得


 「ローマの慈愛」(カーリタース・ローマーナ)は若い女性が老人に乳房を含ませている,人目を引く絵柄だが,これには故事があり,紀元後1世紀のラテン語作家ウァレリウス・マクシムスの作品に出典があるとされる.投獄され,餓死による死罪を宣告された父を娘が,自分の乳で飢えを凌がせたという伝説があり,ローマでは「女神ピエタスの神殿」にこの絵が描かれていたとのことだ.

ラテン語でピエタスは,敬神と親族愛を2つながら意味する語で,英語のピティとパイエティ,イタリア語のピエタの語源となった.

 英語のピティ,イタリア語のピエタは主として「憐れみ」を意味するが,ラテン語のピエタスは両義的であり,それを英語ではリリジャス・パイエティ(敬神)とフィリアル・パイエティ(孝心,親族愛)として説明される.ギリシア語では,1語では説明できない,ローマ固有の道徳であり,ローマ思想やローマ文学を考える上では,極めて大事な語である.

 一方,この絵のタイトルになった語のもとのラテン語であるカリタス(カーリタース)は,カールスが「愛しい,親しい」と言う意味であり,親愛,慈愛を意味する.英語のチャリティの語源である.ギリシア語でキリスト教的「神の愛」を意味するアガペのラテン語訳としても用いられる.

 古代ローマの伝説としては,あくまでの娘の孝心の寓意でありながら,キリスト教の立場からも広く「神の愛」を意味し得るので,好まれた画題と考えて良いだろう.

 私の記憶では,ウルビーノのマルケ国立絵画館で,フェデリコ・バロッチかオラツィオ・ジェンティレスキの同主題の作品を観たように思っていたが,同絵画館の比較的大きな図録でも見当たらず,ネット検索でもヒットしないので,私の勘違いだったのだろう.

 ネット検索では,ルーベンスのもう1点,ヴァン・ダイク,ムリーリョの名前がヒットし,それぞれ写真も見られるが,残念ながら他に有名な画家の作品は見当たらない.ただ,ウィキメディア・コモンズにポンペイの壁画(ナポリ,国立考古学博物館)の写真があり,典拠となったラテン語作家と同時代なので,その古さには驚く.

 ネット検索(グーグルの画像検索でRoman Charity)では,多くの写真が見られるが,ムリーリョの作品(フィラデルフィア美術学院)と並んで,エルミタージュのルーベンスが圧倒的に良いように思われる.


コレクションの中のイタリア絵画
 ボローニャの画家,クレスピの作品にはずっと注目しているが,エルミタージュでも複数観ることができた.『エルミタージュ2』でもきっちり3点取り上げており,やはり,誰が見ても良い絵なのだと思う.

 「ヨセフの死」は,対抗宗教改革以来,「父」としてのヨセフへの再評価が高まり,彼の死も描かれるようになった.ザクセン公国の首相ハインリッヒ・フォン・ブリュール独語版)のコレクション(1769年の購入時1676点)に入っていた作品とのことだ.エルミタージュでレンブラントの傑作を何点か観て,「聖家族」(クロザ・コレクション)に魅かれたが,画面の後ろで大工仕事に励むヨセフが印象に残る.

写真:
エルミタージュ美術館
ジュゼッペ・マリア・クレスピ作
「ヨセフの死」
フォン・ブリュール・ コレクション
から


 何と言っても,ジョルジョーネだ.有名な作品だが,この絵の前は比較的すいていた.

 新共同訳『聖書』では,「続編」に分類される「ユディト記」が典拠で,アッシリアの将軍ホロフェルヌスに包囲されたイスラエルの町ベトリアを救うために,未亡人ユディトが,敵将の陣営を訪れ,彼女に懸想して,葡萄酒に酔いつぶれたホロフェルヌスの首を侍女とともに切り落として,町の危機を救った.

 この話を翻案した文学作品としては,19世紀ドイツの劇作家フリードリッヒ・ヘッベルの戯曲『ユーディット』(岩波文庫に吹田順助の訳)がある.

 彫刻ではドナテッロ(フィレンツェ,ヴェッキオ宮殿)が有名で,ルネサンス絵画ではボッティチェリ(ウフィッツィ美術館),ミケランジェロ(システィーナ礼拝堂),ティツィアーノ(ドーリア・パンフィーリ宮殿)の作品を観ている.

 バロック絵画は数も多く,カラヴァッジョ(ボルゲーゼ美術館),アルテミジア・ジェンティレスキ(ウフィッツィ美術館,パラティーナ美術館),クリストファノ・アッローリ(パラティーナ美術館)の作品がすぐに思い出せる絵だ.

写真:
エルミタージュ美術館
ジョルジョーネ作
「ユディット」
クロザ・コレクション


 英語版ウィキペディア「ホロフェルヌスの首を斬り落とすユディト」からたどれる限りでは,ドナテッロ以前の図像化された作品とししては,ルーヴル美術館所蔵の12世紀の象牙細工しか古いものはわからない.ネット検索でしか調べていないが,写本細密画も12世紀のものは複数写真が見られるが,それ以前のものはわからない.

 ヘブライ語写本のない「続編」とは言え,ギリシア語写本(七十人訳)はあり,ヒエロニュモスのラテン語訳(ウルガータ)に採用されている以上,カトリック世界では,権威の裏付けがあったはずだが,他にはヴェズレーのロマネスクの柱頭浮彫の写真が見つかるくらいだ.

 バロックの作品は,血しぶきが描き込まれ,生々し過ぎて,私としては,ドナテッロの彫刻と,憧れつづけて初めて観ることができたジョルジョーネの絵画が,この主題では最高傑作に思われる.

 ジョルジョーネは現存作品の少ない,夭折の天才で,私にとっては幻の画家だが,それでもウフィッツィ美術館,ヴェネツィアのアカデミア美術館で複数の作品を観ている.次は是非,彼の故郷のヴェネト州カステルフランコの大聖堂を飾る「玉座の聖母子と聖人たち」を観たい.

 エルミタージュにはもう一点,ジョルジョーネの名前で伝わる作品がある.「風景の中の聖母子」である.美しい作品だが,小品なので,技術的に傑出しているのか,ジョルジョーネの特徴が出ているのかは,じっくり観て,写真も撮って来たが,私には判断がつかない.

 『エルミタージュ美術館所蔵 イタリア・ルネサンス美術展 フィレンツェとヴェネツィア』NHK,1999

は,国立西洋美術館で行われた特別展の図録で,私はその年には東京に職を得て,関東に在住していたが,残念ながら,それほど美術に興味が無かった時期なので見ていない.高円寺の都丸書店でその後,入手した古書だが,この時,この作品も展示され,図録には詳しい解説がある.

 それに拠れば,この作品がジョルジョーネ作とされたのが,1895年で,それ以後,多くの議論があって,否定的な研究者も少なくなかったが,それらの人々はエルミタージュで直接この作品を観ていないことが多く,現在は多くの研究者が「ジョルジョーネの初期作と考えている」としている.

 この図録の監修者は,ヴェネツィア派を中心に,日本のイタリア美術研究をリードしている越川倫明なので,もちろん信頼のおけるものだろう.この作品の解説は,監修者ではなくイリーナ・アルテミエワという,おそらくエルミタージュの学芸員と思われるが,先行研究を踏まえ,「ユディト」やカステルフランコの「聖母子」と比較しながら,説得力のある解説を展開している.

 だからと言って,この作品の魅力に開眼するかどうかは別問題で,アルテミエワの誠実な解説に拠れば,ジョルジョーネの真作ではあるかも知れないが,残念ながら,今回はその卓越性にひれ伏すには至らなかった.しかし,ジョルジョーネはやはり,レオナルドと並んで,その謎めいた魅力に振り回されながらも,ずっと追い続けたい画家だ.


彫刻作品
 エカテリーナ2世はロシア人ではなく,ドイツの領邦君主の娘であることは良く知られているが,夫だったロシア皇帝ピョートル3世も,母はピョートル大帝の娘アンナだが,父はドイツの領邦君主で,叔母である女帝エリザベータから後継指名を受け,ロシアに入った時にはもう14歳であったので,彼もまたドイツ人だったと言っても言い過ぎではないだろう.

 ピョートル3世とエカテリーナ2世は又従兄妹の関係だった.エリザベータの婚約者はエカテリーナ2世の夭折した伯父だったらしく,後のロシア皇帝たちの配偶者もドイツの領邦君主家の出身が殆んどだ.

 ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世は,血筋的には殆んどドイツ人であり,皇后アレクサンドラもドイツの領邦君主家の出身だった(英国のヴィクトリア女王の孫娘にあたり,言語は英語が主だったとのことだ).

 彼らが,ロシア皇帝であった背景は,ミハイル・ロマノフの血を継承し,ピョートル大帝の子孫(男系は孫のピョートル2世で絶えている)であり,ロシア正教徒であったことだ(必要な場合には改宗が行われた).現在の英国王室も男系の祖先はドイツの領邦君主であるから,ロシア皇帝の在り方もヨーロッパ的だと言える.

 エカテリーナ2世は,大都市の育ちではないが,ヨーロッパの宮廷の洗練された教育を受けており,当時の最先端に思想にも触れ,ヨーロッパではプロイセンのフリードリヒ2世と並び称せられる「啓蒙専制君主」であった.フランス革命の影響で晩年は反動化したとは言え,知性も教養も第一級で,毀誉褒貶はあるが,ロシアを「ヨーロッパの」大国に育て上げたのは,間違いなく彼女だ.

 彼女は啓蒙思想家ヴォルテールを尊敬していた.哲学者の死後,彼の蔵書を購入して,それを収蔵する図書室もつくった.ヴォルテール(1694年生まれ)の次の世代を代表する知識人ディドロ(1713年生まれ)とも親交があり,彼はエカテリーナ2世の美術品購入の仲介役を果たした.

 さらに,ディドロは,ロシアの駐フランス大使だったゴリーツィンの相談を受け,エカテリーナ2世が望んだピョートル1世の記念像を制作できる彫刻家として,エティエンヌ・モーリス・ファルコネを推薦した.

 1716年生まれのファルコネは,ルイ15世の愛妾としても有名なポンパドゥール侯爵夫人の庇護を受けるなど,当時の宮廷文化の中で流行していたロココ趣味を具現した芸術家であったが,前時代のバロック,また18世紀半ばからの新古典主義の影響も受けた.新古典主義を代表する彫刻家アントーニオ・カノーヴァが1757年生まれなので,やはり時代的に「ロココの彫刻家」(英語版ウィキペディア)と考えるべきであろう.

 しかし,彼は貧しい家の出身で,職人修業から始まって,彫刻家ジャン=バティスト・ルモワーヌに弟子入りした.学校教育は受けていないが,ギリシア語,ラテン語を勉強し,ディドロの『百科全書』でも「彫刻」の項目執筆を担当し,複数の著書もあった.「ファルコネの審美眼がエカテリーナの美術コレクションにもたらした功績は大きかった」(郡司・藤野,p.31)と評価されている.

写真:
エルミタージュ美術館
ファルコネ作
「キューピッド」


 審美眼だけではなく,実作者としても,彼はロシアに貢献した.エルミタージュのHPでは4作がヒットする.英語版ウィキペディアでは,「ピュグマリオンとガラテイア」があるとされるが,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートではルーヴル美術館所蔵となっており,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには大理石の「フローラ」がエルミタージュにあるとされるが,エルミタージュのHPの検索ではヒットしない.

 エルミタージュHPに拠れば,4点のうち少なくとも3点は,20世紀になってからエルミタージュに収蔵され,キューピッドは1932年にレニングラード(当時)のストロガノフ宮殿から移されたらしい.

 とすると,サンクトペテルブルクに元からあったファルコネの作品は,ネヴァ河畔のデカブリスト広場(元老院広場)にあるピョートル大帝の騎馬像,通称「青銅の騎士」だけという可能性もあることになるが,これも顔の部分は弟子のマリー=アンヌ・コローの手になるとされる.



 コローは後に,師匠の息子で画家のピエール=エティエンヌ・ファルコネと結婚し,フランスに帰るが,ロシア滞在中に,エカテリーナ2世の大理石胸像を制作しており,師匠とは別に芸術家として評価されていたことがわかる.

 エルミタージュのHPの彫刻の検索は国別で,作家別の絵画よりも少しわかりにくいが,それでもコローの彫刻は6点がヒットする.エカテリーナ2世,フランス王アンリ4世,スリー公爵,ディドロ,ヴォルテール,彫刻家ファルコネの大理石胸像で,非常に興味深いが,多分1点も今回は観ていない.

 エカテリーナ2世が直接委嘱,もしくは購入したとされるのは,HPの解説に拠れば,ヴォルテール像とファルコネ像だけのようだが,エルミタージュに入ったのは19世紀以後でも,それ以前からサンクトペテルブルクにあったものが殆んどのようだ.
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 コローの肖像画も描いた夫は1791年に死亡したが,娘が1人いて,コローは1821年まで生きる.大革命が起こった激動の時代だが,田舎に引退して平穏な死を迎えることができたらしい.



 ジャン=アントワーヌ・ウードン作「ヴォルテール座像」(トップの写真)は,エカテリーナ2世が注文して,フランスで作成され,ロシアに運ばれた.エルミタージュに他に,ウードン作のヴォルテール胸像が2点,ルソー胸像が1点,『博物誌』の著者として有名なビュフォン胸像が1点,その他3点の胸像があるが,いずれも観ていない.

 1741年生まれのウードンは,コローよりは年長だが,ファルコネより25年後進にあたり,フランスを代表する新古典主義の彫刻家と言えよう.

 ロシア皇帝の美術趣味としては,ピョートルがバロック,エリザベータがロココ,エカテリーナ2世は(新)古典主義とされ(George Heard Hamilton, The Art and Architecture in Russia, Penguin Books, 1954),それぞれ時代を反映している.自分が尊敬する思想家の彫像を新古典主義の彫刻家に作成させ,遺族から購入した7000冊のヴォルテールの蔵書を置いた図書室に,それを据えた時の女帝は,得意の絶頂だったかも知れない.

 ロシアにおける(新)古典主義志向に関しては,サンクトペテルブルクに現在も見られる諸建築とともに,考察の対象とされるべきであろう.簡単にでもそれについて,自分の感想が述べられるかどうかわからないが,大雑把には整理できるよう,努力してみる.






ファルコネ作 「青銅の騎士」像
“エカテリーナ2世がピョートル1世に”
向こう側にラテン語の銘
Petro Primo Catherina Secunda MDCCLXXXII
(こちら側はロシア語)