フィレンツェだより番外篇
2013年9月8日



 




シモーネ・マルティーニ作
「マグダラのマリア」,「聖アウグスティヌス」(それぞれ部分)
プーシキン美術館


§ロシアの旅 - その4 トスカーナの画家

ラファエロはトスカーナの人ではないが,フィレンツェ滞在を通じて,トスカーナの芸術山脈に連なり,そのローカル性を超えて,巨峰となった.


 エルミタージュのコレクションにはトスカーナ芸術の傑作が少なくない.個人的には,最高傑作はレオナルドよりも,フラ・アンジェリコの作品ではないかと思っている.フラ・アンジェリコはルネサンスの画家だが,その華やかな絵が生まれるためには,国際ゴシックの色彩が必要だった.

 フラ・アンジェリコの師匠筋にあたるとされるロレンツォ・モナコの「聖母子」もプーシキン美術館で1点見ることができたが,フィレンツェで活躍し,国際ゴシックの影響を受けた画家ロレンツォ(「モナコ」は修道士に意)はシエナの出身である.


シエナ派,シモーネ・マルティーニ
 シエナ派の特徴について,きちんと整理できるほど勉強していないが,シエナ派を代表するシモーネ・マルティーニは,フィレンツェのジョットに匹敵する巨匠であり,彼がその華やかな画風を携えて,南仏のアヴィニョンで活躍したことが,国際ゴシック流行の端緒とされる.

 ピエルルイージ・レオーネ・デ・カストリス,野村幸成(訳)『シモーネ・マルティーニ』京都書院,1994
 チェチリア・ヤンネッラ,石原宏(訳)『シモーネ・マルティーニ』東京書籍,1994
 ライモンド・ヴァイマール,鹿島卯女(訳・編)『シモーネ・マルティーニ』鹿島研究所出版会,1965

が日本語で読める参考書だが,特にデ・カストリスは作品別の解説が詳しい.ヤンネッラ,ヴァイマールにはエルミタージュとプーシキンの作品は,私が見落としているのでなければ,取り上げられていない.

 デ・カストリスに拠れば,下の写真の「受胎告知の聖母」は,所有者の変遷などについては,ある程度わかっているようだが,もともとどこにあったかはわからない.現在ワシントンのナショナル・ギャラリーにある「告知する天使」と対になっていた祭壇画と考えられているようだ.巨匠の真作であっても,助手の協力を得たものと解説されている.

写真:
エルミタージュ美術館
シモーネ・マルティーニ作
「受胎告知の聖母」(部分)

やはりガラスが反射する


 今回のロシア行では,シモーネの作品を3点観た.上掲のエルミタージュの小品も美しく,上品で巨匠の名を辱めないが,プーシキンで観た「マグダラのマリア」と「聖アウグスティヌス」(トップの写真)は感動的だ.

 旅行会社からもらった最終日程表では,プーシキン美術館は「本館」のみの観光予定になっており,「本館」と言うのは,印象派以前の古い絵画,彫刻が置かれた所であろうから,当然,シモーネの作品は観られると期待していたが,現地のロシア人ガイド,スヴェトラーナさんの予定では,日本人の関心は印象派以後の作品にあることが多いからなのか,19-20世紀の作品を展示している別館の「ヨーロッパコレクション部」のみの観光ということになっていたようだ.

 何よりもシモーネ・マルティーニ,と言う人はそれほどは多くないだろうし,新しい美術に興味のある方が殆んどであるのは仕方がないだろうから,それでも良いと思ったが,行動力抜群の添乗員Ugさんが素晴しい調整能力を発揮されて,少し駆け足になったが,「本館」も「別館」も観光できることになった.

 「ヨーロッパ・コレクション部」のコレクションも上質で,これも見られて良かったが,やはり,シモーネ・マルティーニの作品に出会えた喜びは大きかった.

写真:
プーシキン美術館
シモーネ・マルティーニの
作品と板絵とセーニャ・ディ・
ボナヴェントゥーラの磔刑図


 この「マグダラのマリア」と「聖アウグスティヌス」が同じ祭壇画の一部を構成していたことは,見た目にも明らかなように思える.バーナード・ベレンソンはこれをシモーネの真作としたけれど,常に協力者としてリッポ・メンミの名を挙げる説が唱えられ,場合によってはリッポの作品とされたこともあったようだ.

 たとえ,巨匠が全て描いたのでないとしても,協力者,もしくは本当の作者がリッポであるならば,リッポが好きな私は満足だ.この2つの作品は素晴らしい,と少なくとも私は思う.

 多分,形からして,一つの祭壇画のそれぞれ一部であったろう2人の聖人の絵の間には,セーニャ・ディ・ボナヴェントゥーラ作とされる彩色磔刑図が置かれ,実際とはだいぶ違うとは言え,ゴシック後期の祭壇の雰囲気を出していた.

 セーニャはやはりシエナ派の巨匠ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャとよく似た聖母を描く画匠で,彼もまたシエナ派に属している.1298年頃には活動していることが知られているようで,1255年頃に生まれたドゥッチョと,1284年くらいに生まれたとされるシモーネの間の世代の人であろうか.

 彼の彩色磔刑図は他に,シエナの国立絵画館,ロンドンのナショナル・ギャラリーで見られるようだが,ウェブ上の写真で見る限り,聖母子がやはりドゥッチョ風で印象に残る.今回,ロシアで複数の「聖母子」のイコンを観たので,なおさらそう思われる.


磔刑のキリストの図像
 彩色磔刑図はエルミタージュでも,ウゴリーノ・ディ・テディーチェ作品を見ている.13世紀のピサ周辺で活躍した芸術家とされる.

 この作品に関しては『エルミタージュ2』(pp.71-72)に思ったより詳しい情報があり,やはり彩色磔刑図で有名なジュンタ・ピザーノの工房にいた弟子と考えられ,ジュンタが創出した「受苦(受難)のキリスト」(クリストゥス・パティエンス)の図像を引き継いだとされる.

 同じ部屋に,ニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニともう1点,バルトロメオ・ブルガリーニと言うシエナ派の画家の1330年頃の板絵の「キリスト磔刑」があった.ニッコロの作品は1390年代の作品なので,ウゴリーノからは約150年,セーニャからは約100年後の作品ということになる.

 ジョットの彩色磔刑図(サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会など)以後,死後のキリストが描かれるようになり,ニッコロの作品もそのようになっている.この図像も是非,イコンと比較したいところだが,残念ながらイコンの磔刑図を写真以外で,ちゃんと観た記憶がない.

学芸員さんの解説に,磔刑のキリストの両足が交差しているかどうかという指摘があった.


 今まで,浮彫,木彫,大理石,ブロンズ,彩色磔刑図,モザイク,フレスコ画,テンペラ画,油彩のキリスト磔刑図像を山ほど観てきたが,その点に注意を払ったことは全くなかった.

 3月のローマ行でも,サン・ロレンツォ・イン・ルチーア聖堂で,グイド・レーニの「キリスト磔刑」を観たいと思い,実際に観ることができたが,どうだったか問われても,両足が交差しているか,右足と左足のどちらが上か,全く記憶にない.

 今,レーニに絵に関して報告したページで確認すると,両足は交差しており,上になっているのは私たちから向かって左,すなわちキリストの右足だ.足を十字架に固定するために打ち付けられた釘は1本になっている.

 エルミタージュのニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニ(14世紀末)の絵は実はこのタイプであり,一方,ウゴリーノ・ディ・テディーチェの磔刑図(13世紀半ば頃)は,両足が交差しておらず,釘はそれぞれの足に1本ずつ,打たれている(下の写真右側).学芸員の方は,これを時代による違いと説明された.

 エルミタージュで観たキリスト磔刑で印象に残ったものでは,シエナ派のブルガリーニ(14世紀前半)は両足が交差して釘は1本である.スペイン絵画のコーナーでアロンソ・カーノの立派な油彩の「キリスト磔刑」(1630年代)を観たが,両足交差,釘1本である.

写真:
磔刑のキリストの足
左は両足交差,釘1本
右は交差無し,釘2本


 キリスト磔刑図像のタイプとして,「勝利(栄光)のキリスト」(クリストゥス・トリウンパンス),「受難(受苦)のキリスト」(クリストゥス・パティエンス)があり,アッシジのフランチェスコが心に訴えかけられたサン・ダミアーノの十字架は前者,ジュンタ・ピザーノやチマブーエの彩色磔刑図は後者というのは,随分前に学習した.

 イタリアの宗教芸術に目覚める契機となった,サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂のジョット作の彩色磔刑図は,ずっとクリストゥス・パティエンスに分類され,チマブーエとジョットの間に連続があるものだと思っていた.

しかし,昨年のフィレンツェ行で,現地ガイドさんに示唆され,啓蒙的な本だが,専門家(石鍋真澄)のコメントも参照して,チマブーエの場合は苦しんで身をよじった姿であり,ジョットの作品は死んだキリストの凄惨な姿であることに遅まきながら気づいた.


 この場合,ラテン語では,クリストゥス・モリエンス(死に行くキリスト),クリストゥス・モルトゥウス(死せるキリスト,もしくは死んだキリスト)と言う語を用いれば,前者はクリストゥス・パティエンスと区別はつかないので,後者ということになるかも知れないが,これは専門用語を確かめていない.

 サンタ・マリーア・ノヴェッラの作品を含めて,ジョット作の可能性のある彩色磔刑図は全て,両足交差釘1本である.では,この変化はジョットから起こったのだろうか.

 しかし,ジョット作とされる作品でも,スクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ画は釘が2本かどうかは確認できないが,両足は交差していない.すがりつくマグダラのマリアの手で左足は隠れていてよくわからないが,全く交差していないわけではないものの,1本の釘で両方打ち付けるのは難しい位置関係に見える.

 シエナ派でジョットに対応する大芸術家ドゥッチョの場合,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに見られるキリスト磔刑図像は全て金地板絵のテンペラ祭壇画で,殆んどは両足交差釘1本だが,1作だけ(シエナ大聖堂博物館,1310年頃)両足別々釘2本になっている.

 チマブーエの彩色磔刑図は2作現存しているが,若い頃の作とされるアレッツォのサン・ドメニコ教会の作品,その20年後くらいのフィレンツェ,サンタ・クローチェ聖堂の作品(写真は洪水被害前の姿の復原),ともに両足別々釘2本である.時間差はあるがどちらも13世紀後半の作である.セッコの技法で描かれたからであろうか,色落ちして全くわかりにくいが,アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の上部教会に描かれたフレスコ画(1280年頃)もやはり両足別々(釘はよく見えない)である.

 これらの作例から,ジュンタ・ピザーノからチマブーエまでの13世紀の「受難のキリスト」に関しては,両足別々で,13世紀から14世紀にかけてのドゥッチョ,ジョットでは稀には両足別々型も見られるが,概ね両足交差釘1本型になり,ジョッテスキやシモーネ・マルティーニ以後のシエナ派ではほぼ全て両足交差釘1本型になる,と整理できるだろうか.

 今思いつく,上記に当てはまらない例としては,ジョヴァンニ・ピザーノがピサ大聖堂の洗礼堂の説教壇に彫った浮彫パネルにキリスト磔刑があるが,これは両足交差釘1本で,制作が1260年頃だから,少なくともチマブーエの磔刑図像のうち2つよりは早く,ドゥッチョ,ジョットよりも古い.

 また,ジョッテスキでも,タッデーオ・ガッディの折り畳み式携帯祭壇画(ベルリン国立博物館,1333年)に描かれたキリスト磔刑は小さくて釘はよくわからないが両足別々に見える.サンタ・クローチェ聖堂の中央祭壇に掲げられたフィリーネの親方作と言われる彩色磔刑図も,釘は良く見えないが,両足別々のようだ.14世紀前半も早い時期の作品と思われる.



 記憶だけでは頼りないので,参考書に頼る.

Crucifixion, London: Phaidon Press, 2000

は,磔刑図像を時代順に並べた便利な本で,それに拠れば,現存最古の磔刑図像は5世紀前半の象牙浮彫で,現在は大英博物館にある.2番目として掲載されているのが,私たちも拝観したローマのサンタ・サビーナ聖堂の扉の木彫浮彫(6世紀)で,どちらも,両足別々だ.釘は分からないが,少なくとも,両者とも,両手に釘が打たれている.

 フィレンツェのラウレンツィアーナ図書館の彩色写本の絵(586年)は,両足別々で,両手だけでなくどちらの足にもそれぞれ釘が打ちつけられている.この本で見る限り,ジョヴァンニ・ピザーノまで,両足交差釘1本の図像は現れない.

 さらに,この本ではジョットのスクロヴェーニのフレスコ画を最後として,両足別々釘2本型の図像が次に現れるのは,ルーベンスの作品(アントワープ,1620年)である.それ以後ではスルバラン(セビリア,美術博物館,1620年代末),ヴァン・ダイク(ルーヴル美術館,1630年頃),ベラスケス(プラド美術館,1630年代初頭)と続々出て来る.

 さらにジョットのスクロヴェーニのフレスコ画から1620年のルーベンスの油彩画の間の作品は,殆んどが右足が上だが,ペルジーノ(ワシントン,ナショナル・ギャラリー,1485年頃),ティントレット(ヴェネツィア,サン・ロッコ同信会,1565年),エル・グレコ(ルーヴル美術館,1580年代前半)の作品が,写真が反転していなければ,左足が上である.

 今まで気にしていなかったくらいだから,作品の全体的から受ける感銘には些末な影響しか及ぼさないかも知れないが,言われてみると,確かに,ある時代(13世紀前半)からある時代まで(17世紀前半)までは両足交差釘1本型が殆んどだったことが分かる.勉強になった.


ニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニ
 シモーネ・マルティーニはシエナ派の中から出て,アヴィニョンで活躍したが,ニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニは,親の代からのフィレンツェの画家で,ジョッテスキの画家たちの門下で修業した.

 サンタ・クローチェ聖堂のカステッラーニ礼拝堂の立派な彩色磔刑図も彼の作品とされるが,エルミタージュの作品と同様,両足交差釘1本型だ.同じサンタ・クローチェの聖具室にクローチェに「キリスト復活」のフレスコ画を描いているが,その隣りのタッデーオ・ガッディのフレスコ画のキリスト磔刑も,やはりタッデーオの「最後の晩餐」の上に描かれた「生命の樹」の磔刑図も両足交差釘1本型だ.

 ニッコロはフィレンツェを中心にトスカーナで活躍した,現代の視点からはローカル・ぺインターと言っても良いだろうが,シエナ派に対して「フィレンツェ派」と言う用語を使えば,その中では,ロレンツォ・モナコ(シエナ出身だがフィレンツェで活躍)の少し先輩にあたり,後期ゴシックと国際ゴシックの前者側の境目にいた画家と考えて良いだろうか.

 父も息子も画家だし,誤って息子と考えられていた通称ロレンツォ・ディ・ニッコロ・ジェリーニ(ロレンツォ・ディ・ニッコロ・ディ・マルティーノ)という弟子も育てた.典型的なトスカーナの職人型画匠と言えよう.

 エルミタージュにもロレンツォ・ディ・ニッコロの作品の可能性のある「聖母子」があった.この作品を解説するとき,学芸員の方は,彼をはっきりニッコロの息子と言っていた.

 ロレンツォ・ディ・ニッコロ作の立派な祭壇画(中央上部に「三位一体図があり,磔刑のキリストは両足交差釘1本型)を私たちはコルトーナのサン・ドメニコ教会で見た.私たちがニッコロの作品だと思って見たプラートのサン・ドメニコ教会の彩色磔刑図(両足交差釘1本型)も,ロレンツォ・ディ・ニッコロの作品とされることもあるようだ.



 「国際ゴシック」というものの全貌を理解するに至っていないが,大体,華麗で色鮮やかな中世末期の作品を見ると,「国際ゴシック」という語が思い浮かぶ.

 イタリアでは,ロレンツォ・モナコ,ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノがその代表だろうが,後者からその画風を弾く継いで初期ルネサンスの時代に活躍したのがピザネッロとヤコポ・ベッリーニ,前者の影響を受けて初期ルネサンスを華やかにしたのがフラ・アンジェリコという風に理解している.

 ロレンツォ・モナコの絵はエルミタージュにはなかったが,プーシキン美術館には1点(「謙譲の聖母子と天使たち」)あった.これまで,ロレンツォ・モナコの名前で伝わる彩色磔刑図を相当数見ているが,多分全て両足交差釘1本型ではないかと思う.

 同じく,フィレンツェで国際ゴシックの影響を受けた画家としてビッチ・ディ・ロレンツォ(英語版ウィキペディアには言及はないが,伊語版には国際ゴシックの影響への言及がある)が挙げられる.エルミタージュでは1点(「玉座の聖母子と小ヤコブ,洗礼者ヨハネ,天使たち」)が観られた.特に魅力的とは思わないが,破綻の無い綺麗な絵でビッチらしい作品に思える.

 しかし,何と言っても,フラ・アンジェリコの作品は素晴らしい.ともに修道士であっても,属する修道会が違うし,ロレンツォ・モナコが師匠だったかどうかはわからないようだが,間違いなく影響は受けているだろう.


フラ・アンジェリコの画業
 フラ・アンジェリコは,1395年頃ムジェッロの谷の小邑ヴィッキオの近傍のルペカーニアという村で生まれたらしい.百年以上前にジョットが生まれた村コッレ・ディ・ヴェスピニャーノの近くだ.

 フラ・アンジェリコの画業がいつ頃から始まったのは,わからないが,ヴァザーリは兄と共に写本や楽譜の細密画(一部の作品がサン・マルコ博物館に所蔵)を描いたと言っているので,出発点は細密画であったかも知れない.いずれにしろヴァザーリの「フラ・アンジェリコ伝」は詳しくもないし,それほど面白くもない.

 コルトーナのドメニコ会修道院で画匠ゲラルド・スタルニーナの助手を務めたらしいが,1418年以降は故郷の近くのフィエーゾレのサン・ドメニコ修道院に移り,ここではフレスコ画も祭壇画も描いたので,修道士でありながら同時に画匠としても評価されていたであろう.

 1436年に,フィエーゾレの多くの修道士たちとともに,コジモ・デ・メディチの後援を受けて創設されたサン・マルコ修道院に移り,ここには有名な「受胎告知」他のフレスコ画が多く残っており,現在は閉鎖された教会や修道院から集めた彼の祭壇画が集められ,国立の博物館となっている.

 没年ははっきり1455年なので,この年にレオナルド・ダ・ヴィンチは3歳であるから,フラ・アンジェリコは中世の画家ではなく,初期ルネサンスの芸術家であることがわかるが,と言うことは,生年が推定なので,およそ,と言うことだが,ほぼ60歳まで生き,当時としてはまずまず天寿を全うしたと言える.



 天才が60年の人生で,絵を描き続けて,激動の時代に同じ画風で描き続けるはずもなく,今まで考えたことがなかったが,この画家にも成長や変化があったはずだ.

 「受胎告知」を例に見てみる.よく似た3つの祭壇画の「受胎告知」が,コルトーナ司教区博物館,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ参事会教会付属博物館,プラド美術館にあるが,これらはいずれも1430年代前半の作品とされる.

 一方,サン・マルコ修道院に描かれた最高傑作のフレスコ画「受胎告知」は1440年代前半,僧坊のフレスコ画「受胎告知」も同じ頃,さらに,現在はサン・マルコ博物館にある「キリストの生涯の諸場面」の3枚の板絵の内の1枚の上部に描かれた「受胎告知」は1450年代前半(晩年)の作品とされる.

 祭壇画の上部に描かれた「受胎告知」もある.コルトーナの司教区博物館にある三連祭壇画は,もとはサン・ドメニコ教会にあったようで,上部左右の円内にそれぞれ「受胎告知」のガブリエルとマリアが描かれており,1437年頃の作品である.サン・マルコ旧修道院博物館所蔵の小さな祭壇画は,「三王礼拝」の上に「受胎告知」が描かれており,これは1420年代前半の作品とされる.

 それぞれ時代によって個性が違うように感じられるが,ここまで見ただけでも,フィエーゾレに移った1418年,サン・マルコ修道院に移った1436年がそれぞれ画家にとって大きな転機であったことがわかる.

 1445年にフラ・アンジェリコはローマに呼ばれる.その際,ヴァザーリに拠れば,教皇からフィレンツェ大司教の地位を提示されたが,断って,同僚修道士で学識高いアントニーノ(後に列聖)を推薦したと言う.その教皇をヴァザーリはニコラウス5世と言っている(邦訳,p.86)が,その時の教皇はエウゲニウス4世になる.

 エウゲニウスがフラ・アンジェリコに委託したサン・ピエトロ大聖堂の礼拝堂のフレスコ画は,後に破却されて,現存しない.

 1447年にフラ・アンジェリコはオルヴィエートに行き,大聖堂の仕事に取り掛かったが,同年ローマに呼び戻され(オルヴィエート大聖堂サン・ブリツィオ礼拝堂の仕事は後にルーカ・シニョレッリが完成した),教皇ニコラウス5世の依頼で,教皇宮殿の礼拝堂(カッペッラ・ニッコリーナ)に,聖ステパノと聖ラウレンティウスの物語を題材としてフレスコ画(壁面天井)を描いた.

 ウェブ上の写真や本で見る限り,このフレスコ画は素晴らしいが,見たことはない.いずれにせよ,50代のフラ・アンジェリコが教皇から直々にヴァティカンの仕事を依頼され,大司教の地位を提示されるほどの人物だったことになる.

 1447年,彼は故郷に近いフィエーゾレのサン・ドメニコ修道院に修道院長として帰り,その職を2年間務めた.その後,ローマでの仕事を仕上げるため,ローマのドメニコ会修道院に滞在していたが,1455年に亡くなり,同修道院が管理するサンタ・マリーア・ソプラ・ミネルヴァ聖堂に葬られた.

 その墓には後に墓碑が加えられたが,私たちも2008年2月に詣でている.



 現在エルミタージュには,フラ・アンジェリコ作とされる作品が3つある.そのうち,キリストと天使の絵が描かれた金色の聖遺物収納器は見ていない(エルミタージュのHPに写真がある).テンペラ祭壇画「謙譲の聖母子と天使たち」は美術館のHPでは1425年頃,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートでは1418年頃の作品とされる.

 いずれにせよ,コルトーナでの修業時代を終えて,フィエーゾレの修道院に移り,画匠として本格的な活動は始める初期の作品ということになる.題材もロレンツォ・モナコの作品にも見られるものだ.フィエーゾレのサン・ドメニコ教会にあった祭壇画の聖母との類似からフラ・アンジェリコの作とされたようだ.

 この作品について,専門書と言えるかどうか,

 John Pope-Hennessey, Fra Angelico, London: Phaidon Press, 1974
(以下,ポープ=ヘネシー)

を参照すると,簡潔な説明があり(p.227),それによれば,ストロガノフ・コレクションに在った時はジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの作品とされていたが,コラッサンティと言う研究者によってアルカンジェロ・ディ・コーラ・ダ・カメリーノの作品とされた.「ダ・カメリーノ」と言うからにはジェンティーレと同郷の画家かも知れないが,初めて聞く名だ.

 その後,20世紀半ばごろに,ロベルト・ロンギとサラミという研究者がフラ・アンジェリコの作品としたとのことなので,この時点で初めてフラ・アンジェリコ作品となったと言うことになる.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートは,この立場を引き継いでいるのかも知れない.

 フラ・アンジェリコに帰した研究者たちの根拠を浅薄だとしながらも,この箇所には最終的な結論はなく,索引の所に「フィレンツェ派」としているので,ポープ=ヘネシーは,この作品をフラ・アンジェリコの作品とは考えていないようだ.この索引では,エルミタージュ所蔵の聖遺物収納器は「工房作品」としている.

 この本では,私たちがルーヴルで心打たれた「天使たち」も「工房作品」としている.巨匠の「工房作品」であることは,必ずしも作品にとって不名誉なことではない.たとえ,真作でなくても,ルーヴルの天使たちは何度でも観たい.

 それに比べれば,エルミタージュの「謙譲の聖母子と天使たちは」は,フラ・アンジェリコの真作だとしても,特に何度も観たいとは思わない.たとえ巨匠の真作でも,何度も観たいと思うほどでもない作品は,フィレンツェのサン・マルコに行けば複数あるように思える.

写真:
エルミタージュ美術館
フラ・アンジェリコ作
フレスコ画
「玉座の聖母子と聖ドメニコ
と聖トマス・アクィナス」

ガラスに窓外のネヴァ川が
映る


 一方,「聖母子と聖人たち」(聖人はドメニコとトマス・アクィナス)は,ポープ=ヘネシーも「フラ・アンジェリコ作」のお墨付きを出している.そこでは,ルーヴルにある剥離フレスコ画との類似から,ショットミュラーという研究者の1436年と言う説を紹介したうえで,ルーヴルにある剥離フレスコ画「キリスト磔刑と聖母,福音史家ヨハネと聖ドメニコ」と同様,フィエーゾレのサン・ドメニコ教会に現存する祭壇画(現状は背景が青空で,金地祭壇画のように見えないが,ロレンツォ・ディ・クレーディによる改変であることは英語版ウィキペディアにも説明されている)との類似を根拠に,1430年代の前半の作品としている.

 ポープ=ヘネシーには,ルーヴルとエルミタージュの剥離フレスコ画の白黒写真を掲載している(ページ数は示されていないが,それぞれFig.16,Fig.17という番号が付されている)が,どちらもフィエーゾレのサン・ドメニコ修道院から移される前の状態の悪いもののようだ.1888年にはコダックカメラが一般人向けの写真機を売りだしている(日本語ウィキペディア「写真」)ようなので,サン・ドメニコ修道院がフレスコ画を剥がして売りに出す直前のものと考えて良いのだろう.

 エルミタージュのHPに拠れば,修道院から作品を買ったフィレンツェの画家アレッサンドロ・マンッゾンティとコジモ・コンティから,エルミタージュが入手したのは1883年とのことだ.

 特にルーヴルの作品は,じっくり見て写真も撮って来たので,とても同じ作品とは思えないほど状態が悪いように見える.それでも,よく見ると,サン・マルコ旧修道院の回廊にあるフラ・アンジェリコのフレスコ画(チェッコ・ブラーヴォが両側に聖母とヨハネを描き足した)に似た,ルーヴルの剥離フレスコ画と同じ絵に見える.

 それに比べれば,エルミタージュの剥離フレスコ画は,古い白黒写真で見る限りだが,それほど状態は悪くなかったように思える.もちろん,本当はフィエーゾレで見られた方が良いわけだが,壁から剥がされて,修復され(特に両側の聖人),額装されても,この絵は観ることができて良かった.個人的にはエルミタージュで観た最高傑作だ.

 未練がましいようだが,書架にあった,

 Laurence Kanter / Pia Palladino, eds., Fra Angelico, New York: The Metropolitan Museum of Art, 2005

を参照して見た.ポープ=ヘネシーがちょっと出版年代が古いので,セカンド・オピニオン(と言うのかどうか)として,参考にしたいと思った.メトロポリタン美術館で開催された特別展の図録だ.

 この展覧会にエルミタージュの両作品は展示されていないようだが,作品の制作時期別のそれぞれの章に解説が付され,第1章「初期作品」の解説に,エルミタージュの「謙譲の聖母子と天使たち」のカラー写真が掲載されている.ピサ,ロッテルダムの作品と並ぶ,独立した画匠としての最初期の作品であり,その中ではこの作品が最初のもので,ロレンツォ・モナコ工房の作品の特徴を備えながら,それを越えた作品であると評価している.

 ということは,これを書いた研究者(カンターが担当)は,この作品はフラ・アンジェリコの真作と考えているということになるのだろうか.エルミタージュのHPもウェブ・ギャラリー・オヴ・アートもいささかも真作性を疑っていないので,その自信には,このような研究者たちの見解が背景にあると想像される.

 今の時代に,フラ・アンジェリコの卓越性を疑う人はいないだろう.そうした一般的了解があるから,私も安心して「エルミタージュで観た最高傑作」と言っても,レオナルドにもラファエロにもカラヴァッジョにも失礼にならないだろう.

 だから,「最高傑作」とは言わないが,観られて最も嬉しかった作品は,間違いなくスピネッロ・アレティーノの2つの聖人画だ.


スピネッロ・アレティーノ
 アンリ・フォションはラファエロの卓越性を讃えるのに,ジョットを引き合いに出し,彼がフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂でフランチェスコのフレスコ画を描いた時,「ジョットと言う画家は,このとき,人間表現の力として存在した」との称賛に続けて,「このように空間と人間を構成し,壁面を尊重して調和を生み出すことを,ジョット亡きあとのジョット派は忘れ去った.ジョット派の多くの画家は,間違いなく魅力的だったが,フォルムの建設者やフレスコ画の建築家であるより,デリケートで感受性の勝った詩人だった」,「ガッディ父子,スピネッロ・アレティーノ,そしてウフィツィ美術館の最初の二室の画家たちを見たあとで,カルミネ聖堂のブランカッチ礼拝堂のマザッチョのもとへ足を運ぶと,私たちはふたたび偉大な絵画の伝統に出会う」と言っている.

 要するに,ラファエロは,イタリア絵画の歴史の中で,ジョット,マザッチョと並び称せらるべき偉大な伝統の創造者だと言う文脈だが,必ずしも否定的ではない言い方でスピネッロの名前が出てきたのは,意外な感じがした.

 それ以上に,何の予備知識もなく,スピネッロの作品がエルミタージュにあったのは驚きだった.

写真:
エルミタージュ美術館
スピネッロ・アレティーノ作
左:「聖ベネディクト」
右:「聖ポンティアヌス」
(それぞれ部分)


 この画家との最初の出会いは,厳密に言えば,初めてサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂を訪れた2007年5月5日であった.この聖堂の聖具室で,連作フレスコ画「聖ベネディクトの物語」を観て,完成度の高さに感心し,初めて聞く作者の名前を確認した.

 しかし,本格的な出会いは,同年の6月26日にアレッツォに行ったときだった.中世・近代美術館とサン・ドメニコ教会で,彼の作品の力強さに感銘を受け,翌々日にサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂を再訪し,聖具室で彼のフレスコ画の魅力を再認識した.

 フィレンツェでは,はっきりスピネッロの作品とされる絵が観られるのは,他にアカデミア美術館(複数の祭壇画)とサンタ・クローチェの聖具室のフレスコ画(十字架を担うキリスト)と,ヴェッキオ宮殿のロウザーコレクションのフレスコ画断片くらいだ(サン・バルナバのフレスコ画,サンタ・マリーア・マッジョーレのシノピアにその可能性が言われることもある).

 彼の作品を観に,ルッカ,シエナ,ピサに行き,アレッツォも再訪し,ミラノでも偶然だが,彼が描いたとされる作品を観ることができた.

 何度も言うが,フィレンツェ近郊バーニョ・ア・リーポリのアンテッラ地区にあるサンタ・カテリーナ祈祷堂のフレスコ画は観ていない.



 スピネッロはフレスコ画に優れるが,祭壇画は劣るという評価もあるようだが,エルミタージュで,シモーネ・マルティーニの作品を置いた部屋とフラ・アンジェリコをの作品を置いた部屋の間の通路にあった,この2枚のパネル画を見落とすことはあり得なかった.

 エルミタージュのHPから得られる情報は,1383年か84年に描かれた作品で,1910年に皇帝アレクサンドル3世のロシア美術館からエルミタージュに移管された「聖ベネディクト」と「聖ポンティアヌス」のテンペラ画であることだけだ.

 2007年6月26日の「フィレンツェだより」で,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートを参照し,他にシエナ,ピサ,ブダペストでスピネッロの作品を見られるらしい,と書いているが,エルミタージュには触れていないので,この時点ではエルミタージュの作品の記載はなかったものと思われる.

 しかし,現在,同ページでもエルミタージュの2作品を紹介しており,「聖ベネディクト」の解説に拠れば,オリヴェート修道会に所属するルッカのサン・ポンツィアーノ修道院にあった作品で,多翼祭壇画の一部だったとある.中央には当然「聖母子」とか,「聖母戴冠」,「三位一体」などがあり,三翼ではない多翼祭壇画であれば,他にもパネルがあったはずだが,その情報はない.

 そこで,これも欲しくて欲しくてやっと手に入ったのに,現実には本棚の重しになっている本だが,

 Stefan Weppelmann, Spinello Aretino e la Pittura del Trecento in Toscana, Firenze: Edizioni Polistampa, 2011(以下,ヴェッペルマン)

を参照した.

 ヴェッペルマンに拠れば,これらの作品は三翼祭壇画を構成しており,中央には「19人の礼拝する天使に囲まれた玉座の聖母子」があり,この作品は現在,ハーヴァード大学のフォッグ美術館にあり,裾絵(プレデッラ)の「三王礼拝」(中央),「修道士たちを祝福するベネディクト」,「ヘロデの饗宴」は,パルマの国立絵画館にあるとのことだ.「ベネディクト」は聖母子の左,「ポンティアヌス」は右に並んでいたようだ.

 この本は大部なもので新しいが,写真はカラーではない.中央パネルの「聖母子」は期待を裏切る出来に見えるが,それでも聖母の顔の拡大写真はまずまずなので,いつの日か観たいという気持ちになる.

 同じ白黒写真でもエルミタージュ所蔵の作品は見事に見える,プレデッラも含めて聖ベネディクトの顔はサン・ミニアート・アル・モンテの聖具室のフレスコ画と同じ顔で,懐かしさすら感じる.



 ベネディクト会を創設し,西欧修道院の基礎を創ったヌルシア(ノルチャ)のベネディクトに関しては,いまさら言うまでもないだろうが,ポンティアヌスに関しては,私は知らなかった.日本語ウィキペディア「ポンティアヌス(ローマ教皇)」からも基本的な情報が得られる.

 3世紀のローマ教皇で,皇帝マクスィミヌスの弾圧を受け,サルディニア島に流刑となり,鉱山での強制労働に従事し,疲労と虐待で死亡した.ドイツ語ウィキペディアには,スピネッロの絵の写真が掲載されている.

 古い本なので,セカンド・オピニオンになるかどうかわからないが,

 Anna Rosa Calderoni Masetti, Spinello Aretino Giovane, Firenze: Centro Di, 1973
(以下,マゼッティ)

を参照すると,「サン・ポンツィアーノの多翼祭壇画」の中央にあった「聖母子」は,現在(当時,と言うべきだろうか)はロンドンにある個人蔵の作品とされていて,白黒だが写真も載っている.聖母の顔はこちらの方が良いが,私には何とも言えない.それとは別に,フォッグ美術館の「聖母子」の写真も載っていて,論考もあり(p.48),パルマの裾絵とも関連付けられているが,私が見た限り,エルミタージュの作品とは結びつけられていない.

 ただ,マゼッティが言っている「サン・ポンツィアーノの祭壇画」が,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートが言っているルッカの修道院にあったものと同じものなのかどうかわからないし,エルミタージュの作品に関しては,写真に「サン・ポンツィアーノの祭壇画」の説明書きが付されるのみで,本文には言及がなく(p.13でその他の絵と一括して「サン・ポンツィアーの祭壇画」に分類),マゼッティが「サン・ポンツィアーノの祭壇画」の一部とする他の聖人たち(大ヤコブ,ピリポ,バルトロマイ,マグダラのマリア)は,明らかにエルミタージュの聖人たちとは描かれている板の感じが,白黒写真で見ても違うように思える.

 「聖母子」はマゼッティの挙げるもの方が魅力的だ.しかし,一応ヴェッペルマンの方が全体としては説得力があるように思えるが,私の守備範囲ではないので,あくまでもエルミタージュの作品には心魅かれたという感銘を大事にしたい.


その他のお馴染みの画家たち
 スピネッロの次に言及するのが,ポントルモでは間をはしょり過ぎだが,期待していたロッソ・フィオレンティーノの「聖母子」がエルミタージュには展示されていなかった.

 彼らの師匠筋のアンドレア・デル・サルトの作品は同じ部屋にあったし,ラファエロに,レオナルド,ミケランジェロと並んで影響を与えたと,ヴァザーリも,フォションも,若桑みどりも言及している画家フラ・バルトロメオの作品も別の部屋で見つけたし,その盟友のマリオット・アルベルティネッリも,さらにロッソとポントルモの後進のブロンズィーノの作品も見られたが,どれもそれほどの作品とは思えなかった

そうした中,さすがにポントルモのこの作品は傑作に思えた.少年の洗礼者ヨハネが,脱力系の可愛さだ.

写真:
エルミタージュ美術館
ポントルモ作
「聖母子と聖ヨセフと
洗礼者ヨハネ」(部分)


 フィリッポ・リッピの作品がエルミタージュに1点,フィリッポの弟子ボッティチェリとその工房の作品がエルミタージュとプーシキンに数点,フィリッポの息子でボッティチェリの弟子のフィリピーノ・リッピが1点,やはりボッティチェリの弟子のヤコポ・デルセッライオの作品がエルミタージュに4点あった.

 巨匠ドメニコ・デル・ギルランダイオの作品はなかったが,息子のリドルフォの描いた肖像画を1点エルミタージュで観た.

 この中では小品だが,フィリッポの「聖アウグスティヌスの幻視」,フィリピーノの「受胎告知」,セッライオの「天使に支えられた死せるキリストと聖人たち」,「聖母子」が良かった.

 セッライオの「聖母子」はその場では気づかなかったが,今エルミタージュのHPと撮って来た写真を確認すると,後で見たイコンの「ウラジーミルの聖母子」のように「エレウサ型」に見えるが,聖母ががっしりと抱きとめ,イエスがしっかりと抱きついているところが,イタリア絵画らしく思えた.

 個人的にはフィリピーノの多分,何らかの祭壇画の裾絵だったであろう「受胎告知」が良かったのだが,写真がうまく取れなかった(やはり,ガラスが反射する)ので,師匠のボッティチェリ作とされる「受胎告知」を紹介する.今回,イコンの「受胎告知」を複数観ることができたので,可能ならイタリア・ルネサンス絵画の「受胎告知」と比較してみたい.

写真:
プーシキン美術館
ボッティチェリ作
「受胎告知」(部分)


 絵画以外でも,ロッビア工房の彩釉テラコッタの作品,デジデリオ・ダ・セッティニャーノの「幼児キリスト」は忘れ難い.HPで確認するとヴェロッキオ作とされる彫刻も複数あったようだが,観た記憶がない.あるいは気づかなかったかも知れない.



 で,エルミタージュに作品が展示されていたビッチ・ディ・ロレンツォの息子ネーリ・ディ・ビッチは,トスカーナに行けば,どこででも出会えるのではないかと思うほどの存在感を持った画家だが,プーシキン美術館で2点見られた.何度も言うが,私はこの画家が好きだ.

 しかし,トスカーナでたくさん数を観てこそ,どうして彼が人気工房の3代目だったかを深く考えるようになる画家で,その文脈をから切り離されると,ただ贅沢な画材をふんだんに使うことができる幸運に恵まれた,下手な画家にしか見えないかも知れない.

 それでも,私は,既に彼の絵を楽しめる文脈の中に自分を置いているので,たとえ見たのがトスカーナではなく,モスクワだったとしても,ネーリの作品が観られたのは嬉しい.

写真:
プーシキン美術館
ネーリ・ディ・ビッチ作
「聖母子」


 トスカーナの芸術環境の中で育ったレオナルドとミケランジェロ,フィレンツェでトスカーナ絵画の伝統を体得し,取り込んで,自作に活かして,大きく羽ばたいたラファエロにくらべれば,フラ・アンジェリコやマザッチョ,ボッティチェリを除いた他の画家たちは,世界的にはローカルな存在かも知れないが,世界中のどこの美術館であっても,トスカーナの画家の作品があってこそ,ルネサンス芸術のコレクションが充実する.

 その意味では,エルミタージュもプーシキン美術館も素晴らしい博物館,美術館で,そのコレクションは本当に立派だ.それを私が言うのは僭越かも知れないので,言い換えれば,少なくとも私の好みには合う.

 特にもエルミタージュでスピネッロ,プーシキンでネーリの作品に出会えたことは,予備知識が全くなかっただけに,幸運なサプライズであった.






天を支える巨人(アトラス)を見上げながら
新エルミタージュの玄関前を通過