§ロシアの旅 - その2 レオナルドとその周辺
「リッタの聖母子」を一目見て引き込まれた.しかし,この作品がレオナルドの真作と考える研究者は少数のようだ. |
ケネス・クラークは,レオナルド自身が書いた作品リストに含まれる「完成した貴婦人像」と「ほとんど完成した横顔の貴婦人像」という記述に注目し,
最初の絵については,何もわかっていないが,二番目の絵は,私はかねがねエルミタージュ美術館の「リッタの聖母」に違いないと思っている.レオナルドが描いた聖母のなかで,「横顔」といえるのは,この絵だけで,デッサンから推定すると,一四八〇年頃のものに違いない.不幸なことに,「リッタの聖母」は,少なくとも二度,完全に塗り直されている.一度は,一四九五年頃にミラノの画家がこれを仕上げた時,もう一度は,一九世紀に板からカンバスに移しかえた時で,現在では油絵風石版画(オレオグラフ)のように見える.しかし,こんなにひどい状態でも,ありきたりの作品にはないすぐれた点がある.この聖母の頭部は,ルーヴル美術館にあるすばらしいデッサンにやはり似ているし,幼児キリストの身体は,ウィンザー宮にある幼児の習作にもとづいて描かれている.ところが,幼児の頭部はまったくレオナルドらしくないもので,その構図でさえ彼のものとはとうてい考えられない.これを裏書きするような幼児の頭部のデッサンが一点残っている.このデッサンは明らかにレオナルドの手によるものではなく,おそらくボルトラッフィオの初期の作品であろう.したがって,リストの「ほとんど完成した」という言葉には一定の意味がある.すなわちポーズと聖母の頭部と幼児の身体の部分は完成したが,幼児の頭部と衣装の細部と風景は,「三王礼拝」と同じような未完成の状態のままだったであろう.(丸山修吉/大河内賢治訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ 第2版』法政大学出版局,1974,pp.62-63,原著は初版が1939年,改訂版が1967年)
と論じている.要するに,クラークは一種の真作説(真作の未完作品を,影響を受けた別の画家が完成)ということになるが,なにせこの本は古い,だいぶ反論があったらしい.
裾分一弘/在里寛司『レオナルドと絵画』岩崎美術社,1977(以下,在里)
の第II章「絵画作品の解説」にこの作品への言及がある.この章はレオナルド研究者である裾分ではなく,イタリア文学が専門の在里が担当したようだが,そのことを意識してか,「裾分が通読した」とある.
この本は「レオナルド・ダ・ヴィンチ双書」の1冊でありながら,裾分が担当した第I章はわずか18ページしかなく,第II章は91ページ,レオナルドが書いた『絵画の書』からの抜粋である第III章が22ページ,その他は白黒写真の相当数の図版ページと図版目次,参考文献にあてられているので,専門家である裾分の名が記載された共著とは言っても,事実上は専門家の監修のもとに書かれた在里の著書と言っても良いだろう.
この先生は,私が在学中の京都大学にイタリア文学の非常勤講師として出講されていたので,イタリア語,イタリア文学に関しては専門家として評価されているのは間違いないだろうが,レオナルドのような大物芸術家に関して執筆を任されるほど美術に造詣が深いとは全く知らなかった.大したものである.
裾分の「通読」を経た在里の解説に拠れば,クラークが真作の未完作品をボルトラッフィオが補完したとする根拠となったルーヴルのデッサンについて,「岩窟の聖母」(ルーブル美術館)の天使のために描かれた習作と信じられるデッサンとの親近性を根拠に,この絵が1480年またはそれ以前に描かれたとするクラーク説に対して,1480年より少しあとにずらすことを主張し,
結論的に言って,この『リッタの聖母』は,一四八三年以降,『岩窟の聖母』の制作中に,レオナルドがデッサンのみを準備し,それをもとにしてミラノの画家が描いたとする,ゴルトシャイダーの主張が最も妥当であろう.主として制作した画家としては,G・A・ボルトラッフィオとA・デ・プレディスの名があげられているが,この絵の画風からみても,当時レオナルドと協力関係にあったことからしても,後者だという可能性がつよい.
としている.
一般の人が読むことができる専門家の本でも,久保尋ニ(『レオナルド・ダ・ヴィンチ研究』美術出版社,『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』平凡社),田中英道(『レオナルド・ダ・ヴィンチ』講談社学術文庫,以下,田中)にも,見落としたかも知れないが,私が見た限り,この作品への言及はない.
裾分が監修者となっているさらに啓蒙的な『もっと知りたい レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と作品』(東京書籍,2006)も,この作品は取り上げていないが,
池上英洋(監修),ペン編集部(編)『ダ・ヴィンチ 全作品・全解剖』阪急コミュニケーションズ,2009
は,「リッタの聖母子」に,小さな写真付きで短く言及し,「レオナルドの下絵かデッサンをもとに,弟子と思われる画家が描いたもの.金属的な質感が,デ・プレディス兄弟の関与も匂わせる」と言っており,やはりデ・プレディス兄弟が中心的役割を果たしたとされるロンドン版「岩窟の聖母」と関連付けている.(以下,『全作品・全解剖』)
要するに,「リッタの聖母子」は,レオナルドのデッサンまたは下絵に基づいて,彼の影響を受けたミラノの画家の作品で,作者としてはボルトラッフィオかデ・プレディス兄弟の可能性が高い,ということだろう. |
在里はこの作品に関して,「フィレンツェの画風らしい優しさ,雅びというよりはむしろ硬質なきめこまかさが目につく.そしてこれこそロンバルディアの画家に特徴的な画風なのである」と述べているが,この点がまさにレオナルド本人とロンバルディア出身者が多いレオナルデスキとの違いと考えて良いのだろうか.
前述したように,私は,この絵が目に入った途端に,それまで写真で観てい感じていた安っぽさ,嘘くささが払拭され,魅せられて凝視しないではいられなかった.レオナルドではなく,レオナルデスキの画家の作品に魅力を感じてきた,ここ数年の私の嗜好を裏付けたことになるかも知れない.
それでも,私は,この絵に関して,クラークの「真作説」に未練がある.しかし,それは私が考えるべきことではない.写真で見ると「てかてかした,派手な色合いの安っぽい絵」としか思えなかったこの作品から感銘を得ただけでも,エルミタージュまで足を運んで,原型をとどめているかどうかわからないが,実物をこの目で見た甲斐があったと言うものだろう.
レオナルドの生涯について,考察することがここでの課題ではないが,簡単な彼の経歴を整理して,それを念頭に置くことは,エルミタージュに彼の名で伝わっている2つの作品を鑑賞する際にも意味があると思われる.
誕 生 |
1452 |
ヴェロッキオ工房 |
入門1466(推定)~画家組合登録1472~独立1479(推定)
メディチ家(大ロレンツォ)の保護は得られず |
1回目のミラノ在住 |
1482-1499
(ミラノがフランスに占領され,フィレンツェに帰還)
保護者はミラノ公爵(ルドヴィーコ・スフォルツァ) |
フィレンツェ在住 |
1500-1507
各地を周り,一時的にチェーザレ・ボルジアの軍事土木技師 |
2回目のミラノ在住 |
1507-1513
保護者はフランスのミラノ総督(シャルル・ダンボワーズ)
「王室画家」の称号(フランス王はルイ12世) |
ローマ在住 |
1513-1516
保護者はヌムール公爵(ジュリアーノ・デ・メディチ) |
アンボワーズ在住 |
1517-1519
保護者はフランス王(フランソワ1世) |
死 去 |
1519 |
(基本的に,田中の年表,宮下孝晴/佐藤幸三『モナ・リザが微笑む レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』講談社文庫,1984を参照)
最初にミラノに行く1482年までが,工房で修業し,一人前の画家となり,師匠の助手を務め,さらに工房から独立して,絵の注文を受けて,自分の作品を制作し始める,芸術家としての「初期」にあたる時代と考えて良く,エルミタージュの「ブノワの聖母子」は初期に描かれたものになる.
一方の「リッタの聖母子」は,ミラノ移住の1482年以前に下書きが描かれたが,完成については,クラークは一応の完成はミラノ移住以前とするが,多くの研究者は,この作品に見られるロンバルディア的特徴(「衣の襞の注意深い描写や画面全体の家庭的で親しみのある調子」,ブルーノ・サンティ,片桐頼継訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』東京書籍,1993,p.27)から,レオナルドの下絵をもとに,彼自身,もしくは彼の影響を受けたロンバルディアの画家が,ミラノ滞在の初めの頃に完成したと考え,エルミタージュの2つの作品は,時期的にも,画風の上からも差異があると考えられているようだ.
「ブノワの聖母子」
『全作品・全解剖』は,一般向け読み物としては,情報豊富で,もちろん「ブノワの聖母子」を取り上げている.見開き2ページをこの絵の紹介に使い,向かって右ページがテクスト,左側がページ一杯の写真という力の入れ方であるが,写真の下方に白い字で「所有者であったフランスの画家レオン・ブノワの名にちなんだ聖母子像」とある.
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写真:
エルミタージュ美術館 レオナルド・ダ・ヴィンチ作
「ブノワの聖母子」
窓際にあって,自然光で
鑑賞できるが,ガラスの
反射で撮影は難しい |
前ページで言及したように,レオン・ブノワ(ウィキペディア英語版/仏語版)は,祖先がフランス革命の時にフランスから亡命してきたロシア人である.ただ,ロシア名はレオンティー・ニコライヴィッチ・ベヌアと読むであろうから,レオンと言うのであれば,祖先の名の通りブノワと読んで良いであろう(クラークの邦訳と田中は「ベノワ」と表記).従って私も「ブノワ」と表記する.
家祖はフランスの製菓職人(confiseurというフランス語を知らなかったが,旺文社『ロワイヤル仏和中辞典』には「砂糖菓子製造業者,砂糖菓子屋」,大修館『スタンダード仏和辞典』には「糖菓製造(販売)業者.菓子屋」とある)ルイ・ジュール・セザール・オギュスト・ブノワで,ロシアではエカテリーナ2世の息子パーヴェル1世の皇后マリア・フョードロヴナ(ヴュルテンブルク公フリートリッヒ・オイゲンの公女ゾフィー・ドロテーア)のパティシエとなった.
その子供の1人ニコライ(ウィキペディア英語版/仏語版)は,サンクトペテルブルクで生まれ,帝国芸術院で建築を学び,建築家となって欧州各地で活躍,特にイタリアに長く滞在して,帰国後,皇帝ニコライ1世の建築家となり,19世紀ロシアのゴシック・リヴァイヴァルを代表する建築家となった.
ニコライ・ベヌアは,ヴェネツィア共和国滅亡の際にイタリアから亡命してきた作曲家カッテリーノ・カヴォス(ロシアで,国民楽派の祖グリンカの同主題の作品に先立ってオペラ「イワン・スサーニン」を作曲)の息子で建築家アルベルト・カヴォス(サンクトペテルブルクでマリンスキー劇場,モスクワでボリショイ劇場を設計)の娘カミラと結婚し,この結婚から,4人の息子と1人の娘が生まれた.
4人の息子うち,アレクサンドルは舞台意匠家としてディアギレフのバレエ・リュスに関わり,アルベルトは高名な水彩画家,レオン(レオンティー)は父と同じ建築家となって活躍した.
ニコライの娘エカテリーナは彫刻家のランセレと結婚して,その結婚から女流画家のジナイダ・セレブリアコヴァが生まれ,アルベルトの娘マリアは作曲家でピアニストで指揮者のニコライ・チェレープニンと結婚し,やはり作曲家でピアニストのアレクサンドル・チェレープニンを産んだ.
レオンはサンクトペテルブルクやワルシャワで建築家として大きな仕事をし,帝国芸術院の院長を務め,彼の娘ナジェージダは,自身も絵画や舞台装飾に活躍した芸術家で,ユスチノフ男爵と結婚し,その結婚から,ロシア革命の際のロンドン亡命後,高名な俳優,演出家,劇作家のピーター・ユスチノフが生まれた.
レオンは「ブノワの聖母子」を義父から相続したとのことで,今の所,これ以上の情報はない.ナジェージダ(ナージャ)の紹介ページの情報に拠れば,母方の祖先はエチオピアの王族とのことだが,レオンの義父,ナージャの祖父母への言及はない.
久しぶりに,高校の生物の教科書等の,遺伝の単元でバッハの家系をおさらいした時のような経験をした.要するに,「ブノワの聖母子」をエルミタージュに売却し,その名のもととなったブノワ(ベヌア)家もまた,高名な芸術家を多数輩出した特異な家系だったことになる.
「ブノワの聖母子」の名のもとになった建築家が,映画でエルキュール・ポワロを演じたことで私たちにはおなじみの大物俳優の母方の祖父だったとは驚きである.
ともかく,ウェブ・ページの情報とは言え,ここまで詳しい記述がある以上,「フランスの画家」は間違いで,「フランスに祖先の出自を持つロシアの建築家」が正しいことになるだろう.(アマゾンで注文した古書『華麗なるロシア ロマノフ王朝の至宝 家庭画報特別編集』世界文化社,2012が今届き,それには「絵の最後の持ち主であるロシア人建築家ベヌアの名がつけられた」とあった.p.66)
この「聖母子」への評価は高い.私は「リッタの聖母子」の方により魅かれたが,それでも,画集で見ていた時は,現存作品の少ない天才が若い頃に描いたものが,たまたま真作性が保証される形で残ったので,評価されているだけに思えたが,この作品の実物(であろう,多分)を観て,やはり引き込まれた.
レオナルドを好まなかったバーナード・ベレンソンはこの聖母を「薄気味悪い,老婆じみた妖怪」と言った(田中,p.91)そうだが,保存状態が悪いことに起因する誤解だろう(クラークも「ある批評家」として,このことに言及している).
小柄な聖母に比べて,幼児イエスが大きく,一見するとバランスが悪いように見えるし,折角の窓を描きながら,採光感の効果だけを狙ったのだろうか,と言う疑問を禁じ得ない.窓に関しては,在里は「画中の窓はすっかり塗りつぶされていてどのような風景を描き込む意図であったのかわからない」と述べている.
この作品以前に描かれたと考えられている「カーネーションの聖母子」(ミュンヘン,アルテピナコテーク)では,聖母の頭部の両側に2つに分けて描かれている,コリント式柱頭を持つ柱に支えられたアーチ型の4つの窓から,切り立った山脈が見え,レオナルドの心象風景を想像させる.
「ブノワの聖母子」の製作年代は早ければ1478年,遅くてもその2,3年後までと考えられており,「カーネーションの聖母子」が1475年頃描かれ,レオナルドがヴェロッキオ工房から独立が1479年(在里)(画家組合への登録はまだ20歳だった1472年)だとすれば,これらの作品にはまだヴェロッキオ工房の影響が濃い可能性がある.
ヴェロッキオの名前で伝わる聖母子の絵はウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには2点ある.祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」(ピストイア大聖堂)と「聖母子」(ベルリン,国立美術館)だあるが,前者は祭壇画でありながら,玉座の後ろにコリント式柱頭装飾を持つ四角い柱のアーチ型のコンクがあり,その両側が窓のようになっていて風景が描かれている.
後者(在里は「広場の聖母」として,ロレンツォ・ディ・クレーディとの共作としている)の場合,聖母子の背後に窓はなく,屋外にいるかのように背景全てが風景になっている.いずれの場合も,なだらかな山並みを望み,丈高い樹木が目立つトスカーナの田園風景のように見える.
ラファエロの「聖母子」の背景は,窓のあるものよりは,全面背景型が多いようだが,たまたま今回エルミタージュで見た2つの「聖母子」はそれぞれのタイプが1つずつだった.
レオナルドとともに,ヴェロッキオ工房の重要な助手としてピストイアの祭壇画を手伝ったロレンツォ・ディ・クレーディの「聖母子」は,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには3点見られ,「玉座の聖母子と聖人たち」(ルーヴル美術館)は,玉座の背後のアーチと同じ形のアーチが両側にあり,それぞれに窓があるが,青空と思われる色が塗られている(下部は白い)だけで風景はない.
「ザクロを持つ聖母子」(ワシントン,ナショナル・ギャラリー)は,聖母子の両側に窓があり,そこから見える風景は,トスカーナの田園風景に思われる.この作品はレオナルドの影響があると考えられ,レオナルド作と考えられていた時期もあるようで,在里は白黒写真を掲載して「ヴェロッキオ工房の作(?)」として,題名は「ドレフュスの聖母」としている.テンペラではなく,油絵具が使われ,北方絵画の影響が見られる絵では,かなり早いものとのことだ(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート).
「聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ」(ドレスデン,絵画美術館)は,人物の顔が稚拙に見え,クレーディが好きな私としては,彼の作品とは思いたくないが,幼児イエスは赤いクッションに座り,聖母の,こちらから向かって左後方には,カーテンのあるベッドが描かれ,右後方に真ん中の柱が無い2連アーチの窓がある.覗き見える風景は,やはり穏やかな田園風景に思われが,山並みがトスカーナにしてはやや険しく,描かれている教会か城郭のような建物もトスカーナ風ではないように思われる.
ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには写真がないが,在里はトンド型の「聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ」(ボルゲーゼ美術館)の白黒写真を「カーネーションの聖母」と関係で掲載しているが,聖母子の背景が黒っぽい壁(ウェブ上の写真では,茶色い木の壁)があり,その両側に窓が開かれているが,そこに見える風景は川が流れる穏やかの田園風景である.
その他に,クレーディの作品では「受胎告知」(ウフィッツィ美術館)は,アーチ型の扉と窓に工夫があるように思われるが,見えている風景は,貴族の別荘の庭のようだ.「聖家族」(ドレスデン,絵画美術館)は,ヨセフが戸外で沈思し,屋内では聖母が幼児イエスを礼拝しているが,アーチ型の窓の外には,城郭のある湖畔風景が描かれている.前者はおなじみの傑作だが,後者は真作とすれば,クレーディの実力が発揮されていない.
ヴェロッキオ,クレーディ,レオナルドの「聖母子」とその関連の作品を比較すると,確かに,レオナルドの作品も窓と,そこから覗き見える風景には伝統,創意,個性がせめぎ合っているように思われる.「ブノワの聖母子」で窓外の風景を「塗りつぶした」のが作者自身だとすれば,やはり,一種の個性が現れていると言えるだろう.
窓のある背景
同時代の先輩ドメニコ・デル・ギルランダイオの作品には,窓の外の風景が描かれた聖母子は,私が知る限りなく,窓から見える風景が描かれた作品は「聖フィアナへの死のお告げ」(サンジミニャーノの参事会教会,フレスコ画),「受胎告知」(サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂,トルナブオーニ礼拝堂のフレスコ画),「老人と孫」(ルーヴル美術館),「フランチェスコ・サッセッティとその息子」(メトロポリタン美術館)だけだが,厳密には窓枠ではないけれど「三王礼拝」(捨て子養育院),「牧人礼拝」(サンタ・トリニタ聖堂,サッセッティ礼拝堂の祭壇画),「受胎告知」(スペッロの参事会教会,フレスコ画)にも,枠の向こう側に見える風景が描かれている.
息子のリドルフォに関しては,聖母子は今の所,思いつかないが,「女性の肖像」(ウフィッツィ美術館)は女性の両側に窓があり,トスカーナの田舎町の風景が広がっている.この作品をトスカーナ大公(ロレーナ家のフェルディナンド3世)が購入した時はレオナルドの作品とされていたそうで,作者には議論があり,マリオット・アルベルティネッリ,ジュリアーノ・ブジャルディーニ説もあるらしいが,ウフィッツィではリドルフォの作品として展示している(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート).私の記憶では,ブジャルディーニの描いた肖像画に同じような顔の作品があったように思うが,モデルの顔が似ているだけかも知れないので何とも言えない.
レオナルドがライヴァル視し,時には嫉妬の念を覚えていたボッティチェリの名で伝わる山ほどある「聖母子」では,「天使のいる聖母子」(ボストン,ステュアート.ガードナー美術館),「開廊の聖母子」(ウフィッツィ美術館),「書物の聖母子」(ミラノ,ポルディ・ペッツォーリ美術館),「マニフィカトの聖母子」(ウフィッツィ美術館),「海の聖母子」(フィレンツェ,アカデミア美術館)があり,「マニフィカトの聖母」は厳密には窓枠とは言えないので,そのような範囲の広げ方をすれば,まだ複数の作品を挙げられるだろう.
ボッティチェリはフィリッポ・リッピの弟子だが,師の死後,ヴェロッキオ工房にいたので,同世代のギルランダイオに,窓の外の風景が見える聖母子がないことを考えると,窓から風景が見える聖母子は,少なくともフィレンツェではヴェロッキオ工房がその伝統を確立したとまとめることができるだろうか.
風景を描き込む伝統は北方絵画の影響もあった様々な画家に見られるし,上の仮定に難があるとすれば,フィリッポ・リッピの作品に少なくとも2点,「タルクィニアの聖母子」(ローマ,古典絵画館),有名な「聖母子と2人の天使」(ウフィッツィ美術館)があることで,制作年代が1465年頃とされる後者はともかく,前者は1437年の作品とされおり,ヴェロッキオ自身の誕生が1435年頃とされるので,もちろんその工房はまだ影も形もない.
リッピの「タルクィニアの聖母子」の関しては,リッピが北イタリアに行き,北方絵画の影響を受けた可能性,さらには,いかなる根拠なのか,1437年頃にフランドルに行き,ロベール・カンピンや,ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの作品を見たとする説もあるそうだ(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート).この指摘は,古典絵画館で買った案内書,
Lorenzo Mochi Onori / Rossella Vodret, Capolavori della Galleria Nazionale
d' Arte Antica: Palazzo Barberini, Roma: Editore GEBART, 2001
にも触れられている(p.20)が,残念ながら2回行った古典絵画館で,この作品は,修復中だったのか,特別展に出張中だったのか,私は見ていない.
実は,今回エルミタージュで,カンピン(カンパン)の作品とされる「聖母子」を見ている.幼児イエスは裸体だが,暖炉の傍の聖母が金髪でいかにも北方的な感じがするが,聖母の上部に,鎧戸が開いた窓から,街の風景が見えている.
聖母子の顔にはイタリア的な端麗さはなく,一見すると上手な絵とは思えないし,遠近法もまだ稚拙な感じがするが,衣の襞,画面向かって右側の金色のお盆に乗せられた金色の水差しとそれを乗せている小さな木製のテーブルが良く描かれており,何と言っても鎧戸のある窓,火が燃えている暖炉の描写が細かく,こうした大胆な人物表現と対照的な繊細な情景描写があるいは「北方的」ということなのだろうか.
観光予定ではなかったコーナーを通り過ぎた時に,目にとまって写真におさめ,焦りながらも比較的しっかり見ることができた.この絵は見られて良かった.2枚が1つの額に収められていて,左側は「三位一体」の絵で,それも良い絵だった.
ただ,撮って来たたった1枚の写真は,焦って撮ったことと,光のあたる通路に飾ってあったこともあって,ガラスと絵具の油が反射して,暖炉のところはよく分からない.その点は残念だ.
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写真:
エルミタージュ美術館
カンピン作
「三位一体」と「聖母子」 |
一応,普段は本棚に置いてあるだけの専門書,
Jeffrey Ruda, Fra Filippo Lippi: Life and Work, London: Phaidon Press,
1993
を参照して見た.リッピの「タルクィニアの聖母子」はカラー写真付きで,2ページと数行に渡って論じられており,様々な先行作品の影響がありながらも,非常に斬新な作品であること強調されている.
そこでも構図の独創性に触れながら,シエナ派の画家,カンピンの2作品,ヤン・ファン・アイクの1作品に言及している.ヤンの作品には先行しているようなので,影響を受けた可能性があるのは,シエナ派の画家とカンピンということになる.
付された後注には,シエナ派の画家とは,アンブロージョ・ロレンゼッティの追随者として,先行研究の言及箇所を示すだけでどのような絵なのかはわからないが,カンピンに関しては,「火格子の聖母子」(ロンドン,ナショナル・ギャラリー),「謙譲の聖母子」(エルミタージュ美術館)と作品名を挙げている.
この本の前半の伝記部分では,さすがにリッピがフランドルに行った話は私が見た限りは書かれていないが,パドヴァに行き,パドヴァ周辺の先行する画家(グァリエントやアルティキエーロ)の影響を受けた可能性は指摘されており,スクァルチョーネ工房との関わりを持ったことは文書的にも確認できるようだ(p.26).
いずれにせよ,イタリア各地に影響を与えたフィレンツェのルネサンスであり,絵画芸術だが,他の地方からの影響も受容できるものは受容して活かしたことがよくわかる.
なお,「タルクィニアの聖母子」は,ローマ北方の小都市コルネート・タルクィニアにあり,1917年に再発見されたのでこの名称があるが,コルネート出身で,1435年から37年までフィレンツェ大司教だったジョヴァンニ・ヴィテッレスキが注文し,彼が故郷に邸宅を建て,そこにフィレンツェから持ち帰られ,その後,同地のアゴスティーノ会のサン・マルコ修道院を経て,最終的にサンタ・マリーア・ヴァルヴェルデ教会にあったものと推定されている(上記2書).
レオナルデスキ
最初にミラノ行った時以来,レオナルドの影響を受けたロンバルディア出身の画家たち,レオナルデスキに関心がある.見ていないが,2011年にパヴィアでレオナルデスキの特別展が開かれ,HPでも出展作品の写真をみることができたが,図録,
Tatiana Kustodieva / Susanna Zatti, eds., Leonardeschi da Foppa a Giampietrino:
Dipinti dall' Ermitage di San Peterburgo e dai Musei Civici di Pavia, Milano:
Skira, 2011
をイタリア・アマゾンで入手しているので,それを時折見ながら,いつの日か見たいと最も思っていたのが,フランチェスコ・メルツィの「フローラ」で,エルミタージュに行きたいと思った理由の1つがそれだったのは既に述べた.それは見ることできた.
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写真:
エルミタージュ美術館
フランチェスコ・メルツィ作
「フローラ」 |
しかし,図録に拠れば,エルミタージュにあるはずで,なおかつ,できれば見たいと思っていたヴィンチェンツォ・フォッパ「聖ステパノ」,「大天使ミカエル」,ベルゴニョーネ「大ヤコブ」,ヴェローナの画家ジョヴァンニ・フランチェスコ・カロート「聖母子と聖人たち」,ジャンピエトリーノの4作品(キリストと三位一体の象徴/聖母子/マグダラのマリア/福音史家ヨハネ),不詳のロンバルディア画家「聖ヨセフの集会の奇蹟」,レオナルド追随者による2作品,ベルナルディーノ・ルイーニの3作品(キリスト磔刑と聖人たち/聖セバスティアヌス/聖カタリナ),ルイーニ工房「聖母子」,ジャン・フランチェスコ・マイネーリ「十字架を担うキリスト」,ソドマ「風景の中のキューピッド」は見ていない.
メルツィの作品が観られ,チェーザレ・ダ・セスト「聖家族と聖カタリナ」も観たので,現地では満足感が得られたが,帰国後,図録を確認して,上記の素晴しい作品を観ていなかったことにやや愕然とした.ルイーニとその工房の作品は良質だと思うし,ジャンピエトリーノの作品は最上ではないにせよ,好きな画家だし,魅力的なベルゴニョーネ,偉大なフォッパ,実作を見たことのないマイネーリなどの作品は,観られなくて,特に残念だ.
いかに,あわただしい鑑賞だったとは言え,レオナルデスキの作品に関心があり,比較的多くの作品を見て,それなりにアンテナの感度が良くなっている今,これほど多くの作品を見逃すとは思えないので,所蔵はしているが,展示していないか,修復中,もしくは別の場所での特別展等に出張中だったということだと思う.
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写真:
プーシキン美術館
チェーザレ・ダ・セスト工房
「聖ヒエロニュモス」 |
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プーシキン美術館には,「リッタの聖母子」の作者の候補に挙げられることもあるジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオの作品「聖セバスティアヌスの格好をした若者の肖像」があったことは,美術館のブックショップで購入した
V.N.Tyazhelov, The Pushkin State Museum of Fine Arts: The Art of Ancient
World, Byzantine and West European Art of 8th to 18th Centuries, Moscow:
Red Square Publishers, 2008
を見て知ったが,それも観ていない.それでも,チェーザレ・ダ・セスト工房「聖ヒエロニュモス」,ベルナルディーノ・ルイーニ「聖母子」,ジャンピエトリーノ「救世主」を観ることができた.
イタリアの美術館や教会でメルツィの絵を見たことがない.
レオナルドに少年時から近侍していた弟子としてはサライ(サライーノ)ことジャン・ジャーコモ・カプロッティが有名だ.
パルマの国立美術館所蔵のレオナルド作の下絵,通称「ほつれ髪の女」を目玉とする特別展「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想」が,2011年から2012年まで日本で開催(東京では12年3月から6月まで,渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムが会場)されたとき,私は見られなかったが,ブックオフで最近購入した図録に拠れば,サライ作,もしくは彼に帰属する作品が複数来ていたようだ.
しかし,この時もメルツィの作品はもちろん来なかったし,図録を見ても,素描の他に見られるない観たいと思うのは,ジャンピエトリーノの2作品(アレクサンドリアの聖カタリナ/マグダラのマリア)とボッカッチョ・ボッカチーノ「ロマの少女」くらいで,サライ作,もしくはその帰属作品も,わざわざ多忙な時期に足を運んでみたいと言うほどのものではなかった.
この特別展の図録に,木島俊介「レオナルデスキとレオナルド・ダ・ヴィンチの遺産」という文章が掲載されており,これは一読の価値がある.そこで木島は,「パヴィアで開催された「レオナルデスキ」展で最も重要なのは.サンクト・ぺテルブルクのエルミタージュ美術館から,フランチェスコ・メルツィの作品≪フローラ≫が出品されていることであった」と書いている.
サライ作とされる作品がほとんどレオナルドの品下るコピーに思えるのに対し,メルツィの作品はエルミタージュ作品とは別の「フローラ」(ボルゲーゼ美術館),「ポモーナとウェルトゥムヌス」(ベルリン,国立博物館)を写真で見ても,レオナルドとは違う個性が光っているように思われる.
ただ,私はエルミタージュとベルリンの作品をメルツィに関する予備知識なしに見せられたら,ルイーニ作品と思うかも知れない.
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写真: プーシキン美術館
ベルナルディーノ・ルイーニ
「聖母子」 |
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上述のようにルイーニ作品は,エルミタージュにもあるはずなのに見られなかったので,プーシキンで上の写真を絵を見た時は嬉しかった.ただ,小さな絵だし,彼の最良の作品ではないし,ルイーニならではと言うほど,特徴的でもないので,別の画家の名前が書いてあったら,その通りに思ったかも知れない.
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写真:
プーシキン美術館
ジャンピエトリーノ
「救世主」 |
ジャンピエトリーノの作品も,エルミタージュに複数あるはずだったのに,見られなかったので,やはり,プーシキンで1点見られたのはせめてもの僥倖だった.
一見,女性のようにも見えるが,アトリビュートによって,この世を救済するキリストということなのであろう.見るからにジャンピエトリーノらしい作品で,その意味ではレオナルデスキは単にレオナルドの追随者なのではなく,それぞれの画家が個性的で,これは,私には容易に察しがつかないことだが,レオナルドにはないロンバルディアの画家たちの特徴があり,それはジャンピエトリーノにもルイーニにも共通している要素なのだと言える.
その意味では,メルツィもまた,ミラノ生まれのまぎれもなくロンバルディア出身の画家であり,レオナルデスキの重要な1人であるというのにふさわしい芸術家だ.
今回,レオナルデスキに関しては,メルツィの作品を見られたことが最大の成果だ.もちろん,良く見ると「授乳の聖母」になっている「リッタの聖母子」がボルトラッフィオかデ・プレーディス,もしくはその他の画家の作品で,レオナルド自身の作でないのならば,この絵が最も感銘を受けたレオナルデスキの作品であると言うことを,私は躊躇しないだろう.
レオナルデスキの作品をフォローしていくと,トスカーナから大芸術家がやって来て,ロンバルディアにルネサンスを齎したという単純な図式ではなく,実はレオナルド自身がロンバルディアに根強く残っていた絵画伝統の中に取り込まれ,新しい画風を創造しながら,天才の持つオーラで後進に影響を与えたのではないか,と思わせられる.
「ブノワの聖母子」がヴェロッキオ工房の堅実な画風から,より人間的で現実感のある人物造形を実現して,画家個人の成長を証明しているとすれば,「リッタの聖母子」は,たとえレオナルドが完成させたのではないとしても,レオナルド自身が新天地のロンバルディアの伝統を取り込みながら,さらに新境地を開き,それが「最後の晩餐」や「岩窟の聖母」に結実して行く過程を示してくれていると言えないだろうか.
未だにレオナルドは,私にとっては遠い存在で,全貌がつかめないのはもちろんのこと,部分的にもその良さをなかなか理解できない.それでも,今回,全くの偶然だが,エルミタージュで,彼の作品として展示されている2つの「聖母子」を見ることで,レオナルドの魅力に少しずつ開眼していく途上にいることを実感できたように思う.
できれば,混んでいないときに,じっくりと観たい.
ロシア滞在中に,村田薫先輩からのメールで,私たちの共通の恩師,三浦修先生の訃報があった.スコットランド文学がご専門で,特にロバート・バーンズを研究されていた先生は,私にとって,直接学問上の師ではないが,「恩師」としか表現できないほど,様々なことを教わり,すばらしい先輩方と出会う機会を与えて下さった.「宮城君,迷ってないで,京都に行きなさい」と背中を押して下さった.私がワセダの教員になって,東京にもどることになった時には,先生はご退職後だったが,一言静かに「宮城君,良かったね」と言って下さった.先生の口癖は,最後に笑って「バカバカしい」とおっしゃることだった.
ここで,私が涙にくれたら,きっと,「宮城君,人間はみんな死ぬんだよ.何泣いているんだい,バカバカしい」と笑い飛ばして,手を振って下さることだろう.愛用のパイプを持って.
ご冥福を祈るのみだ.
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エルミタージュ鑑賞後 宮殿広場にて
秋の入り口 空が高い
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