フィレンツェだより番外篇
2012年4月16日



 




サンタ・マリーア・デッラ・ピエーヴェ教会の後陣が美しい
アレッツォのグランデ広場



§フィレンツェ再訪 - その13 
    ピエロ・デッラ・フランチェスカ (2)


ツァーとしては,ピエロ・デッラ・フランチェスカ(以下,ピエロ)の作品を見に,アレッツォのサン・フランチェスコ教会に行った訳だが,こうした全体としての目的の他に,私個人として観たいものがあった.スピネッロ・アレティーノの「悪龍と闘う大天使ミカエル」だ.


 このフレスコ画が描かれたグァスコーニ礼拝堂は,ピエロの「真の十字架の物語」のあるバッチ礼拝堂の向かって右隣にあって,入場券を買わないと入れない区域に含まれる.

 サン・フランチェスコ教会(バジリカなので「聖堂」と表記すべきだが,今まで「教会」としているのでそれで通す)は3度目の訪問だが,その度に,このフレスコ画に惚れ惚れしている.今回は,ピエロの「真の十字架の物語」のついではなく,この作品を「観る」という強い意識を持ってじっくりと観た.

スピネッロおよびスピネッロ派の作品
 この教会はフランチェスコ会の教会の特徴である単廊式で,中央祭壇に向かって左側壁に複数の礼拝堂(ファサードの写真を確認すると,付け足した部分のようだ)があるが,広々としている.古いフレスコ壁画が壁面にたくさん残っているが,堂内は撮影禁止だ.

 左側壁にはスピネッロ作とされる「聖霊降臨」があるが,これは傑作というほどではない.しかし,初めて存在に気がついた単独の女性聖人像は,大聖堂のピエロ作「マグダラのマリア」を思わせる見事な作品で引き込まれた.

 今回,バッチ礼拝堂拝観のための券売所で,英訳版の案内書

Guided Visit of the Basilica of Saint Francis in Arezzo, Cortona: Calosci, 2004

を購入した.2004年の出版なので,2007年のイタリア滞在時に購入するチャンスがあったわけだが,おそらく目にしたのは初めてだと思う.(案内書といえば,今回,フィレンツェの教会でも,サンタ・トリニタ,ヴィスドミニで案内書が手に入り,売る人がいなかったので買えなかったが,美術館になっている修道院とは別に,サン・マルコ聖堂にも案内書があった.何回も行ったサン・マルコで,絵葉書やガイド・ブックを売っているのを初めて見た.帰国後,イタリア・アマゾン,アメリカ・アマゾンで入手を模索したが,今のところヒットしない.)

 この案内書に拠れば,女性聖人は,やはり思ったとおり,スピネッロの作品「ハンガリーの聖エリサベト」のようだ.少なくとも私は素晴らしい作品だと思う.



 グァスコーニ礼拝堂のフレスコ画は全てスピネッロの作品である.「悪龍と闘う大天使ミカエル」の向かいの壁面には,ザカリアに息子が誕生することを告げるガブリエルのような絵があり,それにも心魅かれた.

 この壁面は全体として「聖エジディオの物語」となっており,上掲書に写真はないが,紹介文はあった.イタリア語式でエジディオとなる聖人は,ギリシア語でアイギディオス,ラテン語でアエギディウス,ドイツ語ではイルゲンまたはギルゲン,英語ではジャイルズ,フランス語ではジルとなるようだ.グァスコーニ礼拝堂に絵を描かせたのが,エジディオ・グァスコーニであることから,この画題が選ばれたようだ.

 案内書に拠れば,上から「物を売って,人々に施しをするエジディオ」,「雌鹿の乳で養われる隠修士エジディオ」,「フランク国王の贖罪のためにミサで祈るエジディオに現れた天使」で,どうも私がザカリアへのお告げと誤解したのは,3つ目の場面のようだ.なにせ,写真が全くないので,わからない.

 『黄金伝説』の邦訳第3巻に「聖アエギディウス伝」(pp.341-6)があり,道端に寝て施しを求める病気の男に上衣を与えた話,生地アテネからアルルへと行き,その近くの森の泉が湧き出る洞窟で雌鹿がその乳で彼を養い,その鹿が猟犬に追われたのを神に祈って救った話,彼の徳を聞いた国王カール(訳注に拠れば,時代的はカール・マルテルに対応し,彼は宮宰で国王ではない)が彼を招き,贖罪のためのミサにをあげ,そこに天使が現れ,贖罪の道筋を示した話が紹介されている.

 他にも,ニームで領主の死んだ息子を生き返らせるなど,よくある奇蹟物語が紹介され,ローマで教皇から教会のための特権をもらい,ティブルで足の悪い人を癒した話もある.雌鹿に代わって矢傷を受けた時,神に祈って傷が癒えたのを見た王と司教に懇願されて,修道院長となったが,それがアルルからサンティアゴ・デ・コンポステーラに行く巡礼路にあるサン・ジル・デュ・ガールの修道院とされる.「デュ・ガール」は,古代ローマの水道橋「ポン・デュ・ガール」の「デュ・ガール」と同じで,ガルドン川であろう.



 右側壁の奥に,やはりスピネッロの「受胎告知」があり,これはアレッツォで複数(サン・ドメニコ,サンティッシマ・アヌンツィアータ,司教区博物館)見られる「受胎告知」の中でも最高傑作であるように思う.「受胎告知」の周辺のフレスコ画は,スピネッロの息子パッリの絵(「大天使ミカエル」など)とされる.

 これまで,ファサードの裏にある「パリサイ派の人の家での食事」を描いたのはパッリだと思っていたが,案内書に拠ればジョヴァンニ・ディ・バルドゥッチョの作品とされている.しかし,伊語版ウィキペディアで検索すると,ジョヴァンニ・ディ・バルドゥッチョは14世紀前半に活躍したピサ生まれの彫刻家である.

 その作品はピサ,ミラノ,ボローニャ,フィレンツェで見られ,私たちも今までに少なくない作品を見ている.大作としては,ヴィンチェンツォ・フォッパのフレスコ画で知られる,ミラノのサンテウストルジョ教会のポルティナーリ礼拝堂の「殉教者ペテロの記念墓碑」が傑作だろう.彼をミラノに招いた君主アッツォーネ・ヴィスコンティの墓碑もサン・ゴッタルド教会で見ている.

 しかし,絵も描いたと言う情報は今のところ得られていないし,同一人物かどうかもわからない.

 スピネッロ派の画家の「栄光のフランチェスコ」は,髭のない美しい若者が白装束で,修道女たちに文書を渡し,両側から天使によって戴冠されている,あまり見たことのない絵柄だ.弟子筋の作品としては,かなり良くできている.


その他の画家
 バッチ礼拝堂のフレスコ画の仕事で,ピエロの助手として活躍したと思われるアレッツォのロレンティーノ・ダンドレーアの「パドヴァの聖アントニウスの奇蹟」もある.堂内で見たときも随分画力の劣る画家のように思えたが,写真で見ても,とてもピエロの重要な弟子の1人とは思えない.同じく主要な助手とされるジョヴァンニ・ダ・ピアモンテとの間には,資質に相当の開きがあるように思える.

 堂内で見た記憶がないが,案内書の写真に拠れば,ロレンティーノのフレスコ画として「泉の破壊」と「慈悲の聖母」は少しましな作品に思えるが,後者は絵柄がピエロの作品そっくりだ.

 アレッツォのルネサンスを代表するニッコロ・ソッジの「聖母子と聖人たち」(聖なる会話)も見られ,これは色が落ちてはかない感じがするが,それがかえって味わいとなり,私は好きだ.

 ヴァザーリの『芸術家列伝』に「ソッジ伝」(エヴリマンズ・ライブラリー3巻pp.156-162)があり,「フィレンツェの画家」とされていて,フィレンツェで生まれ,アレッツォで亡くなったようだ.この絵をテンペラでサン・フランチェスコ教会のために描いたことは,ヴァザーリの伝記にも言及がある(英訳,p.157).

 それに拠れば登場人物は聖母,洗礼者ヨハネ,ベルナルドゥス,修道院長アントニウス,フランチェスコのようだが,ベルナルドゥスとアントニウスはもうほとんど識別できない.3人の天使が歌を歌い,父なる神も描かれているとされるが,後者はわからない.ほっそりとした天使たちは美しく,地上との距離感が成功しているように思える.剥離フレスコに見えるが,テンペラだそうで,それもヴァザーリが言及している.

 バッチ礼拝堂を挟んで左の無名の礼拝堂にある伝ルーカ・シニョレッリの剥離フレスコ「受胎告知」,ネーリ・ディ・ビッチの「受胎告知の祭壇画」,右のグァスコーニ礼拝堂にはニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニの三翼祭壇画「腰帯の聖母と聖人たち」があり,最後の作品は見事だ.

 パオロ・スキアーヴォの「聖カタリナの神秘の結婚と聖クリストフォロス」は,上手いとは言い難いが,この画家ならでは味わいのある作品だ.



 制限時間になったが,他に入場者がいなかったので,日本人ガイドのKさんが,アレッツォの町を簡単に案内するが,残りたい人はそのまま残って良いとおっしゃった.私は画家のSさんご夫妻と,バッチ礼拝堂に残った.おかげで,今回は,サン・フランチェスコ教会に関しては,ほぼ満足の行く拝観ができた

 今回,見落としたものもないではない.ヴェローナのサンタナスタージア聖堂でその作品に出会った,ミケーレ・ダ・フィレンツェの作品かも知れない墓碑もあったようだが,これは気づかなかった.まだまだ,楽しみが残った.


モンテルキ
 アレッツォ,モンテルキ,サンセポルクロで見られるピエロの作品は次のとおり.

アレッツォ 
 ・サン・フランチェスコ教会 「真の十字架の物語」 
 ・大聖堂 マグダラのマリア
教皇が来訪される準備のため今回は覆い隠されていた
モンテルキ 
 ・市立博物館 「出産の聖母」
サンセポルクロ 
 ・市立博物館 キリストの復活
トゥールーズの聖ルイ
聖ユリアヌス
慈悲の聖母の祭壇画


 バスはアレッツォを出ると,当初の予定を変更して先にモンテルキに向かった.

 アペニン山脈の麓のトスカーナの東の奥地に2つの大河がその水源を持っている.一旦南下してから北上し,西に折れてフィレンツェを通り,ピサの近くからティレニア海に注ぐのがアルノ川,南下してローマに向かい,さらに西進してティレニア海に注ぐのがテーヴェレ川だ.

 アルノ川はアレッツォの近くで北上し,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ,フィリーネ・ヴァルダルノを通るが,この地域を都市名にも付されているヴァルダルノ(アルノ川渓谷)と称する.テーヴェレ川のラテン語名称はティベリス(英語のタイバー)川で,vとbが入れ替わるが,これにちなんで,テーヴェレ川上流の渓谷地帯をヴァルティベリーナと言うようだ.場所によっては渓谷と言うより,肥沃な平野に見えるが,ピエロの故郷サンセポルクロも,彼の母の故郷モンテルキもこのヴァルティベリーナ地方にある.

 ヴェッキオ宮殿にレオナルドが現存しない壁画を描き,その一部をルーベンスが模写したことで知られるフィレンツェ共和国とミラノ公国の戦い(1440年)があったアンギアーリもこの地方にある.

 モンテルキの博物館で,

 Alberta Piroci Brancialori, Valtiberina: Un itinerario di Colori e di Luce, Firenze: ASKA, 2009(以下,ブランチャローリ)

を購入して,初めてこの名称を知った.観光案内だから当然かも知れないが美しい写真が載っていて,若かったらリュックを担いで自転車に乗り,あちこち巡ってみたいという夢想に駆られる.

 モンテルキの語源は,「ヘラクレスの山」(モンス・ヘルクリス)と言うラテン語とのことだ(ブランチャローリ,伊語版ウィキペディア),イタリア語ならモンテ・デルコレ(ディ・エルコレ)になるであろうか.古代にヘラクレス(ラテン語ではヘルクレス)の祭祀が行われた地にできた中世の村(ボルゴ)が起源とされる.具体的に古代の遺物があるのかどうかは確かめていない.

 ラテン語は名詞が格変化するが,格変化の廃れたロマンス語(フランス語,スペイン語,イタリア語などラテン語の直接の子孫にあたる言語グループ)になって行く過程で,前置詞支配を受ける格の一つである対格(英語の目的格の意味を含む格)が残りやすいと言われている.

 「ヘラクレスの山」の対格形は,モンテム・ヘルクリスとなり,対格の語尾-emは母音またはhで始まる語が後続すると,エリジョンして,モンテルクリスとなり,「クル」の部分は,culだが,-uは良く落ちるので,-clとなるが,人名のクラーラがキアーラになるように,ラテン語がイタリア語のなる過程で,-clは-chiになる,最後のスが落ちて,モンテルキとなる,と言うのが,当たるも八卦,当たらぬも八卦かも知れないが,私の語源予想だ・


写真:
ピエロ・デッラ・フランチェスカ
「出産の聖母」(部分)
(イタリア語でクッフィア,英語で
コイフと呼ばれる頭巾型の被り物)


 「出産の聖母」は1450年代に(アンジェリーニは1452-55年),サンタ・マリーア・ディ・モメンターナ教会の礼拝堂にフレスコ壁画として描かれた.1459年11月6日にピエロの母が亡くなり,その思い出のために描かれたとの伝説があり,今でもそのように言われることがあるが,研究者たちはそう考えてはいないようだ(伊語版ウィキペディア,ライトボウン).

 アレッツォで「真の十字架の物語」の仕事をしている頃の作品だろうと言われているが,「真の十字架の物語」に関しても.ビッチ・ディ・ロレンツォの死の1452年から1466年の間で,諸説あるようだ(アンジェリーニは52-55,55-58,60-62,62-64の4期に分けて,64年までに完成していたとする).

写真:
天蓋の幕を持つ
両側の天使
(同じ下絵を反転して描いた)
「出産の聖母」(部分)


 50年代の作品とすれば,30年代から画家としての活動を始め,晩年の70年代前半まで絵を描き続けた(「セニガッリアの聖母」,「モンテフェルトロ家祭壇画」)と考えられるピエロの全盛期の作品ということになるだろうか.アンジェリーニの年譜に拠れば,「キリストの鞭打ち」と「キリストの復活」の間に描かれた作品と言うことになる.

 「出産の聖母」は当初あった場所から剥離されて,居場所を転々としたが,一度もモンテルキを出たことがない.元々の壁にあるわけではないので,特別展への出展も可能なのだが,申し出があっても全て断っているとのことだった.それは主として,出産を控えた地元の妊婦たちの心の支えとなっているからだと,サンセポルクロ市民であるエレオノーラさんは仰っておられた.


写真:
この作品1枚のために小学校を
改装して美術館が作られた

この絵は決してこの地を
離れることはない



サンセポルクロ
 モンテルキの美しい風景を見ながら向かったサンセポルクロは大きな町に思えた.実際は人口が1万6千人程度で小都市だが,2千人弱のモンテルキに比べると,大都市のように思えた.

 バスを降り,城門から入って,旧市街を,16世紀創建のサン・ロッコ教会,ゴシック様式のファサードを持つ13世紀創建のサン・フランチェスコ教会を横目に見ながら,市立博物館を目指して歩いた.

写真:
市立美術館を目指して歩く
サンセポルクロ


 14世紀創建でルーカ・シニョレッリの「キリスト磔刑の幟旗」のあるサンタントーニオ・アバーテ教会,地元出身でシエナで活躍したマッテーオ・ディ・ジョヴァンニの三翼祭壇画のあるとされるサンタ・マリーア・デイ・セルヴィ教会,ロッソ・フィオレンティーノの「キリスト降架」のあるサン・ロレンツォ教会,傑作に満ちた大聖堂は拝観していない.

 博物館からバスに戻る途中,見るからに新しい建物のサンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会の傍を通った.この教会には,地元のルネサンス,マニエリスム期の画家ラファエッリーノ・デル・コッレの「慈悲の聖母」があったらしい.扉は開いていたが,団体行動なので,入らなかった.

 今回,よりアクセスが困難なモンテルキに関しては,唯一の見ものと言っても良い「出産の聖母」の,かなり満足の得られる鑑賞を果たしたので,今後チャンスが無ければ,再訪できなくても仕方がないと言う気持ちになったが,サンセポルクロは是非再訪を果たしたい.アレッツォからサンセポルクロへのバス便は,少ないとは言え日に数本はあるようなので,そう難しいことではないと思う.



 サンセポルクロの市立博物館では,やはり「キリストの復活」が傑作だ.私としてはピエロの最高傑作と言いたい.確かに.「キリスト笞刑」,「セニガッリアの聖母」,「モンテフェルトロ家祭壇画」には独特の魅力があり,「真の十字架の物語」の持つ複雑怪奇な引力は捨て難い.

 しかし,「キリストの復活」の持つ単純な迫力は,見る人を凝視させ,その場を離れ難くする.

 今回,小さな博物館なのに,写真を撮らせてもらえないのは意外だったが,憧れ続けた作品を観られた喜びは何にも代え難い.

 この絵に関して,誰の影響を受けたとか,誰に影響を与えたとか言うのは些末なことに思えるが,それでもサンタポロ―ニア修道院の「最後の晩餐」の上にある3つのフレスコ画の内の「キリストの復活」は,兵士たちが眠っている所と言い,イエスが棺から立ち上がって,白地に赤十字の旗を持っている所と言い,「酷似している」と言っても過言ではない.

写真:
アンドレア・デル・カスターニョ
「キリストの復活」
(フレスコ 部分)
サンタポロ―ニア美術館


 保存状態のせいもあり,一見すると,ピエロの作品の方が上出来に見えるが,ピエロの髭の生えた中年のキリストに対し,若い少年のようなアンドレアのキリストにも独特の魅力がある.

 それにしても,向かって右側で,槍を支えにして眠り込んでいる兵士は本当によく似ている.

 アンドレアは1421年の生まれで,1420年以前に生まれた(アンジェリーニの年譜)と思われるピエロの方が年長の可能性が高い.しかし,ピエロの「キリストの復活」は1450年代の後半だとすれば(アンジェリーニの年譜),少し古い本だが,

Marita Horster, Abdrea del Castagno, Oxford: Phaidon Press, 1980

を参考にすると,アンドレアの作品は1440年代の後半の可能性があり,だとすれば,アンドレアの作品が先行していることになる(「イタリア・ルネサンスの巨匠たち」11のパオエーリョも諸説あることを認めながら,その立場のようだ).

 フィレンツェ,サンタ・クローチェ聖堂聖具室のフレスコ画タッデーオ・ガッディの「キリスト磔刑」の向かって右隣にあるニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニの「キリスト復活」は,兵士が眠りこけていて,キリストが白地に赤十字の旗を持っている.キリストがマンドルラの中にいて浮遊しているのは,リアル感に乏しく,地に足がついているアンドレアやピエロとは違って中世的だ.

 サンセポルクロの大聖堂にニッコロ・ディ・セーニャと特定されることもあるシエナ派の画家の「キリストの復活」の金地板絵の多翼祭壇画があり,14世紀の作品とされるので,ピエロがここからヒントを得たとされている.確かに,眠りこけている兵士たちの背後の石棺にキリストが右足をかけて仁王立ちしている.これを入れて,三者の関係を考えると,アンドレアの「キリスト復活」とサンセポルクロ大聖堂の祭壇画の関係はどうなのだろう.

 いずれにせよ,ピエロの「キリストの復活」は古今に冠絶した傑作だ.これが見たくて,サンセポルクロに連れて行ってくれるツァーを選んだのだ.満足した.

 「聖ユリアヌス」のフレスコ画断片はともかく,「慈悲の聖母の祭壇画」,「トゥールーズの聖ルイ」には心魅かれる.ピエロはやはり,神秘的な魅力を持った芸術家だ.


写真:
ピエロに影響を与えた
レオン・バッティスタ・
アルベルティの設計による
サンティッシマ・アヌンツィアータ
聖堂の後陣


 サンセポルクロの市立博物館は,ピエロ以外に優れた芸術作品も少なくない.マッテーオ・ディ・ジョヴァンニの「聖ペテロと聖パウロの三翼祭壇画」は,中央にピエロの「キリストの洗礼」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー)が置かれていた作品だ.金地板絵である左右の両翼と,間にあった金地の全く無い「キリストの洗礼」は調和していたのだろうか.

 Maria Oelker, In the Heart of the Tucan Tiber Valley: Sansepolcro "A City Guide", Edizioni Colori di Toscana,2008

という英訳案内書を博物館のブックショップで入手したが,この本に再現写真が出ている.それなりの味わいがあるが,やはり違和感の方が大きい.

 マッテーオ・ディ・ジョヴァンニや,前述したラファエッリーノ・デル・コッレばかりでなく,フィレンツェで活躍した16世紀の実力派の画家サンティ・ディ・ティートもサンセポルクロの出身だ.

 大聖堂にも彼の作品があるようだが,市立博物館には彼の作品を集めた部屋もある.「トレンティーノの聖ニコラ」(この聖人を描いたピエロの絵がミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館にあるが,比べるとピエロの古さがわかる),「信者たちの渇きを癒す教皇聖クレメンスの奇蹟」,「受胎告知」,神話画「グラウコスとスキュレ」などが見られる.

 この部屋に,フィレンツェの画家アゴスティーノ・チャンペッリの「偶像破壊を励ます聖バルトロマイ」,アンドレア・ポッツォの「インド女王を改宗させるフランシスコ・ザビエル」があり,それぞれ印象に残るが,全く今まで聞いたことがなかった,地元の画家レミージョ・カンタガッリーナの「最後の晩餐」(アントニオ・カンタガッリーナとの共作)のレヴェルの高さには驚いた.

 別の部屋にあったラファエッリーノ・デル・コッレの「聖母戴冠と聖人たち」とともに,サンセポルクロの地元出身の画家たちの活躍ぶりに目を見張る.

 今回,時間がなくてフレスコ画を集めたコーナーは見ておらず,残念だ.

 Donatella Pegazzaono, Il Museo Civico di San Spolcro, Montepulciano: Editrice Le Balze, 2001

には載っていないが,フィレンツェのヴェッキオ宮殿のブックショップの投げ売りで滞在中に買い,たまたま参考にするために北本の寓居に持ってきていたので津波を免れた,

Anna Maria Maetzke, Il Museo Civico di Sansepolcro, 1991(2)

と,上記のサンセポルクロの案内書の写真を参照すると,ラファエッリーノの剥離フレスコ画「教皇聖レオ」は立派だ.ポントルモの「聖クィリクス」,アンドレーア・デッラ・ロッビアの彩釉テラコッタ「受胎告知,牧人礼拝,天使たちと聖人たち」,「聖母子」,ジェリーノ・ダ・ピストイアの「救援の聖母」も傑作と言って良いだろう.

 17世紀のサンセポルクロで活動した画家フェデリコ・ゾイの「聖エジディオ」(アレッツォのサン・フランチェスコ教会にスピネッロがフレスコ画の題材として聖人とは同名異人),「聖アルカーノ
はエルサレムに巡礼して,この地に「聖墳墓」(サン・セポルクロ)の聖遺物をもたらし,地名の由来を作った聖人たちの絵だ.芸術的水準がどうのと言う絵ではないだろうが,この博物館にあって意味のある作品だろう.

 19世紀にサンセポルクロで生まれ,諷刺画の挿絵も描く画家として知られるアンジョロ・トリッカの彩色テラコッタによるピエロの胸像も,やはりこの博物館にずっとあり続けてほしい作品だ.

 レアンドロ・バッサーノの「三王礼拝」,パッシニャーノの「キリスト磔刑と聖人たち」もあって,とても語り切れないが,この博物館はできれば,3時間は居続けたい.もちろん,ピエロの「キリストの復活」はどれだけ見続けても飽きることはないだろう.何度でも行きたい場所だ.



 時間が足りなかったが,ともかく,この博物館で傑作を見たという満足感を得た.再びバスに乗り,ヴァルティベリーナの美しい風景を堪能しながら,フィレンツェに帰った.






サンセポルクロへ向かうバスで
硬質小麦の眩しいほどの緑