§フィレンツェ再訪 - その12
ピエロ・デッラ・フランチェスカ (1)
ピエロ・デッラ・フランチェスカ(以下,ピエロ)の作品を,今までどのくらい見ただろうか.初めてアレッツォに行った,2007年6月24日が最初の出会いだったか. |
フィレンツェにも,1つだけピエロの作品がある.ウフィッツィの「ウルビーノ公爵フェデリコ・ダ・モンテフェルトロとバッティスタ・スフォルツァ夫妻の肖像」と,その裏の「それぞれ凱旋の馬車に乗る公爵と公爵夫人」だ.従って,本来ならばフィレンツェで,最初の出会いがあるはずであった.
ところが,初めてウフィッツィに行った時,この作品は特別展に出張中で,何も知らずに行ったアレッツォの中・近世博物館で,出張してきていたこの作品と初邂逅することになった.
もっとも,中・近世博物館より先にサン・フランチェスコ教会に足を運んだので,最初に見たピエロの作品は,フレスコ画「真の十字架の物語」(聖十字架伝説)である.その後見た順に並べると(写真撮影が可だったものに○),
となるだろうか.ウフィッツィの作品はその後何度か見ているし,ウルビーノの作品も複数回見ている.ルーヴルの作品は,やはり最初はアレッツォの特別展で見たが,昨年ルーヴルで再び観ることができた.ミラノの作品も2回ずつ観ている.
ピエロの作品は,写真が撮れないものが殆どだが,幸い日本人が書いたもの,日本語に訳されたものを含めて,美しい写真付きの参考書が多数ある.
特にこれが優れていると言った感想を持つほど,ピエロについて勉強しているわけではないので,アンリ・フォション(白水社),カルロ・ギンズブルグ(みすず書房)など有名な歴史家の著作を拾い読みして,
マイケル・マイケル,嘉門安雄(日本語版監修)『ピエロ・デッラ・フランチェスカ アレッツォの壁画』求龍堂,1995(以下,マイケル) |
が簡潔で読みやすいのと,
アレッサンドロ・アンジェリーニ,池上公平(訳)『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』東京書籍,1993(以下,アンジェリーニ) |
は「イタリア・ルネサンスの巨匠たち」と言うシリーズの1冊だが,日本語版は各巻ともそれぞれ美術史の専門家が翻訳にあたっているようで,多分信頼が置きやすいのではないかと思った.
このシリーズの伊語版はフィレンツェの書店や美術館のブックショップで売っていたし,英語版もアマゾンなどで簡単に入手できるが,日本語版については,多くは品切れで入手は難しいかも知れない.たまたま全巻を,神田の田村書店で比較的安価に入手していた.私に「色彩」のことで,トラウマを与えた先輩もボッティチェリの巻を訳しておられる.
自分の勉強のつもりで,アンジェリーニを参考にしながら,ピエロについて考えてみるが,今回,アレッツォのサン・フランチェスコ教会の券売所で買った,伊語原著の英訳版
Pamela Zanieri, A Guide to the Places of Piero della Francesca, Firenze: Scala, 2011(以下,ザニエーリ) |
は参考になった.
この本は,初めてサン・フランチェスコ教会に行った時に券売所で買った,思い出深い本だが,大切な本でも当面使う予定のないものは,実家に置いていて,津波で流された.イタリア・アマゾンでも,アメリカ・アマゾンでも入手できず,残念に思っていたが,今回,4年前とは別の建物の中に移動していた券売所で再入手することができ,帰りの飛行機の中で読んで来た.
ザニエーリを読み返したことにより,ピエロの助手の中で,ジョヴァンニ・ダ・ピアモンテ(ザニエーリ英訳はダではなくディを使用),ロレンティーノ・ダンドレーアがおり,「真の十字架の物語」の諸場面でも,この2人の描いた部分が少なくないことを学んだ.
伊語版ウィキペディアには,ピエロの工房にルーカ・シニョレッリ,ペルジーノがいたとの記述があるが,根拠は示されていない.
アレッツォ出身とされるロレンティーノの作品は見た記憶がないが,ジョヴァンニの作品は,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの参事会聖堂付属博物館で「大天使ラファエルとトビアス」を,フィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂の聖具室で「ピエタのキリスト」を観ている.
「真の十字架の物語」(聖十字架伝説)
ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』(全4巻)人文書院,1979,1984,1986,1987年
の第2巻に「聖十字架の発見」,第3巻の「聖十字架称賛」の記事が見られる.
前者はかいつまんで言うと,アダムの死に際して,息子のセト(セツ)は,父の体に塗布すべく,「憐れみの木の油」をもらいに,楽園の門まで行ったが,大天使ミカエルはそれを与えず,その代わりに,楽園にある「命の木」(もしくは「善悪を知る木」)の枝を与えた.
セトが帰った時,既にアダムは死んでいたので,父を埋葬し,その墓にこの小枝を植えた.
この枝は大木となってソロモンの時代まで生きた.ソロモンはこの木を建造物に使おうと思い,切らせたが,使おうとする部分には長過ぎたり,短過ぎたりしたので,大工たちは沼にかかる小橋とした.
シバの女王がソロモンを訪ねた時,女王はこの小橋を礼拝して,「世界の救い主がこの木にかけられる」と,この木がキリストが磔刑になる十字架の材料となることを予言したので,ソロモンはこの木を地中に埋めた.
この木が埋められた場所に,神殿に捧げる犠牲獣の血をあらう池が掘られ,キリストの受難が近づくと,木が自ら浮かび上がって来た.
キリスト受難後200年以上経って,コンスタンティヌスとマクセンティウスがローマ帝国の主導権を争っていた時,合戦の前夜,天使がコンスタンティヌスを訪れ,中空高く明るい十字架を指して,その上に金文字で書かれた「この印もて勝利を収むべし」と言う句をコンスタンティヌスに見せた.
ミルウィウス橋のたもとで勝利を収めたコンスタンティヌスは,後にキリスト教の洗礼を受けるが,それ先立って,母ヘレナをエルサレムに派遣した.彼女はユダヤ人に強制して,地中から3つの十字架を発見し,そのうちの死んだ若者を甦らせた十字架を,キリストが磔刑になった十字架であるとして,発見場所を礼拝した.
後者が語るところによれば,紀元後615年,ペルシア王コスドラス(ホスロー)はエルサレムを攻撃し,ヘレナがその地に残した聖十字架を奪ったが,東ローマ皇帝ヘラクリウス(ヘラクレイオス)は,ドナウ川のほとりでコスドラスを破り,改宗を拒んだ彼を斬首し,取り戻した十字架をエルサレムに返すために,裸足で自ら十字架を担って入城した.
その他の記述も少なくないが,ピエロの「真の十字架の物語」と関連する箇所を選び出すと,以上のようになる.
ピエロの描いた場面では,「アダムの死」,「シバの女王の礼拝」,「コンスタンティヌスの夢」,「コンスタンティヌスのマクセンティウスに対する勝利」,「聖ヘレナと真の十字架」,「ヘラクリウスとコスドラスの戦闘」が印象に残る.
ピエロは礼拝堂のフレスコ画の場面構成を,どこかから順番に並べるのではなく,左右と正面の壁面を利用して,時空を超えた対応関係を持たせながら,組み立てた.
時間順に番号を付して整理すると,向かって左壁面の上部のリュネットは,「聖十字架を担うヘラクリウスのエルサレム入城」(10)で,それに対応する右壁面上部のリュネットは「アダムの死」(1)で,それぞれの下に「聖ヘレナと真の十字架」(8),「シバの女王の礼拝とソロモンとの出会い」(2),その下に「ヘラクリウスとコスドラスの戦闘」(9),「コンスタンティヌスのマクセンティウスの対する勝利」(6)が対応している.
正面の壁面はやはり3段構成(最下段の色大理石の絵まで含めると4段)で,向かって左,右の順で,最上段は「預言者エゼキエル」と「預言者エレミア」,その下は「ユダヤ人への拷問」(7)と「聖木の運搬」(3),最下段は「受胎告知」(4)と「コンスタンティヌスの夢」(5)である.
この中で,天使が聖母に棕櫚を捧げている「受胎告知」は,全体のストーリーと直接の関係が薄い.礼拝堂全体に展開していても,限られた空間なので,『黄金伝説』で紹介されている多少のヴァリエーションを含む記述と完全に一致するものではないように思われる.
『黄金伝説』の著者が,ドメニコ会出身の聖職者(ジェノヴァ司教)であるのに対し,この教会の運営者であるフランチェスコ会の考えが入っているとの説明もある(ザニエーリ).
フォションは,キリストの受胎をマリアに告げた本来の受胎告知ではなく,コンスタンティヌス懐胎をヘレナに告げた「第2の受胎告知」とする説を紹介しているが,説得的には思えない.
Ronald Lightbown, Piero della Francesca, New York: Abbeville Press, 1992 |
に「受胎告知」の詳しい解釈がある(pp. 173-177).この本には,サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂内の造形との影響関係も指摘されており,ピエロとフィレンツェのルネサンスを考えさせてくれる.
バッチ家の人々
カルロ・ギンズブルグ『ピエロ・デッラ・フランチェスカの謎』(森尾総夫訳,1998)は,予備知識無しに読むと,面食らうほど詳し過ぎるような気もするが,おもしろく読めるところも少なくない.
ヴァザーリは,ピエロにサン・フランチェスコ教会の仕事を依頼したのは,ルイージ・バッチだと言っているが,ギンズブルグに拠れば,ヴァザーリの妻ニコローザ・バッチは,その名からもわかるようにバッチ家の出身であるのに,そのヴァザーリにして,研究者がバッチ家に関する資料のどこからも拾うことのできないルイージと言う名前の人物を,ピエロの作品の依頼者とするのは奇異なことだと言っている(p.74).
ギンズブルグは,依頼者の候補としてジョヴァンニ・バッチの名前を挙げているが,この人物の没年は手元資料では分からない(ギンズブルグも「分からない」としている.p.122).おそらく70台の半ば過ぎまで生きたピエロの没年が1492年,ヴァザーリが生まれたのが,1511年であり,没年でくらべると82年,生年で比べると100年近い世代差がある.
いずれにせよ,ジョヴァンニの祖父バッチョ,父フランチェスコ,そしてジョヴァンニがバッチ礼拝堂に関わるバッチ家の主要人物である.
ギンズブルグが推定した依頼者ジョヴァンニ・バッチは,成功した商人の家系に生まれて,シエナの大学で学び,教皇庁の職を得,ルネサンスの開明君主ウルビーノ公フェデリーゴ・ダ・モンテフェルトロにも仕えた人文主義者である.
ピエロの作品(アレッツォの「真の十字架の物語」,「キリスト笞刑」)に見られるビザンティン皇帝風の人物は,ジョヴァンニが関係した,コンスタンティノープルからイタリアに来て枢機卿の地位を得たベッサリオンとの関係を想起させるようだ.
ジョヴァンニ・バッチが依頼し,「真の十字架の物語」の構成に示唆を与えたというのも,記録がない以上,アーニョロ・ガッディ(フィレンツェ,サンタ・クローチェ聖堂カステッラーニ礼拝堂,1380年),チェンニ・ディ・フランチェスコ・ディ・セル・チェンニ(ヴォルテッラ,サン・フランチェスコ教会クローチェ・ディ・ジョルノ礼拝堂,1410年)と比較した上での,ギンズブルグによる推論であり,確証はないわけだが,それで納得させるだけの説得力を持っている.
フィレンツェからも,シエナからも人文主義者が出ており,アレッツォを家系の出自とする人文主義者として,フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にデジデリオ・ダ・セッティニャーノが墓碑を造ったカルロ・マルスッピーニがおり,彼はホメロスの叙事詩『イリアス』,アリストパネスの喜劇『蛙』を訳した(ラテン語訳であろう)ことでも知られるようだ.
蘇るプロセス
ピエロが「ヘラクレス」の壁画を故郷ボルゴ・サンセポルクロで描き,それが現在ボストンの美術館にあることはよく知られている(アンジェリーニ,pp.59-63).
ピエロはローマでも仕事をしており,その際に古代の遺産を直接見て,影響を受けた可能性はあるが,正直ピエロの「ヘラクレス」を図録で見て,ギリシア神話の英雄であることは,棍棒を持ち,おそらく獅子の毛皮をまとっていることからしか推測できないほど,期待を裏切る作品だ.
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写真:
マザッチョ
「楽園追放」(フレスコ)
ブランカッチ礼拝堂 |
それに比べれば,ピエロに先立って大きな仕事を成し遂げたマザッチョの「楽園追放」におけるイヴの姿は,見事に古代的な図像「羞恥のヴィーナス」(ウェヌス・プディカ)を自家薬篭中のものとしている.
マザッチョやピエロに先立って,ジョヴァンニ・ピザーノは既に14世紀の初めにピサの洗礼堂の説教壇を支える柱に,見事に古代的なヘラクレスとウェヌス・プディカを再現している.それを考えると,ルネサンスに理想化された「古代」がその時代に蘇ることが当たり前になるまで,相当の時間を要したのだと思う.
たとえ,“こことここが,ピエロに関して古典古代を理想としたルネサンス的な要素”と明確に説明できないとしても,あくまでも可能性だが,ジョヴァンニ・バッチのような人文主義者との関係や,フィレンツェ,ローマ,ウルビーノ,リミニで仕事をしたらしい彼の経歴からして,こう考えることはできるだろう.理想化された古代の復興を大切な要素とするルネサンスが,天才たちによって実現されて行く過程に時代はあったのだと.
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写真:
ドメニコ・ヴェネツィアーノ
「洗礼者ヨハネと聖フランチェスコ」
(剥離フレスコ)
サンタ・クローチェ美術館 |
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ピエロがフィレンツェでドメニコ・ヴェネツィアーノと仕事をともにしたことはよく知られている.正直なところ,ドメニコの作品はウフィッツィ美術館とサンタ・クローチェ聖堂の付属博物館でしか見ておらず,そのイメージも自分の中で定着していない.「イタリア・ルネサンスの巨匠たち」シリーズの1冊,
アンナリータ・パオエーリョ,諸川春樹/片桐頼継(訳)『パオロ・ウッチェッロ/ドメニコ・ヴェネツィアーノ/アンドレア・デル・カスターニョ』東京書籍,1995
を見ても,人文主義的主題の作品は見られない.
アンリ・フォションは,ドメニコの独自性が,トーンの鮮やかさ,絵肌の清澄さにあると言い,フラ・アンジェリコの絵ほど強力ではない,としながらも
そうした決定的なちがいを除けば,ドメニコ・ヴェネツィアーノがフラ・アンジェリコ同様に光の詩人であることは疑いをいれない.そしてまちがいなく,ピエロも同じ資質を備えていた.ピエロはこの両先達に見られる透明感といおうか非物質的な光を,重く堅固な物質の内部にまで導いたのである.空間の白さと輝き,たぶんそれがピエロに対するドメニコの最大の影響といえるだろう.(原章二訳『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』 1997,p.89)
と,ピエロに対する影響を語っている.
しかし,パオロ,ドメニコ,アンドレアに共通する特徴は,遠近法と登場人物たちの不敵で個性的な面構えに思える.これは,ルネサンスの精神が醸成されている土壌としてピエロにも引き継がれて行くのではないだろうか.
ピエロの絵の登場人物は「不敵」というよりは,どこかに空虚感をただよわせており,前の世代の画家たちとは違うかも知れないが,「個性的」と言う意味では,これ以上なく個性的な人物造形である.
画家たちが,師匠や同時代人たちと違う,自分たちの個性を主張していく,そんな時代にピエロは生まれ合わせ,それを次の世代に引き継いで行ったのではないかと思う.そうした自己主張があってこそ,古典古代の主題が絵画芸術に取り込まれて行くルネサンスが実現されていったのではないかと想像する.
ピエロに関して,手軽に読める参考書も少なくなく,それらを読んでいると,考えさせられるところがあったので,今回はまとまらなかった.実際に「真の十字架の物語」以外に,今回見ることができたピエロの作品に関しては,次回に報告する.
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アレッツォのサン・フランチェスコ教会で
充実の拝観を終えて
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