フィレンツェだより番外篇
2011年11月17日



 





回廊(中庭)は4つある
サンティアゴ・デ・コンポステーラのパラドール



§巡礼街道の旅 - その14 パラドール,博物館他

パラドール(国営ホテル)には,昨年,コルドバで初めて泊まった.立派な宿だったが,丘の上にあって町からは遠く,その点が残念だった.


 現在93あるパラドールの中で,5つ星にランクされるのはただ2つ,そのレオンとサンティアゴ・デ・コンポステーラの両方のパラドールに今回泊まることができた.

 多くの場合,パラドールとして再利用されているのは歴史的建造物である.レオンは旧サン・マルコス修道院,サンティアゴは旧・王立救護院だ.どちらもファサードはプラテレスコ様式で,16世紀の建物である.

写真:
5つ星パラドール
エル・オスタル・ドス・レイス・カトリコス
かつては巡礼者のための救護院だった


 パラドールに関する参考書としては,

 上野健太郎/竹山裕子『スペインパラドール紀行』日本交通公社出版事業局,1995
 太田尚樹『アンダルシア パラドールの旅 スペインの古城に泊まる』中央公論社,1997

がある.色々な本があることに驚くが,前者が網羅的,後者が個人の体験に特化していて,それぞれ特徴がある.後者は「アンダルシア」と言っているが,レオンとサンティアゴのパラドールに関しても詳しく書いてある.


エル・オスタル・ドス・レイス・カトリコス
 サンティアゴのパラドールでは,「王の礼拝堂」(カピージャ・レアル)と言う名を持つ部屋や,福音史家の名前を冠した4つの回廊付き中庭が往時の雰囲気をよく伝えてくれる.

写真:
回廊をひとつ越えて
部屋に戻る


 サンティアゴのパラドール,旧・王立救護院(オスピタル・デ・ロス・レイエス・カトリコス)に関しては,

 Descubre la Historia / Discover History(以下,小冊子)

と言うタイトルのついた小冊子が手元にあるが,一体これをどこで貰ったか記憶にない.フロントで貰った以外には考えにくいので,多分そうだと思うが,パラドール内で見られる図像が案内図付きでリストになっていて便利である.


オスタル・サン・マルコス
 レオンのパラドールに関しては,その前身であるサン・マルコス修道院と教会,およびその建物を利用した博物館に関しての案内書

 Luis Grau Lobo, San Marcos:Anexo Monumental del Museo de Leon, Junta de Castulla y Leon, 2007(アクセント記号等省略)(以下,ロボ)

をアマゾンで入手した.この本は博物館の券売受付にもあったので,買おうと思えばそこで買えたのだが,英訳がなかったことと,もっと大きな英語版の案内書をパラドールの売店のウィンドーに見つけていたので買わずにいたら,結局,パラドールの売店が開くことはなく,英語版の案内書は買えず終いになった.

 帰国後,アメリカ・アマゾンにロボの本を注文したが,やはりスペイン語版しかなかった.アメリカ・アマゾンに注文したのはスペイン・アマゾンになかったからだが,今はスペイン・アマゾンでも売られていることを確認している.

写真:
レオンのパラドール
オスタル・サン・マルコス
右端の部分は教会
および博物館


 オスタル・サン・マルコスはベルネスガ川のほとりにあって,旧市街からは少し遠いが,歩いて行けないほどではない.牢獄として使われたこともあり,17世紀の有名なピカレスク小説家フランシスコ・ケベードも入獄していたらしい.

 教会に入ってすぐ左側に,古代のものであろう石棺などが置かれている部屋があるが,スペイン内戦の折,牢獄として使われ,拷問などが行われたようで,それを記憶に留めるようにと碑が置かれていた.美しい外観と,評判の高い五つ星ホテルと言う現状からは,想像もつかないが,暗い過去も持っているようだ.

 教会の中央祭壇のレタブロは,絵画をはめ込んだタイプで,詳しく検討すれば,それなりにおもしろいであろうが,今回は写真を撮ったのみで,特にしっかり鑑賞はしていないので,考察は控える.

写真:
パラドールの回廊は
そのまま教会(と博物館)へ
通じている(レオン)


 ファサード同様,プラテレスコ様式の代表的作例である回廊も,中世の回廊の繊細さに比べると,大味な印象は免れないが,それでも,このパラドールに宿泊して,夕方や早朝にこの回廊を散歩できる幸せは,知らずに泊まった者にとっては,僥倖としか言いようがない.

 下の写真の天井を見ていると,イスラムの影響を想起させられるが,すでに16世紀以降の建築であれば,イスラムの直接の影響はあり得ない.「共生」(ラ・コンビベンシア)を放棄し,ムスリムやユダヤ教徒に厳しい時代でも,こうした天井が作られたのは,それだけ,イスラムの影響は既にスペイン文化の血肉となっていたということであろう.

写真:
パラドール入口の部屋
重厚な木の天井が
石壁の部屋に温もりを
与えている(レオン)


 木製の格子天井は,16,17世紀のイタリアにも多く見られるが,スペインの天井装飾がイスラムの影響をより多く反映していいるように見えるのは,そうした先入観を持って見るからだけではないだろう.



 博物館に取り立てて心に残る作品があるわけではない.それでも博物館の1番奥にあった石造のレタブロは見事だった.ロボの本に解説があったので,写真を見ながら細部を確認した.各部分は次のようになっている.

 最上部分には骸骨があり,その下のリュネットに,洗礼者ヨハネのような毛衣を来た人物が,上の骸骨を指差しながら,「死への恐れが,私を不安にさせる」とラテン語の句を刻んだプレートを持っている.その下に,柱に囲まれた四角い部分があり,そこに何が刻まれているのかは,ロボの写真でも確認できないが,左右の柱の横にはそれぞれ,シレノスとトリトンの彫刻があって,異教的要素が隠されていない.

写真:
旧聖具室のレタブロ


 さらにその下にも四角い壁面装飾があり,そこには白馬に跨って剣を振りかざしたヤコブがイスラム教徒を蹴散らしているサンティアゴ・マタモロスの浮彫がある..

 その下にポルターユのような壁面装飾が壁龕を構成しており,タンパンには「永遠の父」が「これはわが最愛の息子なり」と言うラテン語が刻まれたプレートを持っている.神の右手は紹介するような仕草だが,キリストは見られず,左右には少年の姿の天使がいる.

 タンパンの半円弧装飾の最上部には「声が天から響き渡った」とやはりラテン語で書かれ,半円弧の左右には,預言者イザヤとエレミアが,それぞれ「山の麓から高みへと登れ」,「高みから声が聞こえた」とラテン語で言っている.

 タンパンの真下の四角い部分はただの壁面だが,下部には「創世記」24章の一場面がある.アブラハムの息子イサクの嫁選びのために派遣された下僕(ロボにはエリエゼルとあるが,新共同訳には固有名詞はない)が,後にイサクの妻となるリベカと井戸の所で出会い,水を飲ませてくれるように頼んでいる場面,とロボは解説しているが,言われなければわかならい.

 その下には祭壇画の裾絵のような彫刻があり,アブラハムが下僕に命令している場面と,受胎告知が彫り込まれているが,現場では気づかなかったし,写真で見ても確認できない.

 この部屋の中央には,「コリント前書」からの引用をギリシア語で刻んだ台座を持つ「司教ホアン・キニョーネス・デ・グスマンの墓碑」があった.ヘロニモ・デ・ノゲーラスの作品で,1572年頃の製作とのことなので,スペインの遅いルネサンスの芸術と言えよう.

 台座最下部のライオンの浮彫が写真で見ると面白いが,現地では気づかなかった.グスマンと言うと,聖ドメニコの名を思い起こさせるが,300年以上の時代差があり,ロボにも特に言及はない.

写真:
ファサードにずらりと並ぶ
歴史上の人物のメダイヨン
レオンのパラドール


 現地では,どうしても中世の遺産を見たいという気持ちが強く,ルネサンス,バロック,新古典主義の芸術の鑑賞がおろそかになりがちだが,今,写真や案内書で確認すると,ファサードの「キリスト降架」の浮彫や,帯状になっている部分にたくさんあったメダイヨンの刻まれた歴史上の人物の中には,カエサルやアレクサンドロスなどキリスト教以前の異教の英雄もいて,人文主義が定着した時代を思わせる.



 教会ファサードの「キリスト降架」と回廊の浮彫彫刻「イエスの誕生」は,スペインの遅いルネサンスの芸術家フアン・デ・フーニによるもので,注目作品として説明板が掲げられていた.

 1506年,フランスのジョワニーで生まれ,イタリアで修業し,ポルトガルのオポルトで司教館の建築に関わり,1533年からはスペインで活動した.レオンのサン・マルコス修道院の仕事がスペインでの最初の仕事とされる.バリャドリッド(バジャドリッド)に活躍の場を移し,多くの作品を残して,1577年,バリャドリッドで亡くなった.西語版ウィキペディアも「スペインの彫刻家」としている.

 レオン博物館にあるとされるマタイの立像(未見)には,「明らかにミケランジェロ(ミゲル・アンヘル)の影響がある」(西語版ウィキペディア)とまで言われており,イタリア・ルネサンスの影響下に芸術家として自己形成したことは間違いないのだろう.

 イタリア滞在中は,ボローニャなどでヤコポ・デッラ・クエルチャの作品を見て,影響を受けた可能性が指摘されており,フランス出身で,イタリア・ルネサンスの影響を受け,スペインで活躍したという点で,ブルゴスで出会ったフェリペ・デ・ビガルニと共通しており,スペインのルネサンスには重層的に他国,他地域からの影響が見られることを再確認させる.

 サラマンカ,パレンシア,アビラなどカスティーリャ諸都市はもちろん,バルセロナの博物館でも作品が見られるようだし,セゴビアの大聖堂に「キリスト埋葬」があって,もしかしたら見た可能性があるかも知れない.一世を風靡した芸術家と言って良いのだろう.残念ながら,それを体感することはできなかったが.

 フアン・デ・フーニほどには注目されていないが,回廊の設計者として,フアン・デ・バダホス・エル・メソの名前が挙げられていたのは,レオンの回の最後でも報告した.


巡礼博物館と大聖堂博物館
 地元ガイドさんが連れて行って下さったサンティアゴ・デ・コンポステーラの「巡礼博物館」は,いつできたのか新しい建物だった.大聖堂のアサバチェリア門を出て,インマクラーダ広場から坂道を登って行ったところにあるが,今,地図で確認すると近くにサン・ミゲル・ドス・アルゴス教会と言うのがあるようだが,全く気付かなかった.

 写真撮影は可で,絵にもおもしろいものがあったし,古い彫刻断片に興味深いものがあった.『芸術新潮』の「スペイン巡礼の旅」特集号でも取り上げられていた,池田宗弘氏の「巡礼の道絵巻」の原本が,操作によって巡礼地とその絵を検索できる装置とともに展示されていた.

写真:
巡礼博物館


 上の写真の展示室のアーチは,大聖堂の旧・回廊のもので,13世紀のものだそうだ.花崗岩でできている部分を再構成したもので,赤い彩色や植物文様が残っている.

 同じく13世紀の「運の車輪」の彫刻断片が目をひいた.運不運の転変が車輪に例えられるのは,古来からのことで,キリスト教的と言うよりは,世俗的な主題だと思われる.

 芸術作品としては,池田氏のものが最高で,その他は特筆されるようなものは見た限り無いが,時間があれば,無料だし,アーチ,柱頭,石造装飾,聖具,民具など13世紀から16世紀くらいのもので,見ることができて良かったと思う人も少なくないだろう.最優先のスポットではないが,時間と相談して,空き時間などに,訪ねてみるのも一興だろう.



 大聖堂内部の博物館は有料で,写真撮影禁止だが,ここはさすがに良いものが見られる.

 個人的には,ラフエンテの案内書に紹介がある,14世紀のタンパンの彩色浮彫「三王礼拝」が,サン・フィス・デ・ソロビオ教会のタンパンの同主題作品を思わせ,興味深かった.

 聖書に典拠のないことだが,「三王礼拝」という主題において,3人の東方のマギたち(贈り物が3種類であったことにちなんで3人とされた)は,賢人から「王」に昇格し,しかも,3つの世界(アジア,アフリカ,ヨーロッパ)を代表するとして,1人は黒人の姿で現されることが少なくない.

サン・フィス・デ・ソロビオ教会の「三王礼拝」で不思議に思ったのが,マギたちの一人が明らかに黒く塗られていたことだった.14世紀初頭に制作されたとき,オリジナルに黒人の王だったのだろうか.


 久保尋二『「マギの礼拝」図像研究 西洋美術のこころとかたち』すぐ書房,1990

では,ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂のモザイクの「三王礼拝」にすでに,老・壮・青の年齢差が見られることを指摘した上で,ジェームソン(ママ)の説として「年齢差の表現はギリシア方式に教示されたものであるが,皮膚の差異表現は画家の近代的(ルネサンス的)革新であると明言している」と述べている.

 さらに,自分の考えとしても,「人種別表現のほうは,アンドレーア・マンテーニャの『マギの礼拝』図像などが典型的なように,ジェームソンの指摘のごとく,ルネサンスに入ってから大々的に流布するものであった」と言っている.

 最初の人種別表現がいつであったかと言う断定を避けており,1902年に出版されたジェームソンの著書のタイトル(『美術作品に表現された聖母の伝説』)も,研究書と言うよりは紹介書のように思われるが,久保の著書で見る限り,1990年の段階では,「三王礼拝」の人種別表現の始まりは,はっきりと分かっていないか,漠然とマンテーニャの頃の15世紀後半にはあったと思われていたことになる.

 久保はレオナルド・ダ・ヴィンチの優れた研究者である.おそらくレオナルドに未完の「三王礼拝」があることから,この主題を研究した(「あとがき」参照)のであろうから,関係論文を精査したに違いない.久保が挙げている豊富な画像資料で見ても,白黒なので,少しわかりにくいが,はっきり黒人とわかるのは,ウフィッツィ美術館所蔵のマンテーニャ作品以前には見られない.

 マンテーニャの「三王礼拝」は,1464年頃の作品とのことなので,サン・フィス・デ・ソロビオ教会と,サンティアゴ大聖堂博物館の「三王礼拝」の方が圧倒的に古い.特に,前者が本当に1314年の作品なら,イタリアではジョットやドゥッチョが活躍した時代であり,イタリアの巨匠たちの洗練された作風とは全く異なる古拙な造形でありながらも,人種別表現という点においてはイタリアに遥かに先立って革新を遂げていたことになる.久保の著書には,ジョットとドゥッチョも作品が挙げられているが,どちらにも人種的差異は見られない.

 浮彫が本当に14世紀のものなのか,今残っている彩色はオリジナルなのか,様々な疑問が湧いてくる.いずれにしても,サンティアゴで見た14世紀作とされる2つの「三王礼拝」は佳品である.人種別表現その他の問題は,今後調べられるなら,自分でも調べて見るが,結論が得られるかどうかは全くわかない.

 大聖堂博物館に入ったおかげで,別の回で述べたように,タピスリー,図書館,回廊,アルバ礼拝堂,バルコニーを観ることができた.この博物館は,是非行った方が良い.


聖ヒエロニュモス学院
 大聖堂西正面前のオブラドイロ広場を囲んでいる建物は,北側がパラドール,西側はラホイ宮殿(パラシオ・デ・ラホイ),南側は聖ヒエロニュモス学院(コレヒオ・デ・サン・ヘロニモ)である.

 ラホイ宮殿は,建築を命じた大司教の名前に基づくもので,1766年に新古典主義の様式で作られ,現在はサンティアゴ市庁舎,ガリシア州大統領公邸などが入っている.建築家はルカス・フェロ・カアベイロで,彼はパラドールの裏手のサン・フルクトゥオソ教会も設計しているし,大聖堂のアサバチェリア門の改築にも関わっている,18世紀のガリシアを代表する建築家のようだ.


写真:
聖ヒエロニュモス学院
ポルターユ


 聖ヒエロニュモス学院は,現在はサンティアゴ大学の学長室が置かれているとのことだ.16世紀の大司教アロンソ・デ・フォネスカによって創設された.この学院がサンティアゴ大学に発展した.

 同名の父も,やはり同名の祖父も,サンティアゴの大司教と言うのは,聖職者になる前の子だったのか,婚外子なのかわからないが,サンティアゴに生まれ,名門サラマンカ大学で法学と神学を学び,1507年に32歳で,父が引退,一旦は教皇アレクサンデル6世の甥ペドロ・ルイス・デ・ボルハが短期間務めた大司教位を継承した.政治にも深くかかわり,スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)とも関係を保ち,1523年には宗教者としてスペインで最高の地位であろうと思われるトレド大司教となり,1534年トレドで亡くなった.エラスムスと手紙のやり取りをしていて,当時の第一級の知識人と言えよう.

 祖父,父,本人をそれぞれ,アロンソ(アルフォンソ)1世,2世,3世と称するようだ.まるで王朝のようで,貴族のように世襲権があるわけではなく,個人の能力の高さに主として由来するとは言え,門地が聖職者にとっても重要であったのは間違いないだろう.

 どのような出自で,どのような経歴をたどった人が創設したものであろうが,この学院はサンティアゴ大学に発展した.

 建物全体よりも,広場に面したファサードのポルターユが目を引いた.中世風の感じがするが,後に創られたフェイクなのか,オリジナルな中世の遺産をどこから持ってきて再利用したものなのか,私の鑑識眼ではわからない.よくできているように見えるので後者であると思いたい.手入れが良いからか,新しく見えるのが少し気にはなるが,新たに入手した英訳案内書,

 Xose Carro Otero, Santiago de Compostela, Leon: Editorial Everest, 2004

に拠れば,15世紀の作で,旧・救護院唯一の名残だそうだ.もちろんフェイクではないが,ロマネスク風に見えるので,ネオ・ロマネスクと言う言い方もあるらしい.




サント・ドミンゴ・デ・ボナバル修道院付属教会にて
鐘楼を目印に教会を訪ねて歩いた サンティアゴ・デ・コンポステーラ