§フランスの旅 - その13
ルーブル5 - 彫刻作品
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ドナテッロの「様式の模倣者」(ヴァザーリ『芸術家列伝』の邦訳『ルネサンス彫刻家建築家列伝』,p.217)と言い伝えられた彫刻家デジデリオは,近郊のセッティニャーノ出身(フィレンツェ生まれの可能性もあるとヴァザーリは言っている)でフィレンツェで活躍した.
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フィレンツェのバルジェッロ国立博物館を初めて訪れた時,彼の特別展を開催中で,まとめて作品を見る幸運に恵まれたが,その時はまだ,デジデリオ・ダ・セッティニャーノ(c.1430-64)という名前を知らなかった.ルーヴルからの出品もあったので,優れた芸術家なのかも知れないと思っただけだった.
その後,イタリアの諸方でこの人の作品を見て,間違いなくドナテッロからミケランジェロの間のフィレンツェの彫刻芸術を支えた天才であることを確信するに至った.最初に彼の作品を見たときから,「ドナテッロの弟子」と思い続けてきたが,影響は受けていても,「師弟関係はそれほど明確ではない」(塚本博『イタリア・ルネサンスの扉を開く』角川書店,2005,p.32)そうだ.ヴァザーリにも「師弟」を思わせる言及はない..
フィレンツェで初めて見た作品に,ルーヴルで再会できた.
煉瓦・浮彫
絵画の傑作群の素晴らしさは,自明のことだが,ルーヴルにある,数千年の歴史を背負った彫刻コレクションの見事さには声も出ない.
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写真:
歩くライオン
イシュタル神殿出土品
紀元前6世紀 |
メソポタミアやエジプトのとてつもなく古い歴史を考えると,紀元前6世紀は,既にギリシア彫刻にも浮彫などにはそれなりの作品もあり,決して古い時代とは言えないが,今回,エジプト美術に関しては満足の行く鑑賞ができていない(敢えてしていない)ので,上の写真は,感銘度が高いという条件と,写真が撮れたと言う両方の条件を満たすもの中では古い作品である.ライオンの堂々たる姿は立派だ.
オリエントの作品では他にも「アッシリアの有翼の雄牛」(前8世紀)や,上の写真と同じ彩釉煉瓦の「ダレイオスの射手」(前500年頃)も見事だった.
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写真:
埋葬用石碑
通称「花の讃美」
紀元前460年頃 |
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紀元前460年頃と言うのは,ペルシア戦争が終わり,デロス同盟が形成されて,その資金を使ってペリクレスが現存のパルテノン神殿を造るが,そのペリクレスが政権の座につくのが前443年であるから,アクロポリスの丘の上で,壊れた姿であるとは言え,現在も存在感を見せている大理石のパルテノンがまだできていない時代である.この石碑が造られた320年近く後にユリウス・カエサルがグナエウス・ポンペイウスに決定的勝利を収めたパルサロス(ファルサロス)で出土した.
写実的な描写で,上の写真の作品以上に優れているものは古代でも幾つもあるだろうが,とうの昔に「古拙」の域は脱している高水準の墓碑と言えよう.衣の襞,髪型などに浮彫彫刻ならではの質感が素晴らしい.
石棺
ギリシア古典期の墓碑の芸術性にも見惚れるが,ローマ時代の石棺の魅力は他に換え難いものがある.今までに,マントヴァの公爵宮殿,ヴェローナの考古学博物館とマッフェイ石碑博物館(図録は今回の津波で失われたが,若い友人F氏がほとんどの墓碑,石棺を写真に収めてきてくれた),ラヴェンナの諸教会,ピサのカンポ・サント,フィレンツェの考古学博物館と大聖堂博物館,パレルモ,アグリジェント,シラクーザの考古学博物館,さらに今年も,南フランスの諸方で,ローマ時代,古代末期,キリスト教中世の石棺の美に魅せられてきた.
今回,ルーヴルで,今まで見た石棺の総数に迫ると錯覚するほどの数を見ることができた.しかも,日本語の美術館公式HPから入って行ける,写真も掲載された情報豊富なデータベース(フランス語のみ)に拠って,いつごろの時代のもので,どのような題材を扱った浮彫なのかが良くわかる.
このタイプの芸術について,何らかの形で勉強したいものだと憧れ続けていたが,このデータベース検索と,撮らせて貰えた写真によって,今後の勉強の端緒と契機を得ることができる.ワクワクする.
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写真:
「ムーサの石棺」
150‐160年頃 |
この石棺の上部の壁に,ローマ時代のモザイク「パリスの審判」(紀元後2世紀,アンティオキア出土)が展示されていたが,これも見事なものだった.写真もまずます撮れたので,今後これは授業で使わせてもらう.ポンペイ出土のフレスコ画断片「有翼の精霊」(紀元前1世紀)も見事だった.
今回,エトルリア芸術は全く見ていないし,ギリシア美術でも壺絵,皿絵のコーナーは通ってもいない.それでも,今回見られた古代芸術は,古代文学を多少ともかじって勉強している者にとっては,どうして今までルーヴルに,30年前の学生時代に来ただけだったのか,後悔の念に苛まれるのに十分以上の質・量だった.
古代彫刻
古代の丸彫り彫刻は,ローマ時代のコピーが多い.それだけ,ギリシア古典期の傑作の評価が高く,たとえ模刻でもそれを自宅や公共建築の装飾に使いたいという注文が多かったということなのだろうか.
カピトリーニ美術館のウェヌス・プディカ(羞じらいのヴィーナス)のような名作ですら,古典期の最後に新しい時代を開いたプラクシテレスの模倣であり,原作者の作品は1点も現存しないというのが現在の定説とのことだ.
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写真:
古代彫刻の展示室
「アテナ」が招く |
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写真で見ても,もしかしたら,大芸術家の原作かも知れないと複数の人が思うような,ブロンズ彫刻がクリーヴランド美術館にある.「蜥蜴を殺すアポロン」(アポロン・サウロクトノス)である.美術館HPの写真は今一つだが,ウェブ上の画像検索で探すと,それなりの画像を見ることができた,心なしか,以前ほど満足の行く写真が無いように思えるのは気のせいだろうか.それとも,真贋や入手の経緯をめぐって何か議論があるからなのだろうか.
購入責任者であるベネット氏の講演を筑波大で聞く機会があった.彫刻の実習を担当する教官は現役の実作者だが,その中のお一人が,その発表を聞き,写真を見て,「これが芸術家自身の作品でないなら,一体真作とは何だろうか,と思う」と感に堪えぬ口調で,感想を述べておられた.研究者たちはかなり慎重なようだったが,私はこの実作者の先生と全く同じ感想を抱いた.
とは言え,実物を見ていないし,実物を見てもその真贋を論ずるだけの背景も持っていないので,あくまでも希望的観測を含む,感想に過ぎないのだが,ともかくいつの日か,クリーヴランドで実物を見てみたい.
従来,プラクシテレスの「蜥蜴を殺すアポロン」の模刻の傑作とされているのが,ヴァティカンのピオ・クレメンティーノ美術館の作品と並んで,ルーブル美術館の大理石彫刻だった.この作品を写真で見て,憧れる気持ちを持っていたが,クリーヴランドのブロンズ彫刻の写真を見て以来,もしかしたら模刻者の技量がやや劣っているのかも知れないと思うようになった.
しかし,やはり実物を見られる幸せは何にも換え難い(ような気がする).ルーヴルで見ることができた「蜥蜴を殺すアポロン」のほっそりとした少年の姿は,清々しく,私たちがギリシアにある先入観を持って抱く,「永遠の青春」を具現してくれているように思われた.知識としては,後世の模刻と知っているのに.
驚いたのは,2006年に東京藝術大学美術館で行われた「ルーヴル美術館展 古代ギリシア芸術・神々の遺産」の図録を復習していたら,「蜥蜴を殺すアポロン」が載っていたことだ.この特別展で,私はこの作品を見ているはずだが,そのときはそれなりに感銘を受けたかもしれないが,全く覚えていない.
1989年の「ヴァチカン美術館 特別展 古代ギリシャからルネサンス,バロックまで」の図録を見ると,やはりピオ・クレメンティーノの「蜥蜴を殺すアポロン」も日本に来て,この特別展を私は京都で見ているはずなのだが,これも全く覚えていない.罰当たりな話だ.
古典期やヘレニズム期のオリジナルであれ,ローマ時代の模刻であれ,ギリシア彫刻の持つ魅力はやはり独特だ.
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写真:
プラトン,アリストテレス,ソクラテス
(向かって左から) |
芸術的価値とは別に,古代の有名人の胸像は,観る者の心に訴えかけて来るものがある.多くの模刻や翻案作品が流布していて,私たちは,それらを見たとき,大抵の場合,ソクラテス,プラトン,アリストテレスと認識することができる.
実在したかどうかもわからないホメロスですら,多くの場合「これはホメロス」と認識することができることを考えると,本人たちの実像を反映しているかどうかは一応疑って見る必要があるにせよ,ある特定のイメージを詩人や哲学者に抱いてきた歴史は尊重されるべきだろう.
今回,他に別のコーナーで,伝セネカの胸像も見ることができたし,写真も撮らせてもらえた.見落とした作品もたくさんあるようだが,それは止むを得ない.
以前,2003年に国立西洋美術館で行われた「アレクサンドロス大王と東西文明の交流展」に,ルーヴル美術館所蔵のアレクサンドロス大王の胸像が来ていたことは記憶している.購入した図録は実家に置いていたため,津波で流されてしまったので確認できないが,多分,今回見ることができた胸像だったと思う.
若く,美しく,颯爽としていると言うには,やや地味目の胸像だが,それだけ実像を反映している可能性があると言えるかも知れない.上の哲学者たちの側に展示されていたのは,彼がアリストテレスの教え子だからだろうか.
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写真:
「瀕死の奴隷」と
「抵抗する奴隷」
ミケランジェロ |
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ミケランジェロが,古代彫刻の影響を受けなかったら,作風や完成度は変わっていたであろうか.これほどの天才だと,何とも言えないような気がする.
ピオ・クレメンティーノの中庭にあるラオコーン像が16世紀以降の多くの芸術家に影響を与えたとはよく言われるし,ミケランジェロもその一人とされる.確かに,うねるようなS字カーヴの彫像を見て,フィグーラ・セルペンティナータ(蛇のような姿形)と言う用語を思い浮かべると,古代彫刻,特にラオコーンのようなヘレニズム彫刻の影響を受けたのだろうかと思う.
ルーヴル美術館の奴隷たちの彫像はまさに,そのような作品だと思うが,かと言って,これは古代彫刻の模倣ではなく,ミケランジェロの個性に満ちて,時代を超越した彼の作品であるとしか言いようがない.より古典的なフィレンツェのダヴィデ像ですら,古代彫刻とは全く別物だと思う.
ダヴィデ像を鑽仰の念を持って観,3大ピエタに心奪われる経験をしたにも関わらず,それでも私は古代彫刻の方が好きだ.ほとんどがローマ時代の模刻で,近代以降の補修が施されていると知った上でも.
中世,ルネサンスの彫刻
ルーヴル美術館の図録や案内には様々なタイプがあり,多くは日本語版にもなっていて,その大半で「フィリップ・ポーの墓像」は紹介されているにもかかわらず,長い間,全くこの作品に注目することはなかった,
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写真:
フィリップ・ポーの墓像
15世紀末 |
Sophie Jugie, ed., The Mourners: The Sculptures from the Court of Burgundy,
New Haven: Yale University Press, 2010
という特別展図録の表紙を,インターネット書店の紹介ページで見て購入し,この種の芸術に初めて興味を覚えた.この図録で扱われているブルゴーニュ公国の君主たちの墓像は白いが,参考資料として1枚だけ,この「フィリップ・ポーの墓像」の写真が載っていて,それまでもガイドブックなどでは目にしていたかもしれない,このブルゴーニュ公爵家に仕えた貴族の墓像を,この目で見てみたいと思った.
フロア案内図を見ながら,作品のある場所に辿り着くと,ある程度の大きさの作品なのに,その割には狭い場所で,他にも比較的立派な彫刻が無造作に置いてあるように思えた.しかし,そこは人が少なく,周囲に気をつければ,じっくりと鑑賞することができる.
質感,量感,重量感があり,色の配合も見事で,無名のブルゴーニュの彫刻家がこれを造ったわけだから,15世紀のブルゴーニュの文化水準の高さ,イタリアではルネサンス期であるにも関わらず,ゴシック風への根強い志向など,様々なことを考えさせられた.ブルゴーニュの首邑ディジョンを是非訪ねてみたいと思わされた.
ドイツやフランスのゴシック期の木彫,石の彫刻には,心魅かれるものがあり,現代の技術が高く,写実性が完璧であったり,妙に抽象的であったりする彫刻に比べても,少なくとも私にとっては魅力的に思えた.ルーヴルで時間があったら,是非中世の作品にも注目すべきである.
同じく15世紀の作品と言っても,イタリアの彫刻は,やはりルネサンスの華やかな作風だ.工房作品が多く,デッラ・ロッビア一族,ブリオーニ工房の彩釉テラコッタを多数見ることができた.
2009年に東京・国立新美術館で行われた「ルーヴル美術館展 美の宮殿の子どもたち」で見たアンドレア・デッラ・ロッビア工房の作品「幼子イエスの礼拝」は今回は展示していなかったか,見落としたか,再会は果たせなかった.その特別展に来ていたミーノ・ダ・フィエーゾレ(c.1429-84)の「幼い洗礼者ヨハネの胸像」も見られなかったか,見落とした.
18世紀の彫刻家ジャン=バティスト・ドフェルネの「悲しみにくれる精霊」(英語版ウィキペディアの作者のページに写真),17世紀フランドルの画家フェルディナント・ボルの「山羊の引く車に乗る貴族の子どもたち」,16世紀の巨匠ティツィアーノの「聖母子と聖人たち」にはそれぞれ再会できた.
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写真:
「聖母子」
ヤコポ・デッラ・クエルチャ |
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ルネサンス彫刻では,シエナの天才ヤコポ・デッラ・クエルチャ(c.1374-1438)の彩色木彫の聖母子(フェッラーラのカルメル会修道院からローマの枢機卿コレクション),ドナテッロ(1386‐1466)の彩色テラコッタの浮彫の「聖母子」2点が見られた.
15世紀中頃から後半に活躍したのフィレンツェのアゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(1418-81)の「聖母子と4人の天使たち」(英語版ウィキペディアに説明)は,大理石の浮彫で,老コジモとロレンツォ豪華王の間のメディチ家当主「痛風病みの」ピエロのために造られたと推定されており,ルネサンスが最盛期に向かう時期の作品と言えよう.
さらに,ウルビーノの公爵宮殿建築に関わったルチアーノ・ラウラーナの親族で,現在のクロアチアで生まれ,ナポリ,パレルモで活躍したフランチェスコ・ラウラーナ(c.1430-1502)の「王女の胸像」(英語版ウィキペディアに写真),ベネデット・ダ・マイアーノ(1442-97)の「フィリッポ・ストロッツィの胸像」,フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(1439-1502)の彩色木彫「聖クリストフォロス」が見られた.
ミーノ・ダ・フィエーゾレの作品は「ディエティサルヴィ・ネローニの胸像」(メディチ家周辺のフィレンツェの人文学者で,この作品はヴァザーリがミーノの作品として言及),大理石の浮彫の「聖母子」2点,ヴァザーリがミーノの師に擬している(『ルネサンス彫刻家建築家列伝』,p.224)デジデリオ・ダ・セッティニャーノは,「幼いキリストと洗礼者ヨハネ」(1番上の写真),「(ユリウス・カエサルかも知れない)月桂冠をかぶった男」の大理石浮彫と,「洗礼者ヨハネ」の大理石丸彫り胸像(ただし,作者については「?」付き)が見られた.
より古いものではティーノ・ディ・カマイーノ(c.1280-c.1337)の大理石の「聖ベネディクトゥス」,ニーノ・ピザーノ(14世紀半ば)(伊語版ウィキペディアに,サンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂とピサのサンタ・マリーア・デッラ・スッピーナ教会で見た「聖母子」の写真)の彩色木彫「受胎告知の聖母」を見ることができた.
クエルチャ,ドナテッロ,ミーノ,デジデリオ,マイアーノの工房の作品や,彼らの影響を受けた作品,トスカーナ,カンパーニャ,北イタリアの無名の作家たちの作品もあって,ロッビア工房とその周辺の作品以外は若干華やかさには欠けるが,じっくり見て,中世末期からルネサンス初期にかけてのイタリア彫刻の歴史を勉強するには,大変有意義な空間と思える.
この「彫刻」篇をまとめたら,今回のフランス旅行の報告は終わりにしようと思っていた.震災の影響で,遅れていた新学期も始まり,週に10コマ超の授業と,そこそこの負担をともなう校務でアップアップしているし,学会,出版関係の仕事もそれなりにはある.
故郷の町,実家,両親,数人の親族,何人もの友人,知人を喪った被災者なので,時間をつくりながら,わざわざ,言ってみれば物見遊山の報告をすることには,先にも述べたように,自分でも疑問に思う点もあるが,ルーヴルで見た,圧倒的な数の芸術品の記憶を辿って,もう少し語って見たいと言う気持ちを抑えきれない.
PC画面を見るのがしんどくなってからは,わざわざ印刷までして,両親がこの「フィレンツェだより」を読んでくれていたことを私は知っていた.旅行から戻った報告をした翌日,今度は母の方から電話があった.最後に母が電話口で言った言葉は,フランスで怪我をしたテコテコ隊メンバーを気遣うものだった.土産も渡せず,土産話もできなくなった.仏壇もなくなったし,菩提寺もまだ葬儀ができる状況ではない.両親に線香をあげるつもりで,まだなお書き綴って行きたい.
少し,準備と推敲に時間がかかるかも知れないが,ギリシア・ローマの古典を題材にした芸術,レオナルドの影響を受けたレオナルデスキの作品,ジョット以後のゴシック絵画について,若干の整理と考察を試みたいと思っている.本当は古代彫刻と石棺についても何か言ってみたい気もするが,それは後日のこととしたい.
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30年ぶりに会えた女神
近いうちにまた会おう!
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