§フランスの旅 - その12
ルーブル4 − 北方絵画とスペイン絵画
|
イタリア・ルネサンスの芸術を考える上において,南フランス,北フランス,ブルゴーニュ,フランドル地方,オランダとの相互影響は常に見逃せない視点であろう.
|
|
上の写真の作品(1611年)は,授業で何度か使わせてもらった.変な絵柄で,ジョルジョ・ヴァザーリの同主題の作品(1570-72年)とともに,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの写真を見て,印象に残っていた.後者はフィレンツェのヴェッキオ宮殿のストゥディオーロにあり,通常は非公開だったと思うので実物は見ていない.
ヨアヒム・ウテワール(『ルーヴル美術館展 17世紀ヨーロッパ絵画』日本テレビ放送網,2009の表記)は,「マニエリスム」と言うには,時代的に遅いような感じがするが,特別展解説に拠ればオランダ・マニエリスム,英語版ウィキペディアに拠れば,北方マニエリスムの画家である.
ペルセウスが登場する絵は,ルーヴルには,ピエール・ミニャールの「ペルセウスとアンドロメダ」(1679年),テオドール・シャセリオーの「アンドロメダとネレウスの娘たち」(1840年)がある.ミニャールの絵は今回見学しなかったコーナーにあったものと思われ,シャセリオーは見られることを期待していたのだが,2点彼の作品を見たコーナーでは,今回は見られなかったように思う.見落としたのかも知れない.
ウフィッツィ美術館には,奇才ピエロ・ディ・コジモの「アンドロメダを解放するペルセウス」(1503年頃)がある.ピエロ・ディ・コジモの作品はウフィッツィで何度も見ているが,見るたびに「けったいな」絵だと思いながら,妙に印象に残った.画集やウェブページの写真で,何度も分析的に見ないと納得が行きそうにない.
ペガサス
ペルセウスはアンドロメダを救う場面ではペガサスに乗っていないこともあり,ピエロ・ディ・コジモの絵では乗っていない.『ルーヴル美術館展』(2009)の解説では,ウテワールはオウィディウス『変身物語』に取材したとしているが,実は『変身物語』のペルセウスはペガサスに跨っておらず,彼の空中浮遊は,翼の生えたサンダルに依っている.
アポロドロス『ギリシア神話』では,ペガサス(ペガソス)は,ペルセウスがメドゥーサの首を切った時に,そこから生まれたとされるので,何らかの関係は認められる.有翼の天馬ペガサス(ペガソス)に乗った英雄はペルセウスの他に,ベレロポン(ベレロフォン)がいて,後者は怪物キマイラを退治する.
ルーベンスは,ペルセウスがアンドロメダを救う作品を複数描いているようだが,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートで見られる3点には,ペガサスが描き込まれている(エルミタージュ,ベルリン国立,プラド美術館の所蔵作品のうち最後のものは,かすかにだが,良く見るとペガサスがいる).上記のヴァザーリ,ミニャールの作品にもペガサスは登場する.19世紀のギュスターヴ・モローの作品にもペガサスは描かれている.
しかし,ティツィアーノの「ペルセウスとアンドロメダ」(ロンドン,ウォレス・コレクション,1554-6年)には,ペガサスがおらず,ペルセウスが単独で空中に浮遊しているように見える.
古代の壺絵,皿絵を探しても,ベレロポンはいくつか見つかるが,ペルセウスがペガサスの跨る図像は一体いつからあり,文献的にそれを支える伝承はどこにあるのだろうか.文献としてはボッカッチョのラテン語著書『神々の系譜』(1360年の発表後,1376年の著者の死まで改稿)とのこと(英語版ウィキペディア「ペルセウス」に「ペガサスに跨るペルセウス」と言う項目)だが,単純に14世紀以降のことと言い切れるのか,それ以前の伝承を踏まえたものなのかは,残念ながら,今の私には「今後の課題」としか言えない.
フェルメールとレンブラント
フェルメールの「地理学者」が今,日本に来ている.上述のルーヴル美術館特別展の目玉も彼の「レースを編む女」であったが,今回のルーヴル行で,この作品には再会できた.ルーブルにもう一点あるフェルメールの作品,「天文学者」は傑作だと思う.しかし,これについて考察する,契機も材料も持っていない.
 |
|
写真:
「天文学者」
フェルメール |
それに比べれば,レンブラントの作品はまだしも聖書の中の話を扱っているので,若干は論じ安い.
当時としては,若い女性の描き方だったのだろうか.現在ではあまり若いと思われない体型だが,ダヴィデを魅了したバテシバをレンブラントは,このように描いた.
|
写真:
「バテシバ」
レンブラント |
 |
やはり,聖書関連主題で,女性の裸体画としてポピュラーな「スザンナ」(ベルリン国立美術館の「スザンナと老人たち」に似ている)の絵も同じ部屋にあった.「トビアスの家族のもとを去る大天使ラファエル」や複数の自画像(1/2)を見ることができた.「エマオの饗宴」,「聖家族」,「聖マタイと天使」などは,見た記憶が曖昧だ.
先日,BUNKAMUAザ・ミュージアムで,「フェルメール≪地理学者≫とオランダ・フランドル絵画展」を観てきた.「天文学者」と対になる「地理学者」(フランクフルト,シュテーデル美術館,1669)を目玉作品にした特別展だが,レンブラントの「サウル王の前で竪琴を弾くダヴィデ」も見ることができた.(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにはデン・ハーグにある同主題の別作品があるが,この作品の写真はなく,別のウェブ・ページで見つけた).これらはさすがに傑作だった.
ルーベンスの描きかけの絵を工房の協力者ヤン・ブックホルストが完成した「竪琴を弾くダヴィデ王」も来ていた.レンブラントのダヴィデが若者であるのに対し,ルーベンスのダヴィデは同じく竪琴を弾いていても,老人であった.堅実なできの作品で,やはり見られて良かった.
竪琴がダヴィデのアトリビュートとなっている作品は,ダヴィデを登場人物の一人としている祭壇画にも見られるが,竪琴を持った若者のダヴィデとサウル王が出てくる作品としては,バルベリーニ宮殿古典絵画館で,グエルチーノの作品を見ている.こちらでは既に,嫉妬に駆られた老王がダヴィデに槍を振るって襲いかかっているが,レンブラントの作品はその暴挙に至る直前の場面で,サウルはダヴィデの演奏を聴きながら,嫉妬の感情を募らせていく場面が描かれていて,その心理描写が説得力に満ちているように思われた.
私は立派な作品だと思うが,この作品を取り上げた論考が少なくとも,私たちが読むような一般的な書物では見られない.ケネス・クラークの『レンブラントとイタリア・ルネサンス』(法政大学出版局,1992)では,デン・ハーグの作品に関しては,「円熟期の傑作」として,個人的な体験も語りながら,高い評価を与えているのに,今回の特別展の作品に関しては,何の言及もない.今回は,図録を買って来なかったので,あまり情報が得られず,残念だ.
この特別展で,ブリューゲル一族とその工房の複数の作品,フランス・ハルスの肖像画,ロイスダール一族の風景画を見ることができた.やはり,オランダ絵画は風景画が良いとの確信を新たにした.
スペイン絵画
スペイン絵画は,16世紀の前半まで,圧倒的に北方絵画の影響下にあるように思える.セゴビアの大聖堂で初めて見たアンブロシウス・ベンソンの作品は,フランドル絵画のコーナーに2点(「聖母子と聖カタリナ,聖バルバラ」,「読書する若い女性」)あるが,見た記憶がない.
セビリアの教会にその絵があって(参考:「セビリア大聖堂の祭壇画」),ムリーリョが好きだったと言うペドロ・デ・カンパーニャ(ピーテル・ケンペニールと読むのか,ブリュッセル出身で,ブリュッセルで亡くなったフランドルの画家だ)の「キリスト磔刑」がスペイン絵画のコーナーにあった.これはしっかり見て,写真も撮った.
より興味深く思えたのが,ハイメ・ウゲー(『スペイン ハンドブック』三省堂,1982の表記)(1415-92)の「キリスト笞刑」,「キリスト哀悼」で,上手下手を越えて,ひきつけられた.フェルナンド・ガリェーゴ(ガジェーゴ)(c.1440-1507)の「聖母子」も印象に残った.
ビセンテ・カルドゥチョ(1568-1638)は本来は,ヴィンチェンツォ・カルドゥッチと言うフィレンツェ生まれのイタリア人だが,師匠だった兄バルトロメオ(1560-1608)について,スペインに来たのが少年の時で,マドリッドで死んだのでスペインの画家と言って良いだろう.バルトロメオは建築家のバルトロメオ・アンマンナーティ,画家のフェデリコ・ズッカーリ(ツッカーリ)の弟子で,ヴァザーリによるフィレンツェ大聖堂の丸屋根の天井画装飾の助手を務めているので,イタリア・マニエリスムの流れを組む画家だ.
バルトロメオは,師匠のズッカーリに従ってスペインに移り,エスコリアルの図書館や修道院回廊の装飾に力を尽くし,フランシスコ・ロペスなどのスペイン人の弟子も育てた.ビセンテ(ヴィンチェンツォ)は兄の画業を引継ぎ,スペイン各地で活躍,17世紀スペイン画壇を支えた弟子たちも育てた.スペイン芸術がイタリアの影響を色濃く受けた時代を象徴する画家の1人と言えよう.
そのビセンテの作品が複数見られ,いずれもカスティリア地方エル・パウラルのカルトゥジオ会修道院から注文を受けた「聖ブルーノと修道会の物語」連作54枚のうち6点とのことである.
イタリアから,富と権力がスペインに移り,その地の教会や修道会も芸術家の保護者,注文主となったが,それほどの背景を持つ芸術作品も,様々な事情で一部とは言え,ルーヴルに展示されているのは,国家や宗教団体の栄枯盛衰を感じさせる.今回,カルドゥチョの絵を見て,感銘を覚えたわけではないし,記憶にも残っていないが,技術の確かなイタリア絵画がスペインに受け入れらていく一つの証しとして考えさせらた.
イタリアからスペインに移住した芸術家と言えば,クレタ生まれのドメニコス・テオトコプロス,通称エル・グレコと言う超大物がおり,彼の絵も3点(「アントニオ・デ・コバルビアス・イ・レビアの肖像」,「キリスト磔刑と2人の寄進者」,「聖王ルイと小姓」)あり,いずれも傑作である.「聖王ルイと小姓」はシュノンソー城のコレクションから,ルーヴルに移されたとのことだ.
スペインからイタリアに移り,ナポリで活躍したフセペ・デ・リベーラ(1591-1652)の絵も4点(「キリスト降架」,「牧人礼拝」,「内反足の少年」,「隠修士パウロ」)あり,これもまたいずれ劣らぬ傑作である.カラヴァッジェスキの1人としてのも彼よりも,独自性を訴えかける諸作である.
 |
|
写真:
「聖ボナヴェントゥーラの
遺体安置」
スルバラン |
スルバランの作品は「リヨン公会議の聖ボナヴェントゥーラ」も含めて3点だが,その中から2作紹介するのは,単に私がスルバランが好きだからである.
ドメニコ会を代表する神学者がトマス・アクィナスだとすれば,フランチェスコ会が生んだ偉大な思想家はボナヴェントゥーラで,フランチェスコ会の代表を務め,フランチェスコの伝記をまとめ,枢機卿にもなってカトリック教会の中心人物にもなった.彼はリヨン公会議出席中の1274年にその地で亡くなった.現在はラツィオ州ヴィテルボ県に属するバーニョレージョ出身のイタリア人だ.「遺体安置」の絵でも,足元に枢機卿の赤い帽子が置かれている.
|
写真:
「聖アポロニア」
スルバラン |
 |
スルバランの「聖アポロニア」(拷問で抜かれた歯と「やっとこ」がアトリビュート)は見たかった作品だ.美術館HPに拠れば,セビリアのメルセド・デスカラス教会にあった作品で,これと対になっていた「聖ルキア」はシャルトル美術館にあるとのことだが,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには「聖ルキア」の画像はない.
ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの解説に拠れば,これらの作品は「聖ヨセフ祭壇画」の部分であったとされている.モンペリエ・ファーブル美術館の「聖アガタ」,ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある「聖マルガリタ」,プラド美術館の「ポルトガルの聖エリザベト」,ティッセン美術館の「聖カシルダ」など,雰囲気のよく似た作品が多いのは,こうした聖女像を愛好する注文主が多かったと言うことだろうか.
「聖アポロニア」と同じ部屋にあった,2枚の立派な聖人画も彼の作品かと思ったが,画風が大分違う.公式HPのデータベースで確認するとアロンソ・カーノの「大ヤコブ」(巡礼の杖がアトリビュート),「福音史家ヨハネ」(龍の飾りがついた毒杯がアトリビュート)のようだ.両者ともセビリアの聖パウラ修道院にあった作品とのことだ.アロンソ・カーノの作品は,今回の旅行ではシュノンソーで1点見ている.ルーヴルのカーノ作品は傑作だと思う.見ることができて良かった.
 |
|
写真:
「乞食の少年」
ムリーリョ |
ムリーリョ得意の「無原罪の御宿り」(リュネット型)は上述のルーヴル展でも見ている.「ジュニペロ修道士と貧者」,「天使の厨房」,「聖母の誕生」,「聖家族」,「荊冠のキリストと聖ペテロ」,「ゲッセマネの祈り」,もう一つの「無原罪の御宿り」,「フェルナンデス・デ・ベラスコの肖像」もあったので,計10点見たことになる.
さすがに,スペイン・バロックを代表する巨匠だが,ルーヴルの所蔵作品で比べると,スルバランの方がインパクトがあって魅力的だ.しかし,「乞食の少年」は,貧しくて不潔な状況にいざるを得ない少年を描いても,その姿は射し込む光によって神々しくさえ見え,画家の子どもたちへの深い愛情と共苦の思いを感じさせる.その題材にも関わらず,「美しい絵」と言い切るのに何の躊躇も無い.
フランドルの作品
ベネシュは,この作品(下の写真)に言及して,「ルーヴルの「両替屋とその妻」は,一五一四年の記年を持つ作品でありながら,その画趣はゴシック以外のものではない」と言っている(『北方ルネサンスの美術』p.98).確かに16世紀の絵とは思えないほど古くさい感じがするが,心魅かれる.
商業が発達した都市市民の暮らしを描く風俗画のようでありながら,宗教的な寓意も込められており(妻が開いているのは時祷書),素朴な絵に見えながら,手前にある凸面鏡は素人目にも,ファン・エイクの「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー,1434)を思わせるなど,先行作品を踏まえたルネサンス絵画であると言って良いであろう(『NHKルーヴル美術館』IV,pp.32-33など参照).
|
写真:
「金貸しとその妻」
クエンティン・マセイス |
 |
クエンティン・マセイス(『NHKルーヴル美術館IV』の表記)の「聖母子」は美しい絵で,見ることができて良かったが,写真はぼけてしまった.イタリア絵画の影響が見られるようだ.「ピエタ」も見ることができ,約半世紀前のディルク・バウツ(『NHKルーヴル美術館』の表記)「ピエタ」と対照したながら振り返ることができる.前者は後者の影響を受けているとされる(『NHKルーヴル美術館』IV,p.34).
マセイスの名前にには複数の綴りがあり,ローマのバルベリーニ宮殿の国立古典絵画館で見たエラスムスの肖像が,この画家のものであることが今にしてわかる.ルーヴルには,ホルバインの「エラスムスの肖像」が見られる.
同時代以降のイタリア絵画に多大な影響を与えたヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母子」の前には,20人ほどの中学生くらいの若者たちを座らせて長広舌を振るう先生が陣取っていて,説明が終わるのをしばらく待ったが,結局,絵に近づくことすらできず,ほとんど鑑賞できなかった.確かに折角実物の超名品があるのだから,それを生徒たちに見せるのは,大事なことだが,邪魔にならないようにしっかり鑑賞してもらって,授業は教室で写真を見ながらやってほしい.
ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「受胎告知」も近傍にあったので,落ち着いて見られなかったが,ともかく見るだけは見ることができたので,まだ馴染みが薄い北方美術の入口にはようやく立てたような気がする.
ウェイデンの「ブラック家の三幅祭壇画」(1450年頃)が素晴らしい.向かって右側の「マグダラのマリア」には見とれてしまう.解説を見なければマグダラのマリアではなく寄進者かと思ってしまう.対応する左側の人物は,十字架状の杖は持っていないが,ラテン語で「見よ,この世の罪を取り除く神の仔羊」と言っているので,間違いなく「洗礼者ヨハネ」であろうし,右の女性もよく見ると香油壺を持っているので,マグダラのマリアで間違いないであろう.
30年前に,連作「カトリーヌ・ド・メディシスの栄光」を見たとき,枚数と大きさに驚き,圧倒されはしたものも,これをじっくり見ようと言う気にはならなかった.ルーベンス(リュベンスと表記するのが,原音に近いそうだが,慣用に従う)の絵は,イタリアでも何点も見られる.大外れはないが,かと言って,取立てて感銘を受けるというほどの作品にも出会ったことがない.ウフィッツィにもパラティーナにも,複数の作品があるが,古典を題材として,絵柄が興味深い以外は,「哲学者たちの肖像」の中に,伝セネカの古代彫刻が描かれているが印象に残るくらいだ.
神話画,歴史画も数多く描いているようだが,あまり見ていない宗教画が,写真で見る限り素晴らしいと思っている.美術館HPのデータベースで検索しても,ルーベンスの作品は何作あるのか数える気もしないくらいたくさんある(連作も1点ずつ数えると50点以上か)中に,神話画,寓意画が多いようだし,風景画,肖像画に佳作が多いように思えるが,宗教画も何点かは見られる.その中で,印象に残ったのは,「ヘロデに虐殺された聖嬰児たち(もしくは天使たち)に囲まれた聖母子」が印象に残る.公式HPの解説ではティツィアーノ,ポルデノーネ(1484-1539年)など16世紀イタリア絵画の影響が強いとのことだ.
現在フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州に属する出身地にちなんでイル・ポルデノーネと呼ばれるジョヴァンニ・アントニオ・デ・サッキスと言う画家に関しては,全く知らなかったが,イタリア語版ウィキペディアの紹介画像を見ると,なるほど90年以上後輩のルーベンスの絵に似ているところもあるように思える.同ページの作品リストを見るとヴェネツィアのアカデミア美術館(「聖母子と聖人たち」),ミラノのブレラ絵画館(「キリストの変容」)に作品があるようなので,今までに作品を見たことがある可能性もあるが,全く記憶に無い.
このリストで,興味深いのはナポリのカポディモンテ美術館の「無原罪の御宿り」があるとされていることだ.同美術館の図録で確かめると,少女が天使に支えられるなどして浮遊しているスペイン型ではなく,下で聖人たちが議論しているイタリア型だ.現在はエミリア・ロマーニャ州のピアチェンツァ県に属するコルテマッジョーレ(イタリア語版)のサンタ・マリーア・アヌンツィアータ教会にあった作品とのことなので,もとは北イタリアにあった絵だ.この絵だけ祭壇に飾ってあったら,堅実な技法でしっかりと描かれた美しい絵と言う感想を持つだろう.
いずれにしろ,イタリア絵画の影響を受けたフランドルの巨匠の絵を,フランスで見てまずまずの興味を覚えた.ルーベンスだけでなく,フランドルなど北方の画家たちは,やはり北方の美術館や教会に傑作がより多くあるように思えるので,彼ら自身の素晴らしさに開眼するのは,まだ先のことだろう.
それまでは,やはり関心はイタリアとの相互影響で,その意味では,ルーヴルでの北方絵画の鑑賞は,何も知らない私には十分以上の成果を与えてくれた(ように思える).
|

連作「カトリーヌ・ド・メディシスの栄光」
「ルーベンスの間」にて
|
|

|
|