フィレンツェだより番外篇
2010年8月26日



 




アルハンブラ宮殿
壁の漆喰装飾(黄金の間)



§スペインの旅 - その5 - グラナダ

「グラナダ」は,スペイン語で「ざくろ(の実)」を意味するそうだ.


 ところが,多くの日本人ガイド(厳密には「ガイドの通訳」)さんがそのことに触れた後,しばらくしてから,「グラナダは何と言う意味でしたか?」と聞くと,大抵の日本人観光客は元気良く,「いちじく」と答えるそうだ.それだけ「ざくろ」は日本人にはなじみが薄い,ということだろう.

 「柘榴」という漢字を何も見ずに書ける人は,少ないだろう.少なくとも私は書けない.最も「無花果」を何と読むかと聞かれても,一瞬よりかなり長く考え込むだろう.

 「ざくろ」の語源は,英語のgrainとも関係するラテン語語源だが,地名のグラナダの語源は,『小学館 西和辞典』によれば,「ざくろの実(グラナダ),もしくはざくろの木(グラナド)に関連づける説もあるが,定説にはなっていない」そうだ.

 いずれにせよ,スペイン語には「成熟した」(男性形グラナド,女性形グラナダ)という形容詞もあるので,グラナダという地名から,ざくろの豊饒さが連想されるのは間違いないかも知れない.

写真:
ヘネラリーフェ庭園から
グラナダの街を見る


 大学入学以降,教員免許取得に必要な科目以外で歴史の授業を受けたことがないので,どうしても30年以上前の高校の世界史の話になってしまうが,「グラナダ」という地名は,1492年の「再征服」(以下,レコンキスタ)の完成と結びつく.

 ナスル朝というイベリア半島最後のイスラム王朝と,そこにあったアルハンブラ宮殿の名前くらいは,大学受験で世界史を選択するなら,ごく基礎的な知識に分類されるだろう.少なくとも,30年以上前はそうだった.

 しかし,けっこう世界史が好きだった私も,「後ウマイヤ朝」,「ナスル朝」,「レコンキスタ」は知っていても,繁栄を謳歌した「後ウマイヤ朝」がいつ,どうして消滅し,その後イベリア半島のイスラム教徒の勢力図がどうなったのかは,全く勉強したことがなかった.

 北アフリカに本拠があったイスラム王朝であるムアッヒド朝とかムラービト朝などが,イベリア半島に勢力圏を持っていたことは,歴史地図帳などで知っていたし,場合によっては模擬試験や入試に出題される可能性もあったが,結局,大学入学で世界史は「卒業」してしまったので,これ以上の知識は,少なくともスペインに関しては増えなかった.

 今は間違いなく,当時の知識をさらに下回っている.ただ,その後に勉強したことに関係が深い時代に関しては,現在私たちがスペインと呼んでいる地域に関しても,多少は知識が増えた.


ローマ帝国の支配
 古代地中海世界の覇権を争うポエニ戦争において,北アフリカの大国カルタゴの有名な将軍ハンニバルが根拠地にしていたのは,現在のスペインだった.

 バレンシア州のさらに南に小さなムルシア州がある.その首都ムルシアは少し内陸に入ったところにあるが,そこからさらに地中海を目指して南下するとカルタヘナという港湾都市がある.ラテン語のカルタゴ・ノウァ(新カルタゴ)から来ているが,カルタゴという名称が含まれることからわかるように,建設者はカルタゴから来たフェニキア人だ.

 この地には古代イベリアの先住民族がマスティアというさらに古い都市を営んでいたようだ.そこにカルタゴの将軍ハスドルバルがカルト・ハダシュト(「新しい都市」という意味だと,日本語ウィキペディア「カルタヘナ」にある)という植民都市を建設したのは紀元前227年のこととされる.

 その9年後に,ハスドルバルの義弟ハンニバルが,ここからイベリア半島を北上し,象を連れてアルプスを越え,イタリアに侵入して,第2次ポエニ戦争が始まった.

 当初優勢だったハンニバルは,最終的にカルタゴ近郊のザマでスキピオ(プブリウス・コルネリウス・スキピオ,通称「大アフリカヌス」)に敗れる.カルト・ハダシュトも,そのスキピオに占領され,ラテン語名カルタゴ・ノウァとしてローマの支配下に入った.

 ちなみに,ハスドルバルの義父で,ハンニバルの父だったハミルカル・バルカが建設し,その添え名にちなんで命名された都市が,バルキノ,現在のバルセロナであるとされる.

 古代スペインは,フェニキア人と縁が深かったことになる.



 ポエニ戦争を勝ち抜き,東方ヘレニズム諸国をも制したローマは,地中海に支配権を確立し,海外領土を獲得したが,国内的には,平民の不満を収めてそれを政治的基盤にしようとする平民派と,伝統的支配階級の利益を守ろうとする閥族派(元老院派)に別れて,内乱の時代を迎えた.

 前者の巨頭がマリウス,後者の指導者がスッラだが,最終的にはスッラが勝利して独裁政権を確立する.それにスペインで叛旗を翻したのが,平民派のセルトリウスだ.

「セルトリウス戦争」は,ローマ市民がローマの中央政府に反抗したものだが,結果的にイベリア半島におけるローマの支配領域を広げた.


 セルトリウスは紀元前72年に仲間のペルペンナに暗殺されるが,ペルペンナを処刑してスペインに勢力圏を築いたのが,カエサルのライヴァル大ポンペイウスということになる.まもなく,ローマ帝国が完成しようという時代だ.

 セルトリウスに関しては,大ポンペイウス同様に,後1世紀から2世紀のギリシア人プルタルコスが『対比列伝』に伝を立てている.

 大ポンペイウスはカエサルクラッススとの三頭政治を経て,勢力を拡大したカエサルとの決戦パルサロスの戦いに敗れ,逃亡先のエジプトで暗殺されるが,彼の息子たちグナエウスセクストゥスは,スペインに逃げ,ポンペイウス恩顧の古参兵軍団を率いてカエサルに対抗する.

 しかし,ヒスパニア・ウルテリオル(ローマに遠い方のスペイン)のムンダの戦い(紀元前45年)でカエサルに敗れ,捕えられたグナエウスは処刑され,セクストゥスは逃れるが,後に(紀元前35年)小アジアのミレトスアントニウスの部下に殺された.翌年の紀元前44年3月15日にカエサルが暗殺される激動の時代である.

 諸々の経緯(ピリッピの戦い第2回三頭政治アクティウムの戦い,など),を経て,アウグストゥスによる元首政(プリンキパートゥス)が確立して,いわゆる「ローマ帝国」の時代となる.

写真:
オリーブの畠


 ポンペイウスの息子たちがカエサルに敗れたムンダは,現在のアンダルシア州の同名の大都市を中心とするマラガ県のモンダとする説,コルドバ県のモンティーリャ(モンティージャ)とする説,マラガ近郊の有名な観光地でもあるロンダであるとする説などがあるようだが,いずれにせよ,当時,属州ヒスパニア・ウルテリオルに属していたムンダは,現在のアンダルシア州にあったことになる.

 ヒスパニア・ウルテリオルの首都はコルドバであった.後に,属州ヒスパニアは再整理され,現在のアンダルシアはヒスパニア・バエティカとなる.その中心地もコルドバであった.

コルドバに関しては,別の回に報告するが,ここでローマ時代に哲学者セネカが生まれ,今回コルドバを訪問できることが,このツァーを選んだ理由でもあった.


 古代イベリア人が建設したこの町がコルドバという名になるに関しては,やはりカルタゴのフェニキア人ハミルカル・バルカが関わっている.ヌミディア人の指揮官ユバにちなんで「ユバの町」を意味するカルト・ユバからカルトゥバとなり,紀元前206年にローマ人が占拠して以降,コルドバとなったようだ(英語版ウィキペディア).

 コルドバを流れる大河がグァダルキビル川で,この川が大西洋に注ぐ河口の町がカディスだ.

写真:
グァダルキビル川
ローマ橋の向こうにメスキータ
(コルドバ)


 日本の人気作家が『カディスの赤い星』という小説を書いているが,ここもまた古代から連綿と続いている町だ.地中海から大西洋に出るフェニキア人がその拠点として築いたガディル(「城壁に囲まれた町」)がこの町の名の起源で,ローマが支配するようになってガデス(ガーデース)と呼ばれるようになった.

 紀元前1世紀前半に,この町出身のコルネリウス・バルブスのローマ市民権を問題とする裁判が開かれ,その弁護を担当したのがキケロであり,その法廷弁論の原稿を後に加筆訂正して公表した『バルブス弁護』が現在まで伝わっている.それを日本語に訳した(岩波書店刊『キケロー選集』2所収)のが私であることは,ローマのクリプタ・バルビー訪問の報告で述べた.

 今回カディスには行かなかったが,私にとって,やはりいつか訪れたい町だ.フェニキア,ローマの古代から,イスラム支配の中世,「再征服」後のスペインと,様々な歴史的背景があって興味深いのは,他の多くのスペインの都市と共通している.



 古代ローマ関連で,私が関心があるのは,もう一つ,グァダルキビル川の流域にあって,コルドバとカディスの間に位置するセビリアだ.

 セビリアに関しても,別の回で,考察するつもりだが,話の流れに従って,その起源とローマ帝国との関係だけは,言及しておく.

 セビリアの北西9キロの地に,サンティポンスという小邑があり,その北部にローマ時代の遺跡がある.スキピオ・アフリカヌスが紀元前206年に建設した別荘地イタリカである.

 このイタリカ近傍に,ユリア・ロムラ・ヒスパリスという町をユリウス・カエサルが造営し,ローマ人が移り住んだ.古くには,ヘラクレスによる建設の伝説もあり,ギリシア神話との関連も興味深いが,古代イベリア人,フェニキア人によって歴史が紡がれた地域でもある.

 ヒスパリスを,後にこの地を支配したイスラム教徒がイスビリヤと呼び,これがさらに訛ってセビリアという地名になったとされる(英語版ウィキペディア,セビリアで買った英語版ガイドブック).

 イスラム教徒の前にこの地を支配したのが,ゲルマン人のヴァンダル族と西ゴート族だが,ランゴバルド族が支配したことで北イタリアがランゴバルディアからロンバルディアと呼ばれるようになったように,ヴァンダル族が支配したこの地も,ヴァンダリアと呼ばれ,それをイスラム教徒がアル・アンダルスと呼び,それが現在のアンダルシアという地名になった.

 アンダルシアにあった古代都市イタリカで2人のローマ皇帝が生まれた.トラヤヌスハドリアヌスである.

「五賢帝」として知られる5人の皇帝のうち,ローマの最盛期を築いた2人の皇帝が,現在のセビリア周辺の出身であったことになる.


 後者はローマ生まれとする説もあるようだが,アドリア海沿岸のピケヌム地方(現在のマルケ州周辺)に出自を持ち,イタリカに植民した家系の出身であることは間違いないようだ.

 もう1人有名なスペイン出身のローマ皇帝がいる.紀元前4世紀末にキリスト教を国教に定めたテオドシウス(1世)だ.現在のセゴビア近傍のカウカ(現在のセゴビア県コカ)の生まれだ.

 彼の息子,アルカディウスとホノリウスがそれぞれ,東ローマ,西ローマの皇帝になり,すでに四分割統治(テトラルキア)が既定事実になって長い時間を経ていた「ローマ帝国」が,正式に分裂した.

 ホノリウスの西ローマ帝国の宮廷はミラノ,ラヴェンナにあり,宮廷詩人だったのがクラウディウス・クラウディアヌスだった.テオドシウスの有能な部下ヴァンダル人スティリコは皇帝の姪で養女になっていたセレナと結婚し,その間に生まれたマリアがホノリウスと結婚する時,クラウディアヌスは「祝婚歌」を書いた.

 それに付随する小作品の中で,詩人はスティリコに呼びかけて,「スペイン(ヒスパニア)出身の血筋を,その源泉に返せ」と言っている.

 帝室の「スペインの血筋」は宮廷詩人にとっても深い関心の対象であり,皇帝にとってもマイナスの要素とはなっていなかったことになる.


西ゴート王国
 ホノリウスの姉妹で,ラヴェンナに小さいが美しい霊廟がある女性がガラ・プラキディア(ガッラ・プラチーディア)であることは,ラヴェンナ訪問の報告で既に述べた.

 この女性の最初の夫が,西ゴート族の英雄アタウルフだった.アタウルフは暗殺され(415年),ガラはローマ人と再婚し,夫も息子も滅び行く西ローマの皇帝になったが,アタウルフこそは,スペインの古代末期の「西ゴート王国」の礎を築いた人物である.

 マドリッドの王宮前の広場を歩いたとき,多分,歴代の「スペイン」の支配者たちの彫像と思われるものが並んでいるのを見た.その先頭にはアタウルフの像があり,彫像群の中で,それだけが印象に残ったので,新しくて,芸術性もそう高くないとは思ったが,写真を撮って来た.

 英語版ウィキペディアにたまたま同じ写真があり,それによれば,フェリペ・デ・カストロという彫刻家が1750年頃作製したものらしい.もちろん,本人を見て作ったはずはない.

写真:
王宮前の広場に立つ
アタウルフの像
マドリッド


 アタウルフの義兄であった,先代の王,「ローマ劫略」(410年)で有名なアラリック(1世)は暗殺されず,熱病で死んだ可能性があるが,アタウルフが暗殺された先例に倣って,スペインに最初に成立した独立した統一国家「西ゴート王国」の多くの王が非業の死を遂げた.

 この「西ゴート王国」のスペイン史における重要性を紹介した本が,

鈴木康久『西ゴート王国の遺産 近代スペイン成立への道』中公新書,1996


である.スペインをよほど愛しておられるのであろう,スキピオをスペイン語読みのエスピシオンと表記するなど,やや読みにくいし,西ゴート王国の歴史をこの本で理解するのは,相当努力がいるが,「西ゴート」に注目した視点と,その熱意は尊敬に値する.労作だと思う.

 アタウルフは現在の南フランスとスペインに勢力を拡大したが,窮境に陥って,南フランスから撤退して,現在のバルセロナに滞在していたときに暗殺された.

 南フランスからスペインに広がる「西ゴート王国」を確立したのは,エウリックで,この人の彫像もマドリッドの王宮前にある.彼が兄である前王を殺して即位したのが,466年で,484年にアルルで死去するまでの在位中に西ローマ帝国は滅亡した(476年).

 その後,西ゴート王国の拠点は,南フランスのトロサ(現在のトゥールーズ)にあったが,台頭するフランク王国に圧迫されて,6世紀前半に南フランスを放棄して,スペインに割拠する王国となる.しばらくは,ローマ帝国のイベリア半島支配の一つの拠点だったメリダ(ローマ時代は現在のポルトガルを含む属州ルシタニアの首都アウグスタ・エメルティア)を中心に支配していたが,560年に本拠地をトレドに移した.

スペインの「首都」トレドの誕生である.その時の王はアタナギルドであった.


 585年には現在のスペイン北西部ガリシア地方(ガラエキア)に勢力を誇っていた同じゲルマン人スエビー族の王国を併合し,名実ともに,スペイン初の独立統一国家となった.この時の王リウヴィギルド(スペイン語名でレオビヒルド)の像もマドリッドの王宮前にある.

 多くのゲルマン人同様,西ゴート族が信仰していたのは,同じキリスト教でも東方正教会やローマカトリック教会が奉ずるアタナシウス派ではなく,三位一体を否定し,キリストを人間と考えるアリウス派であったが,589年にレカレド(1世)が,カトリックに改宗し,ローマカトリック教会との関係が深まる素地ができる.

エウリックが法制度を定め(エウリック法典),アタナギルドが首都をトレドに移し,リウヴィギルドが一部を除くイベリア半島を統一し,レカレドがカトリックに改宗することによって,現在の「スペイン」につながる土台が作られた.


 東ローマ帝国の勢力を駆逐して完全にイベリア半島統一を果たすのはスインティラという王であったが,彼の彫像もまたマドリッドの王宮前に置かれている.半島統一は624年のことであったが,彼自身は存命中に権力闘争の結果退位した.西ゴートの王位は不安定なものだったと言えよう.

 西ゴート王国が,現代スペインに遺した大きな要素として

国土: ポルトガルを含むイベリア半島の統一
言語: 支配階級のゴート族の言語ではなく,ローマ時代に形成された民衆ラテン語と地元言語の融合
宗教: ローマ・カトリックへの改宗と,宗教会議が政治に影響を持つ体制で,西ゴート時代の一部が,スペイン北部に残ったことにより,イスラム教徒に対する「再征服」の精神的支柱となる一方,カトリックに対する異端を摘発して,弾圧する後世の「異端審問」の歴史的背景を構成
民族: 古代イベリア人,ケルト人,フェニキア人,ローマ人が融合し,実際にはユダヤ人,アラブ人,北アフリカ人との混血があったが,宗教を理由にイスラム教徒,ユダヤ教徒,それらからの改宗者を排除
法律: (これに関しては,『西ゴート王国の遺産』の第7章「西ゴート王国の法律」を参照されたい.しかし,上述の「エウリック法典」がスペイン最初の成文法であることは,銘記しておきたい)

などが考えられるだろう.

 これだけ,影響力の大きな「西ゴート王国」だが,政権が不安定で,苛斂誅求による民衆の疲弊,経済的な力を持つユダヤ人差別への不満など,様々な原因があり,日の出の勢いだったイスラム勢力による,短期間での征服を許してしまう.

写真:
アルハンブラ宮殿
煉瓦とタイルの床
(メスアールの間)


 イスラム王朝による支配体制の安定も,西ゴート王国が形成した国土や民族の統一性があったことは否定できないだろう.さらに,気が遠くなるほど長期間に渡ったと言え,最終的にイスラム勢力を駆逐して「再征服」が可能であったのも,キリスト教を支柱とする「西ゴート王国」という「復興」の目標があったことも一面の事実であろう.

 いずれにしても,711年にアラブ人,北アフリカ人から成るイスラム教徒の勢力は,後にジブラルタル海峡と呼ばれる海を越えて,イベリア半島に攻め込み,1492年に「再征服」が完成するまで,その地に根を張った.

写真:
アルハンブラ宮殿
サン・ニコラス広場から


 イスラム帝国への編入,後ウマイヤ朝の形成があり,北アフリカのムラービト朝やムアッヒド朝影響下のイスラム諸勢力の分割支配を経て,バレンシア,セビリア,コルドバなどの諸都市がキリスト教国に「奪回」された後に,イスラム教勢力の最後の王国となったのが,ナスル朝で,その首都はグラナダであった.

 グラナダの「アルハンブラ宮殿」はスペイン観光の目玉で,私もスペインに行くなら是非見てみたいと思っていた.古典古代だけでなく,ルネサンスにも興味を持っているので,それを理解するために,「中世」についても多少なりとも知見を得たい.中世の一つのピークをなす12世紀において,ルネサンスの前提となった重要な要素が,スペインのイスラム文化であろう.その象徴であるコルドバのメスキータと,グラナダのアルハンブラ宮殿をこの目で見て,深く記憶に刻みたいと思っていた.

 念願を叶えることができた.その感想は,次回以降に「続く」としたい.





フラメンコを見て,アルバイシン地区を歩く
グラナダ