フィレンツェだより番外篇 |
ラ・ロンハ ファサードの彫刻 バレンシア |
§スペインの旅 - その4 - バレンシア
まず一泊して,翌日から観光が始まった.移動は全てバスである.ポルトガル人の運転手ルイスさんを除くと,添乗員のYさんも含めて総勢11人というこじんまりとしたツァーであった. 9日はバルセロナでグエル公園,サグラダ・ファミリア,ゴシック地区を見て,バルセロナに連泊,10日はモンセラットに行き,そこからタラゴナに向かい,観光,昼食の後,バレンシアに向かい,郊外のマッサルファールで宿泊した.
![]() ヨーロッパ諸国では,ガイドはEU市民で,資格を持った人であることが多い.イタリアには日本人の有資格ガイドもいるので,厳格にEU市民もしくはその家族である必要があるかどうかはわからないが,少なくとも今回のスペイン旅行のガイドは,スペイン在住のイタリア人ガイドが2人いた以外は,全てスペイン人であった. バルセロナ,マドリッドなど大都市の場合は,在留日本人がかなりおられ,「ガイドの通訳」という立場で,実質上のガイドの役割を果たしている.グラナダでも日本人の「ガイドの通訳」が活躍して下さった.
バレンシアも大都市なので,「ガイドの通訳」業をしておられる在留日本人ももちろんいると思う.ただ,今回のツァーではバレンシア市内の観光ポイントが限定されていたこともあり,有能でスペイン語に堪能な添乗員のYさんが,地元ガイドの通訳をされて,在留日本人の「ガイドの通訳」はいなかった. 旅行の最後にYさんが下さったメモを見ると,バレンシアのガイドさんは「ジュリアさん」とある.スペイン語ができるYさんが,わざわざ「フリア」ではなく「ジュリア」と書くということは,バレンシアの有力言語は何であろうかという疑問を誘う. ![]() Yさんが,運転手のルイスさんがポルトガル人であることを踏まえ,スペイン語ならブエノス・ディアスという挨拶が,ポルトガル語ではボン・ディーアだが,バレンシアの地元の言葉でもたままたまボン・ディーアであるという話をされた. 「バレンシア語」という言い方もある.英語版ウィキペディアによれば,はやりカタルーニャ語の一種のようだ.「バレンシア語の使用と教育に関する法」というのがあり,保護されているらしいが,州内の代表的都市では,半分程度の人がバレンシア語を話せるが,日常的にはスペイン語が使用されているという調査があるようだ(英語版ウィキペディア). いずれにせよ,ポルトガル語と同じと言うボン・ディーアがバレンシア語かどうかはまだ調べていない(下記の『ニューエクスプレス カタルーニャ語』に拠れば,少なくともカタルーニャ語では「ボン・ディア」というようだ). スペイン語では,日本語と同じく,bとvは同じ発音になるので,今回は一貫して「バレンシア」と表記するが,バレンシア語では「ヴァレンシア」に近い発音になるかも知れない. これを書いている途中のたった今,大阪の古書店から届いた
に拠れば,カタルーニャ語ではvに関しては,bと同じ[b]という発音と[β]のように表記される発音記号で表される2種類の発音があるようだ.後者については具体的にどう発音が違うのか,時間のあるときに付属のCDを聴いて見ることにするが,いずれにせ日本語表記の際にヴと表記される[v}とは違うようだ. 巻末の地図でもバレンシアは「バレンシア」と表記されている.ただし,英語版ウィキペディアではバレンシア語の幾つかのフレーズを[v]という発音記号を使って説明している.
![]() バレンシアの方が,深くイスラム文化の影響を受けている可能性がある. ![]() イスラム教はキリスト教に比べて新しく,教祖ムハンマドがメッカからメディナに移った年である622年を元年とする.その後,独特の宗教国家体制によって,支配領域を拡大し,ムハンマドの後継者たちは「カリフ」と呼ばれ,宗教ばかりでなく,政治,軍事の指導者であった. 高校の世界史でも習うが,4代目カリフのアリーを倒して,ウマイヤ家のムアーウィアがダマスカスを首都とするウマイヤ王朝を建て,イスラム帝国の継承者となった.この王朝の支配者もカリフを名乗った. ウマイヤ朝のカリフは14代続いたが,750年にムハンマドの叔父アッバースの子孫と称するアブー=アル=アッバースがウマイヤ朝を倒し,1258年まで続くアッバース朝を開き,カリフを称した.2代目カリフが首都をバグダッドに移し,この王朝は栄え,5代目のハールーン・アル=ラシード(在位786-809)の時代に最盛期を迎え,バグダッドは世界の中心の一つとなり,以後,世界最先端のイスラム文明が繁栄する土台となった. ウマイヤ朝の子弟は殺されたが,ただ一人それを免れたのが,アブド・アッラフマーン(日本語版ウィキペディアの表記)だ.彼はシリアを逃れ,母の故郷モロッコに亡命した.その時点で,711年以来イベリア半島はイスラム教徒の侵攻を受けていたが,彼はイベリア半島に渡り,コルドバを首都としてウマイヤ朝を再興した(756年).これが,高校の世界史でも教わる「後ウマイヤ朝」である. ![]() 後ウマイヤ朝は,高度な文化を誇って繁栄したが,内紛もあって1031年に消滅.イベリア半島のイスラム支配圏には,多くの豪族が割拠することになったが,その際に,こうした豪族に支配された諸国,諸地域もタイファと称される.現在のバレンシアを中心とする地域もそうだった. 714年に平和裏にイスラム教徒の支配を受けることになったバレンシアは,実はこの時代に大いに繁栄を謳歌することになる. 古代に栄えていたのは,少し北の方にあるサグント(サグントゥム)であった.古代イベリア人が築いたエデタニアに,紀元前140年にローマ人植民都市ウァレンティアを築いたのは,デキムス・ユニウス・ブルトゥス(「ブルータスお前もか」で有名なマルクス・ユリウス・ブルトゥスの従兄でやはり,カエサル暗殺者の一人であったであった同名のデキムス・ユニウス・ブルトゥスとは別人)としているのは,紀元後2世紀のローマの歴史家フロールスである. この地域は,11世紀末(1094年)に一度,有名なキリスト教戦士エル・シドによって「再征服」されたことがあるが,僅かな期間だけのことで,ようやく13世紀のジャウマ1世(アラゴン語ではハイメ1世)の「再征服」を待って,その後は,ずっとキリスト教地域であり続けた.この13世紀にゴシック様式で建設され始めたたのが,バレンシアのカテドラルだ. カテドラル 私たちのバレンシア観光は,バスの車窓から近代的大都市である市街地を見学した後に,カテドラルを拝観することから始まった. カテドラルは,西ゴート王国(415-711年.このうちイベリア半島に限定される王国となるのは560年以降)時代に建設された教会跡にあった,イスラム時代のモスクを破壊して建造された. 「パラウの入口」(パラウはスペイン語のパラシオ,イタリア語のパラッツォにあたる語なので,宮殿,邸宅の意味であろうから,おそらく「司教館」の側にある入口ということだろう)は,後期ロマネスク,「乙女」(ビルヘンは聖母を指す)広場から見える「使徒たちの入口」はゴシック様式,そして女王広場から見える,ファサードになっている「鉄の入口」はバロック様式と,時代を反映した様々な外観を楽しめる.
「大天使ミカエルの塔」(ミゲレテ)と称される鐘楼は,堂々たる姿だ.建築年代(14世紀後半から15世紀前半)から言っても,地元ガイドのジュリアさんが強調していたように,セビリアやコルドバのようにイスラムのモスクの尖塔(ミナレット)を転用したものではない. 最初,外観だけの見学予定だったが,ジュリアさんのお力か,短時間だが堂内を拝観することができた.「写真もフラッシュを焚かなければ良い」とのことだったので,何枚か撮らせてもらったが,暗い堂内では満足の行く撮影は難しい. それでも,大きな絵のある礼拝堂は印象に残った.連作の物語のパネルを繋ぎ合わせて,全体として巨大な四角形の祭壇画になっている. 中央市場の近くの売店で買った英語版のバレンシア案内書によれば,レオナルド・ダ・ヴィンチの工房にいたエルナンド・デ・ロス・リャノスと,エルナンド・ジャニェス・デ・ラ・アルメディナの作品とのことだが,他のでは作品を見たことがない画家たちだ.暗くてよく見えなかったし,写真もきれいに写っていないので,わからないが,遠くで見ている限りは立派な祭壇画に思えた.
英語版ウィキペディアはバレンシア大聖堂の公式HPの英語版にリンクしていて,ここから有益な情報が相当得られる.上記の祭壇画に関しては,エルナンドをフェルナンドとし,画風がレオナルドその他のイタリア・ルネサンス絵画に倣ったものであるという以外に,画家に関する情報はないが,ここから私たちが見たのは,閉じられた状態の扉絵で,これを開いたら,扉の裏側にも一連の物語絵を見ることができ,中には聖母子の彩色彫像(あるいは陶製か)があることがわかる. 写真のコピーやリンクは制御されているようなので,興味があれば,上記のページを参照されたい.かなり充実した紹介ページである. 私たちは注目しなかったが,この周辺にルネサンス期のフレスコ画があった.作者はパオロ・ダ・サン・レオカディオ,フランチェスコ・パニャーノ・ダ・ナポリ(英語版ウィキペディアの「イタリアの画家たち」に遠縁で,バロック時代の画家ミケーレ・パニャーノの簡単な紹介があり,そこにフランチェスコは15世紀のナポリの画家とある)で,描かせたのは当時司教だったロドリーゴ・ボルジア,後の教皇アレクサンデル6世,すなわち梟雄チェーザレ・ボルジアや,薄幸の女性ルクレツィア・ボルジアの父であったらしい. ![]() ビセンテ・フアン・マシプ(1475-1545) ペドロ・オレンテ(1580-1645) アロンソ・カーノ(1601-67) フランシスコ・ゴヤ の作とされる作品があることがわかる.いずれも,見ていないので,後日の楽しみだが,バレンシアにもやはり,中世,ルネサンス,バロック,近現代の芸術が根付いていたことが,多少とも想像できる.その他,堂内や付属博物館に多くの作品があり,作者に関してもかなりの情報を与えてくれる 英語版ウィキペディアによると,マシプはバレンシアの大聖堂でラファエロ風の「聖家族」の絵を描いたとしている.バレンシアに生まれた,バレンシアのルネサンス画派を構成した画家とあるので,あるいはフアンではなくジュアンと表記されるべきかも知れない. オレンテはバロックの画家だが,バレンシア州のさらに南の小さなムルシア州の出身で,トレドでエル・グレコに学んだ.都市ムルシアとクエンカで活躍したが,バレンシアの大聖堂に絵を描いたことが英語版ウィキペディアにも言及されている.弟子を育て,マドリッドでも活動し,セビリアでベラスケスやカーノの師パチェーコに会い.カスティーリャに戻る途中バレンシアで死に,同地の教会に葬られたとあるので,バレンシアの地元の画家ではないが,縁の深い芸術家の一人と言えるだろう. カーノに関しては,彼もしくは別の画家に帰せられる可能性があるという程度なので,このグラナダ生まれの,バロックの重要画家に関しては,後日触れることにしたい.ゴヤの宗教画が2点あり,大聖堂のHPには写真も出ている. 多くのガイドブックに紹介されているが,キリストが最後の晩餐で使った「聖杯」を祀った礼拝堂がある.この大聖堂の精神的支柱とも言うべき「聖遺物」であろうが,詳しい来歴はわからない.
![]() 「我らの聖母」(ヌエストラ・セニョーラ)はスペイン語版ウィキペディア(残念ながら英語版に情報はない)では「乙女」(ビルヘン)になっているが,その昔,捨て子たちのための施設を作った修道士に天使たちが与えたという伝説を持つ聖母子像を祀っている. この聖母子像は,殉教聖人ウィンケンティウス(ビセンテ)と聖ビセンテ・フェレルと並んで,バレンシアの守護者になっていて,これにまつわる大きな行事の写真が,英語版のガイドブックに紹介されているが,それに関しては今後の学習に委ね,このバロック建築の丸屋根天井を飾るフレスコ画が印象に残ったことを言うにとどめる.何でも,勉強の連想が広がって行くものだと思う.
このフレスコ画を描いたのは,アントニオ・パロミーノ(スペイン語版/英語版)という画家で,英語版ウィキペディアに拠ると,画家としてよりも現在はスペインの画家たちに関する伝記作家として知られているとのことだ. スペイン語版ウィキペディアには,彼の絵画作品のリストがあり,バレンシアだけではなく,コルドバ,グラナダ,サラマンカで描いた作品の写真もある.大規模なフレスコ画を描いたということは,工房を率いていたことが想像され,美術の歴史に輝く天才芸術家ではないだろうが,多くの注文をこなし,画家たちの伝記まで書いた才人であったことは容易に想像される. いずれにしても,今後,スペインの芸術について考える機会があるすれば,このバロック画家の作品との出会いは僥倖であったことになる.アンダルシア州グラナダ県ブハランセに生まれ,マドリッドで亡くなった(1653ー1726年)「スペインの」画家(ピントル・エスパニョール)と言えるだろう. ベラスケスの死の7年前に生まれ,ゴヤが生まれる20年前に亡くなっている,その時代的位置関係も興味深い.この人物に関しては今後の学習項目とする. コルドバで様々な学問を修め,画業における最初の師匠がセビリアの画家バルデス=レアルという点もおもしろい.コルドバの画家フアン・デ・アルファロ・イ・ガメスにも学んでおり,セビリアだけではなく,コルドバにも芸術家を輩出する伝統があったことに目を見張る.この人には今後,注目していきたい. スペイン継承戦争 上で教皇アレクサンデル6世が,この聖堂で司式する司教であったことに触れた.彼は,バレンシア王国領内の生まれだが,彼の母方の叔父である教皇カリクストゥス3世(アルフォンソ・ボルジア)もバレンシア近郊の生まれのようだ. 他にもドメニコ会の聖人ビセンテ・フェレルが,バレンシアの出身者であることが,この聖堂内の絵画からも察せられる. イタリアでも「聖ヴィンチェンツォ・フェッレル」の絵は何点か見ている.一番印象に残るのは,ヴェネツィアのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会で見た巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニ作「聖ヴィンチェンツォ・フェッレルの多翼祭壇画」だ. もっとも聖ビセンテ・フェレルの父は,イングランドからの移住者でウィリアム・フェラー(当時,いわゆる大母音推移の直前の時代なので,こういう発音ではなかっただろうが)とのことだ.母の名前はコンスタンティア・ミゲルとスペイン風なので,あるいは地元の人かも知れない. ついでに,バレンシア関連の有名人としては,「アランフェス協奏曲」で有名な作曲家のホアキン・ロドリーゴ(1901-99)が,上述のサグントの出身(バレンシア人だからホアキンではなくジョアキンだろうか),小説『血と砂』(邦訳は岩波文庫)で有名なビセンテ・ブラスコ・イバーニェスはバレンシア生まれ,など多士済々のようだ. 私たちには,やや事情が複雑に思われるが,ジャウマ1世は,この地に「バレンシア王国」を建設し,公式にはその王国は1701年まで続く.スペイン継承戦争の結果とされる.
![]() このうちアンヌ王妃はスペイン王フェリペ3世の王女であった.「ドートリッシュ」(オーストリアの)という添え名は,スペイン王家とオーストリアの神聖ローマ帝国皇帝の家がともにハプスブルク家で,近い親戚(アンヌの母も皇帝フェルディナント1世の孫であり,フェルディナント2世の妹)であることに由来するのであろう.
さらにルイ14世の王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュもスペイン王フェリペ4世の娘であり,カルロス2世の姉にあたる. 2人の間に生まれたのが王太子ルイであるが,彼は夭折し,14世を継いだ15世は王太子の孫,14世のひ孫となる.王太子ルイの次男フィリップが,継嗣を残さず亡くなったカルロス2世の後を継いで,スペイン王フェリペ5世となった.こうして,スペイン王位はハプスブルク家から,現在まで続くスペイン・ブルボン朝に移る. まことにややこしいが,フェリペ5世の息子は,3人がスペイン王になり,兄2人は夭折し,3人目のカルロス3世の系統が今のスペイン王家で,カルロス3世の母が,フェリペ5世の後妻エリザベッタ・ファルネーゼであり,カルロス3世が母からの相続権により最後のパルマ公爵になり,ナポリ王カルロ7世,シチリア王カルロ5世として両シチリア王国を事実上復興した人物であり,ナポリのカポディモンテ美術館の基礎を築いた人物である. オーストリアのハプスブルク家もスペイン王位の継承権を主張し,各国の利害が錯綜していたので,大規模な戦争になった.
1492年に「再征服」を完成し,コロンブスのアメリカ大陸「発見」を支援して,16世紀には「黄金世紀」を現出して一瞬の輝きを放ったスペインは既に,長く衰退に向かっていたが,スペイン継承戦争はその流れを不可逆のものとした.
![]() 小学生の頃,普段「イギリス」と読んでいる国の正式名称が「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」だと副教材の地図帳に書いてあって疑問に思った.英語でもUK(United Kingdom)と言えば,普段「イギリス」と言っている国を指す.「イギリス」には,イングランド,スコットランド,ウェールズという「国」があり,「連合王国」を形成する北アイルランドの南にあるアイルランド共和国は別の主権国家であるということも,おぼろげながら知っている. 別の回に,きちんと整理してみたいが,「再征服」が完成し,現在のスペイン王国の土台ができるまでに,イベリア半島に幾つものキリスト教王国が興亡した.それが,「再征服」完成直前に,イサベル女王のカスティーリャ王国とその夫フェルディナンドのアラゴン王国に集約されていた.カタルーニャはアラゴンと同君連合を形成していたが,事実上一つの国であったと思われる. そういう意味では,バレンシア王国もアラゴン王権のもとにある同君連合の一つで,現代的な意味での独立主権国家ではなかったわけだが,それでも建前の上では,別の国であり,そこに文化や民族の独自性が認められ,ある程度以上の自治が許されていたはずだ.バレンシア王国は,そうした同君連合の王権支配下の王国の一つで,それが現在のスペインの「(自治)州」の歴史的根拠の一つになっていることは察せられる. スペイン継承戦争の経過で,スペイン王権支配下の旧アラゴン王権支配下の連合諸国が廃され,フランスに範を取って,中央集権国家が目指されたのかも知れないし,その意図はある程度は成功して,スペインもまた近代国家への道を歩み出したものと思われる.「バレンシア王国の消滅」はそうした歴史を考えさせる.
ラ・ロンハと中央市場 今回のバレンシア観光で,比較的じっくり見られて,なおかつ興味深かったのが,ラ・ロンハ(デ・ラ・セーダ)(カタルーニャ語もしくはバレンシア語ではラ・リョッジャ・デ・ラ・セダ,イタリア語ならロッジャ・デッラ・セータになるだろうか)という15世紀末から16世紀前半に造られた「絹の交易所」という建物だ. 世界遺産になった理由が「後期ゴシック様式としては例外的な世俗的建造物のすぐれた実例」であるからということだが,確かに教会建築などにくらべるとこじんまりとはしているが,コンパクトな外観,目を引く装飾彫刻,リブ・ヴォールト天井とほっそりとした列柱,2階部分の格子天井など,魅力に溢れた建物だと思う.
![]() そういえば,ラ・ロンハも,16世紀にできたフィレンツェの「新市場」(メルカート・ヌォーヴォ)のロッジャ(開廊)を思い起こさせる.
中世におけるイスラム教徒に対するキリスト教の最前線とか,中央集権化する強固な王権とか,宗教裁判や異教徒弾圧といったとかく暗いイメージを免れないスペインの歴史の中で,商業で栄えたと思われるバレンシアのラ・ロンハと中央市場は,私にとっては非常に好ましく思えた.それが,近代的大都市としての現在の繁栄につながっていると想像することは許されるだろう. そういえば,イベリア半島で最初の活版印刷が行なわれたのもバレンシアであり,コロンブスの大航海のための資金をイサベル女王に融資したのもバレンシアの銀行家たちであるとのことなので,この街はルネサンス,大航海時代への連想をかきたてる. バレンシアの芸術 今回は行っていないが,バレンシアには地味だが,バレンシアとスペインの美術史についての知見を得る上で重要だと推察される美術館がある.インターネットの「日本の古本屋」で札幌の古書店から,帰国後購入した,
という図録をめくって見ていると,ゴヤまでに限っても, エル・グレコ フランシスコ・リバルタ(1565-1628) フアン・リバルタ(1597-1628) ホセ(フセペ)・デ・リベーラ エステバン・マルチ(1590年代-1660) ヘロニモ・ハシント・デ・エスピノーサ(1600-67) ベラスケス(自画像) ムリーリョ フアン・バルデス=レアル(1622-90) ミゲール・マルチ(1633-70) ゴヤ など垂涎のラインナップである. オランダから来たカラヴァッジェスコであるマティアス・ストーメル,ナポリ派の大家ルーカ・ジョルダーノの絵もある.ストーメルはモンセラット美術館でも1点見たことは前述の通りだし,ルーカ・ジョルダーノは,その後の旅で,トレドでまたその名を聞くことになる. フランシスコ・リバルタは,カタルーニャのソルソナで生まれ,バルセロナで育ち,後にバレンシアで活躍して,同地で亡くなった.エブロ川上流のリオハ州ログローニョ生まれのマニエリスム画家フアン・フェルナンデス・ナバレーテ(1526-79)に学んだとされ,ナバレーテはイタリアに行き,ナポリ,ローマ,フィレンツェ,ミラノを訪問し,ヴェネツィアでティツィアーノの助手を務めたとされるので,系譜的にはイタリア絵画に直接つながる. ナバレーテは,スペイン国王フェリペ2世に「国王の画家」としてマドリッドに呼び戻され,そこで活躍し,「スペインのティツィアーノ」と呼ばれ,トレドで亡くなった,16世紀スペイン絵画のメイン・ストリームを形成した画家なので,リバルタもまたその流れを引き継ぎながら,バレンシアの芸術を栄えさせたことになるだろう.大聖堂にも彼の弟子の絵があるようだ. 彼がナポリやローマを直接訪れたからかどうかは不明だが,図録やウェブで見る彼の絵は明らかにカラヴァッジョの影響を受けている. 彼の弟子にあたるかも知れないのが,スペイン出身のカラヴァッジェスコであるリベーラなので,その影響はスルバラン,ベラスケス,ムリーリョにも及ぶと考えられる.その意味では,カタルーニャ,バレンシアの芸術は,やはりマニエリスムからバロックのスペイン絵画史に大きな位置を占めていると言っても良いだろう. ヘロニモ・ハシント・デ・エスピノーサの父ヘロニモ・ロドリゲス・デ・エスピノーサ(1562-1630)の絵は,上記の図録には見られないし,カスティーリャ・イ・レオン州バリャドリッドの生まれなのでカタルーニャ人でもバレンシア人でもない.それでも,バレンシア州アリカンテ県のコセンタイナで地元の女性と結婚し,ヘロニモ・ハシントを儲け,自身もバレンシアで活躍し,同地で亡くなったので,やはりバレンシアの芸術家と言って良いだろう.図録で見るヘロニモ・ハシントの「マグダラのマリア」はやはりカラヴァッジョ風である. エステバン・マルチはバレンシア生まれで,バレンシアで亡くなった,やはり地元の画家で,上述のオレンテ(彼の署名付き素描「壺を運ぶ少年」が図録にあり,見事だ)の門下で,リバルタ派とは一線を画して活躍した. 息子のミゲールもバレンシア生まれでバレンシアで亡くなった地元の画家だが,ローマでカルロ・マラッタに学んだと図録にあるので,あるいはモンセラットにマラッタの絵があったことと結びつくだろうか. バルデス=レアルは,スペインのバロック絵画の大物と考えられるが,セビリア生まれで,セビリアで死亡したアンダルシアの画家なので,機会があれば,別の回で言及したい. バレンシアの陶磁器産業についても,興味深く,関連の博物館もガイドブックには紹介されているが,力にあまるので,今回は触れないことにする. いずれにしても,バレンシアは歴史,言語,宗教,文化,芸術,産業,経済,政治など,多くの点で魅力的な街であり,チャンスがあれば,もう一度行ってみたい. |
カテドラルと大司教館の渡り廊下の下で バレンシア |
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