フィレンツェだより番外篇 |
ドゥオーモ 白く輝く屋上 |
§ミラノを歩く - その2
本当に「屋根の上」という意味での屋上であり,広さはあるが,屋根の上であるから,傾斜もあり,ものすごく居心地が良いわけではない. しかし,林立する尖塔,彫像の間を縫って,屋根まで登り,下からは見えないドゥオーモの姿や,ミラノの街の風景を眺めるのは,なかなか良い体験に思えた.
フィレンツェでジョットの鐘楼やドゥオーモのクーポラに登ったときは,実際にはそれよりは新しいのだが,一見中世の街かと見まごうような赤い瓦屋根の街並みが見えたし,ヴェローナでランベルティの塔に登ったときには天気も良かったが,美しい山河の中に溶け込んだ端整な都会の光景に心打たれた.サン・ジミニャーノでトッレ・グロッサに登ったときには,トスカーナの美しい田園風景を堪能することができた. ミラノのドゥオーモ屋上から見える風景は全く違う.イタリアの街としてはミラノは相当近代的に見える.それでもヨーロッパの古い街の雰囲気はもちろん残っており,その点は東京,上海,ニューヨークのような徹底した現代都市とは異なる. 今,こうして屋上から撮った写真を確認してみると,なかなか古雅な装いの街に思える. 屋上に登ったおかげで,景色だけではなく,間近かに様々な彫刻を見ることができ,興味深かった.イタリア語版ウィキペディアの「サンタ・マリーア・ナシェンテ教会(ミラノのドゥオーモ)」を参照すると,ドォーモの外壁と尖塔全体に満ち満ちている彫刻もある程度は作者がわかっているようだ. たとえ無名の彫刻家の作品であっても,ドゥオーモ全体を包み込んでいる多くの彫像や浮彫は,見る者の目を驚かせ,楽しませてくれる. こうした彫刻群の作者として挙げられている人物の中に聞き覚えのある名前があった.クリストフォロ・ソラーリオだ.名門大学があることで有名なミラノ近傍の都市パヴィア郊外の修道院(チェルトーザ)に,一代の梟雄であるミラノ公爵ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)とその妻ベアトリーチェ・デステの墓碑を彫り上げた芸術家だ.しかし,私自身はこの彫刻家よりもその兄弟アンドレーア・ソラーリオに興味がある. レオナルデスキ ミラノ・スカラ座の真向かいにあるスカラ(スカーラ)広場には,レオナルド・ダ・ヴィンチの大きな立像があり,その台座の四隅に4人の弟子たちの彫像が付されている.そのうち正面から向かって左がチェーザレ・ダ・セスト,右がマルコ・ドッジョーノであることは,前回のミラノ行でも確認している. しかし,その時点ではレオナルドの弟子たちにそれほど興味を持っていなかったので,後ろ側の2人の名前を確認することは怠ってしまった. その後,ポルディ・ペッツォーリ美術館でチェーザレ・ダ・セストの「聖母子と仔羊」,アンブロジアーナ絵画館でベルナルディーノ・ルイーニの「聖家族と聖アンナ,幼児の洗礼者ヨハネ」を見たとき,レオナルドの絵を模倣したようでありながら,画家それぞれのすぐれた個性も現れているように見え,魅力的な芸術家たちに思われた.「レオナルド風の画家たち」(ピットーリ・レオナルデスキ)(以下,単にレオナルデスキ)に興味を持つようになった契機だった. チェーザレ・ダ・セストの彫像がレオナルドの立像の足下に置かれていることは,後で写真で確認した.果たして確認しなかった後ろ側の2人のうちにルイーニがいるかどうかに興味を覚えたが,その答えを確認するまでに,1年数ヶ月を費やしたことになる.
結局,後ろ側の2人は,レオナルド像の後ろに立って,向かって左側がアンドレーア・ソラーリオ(後日:実はこれは誤解で,サライことアンドレーア・サライーノ,本名ジャン=ジャーコモ・カプロッティであった.2014年6月6日記),右側はルイーニではなく,ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオであった. このうち,ソラーリオとボルトラッフィオがミラノ生まれ,マルコ・ドッジョーノはミラノ北方コモ湖近傍の現レッコ県オッジョーノ,チェーザレ・ダ・セストはやはりミラノ北方の現ヴァレーゼ県セスト・カレンデ,ルイーニは現ヴァレーゼ県ドゥメンツァの出身で,一連のレオナルデスキたちは,すべてミラノもしくは,その北方のロンバルディアの町や村出身のミラノ公国領民であったことがわかる. 芸術都市フィレンツェで,若くしてその天才をもてはやされたレオナルドの影響が,むしろミラノに色濃く見られることに,それをまったく知らなかっただけに,大いに驚いた.
![]() このうちガウデンツィオ・フェッラーリにはたとえレオナルドの影響が多少は見られるとしても,レオナルデスキの1人には数えられないと思うが,ミラノのルネサンスを支えた重要な画家で,レオナルデスキと同世代(1460年から80年までの間の生まれ)なので挙げておく. 以下,生没年,出身地等は,英語版とイタリア語版のウィキペディア,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート,関連書籍を参照している(c.は「頃」を意味する).
この人たちに,ジャンピエトリーノを加えるのに異論はないだろう.この人は生没年不詳だが,1508年から1521年にミラノを中心に活動した記録があるようで,もしジョヴァンニ・ピエトロ・リッツォーリへの比定が正しければ,その生涯は1495年から1549年まで広げられる.1495年時点で20歳くらいとして,やはり70年代の生まれで他のレオナルデスキと同世代と考えて良いのだろうか.
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ゼナーレはアンドレーア・ソラーリオとはほぼ同世代であるが,作風からはレオナルデスキの前の時代の画家に思え,ベルゴニョーネは世代的には直前で,独自の作風を展開していたが,ある時期からは明らかにレオナルドの影響があると思われる.もっとも,ゼナーレもまた,後にはレオナルドや後進のルイーニの影響を受けたということなので,それを考えると,やはりミラノ周辺におけるレオナルドの影響の大きさがわかる. ![]() ドナート・ブラマンテ(1444-1514) マルケ州ウルビーノ西南モンテ・アスドルアルド出身 ブラマンティーノ(バルトロメオ・スアルディ)(c. 1456 - c. 1530) ミラノ出身 ラファエロの親戚にあたり,ミケランジェロにライヴァル心を持っていたブラマンテは建築家として知られ,ローマなどでの活躍を考えるとミラノ限定の芸術家ではない.しかし,彼の弟子筋で通称もブラマンテから得ているブラマンティーノはミラノ出身で,しかもその絵を見るとレオナルデスキの1人と言っても良いほどであろう.ベルゴニョーネと並んで,レオナルデスキの直前の世代でありながら,後にレオナルドの影響を作風に反映させた芸術家のように思われる.
この人たちが,絵画部門で,ミラノのルネサンス芸術を創り上げ,支えた.
![]() ブレラ絵画館では彼の周辺の画家による剥離フレスコ画によって再現された礼拝堂を見ることができる.これはもともとミラノにあった作品である.ブレラにはジョヴァンニの作品とされる板絵「審判者キリスト」もあり,見事なできばえに思われるが,もともとフィレンツェのサンタ・マリーア・デリ・アンジェリ教会にあったものとされる.したがって,今のところ,少なくとも私たちは彼がミラノで描いた作品を見ていない. 彼に関しては1346年から1369年まで,フィレンツェとローマに活動記録があるとされ,フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂の聖具室の礼拝堂では見事なフレスコ画を見ることができる.しかし,彼のミラノでの活動とその影響に関しては,今のところ,私には全くわかっていない. ミラノの大所の美術館や教会をめぐっても,ルネサンス以前のミラノ絵画に関しては,古風な,多くの場合作者不詳のフレスコ画断片が見られる程度で,とすればやはり,ルネサンス以前には,ミラノの芸術は,絵画よりも彫刻が中心だったと言えるのではないだろうか. 上に挙げた芸術家たちは,ブラマンテを除いて,ミラノ,ロンバルディア地方,それ以外の場合でもミラノ公国領の出身である.彼らの活躍範囲もやはり,ブラマンテ以外は,少数の例外を除いてほぼロンバルディアに限定されると言って良いだろう.ある意味では,ミラノ・ローカル,ロンバルディア・ローカルの芸術家たちと言っても良いかも知れない.
「教会篇」1になる予定だったが,それは次回にまわし,「明日に続く」としたい. |
漆黒の空に聳える 夜のドゥオーモで |
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