フィレンツェだより |
晩秋のトラジメーノ湖 湖畔の戦いで,ローマ軍はハンニバルに撃破された |
§ラテン文学とイタリア
テオクリトスという,シチリア出身の前3世紀のギリシア人が開祖となった分野を,前1世紀のローマの詩人ウェルギリウスが確固たるものにして後世に引き渡した.教科書的にはそういう言い方になり,実際に私も先日送った原稿にはそのように書いた. けれどもウェルギリウスの『牧歌』(詩選)の10篇の作品は,そういう単純な理解を許さない複雑な背景と構成を持っている.「牧歌」という語から受ける幸福なイメージの背後にある世の中の不幸を歌っているのではないかとすら思えるが,ここでは深く立ち入らない.
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で,今は「悲劇」の章の原稿完成に向かって努力している.あくまでも今までやってきたことの確認作業だし,完成原稿には多分反映しないだろうが,紀元前3世紀から2世紀の劇作家の作品をチェックしている. ラテン文学の作家 ラテン語で書かれた古典古代の悲劇作品で完全に現存するのは,紀元後1世紀の哲学者セネカの名前で伝わる10篇のみである.殆どがギリシア悲劇の翻案だ. しかし,そのうち1作だけはセネカの同時代のこと,しかも自分の教え子で皇帝だったネロの家庭の悲劇を扱っているので,この興味深い『オクタウィア』という作品は偽作であろうと考えられている.セネカの名前で伝わっていても作者は彼だけではなく,残り9篇の作品の中でも少なくとも1作は確実に偽作であるとされることが多い.
![]() 彼が悲劇『メデア』を書いたことは良く知られているが現存しない.『変身物語』でも『有名女性たちの架空恋愛書簡詩集』(ヘロイデス)でもメデアを取り上げているが,それを反映した作品かどうかもわからない. オウィディウスはラテン文学の黄金期,セネカは白銀期の作家で,いずれも「古典」として後世に大きな影響を与えた.哲学者として業績の方が多いセネカの悲劇が,ルネサンス時代にもてはやされ,シェイクスピアの有名な作品にも反映していることは良く知られている.
![]() しかし,どんな作品が書かれたかも全くわからないかというとそうでもない.いわゆる「引用断片」というやつで,キケロなど後世の作家や,紀元後の時代の文法家,教育者が書き残したものに引用された詩句を集めると結構な分量になる. それらを読んでいると,この時代には手本として参照にするためにギリシア語が読めて,なおかつ劇作家としての才能があり,場合によっては俳優,演出家としても活躍した人たちがたくさん出たことがわかる.
喜劇作家ではプラウトゥスとテレンティウスの作品がかなりの数残っているが,これらの劇作家の生没年と出身地を見てみると以下の通りとなる.
ナエウィウス以外にローマ出身者はおらず,戦争捕虜などで奴隷だったのが解放されて自由人になった人やその子が4人,同盟市などの地方出身者が3人.ラテン語が母語でない人の方が多分多かっただろう. エンニウスのように「3つの言語による脳」(オスク語,ギリシア語,ラテン語)を持っていて,どの言語が一番優勢かわからない場合もある. そもそもローマ文学自体が,ローマ出身者の大作家と言えばユリウス・カエサルくらいで,ウェルギリウスがマントヴァ,キケロはアルピヌム(アルピーノ),オウィディウスはスルモー(スルモーナ)とローマ市以外の出身者が殆どだ.ローマ文学の草創期からそうだったことがわかる.ちなみにセネカはスペインのコルドゥバ(コルドバ)出身だ. 都市の起源 上記の土地で,ターラントとレッチェは直接行った.ただしルディアエの遺跡は傍を通っただけだ.ブリンディジも電車で通過しただけだし,ミラノは空港で飛行機を乗り換えただけだが,行ったことは行った.
来週ウルビーノに行くが,ボローニャで乗り換えて,リミニを通ってペーザロまで電車で行き,そこからバスに乗り換える.それとは別にリミニの手前のチェゼーナでバス路線が交差し,北に行くとラヴェンナ,南に行くとサルジーナなので,プラウトゥスの故郷の近くまで行くことになる.人口3千人台の小さな町のようだ. アッキウスの故郷ペーザロでは行き帰りとも乗り換え時間があるので,空気だけは吸ってくる.ペーザロではオペラ作曲家のジョアッキーノ・ロッシーニも生まれたようだ.
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これからラテン人の連合軍と戦うアエネアスの援軍としてエトルリアの諸部族が駆けつけた.そこで詩人は武将と軍勢を紹介している.叙事詩には良く見られる「カタログ」の場面だ. 予言者アシラスに軍勢を預けたピサの町は,オリンピック競技会の発祥地で有名なギリシアのエリス地方にある同名の都市からの移住者たちが故郷と同じ名前をつけたことに起源を持つとしている.
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シエナはセナ(セーナ)がラテン語形だが,古典に出典があるかどうか今のところわからない.ただし「シエナの」という形容詞形のセネンシスはキケロの『ブルトゥス』に出てくるようなので,町の存在はもちろん知られていたのだろう. オルヴィエートの語源はウルプス・ウェトゥス(古い街)というラテン語であろうということは,サン・ブリツィオ礼拝堂の碑文その他で推測されるが,詳しくは調べていない.このあたりの古い地名ウォルシニイは近くのボルセーナになったようなので,そのあたりの関係はどうなのか,調べられれば調べてみたい. ペルージャもオルヴィエートも現在はウンブリア州にあり,古代にウンブリー族が墾いたウンブリア地方はあったわけだが,ガフィオではペルシアもウオルシニイも「エトルリアの町」としており,ローマの北は「エトルリア」として認識されていたことがわかる.実際に各地の考古学博物館の目玉はエトルリア人の遺跡からの発掘品であることが多い. 「イタリア」のイメージの背景 私たちが「イタリア」,「イタリア人」と言う場合に,ある一定の統一的なイメージがあるが,歴史を振り返ると,実に多様である.ウェネティー族,ウンブリー族,エトルリア人,オスク人,メッサーピ人,ギリシア人,ローマ人,ケルト人,ゲルマン人,その他多くの人種や民族がイタリア人を形成し,イタリアという国を作っていったことになる. もちろんロマやユダヤ人,東欧から来た人々も,イタリアの現実世界に一定以上の存在感を持っていると思われる.今は中国やアフリカから来た人たちもかなりの数にのぼるのではないか. イタリア王国という統一国家が出来たのは19世紀後半だ.現在のイタリア共和国は第二次大戦以後である.イタリアの歴史の多様な背景は現代のイタリアにも十分以上に反映していると思われる. 大きい視点で見たときに,南北の相違は目に付きやすいが,細かく見ると,南イタリアも,北イタリアもそれぞれに多様だと思う.その上で,イタリア語とカトリックという巨大な統一要素もある.姓名,食習慣,その他,私たち外国人が「イタリア」を思うときの統一的イメージを構成する要素が形成されて行ったのだと思う. |
パドヴァ(ローマ時代はパタウィウム) 秋の風景 |
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