フィレンツェだより |
聖アントニウス広場 プラート |
§プラート遠足
ルネサンスの画家フィリピーノ・リッピも,中世の商人マルコ・ダティーニ(イリス・オリーゴ『プラートの商人 中世イタリアの日常生活』白水社,1997)もフィレンツェで活躍したし,1351年にフィレンツェ共和国に併合され,その後もトスカーナ大公国に編入されたままイタリア統一を迎えたからだ. しかし,実際に行って見ると市(コムーネ)が違うだけでなく,県(プロヴィンチャ)も違うようで,街の雰囲気も相当違う.プラートというと,中国から来た人たちがコミュニティーを作っていることで知られているようだが,駅から街の中央街を歩いている限りでは,アジア系(私たちもそうだ)の人がちょっと多いかなという程度で,やはりイタリア語が飛び交い,イタリア人が殆どを占める,間違いなくイタリアの街だと思う.後日認識を改める可能性はあるが.
![]() フィレンツェ中央駅(サンタ・マリーア・ノヴェッラ駅)から,電車で20分から30分くらいでプラートに着く.乗り物に乗ると窓の外に色々なものが見えるが,以前連れて行っていただいたペトライアのメディチ・ヴィラのような閑雅な風景も見える一方で,沿線には高層の住宅団地や工場が多く,イタリアもまちがいなく近代工業国であることを感じさせられる.
先日アレッツォに行くときに通ったカンポ・ディ・マルテ駅の手前で線路は分かれ,同じフィレンツェ市内でもリフレーディの駅に電車は止まり,そこからルッカやヴィアレッジョに向かって数駅でプラート中央駅に着く.プラートにはもう一つセッラーリオ門駅があり,そちらの方が街に近いかも知れないが,中央駅はとまる本数が多いので,こちらを選んだ. ドゥオーモ ドゥオーモにあるフィリッポ・リッピのフレスコ画の修復が完了して6年ぶりに見られるようになったことは,フィレンツェの観光案内所でもらったパンフレットでも知っていた. それを見ることも目的のひとつだったが,むしろフレスコ画に関しては,ケルビーニ&バルベリーニの英訳版トスカーナ案内で予習していたときに,サンタ・クローチェで作品を見ることができたニッコロ・ジェリーニへの言及が多かったので,アレッツォでスピネッロ・アレティーノに開眼することができたように,新たな大作家を知ることができることを期待してしまった.
結果からいうと,ジェリーニについては今日はあまり得るところはなかったが,「まずドゥオーモ」と思って行ったドゥオーモ(サント・ステーファノ教会)で大きな成果を得た. 写真で,ファサードの右側に見える「聖なる帯の説教壇」はドナテッロとミケロッツォの設計である.内部は撮影禁止なので,写真では紹介できないが,宝物が一杯で,キーワードは「聖なる帯」である.
![]() 伝承によると,被昇天の聖母から聖トマスに与えられたこの帯は,地元の聖職者に託され,代々受け継がれることになったが,その後,プラートの商人がエルサレムに巡礼に行き,「帯」を受け継いでいた家の娘と結婚して,イタリアに持ち帰ったことになっている.
「帯」がプラートに伝えられた物語に聖母マリアの物語を加えたフレスコ画をアーニョロ・ガッディが描いている.ドゥオーモに入ってすぐ左手にある「聖なる帯」礼拝堂(カペッラ・デル・サクロ・チンゴロ)に描かれているこの作品は大傑作で,下から見上げながら,ただただ息を呑むばかりだった.
![]() これがまたすばらしかった.美術史に疎い私でもフィリッポ・リッピの名前は以前から知っている.ウフィッツィにある「聖母子」が有名で,聖母のモデルになったのが画家の愛人だったルクレツィア・ブーティであるというのも良く言われる話だ.しかし,少なくとも私はフィリッポ・リッピがフレスコ画を描いたことは知らなかった. マザッチョが描いたことで有名なサンタ・マリーア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂にあるフレスコ画は,マザッチョの死後50年して,フィリッポの息子フィリピーノ・リッピが仕上げた.父親の感動がプラートで生まれた息子に受け継がれた.フィリッポはフィレンツェの生家近くのサンタ・マリーア・デル・カルミネ修道院でカルメル会修道士となり,カルミネ教会でマザッチョのフレスコ画を研究して,その感動を通して画家として才能を目覚めさせたかも知れない. フィリッポがウンブリアのスポレートで亡くなったのも,同地のドゥオーモのフレスコ画制作中のことで,これを後に仕上げたのもフィリピーノとのことだ. ![]()
「洗礼者ヨハネの物語」の一番下の段は,1つの場面に3つの時間が描かれていて,3人のサロメがいる.左側に打たれたヨハネの首を受け取るサロメ,右側に皿に乗せたヨハネの首をヘロデとヘロデアに差し出すサロメが描かれており,中央が,パンフレットと入場券にもプリントされている,この躍るサロメの絵だ.
美しい少年ジョヴァンニーノもすばらしいが,これほどザカリアがよく描かれているのを見るのは,スカルツォ修道院回廊で見たフランチャビージョのフレスコ画以来だ. ![]()
![]() マナッセーイ礼拝堂にあるフレスコ画は15世紀のものだったが,作者はアーニョロ・ガッディの周辺にいた人物らしい.主題は「聖マルゲリータ」と「聖ヤコブ」でそれぞれ殉教を題材にしている. しかし何と言っても,「被昇天の聖母」礼拝堂には,今日見る3人目の大作家パオーロ・ウッチェッロのフレスコ画がある.「聖母マリアの物語」と「聖ステパノの物語」だ.アーニョロ・ガッディとフィリッポ・リッピに比べても引けをとらないとは言えないまでも,サンタ・マリーア・ノヴェッラ修道院回廊のフレスコ画で見せた実力を「石打ちにされるステパノ」の場面に発揮しているように思われた. プラート市内のその他の教会 大満足でドゥオーモを辞去した後は,ドゥオーモの博物館を見るというのが通常の順路であろうが,予定の電車の時間も迫っているので,次に来たときの大体の目安をつけるべく街の中を歩いた. まずコムーネ広場に行き,ダティーニの立像のある広場とパラッツォ・コムナーレの建物を見た.ここに「市立美術館」ムゼーオ・チーヴィコがあり,リッピの作品とベルナルド・ダッディの祭壇画「聖なる帯」が見られるはずだが,残念ながら現在修復のため休館中だ. 次にサンタントーニオ(聖アントニウス)広場に足を延ばした.トップの写真の左端に少しだけ写っているのが,サンタ・マリーア・デッレ・カルチェーリ教会である. この教会の建物は15世紀後半にジュリアーノ・ダ・サンガッロによって設計されて,内部にはフレスコ画などはないようだが,アンドレーア・デッラ・ロッビアによる4福音史家の彩色陶板があり目を引いた.ギリシア十字架型と言われるらしい聖堂(バジリカ)が立派だった.あまりに大きくてうまく写真が撮れなかった. この教会の右側に写っている城門が,「皇帝の城」(カステッロ・デッリンペラトーレ)で,シチリアとナポリに君臨した神聖ローマ皇帝(ということはドイツ国王であり,イタリア国王でもあった)ホーエンシュタウフェン家のフリートリッヒ(フェデリーコ)2世の命で13世紀に建てられたものだそうだが,今日は見学は控えた.写真の一番右に写っている大きな教会がサン・フランチェスコ(聖フランシス)教会で,これも次回は是非訪ねてみたい. ケルビーニ&バルベリーニの本で「ジェリーニの作品がある」と書いてあったのが,サン・ドメニコ教会(左下の写真)だ.ここは内部(右下の写真)も見せてもらった.ジェリーニの名前で伝わる作品はフレスコ画ではなく,キリストが磔刑になっている十字架状の板絵だった.他にはポッピという通称で知られるフランチェスコ・モランディーニとマッテーオ・ロッセッリの大きなカンヴァス画が1枚ずつあった. 今回はアレッツォでスピネッロに開眼したようにはジェリーニに開眼することはできなかったが,サン・ドメニコ教会には付属の「フレスコ画美術館」があり,その開館時間の確認も今回のプラート行の目的の一つだった.午後1時までしか開いていないようなので,次回は午前中に来ることにして,この美術館でたとえ断片でもジェリーニのフレスコ画に出会えることを後日に期して,駅に急いだ. 結婚記念日とワイン 7月1日は結婚記念日なので,高いワインを開けることにしていたが,偶然,日本に帰国される若い芸術家の歓送会を兼ねた夕食に招かれ,イタリアに来て初めてピッツェリアに連れて行っていただき,バッファローの乳から作ったモッツァレッラ・チーズを使った美味なるピッツァをご馳走になった. その後,ミケランジェロ広場に連れて行っていただき,初めて夜景を堪能した. ワインは7月2日に開けたが,これはさすがにうまく,3日で1本という普段のペースを破って1本を完全に飲みきってしまい,したたかに酔った. 若い芸術家からワインを1本いただいた.アレッツォの農家を手伝ったときにもらった,そこで醸造したワインだそうだ.自分は飲まないのでどうぞ,と言われ,ありがたく頂戴した.懲りずにこれも楽しみにしている.他にはイタリアで「うまい」と言われるメロンを初めて食べた.本当にうまかった. |
ミケランジェロ広場から見る夜景 7月1日 |
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