フィレンツェだより |
人がほとんどいないミケランジェロ広場 孤高のダヴィデ |
§よく歩いた一日
朝起きるとすぐに家を出て,フィレンツェ中央駅の方に向かって進んだ.やがてナツィオナーレ通りがファエンツァ通りと交差するところで右に曲がると,そこからほんの少し歩いたところに旧サン・オノフリオ,通称フリーニョ修道院「食堂」があった. 旧フリーニョ修道院「食堂」 修道院の「食堂」は,現在は国立の美術館になっていて,火,木,土の午前中だけ開館し,ペルジーノ(1446-1523)が構想し,弟子たちが作成したフレスコ画「最後の晩餐」を見せてくれる. ペルジーノは,ラファエッロ(1488-1520)の師匠としても知られているが,もちろん自身もすぐれた画家で,フィレンツェではウフィッツィやアカデミア美術館で作品を見ることができる.旧フリーニョ修道院「食堂」のムゼーオにも少なくとも1点,磔刑になったキリストの傍らで,聖母と聖ヒエロニュモスが悲しんでいるペルジーノの絵があった. この美術館は,作品数は少ないが,ペルジーノ周辺の有名無名の作家たちの作品を見せてくれる.「有名」な画家の中に分類してよいのが,ウフッツィで「受胎告知」を見ることができるロレンツォ・ディ・クレーディ(1459-1537)と,フランチェスコ・ディ・クリストーファノ,通称フランチャビージョ(1483-1525)の2人であろう. フランチャビージョの作品は2点あり,両方とも「聖母子とサン・ジョヴァンニーノ」であった.彼の作品はアレッツォの国立中世・近代博物館でも1つ見るこができたが,板絵よりもフレスコ画で実力を発揮する作家に思えた. しかし,すでに夢に見るほど彼のファンとなってしまった私たちにとってはフランチャビージョの作品が見られただけでも,大変幸せなことに思える. クレーディはウフィッツィの「受胎告知」も良かったが,今日見ることができた4点も大変すばらしく,なかでも私はやはり「受胎告知」が良かった.
この「最後の晩餐」に関しては,一連の「最後の晩餐」行脚の過程でなければ,これだけを単独で見て,感動を覚えるというほどの作品とは思えなかった.それでも,キリストにもたれかかる若いヨハネ,一人だけ食卓の反対側に座りながら,振り返って私たちの方を見ているユダはよく描かれていた.ペルジーノの下絵が残っているようなので,お師匠さん自らの考えがよく反映しているユダなのだろう. 女性のような若いヨハネはキリストの(私たちから見て)右側で食卓に伏して寝ている.ヨハネだけでなく,右端のタダイ,右から3番目のトマス,左端のヤコブが若い女性のような姿で描かれているのが印象に残る.
杯を運んでいる天使の姿も描かれている.時間的・空間的に「最後の晩餐」と同時では有りえない場面が,有りえない構図で背景として描かれている.こうした「最後の晩餐」は他に全くないのであれば,この作品の独創性はそこにあるのかも知れない.今までの旧「食堂」と異なり,このムゼーオは撮影厳禁のようなので,写真で作品を紹介することはできないが,ともかく良いものを見せてもらった. 他の旧「食堂」と違い,ここは喜捨が求められるようなので,感謝の気持ちをこめて1人2ユーロずつ置いて帰宅した. ベルヴェデーレ要塞の丘 午後はアカデミア美術館の近くにある「輝石博物館」に行く予定にしていた.遅い時間に行けるのは木曜だけのようだった. しかし,今日は思ったよりも涼しく,夏に突入したこの時期に長距離を歩くことのできる数少ないチャンスと思えたので,予定を変更してベルヴェデーレ要塞に行くことにした.日本の城で言うと天守閣にあたるこの建物は,特別展がないと一般公開されないが,今は展覧会を開催中だ.広報誌でそのことを知っていたので,ともかく寓居を出発した. アルノ川の向こうの丘の上にあるベルヴェデーレ要塞は色々な道を辿って行き着くことができる.ピッティ宮殿の奥のボーボリ庭園を通って行く道などがポピュラーかもしれないが,私たちはポンテ・ヴェッキオを渡って,サンタ・フェリチタ教会の脇を登っていく坂道を選んだ. ![]()
ガリレオ旧居を過ぎたあたりから,石の塀に囲まれた風情のある道になり,向かって右側がボーボリ庭園,左側がバルディーニ庭園という立派な環境が展開する. 登りきったところにはサン・ジョルジョ門がある.ここにも「聖母子と聖人たち」のフレスコ画が描かれていた.下の写真は,門を通って外側から撮ったものだが,反対側のリュネット部分にフレスコ画がある.サン・ジョルジョは「聖ゲオルギウス」なので,門についている浮き彫りも馬に乗ったゲオルギウスである.
この左手がベルヴェデーレ要塞だが,予期していた特別展とは別の展覧会が開かれており,しかも開場は夕方の5時からだったので「天守閣」の中には入れなかった.その紹介は次回とする. ![]() 坂を城壁沿いに下りていくと,先日花火大会の演出にひと役買っていたサン・ニッコロ門が見えてくる.下の写真の中央の塔のさらに向こうに小さく見えるのがそうだ.このベルヴェデーレ通りは,街中の通り(ヴィーア)とはだいぶ趣が違う.
この通りをアルノ川まで降りきらずに,途中にあるサン・ミニアート門をくぐって,もう一つの丘に登り始めた.まだ開いているはずのバラ園と日本庭園を通っていくつもりだったが,閉まっていたので,ポッシ通りに出て,ミケランジェロ広場まで登った. 驚いたことに普段は人と車で一杯のミケランジェロ広場が今日は車も人も少なかった(トップの写真).ブロンズのダヴィデ像コピーが寂しそうだった. サン・ミニアート・アル・モンテ教会 ミケランジェロ広場からさらに登ってサン・ミニアート・アル・モンテ教会に着いた.フラッシュを焚かなければOKということなので,今日は写真を撮らせてもらった.前回来た時はあまり意識しなかったが,この教会はフレスコ画の宝庫だ. 下の写真は階段を登って,中央祭壇のあたりから入口の方を写したものだが,壁にフレスコ画がたくさん描かれているのがわかると思う.
左側の壁の中央あたりの巨大な絵は「幼児のキリストを抱えた聖クリストフォロス」である.芥川龍之介が,ピエロ・デッラ・フランチェスカの「聖十字架の物語」の典拠になった『黄金伝説』(レゲンダ・アウレア)に取材した「きりしとほろ上人」だ.そもそもクリストフォロスとは「キリストを運ぶ者」というギリシア語で,英語でもクリストファーという人名になっている. ![]()
ここまで保存状態が良いのは,多分修復してあるからなのだろうが,アレッツォで見た,剥落の進んだ傑作群とはまた別の味わいの作品だ.ともかくこの画家は立派だ.天井にある4人の福音史家の絵も含めて,これだけを見るためにミケランジェロ広場の丘を登る価値は十分以上にある. しかし,この教会がすごいのは,スピネッロ以外にも多くのフレスコ画が残っており,中には大変な力量の画家の作品があると思われることである. 下の写真は入口のすぐ右側にあるフィレンツェで生まれてピサで死んだパオーロ・スキアーヴォ(1398-1478)の「聖母子と聖人たち」である.
この作品は,聖人たちがアトリビュートを持って聖母子の両脇に並んでいるのが印象的だ.一番左の聖フランシスにはもちろん「聖痕」(スティグマ)が描かれている.彼の作品は他にも「福音史家ヨハネと聖ルチア」が見られる.スキアーヴォの作品は,6月2日に旧アポロニア修道院「食堂」でも見ている. 他にデル・カスターニョ派に帰せられる「聖ヒエロニュモス」,バルドヴィネッティの「受胎告知」,ピエトロ・ネッリの「聖カテリーナ」,マリオット・ディ・ナルドの「磔刑のキリストと聖人たち」と「聖母子と聖人たち」などがあり,まさに傑作に溢れたフレスコ画美術館の様相を呈している.
![]() 右下のパネルは「最後の晩餐」だ.ただ一人光輪の無いユダと,キリストの脇で食卓に伏しているヨハネがしっかりと描かれている. サンタ・クローチェ教会にあるアーニョロの父タッデーオ・ガッディの「最後の晩餐」は,もともと「食堂」に描かれたもので,ユダ以外の使徒たちとキリストが食卓の向こう側に一列になっているおなじみの構図だが,アーニョロのこの「最後の晩餐」はサン・ジミニャーノのフレスコ画と同じく食卓を囲むタイプになっている.
ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画で有名な「聖十字架の物語」は,フランスシコ会系の宗教画ではお気に入りのテーマらしいが,アーニョロ・ガッディの描いた「聖十字架の物語」が,やはりフランスシコ会系の教会であるサンタ・クローチェにあるそうだ.これは前回見逃してしまっているので,近々是非サンタ・クローチェに行かなければ.
![]() 途中のバルディ通りで下の写真のプレートを見つけた.「惑星ソラリス」,「アンドレイ・ルブリョフ」で有名な映画監督アンドレイ・タルコフスキーが亡命して,人生の最後をここで過ごしたというものだ.フィレンツェに滞在した偉大なロシア人はドストエフスキーだけではなかった. |
タルコフスキー旧居のプレート |
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