フィレンツェだより 第2章「備忘録」
2018年9月10日



 




へラクレスに倒されるトロイア王ラオメドン
アパイア神殿東側破風彫刻の一部
ミュンヘン グリュプトテーク



§ミュンヘン行 その2 グリュプトテーク(彫刻博物館)

2日目,目当ての2つの博物館が開館する10時少し前に着くつもりで宿を出た.歩きながら,この貴重な一日をどのように使うかを考えた.


 予定通り10時の開館と同時に入館し,閉館の17時までいたとしても,この短い時間で2つの博物館の数多ある展示品の全てを,写真も撮りながら,心ゆくまで鑑賞できるとは到底思えない.ここは一つ,駆け足で行くところ,足を止めてじっくり観るところのメリハリをつけて,とにかく,観られるものは全部観ようと自分に言い聞かせた.

 途中,教会や歴史的建造物らしく見える建物の写真を撮りながら歩いているうちに,道に迷い,足が止まりかけたところで,宿を目指す中華系の若いカップルに道を尋ねられた.グーグルマップをプリントして持っていた(まだスマホナビは使いこなせていない)ので,他人様には有効な助言ができたが,自分の方は地図があっても,なかなか目的地に辿り着かなかった.

 ようやく公園に着くとそこは,門も2つの博物館もギリシア神殿風の,いわゆる新古典主義の空間だった.


写真:「王の広場」とグリュプトテーク


 このあたりの広い地区をクンストアレアル(芸術地域)と称し,グリュプトテーク(彫刻博物館),州立古代コレクションの他に,前日タクシーで駆け付けたアルテ・ピナコテーク,ノイエ・ピナコテーク,現代絵画館,ミュンヘンの芸術家たちの作品を含む現代芸術作品を展示したレンバッハハウスブラントホルスト博物館エジプト博物館(州立古代エジプト芸術コレクション)といった,視覚芸術に関する文化施設が集められている.


バイエルン王国
 グリュプトテークと州立古代コレクションは,広い空間を挟んでほぼ相似形のように向かい合っており,間の空間は「王の広場」(ケーニヒスプラーツ)という名称で呼ばれる.

 現代のドイツ連邦共和国には「王」はいないが,この地方には19世紀までヴィッテルスバッハ家という王家が君臨するバイエルン王国があって,ミュンヘンはその首都であった.ワグナーを保護し,ノイシュヴァンシュタイン城を建造したルートヴィヒ2世はこの王家の王だ.

 ルートヴィヒ2世の美貌と波乱に満ちた生涯,謎の死は,多くの作家にインスピレーションを与え,森鴎外の『うたかたの記』,ルキーノ・ヴィスコンティ監督の映画「ルートヴィヒ」などの作品が産み落とされた.

 「王の広場」は,王太子時代から古代芸術の収集に熱心だったルートヴィヒ1世の統治下に設計されている.

 広場への入り口であり,アテネのアクロポリスにちなんでプロピュライアと名付けられた門は,ルートヴィヒの次男オットーが,1832年に新たに独立したギリシア王国の国王に即位したことを記念して建造された.

 プロピュライアは1862年に完成したが,10月までに完成したのであれば,国王はルートヴィヒ1世の次のマクシミリアン2世,10月以降であればルートヴィヒ2世であった.その年のやはり10月までオットーはギリシア王であったが,10月23日の革命で追放された.オットーは1867年にドイツのバンベルクで亡くなり,ミュンヘンの教会に埋葬された.

 オットーがギリシア王になった根拠は,バイエルン王家が旧ビザンティン帝国の11世紀から12世紀まで続いたコムネノス朝の皇帝の血統に連なるということにあるらしいが,今のところ調べ切れていない.

 オットー追放後,ヴィッテルスバッハ家のギリシア国王は彼一代で終わり,新しいギリシア王家はデンマーク王室から来て,1973年の王制廃止まで続く.



 グリュプトテークはルートヴィヒ1世の意向を受けて,レーオ・フォン・クレンツェが設計して,1816年に着工,1830年に完成した.クレンツェはアルテ・ピナコテークの設計も手掛けた建築家のようだ.

 州立古代コレクションはよく似た建物に見えるが.設計した建築家は別人で,ゲオルグ・フリードリヒ・ツィーブラント(2018年9月6日参照で英語版ウィキペディアに立項がないので,独語版にリンクする.他にスウェーデン語とフランス語のウィキペディアに立項されているので,まずまず有名な建築家と言えよう)という人物だ.

 クレンツェはニーダーザクセン州シュラーデン近郊のブーフラーデンで1784年に生まれ,ベルリンやパリで修業し,ナポレオンの弟でウェストファリア(ヴェストファーレン)国王だったジェローム・ボナパルトの宮廷建築家となり,1816年からバイエルン王国の宮廷建築家として招かれ,1864年にミュンヘンで亡くなった.

 ツィーブラントの方は1800年にバイエルン州(当時は王国)レーゲンスブルクで生まれ,1873年にミュンヘンで亡くなった.

 ただの思い付きで間違っているかも知れないが,これらのことから,国外から来たクレンツェがバイエルン王国に新古典主義建築を齎し,地元のツィーブラントがそれを継承したように思える.ただ,ツィーブラントがクレンツェの弟子ということではないようだ.

 ツィーブラントの師匠はカール・フォン・フィッシャー(「王の広場」の設計者)と,フリードリヒ・フォン・ゲルトナーで,ともにミュンヘンを活躍の場としたが,前者はバーデン=ヴュッテンベルク州マンハイム,後者はラインハルト=プファルツ州コブレンツの出身ということだ.時代も新しくなると,中世やルネサンスのように芸術家を出身地で系譜づけるのは,もう意味を持たないかも知れない.

 グリュプトテーク,州立古代コレクションが,ともにギリシア神殿風の新古典主義様式で建てられた主な理由は,時代の流行と注文主の趣味にあったと思われるが,ポンペイやエルコラーノの発掘,古代彫刻や陶器の再発見が新古典主義流行の契機となったことを考えると,古代遺産を収蔵する2つの博物館が新古典主義建築であるのは,自然なことだったかも知れない.

 ちなみに,グリュプトテークの外壁には複数の壁龕があるが,州立古代コレクションには無い.両者とも,ギリシア神殿風の彫刻のある三角破風を列柱が支えているが,柱頭はグリュプトテークがイオニア式,州立古代コレクションがコリント式である.プロピュライアに用いられたドーリア式と並んで,主要な柱頭形式の建築を一度に眺めることができる,まさに新古典主義を体現した空間と言えよう.


特別展の余波
 ミュンヘンに先立って訪れたナポリでは,考古学博物館で見られるはずのエウリピデスの胸像3点のうち,最も良いと思われる作品がミュンヘンの彫刻博物館で開催中の特別展に出張していて,見られなかった.

 ではミュンヘンに行ったら,彫刻博物館でこのエウリピデスの胸像に会えるのでは,と期待したが,生憎,特別展は1月14日に終わっていた.それどころか,終わって2週間も経っているのに,特別展の会場となった部屋はまだ閉鎖(1月30日まで)されたままで,その部屋に展示されている所蔵作品も観られなかった.

 閉鎖されていた第10室から第12室のうち,特に肖像彫刻のある第11室が見られないのは本当に残念だった.この部屋に何があったかは,ブックショップで購入した大型案内書(英語版)

 Raimund Wünsche, tr., Rodney Batstone, Glyptothek, Munich: Masterpieces of Greek and Roman Sculpture, München: Verlag C. H. Beck, 2016(以下,ヴュンシェ)

で大体のことが分かる.少なくとも,ホメロス,ソクラテス,プラトン,カルネアデス,アレクサンドロス大王,マリウス,スッラ,アウグストゥス,少年時代のネロ,トラヤヌス,ハドリアヌス,アンティノオス,アントニヌス・ピウス,マルクス・アウレリウス,セプティミウス・セウェルスの胸像があることは確認した.

 ヴュンシェには全収蔵品が掲載されていないが,その他にも多くの興味深い胸像がグリュプトテークに所蔵,展示されていることをウィキメディア・コモンズから知ることができる.

 胸像以外の彫刻でも,「バルベリーニのアポロ」という通称の,竪琴を持って女神のように見えるアポロ像,「ロンダニーニのアレクサンドロス」と呼ばれる若者の全身像も,肖像彫刻の部屋にあったようで見られなかったし,「アイオンのモザイク」という床モザイクも同様の理由で見られなかった.

 終了した特別展の図録はドイツ語版しかなかったが,まだ売っていたので購入した.

 Florian S. Knauß / Christian Gliwitzky, eds., Charakterköpfe: Griechen und Römer im Porträt, Mönchen: Hirmer Verlag, 2017(以下,『図録』)

 エントランス・ホールに受付とブックショップがあり,ここで入館券(州立古代コレクションと共通券だった)を買い,荷物を預けて(有料と無料があるが,無料だとハンガーにコートをかけ,荷物を床に置くだけなので,僅かな金額だし有料を選択した方が良い)入館した.

 この時点ではまだ,特別展会場となった諸室が閉まっていることを知らなかったので,全力を尽くして見て回ろうという意欲に燃えていた.


石棺パネル
 実はエントランス・ホールに入ると,幾つかの彫刻と古代石棺,石棺パネルが目に入ったので,写真を撮っていたら,まず入場券を買うように促された.これらはホールに連続している第13室の展示品で,うっかりフライングをしたことになった.券を買い,晴れて入館者となって,ここで石棺パネルをじっくり観ることからグリュプトテーク見学は始まった.

 浮彫の題材は,「ニオベの子供たちの虐殺」,「パエトンの失墜」,「ディアナとエンデュミオン」,「イピゲネイアとオレステス」などで,前2者は諸方で見たが,後2者に関しては,石棺の浮彫パネルとしては初めての出会いではないかと思う.

 もっとも2013年の夏にエルミタージュ美術館を見学した時,「母殺しのオレステス」を主題とする石棺パネルを観ているので,オレステスに関する浮彫は初めてではない.その報告では,オレステスを主題とする作品が複数の博物館,美術館にあることに触れ,「ミュンヘンの彫刻美術館」の名も挙げている.

 もちろん,「彫刻美術館」とはグリュプトテークのことで,その時,オレステスの復讐譚の作例として挙げた作品を,今回,実際に観たということになる.


写真:「オレステスとイピゲネイア」の石棺パネル


 正面パネルには中央と左右に分かれて3つのエピソードが彫られており,右側はさらに2場面に分かれているので,合計4場面,左から「オレステスとイピゲネイアの出会い」,「エリュニュスに悩まされるオレステスを支えるピュラデス」,「アルテミス像を抱くイピゲネイアと蛮族と戦うオレステス」,「神像とイピゲネイアを船に乗せてアテネに向かうオレステス」で,「母殺し」のシーンは無い.

 場面は時系列にはなっておらず,中央が最初のエピソードで,ここには3人の人物が描かれている.復讐の女神に悩まされ,その疲れ故に眠っているオレステスと,傍らで心配そうに彼を見つめる従兄弟で親友のピュラデス,復讐の女神(エリニュエスだと複数形で,ここでは一人だけなのでエリニュス,ラテン語ではフリア,その複数形はフリアエ)は,鞭と蛇が巻き付いた松明を持ってオレステスを見下ろしている.

 なぜオレステスが復讐の女神に悩まされているかと言えば,既に「母殺し」が行われてしまった後だからで,罪悪感や後悔の擬人化ともいえるエリニュス(たち)に悩まされながら,一時的に気を失って眠っている場面は,エウリピデス『オレステス』の冒頭にも描かれている.

 左端に神像を収めた神殿のある場面には,4人の人物が描かれている.女性,後ろ手に縛られて神殿に連行される2人の若者,連行しているプリュギア帽を被った非ギリシア人の男性で,黒海北岸の都市タウリケで,オレステスとピュラデスがアルテミス神殿の犠牲に捧げられようとしている場面である.

 この時点ではお互いを認知していないが,女性は,オレステスが幼い頃,ギリシア軍の終結地アウリスでトロイア出征の順風を求めて女神の犠牲に供されたと思われていたイピゲネイアで,オレステスにとっては両親を同じくする姉である.

 姉弟の認知を経て,姉は犠牲に供せられようとしていた弟と従弟を助け,弟たちは姉を「蛮族」から救い出して,神像とともに船でギリシアに向かう(右側の2場面).オレステスが蒙っている狂気と放浪の救済策として,タウリケにある女神アルテミスの神像をギリシアに持ち帰るという条件が,デルポイのアポロンによって示されたことが背景となっている.

 イピゲネイアは,父アガメムノンのギリシア軍総帥という立場の故,女神の犠牲に供されることになったが,それを哀れに思ったアルテミスが,雌鹿を彼女の身代わりにして,本人はスキュティア地方のタウリケのアルテミス神殿で女性神官となるように取り計らった.

 時が経って,殺された父の復讐のために母を殺したオレステスは,アポロンの神託を受けて,アルテミスの神像をギリシアに持ち帰るべく(中世の「聖なる盗み」フルタ・サクラのようだ)タウリケにやって来るが,トアス王に捕まってしまう.

 蛮族の慣習に従ってオレステスが女神の神殿に捧げられる生贄にされることになった時,姉弟の認知があり,弟は死を,姉は王の求愛を逃れて,神像とともにギリシアに戻る.

 アガメムノンが,娘を生贄に捧げてトロイアに出征して帰還し,妻とその愛人に殺されるまで10年,その際に殺されかけたオレステスが叔母のもとに逃がされて,そこで成長して父の仇を討つまで少なくとも15年以上と考えると,イピゲネイアはタウリケで既に25年以上過ごしていたことになる.

 ギリシア一の英雄アキレウスとの結婚を表向きの口実としてミュケナイからアウリスに連れてこられたのだから,犠牲を免れた時は15歳くらいだったとすると,姉弟の認知の時は40歳前後,オレステスはようやく20歳くらいだったと考えられるであろうか.当時としては親子ほどの年齢差のあった姉弟ということになろう.

 イピゲネイアはギリシア帰還後,アッティカ地方のハライでアルテミスの女性神官として生きたとされる.

写真:
オレステスと
イピゲネイア


 もし,グリュプトテークの石棺パネルしかオレステスとイピゲネイアの伝説を語るものが残っていなかったとしたら,そこに描かれている物語はもとより,登場する人物の名も分からなかっただろう.固有名詞などが伝承過程の中で定着して行くことはままあるが,そもそも,アウリスでのイピゲネイアの犠牲の話は『イリアス』第1巻に言及されているし,その300年以上後の作品とは言え,エウリピデスの悲劇『タウリケのイピゲネイア』(前413年頃),『アウリスのイピゲネイア』(前405年)がほぼ完全に現存し,さらにアポロドロスの名で伝わる神話集もある.

 この石棺パネルの前に立って,これが「オレステスとイピゲネイアの物語」であることを理解することができるのは,文字による古典作品がかつて存在し,あるものは今に伝わるからに他ならない.


彫刻の傑作
 牛の群れのいる牧歌的場面や農村の様子が彫り込まれた浮彫パネルも興味深かったが,第13室では何と言っても,ローマ時代の摸刻とは言え,「戯れにガチョウの首を絞める幼児」の彫刻が出色だった.

 同種の彫刻がルーヴル美術館とヴァティカン博物館にあるようだが,ルーヴルでは私は見ていない.少なくとも写真には収めていない.

 作者はプリニウス『博物誌』(34巻84章)を根拠にヘレニズム時代の彫刻家カルケドン出身のボエトス(ボエートス)とされる. ネロ帝がオリジナルをローマに持ってこさせ,宮殿に飾っていたとのことだが,現存作品は全てローマン・コピーとされている.

 ケンブリッジ考古学博物館にもあり,解説ページがあって有益だが,ここの作品の幼児とガチョウの頭部は現代の復元のようだ.

 「泥酔した老女」のローマン・コピーも立派だった.ローマのカピトリーニ博物館にも同じ作品がある.やはりプリニウスがリスト・アップした,ローマに運ばれたヘレニズム彫刻の一つで,現存する両作品はその摸刻と考えられている.

 他に一部が破損した「マルシュアス像」,おそらく「踊るサテュロス」と思われる躍動感のある彫刻の断片が興味深かった.



 第13室を見た後,ようやく第1室に行った.この部屋の目玉作品は2つ,「テネアのアポロン」もしくは「テネアのクーロス」(「クーロス」は慣習に従い今後も長音保持)と「ミュンヘンのクーロス」である.

 「テネアのクーロス」は,ヴュンシェに拠れば1840年(英語版ウィキペディアは1846年)にコリントスからペロポネソス半島を内陸に入ったテネアで発見され,最初,誤って「アポロン」との通称を得たが,直立して,足を前後に開き,両手を下に降ろした長髪の少年全裸像は,「クーロス」(少年)と呼称され,「コレー」(少女)という着衣の直立少女像とともに,古典期以前の彫刻の類型として,諸方で発掘され,多数現存している.


左:「テネアのクーロス」  右:「ミュンヘンのクーロス」


 いかにも古拙な感に溢れた「テネアのクーロス」に対して,写実感を湛え,均整のとれた古典的な様相が見て取れるのが「ミュンヘンのクーロス」(英語版より独語版が詳細)だ.

 「テネアのクーロス」が560年頃の作品でペロポネソス半島出土,「ミュンヘンのクーロス」が540年頃の制作で,アッティカ地方の作品であれば,年代的にも地域的に「クーロス」の様式が変わっていったことが分かり,少なくとも私たちの目からは「進歩」があったように見える.

 地域や時代によって芸術作品に優劣があるように見えるのは,偏見や思い込みがあるかも知れないし,個人的にはテネアのクーロスの持つ魅力は捨て難いが,後のギリシア彫刻の歴史を考えると,テネアのクーロスとミュンヘンのクーロスの間には進歩や発展があったと感じられる.

 「ミュンヘンのクーロス」はそれ以前のクーロスに比べて短髪で,鍛え上げたと思われる筋肉に特徴があり,運動選手の理想体型のように造形されていると思われる.1907年にグリュプトテークに購入されたが,それ以前の情報は今のところ,ウェブページからもヴュンシェからも得られない.

写真:
「ブラスキのアルテミス」像


 第1室には,本来は閉鎖中の第12室にあって,今回は見られなかったはずの「ブラスキのアルテミス」像があった.

 狩りをする少女の姿のアルテミスは,ローマのマッシモ宮殿考古学博物館で観た作品のように,動きやすい短衣を纏って,背に負った箙から矢を取り出そうとするポーズであることが多いように思っていたが,「ブラスキのアルテミス」は薄手の長衣を纏い,片足重心で立ち,仔鹿が彼女に戯れている.左手に弓を持っていたと思うが,これは失われている.ギリシア彫刻のローマ時代の摸刻とされている.



 第2室にはグリュプトテークの至宝とも言うべき「酔って眠るサテュロス」,通称「バルベリーニのファウヌス」(サテュロスのラテン語名称がファウヌス)がある.この彫刻に関してはローマン・コピー説もあるが,ギリシア・オリジナル説が有力で,様々な意味で貴重な作例と言えよう.

 博物館の解説板,ヴュンシェは躊躇なく「ギリシアのオリジナル」と言い切っている.ただ制作年代は紀元前220年ごろで,ヘレニズム期であり,ペルガモン派の流れを組むことが作風から推測されるのみで,作者の名前は分からない.

 1820年まで生きたヴィンチェンツォ・パチェッティというイタリアの彫刻家が最終的に修復を担当し,現在の姿になっているので,全てが古代のままという訳ではないようだ.

写真:
「酔って眠るサテュロス」


 この作品は1620年代に,古代にはハドリアヌス帝の霊廟だったローマのサンタンジェロ城の地下から発掘され,当時の教皇ウルバヌス8世の一族だったバルベリーニ家の所有となり,ずっとバルベリーニ宮殿にあった.

 パチェッティの修復を経た後,1799年に売りに出されて,まだ王太子だったルートヴィヒ1世が購入した.グリュプトテーク創設の直接の契機となった作品と言っても過言ではないだろう.

 18世紀の修復がどの程度のものだったのか不明だが,大きさと言い,姿形と言い,傑作の名にふさわしい作品だと思う.現場では圧倒されて,しばらくその場を去ることができなかった.エロティックな姿態に関心が集まった時代もあると聞くが,そうした興味を超越した芸術だと,少なくとも私はそう思う.

 同じ部屋に「ロンダニーニのメドゥーサ」と呼ばれる,女怪の首だけの装飾彫刻ゴルゴネイオンがあったはずなのだが,私は見ていない.



 第3室ではアプロディテとアポロンのトルソ,アテナの胸像,オルフェウスの頭部,ディオメデス像などが興味深かった.

 ディオメデス像は前5世紀後半のクレシラスの作品のローマン・コピーとする説もあり,『イリアス』に登場する英雄ディオメデスに関して立項された英語版ウィキペディアにはこの彫刻の写真が使われている.失われた左手には剣,やはり失われた右手にはアテナの神像を持っていたものと推測されている.

写真:
ディオメデス像


 この像の原作をクレシラスが造ったかどうかは分からないが,有名なペイディアスやポリュクレイトスと同時代人で,競作が行われたという伝承もあるほどなので,前5世紀後半の古典期を代表する彫刻家の一人であることは間違いない.グリュプトテークのディオメデス像は,それを窺わせるほどの古典期の作風を感じさせると言うことであろう.

 テネアのクーロス,ミュンヘンのクーロス,ディオメデス像を並べてみると,ギリシア彫刻「発展」の過程が垣間見えるであろう.



 第4室には,墓碑や副葬品など,葬儀に関する作品が多く展示されていた.

 「夢を見ている少女」と「鳩を抱いている少女」(丸彫り,前4世紀後半),「人形を右手に,小鳥を左手に持ってガチョウと向かい合う少女」(墓碑浮彫,前310年頃),副葬品の水差しの浮彫「若い妻に別れを告げる夫」,「ムネサルテの墓碑」(前380年頃)など,2300年以上前に亡くなった人たちを悼む気持ちが迫ってくるようで,厳粛な気持ちになる.



 第5室には,丸彫り彫刻の佳品が多く,前4世紀の彫刻家ティモテオス作の「レダと白鳥」,4世紀前半に活躍したケピソドトスの「平和の女神エイレネ」,アテネ出身でケピソドトスの子もしくは甥とされる大彫刻家プラクシテレスの「クニドスのアプロディテ」と「木に寄りかかるサテュロス」があった.いずれも名のある芸術家の作品のローマン・コピーである.


写真:
「レダと白鳥」
ティモテオス原作


 「レダと白鳥」の原作者とされるティモテオスは,エピダウロスで生まれ,エピダウロスで亡くなった.ハリカルナッソスの有名なマウソロスの墓廟の仕事に参加し,地元エピダウロスのアスクレピオス神殿の彫刻制作においては中心的役割を果たしたようだ.

 カピトリーニ博物館にある同タイプのコピーが「ティモテオスに拠る」と言われることが根拠となって,「レダと白鳥」の原作者が彼であるとされる(英語版ウィキペディア)ようだが,カピトリーニで撮ってきた写真を拡大しても刻銘などは見当たらない.伊語版ウィキペディアがより詳細だが,こちらには特にティモテオスが作者であることの直接証拠は示されていない.

 J.ポール・ゲティ美術館の解説ページに拠れば,上半身(特に左胸)を覆う,肌に張り付く透けるドレープと,両足の間に重い襞となって流れ込む衣の対照的な表現が,ティモテオスの特徴的なスタイルということのようだ.女性のヌードがまだ許容されていなかった紀元前300年代には,肉体を隠しながら露わにするような彫像がよく作られたということらしい.

 「エイレネ」は左手に幼児の姿の「富の神プルトス」を抱いており,右手は失われたが,おそらく王笏を持っていたと考えられている.普通名詞「平和」の擬人化なので,よく知られた神話物語はないが,ヘシオドス『神統記』ではゼウスとテミスの娘とされる.

 この像は,平和な時代こそ安全であるという寓意であろう.プルトスの失われた左手には「豊穣の角」があったかも知れない.4世紀のアテネの町の広場(アゴラ)にあったブロンズ像がオリジナルと考えられているが,現存しない.

 ローマ時代の大理石に拠る摸刻なので,あるいは欠点もあるのかも知れないが,美しい彫刻だと思う.私は見惚れた.

 プラクシテレス作の2つの彫刻に関しては,コピーを見て,原作が優れた作品だったかどうか判断するのに悩むところだ.

 「クニドスのアプロディテ」は,胸と腰部を隠す「羞恥のヴィーナス」型の作品(ウフィッツィのメディチのヴィーナスやカピトリーニのヴィーナス)とは少し異なり,右手に関しては,肘から先が破損しているものの腰部を隠していたと推測されるが,左手は胸を隠すのではなく,脱いだ衣を持っている.

 このタイプを仮に「クニドス型」と言うとすれば,最良のローマン・コピーはヴァティカンにあるはずなのだが,有名な彫刻なのに,『地球の歩き方』などの案内書で「ある」とされているコーナーが常に閉まっていて,5回行ったヴァティカン博物館で一度も見たことがない.ウィキメディア・コモンズを参照しても,「コロンナ・ヴィーナス」の項目に古いモノクロ写真が3枚あるだけだ.


「クニドスのアプロディテ」 (左)グリュプトテーク (右)アルテンプス宮殿


 英語版ウィキペディアでは,このタイプのほぼ完璧な作例としてアルテンプス宮殿の考古学博物館の「ルドヴィージのクニドスのアプロディテ」を挙げている.この彫刻は2回見ているが,確かに綺麗な作品に思えても,今一つ緊迫感に欠けるように思え,古代のヴィーナス像を考えるときに念頭に置いたことが無かった.

 しかし,今,グリュプトテークのヴィーナスを観た上で,改めて,以前撮った写真で「ルドヴィージのクニドスのアプロディテ」を見直すと,細身ですっきりとした造形で,なかなか立派なものに思える.あまりにも綺麗にまとまっているので,古代的な大らかなパワーのようなものが感じられず,不満に思っていたのかも知れない.

 「木によりかかるサテュロス」も有名な作品で,写真でよく見るし,カピトリーニ博物館でも何度か見ている.カピトリーニの傑作の森の中では目立ちにくいこの作品も,カピトリーニほどの作品数は無く,ゆったりとした展示のグリュプトテークでは,すぐに目に留まった.

 しかし,有名な図像表現で,なおかつしっかりとした保存,修復がなされていると,古代のオリジナルあるいはローマン・コピーではなくて,近現代に制作されたレプリカのように思ってしまう危険もあって,「クニドスのアプロディテ」,「木によりかかるサテュロス」などは,写真でよく見る作品と似たものがあるなあと思っただけで,サラッと通りすぎる可能性もあった.

 言い訳すると,まだ第5室だったので少し気がせいていた(この先の特別展の会場だった部屋が閉鎖されているとまだ知らなかった)のと,あまりにお馴染みの作品だったからだが,幸いにも通り過ぎも見過ごしもせず,あるいは立ち止まり,あるいは引き返して,しっかりと鑑賞し,写真にも収めた.

 それでもその場では,本当に古代ローマから伝わる彫刻なのだろうかと半信半疑だった.しかし,今,撮ってきた写真を再度確認し,本やウェブページで情報を得ながら反芻すると,ローマン・コピーの姿の遥か向こうにプラクシテレスの原作が見えるように思え,ちゃんと観てきて良かったと思う.


「木によりかかるサテュロス」 (左から) カピトリーニ博物館,
ヴァティカンのブラッチョ・ヌォーヴォ,グリュプトテーク


 「木によりかかるサテュロス」は,カピトリーニ博物館と,そこに収蔵しきれない古代作品を集めた,ローマ中心部から少しはずれたところにあるモンテマルティーニ博物館,ヴァティカンのブラッチョ・ヌォーヴォで1点ずつローマン・コピーを見ている.

 モンテマルティーニのサテュロスが最もグリュプトテークの作品に似ている.カピトリーニのサテュロスは洗練度が高く,美少年ぶりが強調されている.ヴァティカンの作品もグリュプトテークのサテュロスに似ているが,グリュプトテークとモンテマルティーニのサテュロスは,ふっくらとした頬に幼さがまだ残っているよう見えて,これらの方が可愛らしく見える.

 エルミタージュにも1点,類似の作品があるが,撮ってきた写真を確認すると,別の彫刻(ライオンと戦うヘラクレス)の後方にしか写っていなくて,しっかり見て来なかったようだ.

 エルミタージュのサテュロスはしたたかな若者のように見え,あまり美しくはない.その意味ではかえってサテュロスらしいと言えるし,修復されているではあろうが,顔も体も欠けたところがなく(鼻と性器が欠けやすく,他は全て性器が欠けているが,エルミタージュのサテュロスは葉で覆われている),じっくり見てくれば良かったと少し悔やまれる.

 少なくとも都合5点観たことになるが,個人的にはミュンヘンとモンテマルティーニの「木によりかかるサテュロス」が好きだ.


「嬰児のディオニュソスを抱くシレノス」 
(左)ヴァティカンのブラッチョ・ヌォーヴォ  (右)グリュプトテーク


 第5室の丸彫り彫刻では,「嬰児のディオニュソスを抱くシレノス」が良かった.ヴァティカンのブラッチョ・ヌォーヴォでリュシッボス原作とされる同主題のローマン・コピーを見ており,両者を見比べると,グリュプトテークの作品の方が,シレノスがやや細身でやつれているようにも見えるが,よく似ているので,多分,同じ原作からのコピーだろう.

 グリュプトテークの案内書(ヴュンシェの他に,ディーター・オーリーが書いた小型の英訳本も参考にしている)でも,リュシッボス原作のコピーとされている.

 リュシッボスは古典期からヘレニズム時代に移行する時代に,スコパス,プラクシテレスとともに活躍した偉大な芸術家と考えられている.リュシッボスに関しては,プルタルコスの『アレクサンドロス伝』で,アレクサンドロスの特徴を最も捉え,アレクサンドロス自身も,彼にだけ自分の肖像彫刻を作らせようとしたと語られていることは,以前報告した.



 第7室には,アイギナ島アパイア神殿の西側破風を飾った彫刻,第9室には同神殿の東側破風の彫刻が展示されている.グリュプトテークの最大の見ものと言えよう.

 東をアテネのあるアッティカ地方,北をコリントス地峡,西をペロポネソス半島東端のアルゴリス地方に囲まれたサロニコス湾(もしくはアイギナ湾)に浮かぶ大きな島がアイギナ島で,南はエーゲ海に開けたこの湾の北のアテネ近くにはペルシア戦争の海戦で有名なサラミス島があり,アイギナ島はその南に少し離れて,湾のほぼ中央に位置している.

 紀元前6世紀に商業で栄えたアイギナは,蓄積した富によってアパイア神殿を創建した.紀元前500年頃のこととされる.アパイア(アファイア)はアイギナ島で古くから尊崇された豊穣と農業の女神で,後にはギリシア神話の他の女神などと同一視された.

 前459年にアイギナはアテネの支配下に入り,紀元前3世紀には神殿のある場所は居住地域から遠い山地にあったので放棄され,歴史の闇に消えた.忘れ去られていたおかげで良好な保存状態のまま, 1811年に西欧の建築の研究者たちによって発見され,破風の彫刻は地方政権から買い取られ,欧州の市場に出て,1812年に購入された.

 破風の装飾彫刻は,西側が「ギリシア人とトロイア人の戦い」,東側が「ヘラクレスによるトロイアの陥落」で,2つの物語は関連があり,時間的には東側の破風の出来事が先に起きる.


アパイア神殿東側破風の装飾彫刻 「ヘラクレスによるトロイアの陥落」


 プリアモスの父ラオメドンは神々の怒りを買って,娘のヘシオネを犠牲にすることを強いられたが,ヘラクレスによって娘は救出された.しかし,代償の約束をラオメドンが破ったので,ヘラクレスが怒り,仲間とともにトロイアを攻め落とし,ラオメドンを殺し,その息子のプリアモスを王位につかせた.

 トロイアを攻め落とした仲間の一人,テラモンは,アイギナの王アイアコスの子であったが,異母弟を殺してサラミス島に亡命し,その地の王の娘を娶ってサラミス王となり,後のトロイア戦争の英雄アイアスの父となった.

 テラモンとアキレウスの父ペレウスは同母兄弟で,ともにアイギナから追放された.したがって,アイアスとアキレウスは従兄弟同士ということになる.

 テラモン,アイアスと2代に渡ってトロイアで活躍した戦士がアイギナゆかりの人物だったので,破風の彫刻の題材に2つのトロイア人との戦いが選ばれたと想像される.英雄たちの活躍は伝説に過ぎないが,たとえ史実だったとても神殿建設から700年以上遡る大昔の出来事だった.


アパイア神殿西側破風の装飾彫刻 「ギリシア人とトロイア人の戦い」


 第7室の西側破風彫刻は,鎧兜に身を固め,楯と槍を持った女神アテナを中心に,ほぼ左右対称形に戦士たちが配置されている.

 アテナの右側(向かって左)にいる楯を持った戦士がアイアスとされる.写真を拡大してもわからないが,ヴュンシェに拠れば,楯には「鷲」の絵が描かれた痕跡があるとのことだ.

 アイアスの名は英雄の誕生の予兆として自らの神鳥である鷲(アイエトス)をゼウスが送ったことにちなんでと名付けられたと言われるので,「鷲」の絵があったのであれば,この人物がアイアスである可能性が高く,アキレウスとヘクトルが活躍したいわゆる「トロイア戦争」を主題としているのは確かであろう.

 説明パネルに発掘と整理をめぐる経緯が語られており,以前の推定配置が示されている.特に西側破風では,弓を引いているのはパリスとか,槍を振り上げているのはヘクトル,その反対側で倒れているのはパトロクロス,パリスの後ろにいるのはアイネイアス,第9室にある東側破風に関しても,左端に弓を引くヘラクレス,その前に倒れている兜の戦士がラオメドン,その前で楯と槍を構えているのがテラモンなど,大胆な推測がなされているが,現在は,別の配置がなされている.

 現在,人物名が特定されているのは,それぞれの中央にいる女神アテナと,西側破風のアイアス,東側破風のラオメドン,ヘラクレスである.西側破風のプリュギア帽を被って弓を構えている射手もパリスとされており,以前の同定の中で,アイアスの異母弟のテウクロス,ラオメドンの子プリアモスは,現在もその可能性が高いと考えられている.

 トップに写真を掲載した,矢傷を受け,剣を握って,楯を持つ力を失いつつある瀕死の戦士像はラオメドンとされ,ヴュンシェでも独立して取り上げられているが,決定的な証拠は無いように思える.

 「ラオメドン」像は現在の配置では左端に置かれているが,右端から2番目の弓を引いている人物の兜がライオンの顔なのでヘラクレスと考えられ,であれば,ヘラクレスの矢で倒れた反対側の戦士がラオメドン王という推測は十分に成立するだろう

 古代ギリシアに関しては,多くの場合,ローマ時代の摸刻を通じて原作を想像しなければならないが,グリュプトテークのアイギナのアパイア神殿破風彫刻は,オリジナルであるばかりでなく,前500年前後という古典期の始まりに位置する作品である.貴重な遺産と言うほかはない.

 古拙感を残しながらも,写実的で均整がとれており,理想化が施されていながら,躍動感に満ちている.古典期の傑作彫刻も,ヘレニズム期の個性的な作品も,全て先取りしているように思われる.



 芸術作品が本来の場所にあった方が良いのか,最後の安住の地とも言うべき博物館・美術館で安全に見られた方が良いのか,常に議論のあるところだ.

 遺跡が発見された1811年当時,ギリシアはオスマン・トルコ帝国の支配下にあり,独立は1830年だ.その時もヨーロッパ列強の力を借りている.国王もドイツから来た.

 アパイア神殿の破風彫刻は当時の地方勢力からの購入で,地元の文化財の保護より西欧列強の王族や知識人の趣味が優先され,帝国主義国家の博物館,美術館がどさくさにまぎれて買った感は否めない,

 しかし,当時のギリシアにはこれらの遺産を管理する経済力も無かったし,そもそも文化財に関心を持てるような状況でもなかった.ギリシア,エジプト,メソポタミアの遺産が西欧で収集され,所蔵,展示されていることの矛盾は確かに感じるが,だからこそ残って,今,観ることができているという事実も否定できない.

 今はかろうじて先進国に数えられているイタリアの遺産も,19世紀までに随分,政治的,経済的に優位にあった国々に流出した.

 明治維新の廃仏毀釈等で,一時的に価値を喪失した文化財が,破壊,破棄の危機を免れて,欧米に流出し,日本の傑作美術がボストン美術館などで見られることも止むを得ないことで,作品の価値が認められて後世に遺されたことを感謝しなければいけないのかも知れない.



 グリュプトテークは上から見ると正方形で,中庭の周囲4つの辺に展示室がある.エントランスを含む横の辺は右から第12室,第13室,エントランス,第1室,第2室で,エントランスを左に進むと順路正しく第1室から回ることになる.

 次の縦の辺は第2室(角部屋),第3室,第4室,第5室,第6室(角部屋)で,次の横の辺は第6室,第7室,第9室,第10室で第10室は4つ目の「角」の部屋になっている.

 この第10室の扉の前までたどり着いた時,終了した特別展に関連して「1月30日まで閉まっている」(Bis zum 30. Januar 2018 / bleiben diese Säle leider / geschlossen.)という掲示があり,「ご理解に感謝します」(Wir danken für Ihr Verständnis.)と書かれていた.英訳は付されていなかった.

 第10室と第12室の間にある第11室は,反対の辺の第3から第5室の3部屋に対応する広い空間で,ここにローマ時代の彫刻が飾られている.共和政期の政治家,皇帝たちとその一族,当時は名の知られた政治家や将軍で,今は名前が分からなくなった人々の胸像があり,『図録』の写真(ウィキメディア・コモンズにも相当数の写真が掲載されている)で確認すると,これらを見られなかったのは大変残念なことだったと言わざるを得ない.

 この部屋にある「アイオンのモザイク」はユニークであり,2枚の石棺パネル,さらに「ドミティウス・アヘノバルブスの祭壇」という通称を持つ浮彫パネルは,帝政以前のローマ彫刻を代表する作品と思われ,やはりいつの日かグリュプトテークを再訪しなければという気持ちを起こさせる,

 「ドミティウス・アヘノバルブスの祭壇」は,紀元前2世紀末に,古代ローマ市郊外の「マルスの野」(カンプス・マルティウス)にあったネプトゥヌス神殿に献じられた祭壇の基壇部分の浮彫パネルとされ,一部はルーヴル美術館にも収蔵,展示されている.

 寄進者は紀元前122年の執政官グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスとされている.彼は紀元前54年の執政官ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスの曽祖父で,このルキウスの父もグナエウスで,紀元前32年に執政官となった息子の名もグナエウスだった.

 このグナエウスの息子がルキウス(紀元前16年の執政官),その子がやはりグナエウス(紀元後32年の執政官)で,最後のグナエウスと,カリグラ帝の妹である小アグリッピナの間に生まれたのがやはりルキウスである.

 この最後のルキウスが母の再婚相手クラウディウス帝の養子で女婿となり,養父の死後ローマの第5代皇帝となった.彼の通称には母の実家で養家(クラウディウス・ネロ家)の家名ネロ(ネロー)が用いられる.

 ネロ帝から見て7代前の祖先が寄進者であったこの祭壇の浮彫は,「ネプトゥヌス(ポセイドン)とアンピトリテの結婚」などの神話の場面が描かれており,写真で見る限り興味深いものに思われる.

 「新生児の市民登録」,「軍隊の清めの儀式」などのローマ人の様子を描いた部分の浮彫はルーヴルにあるようだ.2011年にルーヴルで相当数の古代作品を観たが,撮ってきた写真で確認する限り,この浮彫は見ていないようだ.

 期待していた特別展は終了しており,さらにその影響で,ギリシアの肖像彫刻,ローマ時代の諸作品は見ることができなかったが,「バルベリーニのファウヌス」,アイギナのアパイア神殿の破風彫刻を観ることできたので,大きな成果を得たように思う.

 何とか機会を得て,ミュンヘンにはもう一度行きたい.グリュプトテークと州立古代コレクションで1回の予定だったが,グリュプトテークだけで長くなったので,時間をかけてじっくり鑑賞することができた州立古代コレクションに関しては,次回に続くということにしたい.


「イッソスの戦い」を描いた16世紀の絵
 前回,アルテ・ピナコテークに関して,書き落としたことを付け加える.

 ドイツ絵画では,デューラーの2作品の他は,アルプレヒト・アルトドルファーの「イッソスの戦い」(1529年)が印象に残った.アレクサンドロス大王がペルシア王ダレイオス3世に勝利した会戦を描いた作品だ.ギリシア風ではなく,西欧中世の戦争のイメージを引きずっているかも知れない.

 ポンペイから出土し,現在はナポリの考古学博物館所蔵の,ダレイオス3世に攻めかかるアレクサンドロスを描いたモザイクはイッソスの戦いを描いているとされることが多く,「イッソスの戦い」と聞くと,このモザイクを思い起こす.紀元後79年のウェスウィウス火山の噴火で埋もれ,再発見が1831年なので,当然だがアルトドルファーは見ていない.

 古代の戦いには見えないところから,1529年のオスマン帝国によるウィーン包囲を反映しているとする説もあり,戦争画としては一定の説得力を持っているように見える.以前から知っている絵だが,やはりアルテ・ピナコテークにあることは失念していた.

 古代の戦争を描いているという前提で観ると説得力が乏しいように思え,格別期待していた訳ではないけれども,今回深く記憶に刻まれた.観ることができて良かった.今後は,他作品にも注目したい画家だ.

 さまざまな背景はあっただろうが,まだ古代に関して十分な情報がない16世紀前半のドイツにあっても,古典古代は人を引き付ける力を持っていたと言うことであろう.







「イッソスの戦い」
アルブレヒト・アルトドルファー