§ピアチェンツァ行
延びに延びた6月29,30日のピアチェンツァ行の報告をする. |
ああ,誤解
この時期にピアチェンツァ行きを思い立ったのは,グエルチーノの特別展が開催されていたことと,それに連動して,大聖堂のクーポラの天井に描かれたグエルチーノのフレスコ画を近くまで登って鑑賞できる特別公開があると知ったからだ.
ところが落とし穴があった.特別展は3月4日から6月4日までで,とっくの昔に終了していたのである.6月のgiugno(ジューニョ)を7月luglio(ルーリオ)と勘違いしていた.
ややこしいことに,連動する大聖堂のフレスコ画の特別公開の方は,グエルチーノの特別展よりも一カ月長く実施されているため,市内のあちこちにまだ特別展の宣伝が残っていて,現地に行っても勘違いに気付くことができなかった.
追い打ちをかけるように,6月29日は木曜日で,特別展の会場だった絵画館を含むファルネーゼ宮殿の市立博物館は木曜日は13時で閉館で,大聖堂のクーポラの特別公開を先に見てからファルネーゼ宮殿に行ったら,もう閉まっていて,特別展が既に終了していることに気付くことができなかった.
もちろん,開館時間を十分把握していたら起きなかった事なので,誰のせいでもない.
いずれにせよ,ファルネーゼ宮殿が閉まっていたので見損ねたと単純に思い込み,一旦は諦めかけたが,帰りの電車の中で,「明日も来よう」と思い直した.
翌日,9時半過ぎにピアチェンツァに着き,駅から脇目も振らずファルネーゼ宮殿に向かい,諸博物館の一括受付に行き,「入場券(ビリエット)1枚,特別展の分も(アンケ・ディ・モストラ)と言うと,「特別展はだいぶ前に終わった」と言われ,そこで改めて宣伝パンフレットを見て,自分が6月と7月を読み違えていたことに気が付いた.
間抜けな話だが,私にはよくあることだ.
同じ語源から来た英語の月名でジュン(6月)とジュライ(7月)を間違うことはまずないと思うが,それだけイタリア語は自分にとって,まだまだなじみの薄い言語ということだろう.
ちなみにイタリア語と英語の月名の共通の語源であるラテン語名は,それぞれユーニウス(6月)とユーリウス(7月)で,これが響きからすると一番似ている.
後者は英雄ガイウス・ユリウス・カエサルの誕生月であるクィンティリス(5番目の月)から代わったもので,最初ローマの暦では3月にあたる「軍神マルスの月」から始まる10カ月だったが,後に1月と2月が加えられ12カ月になったので,「5番目の月」も2つ下がって「7月」になった.なので,ラテン語学習者は間違えようがない.
英語のジュライはまだしも,イタリア語のルーリオから,なかなかカエサルに思いがいたらない.
好きな画家であるグエルチーノの特別展を見られなかったのは残念だが,前日これと連動したフレスコ画の特別公開を観ることができたことを思い,気を取り直して,前日見られなかった絵画館と考古学博物館を見て,午後はパルマに寄って帰ろうと計画を変えた.
ファルネーゼ家
ピアチェンツァを見た後に,パルマに寄って帰ることは大いに意味があった.かつてこの両都市は共にファルネーゼ家の支配下にあった.
ファルネーゼ家は16世紀の教皇パウルス3世ことアレッサンドロ・ファルネーゼが,実子ピエル=ルイージをパルマ公爵という封建領主に据えたところから,エミリア=ロマーニャ州の一大勢力となり,小国が分立した近代のイタリアの中にあって,オーストリア,フランス,スペインなど大国との力関係を利用して,巧みにその国威を維持した.
以後のファルネーゼ家はパルマ公爵家と通称されるが,正式には初代から「パルマとピアチェンツァの公爵」(それ以前にカストロの公爵に叙されている)であり,1545年からピアチェンツァはパルマ同様ファルネーゼ家の支配下に入る.
したがって(と言い切って良いかどうかわからないが),ピアチェンツァの旧公爵宮殿もファルネーゼ宮殿の通称を持つ.
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写真:
ファルネーゼ宮殿 |
後世,ファルネーゼ家出身のエリザベッタがスペイン王フェリペ5世(ブルボン家)に嫁ぎ,パルマ(とピアチェンツァ)公爵家に後継者がいなくなったとき,エリザベッタの息子が1731年にカルロ1世としてパルマとピアチェンツァの公爵位を世襲した.
カルロ1世は,フェリペ5世の長子ではなかった(エリザベッタは後妻で,先妻に男の子が2人いて,2人とも王となった)が,兄たちが後継者の無いまま亡くなったので,後にスペイン王カルロス3世となる.
こうして,パルマとピアチェンツァの公爵であった彼は,ナポリとシチリアの王を経て,スペイン王となった.
さらに言えば,カルロ1世の父のフェリペ5世の場合はこうだ.彼はフランス王ルイ14世の孫で,皇太子のまま亡くなった父ルイの子フィリップとしてフランスで生まれた.
しかし,祖母がスペインのハプスブルク家から嫁いできたマリー=テレーズだったので,スペインのハブルブルク家に男系の後継者がいなくなったとき,祖父のルイ14世が同じくハプスブルク家のオーストリアとスペイン継承戦争を戦い,その結果,孫であるフィリップがスペイン王フェリペ5世となった.
ルイ14世のフランスでは,フランク人のサリカ法典以来とされる伝統により,男系以外の王位継承は認められていないのに,スペインでは,神聖ローマ皇帝カール5世でもあるカルロス1世がハプスブルク家に嫁いだ母フアナから王位を継承したことで,トラスタマラ家からハプスブルク家に王統が変わった.
フアナ自身も後に「スペイン王」と通称される地位の中核であるカスティリア王の地位を母イサベルから引き継いでおり,男系の継承ではないが,父のアラゴン王フェルナンドも母のイザベルもトラスタマラ家の出身なので,フアナの時は王統(家名)は変わっていない.
カルロス1世に関しては,女系による相続で王統(家名)も変わったことになる.
パルマとピアチェンツァ公爵家もエリザベッタの息子が爵位を継承したことで,女系により相続がなされたことになるが,女系によって相続したのは男性であり,女系によって女性が相続した例はカスティリアのフアナの場合など少ない.フアナの後継者も男性だったので,男性優先の原理は間違いなく存在した.
現在のイギリスは最近,王位継承順から男女の違いを排除したので,女王の継承順位の高い孫から生まれたひ孫が女性だった場合に,そのひ孫が将来のイギリス(連合王国)の女王になる可能性が高かったが,生まれたのは男性だった.
そもそも継承順位1位の息子(王太子)は男性,2位の孫(王太子の長男)も男性なので,継承順位の高いひ孫が女性だった場合でも,女系に拠る女性相続とは言えないことになる.
少し脱線したが,いずれにせよ,英語版ウィキペディアの「パルマ公爵」の一覧表を見ればわかるように,紆余曲折がありながらも,パルマとピアチェンツァの公爵の地位は,1859年まで,基本的にフェリペ5世とエリザベッタ・ファルネーゼの子孫によって継承された.
イタリア統一運動(リソルジメント)の過程でパルマとピアチェンツァの公爵領が消滅した時,最後のロベルト1世はまだ11歳だった.
驚くことに現在も,1970年生まれの人物が2010年に継承したパルマとピアチェンツァの公爵の称号を持っているらしい.母がオランダ女王の次女で,オランダで生まれ,王族の待遇を受けているとのことだ.民主主義の時代となっているヨーロッパの理解しがたいところだ.
「ピアチェンツァの肝臓」
ファルネーゼ家の宮廷が主としてあったのはパルマだったし,公国以前ではあるが,パルマからはコレッジョ,パルミジャニーノなどルネサンスからマニエリスムの大芸術家も輩出している.バロックの巨匠ジョヴァンニ・ランフランコの生まれもパルマだった.
こうしたこともあって,私たちのピアチェンツァという町のイメージは,パルマにくらべて随分地味なものになっている.実際,今期の滞在で,ピアチェンツァに2回,パルマに2回行って,その感想としてもパルマの方がより芸術的傑作に出会えるように思う.
しかし,フィデンツァの回で少し触れたように,ピアチェンツァは古代ローマ時代からプラケンティアという現代名の語源となる名称の有力都市だったことを忘れてはいけない.
プラケンティアという名称を聞くと,「快適な町」とか「お気に入りの町」と考えてしまうが,「占いで良い結果が得られた場所に建設された町」という解釈があるのを知った(英語版ウィキペディア).なるほど,それもありどころか,かなり説得力のある説だ.
都市の創建は紀元前218年とされているが,それ以前にエトルリア人,ついでケルト人(ガリア人)が住んでいた.もちろん,エトルリア人以前の先住民も数多く興亡,集合離散したものと思われる.
先史時代の遺産は,ファルネーゼ宮殿にある考古学博物館で見られるが,その中でも,歴史の光の中にエトルリア人が現れた時代の重要な遺品がある.「ピアチェンツァの肝臓」(フェガート・ディ・ピアチェンツァ)と通称される,エトルリア人が臓物占いの参考にした銅器で,より詳細な伊語版ウィキペディアの方にリンクしておくが,英語版ウィキペディアにも十分以上の情報がある.
「ピアチェンツァの肝臓」は,現在はピアチェンツァ県に属するゴッソロンゴという基礎自治体のセッティマという地区で1877年に発見され,以来,ファルネーゼ宮殿に収蔵されている.
絵画館を見終えて,考古学博物館に回ったら,この日は,あまり入場者がいなかったからなのか,まだ12時を過ぎたばかりだったのに,既に考古学博物館には鍵が掛けられていたので,館員にリクエストして開けてもらう形となった.
先史時代の展示を興味深く見ながら進んだが,何故か肝心の「ピアチェンツァの肝臓」には到達しない内に展示を見終わってしまった.
そんなはずはないと思い,この時は「ファルネーゼの肝臓」と言う通称は知らなかったので,「エトルリアの有名な宗教的物体」(ファモーゾ・オッジェット・レリジオーゾ・デトルーリア)は見せて貰えないのかと館員に尋ねると,それで通じたのか,鍵の掛かった別の扉を開けて,階段を降りるコーナーに案内された.
立派な展示品が少なからずあったので,間違いなく重要見学コーナーだと思うが,見学者は私一人だし,閉館時間が迫っていたので,ここは閉めたままにして早く退館してほしかったのだと思う.イタリアの大きな博物館ではよくあることだが,それでもリクエストには誠実に応えてくれた.
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写真:
「ピアチェンツァの肝臓」 |
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貴重品なので,管理が厳重なのは良いが,金属製品なのに暗い所に置いてライトアップしているので,写真はもとより,肉眼でも少し見にくくて残念だった.ともかく実物(だと思う)を見ることができた.12月3日にローマのヴィラ・ジュリア・エトルリア博物館で,これの模型(だと思う,多分)の展示を見たが,この模型の方がはるかに分かりやすい展示だった.
外周部分が16分割され,そこにはエトルリア文字で神名が刻まれ,さらに内側も24分割されていて,そこにも神名が刻まれている.さらに裏側にあたる底の部分に2つの刻銘があり,一方は「月(moon)」との推定がなされている(英語版ウィキペディア).
このような宗教的物体はオリエントからアナトリアの文明との関連を思わせ,場合によってはヘロドトス以来の,エトルリア人が東方から来た民族であるとの説の有力な傍証になる可能性も考えられる.
しかし,今,結論の出る問題ではないので,ヨーロッパには相当数いる専門家たちの今後の研究を待ちたい.
絵画館
ファルネーゼ宮殿の中にある5つの博物館(考古学博物館,リソルジメント博物館,武具博物館,馬車博物館,絵画館)のうち,武具博物館(武器コレクション)と絵画館も見学した.絵画館にあたる部分は厳密には,1階(日本風には2階)からのようだが,地階(日本風に葉1階)から既に絵画館だと思ってみた.
展示されていたのはロマネスクの彫刻や浮彫断片,紋章を彫り込んである石碑,多くは無名の職人の作品だが,アンテーラミの追随者の作品かも知れない「聖母子」は多少の芸術性を感じさせた.
芸術性云々は別にしても,古いものは「古い」と言うだけで,確かに価値を持っているように思われる.

写真左:「聖カタリナの神秘の結婚」? 右:「聖カタリナの殉教」 |
「サンタ・カテリーナの親方」と通称される画家の相当数の剥離フレスコ画断片も興味深かった.概ねアレクサンドリアの聖カタリナに関連する宗教画である.「受胎告知」,「キリスト洗礼」,「キリスト磔刑」なども描かれている.
サン・ロレンツォ教会のサンタ・カテリーナ礼拝堂を出自とするフレスコ画で,14世紀末の作品とのことだ.まずまず美しい絵だと思う.
「聖カタリナの神秘の結婚」と思われる場面があったが,通常,聖母に抱かれた嬰児のキリストから指輪を渡される絵柄で表現されるこの主題が,女性聖人が聖母に紹介されて大人のキリストから指輪を渡される形で描かれており,類例もあったように思うが,比較的めずらしく思われた.
聖カタリナの神秘の結婚は諸方で見られるけれども,気のせいかもしれないが,エミリア=ロマーニャには特に多いように思われた.
フィデンツァの大聖堂博物館で観た剥離フレスコ画「悪龍を倒して王女を救う聖ゲオルギウス」の作者と推定されていた,「レッジョ出身のバルトロメオとヤコピーノ」の剥離フレスコ画も観ることができた(「聖祭の挙行」,「聖母戴冠と三位一体」).
ファルネーゼ家の3人
ピアチェンツァのように,教皇庁や諸大国の権力と結びついた領主が支配した都市の博物館,美術館であっても,地元の芸術家の作品が大事にされているのを見るのは嬉しいことだ.
一方,この博物館複合体の顕著な特徴として,ファルネーゼ家出身の3人の人物を称賛する絵画が飾られた部屋が複数あることに気付く.豪華のガラス器やカーペットなどのコレクションも順路を辿る過程で見ることができる.もともと北イタリアの有力公爵家の宮殿であった歴史的背景を十分に活かしている点は評価すべきだろう.
顕彰されている3人の人物とは,教皇パウルス3世,第3代公爵アレッサンドロ・ファルネーゼ,スペイン王妃となるエリザベッタ・ファルネーゼである.
アレッサンドロ・ファルネーゼという名の人物は,ファルネーゼ家の歴史の長い歴史のなかで複数おり,そもそもパウルス3世の本名がアレッサンドロ・ファルネーゼである.また,初代公爵の子,教皇の孫で,枢機卿となり,策士として知られていた人物の名もアレッサンドロである.
しかし,ここで顕彰されているアレッサンドロ・ファルネーゼは,第2代公爵オッタヴィアーノと神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の婚外子であったマルガレーテとの間に生まれ,第3代公爵となった人物である.
カール5世の孫,スペイン王フェリペ2世から見ると甥にあたる血縁が主たる理由ではあったろうが,スペイン・ハプスブルク家の領土であった現在のオランダ,ベルギーにあたる地方,スペイン領ネーデルラントの総督となり,叛乱を鎮圧し,レパントの海戦にも参戦,ユグノー戦争で負った傷により1592年に47歳で戦病死した.
第3代公爵はイタリアの地方国家の君主であると同時に,スペイン・ハプスブルク帝国の軍人,政治家としても活躍し,特に武将,指揮官として同時代から評価が高かった.
このアレッサンドロを顕彰する相当数の絵を担当したのは,ジョヴァンニ=エヴァンジェリスタ・ドラーギという画家で,1654年にジェノヴァで生まれ,同地の画家ドメニコ・ピオーラに師事した.
彼が生まれた時点でアレッサンドロの死後60年以上経っており,第3代公爵の存命中にその顕彰を意図したものではない.本人が存命中,もしくは死後すぐに描かれた肖像が残っているのであれば,ドラーギの絵の肖像性も多分あったのではないかと思う.
パウルス3世を顕彰する多くの絵を描いたのは,後期ヴェネツィア派の巨匠の一人セバスティアーノ・リッチで,描かれた教皇を見ると,ティツィアーノが描いた複数のパウルス3世を思い起す.
写真の無い時代ではあるが,存命中に信頼できる肖像画が描かれていれば,後世であっても,対象となる人物に関しては肖像性を持たせることができる.
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写真:
ボッティチェリ
「嬰児キリスト礼拝」 |
階段を昇って1階(日本風には2階)に着くと,少し行ったコーナーに,絵画館一押しのボッティチェリ「嬰児キリスト礼拝」,トスカーナ出自の作品を中心とするゴシック絵画や彫刻の小品コレクション(リッツィ=ヴァッカーリ・コレクション)があった.
パルマ出身のジョヴァンニ・ランフランコ,ミラノ出身のカルロ・フランチェスコ・ヌヴォローネなど,バロック期の有名な画家の大作も複数展示されているが,有力公爵家の宮殿にある絵画館としては世紀の傑作には恵まれていないように思えた.
やはり公国の中心はパルマだったことと,パルマとピアチェンツァの公爵だったカルロ1世が最終的にはスペイン王カルロス3世となってファルネーゼ家がスペイン王家に吸収される過程で,カルロ1世はナポリ王カルロ7世,シチリア王カルロ5世にもなり,ファルネーゼ家のコレクションのかなりのものがナポリに運ばれたことが大きな要因の一つだろう.
それらの作品は現在,ナポリの国立考古学博物館,カポディモンテ美術館に収蔵,展示されている.
また,日本語ウィキペディアの「ピアチェンツァ」は予想を遥かに超えて詳細,有益だが,そこでは,ナポレオンに征服された際に,美術品の多くが略奪されて,現在もフランスにあるものが多いとされている.
さらに順路を進むと,ファルネーゼ家出身のスペイン王妃エリザベッタを顕彰した絵が飾られた部屋に出る.これらの絵の作者はイラリオ・スポルヴェリーニという多分,初めて出会う画家で,1657年にパルマで生まれ,1734年にピアチェンツァで亡くなっている.
エリザベッタ・ファルネーゼの生涯は,1692年から1766年なので,明らかに顕彰絵画の制作は,エリザベッタの存命中で,スポルヴェリーニの描いたエリザベッタには,多少の理想化は施されているにしても,間違いなく肖像性があるであろう.
この時代になると,およそ画家でありながら,素人目にも絵が下手な人はおらず,どの作品も高い技術と,最新の技巧によって一定水準以上に仕上がっているが,これが心を打つ作品かどうかは別問題で,多分この画家の名前は私の記憶にはとどまらないと思う.
しかし,王侯が芸術を好み,画家や彫刻家を保護し,作品を注文したことにより,高い水準の作品が量産され続け,その中から,後世もしくは同時代に人々に感銘を与える芸術家も育ったわけだから,権力者たちの自己顕示であったとしても,なるべく心して鑑賞しようと思う.
スポルヴェリーニの一連の歴史画の中には,パウルス3世や第2代公爵アレッサンドロ・ファルネーゼの登場するものもあり,やはり,この2人のアレッサンドロがファルネーゼ家繁栄の要と考えられていたのは間違いないだろう.
ファルネーゼ家及びエリザベッタ・ファルネーゼの顕彰画以前の部屋に,スポルヴェリーニが描いた旧約聖書を題材として絵もあり,ここでは戦闘場面が描かれ,前後により有名な画家と思われたブレシャニーノの戦争画もあった.
しかし,この「ブレシャニーノ」は,私たちにおなじみの,ブレーシャ出身の父から生まれ主にフィレンツェとシエナで活躍した後期ルネサンスからマニエリスムの画家アンドレーア・ピッチネッリではなく,1646年にブレーシャで生まれ,1712年(もしくは13年)にパルマで亡くなったフランチェスコ・モンティという画家のようだ.
絵画館および,その順路にある中世の彫刻,絵画のコレクション,ガラス器,カーペットのコレクション,ファルネーゼ家の3人の人物の顕彰絵画,第3代公爵アレッサンドロ・ファルネーゼの業績をたたえた絵の部屋にある木製の調度品,パウルス3世の業績をたたえた絵のある部屋の漆喰装飾など,宮殿ならではの展示から多くのことを学び,それなりに興味深かった.
しかし,ピアチェンツァのファルネーゼ宮殿という博物館複合体全体を全部ではないが一通り見渡して,最も心に残ったのは,へそまがりな事を言うようだけれども.サンタ・カテリーナの親方とレッジョ出身のバルトロメオとヤコピーノのフレスコ画,およびエトルリア人の遺品「ピアチェンツァの肝臓」であった.
ピアチェンツァに行く機会はもうないかも知れないが,一度行ったのに,誤解によるものだったとは言え,翌日も行って,市立博物館複合体であるファルネーゼ宮殿を見ることができて良かったと思う.
大聖堂
長くなったので,一旦区切って次回もう一回ピアチェンツァについての報告を続けた方が良いのかも知れないが,ピアチェンツァへ行った最大の目的の半分(もしくはそれ以上)は大聖堂の天井フレスコ画だったので,なるべく簡潔にそれについて述べる.
エミリア=ロマーニャの諸都市にはロマネスクの大聖堂が複数あり,有名なのはモデナ,パルマ,フィデンツァ,フェッラーラのそれぞれ大聖堂(司教座聖堂)であり,伊語版ウィキペディアには,これにノナントーラ大修道院,ポンポーザ大修道院,フォルリのサン・メルクリアーレ大修道院の教会を加えて,ロマネスク聖堂の大きさを比較した一覧表が掲載されているが,建物全体の長さ,ファサードの高さ,幅,鐘楼の高さともに,ピアチェンツァ大聖堂が最大のようだ.
参考としてローマのサン・ピエトロ大聖堂のデータも付されており,さすがにサン・ピエトロの大きさには遠く及ばないが,現在のサン・ピエトロがルネサンスからバロック期の設計,建築であることを考えれば,エミリア=ロマーニャの諸聖堂の大きさには驚く.
パルマやモデナでロマネスク聖堂の大きさに感嘆した経験を踏まえて,ピアチェンツァ大聖堂の方が大きいというデータを知ると,なるほどピアチェンツァは古代だけではなく,中世に栄えた町だったのだなと思う.
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写真:
ピアチェンツァ大聖堂 |
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ピアチェンツァの大聖堂は,ファサードに最もロマネスクの特徴が残っているように思われる.
堂内でも,身廊と側廊を区切る列柱が支えているのは半円アーチでロマネスク的だが,身廊の天井は交差リブ・ヴォールトで,それを支えるアーチは尖頭形になっており,ゴシック期に大規模な改修が行われたと推測される.
ファサードは「小屋型」と訳せばよいのか,最上部から側壁まで,両側に単純に傾斜した屋根がかかっている形で,「切妻屋根」の軒が無いか短い形のように見える.
10年前にフィレンツェでサン・バルナバ教会を見て,この教会の伊語版ウィキペディアの説明を読んで,「ファッチャータ・ア・カパンナ」を多分,そのように理解したのだと思うが,「フィレンツェだより」ではずっとこれを「納屋型」と言って来た.
フィレンツェに相当数見られる,外壁を漆喰で塗り固めた簡素な教会をそのように言うのかと思っていたのかも知れないが,ピアチェンツァ大聖堂,パルマ大聖堂,パヴィアのサン・ミケーレ・マッジョーレ聖堂のファサードのこの用語が使われているのを見て,このような石積みの大きな教会にも使われるのであれば,要するにファサード,側壁,屋根の関係がファサードから見た時,「小屋」のような単純な形に見られるからそのように言われるのだろうと理解しておくことにした.
フィレンツェなどの漆喰外壁の小さな教会とロマネスクの石積み大教会の共通性になかなか思い至らなかったが,今後は,これらに共通する形に対して「小屋型」と言う訳語を使うことにする.
その屋根の中央に突出部がある場合,それをファサードから見て,イタリア語では「ファッチャータ・ア・サリエンテ」(「中央部突出型」と訳して良いかどうか全く自信がないので,なるべく言及しないか,どうしても言及が必要な時は「ファッチャータ・ア・サリエンテ」と言うことにする)と言うようだ.
同じロマネスクでも,ピサ,ルッカ,ピストイアの大聖堂がこれに分類される.ローマのサン・ピエトロ大聖堂も16世紀前半まであった古い聖堂はこのタイプだったようだ.フィレンツェだとサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂はこれに分類され,またエミリア=ロマーニャのロマネスク大聖堂でもモデナ大聖堂はこのタイプであろう.
ファッチャータ・ア・サリエンテ型の教会だと,身廊と側廊の天井の高さの違いが明示され,少なくとも三廊式(旧サン・ピエトロは五廊式)の堂内を想像させるが,小屋型の場合,単廊式か,身廊と側廊の天井の高さがほぼ同じで,いわゆる「ハッレン・キルヒェ」型が想起される.
しかし,実際には,ピアチェンツァ大聖堂,パルマ大聖堂は三廊式で,両側廊の上部にマトローネオ(女性信者専用歩廊)があり,側廊自体の天井は身廊よりもだいぶ低い.
フィデンツァ大聖堂は左右の双塔を除けば,一見「小屋型」ファサードに見えるが,ファサードから少し後ろに突出部があり,距離をおいて見るとファッチャータ・ア・サリエンテ型に見える.堂内は三廊式で,やはり側廊の上にマトローネオがある.この構造は明白にファッチャータ・ア・サリエンテ型で三廊式のモデナ大聖堂も同様である.
ピアチェンツア大聖堂のファサードは,パルマ大聖堂のファサードに最も似ているように思えるが,鐘楼の位置が違い,後者がファサードのすぐ右側にあるのに,前者はファサード左側のすぐ後ろにある.
ゴシック期に付け加えられたであろうバラ窓は両者にあるが,ピアチェンツァ大聖堂の方がパルマ大聖堂のものより壮麗である.
どちらのファサードにも入口は3つあり,中央が一番大きく,半円アーチと浮彫付き柱頭のある柱で支えられたプロテュルム(「柱廊式小玄関」:protiro『伊和中辞典』)を有し,プロテュルムの上部にさらに三角屋根を半円アーチと柱で支える構築物が付加され,上下二重のプロテュルムを構成しているように見える.
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写真: ピアチェンツァ大聖堂
中央入口のライオンの
スティローフォロ |
下部の柱のスティローフォロ(「ロマネスク様式教会の柱などを支える動物の彫刻」『伊和中辞典』)はどちらも左右一対の堂々たるライオンである.
パルマの左右の入り口は,半円アーチを頂くだけの簡素なものだが,ピアチェンツァの方は中央のプロテュルムを少し小さくした相似形の構築物があって,より見事な造形になっているし,浮彫彫刻(アーチ,柱頭,楣石)も中央同様に施されている.ただし,スティローフォロは左右共にライオンではなく,人の姿をしている.
どちらのファサードにも,自重を軽くする効果もあるそうだが,半円アーチを支える柱が連なる装飾アーケードが見られる.
屋根の傾斜に沿った最上部分のアーケードはどちらにもあるが,パルマの場合は,中央プロテュルムの左右にファサードの両端まで2段構成の大がかりなアーケードがある.これに関してはピアチェンツァの方は簡素で,左右のプルテュルムの上部にそれぞれ小規模なアーケードがあるだけだ.
浮彫彫刻が簡素なのに,一見するとパルマ大聖堂の方が豪華な印象を受けるのは,アーケードのおかげだと思う.
初めて見たとき,大きいが簡素に見えたピアチェンツァ大聖堂には,実は見事なロマネスク装飾が施されていた.これをじっくり鑑賞しなかったことが悔やまれる.しかし,この時は先ずグエルチーノに関心があったので,ファサードをゆっくり見る心の余裕がなかった.
グエルチーノのフレスコ画
聖堂全体はラテン十字型で,クーポラは身廊と翼廊の交差部の上にかけられている.クーポラは「丸屋根」と訳されることが多いが,ここは八角柱のクーポラで,この裏側にグエルチーノのフレスコ画が描かれている.
八角形のクーポラの形状に合わせて,天上はリブによって八面に分かたれた縦長の二等辺三角面が8つあるが,底辺は内側に湾曲しているので,厳密に三角形ではない.その湾曲した底辺を境にして下部にそれぞれリュネットがある.
8つの三角面にはそれぞれ旧約聖書の預言者とその関連場面が描かれ,ダヴィデとイザヤはモラッツォーネことピエール=フランチェスコ・マッツッケッリの作だが,その他の6面(ホセア,ゼカリア,エゼキエル,ミカ,エレミア,ハガイ)はグエルチーノが描いた.
リュネット8面は,「イエスの物語」(牧人たちへのお告げ,牧人礼拝,神殿奉献,エジプト退避)の4面と,明り取り窓の左右にシビュラが1人ずつ,計2名の女性が描かれた4つの面が交互に配されている.これらもグエルチーノ作品である.
券売所で予約すると,一定時間ごとに一定人数がクーポラの天井のすぐ傍まで行って,フレスコそもそも画を見ることができるが,行ける場所が限られているし,狭い場所で10人以上の人が場所を譲り合いながら観るので,写真は撮らせてもらえても全部は写らないし,そもそも見えない所もあった.
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写真:
クーポラの天井
フレスコ画 |
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茅屋の書架に,
Prisco Bagni, Gli Affreschi del Guercino nel Duomo di Piacenza, Cittadella
(Padova): Bertoncello Artigrafiche, 1994
という本がある.グエルチーノが教会に描いたフレスコ画の存在を知って,最初はイタリア・アマゾンで注文,入手を試みたが,日本からイタリア・アマゾンで古書を入手するのは難しく,結局,この本を知ってだいぶ経ってから,アメリカ・アマゾンに出品していたフランスのリヨンの古書店から入手した.
もちろん,今は手元にないので,参照は帰国後だ.やや不全感は残るが,それでも随分近くから観ることができたので,今度読む時は,前に参照した時よりも,現実感を伴って読むことができるだろう.何と言っても大きさを体感できたのは意味があると思う.
グエルチーノのフレスコ画としては,ローマのカジーノ・ルドヴィージで,少なくとも2点の天井画(「アウロラ」,「名誉の神と美徳の女神を伴った名声の女神」)を見ている(2013年の3月15日に見て,同25日に報告している)が,宗教画のフレスコ画は他にあるかどうか分からない.いずれにしても私は初めて見たと思う.
青の色味に特徴があるグエルチーノらしい絵だと思ったが,カンヴァス画とは異なる,フレスコ画ならではの特長は,今のところ認識できていない.
角度のついたリュネット部分はクーポラの傍まで行かないと絵柄がしっかり確認できないが,三角形の預言者の場面に関しては,下から見ても十分に宗教画として有難みのあるものに思えた.特に自分の前のグループがクーポラ近くまで登って鑑賞している時,明かりが点けられるので,そのタイミングでは特に,下からでも十分な鑑賞ができた.
リュネット部分がどうすれば見られるかという課題は残るが,本来は下から見上げるものであろうと思う.昔は電気の明かりはないので,採光が良いと言う幸運に恵まれた日や時間帯に最も美しく見えたことだろう.
後陣周辺の天井のフレスコ画も立派で,作者としてカミッロ・プロカッチーニ,ルドヴィーコ・カッラッチの名前が挙げられているが,どこをどちらが担当したのか,よく見ても来なかったし,写真もうまく写っていなくて分からない.
翼廊左側の礼拝堂にグイド・レーニに油彩カンヴァス画「悔悟する聖ヒエロニュムス」があるとのことだ.それらしい絵は写真に収めたが,あまりよく写っておらず,本当にレーニの作品かどうかにわかに判断できないが,雰囲気はある.
古拙なフレスコ画もよく探すと堂内にあり,これは興味深い.写真も一応は写っているので,こういうフレスコ画があったと思い出す程度のことはできるだろう.
新しいモザイク,ステンドクラスもよくできているように思える.中央祭壇にはスペインのレタブロのような,大きな多翼祭壇画型木彫装飾が金色に輝いていて目を引くが,残念ながらこれも調べていない.
ピアチェンツァ大聖堂はエミリア=ロマーニャのロマネスク大聖堂で最大の大きさを誇る立派な教会だが,今回はグエルチーノのフレスコ画を観ることに焦点があり,エミリア=ロマーニャのロマネスクに関心が行くためには,ピアチェンツァ大聖堂に行った翌日,パルマ大聖堂と洗礼堂を観るという過程が必要だった.
パルマの大聖堂もロマネスク以外の要素が堂内には満ちているので,やはり洗礼堂を見てこそ,エミリア=ロマーニャのロマネスクに意識が向かうように思う.これについては次回,報告する.
ピアチェンツァの初日には,大聖堂以外にロマネスクの貴重な遺産を蔵している教会を思いがけず拝観することができた.最後にこの教会について触れて報告を締めくくることにする.
サン・サヴィーノ聖堂
6時53分(その後43分になったようだ)のフレッチャロッサに乗ってフィレンツェからボローニャまで行き,7時28分発(これはまだ同じ時間のようだ)のレジョナーレ・ヴェローチェに乗り換えると,9時5分にピアチェンツァに着く.
気合入れて少し早起きして,この乗り継ぎ方法で,予定通りピアチェンツァに着いた.
駅から歩いて大聖堂を目指したが,その途中(アルベローニ通り)にバロック風の教会があった.これがサン・サヴィーノ聖堂で,英語版ウィキペディアではバロックではなくロココとしているので,もっと新しい.どうしようか迷ったが,思い切って入ってみて正解だった.
確かに外観は新しくて,地味で,少なくとも私にとっては魅力に乏しい.しかし,堂内の基本構造は三廊式で,身廊の天井は交差リブ・ヴォールトとゴシック風だが,身廊と側廊を分ける列柱が支える壁の下部は半円アーチであり,柱頭とともにロマネスクを感じさせる.
床に残るモザイクの装飾に心惹かれながら,後陣の方に行くと,階段を降りた地下祭室(クリプタ)にも,その上にある聖職者席の所にも,見るからにロマネスクの遺産と思われるモザイクがあった.

この聖堂は,ミラノ出身で420年にピアチェンツァで亡くなった司教聖人サビヌス(イタリア語になる時に,bとvが入れ替わったようだ)を記念して,1107年に献堂されたまさにロマネスクの時代に創建された.
聖職者席の場所にあるモザイクは,11世紀の終わりから12世紀初頭の作品で,全体としては装飾パターンに囲まれた大きな四角形で,その中心には円環に囲まれて玉座に座る男性が,太陽と月を表していると思われる物体を持ち,同心円の外周に有翼の狼のような動物が複数いて,さらに外輪に4人の男が依りかかり,最下部でアトラスかも知れない人物がその円環を担っている.
円環は四角で囲まれ,その左右に上下2つずつの場面を描いた四角形がある.
向かって左上には剣を交えている男たち,左下は杯を掲げている男がいるので宴会であろうか,右上には玉座に座る男,その傍らで後ろを向きながら片膝をついている男がいて,前者には「王」,後者には「裁判官」とそれぞれラテン語が書かれている.右下の四角の中では,腰かけている男がチェス盤に向かっているが,相手の手だけは見えているので,チェスの対局であろう.
古拙ではあるが,一つひとつの絵柄に引き込まれる.
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写真:
クリプタの
ロマネスクのモザイク |
さらに地下祭室にはロマネスクの柱頭を持つ列柱の下方に,黄道十二宮と月名がラテン語で書かれた小円環のモザイクがある.
10個の小円環は大きな正方形の中にあり,そこには動物と人が関わっている絵と,パターン装飾のモザイクもある.あと2か月分の円環は奥の方に特別扱いの四角形の中に一つずつある.
私と家族の誕生月である10月に関しては,円環の中に「10月」(オクトーベル)と「天秤」(リブラ)の文字があり.周辺にAEQVATE TACTV
BER SE MENTIS TEMPORE LIBRAMとあった.
このままでは,多分古典ラテン語としては読めず,まずBERはPERであろうと推測する.ただしその場合でも,動詞が命令法・2人称複数なので,再帰代名詞はSEではなくVOSになるはずなので,PER
VOSのつもりで書いたと解釈する.
MENTISはMENS(心)の属格なので,名詞を修飾し,被修飾語として文法的にはTACTV(奪格),TEMPORE(奪格),LIBRAM(対格)の3つとも可能であろう.TACTVは手段の奪格,TEMPOREは時間の奪格,LIBRAMは冒頭の命令法の目的語と考え,結論としては,MENTISをLIBRAMにかけて,「あなたがたは,自ら触れて,適切な時に,心の天秤を釣り合わせよ」と言う意味と考えたい.
他の月を見ても,BとPを混同した例はないので,少し苦しいが,月名では-berで終わる語もあるが,この句の中のBERをどう考えるかは,このままでは,少なくとも私には解決できない.
上記の句をこのままウェブ検索しても,どこにもヒットしないので,BをPの間違いと考えるよりは,初期キリスト教時代の刻銘を見たときにVとBが混同されていたので,こちらの方がまだしもかなと思い,別の可能性も考えたが,解決に至らなかった.
間違っていれば,結構恥ずかしい間違いだが,とりあえず,上のように考えておく.
素晴らしいモザイクと思いながらも,心は早くもグエルチーノのフレスコ画と(この時点ではまだ開催中と思っていた)特別展の方に飛んでいたので,十分な鑑賞はできなかった.時間があれば,絵解き,ラテン語の読み解きで相当楽しめそうだが,果たして,もう一度行けるかどうかは分からない.
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写真: パラッツォ・コムナーレ |
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ピアチェンツァでは他に小さなサン・カルロ教会を拝観しただけで終わった.ピアチェンツァの守護聖人を記念したサンタントニーノ聖堂,サン・フランチェスコ・ダッシージ聖堂は,中心部にある大きな教会で,それぞれ扉の前まで行ったが,昼休みで閉まっていた.
サン・フランチェスコ・ダッシージ聖堂はピアチェンツァを代表するゴシック教会だが,この教会が面しているカヴァッリ広場にある市庁舎パラッツォ・コムナーレも,イル・ゴティコの通称を持つ,やはりピアチェンツァのゴシックを象徴する建物である.
繰り返しになるが,モデナやパルマに比べて地味な印象のピアチェンツァだが,古代,中世,ルネサンス,バロックの時代から近現代に至るまで,常に栄え続けた町で,たくさんの貴重な遺産に恵まれている.
しかし,こちらの知識や予習がついていかず,見られたところに関しても,十分に良さを理解しきれていないうらみが残った.パラッツォ・コムナーレに関しても,少なくとも外観だけでももう少し丁寧に見てくれば良かったと悔やまれる.
大聖堂と上記2つの未訪教会を拝観するために,行けるものなら,もう一度ピアチェンツァに行ってみたいと思っているが,行けるかどうかは全くわからない.
優先順位の高い未訪都市や,どうしてももう一度行かなければならない美術館,博物館,教会も少なくないし,季節が少し良くなったら,最後にまたトスカーナの田舎めぐりもしたい.
残り3カ月をどう使うか,時間と相談しながら考えたい.
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私たちの誕生月の
10月のモザイク
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