フィレンツェだより番外篇
2016年12月5日



 




「ナイル川のモザイク」
国立考古学博物館



§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その13 パレストリーナ,ティヴォリ

パレストリーナ(英語版伊語版ウィキペディア)に初めて行った.古代にはプラエネステと言う名前であったこの町は,私の人生において2つの点で縁があった.


 高校に入学した時,教室で席が近かった同級生に勧誘されて,合唱を主たる活動とする音楽部に入部することになった.

 これは意志の弱さによる予定外の出来事で,後に部長になった彼に引きかえ,私は声は出ないし,楽譜も読めなかったので,何度もやめようと思ったが,結局3年間在籍し続け,練習の際は,今,医大の教授になっている様々な意味で優秀な後輩に指導してもらい,コンクールの時は,舞台上で口をパクパクしていた.

 この音楽部は伝統的にラテン語の歌を歌っていたので,ここでラテン語と出会い(厳密には最初の出会いは中学時代に聞きかじった「我思う,故に我あり」であったが),その後ずっとラテン語を学んで,今はそれだけで生活できるわけではないが,私が大学の教職に就けた理由の4割くらいはラティニストであると言うことなので,やはり大きな出会いだったと思う.

 盛岡一高音楽部の伝統は,年に何曲かは16世紀イタリアの作曲家ジョヴァンニ=ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(英語版伊語版ウィキペディア)の曲を歌うことだった.当時,福島で活動していた有名な社会人合唱団FMCの影響もあったのだと思う.

 ちなみに最初に歌った歌は,パレストリーナではなく,スペインの作曲家トマス・ルイス・デ・ビクトリアの「アヴェ・マリア」だ.優れた音楽家であり,大学が同窓の花井哲郎に直接受けた注意に拠れば,この曲はビクトリアの真作ではなく,19世紀のドイツ人がそれらしく作った曲だそうだが,有名な作曲家だった柴田南雄もラジオ番組でビクトリアの傑作と言っていた.

 音楽部にはついに適応できないまま,舞台では最後まで口パクパクだったが,出身地が通称となった作曲家パレストリーナは憧憬の対象となり,いつの日かイタリアのその町を訪れて見たいと思い続けていた.ビクトリアだけでなく,オルランドゥス・ラッススも,さらに昔のジョスカン=デ=プレも,バロック初期のハインリッヒ・シュッツの曲も口をパクパクさせ,とりわけシュッツの曲には深い感銘を受けたのに,作曲家個人への憧れはパレストリーナに限られた.縁と言うものだろう.

 2つ目の縁は,早稲田大学でラテン語(とギリシア語)を学び,京都大学の大学院で古典学の講筵に連なり,いくつかの大学で非常勤講師を務めた後,幸運にも専任の教職に就くことができ,さらにめぐり合わせがあってワセダに移籍した前後に,ローマ喜劇の全作品を数人で訳す企画に参加させてもらったことだ.

 前3世紀の喜劇詩人プラウトゥスの2つの作品を担当することになったが,そのうちの一つ『ロバ物語』に「プラエネステの人はラテン語がなまっている」と言う台詞があった.一応,古典を学んでいたので,その頃はもうプラエネステがパレストリーナだと知っており,ただの偶然に過ぎないのだが,何かパレストリーナとは深い縁があるような気持になった.



 プラウトゥスの作品以外にも,パレストリーナを古代ローマの文学,文化研究に結びつけるものがある.パレストリーナで発掘されたフィブラ・プラエネスティナ(フィーブラ・プラエネスティーナ)と呼ばれるブローチ(留め金)で,そこには最古のラテン語が書かれているとされている.

 このブローチについては英語版伊語版ウィキペディアの他,日本語版ウィキペディアの「プラエネステのフィーブラ」も分かりやすくまとめられており,贋作説もあることや,それに対して本物であるとする説の見解も根拠とともに示されている.

 現在所蔵しているローマのルイージ・ピゴリーニ国立先史・民族学博物館(英語版伊語版ウィキペディア)は紀元前7世紀の制作としており,パレストリーナで発掘されたからと言って,パレストリーナで造られたとは限らないが,古形とは言え,前7世紀のパレストリーナでラテン語が使われていた可能性を想像させる.

 王政から共和政への転換と言う歴史上の大事件がローマで起こったのが前509年で,この事件も歴史と言うより伝説の色彩が強く,ローマの史実すら定かではない時代だから,多分,プラエネステはまだローマの支配下にはなかっただろう.それでも,ラティウムで使われたからラテン語(リングァ・ラティーナ)と言うわけだから,現在ラツィオ州に属しているパレストリーナの前身都市が,ラテン語もしくはそれと親縁関係の深い言語を使っていたとしても不思議はない.

 文字はエトルリア文字から作り出されたのだから,これも存在していても不思議はない.もっとも,ブローチ(留め金)の制作が前7世紀だとしても,文字がその時に刻まれたとは限らないが,もし前7世紀に刻まれたのだとしたら,大変な重要資料と言うことになるだろう.

 真贋については,私が何か意見を述べるようなものではないとしても,本物であるならば,ラテン語の歴史を考える上で貴重な資料であるのは間違いなく,ラテン語教師としては何らかの意見を持っているべきだと思うが,この留め金を見ることができなかった今回はペンディングとする.


パレストリーナの歴史
 丘の中腹にある考古学博物館は,17世紀に教皇を出したフィレンツェ出身のバルベリーニ家の宮殿だった建物で,古代にはフォルトゥナ神殿があった場所に,その構造を活かして造られた.

 フォルトゥナ(フォルトゥーナ)は運の女神で,ローマ時代に盛んだった信仰のひとつにフォルトゥナ崇拝がある.「偶然」を意味するフォルスを冠して,フォルス・フォルトゥナとも称され,特にプラエネステの神殿に祀られたフォルトゥナは,神託を授ける神として知られていた.

 神殿には当然,本尊とも言うべき女神の彫像もあったのであろうが,考古学博物館で見られたのは,前4世紀のオリジナルからの帝政時代の模刻とされる,「豊穣の角(コルヌコピア)を持ったフォルトゥナの胴体の断片だ.紀元前2世紀に造られたエジプトの女神イシスと同化したフォルトゥナの胴体断片もあった.


写真: 山の斜面に造られたフォルトゥナ神殿の遺跡 右は神殿の大きなテラス


 パレストリーナの前身である古代都市プラエネステは,考古学的に紀元前8世紀か7世紀までは遡れると言うことなので,都市ローマと同じくらいの古さを持っている.伝説上の建国はオデュッセウスと結びつけられ,ウルカヌス(ギリシアではヘパイストス)の息子カエクルス,オデュッセウスとキルケの間に生まれたテレゴノスエルルスがそれぞれ創建者とする伝承もある.

 カエクルスは『アエネイス』第7巻で「プラエネステの都の創建者」(高橋宏幸訳,678行)と言われているが,一方,同じ作品の第8巻で,主人公アエネアスの味方となるパランテウムの老王エウアンデルが若い頃プラエネステで,苦労の末討ち果たした人物としてエルルスの名が挙げられ,ここで彼は「王」(563行)と呼ばれている.

 これらが事実で,トロイア戦争が紀元前1200年頃の出来事であれば,紀元前13世紀の末から12世紀の初頭にプラエネステが存在していたことになり,アエネアスの血を引くとされるロムルスが前753年に建国するローマよりもずっと古い町ということになる.

 伝承をもとにした作者の創作であろうが,作者ウェルギリウスが生きた紀元前1世紀には,それくらい古くからある町と思われていたと言うことであろう.

井戸を囲んで,円形劇場の
観客席のようになった階段も,
古代神殿の名残を今に伝えて
いる.


 他にも,プラエネステの名祖であるかのようなプライネストスを建国者とする伝説もある(英語版ウィキペディア).

 私が持っているラテン語辞書や神話辞典にプライネストスの名前はないが,古典語テクストが見られるウェブサイト「ペルセウス」に1888年出版のウィリアム・スミス『ギリシア・ローマ地理事典』のテクストが掲載され,その項目「プラエネステ」にこの名前がある.典拠は紀元後6世紀の学者ビュザンティオンのステパノスの事典であるようだ.恥ずかしい話だが,私はこの学者の名前を知らなかった.

 『ギリシア・ローマ地理事典』は,2006年以降ドイツで出版されている刊本があるが,ドイツ・アマゾンその他のインターネット書店を見ても,全巻新刊または古書でも入手は難しく,手に入るのは,別の19世紀刊本の複写製本だ.幸いにも,ワセダの図書館には架蔵されているようなので,機会を見て参照したい.

 スミスに拠れば,プライネストスはオデュッセウスとキルケの息子ラティヌスの息子とのことで,プラエネステの名祖となった以上の情報は無い.

 もう少し丁寧にウェブ検索すると,ステパノスのギリシア語本文の19世紀の刊本の複写をpdf化したテクストがウェブ上にあり,少し手間がかかるが(書物内検索では見つからないという結果になる),プライネストスの項目を参照すると,533頁の最後から534頁の冒頭までの僅か3行だが,ギリシア語で「オデュッセウスとキルケの息子ラティノスの子プライネストスによるイタリアの都市」とあり,最後に形容詞形の用例と言うことか「プライネストス市民」(ホ・ポリーテース・プライネスティーノス)と言う句が付加されている.

 いずれにせよ,起源は伝説であり,ローマ人が遺した資料しかない今となっては,歴史の中に登場する古代プラエネステは常にローマとの関係で語られるのみである.

 ケルト人に対する大敗北などの紆余曲折はあったが,結果として近隣都市を圧伏してイタリア統一,海外進出へと向かっていくローマと葛藤を繰り返し,同盟史戦争の結果,他の諸都市同様に前90年のユリウス法(有名なガイウス・ユリウス・カエサルの伯父,ルキウス・ユリウス・カエサルが執政官として成立させた)によってプラエネステの市民はローマ市民権を得て,同盟都市として繁栄した.

 前82年には内戦でマリウスの側についたため,独裁官スッラによって市民虐殺が敢行されたが,その後も,商業交易の拠点として,またフォルトゥナ神殿が広い地域の人々の信仰を集めて栄え,帝政期にはアウグストゥスをはじめとする皇帝,小プリニウスなどの文人,高官が別荘を構えた高級避暑地として知られるようになった.

 キリスト教時代には司教座都市となり,中世はローマの有力な貴族コロンナ家の領地となった.1437年に戦争による大破壊を蒙るが,再建され,16世紀には作曲家パレストリーナが生まれ,17世紀初頭には殺人犯として追われる身となったカラヴァッジョが,故郷のカラヴァッジョ侯爵夫人がコロンナ家の出身であった縁であろうか,一時的にこの地に匿われた.
 
 1623年に教皇ウルバヌス8世となったマッフェーオ・バルベリーニが教皇在位中の1630年に,フィレンツェ出身の家系であるバルベリーニ家の支配下に入り,この時代に古代神殿の構造を利用して,バルベリーニ宮殿が建てられた.

写真:
考古学博物館
天井にはフレスコ画も
見られる



プレネスティーノ考古学博物館
 パレストリーナの古名プラエネステは,イタリア語式の読み方ではプレネステ,その形容詞形はエラスムス式のラテン語ならプラエネスティーヌス(女性形プラエネスティーナ,中性形プラエネスティーヌム),イタリア語式ではプレネスティーノ(女性形プレネスティーナで,イタリア語には中性形はない)になる.それで,この町にある考古学博物館はムゼーオ・アルケオロージコ・プレネスティーノと言う名称になる.

 ラテン語史にとって貴重かも知れない上述の「留め金」は見られなかったが,この博物館の収蔵品の中でも,ひと際目をひく「ナイル川のモザイク」(英語版伊語版ウィキペディア)をじっくり鑑賞することができた.

 前2世紀もしくは前1世紀の作品とされるが,本当にその通りだとすれば,ローマ芸術としては相当に古い方であろう.もちろん,ギリシア人の職人が作った可能性はあるだろう.フォルトゥナ(フォルトゥーナ)神殿の後陣の床モザイクであったとされる.


写真:「ナイル川のモザイク」
右は上の写真の中央下部を
拡大して撮ったもの


 エジプトとエチオピアの風景の中に,ナイル川のもたらす豊穣を様々な場面によって表現した作品で,その大きさと緻密さには目が奪われる.

 しかし,現代なら,このモザイクに相当する作品を作れる職人,芸術家は数多くいるように思えるし,古代でもこのモザイクの作者が懸絶した芸術家であったわけではなく,このレヴェルの職人は数多くいて,同じような作品は他にもあったのではないかと個人的には思う.

 だが,このモザイクは,2000年を超す時の荒波をくぐりぬけ,現在に残った.

 作者はフェイディアスでも,アペレスでも,ジョットでも,レオナルドでも,ミケランジェロでも,ピカソでもないので,また放置される日がきて,ラテン語に「食い尽くす「時」」(エーダックス・テンプス)と言う成句があるが,まさにその時の流れによって,いつの日か失われてしまうかも知れない.

 この博物館には,ローマにおいて尊崇されたユピテル(ギリシアではゼウス),ユノー(ヘラ),ミネルウァ(アテナ)を三位一体のように並べた座像があるはずだが,今回は見られなかった.さして広くもない博物館を隅から隅まで観て,エトルリアの墓標群の一つ一つまでまでじっくり鑑賞したのだから,展示していなかったのだと思う.

 ローマのカピトリウム(カンピドリオ)の丘にも三神を祀る神殿があったので,座像はローマ型の信仰がパレストリーナでも行われていた証拠と言えるだろう.写真で見る限り,造形的にも魅力的で,見られなかったのは残念だ.

写真:
チッポ・セポルクラーレ
(チッポ・フネラーリオ)


 「ナイル川のモザイク」以外で,印象に残った展示品は,おそらく墓標だったであろう,イタリア語でチッポ,ラテン語でキップスと呼ばれる小モニュメント群である.

 博物館の説明板にあった復元図を見ると,石棺が埋められた場所に塚が築かれ,その頂にこのキップスが飾られていたようだが,伊和中辞典でチッポ(cippo)を引くと,「石碑,角柱,標識」とあり,それだけで必ずしも墓標を意味するわけではない.

 墓標と限定する場合は,イタリア語では「チッポ・セポルクラーレ」もしくは「チッポ・フネブレ(もしくはフネラーリオ)」と言うようだ.残念ながらまだ伊語版ウィキペディアにも立項されていない(12016年11月25日参照).

 ペルージャの国立考古学博物館でも複数のチッポ・セポルクラーレを見たし,キップス・ペルシヌス(ペルシア(=ペルージャ)のキップス)と称される石碑もあった.これには48行に及ぶエトルリア語の文章が刻まれており,墓標ではないキップスのようだ.パレストリーナで見た一群のキップスは,水滴型の頭部を持った墓標が殆どで,幾何学模様の浮彫が施されたものはあったが,エトルリア語であれ,ラテン語であれ文字が刻まれたものはなかったように思う.

写真:
石棺の蓋
紀元前4世紀前半


 同じ場所から出土した水滴型のキップスと女性の胸像を一緒に並べ,セニャコリ・フネラーリ(墓標)という説明板がつけられたコーナーがあり,水滴(もしくは松ぼっくり)型の小モニュメントはやはりチッピ・フネラーリ(チッポ・フネラーリオの複数形)と説明されていた.

 これらはコロンベッラと言うパレストリーナ近傍の地区で発掘されたネクロポリスにあったもののようだ.コロンベッラと言う地区名はペルージャにもあるようだが,それとは別の場所であることは,ウェブ上にあるpdfの論文に付された地図で確認できる.

 同じネクロポリスで発見された石棺の蓋が上の写真で,石棺の蓋が前4世紀,キップスは前4世紀から2世紀のものと説明されている.

 事前にきちんと勉強していれば青銅製の容器(ラテン語で「籠,小箱」を意味するキスタ,イタリア語ではチスタと称される円筒形の祭具入れ)や鏡,小像にも見るべきものは多数あったと思うが,残念ながらこちらの勉強が足らず,今回は見たというだけに終わってしまった.写真もガラス越しなので,満足に写ったものは殆ど無い.

 ローマのヴィラ・ジュリア考古学博物館に展示されている有名なチスタ・フィコローニもパレストリーナで発見されたとのことである.このキスタにはラテン語が刻まれている.パレストリーナ考古学博物館の銅鏡にはエトルリア語が刻まれたものもあったようだが,確認を怠った.


作曲家パレストリーナの面影
  考古学博物館の見学を終えて,徒歩でゆっくり丘を下る途中,作曲家パレストリーナの生家に寄った.古代からの都市は神殿に続く丘の斜面にあるが,現代のイタリア共和国の首都であるローマに近いこともあるのだろう,麓には住宅地が広がっていて,そこには中世,ルネサンスの時代の面影は見当たらないように思える.

 パレストリーナの前身のプラエネステは古代ローマでも有名な都市だったので,私の専門分野に関係がないわけではないが,パレストリーナに行きたいと思い続けていた理由の9割は,16世紀の作曲家ジョヴァンニ・ピエルルイージの生地であったことに拠る.

写真:
作曲家パレストリーナの
生家 


 偉大な作曲家ジョヴァンニ=ピエルルイージ・ダ・パレストリーナは,1525年頃,この町で生まれた.これほど偉大な人物で,しかも古代や,中世ではなく既に16世紀なのに「頃」がつくのは,はっきりとした出生記録が残っていないからのようだ.

 パレストリーナの生家は閉まっていて,見学はできなかったので,外観を写真に収めて,大聖堂の方へ向かった.

 都市パレストリーナの大聖堂は,アウレリアヌス帝治下のローマ帝国領プラエネステで274年に殉教したとされる聖アガピトゥス(サンタガピート)の名を冠している.今回は拝観していないが,堂内に特に優れた芸術作品があるわけではないようだ.

 大聖堂の横にあるレジーナ・マルゲリータ広場には大作曲家の立像があり,台座には「音楽の君主」(プリンチーペ・デッラ・ムージカ)の文字が,その名と共に彫り込まれている.

 書架にある,

 リーノ・ビヤンキ,松本康子(訳)『パレストリーナ その生涯』河合楽器製作所・出版事業部,1999(以下,ビヤンキ)

に拠れば,この像はアルナルド・ゾッキ(英語版伊語版ウィキペディア)の作で,1921年にパレストリーナ追悼記念祝典が行われた際に除幕披露されたとのことだ(p.434).

 ゾッキもしくはツォッキと言う姓のイタリア人は少なくないと思うが,聞き覚えのある名前に思えたので調べてみると,フィレンツェのパラティーナ美術館にある彫刻「鑿を振るう幼児ミケランジェロ」の作者がエミーリオ・ゾッキだった.アルナルドに彫刻を教えたのが父エミーリオとのことだ.父子共にフィレンツェの生まれだ.

 アルナルドの作品は他にも,ミケランジェロの生地カプレーゼに大芸術家の記念像があるとのことだ(英語版ウィキペディア).国際的に活躍した彫刻家でイタリア国外にも彼の作品があるようだが,見た可能性があるかも知れないボローニャのガリバルディ像ですら記憶の片隅にも残っていないので,深くは立ち入らない.

 都市パレストリーナの中央広場にある作曲家像は,20世紀に名を遺したプロの彫刻家の作品にふさわしい立派なものだとは思うが,ジョヴァンニ・ピエルルイージの像だと知らなければ,注目することもなく通り過ぎたかも知れない.


エステ荘(ヴィッラ・デステ)
 「エステ荘」(ヴィッラ・デステ)と聞いて,フランツ・リストのピアノ曲「エステ荘の噴水」を想い起す音楽愛好家は少なくないだろう.書架に,リストに関連する本があるかどうか探してみたら,

 諸井三郎『リスト』(大作曲家・人と作品8)音楽之友社,1965

があった.著者は昔の作曲家である.やはり作曲家であった息子の諸井誠のエッセイがおもしろく,ファンだったが,息子の方も2013年に82歳で亡くなった(日本語版ウィキペディア「諸井誠」2016年11月19日参照).したがって,この本も随分古い本ということになる.

 この本に「エステ荘と言うのはヴァイマルを去ったリストが僧籍に身をおき,演奏活動を断って身を落ち着けたところである」とあり,続けて「第四曲<エステ荘の噴水>は,ラヴェルの≪水のたわむれ≫やドビュッシーの≪水の反映≫に影響を与えた曲といわれている」と述べている(p.73).

 リストはフランス語でこの曲名をつけており,リストの「噴水」とラヴェルの「水のたわむれ」は日本語訳は異なるが,実はジュー・ドーという同語(ただしリストの方は「水」が複数形)である.

 イタリア語で「噴水」は「泉」と同語のフォンターナ(複数形はフォンターネ)で,フランス語にもフォンテーヌ(複数形は末尾のsがつくが発音は単数形と同じ)という単語があるが,和伊辞典を引くとジェット・ダックァと言う言い方もあり,「噴き出る水」と注記されている.

 『ロワイヤル仏和辞典』には,イタリア語のジェット・ダックァと同語源のジェ・ドーと言う成句もあり,「水の噴出,噴水」(jetの3)と訳されており,同じ辞書でjeu(複数形はjeux)を引くと7番目に「[精神・想像力・自然などの]働き,戯れ,駆け引き」とあり,その例の中に小さくジュー・ドーがあって,「水の戯れ;噴水装置」とある.

 いずれにしても,エステ荘と言えば,噴水(装置)であるから,リストが曲名をレ・ジュー・ドー・ア・ラ・ヴィッラ・デステとしたとき,「噴水」を意識していたことは間違いないだろう.


写真:エステ荘の庭園の噴水


 エステ荘の館の中庭に,作曲家の顔の浮彫が施されたプレート(1978年制作)があり,そこには「ハンガリーの偉大な作曲家でピアニストのフェレンツ・リストは,ここで数年間(per anni)暮らし,仕事をした」とイタリア語で書かれている.

 プレートの最下部には「ヨーロッパ・リスト・センター(英語) イタリア支部(伊語)」とあり,その上段には「リスト・フェレンツ」とハンガリー語式の姓名と,ブダベストという地名の間にtársaságと言う語が大文字で書かれていて,ウェブ上の辞書によれ英語でcompanyと言う意味のハンガリー語(マジャール語)だと説明されている.「会社」と言うよりは,この場合「ブダペスト・フランツ・リスト協会」と言うような意味だろうか.

 リストがハンガリーで生まれたのは間違いないが,血統的にはドイツ民族,母語も生活言語もドイツ語,ドイツ語話者でない人たちとのコミュニケーションはフランス語で行った.民族としてハンガリー人とは言えないかもしれないが,ハンガリー語は学びもし,姓は同音だがハンガリー語式の綴りにし,ドイツ語式のフランツではなく,ハンガリー語式のフェレンツと言う個人名を署名に用いたこともあるので,ハンガリー出身であることを強く意識していたのだろう.

 1歳年長のショパンもポーランドで生まれ,母はポーランド人だが父はフランス人で,本人が活躍したのはフランスだが,ポーランド人の民族主義的プライドに大きく貢献した.ショパンほどではないにしても,リストもバルトークとコダーイが出てくる以前のハンガリー人の民族主義的誇りに資すること大であったと思われる.



 リストは1847年から続いていたカロリーネ・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人との不倫の恋愛を,ローマ教皇ピウス9世の裁可を得て,正式な結婚に結実させようとし,その直前までこぎつけたが,カロリーネの婚家の抗議により裁可は撤回された.1861年のことである.

 カロリーネは落胆のあまり,結婚を断念し,神学を研究する宗教的瞑想の生活に専心するようになり,リストとの男女関係は解消されることになった.作曲家も下級聖職者の資格を得た.

 ここから死に至るまでの事績に関しては,本文でも付録の年表でも主なものはよくわかるのだが,いつからいつまで彼がエステ荘に滞在し,それを可能にした背景がいかなるもので,どのような形態の滞在だったのかは,諸井の著書ではわからない.

 カロリーネとの愛人関係が破綻した1861年は,2月にトリノにいたサルデーニャ王がフィレンツェを首都とするイタリア王国を建国した年であり,ローマがその支配下に入るのは1870年で,なおローマは教皇領の首都であったとは言え,イタリアは激動の時代の渦中にあった.

 この間の教皇がピウス9世(在位1846-1878)であった.史実として確認できる最長期間在位した教皇であり,長い間維持されてきた教皇領と言うイタリア中部の領土を失った教皇だ.リストとカロリーネの結婚の前提となる,カロリーネの前夫との結婚無効を一旦は承認しながら,それを取り消したのもこの人物である.

 カトリックの信徒であり,教皇を始めヴァティカンに相当な支持者を持つほど有名人になっていたとは言え,エステ荘を常住の場所にできるということは一音楽家としては稀有のことに思われる.

 リストが作曲した「巡礼の年」(諸井は「巡礼の年報」)と題されたピアノ組曲は,「第1年:スイス」,「第2年:イタリア」,「第2年補遺:ヴェネツィアとナポリ」」,「第3年」があり,「エステ荘の噴水」は「第3年」の7曲目に組み入れられている.

 「第1年」は1848年から54年の間に作曲され,公刊が55年,「第2年」は1837年から49年の間の作曲で,公刊が58年,「第2年補遺」は1859年の作曲で,公刊が61年となっている.以上は英語版ウィキペディアの情報だが,諸井に付された「作品表」は公刊年に関してはほぼ同じだが,作曲年は「第1年」,「第2年」に関してはいずれも30年代後半になっている.

 それに対して「第3年」は,作曲が1867年から77年,公刊が1883年で,これは英語版ウィキペディアも諸井も一致している.「第3年」はカロリーネとの関係が破綻した後のリストの晩年の曲と言って良いだろう.



 エステ荘を建設したのは,フェッラーラの君主エステ家に生まれたイッポリート・デステ(2世)で,父親はアルフォンソ・デステ,母親は教皇アレクサンデル6世の娘で,一代の梟雄チェーザレ・ボルジアの妹ルクレツィアである.

 イッポリートは枢機卿となったが,教皇庁内の権力闘争に敗れ,1550年からティヴォリに隠棲した.ナポリ出身の当時有名な建築家であったピッロ・リゴーリオを起用して,別荘の建築に取り掛かったのは1565年頃のことで,72年にイッポリートが逝去した時には未完成であった.

 エステ荘は旧ベネディクト会修道院の建物を利用しており,内部には,フォルリ出身のリヴィオ・アグレスティの神話フレスコ壁画,邸内の礼拝堂にはフェデリコ・ズッカリーニ工房による「聖母の物語」などの宗教フレスコ画が残っており.それなりに見るべきものもある.

 しかし,この建物の最大の魅力は,窓やテラスから眺められる噴水庭園であることは,万人の一致する感想であろう.

 上の写真のように,様々に意匠を凝らした噴水と,それを囲む植栽が美しい広大な庭園も,ずっと放置されていたが,20世紀になって,修復,再整備したとのことだが,ルネサンス文化を代表する,別荘,壁画,庭園を堪能できる空間であることには誰も異論はないであろう.

 エステ荘のあるティヴォリは,パレストリーナの北北西,ローマの北東28キロにある都市で,訪問は初めてだったが,以前,この「フィレンツェだより」でティヴォリについて触れたことがあった.

 2007年のフィレンツェ滞在中に,大家さんの故郷プーリア州の小村に招かれ,そこから古代ギリシア人植民都市ターラントに案内してもらった時,海の近くの遺跡の傍らの石碑にローマ時代の大詩人ホラティウスの詩の一節が彫られていたのを見つけ,訪問記にその試訳を載せた.

 愛する人と暮らす「終の棲処」の希望を語って,第2候補として挙げられていたのがターラント(タレントゥム),第1候補がティヴォリ(ティブル)だった.

 詩はターラントの魅力を熱く語って終わるが,もしティヴォリに住むことが許されないのなら,という前提で,ティヴォリの優先順位が高かったことは動かない.それほどティヴォリは,古代ローマの帝政初期も,その後も,上流階級が別荘を持ちたい場所であった.

 哲学を愛好し,ギリシアに憧れた皇帝も,この風光明媚で気候温暖な地に広大で壮麗な別荘を建て,帝国領内を巡行した際,もしくはそれ以前の学習,研究の過程で好みと思った異郷の雰囲気を移植したいと言う欲望に抗しきれなかった.

 このハドリアヌスの別荘も,少し距離はあるがエステ荘と同じくティヴォリにある.


ハドリアヌスの別荘(ヴィッラ・アドリアーナ)
 エステ荘のブックショップで購入した著者情報の無い英語版の案内書,

 Villa d' Este / Hadrian's Villa / Villa Gregoriana, Tivoli, Roma: Lozzi Roma, n.d.

には,エステ荘の他にハドリアヌス帝の別荘(ヴィッラ・アドリアーナ)(英語版伊語版ウィキペディア)についても写真と解説があり,有益だ.

 さらに,ハドリアヌス帝の別荘に関しては,

 磯崎 新/篠山 紀信/青柳 正規『逸楽と憂愁のローマ ヴィッラ・アドリアーナ』六曜社,1981

が書架にあった.建築家,写真家,ローマ考古学と美術の専門家という最強の組み合わせで書かれた著作と言えよう.磯崎の論考,篠山の写真はもちろん全て素晴らしいが,この別荘に関して殆ど知識が無い現時点で,最も参考になるのは青柳の解説(以下,青柳)である.

 ハドリアヌスの名を冠しているくらいだから,この広大な別荘を作らせたのは五賢帝の三代目であるハドリアヌス帝である.建設開始が紀元後118年,完成が133年とされる.ハドリアヌスの在位が117年から138年なので,即位2年目から造営が始まり,完成してからその死まで約5年間だったことがわかる.

写真:
300ヘクタールあったと
される広大なヴィッラの
あちらこちらに建物の残骸が
残っている


 上の写真は,「宮殿」と称される建造物の一部で,写真左端には直角に交差するドーリス式柱頭を持つ方形の列柱がアーキトレーヴを頂いた形で残っている.この「別荘」には宮殿の他に,劇場,ギリシア語図書館,ラテン語図書館,兵舎,小神殿その他様々な用途の建物がある.

 ハドリアヌスの紹介を伝える古代作品として,『ローマ皇帝群像』(ヒストリア・アウグスタ)と称される一群の伝記の中に,アエリウス・スパルティアヌス作『ハドリアヌス伝』があり,その中に,

 ティブルに驚くべき別荘を建てたが,そこでは諸属州や有名な場所の名が各部分につけてあり,例えば,リュケインオン,アカデメイア,プリュタネイオン,カノポス,ポイキレ,そしてテンペなどと呼んでいたのである.そして何ものも省かず,地下の世界さえ造った.(アエリウス・スパルティアヌス他,南川高志(訳)『ローマ皇帝群像1』京都大学学術出版会,2004,pp.80-82)

とある.アリストテレスとプラトンの学堂リュケイオンとアカデメイア,アテネの迎賓館であろうプリュタネイオン,エジプトの町カノポス,アテネに遭った彩色柱廊ストア・ポイキレ,そして北ギリシアのテッサリア地方のテンペ渓谷を再現したということであろう.

 どの部分がリュケイオンやアカデメイアにあたるかは分からないが,少なくともカノポス(これはギリシア語形でラテン語形はカノプス),ポイキレ,テンペの名称を冠した場所が現存している.

 カノプスと称される場所には長方形の池があり,その周囲を列柱(柱頭はコリント式)が取り囲んでいたようで,数本の柱が残り,数体のカリアティド(ギリシア語では単数がカリュアティス,複数がカリュアティデス),軍神マルスなどの彫像が飾られている.

 彫像はコピーで本物は博物館にあるが,この日,博物館は閉まっており,外からガラス越しに覗いただけだが,カリアティドは辛うじて見ることができた.

 カノプスの長方形の北西側短辺(こちらは外側に湾曲しているの厳密には長方形ではない)には楣石とアーチを頂く数本の柱,南東側短辺にはセラピス神殿の残骸(写真)がある.神殿の前にはイオニア式柱頭を持つ4本の柱とアーキトレーヴの痕跡が残っている.池はエジプトで寵愛していた美少年アンティノオスが溺死したナイル川をイメージしているとされる(上掲書の磯崎の写真解説,p.113).

 当時,ハドリアヌスの過度なギリシア愛好は揶揄されていたと言われるが,エジプトにも思い入れがあったのだろうか.

写真:
大浴場

大理石の化粧板や柱,
彫刻は持ち去られ,
骨組みだけの廃墟となった


 浴場も大浴場,小浴場の跡が残っているが,上の写真は大浴場だった場所とされる.アーチ工法を用いた建物と2本の柱が残っていて,1本の柱にはイオニア式の柱頭がある.青柳に拠れば,フリギダリウム(p.174)であるとのことなので,ここに冷水プールがあって,カルダリウム(高温浴室),テピダリウム(微温浴室)で火照った体を冷やす場所だったのだろう.

 TVやウェブページで見られる映像や写真の見せ方がうまいのだと思うが,ハドリアヌス帝別荘は,この世の楽園のような場所を想像していた.しかし,実際には広大な廃墟で,私の乏しい想像力では,最盛期のローマ皇帝の壮麗は建築群がここにあったことに中々思いが至らない.

 現地ガイドの方によれば,常にどこかを修理していて,その時々で封鎖されている場所が違うとのことだ.上掲書の篠山の写真や,ウェブ上の情報と,自分が撮ってきた写真を見比べると,幾つかの興味深い建築遺跡を見逃したようだが,封鎖されていたのかもしれない.


写真:わずかに残る床モザイク


 主だった装飾はほとんど剥ぎ取られているが,断片的に大理石の柱の一部や床のモザイクなどが残っている.白黒の石でデザインされた大規模なモザイクは写真でよく紹介されているが,上の写真のような素朴な断片には,人の暮らしの跡が窺えるようで心魅かれるものがある.

 ヴィッラ・アドリアーナにまた行きたいかと言われると,そこまで行く手間と,見学にかかる時間を考えると,もう行くことはないようにも思う.しかし,決して魅力に欠けているわけではなく,勉強が進んだり,あるいは自分が経験を積んで,このような遺跡をまた見たいと言う気持ちになるかも知れない.

写真:
ギリシア劇場の跡


 出口に向かって歩いて,最後に見たのが,ギリシア劇場の跡だが,そう言われなければ通り過ぎてしまいそうだった.ここで,ギリシア愛好家の皇帝のためにギリシア劇が演じられたかどうかは今のところ,情報がないが,ハドリアヌスの夢の跡と思わずにはいられない.






エジプトとギリシアの情景を反映する
カノプスの池のほとりで