§2016 ラツィオ・ウンブリアの旅 - その6 オルヴィエート
システィーナ礼拝堂で写真を撮ることができた2日後,今度はオルヴィエート(英語版/伊語版ウィキペディア)で,サン・ブリツィオ礼拝堂が撮影できるというサプライズが待っていた.3度目のオルヴィエートは,訪問した全ての場所で写真撮影ができた. |
1回目(2007年)の時は,大聖堂(英語版/伊語版ウィキペディア)はサン・ブリツィオ礼拝堂(英語版ウィキペディアは「大聖堂」のページに項目)を除いて撮影可だった.撮影禁止のサン・ブリツィオ礼拝堂は一度に入場できる人数にも制限があり,係員が目を光らせていた.「聖餐布の奇跡の礼拝堂」も,神聖な祈りの場所として遠慮してほしい雰囲気だった.
2回目(2014年)の時は大聖堂の堂内全体が撮影不可だった.初めて訪れた大聖堂博物館も撮影禁止だった.
今回は大聖堂も博物館も撮影できたので,私がオルヴィエートで最も見たい,ルーカ・シニョレッリ,ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ,リッポ・メンミ,シモーネ・マルティーニ,スピネッロ・アレティーノの全ての作品を写真に収めることできた.
ルーカのフレスコ画には改めて感銘を受けたが,これについては後日を期すことにする.というのも,オルヴィエート報告後も先はまだ長いのに,8月には1週間フィレンツェに研究出張(研究費を獲得したので,その課題を果たすべく)があるし,それまでに2700人分の成績報告とオープンキャンパスの仕事,その後には恒例の夏の旅行,ゼミ合宿,帰省と予定が続く.少し先を急いで,この旅の報告を完了したい.
ルーカに関しては,
アントーニオ・パオルッチョ,芳野明(訳)『ルカ・シニョレッリ』東京書籍,1995(以下,パオルッチ)
が書架にあり,サン・ブリツィオ礼拝堂のフレスコ画に関しては,
Jonathan B. Riess, Luca Signorelli: The San Brizio Chapel, Orvieto, New
York: George Braziller, 1995(以下,リース)
があって,どちらも写真豊富で参考になるが,残念ながら,以下に述べるクラウディアヌスの肖像とその周辺のメダイオンの中のグリザーユの絵に関しては言及が無い.後者にはダンテ,ウェルギリウスだけではなく,エンペドクレスやスタティウスの肖像にも言及があると言うのに,残念だ.
サン・ブリツィオ礼拝堂の肖像
ルーカ・シニョレッリの一世一代の大作フレスコ画(1499-1504)が描かれたサン・ブリツィオ礼拝堂で,今回最も写真に収めたかったのが,ローマ帝国末期の詩人クラウディウス・クラウディアヌスの肖像だ.
6つの大作の下の装飾的なフレスコ画の中に描かれた肖像の一つで,決して目立つ絵ではないが,この詩人の全作品を個人全訳させてくれると京大学術出版会の編集委員会が約束してくれたので,自分にとっては,意味のある絵だ.
詩人は紀元後5世紀初頭には亡くなっており,かつて彫像の下にあったとされる顕彰碑文の現物はナポリ考古学博物館に遺っているが,古代に描かれた本人の図像は全くないので,死後1500年近く経って描かれたこの絵が,クラウディアヌスの本当の姿を描いているはずはない.
それでもエンペドクレス,キケロ(またはサルスティウス),ウェルギリウス(またはオウィディウス),ルカヌス(またはティブルス),スタティウス,ダンテらと並んで,クラウディアヌスの絵をルネサンスの巨匠(もしくはその工房)が描いたわけだから,瞠目せずにはいられない.
前回の訪問の時にイタリア人の地元ガイドがわざわざこの絵に言及した際,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにも紹介されている絵なので,多分,私は以前から知っていたのだと思うが,少なくともその時は忘れていたので,感動の余り,自分がこの詩人の作品を日本語に訳す(当時はまだ全作品ではなく,代表作のみの予定だった)のだと言ったほどだ.
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写真:
クラウディウス・クラウディアヌス
の肖像と彼の作品に関係する
4つの場面 |
若くして死んだ詩人だということはルーカも知っていたのであろう,まずまず若い,知性と教養を感じさせる人物に描かれている.現在は研究者しか作品を読まない「忘れられた詩人」と言っても良いが,中世には高く評価された作家だったので,この絵が描かれた盛期ルネサンスにはまだその名残があったのだろう.
光が良かったので,礼拝堂の他のフレスコ画は私にしては珍しく良く撮れているのに,興奮していたせいか,クラウディアヌスの写真のみは,ピントのはずれた上の写真しかなかった.また,クラウディアヌスに会いにオルヴィエートに行けと言う天の声であろうと思うことにする.
上記の詩人,哲学者,歴史家たちはダンテを例外としてキリスト教以前の人々であり,キリスト教の礼拝堂にこれらの異教の作家たちが描かれている理由は,冥界を描写したことにあると思われる.
ホメロスは『オデュッセイア』で英雄の冥界行を,エンペドクレスは輪廻転生を,ウェルギリウスは『アエネイス』でやはり主人公の冥界行を,オウィディウスは『変身物語』で冥界の描写をしている.クラウディアヌスはキリスト教がローマ帝国で国教化された後の詩人だが,異教主題の物語詩『プロセルピナの誘拐』でやはり冥界描写をしている.
なかなか一つ一つの図像を読み取るのは難しいが,撮ってきた写真とウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの拡大できる写真をじっくり見ると,詩人の(向かって)右側のメダイオンには,二頭の馬が牽く戦車の後ろに乗る男性が若い女性を略取しようとしており,明らかに「プロセルピナの誘拐」であることがわかる.
伊語版ウィキペディア(「サン・ブリツィオ礼拝堂)に簡潔な図像解説があり,それに拠れば,上のメダイオンは「エトナ火山の斜面でウェヌス,ミネルウァ(武装している),ディアナ(弓を持っている)とともにいるプロセルピナ」,下は「エトナ火山の岩場で巨人エンケラドスの背中の上で戦車を駆るプルト」,左は「攫われた娘を探すケレス(蛇の牽く車に乗っている)」の場面で,これは納得が行く.
ただ,「プロセルピナの誘拐」はオウィディウスの『変身物語』にも語られており,この4つの場面もそこからも再現できるので,このメダイオンのみで考えると,この詩人はオウィディウスでも良いことになる.
伊語版ウィキペディアは別の肖像をオウィディウスとしており,この人物にも4つのグリザーユのメダイオンが付されている.上のメダイオンは「黄金の枝を掲げるシビュラがアエネアスに冥界の入り口アウェルヌス湖と父アンキセスの亡霊を示す場面」,下は「冥界で妻エウリュディケを取り戻すべくプルトたちに願うオルフェウス」,左は「冥界に止められるエウリュディケと遠ざけられるオルフェウス」,右は「冥界の番犬ケルベロスを捕らえるヘラクレス」とされる.これらは全て『変身物語』に語られており,であれば,この詩人はオウィディウスで良いことになる.
オウィディウスが別にいるのであれば,写真の人物はクラウディアヌスということになろうが,そうとも言い切れない.というのは,上記の4つ場面だったら,中央の詩人はウェルギリウスでも良いはずである.確かに作品は一つではなく,『アエネイス』と『農耕詩』に跨るし,ヘラクレスとケルベロスは同時には言及されておらず,別々に登場するが.実際,リースはこの人物をウェルギリウスとしている.
ダンテの肖像の周辺には『神曲』の「煉獄(浄罪界)」篇を主題とするグリザーユの絵があって,ウェルギリウスもいれば,同時にスタティウスも登場しているし,別の詩人の肖像にはやはり「煉獄」篇からメダイオンが付されていることを考えると,一連の肖像の中にウェルギリウスがいても不思議がない.それどころか,むしろいるべきであろう.しかし,それにあたる肖像は見られない.
伊語版ウィキペディアの説明では,『アエネイス』の場面の描かれている場所にウェルギリウスの肖像があったが,失われたとされている.伊語版ウィキペディアの説明は,概ねウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに一致している.
今更だが,書架にある,
Laurence Kanter, Luca Sigonelli: The Complete Painting s, London: Thames
& Hudson, 2002(以下,カンター)
を参照すると,残念なことに,私がクラウディアヌスと信じた肖像はオウィディウス,伊語版ウィキペディアとウェブ・ギャラリー・オヴ・アートがオウィディウスとした肖像はリース同様ウェルギリウスとしている.尤も,頁サイズのカラー写真のキャプションではウェルギリウスに「?」を付している.
総目録の部分では,伊語版ウィキペディアとウェブ・ギャラリー・オヴ・アートがティブッルスとしている人物を,リース同様ルカヌスしており,伊語版ウィキペディアとウェブ・ギャラリー・オヴ・アートでサルスティウスとしている人物は,リースはキケロとして,カンターもキケロを第一とするが,またはスタティウス,サルスティウス,ホメロスの可能性も示唆している.
伊語版ウィキペディアとウェブ・ギャラリー・オヴ・アートがスタティウスとしている人物に関してはリースも同様の見解を示しているが,カンターは基本的にスタティウスとしながら,ウェルギリウスの可能性も示唆している.
パウルッチョは「サン・ブリツィオ礼拝堂の壁面下部に散在する哲学者と詩人の胸像の中で唯一確実にそのモデル名がわかるのは<ダンテ・アリギエーリ>を表わした像である」(p.63)としており,その他の人物の同定は推測ということになる.
という訳で,私がクラウディウスと思い込んで撮った写真は,オウィディウスの可能性もあるが,当面はクラウディアヌスであると信じたい.
あまり説得力がないかもしれないが,システィーナ礼拝堂も3回,サン・ブリツィオ礼拝堂も3回拝観した感想として,ルーカは構想力やスケールではミケランジェロには劣るかも知れないが,完成度と統一性に関しては勝るとも劣らないと言っておこう.サン・ブリツィオは再訪,三訪に値する.
シエナの画家 リッポ・メンミ(英語版/伊語版ウィキペディア)の「慈悲の聖母」の祭壇画がある「聖餐布の奇跡の礼拝堂」は,1回目(2007年)の時は特に撮影禁止と言うことではなかったが,遠方から来たと思われる信者の団体が入堂していたので,遠慮して,離れたところからズームで斜めの角度の写真を撮るにとどまった.
2回目はそもそも聖堂内は全て撮影禁止で,そそくさとした拝観で,じっくり見ることができなかった.
今回は礼拝堂に集っている人たちも明らかにツーリストで,撮影も禁止されておらず,適度な混み具合で,誰憚ること無くと言う感じではないが,ともかく正面に立って,じっくりと鑑賞し,写真に収めることもできた.
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写真:
リッポ・メンミ
「慈悲の聖母」(部分)
板絵 |
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冷静になって見ると,シモーネ・マルティーニに比べると,表情に弛緩が見られるように思え,義兄に技量では数段劣ると思われることには異存は無い.
実際に,シエナのプッブリコ宮殿のシモーネの「マエスタ」(荘厳の聖母子と聖人たち)と,サン・ジミニャーのコムナーレ宮殿のリッポの「マエスタ」の両方を見た感想を言うと,後者が前者の影響を受けているであろうと察せられるだけに一層,後者の作者の画力が劣っていると感じる.
それでも,彼の名で伝わる作品が相当数あるのは,自分でも仕事を受注することを許されたシモーネ工房の筆頭助手と言うような位置づけだったのだろうか.
シモーネがリッポの義兄弟とされるのは,リッポがシモーネの姉妹と結婚したからではなく,シモーネの師匠とされることもあるメンモ・ディ・フィリップッチョ(英語版/伊語版ウィキペディア)の娘とシモーネが結婚し,リッポはメンモの息子だからである.
シモーネの父マルティーノも画家で,彼の修業は父親のもとで開始され,シエナの巨匠ドゥッチョの工房にいて,深い影響を受けたらしいことは,初期の「聖母子」の作風からも窺える.メンモの娘ジョヴァンナと結婚した頃には,既に40歳くらいであったとされることを考えると,メンモの弟子となって,その工房で修業したということは多分無かっただろう.
とすると,メンモの弟子とするのはかなり無理がある.ただ,画家としての成長の過程で,あるいはメンモの工房で協力者の役割を果たすと言うことはあったかも知れない.
メンモの絵は,ウィキメディア・コモンズで思ったよりたくさんの写真を見ることができ,水準も古拙と言う段階ではなく,プロの画匠の絵である.ピサのサン・マッテーオ絵画館その他で見ている可能性があるが,残念ながら覚えていない.ただ,サン・ジミニャーノのコムナーレ宮殿内の執政長官の部屋(カーメラ・デル・ポデスタ)で見られる,「結婚生活の情景」の絵は,印象に残っており,これもメンモの作品とのことだ.
伊語版ウィキペディアの情報で見る限り,メンモはドゥッチョより5歳くらい年長(1250年くらいの生まれ)とされているので,ドゥッチョの弟子と言うわけではないが,巨匠ドゥッチョの影響は受けたかも知れない.ただ,現存作品を見る限り,ドッチョよりも型にはまった感じで,同じような作品を量産できる腕の良い職人のように思える.
グイド・ダ・シエナとの関係は興味深いし,ドッチョよりもグイド寄りの画風に見えるのは,俄かに仕入れた知識による先入観かも知れない.ただ,グイドはひたすら古風な感じがするのに,メンモの絵は,ルネサンスが近いと言うのは言い過ぎにしても,新しい息吹を感じさせる.
直接の影響関係はわからないが,シモーネ・マルティーニと言う巨匠が登場する素地を作った画家であるのは,間違いないように思える.
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写真:
シモーネ・マルティーニ
「聖母子」
板にテンペラ(部分)
大聖堂博物館 |
今回は大聖堂博物館の見学が旅程に入っていたので,前回,駆け足で見て,あやふやな報告しかできなかったシモーネ・マルティーニの祭壇画もしっかりと観た.
最初のオルヴィエート訪問の時は,ピサのサン・マッテーオ絵画館でシモーネの完璧な多翼祭壇画を観た後でもあり,この祭壇画を観ることを楽しみにしていたのに,大聖堂博物館が修復中で,当時サン・ブリツィオ礼拝堂と大聖堂博物館はコンバインド・チケットだったが,サン・ブリツィオのみの割引チケットでルーカのフレスコ画だけを観て帰った.
2度目のオルヴィエート訪問はツァーで,旅程には大聖堂博物館は入っていなかったが,大聖堂拝観の後の,ほんの少しだけの自由時間に見学を敢行し,シモーネ・マルティーニ,スピネッロ・アレティーノ,ルーカ・シニョレッリの祭壇画を観た.しかし,写真撮影は禁止されていたし,駆け足だったので,しっかり記憶にとどめることはできなかった.
今回は,入館に手間取って多少時間が短くなったとは言え,上記3人の作品,特にその中では傑出していると思われるシモーネの祭壇画を,3度目の訪問にして初めてじっくり観て,写真に収めることもできた.
一応,今回も,
ピエルルイージ・レオーネ・デ・カストリス,野村幸弘(訳)『シモーネ・マルティーニ』京都書院,1994(以下,デ・カストリス)
チェチリア・ヤンネッラ,石原宏(訳)『シモーネ・マルティーニ』東京書籍,1994(以下,ヤンネッラ)
を通勤電車で読んだが,多少とも注意深く読んだのは画家に関する簡単な説明と当該作品に関して言及した箇所にとどまる.
上の写真の「聖母子」に関して,デ・カストリスは,リッポ・メンミ,もしくは他の助手の作とする説もあるが,現在では概ね「「工房の協力があるにせよ,シモーネ自身が構想し,少なくとも部分的に彼が筆を執った作品とみなす傾向が強い」(p.78)としている.
ゴシック期の多翼祭壇画
2010年のスペイン旅行で,セゴビアの大聖堂でイタリア出身のフランドルの画家アンブロシオ・ベンソン(アンブロージョ・ベンツォーネ)の多翼祭壇画を見ることができ,この画家について調べた時に,マドリッドのラザラ・ガルディアノ博物館にベンソンの「聖母子」があり,キリストがシャツ(カミーサ)を着ているので,ビルヘン・コン・エル・ニーニョ・デ・ラ・カミーサと言う画題であることを知ったが,その時点ではシャツを着たキリストはめずらしいと思っていた.
しかし,上の聖母子の嬰児キリストは薄い「シャツ」を着ている.大聖堂の壁面に描かれたジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの「聖母子」でもキリストは随分派手な「シャツ」を着ている.
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写真:
ジェンティーレ・ダ・
ファブリアーノ
「聖母子」(部分)
フレスコ画 |
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ジェンティーレのこの「聖母子」を観るのも3度目だが,地味にも見えるが,じっくり観て,剥落している色を想像すると,やはり国際ゴシックの巨匠の華やかな絵に思えてくる.何度でもじっくり観たい絵だ.
今ウェブ検索する限り,イタリア語ではマドンナ・コル・バンビーノ・デッラ・カミーチャと言うような画題は見当たらない.ウェブ検索で,「籠の聖母子」(マドンナ・デッラ・チェスタ)と言う主題がヒットし,そこにコレッジョの絵の写真が掲載されており(2016年7月2日参照),その嬰児キリストも下半身は裸だが,シャツをまとっている.
下の写真は,大聖堂博物館の,もう一つのシモーネの祭壇画だ.この「聖母子」の幼児キリストも赤い外衣の下に薄い生地の「シャツ」をまとっている.シモーネの聖母子は,シエナの「荘厳の聖母」(マエスタ)をはじめとして,着衣の嬰児キリストが多いようだ.
キリストの「シャツ」には今まで関心を払ったことがなかったが,今後は注意してみたい.

写真:通称「オルヴィエートの多翼祭壇画」の残存パネル |
この祭壇画のパネルに描かれているのは(向かって)左からマグダラのマリア,ドメニコ,ペテロ,聖母子,パウロであるのは,素人目にもアトリビュートから明らかである.本来は7枚で構成されていたであろう多翼祭壇画のパネルの内,オルヴィエートに残っている5枚を,原型を模索しながら並べて展示している.
聖人たちは聖母子の方を向いているのであろうから,一人だけ右(本人から見て)を見ているパウロのパネルがこのサイドに置かれていることには説得力がある.当然パウロと同じように右を見ている聖人のパネルが他に2枚あって,聖母子は中央パネルであったはずだ.
丈の短さが破損によるものでなければ,同じ丈のペテロとパウロは対応していて,最重要の聖人として聖母子の近傍におかれていると推測されるし,ドメニコ会の教会にあったとすれば,ドメニコがマグダラのマリアよりも聖母子に近くに置かれることも一応納得が行く.
個人的にはマグダラのマリアとドメニコは反対でも良いと思うが,特に根拠があるわけではない.単に,マグダラのマリアはイエスの同時代人であり,ドメニコより聖母子に近い位置だとしても,ドメニコ会修道士は納得しただろうと思うだけだ.
参考書やウェブ・ページに掲載された写真を見ると,並べ方は様々なようである.ウェブ・ギャラリー・オヴ・アート(左からペテロ,マグダラのマリア,聖母子,パウロ,ドメニコ),デ・カストリス(ドメニコ,ペテロ,マグダラのマリア,聖母子,空欄,パウロ,空欄),ヤンネッラ(ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートと同じ)の内,現在とは異なった,同じ並べ方のものがあるということは,あるいは博物館の展示がそのようだったことがあるのかも知れない.
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写真:
シモーネ・マルティーニ
「聖母子」のチマーザ部分 |
最初に紹介した聖母子の上部にはチマーザ(尖頭部)と呼ばれる三角形の部分があり,形からすると,これも多翼祭壇画の中央パネルであったと推測される.
このチマーザは独特で,中央が大きい山形の3連のチマーザ(複数形はチマーゼ)で,中央には「祝福するキリスト」が描かれており,その両脇のチマーザにそれぞれ「熾天使」と「智天使」が1名ずつ描かれている.
チマーザの下の四角いパネルで,その中の尖頭アーチ型の枠に聖母子が描かれており,尖頭アーチの両側にメダイオンがあり,そこにはそれぞれ座天使が描かれている.また,尖頭アーチ枠内上部には三つ葉型装飾が施されている.
この聖母子を中心とする多翼祭壇画の散逸したパネルの一つが,オタワのカナダ・ナショナル・ギャラリーの「アレクサンドリアの聖カタリナ」(「棘付き車輪」が無いので,単に「殉教女性聖人」とする場合もある)であった可能性はデ・カストリスもヤンネッラも指摘している.後者には写真がないが,前者はカラー写真掲載で,オタワの作品を詳述しており,写真で見る限り美しく繊細な作品だと思う.
オタワの作品は尖頭アーチ型のパネルで,「オルヴィエートの多翼祭壇画」も「聖母子」を除いて尖頭アーチ型パネルで,「聖母子」のみ尖頭アーチが,上部が平らなパネルの枠内にある.上にチマーザがあったのは間違いないだろう.
ただ,写真でしか見たことがないが,ボストンのイザベラ・ガードナー・ステュアート美術館の多翼祭壇画は,尖頭アーチ型の5枚のパネルの上にさらにそれぞれチマーザがある.パネル上部が平らの場合のみチマーザがあるということではないだろう.
シモーネの多翼祭壇画で,完全な形で現存するのは,おそらくピサのサン・マッテーオ国立博物館「サンタ・カテリーナ多翼祭壇画」のみと思われる.ボストンの作品にはプレデッラ(裾絵)がないのに比べ,ピサの祭壇画は裾絵もチマーザも全て揃っているものと考えられる.しかし,三つ葉型装飾は多用されているが,尖頭アーチは用いられていない.
ゴシック期の多翼祭壇画も自明のようでいて,一人の画家,しかもその時代を代表する巨匠の作品であっても,現存作品で完璧なものは少ないうえに,様式も様々に思え,そもそも本人の作品かどうかも諸説ある場合が少なくない.私が考えて,解決する問題ではないので,今後も,観ることができて,素晴らしいと思った作品について,その感想を報告するだけである.
オルヴィエートで見ることができたシモーネの作品も,巨匠一人で描いたものでなかったとしても,じっくり観ることができた良かったと思う.リッポの手が入っているか,工房作品だったとしても,十分に見る人に感銘をもたらすと思う.
サン・ジョヴェナーレ教会
オルヴィエート滞在中に多少の自由時間があったので,大聖堂以外の幾つかの教会の拝観を試みた.
サンタンドレーア教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
サン・フランチェスコ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
サン・ドメニコ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)
に関しては,サン・フランチェスコは修復中らしく開いていなかったし,サンタンドレーア,サン・ドメニコはそれぞれ興味深い芸術作品もあったが,礼拝中だったので,じっくり見学することなく辞去した.
それに比べて,早朝訪れたサン・ジョヴェナーレ教会(英語版/伊語版ウィキペディア)は,その日の礼拝,拝観する人たちのために準備していた係りの方に「写真を撮っても良い」と言う許可を得て,充実した拝観を果たすことできた.
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写真:
サン・ジョヴェナーレ教会 |
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この教会はゴシック以降の要素もあるが,基本的にロマネスク教会で,ゴシックとルネサンスの大聖堂に遜色がないと言っては言い過ぎだろうが,少なくともオルヴィエートで2番目に重要な教会であろうと思われる.
近傍のサンタゴスティーノ教会も興味深かったが,現在は展示場として使われる旧・教会(エクス・キエーザ)のようだ.
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写真:
アッバツィアの親方の
「磔刑」(柱のフレスコ画)
13世紀 |
サン・ジョヴェナーレ教会の堂内は,古拙に見えるものも含めて,フレスコ画に満ちていた.剥離して美術館に展示されていたら,さほど興味は惹かないレヴェルのものが多いかもしれないが,朝の光が差し込む現役のロマネスク教会の堂内でじっくり見させてもらうと,感動を禁じ得ない.
6世紀に遡るかも知れない古い教会だが,現在の建物の基礎は11世紀に造られ,堂内のフレスコ画は古いものは12,13世紀のロマネスク期のものだが,年代の新しいものが少なくないように思われる.
サンタンドレーアにも,大聖堂にもロマネスク期のものと思われるフレスコ画があった.サン・ドメニコ,サン・フランチェスコも是非余裕を持った拝観をしたい.オルヴィエートは小さい町だが,何度行っても,充実感に満ちた観光を提供してくれる.
次回があれば,未拝観の教会,拝観が十分でない教会,広場を挟んで大聖堂の向かいにあるファイナ宮殿内の,一度行っただけの市立考古学博物館,少なくとも2回その前を通りながら入っていない国立考古学博物館を見学したい.
今回は取り上げることができなかったが,サン・ブリツィオ礼拝堂以外の大聖堂のフレスコ画も,古拙な断片から,礼拝堂を埋め尽くす,工房の総力を挙げたであろう大掛かりなものまで,非常に興味深い.
大聖堂にある彫刻ピエタ像の作者イッポリート・スカルツァ,かつて大聖堂内にずらりと飾られていながら,今は博物館に移された多くの絵を描いたチェーザレ・ネッビア(英語版/伊語版ウィキペディア)はオルヴィエート出身の芸術家たちであり,今後はもう少し彼らの作品にも注目して行きたい.
ネッビアと同時代のマニエリスムの画家ジローラモ・ムツィアーノ(英語版/伊語版ウィキペディアの「ラザロの復活」,「キリスト笞刑」も大聖堂博物館で見ることができ,見事な絵だった.ロンバルディア州ブレーシャ県アックァフレッダ生まれの北イタリア出身の画家だが,ネッビア同様ローマに活躍の場を求め,同時代にはそれなり評価された画家のようだ.
しかし,何といっても大聖堂博物館所蔵の絵では,シモーネの作品を除けば,バロックの画家ジョヴァンニ・ランフランコの「聖母戴冠」が立派だった(以外にウェブ上に写真があまりなく,博物館の紹介ページで見られる).
最初にオルヴィエートを訪れた時には,「聖餐布の奇跡の礼拝堂」に祀られていた,エナメル装飾で飾られた聖遺物容器は,今回は博物館で観ることできた.14世紀のシエナの名匠ウゴリーノ・ディ・ヴィエーリの作品で,今回,前よりも近くで,じっくり観ることができ,写真も撮らせてもらえたが,これに関しては機会があれば報告することにし,今回のオルヴィエート訪問に関してはここまでとする.
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時代も画風もまちまちのフレスコ画に囲まれて
サン・ジョヴェナーレ教会
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