フィレンツェだより
2007年12月14日



 




城壁際に立つ教区博物館
外見は地味だが,収蔵作品はすばらしい



§コルトーナの旅(後篇)

ローマ建国伝説の英雄アエネアスは,ギリシア連合軍に滅ぼされたトロイアの王族で,落城のトロイアから亡命して,イタリアに渡って新たな王国を建設する.その子孫からローマの名祖となったロムルスが出て,「永遠の都」の基礎を築く.


 紀元前1世紀の大詩人ウェルギリウスが叙事詩『アエネイス』(アエネアスの歌)で歌い上げた物語の背景となっている伝説である.

 ウェルギリウスの時代はヘレニズム文学という教養を重視する洗練された文学の流行を受け入れて,すでに自分たちにものにしつつあった.それゆえ『アエネイス』は,単に伝説を時間順に語ったのではなく,様々な構成上の工夫がなされている.

 その一つがホメロスの模倣である.『アエネイス』には,ギリシアの叙事詩人ホメロス作とされる『イリアス』,『オデュッセイア』の二大叙事詩の影響が色濃く,「模倣」と言いきってしまっても間違いではないだろう.

しかし,模倣を組み合わせることによって,そのズレを作品に活かし,独自性を構成していくところに,ヘレニズム文学とローマ文学の真骨頂がある.『アエネイス』はその代表作の一つと言えるだろう.


「帰郷物語」
 『アエネイス』の主人公アエネアスはトロイアから亡命し,北アフリカのカルタゴに漂着し,女王ディドーと恋に落ちるが,彼女の恩愛を振り捨てて,イタリアに向かい,ティベリス川のほとりにローマ建国の礎を築く.

 カルタゴに漂着したとき,アエネアスはディドーにトロイア落城からの彼の冒険物語を語り聞かせるが,これは,パイエケス人の島に漂着したオデュッセウスが,助けてくれた少女ナウシカアの父アルキノオスの宮廷で冒険物語を聞かせるのと同様である.

 冒険と漂流の物語の前半が『オデュッセイア』的で,戦争が描かれる後半が『イリアス』的ともされるが,作品全体の枠を『オデュッセイア』から借りているとする考えもある.「帰郷物語」である.

 オデュッセウスがトロイアから故郷イタケに帰るのに10年の歳月がかかった背景には,彼に対する海神ポセイドンの怒りがある.そして,アエネアスがイタリアに基礎を築くまで多くの労苦を伴った背景には,トロイアを憎む女神ユノーの怒りがある.

 神の怒りが抑えられた時に帰郷が成立するという枠が『オデュッセイア』にあるのは明白だが,怒りの沈静の方はともかく『アエネイス』に見られる「帰郷」とは何であろうか.

 アエネアス自身は何代も続いたトロイア王家の傍系の王族で,現在トルコ共和国がある小アジア地方の生まれだが,彼の祖先であるダルダヌス(ダルダノス)は,イタリアから来て,アジアにトロイアを建国したという伝説がある.

つまり,先祖に遡った「帰郷物語」というわけだ.


 アエネアス一行は,トロイアを逃れた後,北方のトラキアに向かい,そこで町を建設するが,そこは同胞ポリュドロスが殺され,トロイア人には呪われた土地だったので去り,デロス島でアポロンの神託を仰いだ.

 神のお告げはこうだった.

「ダルダヌスの労苦に喘ぐ子らよ,父祖の血筋からお前たちを最初に生み出した大地を求めよ.その地は喜んで乳房にお前たちを迎えるだろう.いにしえの母を探し求めるのだ」(3巻94-96行).


 アエネアスの父アンキセスは,この予言をトロイア人の祖先の1人テウケル(テウクロス)の出身地クレタ島に行くことだと考え,クレタ島に向かい,そこに定住した.

 しかし,疫病と飢饉に見舞われ,神の意志に反したことを悟り,デロス島に戻って神意を伺おうとする.その途中,アエネアスの夢に,落城のトロイアから救い出した「家神」たち(ペナテス)が現れ,神がトロイア人に与えようとしているのは,クレタ島ではなく,ギリシア人がヘスペリアと呼び,地元の者らがイタリアと呼んでいる土地で,

 他でもない,この地こそ我らの住む所となるだろう.ダルダヌスもここから生まれ,
 父祖イアシウスも生まれた.ダルダヌスを始祖としてわが一族がいるのだ.
 さあ起きて,喜び勇んでこの知らせを長命の父に伝えよ.
 ぐずぐずしてはならぬ.コリュトゥスがいたイタリアの大地を
 求めるのだ.ユピテルが望むお前たちの国はクレタ島ではない.
                     (『アエネイス』第3巻167-171行)


と予言する.

 複雑な家系のようだが,整理するとこうなる.コリュトゥス(コリュトス)と妻エレクトラには2人の子がいた.ダルダヌス(ダルダノス)とイアシウス(イアシオス)である.この2人はイタリアで生まれたが,新しい土地を求めて東方に向かい,ダルダノスはトロイア王家の祖先であるテウケル(テウクロス)の娘と結婚して王家の始祖となった.ダルダノスはコリュトスの子ではなく,ユピテル(ゼウス)とエレクトラの間の子とされ,それ故トロイア王家はユピテルの妻ユノー(ヘラ)の憎しみを買っていた.



 長い前置きになってしまったが,この伝説に出てくるコリュトゥスがコルトーナの名祖で,それ故にコルトーナは「トロイアの母」,「ローマの祖母」と言われていた.関連する話は7巻にも出てきて,そこにはエトルリアの町コリュトゥスへの言及があり,ダルダヌスはそこの出身であるとしている.

 しかし,ローマ時代にすでにコルトーナという名前だったこの町の起源と古代伝説のコリュトゥスの関係がどの程度真剣に考えられていたかは今のところこれ以上はわからない.

 「コルトーナ」,「コルトーナ人」という語をガフィオの『羅仏辞典』で引くと,例文はどちらもリウィウスの『ローマ史』から引用されていて,その箇所をウェブページ「ラティン・ライブラリー」のテクストで確かめると,伝説とは関係がないようだ.



 今回コルトーナに行きたかったのは,特に『アエネイス』との関係に興味があったわけではなく,あくまでもルーカ・シニョレッリの故郷であるからだ.

 最初に行ったサン・ドメニコ教会で,彼の作品とされる「聖母子と聖人たち」を見ることができた.左側に明らかにドメニコ会の聖人がいるので,この教会の注文で描かれた作品なのだろう.

写真:
「聖母子と聖人たち」
ルーカ・シニョレッリ
サン・ドメニコ教会


 しかし,仮に真作としてもルーカの実力が発揮された作品ではなく,彼の本格的な作品は,ドゥオーモの向かいにある教区博物館(トップの写真)に行かなければならない.


教区博物館
 1人4ユーロの入場料を払って,すぐに行った部屋(第4室)にルーカとその工房の作品が展示してあった.「ルーカの作品」という断定については,ルーカ1人で描いたということなのか,殆どをルーカが描いたということなのかはわからないが,この「ルーカの作品」2作はやはり迫力があった.

 特に「死せるキリストへの嘆き」(コンピアント・スル・クリスト・モルト)は傑作の名に恥じないものだと思う.(『地球の歩き方』ではこれを「キリスト降架」としており,それでも良いと思うが,他に工房との共作のコンピアント・スル・クリスト・モルトを挙げていて,これは誤解のようだ).1502年の作品ということなので,オルヴィエートのサン・ブリツィオ礼拝堂のフレスコ画に既にとりかかっていて,同時平行くらいの作品ということになる.

 遺体でありながら,キリストの裸体が筋肉質で立派だ.疫病でなくなった息子がモデルだそうだ.遠景のキリスト磔刑(左)とキリスト復活(右)も丁寧に描かれている.

 この作品には切り離されたプレデッラが下に付されており,このプレデッラに描かれた4つの場面(「ゲッセマネの祈り」,「最後の晩餐」,「キリスト捕縛」,「笞刑」)も立派に描かれている.プレデッラの絵の丁寧さではフラ・アンジェリコと双璧ではないだろうか.

特に「笞刑」における裸形の男たちの動きは,まだ写真でしか見たことの無いミラノ・ブレラ美術館の「笞刑」を思わせる迫力で,やはり筋肉質の男の裸体の躍動感に力がこもる画家なのだなと思う.


 もう一作の「使徒たちの聖体拝領」も落ち着いた良い作品だった.1512年の円熟期の作品のようだ.

 彼の甥フランチェスコ・シニョレッリの作品とされていた「無原罪の御宿り」は1523年頃の作品とされ,その年にルーカは亡くなっている.無原罪の聖母の下に小さく描かれた,原罪を象徴するアダムとイヴの,特にアダムの裸体が立派だ.「ルーカ風」ということなのだろうが,この甥の作品は立派だと思う.

 工房作品(「聖母子と4人のフランチェスコ派の聖人たち」,「聖母子と聖人たち」,「聖ベネディクトの生涯の物語」,「イエスの誕生」,「神殿奉献」,「牧人礼拝」)も丁寧に描かれていて,他の大画家の工房の名前で伝わる作品に時々見られるような粗雑な作品ではなく,親方の工房への統率力と弟子の能力を見分ける力を感じさせる.

 「聖母被昇天」は工房だけでなく,親方の手もかなり入っているとされているようだが,傑作かどうかは私にはわからない.ただ,左に聖トマスが描かれているので,いわゆる「腰帯の聖母被昇天」なのに,腰帯を天から足らす形ではなく,腰帯を手に下方の人々が奇跡に感じ入っている様子が描かれていて,めずらしいような気がした.



 「腰帯の聖母被昇天」と言えば,この博物館にはバルトロメオ・デッラ・ガッタの「聖母被昇天」があった.1475年に聖ベネディクト教会のために描かれ,18世紀にサン・ドメニコ教会に移されたが,現在は教区博物館に展示されている.

 こちらは聖母が腰帯を天から垂らしており,聖トマスは,この絵を見る者に背を向けて,右手を上にして上方を見上げる姿に描かれている.この絵は人物の顔がおもしろく,特に使徒たちのうちすでに老人となっている者たちの表情をリアルに描き出している.

 ガッタの絵を見る貴重な機会でもあり,作品そのものも立派だと思うが,理想化されない使徒たちを描いたこの作品をずっと宗教施設に飾っているカトリック教会の懐の深さを感じる.ガッタ自身も後に修道院長になっているし,そう思うと,見られる機会がある時にはじっくり味わいたい作品に思えた.



 この博物館の第2室と第3室は「傑作の森」と言えるだろう.ガッタの「聖母被昇天」もある前者には,何と言ってもフラ・アンジェリコの祭壇画の「受胎告知」がある.

 一見するとサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの美術館にある「受胎告知」とよく似ているが,それでも聖母の表情,天使との距離感,椅子の掛け布,寝室の位置,など随所にすぐわかる違いが見られる.私たちの思い入れもあって,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの作品に軍配を上げるが,そもそも優劣を議論するのになじまない見事な作品だと思う.

 プレデッラ(「聖母の誕生」,「聖母の婚約」,「エリザベト訪問」,「三王礼拝」,「神殿奉献」,「聖母の死」)も丁寧だ.最後の「聖ドメニコに衣服を託す聖母」は,この画家がドメニコ会の修道士(フラ)で,この絵もコルトーナのサン・ドメニコ教会のために描かれ,そこにあったものであることを思わせる.

 これとよく似た彼の祭壇画の「受胎告知」はプラド美術館にもあり,それを見るためにだけマドリッドまで行きたいくらいだ.プラドには多くの傑作があるようなので,機会を見て,いつかプラドに行くためにマドリッドに旅をしたい.

 フラ・アンジェリコの作品は他にも,多翼祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」があり,これも見事だった.やはり以前はサン・ドメニコ教会にあったものだ.

 シエナ派のサッセッタの絵を今までに何点か見ているが,特に感銘をうけたことはない.ただ,この美術館のサッセッタの祭壇画「聖母子と聖人たち」は良かった.特に聖母の顔がやさしく,心魅かれるものがある.構図が独創的であったり,絵画史的に重要であったりするよりも,聖母の顔が慈愛に満ちていることが,この種の絵の一番の魅力に思える.

 ピエトロ・ロレンゼッティの祭壇画,剥離フレスコ画断片,キリスト磔刑像など,言い出せばきりがないほど,この博物館は傑作に満ちている.素晴らしい,としか言いようがない.シエナ派の作品が多いことに気づく.地理的にシエナが近いからだろう.ニッコロ・ディ・セーニャの「聖母子」もドッチョ風で私の好みだ.


コルトーナが生んだ3人の芸術家
 教区博物館の地下に祈祷堂があり,ここに描かれたヴァザーリの弟子によるフレスコ画も見応えがあったが,地下に降りる階段にコルトーナが生んだ大芸術家の作品が展示してあった.ジーノ・セヴェリーニの連作画「十字架の道」である.

 1883年にコルトーナで生まれ,国際的に活躍して1966年にパリで亡くなったこの画家の絵をじっくり鑑賞するには予備知識が足りなさ過ぎたが,新しいが気になる作品というのが第1印象だった.

 セヴェリーニの作品は,次に行ったエトルリア・アカデミー博物館でもたくさん見ることができた.写実から抽象まで作風が多彩なのでつかみ切れない感じはしたが,コルトーナの町がこの画家を誇りに思っていることはよくわかる展示だった.パリで亡くなった彼の遺体はコルトーナに運ばれて埋葬されたそうである.

 15世紀から16世紀のルーカ・シニョレッリ,19世紀から20世紀に生きたジーノ・セヴェリーニの間に,もう一人コルトーナが生んだ偉大な芸術家がいる.ピエトロ・ベッレティーニ,通称ピエトロ・ダ・コルトーナである.

 彼の作品はコルトーナの幾つかの教会で見られるようだが,エトルリア・アカデミー博物館にも「玉座の聖母子と聖人たち」があった.

写真:
「玉座の聖母子と聖人たち」
ピエトロ・ダ・コルトーナ
エトルリア・アカデミー博物館


 1596年にコルトーナで生まれ,1669年にローマで死んだ彼は,当時のイタリアを代表する芸術家だった.フィレンツェではピッティ宮殿のパラティーナ美術館で彼の作品が見られるが,通常の絵だけではなく,パラティーナの展示室の一部の天井画や壁画(ストーヴの間の「黄金時代」など)を彼が描いている.ローマの幾つかの宮殿でもそのような仕事を手がけており,建築,室内装飾の大家だったようだ.


エトルリア・アカデミー博物館
 エトルリア・アカデミー博物館にはルーカ・シニョレッリの作品も2つあった.「聖母子とコルトーナの守護聖人たち」と「牧人礼拝」である.工房もしくは追随者の作品とされるものも少なくとも3点はあったが,“これぞルーカ”という作品ではない.

写真:
「聖母子とコルトーナの
守護聖人たち」
ルーカ・シニョレッリ


 伝ピントリッキオの「聖母子と幼い洗礼者ヨハネ」も大事に展示されていたが,「真作だ」という迫力には欠けるように思えた.

 教区博物館で見られた14世紀の作品は,殆どがシエナ派だったが,エトルリア・アカデミー博物館で見られた祭壇画は15世紀以降のもので,作者はニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニ,マリオット・ディ・ナルド,ビッチ・ディ・ロレンツォと,フィレンツェ周辺の画家たちだ.コルトーナがフィレンツェ共和国領に編入されるのが1411年なので,歴史的背景を背負っているように思えるが,今のところ詳しいことは調べていない.

 ルーカとピエトロ以外の画家で,17世紀前半くらいまでの作品が展示してあったのは,ネーリ・ディ・ビッチ,ミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオ,チーゴリ,サンティ・ディ・ティート,エンポリ,ナルディーニ,やはりフィレンツェの画家ばかりだ.

写真:
「受胎告知」
ミケーレ・ディ・リドルフォ・
デル・ギルランダイオ


 ようやく別の展示室に行って,ジョヴァンニ・バッティスタ・ピアッツェッタという18世紀ヴェネツィアの画家の作品に出会える.この画家の作品はパドヴァの市立美術館で「エマオの饗宴」を見ているはずだが,あまり記憶にない.「栄光の聖母子と聖人たち」だが,同じ絵柄の作品がサン・フィリッポ教会にあり,これはその下絵ということだ.時代的にも地域的にもティエポロと影響関係にあったように思われる.



 エトルリア・アカデミー博物館と名乗っている以上,エトルリア関係の収蔵品があるわけで,この博物館は絵画よりもむしろ考古学上の発掘品の展示が主で,コルトーナがエトルリアを代表する都市であった以上,その出土品もエトルリアのものが多い.

 右下の写真はこの博物館最大の呼び物で,紀元前4世紀のブロンズによる燭台とされている.周辺にサテュロスとセイレンの造形が交互に施されているが,やはりギリシアの影響を受けたものだろうか.大きくて立派なものだ.


写真:
ブロンズの燭台
紀元前4世紀


 他にも,青銅の器の取っ手になった鹿や山羊の造形が見事だった.ギリシア風の壺なども相当な数の収集品があり,ローマ時代の床モザイクもある.

 このあたりまでは,コルトーナ及び周辺地域の出土品であろうから,あまり疑問に思うことはなく,感心するばかりだが,エジプトの柩やミイラがあると,一体これはどうやって集めたのだろうかと思う.エジプトやシリアに行き,後にコルトーナの司教になった人物が寄贈したものだそうだ.エジプトの出土品やミイラがヨーロッパ人のコレクションの対象になった時代があり,その時代にはエジプトには博物館もないわけだからやむを得ない面もあるだろうが,少し複雑な気持ちもする.



 この建物があるカザーリ宮殿は,かつてコルトーナを支配したカザーリ家によって建てられたもので,1409年まで約80年,同家はコルトーナに君臨したが,1411年からはこの建物には新たな支配勢力の行政官たちが住んだ.

 1727年に古代エトルリア研究を唱導するエトルリア・アカデミー(アッカデーミア・エトルスカ)が創設され,メディチ家最後のトスカナ大公ジャンガストーネによって,この宮殿の使用が認められた.その際,当時コルトーナで修道院長だったオノフリオ・バルデッリがそのコレクションと蔵書を寄贈して,現在の博物館の基礎ができたということらしい.

 と言うわけで,この博物館には考古学的コレクション,美術品の他に立派な図書室がある.下の写真はその前で撮ったものだが,ガラス扉があって中には入れない.申請すれば,研究者には閲覧が許されるそうだ.

写真:
カザーリ宮殿
図書館の入口で


 コルトーナは歴史や伝説に満ちており,たくさんの美術作品もある.しかし,その魅力は何と言っても丘の上にある美しい町だ.眺望も素晴らしい.ここに数日間滞在して,気ままな休暇を過ごすことは,この上ない贅沢だろう.

 この町には何度も来たい.そう思いながら,夕暮れのガリバルディ広場でバスに乗り,カムチーアの駅からフィレンツェに帰った.





ガリバルディ広場から
茜さす紫のトラジメーノ湖